2024 Volume 3 Issue 1 Pages 45-56
One book that Kazuo Inamori kept close at hand and read repeatedly was “Kenshinsho” by Tempu Nakamura. In particular, it is known that the word “The success of a new endeavor depends on our indomitable and tireless spirit; therefore, we must visualize our goals intently and earnestly, with a noble motivation at heart.” in “Kenshinsho” was used as the management slogan at Kyocera’s management direction presentation in January 1982, and was also put up as a slogan again during the reconstruction of Japan Airlines Co., Ltd., following the company’s bankruptcy.
As Inamori stated in his later years, “I read the book, and it says wonderful things. I really studied it, and a large part of my thinking is influenced by the thoughts of Tempu Nakamura.” Based on these comments, the influence on Inamori from “Kenshinsho” can be surmised to have been large. However, when and how Inamori first encountered “Kenshinsho,” which played such an important role in Inamori’s life and management, and the details of the chance encounter were not completely clear.
The following facts were clarified following an investigation of the archives stored in the Inamori Library, such as received and sent document files. (1) After Inamori gave a lecture at the Sanwa Bank Clover Group held in Kyoto on February 12, 1981, Yoshio Kawabata, then the representative director of Kawataki Corporation, who listened to the lecture, was impressed by the content, which was consistent with the ideas of Tempu Nakamura, and said so to Inamori directly. (2) Inamori received Tempu Nakamura’s “Kenshinsho” along with a letter from Yoshio Kawabata dated February 20, 1981, and thereinafter used “Kenshinsho” as his guide. (3) Inamori’s ideas on the subconscious mind or the importance of ‘thoughts’ were formed before he met Tempu Nakamura’s book. (4) The chance encounter between Inamori and “Kenshinsho” played an essential role in further deepening and developing the ideas and philosophies that Inamori had devised as an entrepreneur.
稲盛和夫が座右に置いて折に触れて常にひもといた書に中村天風(1876–1968)の『研心抄』(1)がある。特に『研心抄』にある「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり さらばひたむきに只想え 気高く強く一筋に」(2)という言葉は、1982年1月の京セラの経営方針発表会で経営スローガンとして使用され(京セラ創立50周年社史編纂委員会、2010、594)、さらに破綻した日本航空の再建にあたっても再びスローガンとして掲示されたことが知られている(3)。
稲盛自身も後年「書かれた本を読んでみましても、すばらしいことを仰っておられます。私も本当に熟読しましたし、私の思想のなかの相当部分が中村天風さんの思想で占められています」(「京都銀行部店長会議での講演」、94)と述べているように、その影響の大きさが推察される。
稲盛の人生と経営にこれだけ重要な役割を果たした『研心抄』と稲盛はいつ、どのように出合ったのか、その邂逅の経緯は必ずしも明らかではない。このことは、稲盛の思想形成の過程を解明する上で重大な問題を惹起する。たとえば、上述の1982年の経営方針において、稲盛は心、思いのもつパワーを解説するにあたり、潜在意識の重要性を語っているが(「昭和57年度経営方針発表会」、71–107)、これに先立つ1978年の経営方針においても「潜在意識にまで透徹する程の強い持続した願望、熱意によって自分のたてた目標を達成しよう」をスローガンに掲げている(「昭和53年度経営方針発表会」、143–157)。1982年の時点において、中村天風の『研心抄』の影響を受けていることは明らかであるが、果たして1978年の時点における影響はどうであったのか。『研心抄』との邂逅の時期によって、稲盛の思想を独自に発展した過程として捉えるべきか、あるいは中村天風の影響を前提として捉えるべきか、その視点が大きく変わってくる。
本論考では、上記の問題に対し、主として稲盛ライブラリー収蔵資料の調査を通じて、稲盛と『研心抄』との邂逅の時期を特定し、今後の稲盛の経営哲学、経営活動のさらなる研究に寄与することを目的とする。結論を先取りするならば、「1966年説」「1973年説」「1981年説」をそれぞれ検証し、「1981年」に稲盛が『研心抄』を手に取り、実際に読んだことを解明していく。以下、今後のアーカイブズ活用の参考とするべく、結論に至るまでに辿った資料探索の経緯について、途中段階の推論の誤りも含めて記述する。
『研心抄』との邂逅について、稲盛が自ら語っている記録は必ずしも少ないわけではない。むしろ取材インタビューにおいて語っている内容には共通点が多く、多少の相違点を捨象するなら、おおよそ1つの「型」とも言えるストーリーを形成している。その最も端的な例は、第5回盛和塾全国大会(1996年7月5日)で行われた盛和塾生・川端健嗣(株式会社カワタキコーポレーション代表取締役社長)の経営体験発表に対する塾長コメントにおける次の内容である(『盛和塾』19号、1996年10月、15)。
実は縁というのは不思議なものです。創業して間もないころ、京都のある会で経営理念のようなことを話す機会がありました。
講演の後、年輩の方が近づいてこられて、「お話に感銘を受けました。(中略)中村天風さんの思想も入っているように思います」とおっしゃいました。私が「中村天風さんのことは知りません」と答えると、その方は「中村天風という方はすばらしい哲学を持った人ですので、私が持っている非売品の本を差し上げます」と言って後日送ってくださいました。それが川端さんのお父さんだったのです。
その息子さんがまた私の思想を勉強され、すばらしい会社経営をやっておられることをとてもうれしく思います。
この発言に従えば、稲盛は「創業して間もないころ」に「京都」のある会合で講演し、その後に川端の父から中村天風の「非売品の本」をもらった、ということになる。他にも同様の発言が複数あり、いずれも同じ内容を述べていることから、この1996年の稲盛本人の発言を1つの手がかりとして、事実関係を検証していきたい。
まず、時期の点についてだが、「創業間もないころ」というのは漠然としている。年代を特定するためには、他の資料を参照することが不可欠である。最初に年代特定の根拠として浮上したのが新聞の取材インタビューにおける稲盛本人の発言であった。1995年10月4日の産経新聞に掲載された記事「話の肖像画・利他の実践学」の中で、稲盛は他を利する精神を身につける上で影響を受けた書として『生命の実相』を挙げた後に、次のように『研心抄』との邂逅について述べている。
そのあと中村天風という哲人の本に出会いました。
―何歳のころですか。
稲盛 三十四、五歳のころだったと思います。IBMからコンピューター部品を大量受注して、京セラが世間から注目されるようになって、講演を頼まれたのです。終わったところで、ご老人が寄ってこられ、「あなたの話は中村天風さんが常日頃おっしゃっていることとそっくりだ。教えを受けたことがあるのか」と聞かれた。名前も存じ上げないと答えたら、二、三日後に本を送ってくださった。「研心抄」という本でした。読んで大感激して、天風さんの本は全部読みました。
ここでは、本との出合いのきっかけとなった講演は「三十四、五歳のころ」、「IBMからコンピューター部品を大量受注して、京セラが世間から注目」された時だと、明確に回答している。これが事実だとするなら、講演があったのは1966年ということになるが、稲盛のスケジュール手帳などの資料を見る限りにおいて、1966年当時に社外で講演をした記録は残っていない。
もちろん、記録が残っていないだけで、実際に講演を行った可能性はゼロではない。また、IBMからの大量受注という、京セラの歴史上においても重要なトピックに触れており、「1966年説」を簡単に否定することも難しいものがあった。そこで、稲盛ライブラリー収蔵資料の中から、当時の取材に関する資料を調査したところ、思いがけない事実が発見された。
残念ながら、当時の取材の音声そのものは残っていなかったが、紙面の掲載内容を巡る産経新聞社側と京セラ秘書室側のやり取りに関する資料が稲盛ライブラリーに収蔵されていた。同取材の掲載日は1995年10月4日だが、9月25日に京セラ秘書室から産経新聞の編集委員宛に送付された原稿修正に関するFAXの送信内容に、当該の発言部分が含まれていた。具体的には、当初稲盛は「京セラが世間に知られるようになって、あるところで講演をたのまれたのです」と発言していたが、原稿整理の過程で「IBMからコンピューター部品を大量受注して、京セラが世間から注目されるようになって、講演を頼まれたのです」と改変されたことが判明したのである。
以上の資料調査結果から、年代特定の鍵であった「IBMからコンピュータ部品を大量受注」したという発言は後から挿入されたものであり、「1966年説」の根拠としては不十分であることがわかった。
次に、具体的な年代を特定する別材料として浮上したのが神渡良平著『宇宙の響き 中村天風の世界』(1996年、致知出版社)である。本書の中では、稲盛と中村天風の著書との出合いについて、次のように記載している(神渡、1996、231)。
稲盛会長がそもそも天風先生のことを知ったのは、いまから二十数年前のことである。天風先生が逝去されたのはそれより五、六年前の昭和四十三年(一九六八)十二月一日だから、すでに亡くなった後のことである。京都の経営者の集まりでの講演を終え、参加者と懇親会で談笑しているとき、川滝(株)の川端芳夫会長がこう聞かれたのだ。
「今日の講演はたいへん感動しました。ひょっとすると、稲盛社長は中村天風先生に師事されているのではありませんか」
不勉強で、存じあげないのですがと答えると、川端会長は、
「実は天風先生の教えに非常に通じるものがあったので、もしやと思い聞いたのです。たまたまここに天風先生の本を持っておりますので、お読みになってください」
ここでの記載によれば、1996年時点から数えて二十数年前、そして中村天風が逝去した1968年から5、6年後に稲盛は中村天風を知ったことになる。また、きっかけとなった講演についても、より具体的に「京都の経営者の集まりでの講演」と明記されている。さらに、1996年の盛和塾全国大会塾長コメントでも言及があった書籍の紹介者についても、株式会社川滝(現・株式会社カワタキコーポレーション)の川端芳夫会長(当時)であると明記されている。
一方で、先に見てきた1996年7月の盛和塾全国大会での発言や1995年の産経新聞取材での発言と照らし合わせると、いずれも本は後日送られたと記されているのに対し、本書においては、たまたまもっていた本をその場で渡した、とある。この相違点については、新たな焦点として検証する必要性が生じた。
以上のように、その真実性が不確かな部分も含まれているものの、明確な時期を示している点で、貴重な証言であることに変わりはない。そこで、推定される時期の稲盛のスケジュール手帳を確認すると、1973年9月3日に京都経済同友会の会合において「私の経営学」と題して講演をしていることがわかった。稲盛の社外における講演としては最も初期のものであり、「心をベースにして経営する」「原理原則を判断基準にする」といった時代や環境が変わっても揺るぎない自らの経営のあり方を説いている(「京都経済同友会講演」、51–64)。
時期としても、また当時の状況としても「京都の経営者の集まりでの講演」という記述に合致している。しかしながら、講演内容としては、「天風先生の教えに通じるものがあった」とは必ずしも言えないものであり、その点だけが疑義として残った。そこで、この「1973年説」のさらなる検証を行うべく、川端健嗣に直接ヒアリングを実施した(4)。同氏の父である川端芳夫が稲盛と出会ったのは1973年9月3日の京都経済同友会講演ではないかと、講演録をお見せして伺ったところ、以下のような回答を頂戴することができた(以下、聴き取りから得られた証言)。
①1973年当時、父(川端芳夫)が京都経済同友会に入会している可能性は低い。
②講演を聴く機会があるとすれば、昵懇にしていた三和銀行のクローバー会主催の講演である可能性が高い。
③稲盛社長(当時)から父(川端芳夫)に宛てた礼状(1984年7月23日)の中で、「先年いただきました中村天風先生の『研心録』は私の座右の書として」と記載されており、80年代前半に『研心抄』を渡したのではないかと推測される。
上記のヒアリングの結果、「1973年説」は蓋然性が低いことが判明した。一方で、新しい重要な手がかりとして、「三和銀行のクローバー会主催の講演」と稲盛から川端芳夫に宛てた礼状が浮上した。この2つを鍵にして、さらなる資料調査を続けた。
確かな事実として判明しているのは、1982年1月に京セラの経営スローガンに『研心抄』の言葉を引用したこと、そして、1984年7月23日付で稲盛が川端芳夫に宛てた礼状で中村天風の著書に言及していることである。この2つの事実から類推されるのは、1982年1月に比較的近い時期に稲盛と『研心抄』との邂逅があったということである。
そこで、1982年1月から稲盛のスケジュール手帳を遡り、京都で実施された講演を調査した。その結果、1982年の経営方針から約1年前の1981年2月12日に三和銀行クローバー会講演において、「成功する経営者の条件」と題して稲盛が講演していることがわかった(「三和銀行クローバー会講演」、1–10)。
同講演の中で、稲盛は成功する経営者の条件として「1.高い専門的技術力をもっていること」「2.夢をもち、チャレンジする心をもち続けていること」「3.崇高な目的意識をもつこと」「4.潜在意識に透徹する情熱をもち続けること」「5.両極端をあわせもつこと」の5つを提示した。特にこのうちの「潜在意識」の重要性について、「潜在意識に透徹する程の強い願望をもとうではありませんかと、そういう願望があれば、その潜在意識の働きを得られ、自分の目標というものも達成できるはずだと、社内で言っています」(同上、9)と述べており、中村天風の思想とも親和性が高い講演内容であったことが読み取れる。
日時、内容ともに川端芳夫が聴いた講演である可能性が極めて高いが、この時点においては、いまだ確証となるエビデンスが得られていない。そこで、この講演後に川端芳夫から稲盛に『研心抄』が送られたことを示す明確なエビデンスとなる資料がないか、最終的な調査を実施した。対象として着目したのは稲盛ライブラリーに収蔵してある、稲盛の膨大な受発信書面綴である。
稲盛が受信および発信した手紙や依頼状、礼状等については、一部欠落があるものの、基本的には創業初期(特に社長就任後)から晩年に至るまで、社長室または秘書室にて年代別にファイリングされ、現用文書としての役割を果たした後、稲盛ライブラリーに移管されている。今回の調査対象は「受信書面綴(1981年2月~1981年6月)」および「発信書面控(1981年1月~1982年12月)」のファイルである。
「受信書面綴(1981年2月~1981年6月)」を時系列に遡りながら見ていくと、川端芳夫から稲盛宛の昭和56年(1981年)2月20日付の手紙が綴じられていた。その手紙には以下のようにしたためられている(写真1)。
川端芳夫から稲盛和夫への手紙(1981年2月20日)
稲盛社長様には高邁なる経営哲理によるご繁栄何よりと存じあげます。過日十二日には大変有益なるお話しを
一次史料ともいうべきこの手紙の文面から、これまで不明確であった事実が解明された。まず、この手紙の日付が2月20日であることから、「過日十二日」とは2月12日を指しており、同日に行われた三和銀行クローバー会講演を川端芳夫が間違いなく聴講していたことがわかる。また、先に見てきたいくつかの発言記録や資料の中で、中村天風の書籍を後日送付したのか、あるいは講演会場の場で渡したのか、二通りの説があったが、2月20日付の手紙とともに送付されたものであることも読み取ることができる。
さらに、川端芳夫が稲盛に中村天風の書籍を送った理由について、「中村天風先生より社長様と同じ様な具体的な人間の本質、自己実現及尊厳性等教えて頂きました。其れを思い出しながら感激致しました次第です。本日其の中の著書を送らせて頂きます」と記されているように、大筋において他の資料に記載されていた内容と合致している。
この川端芳夫からの手紙に対し、稲盛はどのような返信をしたためたのか。「発信書面控(1981年1月~1982年12月)」を調査したところ、昭和56年(1981年)2月28日付の稲盛の返信の手紙が綴じられていた。そこには、次のように記されている(写真2)。
稲盛和夫から川端芳夫への手紙(1981年2月28日)
先日は私の拙い話を聞いていただき少なからず感銘をうけていただいたとか恐縮いたしております。私はたゞ会社設立以来何も分らないまゝがむしゃらにやってまいりました、その経験の中から感ずるところを申し上げたゞけのことでございます(中略)斯道の大家中村天風先生のお教えと軌を一にしている部分のあることをお教えいたゞいたことも大いな喜びとするところでございます。中村先生のごとくそれを理論づけ体系づけて後進を育成されていることを知るにつけ大変心強く感じておる次第でございます。中村先生の名著をお送りいたゞいたことに対してここにあらためて御礼申し上げます。まだ書物の内容まで目を通しておりませんが必ずや私共に数々の示唆をあたえていただけるものと楽しみにしております。
この手紙の中で稲盛は、講演では「経験の中から感ずるところ」を話したが、その内容が「斯道の大家中村天風先生のお教えと軌を一にしている部分のあること」を大いに喜んでいることを述べ、また「中村先生の名著」を恵贈いただいたことに対して深い感謝の念を表している。これらの往復書簡の内容から、1981年2月12日に稲盛が講師を務めた三和銀行クローバー会講演を川端芳夫が会場で聴き、中村天風の教えと軌を一にしている内容に感銘を受け、後日稲盛に中村天風の書籍を送った事実が明らかになったと言える。
しかしながら、これらの手紙には「其の中の著書」「中村先生の名著」としか書かれておらず、『研心抄』という具体的な書名はどこにも出てきていない。ここで改めて重要な資料として登場するのが、川端健嗣から提供いただいた1984年7月23日付の礼状である。この礼状は稲盛ライブラリーには収蔵されておらず、送付先であるカワタキコーポレーション側で保管されていたものである。内容としては、川端芳夫が稲盛に中村天風の別の著書を恵贈したことに対し、稲盛が川端芳夫に宛てた礼状であるが、この中で以下のように自らの「座右の書」について述べている。
先年いただきました中村天風先生の「研心録」は私の座右の書として、常に手元におき、ことあるごとに読み返し多くの貴重な示唆を得ております。
ここに記載されている「研心録」とは、まさしく『研心抄』の他には考えられない。1981年に川端芳夫から恵贈された中村天風の『研心抄』を座右の書として繰り返し読み、自らの人生、経営に生かしていたことがわかる。
前節までの資料調査を通じて、稲盛と中村天風著『研心抄』との邂逅については、その時期と場所、経緯も含めて事実関係が明らかになった。しかし、もう1つ確認しておくべき重要な焦点が残っている。それは、そもそも稲盛と中村天風(の思想)との邂逅は『研心抄』が最初であるのか、という点である。先に引用した産経新聞のインタビューにもあるように、稲盛自身、『研心抄』を通じて中村天風に初めて触れ、感銘を受けたと述懐しており、そのことを前提として事実確認をしてきた。また、実際に1982年の京セラの経営スローガン以前に社内外の公式の場において中村天風の言葉を引用した記録は残っておらず、今回の調査によって明らかとなった1981年の邂逅が最初である蓋然性は高いと認識していた。
遺漏がないよう万全を期すため、調査の対象をさらに広げ、改めて精査した結果、1979年6月28日の役員会の席上で中村天風を紹介していることが判明した。同日の役員会では稲盛が会社幹部としてのあるべき姿を説いており、その音声が稲盛ライブラリーに収蔵されている。この中で、三和銀行の京都支店長が退任するにあたり、赤司俊雄頭取(当時)から預かった書籍を稲盛に手土産として持参したこと、そのうちの1冊が宇野千代著『天風先生座談』であることを語っている。そして、この書籍の中に記載されている中村天風の人生の足跡を紹介しながら、特に潜在意識の活用について、次のように説いている。
さらに天風先生を読みましたら、潜在意識の活用ということを言っているわけです。その潜在意識というものが、実は大きな作用を及ぼす。その潜在意識と心とは非常に近い位置に存在するのだと彼は位置づけをしているのを見て、私はびっくりしました。(中略)私は潜在意識に透徹するための条件にもいろいろ言っているんですが、天風さんはいとも簡単にこう言っています。寝るときに潜在意識というものに詰め込むんだ。寝るときの直前にいろんな想念を思っていれば、そのままそれが潜在意識に沈着する。実はそれはたいへんな発見だと私は思うのです。(中略)どういうものを詰め込むのかというと、強く、正しく、清く、尊き心と、こう言っているんです。つまり、私みたいに、怒るなんていうのは当然落第ですが、強く、正しく、清く、尊き心、そういうようなものです。
先にも述べたように、稲盛は1978年の経営スローガンとして「潜在意識にまで透徹する程の強い持続した願望、熱意によって自分のたてた目標を達成しよう」を掲げ、潜在意識を活用することの重要性を全従業員に向けて強調した。翌年の1979年にも経営スローガンの中に同様の文言を引き続き使用している。そういう意味では、『天風先生座談』に触れる前から稲盛の潜在意識論は展開されており、本書はその思想の発展にさらなる拍車をかけたと考えるべきであろう。
なお、この中で語られている「強く、正しく、清く、尊き心」という言葉は、『天風先生座談』の中では、「尊く、強く、正しく、清くということ。これは他の条件が、ああするんだ、こうするんだということがわかっていて、そうしよう、こうしようと思えばすぐ出来る」(宇野、1970、71)と書かれており、後年、リーマンショック後の不況時にも講話の中で引用している(5)。
時系列を整理すると、川端から『研心抄』を贈られる前に、稲盛は『天風先生座談』を通じて中村天風の思想に触れており、自らが経営スローガンに掲げた「潜在意識論」との親和性を自覚していた。しかしながら、その後、稲盛が本書の書名を挙げたことはなく、あくまで中村天風を知ったきっかけとなった本であると位置づけられる。「座右の書」として強烈な印象と影響を稲盛に与え続けたのは『天風先生座談』ではなく、あくまで『研心抄』であり、その事実は全く揺るがない。
稲盛の思想に多大な影響を与えた中村天風の主著『研心抄』との邂逅について、稲盛ライブラリー収蔵資料および関連文献を調査した結果、前後の経緯も含めて時系列で整理すると以下の通りであることが解明できた。
①1978年1月 京セラの経営スローガンとして「潜在意識にまで透徹する程の強い持続した願望、熱意によって自分のたてた目標を達成しよう」を掲げる。
②1979年6月頃 三和銀行京都支店長が赤司俊雄頭取(当時)から預かった宇野千代著『天風先生座談』を稲盛に贈る(中村天風を初めて知る)。
③1981年2月12日 稲盛が三和銀行クローバー会で講演。講演を聴いた(株)川滝の川端芳夫(代表取締役)が中村天風の思想との親和性がある内容に感銘を受け、そのことを直接稲盛に伝える。
④1981年2月20日 川端芳夫が手紙とともに稲盛に『研心抄』を送る。
※根拠資料「受信書面綴(1981年2月~1981年6月)」
⑤1981年2月28日 稲盛が川端芳夫にお礼の手紙を出す。
※根拠資料「発信書面控(1981年1月~1982年12月)」
⑥1982年1月13日 京セラの経営スローガンで中村天風著『研心抄』の言葉「新しき計画の成就は只不屈不撓の一心にあり さらばひたむきに只想え 気高く強く一筋に」を引用する。
稲盛が1981年2月20日付の川端芳夫からの手紙とともに中村天風著『研心抄』を受け取り、その後、自らの傍らに置いて常に読み返したことは、稲盛ライブラリー収蔵の受信書面綴および発信書面控、川端健嗣提供の稲盛の礼状によって明らかである。また、これらの事実を通じて、稲盛の潜在意識論あるいは「思い」の大切さを説く思想そのものは、中村天風の著書と出合う前から形成されていたことが明確になった。同時に、『研心抄』との邂逅は、稲盛が経営者として自ら考え抜いた思想・哲学をさらに深化、発展させていくために不可欠な役割を果たしたことを改めて位置づけることができた。
後年、稲盛は座右の書について、次のように語っている(「経営手法を考える」、13)。
私は若い頃から、本は多読することは要らないと、実は思っているわけです。座右の書というのは一つあったら良いとさえ思っているのです。これは精神修養の本に対してですけれども、情報を売る本というのはアップデートしますから、いろいろなものを読まなければなりませんが。しかし、人間を創っていくような本は一冊でいい。その代わり、それをとことん熟読玩味して、自分のものにしていくということが要るわけです。
ここに言われている通り、稲盛にとって「精神修養の本」であり、「人間を創っていくような本」であり、生涯を通じて熟読玩味して自分のものにしていった、まさに「座右の書」が『研心抄』だったのである。
本論考は2023年3月18日に開催された稲盛和夫研究会の定例研究会における田中一弘・一橋大学大学院教授の研究報告「稲盛宇宙論序説」の補足説明として報告した内容「稲盛和夫と中村天風著『研心抄』との出会いの時期について―稲盛ライブラリー保管資料に基づく検証―」をベースに再構成したものである。