2025 Volume 4 Issue 1 Pages 29-48
This paper aims to locate the establishment of the Inamori Foundation by Kazuo Inamori in 1984 within the context where the relations between the cultural policy, economic, and academic worlds in Kyoto converged in the early 1980s. The Inamori Foundation developed from “Kyoto Kaigi,” a private organization that Inamori, Toru Yano, and Kishio Sakakida formed to foster academic communication between the economic and the academic worlds in Kyoto. Starting from the relations among them and tracing the relational threads, the paper attempts to clarify the historic and social conditions in Kyoto that the autobiography written by Inamori and other literature did not show sufficiently. Following the establishment of Kyoto Kaigi, Inamori, Yano, and Sakakida made “Hiei Kaigi,” an organization similar to Kyoto Kaigi with Ryuichi Kotani and Tadao Umesao.
The establishment of the Inamori Foundation paralleled two related big projects, “Kansai Bunka Gakujutsu Kenkyu Toshi” (Kansai Science City) and “Kento 1200-nen Kinen Jigyo” (Kyoto 1200th Celebration). The former was a project to build a city for science, technology, and culture in the middle of Kyoto, Osaka, and Nara. The latter was a project to celebrate the 1200th birth of Kyoto by developing several projects and events. They were committed by the Kyoto prefecture, the Kyoto city, “Kyoto Keizai Douyukai” (The Kyoto Association of Corporate Executives), “Kyoto Shoko Kaigisho” (The Kyoto Chamber of Commerce and Industry), and scholars leading cultural policy in Kyoto since the 1970s.
The Inamori Foundation emerged from the network of the people driving the projects “Kansai Bunka Gakujutsu Kenkyu Toshi” and “Kento 1200-nen Kinen Jigyo.”
本論の目的は、京セラ創業者の稲盛和夫による代表的な社会事業であり、学術と芸術の国際賞である京都賞を主催する助成財団稲盛財団の設立について、創立者個人の意図とその実現の物語にとどまることなく、いかなる同時代の文脈において行われたのかを明らかにすることである。具体的な議論に入る前に、まず、稲盛財団設立の基本的な情報、公益法人・助成財団の通史における位置づけを述べ、次いで、稲盛和夫の自伝と社史の記述を確認する。その後、助成財団の設立をめぐる歴史叙述の観点を明確にするため、先行する他財団についての文献と1970年代から1980年代京都についての文献を検討する。
(1) 稲盛財団の基本的な情報と公益法人・助成財団の通史における位置づけ稲盛財団は、1984年4月12日に通商産業省と科学技術庁から設立許可を得て、当時京セラ社長だった稲盛和夫により財団法人稲盛財団として京都で設立された助成財団である。設立趣意書によれば、当初の設立の目的は、「国際賞の授与」、「研究者、研究機関への資金援助」、「海外より研究者を招へいしたり、援助をすること」であった(稲盛財団、1984)。財団設立の目的の1つであった国際賞は、1985年の第1回授賞式において京都賞として贈賞され現在まで継続している。稲盛財団設立の1984年は、1959年の京セラ設立から25周年、稲盛和夫の新たな事業である第二電電企画設立と同年である。
稲盛財団は、公益法人・助成財団史の2つの通史的叙述の中に登場する。第1は、土肥寿員と丸山政利が日本の公益法人の歴史をたどった「公益法人100年の軌跡」である。そこでは、稲盛財団は、公益法人の安定成長期とされる1973年頃から1984年頃に設立された財団の1つであり、国際科学技術財団の日本国際賞と並んで「1賞あたりの賞金額」としては「我が国財団では最大」(土肥、2004、15)の賞である京都賞を主催する財団として言及されている(1)。土肥によれば、安定成長期は、多様化の時代であり、「科学技術振興や経済関係の団体の設立が目立った高度成長期とは異なり、環境、文化・芸術、福祉、国際等々さまざまの分野で財団が生まれた」(土肥、2004、12)。この多様化する財団の中で、「国際表彰関係4財団」として、本田賞の本田財団、庭野平和賞の庭野平和財団、日本国際賞の国際科学技術財団、京都賞の稲盛財団が記述されるのである。第2は、堀内生太郎が日本の助成財団の歴史をたどった「日本の助成財団の歴史と発展」である。そこでは、「財団の多様化と国際化」の時代とされる1970年から2007年現在までで、「国際関係の助成財団で際立つのが表彰の分野」だとし、高額な副賞を出す代表的な財団と賞として、日本国際賞の国際科学技術財団、京都賞の稲盛財団、ブループラネット賞の旭硝子財団の3つを挙げている(堀内、2007、18)。これらの通史的な先行研究においては、数は多くないにせよ、1980年代に日本の国際賞賞金の高額化が起こり、そのうちの1つが京都賞だったこと、京都賞が、科学技術に加えて思想や芸術を顕彰対象としたことが、多様化の時代を示すものであり、また他の国際賞と比べたときに独自な特徴だということがみてとれる。しかし、当然ながら、稲盛財団についての記述は、通史的な流れに位置づけられる一財団としてのものにとどまり、具体的な設立の状況や、助成財団の歴史とは別の文脈については知ることはできない。いわば、それらは、それぞれの法人・財団自体の歴史叙述に任されている。
(2) 創立者の自伝と京セラ社史稲盛財団についての歴史叙述としては、創立者である稲盛和夫による自伝と、彼が創業し、稲盛財団設立に密接に関連した企業である京セラの社史がある。まず、自伝『ガキの自叙伝』の記述を整理すると、稲盛財団と京都賞は以下のような経緯で設立されたのだという(稲盛、2002、163–166)。稲盛和夫は、日本IBMが毎年主催している天城会議という、「学者、経済人、作家」などが自由に議論し合う会議に参加した際、京都大学教授であった政治学者の矢野暢と知り合った(2)。稲盛と矢野は、天城会議をモデルとして京都で自分たちも会議を行うため、稲盛が経済人を、矢野が研究者を誘い、京都会議という組織を設立した。その後、稲盛は、1981年に伴記念賞という学術賞を受賞した際、「資産家である私は、もらう立場ではなく、あげる立場に回るべきではないか。『世のため人のために尽くす』という私の人生観からも、社会へ恩返しすべき時だと思い至った」。この着想について、稲盛が、矢野と京セラ副社長だった森山信吾に相談したところ、両者ともそれを歓迎し、森山からは「『財団づくりは私がしましょう』と励まされた」。こうして、1984年に稲盛財団は設立され、1985年に第1回京都賞授賞式が行われるに至った。次の2つが、財団と賞設立の理由となったと述べられている。第1に、「人のため世のために尽くすことが人間として最高の行為」という「人生観」「に則って、今日まで私を育んできてくれた人類および世界のために恩返しをしたいということ」。第2に、「立派な研究をするような人は、世間に知られることもなく、生涯を通じて地味な研究に打ち込んでいる。そういう人を顕彰することで、今後の研究の励みにして欲しい」ということ、である。自伝では、事後的な視点からであり、具体的な年号がないなどあるが、創立者自身の言葉として、稲盛財団設立の基盤として京都会議という組織があったこと、自身の受賞が財団設立の動機となったこと、そして賞設立の理由が示されている。
次いで、京セラ社史における記述を整理する。それによれば、稲盛による稲盛財団設立の理由には、次の2つがあったという(京セラ創立50周年社史編纂委員会、2010、238–240)。第1に、「創立満25周年を迎えた京セラは、国内外から“優良企業”と高く評価されるまでに成長し、過去最高の売上げと利益を達成した。稲盛社長はこれを機に、京セラを今日まで育ててくれた日本を含む世界中の人々に恩返しをしたいと考えた」こと。第2に、「長年にわたって人知れぬ努力を積み重ね、すばらしい業績を上げてきた技術者・研究者に報い、心から喜んでもらえる国際賞が少ないと感じてもいた」ことである。京セラ社史の記述で、自伝にはないこととして、稲盛財団設立の理由に関して、京セラ創立25周年が契機になっているということがある。また、京セラ社史では、自伝とは異なり、財団設立の経緯についてはほとんど記述がなく、稲盛和夫による設立の意図、そして設立への京セラの関わりに焦点が当てられている。たとえば、稲盛財団設立時に、稲盛が200億円の私財を出捐したのに加え、京セラも5億円を出捐したということが記され、財団設立は、「稲盛社長ならびに京セラの社会貢献事業の頂点」だとされている。とはいえ、創立者の自伝と京セラ社史は、異なる主体として異なる観点をもちつつも、基本的には、創立者の抱いた理由・意図の記述が中心となっている。そこでは、当然ではあるにせよ、稲盛財団設立は、稲盛和夫の個人史の中での、あるいは京セラという企業の歴史の中での位置づけにとどまる。稲盛和夫研究にとって、経営に限らない彼の業績の歴史に意味があるのであれば、その「社会貢献事業の頂点」とされる稲盛財団の設立自体の歴史を明らかにすることは、そのことで端的に意味があると思われる。公益法人・助成財団の通史的言及と、自伝と社史における創立者の意図とその実現の物語は、先行する稲盛財団設立の歴史叙述として存在するため、本論は、それらでは述べられていない、財団設立の同時代の文脈を明らかにしたい。
(3) 他の財団をめぐる先行研究と京都の同時代の状況稲盛財団設立の同時代の文脈を明らかにする上で、他の財団設立についての歴史叙述が、観点を取り出す参考になると思われる。特に、稲盛財団設立より少し早い1979年に設立され、「論壇への登竜門としてすでに評価が定まっている」国内の学術賞であるサントリー学芸賞を主催するサントリー文化財団について検討したい(土肥、2004、13)。サントリー文化財団の設立は、サントリー社長だった創立者の佐治敬三の自伝『佐治敬三―へんこつなんこつ』(佐治、2012)や伝記『新しきこと面白きこと―サントリー・佐治敬三伝』(廣澤、2006)だけではなく、日本の戦後史を「文化」という概念と国家や都市との関わりから叙述した吉見俊哉『東京復興ならず―文化首都構想の挫折と戦後日本』や、戦後の政治的言説における「現実主義」に関わる「人的連関」の展開を叙述した大山貴稔「醸成された『現実主義』―戦後日本における重層的人脈の生成と展開―」などにより、近年研究が進んでいる。吉見は、サントリー文化財団の設立を、「文化の時代」という言葉で知られる1979年の大平正芳首相による施政方針演説に象徴される、文化を重視する動向、特に経済界の動向の中に位置づける。そして、佐治敬三によるサントリー文化財団の創立に対する、国際政治学者の高坂正堯、劇作家の山崎正和、小説家の開高健らの協力を強調していた。吉見は、同財団の設立趣意における言い回しの大平の施政方針演説との類似を指摘し、「大平演説も、サントリー財団の設立趣旨〔ママ〕も、背後でその原案を書いていたのが、同じ高坂正堯らを中心とするチームだったことによるのではないかと推察される」(吉見、2021、225–226)と述べるのである。大山は、高坂正堯ら「現実主義」の「人物連関」をたどる中で、サントリー文化財団設立にあたり、その人物連関の中にあった山崎正和が方針から運営体制の策定まで中心的な役割を果たしたことを指摘している(大山、2024、13–16)。
サントリー文化財団をめぐる諸文献は、助成財団の設立が、創立者の意図とその実現を超えて、具体的な人間のつながりを介した、同時代の政治と経済と学界の交差によって生じる出来事でもあることを示している。
賞という事業自体は必ずしも場所に紐づけられるものではないが、組織としての財団は設立の場所の文脈と結びつきうる。たとえば、サントリー文化財団は、「“関西復権”の機運が大いに高まり、『中之島芸能センター』の構想や『大阪築城四〇〇年まつり』『大阪21世紀協会の創設』などさまざまな事業が実施された」大阪を拠点に、「大阪の誇る文化界のそうそうたる方々」の参加協力により設立された(佐治、2012、147–148;小玉、2012、381)。
それでは、稲盛財団が設立される時期までの京都は、どのような状況であったのか。京都の近現代史をまとめた『京都府の百年』によれば、1970年代から1980年代にかけての京都では、経済における「伝統産業派」と政治における革新、経済における「近代派」と政治における保守が結びつき、対立軸を形成していた。ここで言う近代派とは、「京都セラミックや立石電機・ワコールなど、大企業に成長したベンチャー・ビジネスや京都経済同友会のグループ」である。近代派は、「一九七〇年代初めに日本新薬社長森下弘を京都商工会議所会頭に当選させて主導権をにぎり、産業構造の変化に対応しきれない革新府政の打倒に全力をあげた。蜷川六選・七選時の激烈な選挙戦はその反映でもあり(三宅一郎・村松岐夫編『京都市政治の動態』)、保守の林田府政実現にも『近代派』の京都財界は大きな役割を果たした」。そして、「『近代派』は、各種の開発提言や将来構想を活発に提起して保守転換後の京都府・市政に対する影響力を増大させて」おり、「財界主流による京都改造の基本戦略」には、「具体的な契機」として、「学研都市構想(『関西文化学術研究都市』)や建都一二〇〇年記念構想」というプロジェクトが組み込まれていた(井ケ田・原田、1993、297–298)。このような京都の政治的・経済的状況を背景として措定した上で、稲盛財団と京都賞の設立は、どのような人間のつながりによる、どのような行政と経済界と学界の結びつきから生じてきた出来事なのかを本論は明らかにしていく。結論を先に述べれば、1980年代前半の京都において、関西文化学術研究都市構想と平安建都1200年記念事業を推進する、産官学が連携した人的なつながりが存在し、その中から稲盛財団と京都賞は生じてきたというのが本論の主張である。以下、具体的に検討していく。
関西文化学術研究都市構想と平安建都1200年記念事業とは、いかなるものであったか。あらかじめ述べると、これらの構想・事業は、それぞれ別個のものであるが、いずれも産官学が協働するプロジェクトであり、中心となる人間が重なり合うものであった。
関西文化学術研究都市構想とは、1970年代後半に始まった、京都府、大阪府、奈良県に広がる京阪奈丘陵に学術研究都市を建設する構想・事業のことである(関西文化学術研究都市推進機構、1988;関西学術研究都市調査懇談会、1989)。関西文化学術研究都市は、1994年に、国際高等研究所、研究者交流施設のけいはんなプラザ、奈良先端科学技術大学院大学の3つを中核機関として、「都市びらき」と称し発足した(日本経済新聞、1994年6月28日大阪夕刊)。この構想は、元京都大学総長の農学者奥田東と、同じく元京都大学総長の医学者岡本道雄という2人の研究者と、ムーンバット代表取締役社長・京都経済同友会代表幹事を務めた河野卓男という1人の経営者を核として進められた。河野が、地元舞鶴において岡本の後輩であり、岡本が、1960年代末に京大総長だった奥田を補佐する学生部長を務めていたことから、河野と奥田は、岡本を介して知り合いになっていた。構想は、1976年、奥田が、河野に、実験農業用地確保を相談したところから始まった。この時、以前から「新しい京都づくり」を提唱していた河野が、奥田に計画の拡大を提案したことから、「学問研究の新しいフロンティア」を「京阪奈の丘陵」に建設するという提案を、奥田が学界に、河野が経済界に働きかけることになったのである(河野、1992、96;国際高等研究所、1999、19)。当初は、奥田と河野、1976年当時京大総長だった岡本の3人で構想は進められたが、1978年4月の林田悠紀夫京都府知事就任を契機に事態は進展し(河野、1992、98)、同年9月、座長の奥田にちなんで「奥田懇」と呼ばれるようになる「関西学術研究都市調査懇談会」(表1)が発足した。奥田懇は、同年12月に「関西学術研究都市の第一次提言」を発表、構想を展開していくことになる(関西学術研究都市調査懇談会、1989、1)。その後、国立民族学博物館館長の梅棹忠夫も奥田懇の委員に加わった。この構想の元々の名称「関西学術研究都市」に「文化」という語が取り入れられ、「関西文化学術研究都市」になったのは、梅棹の「芸術文化研究のセンターをつくるべきだという」「国民文化都市構想」の提言を受けてのものであったという(梅棹、1992、42–43)。
関西学術研究都市調査懇談会委員(1985年3月現在)
座長:奥田東 |
委員:石川允、伊藤富雄、梅棹忠夫、梅原猛、岡崎文彬、岡田實、岡本道雄、小野宗三郎、木田宏、米谷栄二、須田勇、曽沢太吉、馬場正雄、藤野良幸、森下二次也 |
関西学術研究都市調査懇談会(1985、38)より作成
平安建都1200年記念事業とは、1994年が794年の平安建都から1200周年であることを記念して、京都府、京都市、京都の経済界が協力し1980年代初頭から構想・準備を開始した一連の事業であった。1994年の前後10年で実施された記念事業の中には、非常に多様な事業が挙げられている(表2)。ここで重要なのは、テーマ1「新しいまちづくり」の最初の事業として「関西文化学術研究都市の建設」が挙げられていることである。すなわち、平安建都1200年記念事業は、関西文化学術研究都市構想に対する京都側からの取り組みという側面ももっていた。1983年、その名の通り平安建都1200年記念事業を推進する平安建都1200年記念事業推進協議会が設立された。同協議会の中心は、林田悠紀夫京都府知事、今川正彦京都市長、ワコール社長の塚本幸一京都商工会議所会頭という3名の代表委員、53名の委員(うち17名が企画委員)、4名の参与であった(平安建都1200年記念協会、1996、9)(表3)(3)。
平安建都1200年記念事業 5つのテーマと基本事業
テーマ1:新しいまちづくり |
概要:21世紀に向けて文化・科学・産業の振興を目指し、関西文化学術研究都市を建設するとともに、市街地の再生と整備を行う |
具体的な事業:関西文化学術研究都市の建設、京都駅の改築、岡崎公園の文化的再整備、梅小路公園の建設、二条駅周辺整備、洛南新都市の建設 |
テーマ2:交通・情報通信網の整備 |
概要:関西国際空港の開港など、近畿圏のプロジェクトとの一体化を図り、広域幹線道路網を整備し、高速鉄道・市街地交通網等の抜本的改善を図る。また、高度情報化社会に備え、情報通信機能の充実を目指す |
具体的な事業:高速鉄道網の整備、東西線(醍醐~二条)及び烏丸線(北山~国際会館)の建設、京都高速道路の建設、京都縦貫自動車道の建設、京都縦貫幹線鉄道の高速化 |
テーマ3:産業の振興 |
概要:経済活動の国際化に対応し、未来を開く先端技術産業の育成・振興を図り、伝統産業や地場産業の新たな展開と活性化を目指す |
具体的な事業:京都リサーチパークの建設、京都府総合見本市会館の建設、京都経済センターの建設、ACCDアジア国際デザイン研究センターの誘致 |
テーマ4:生活環境と地域社会の整備 |
概要:美しい都市景観を創造するとともに、生活環境施設、スポーツ・レクリェーション施設など都市基幹施設を整備する。また、人権の保障と福祉の向上を図り、明るい地域社会を作る |
具体的な事業:京の川づくりの整備、世界人権問題研究センターの設立、京都府民総合交流センターの建設、伏見港港湾環境整備 |
テーマ5:文化の継承・発展 |
概要:豊かな歴史的蓄積を生かし、伝統文化の保存と継承に努める。また、国際交流基盤施設として、歴史・文化に根ざした和風様式を取り入れた京都迎賓館の早期建設を図り、国際交流を推進する |
具体的な事業:京都迎賓館の建設、京都コンサートホールの建設、国際日本文化研究センターの創設、京都府京都文化博物館の建設、京都市国際交流会館の建設、古都京都の文化財の世界文化遺産登録、伝統行事・伝統芸能・文化財の保存・育成の強化、京都府警察平安騎馬隊の発隊 |
平安建都1200年記念協会(1996、5)より作成
平安建都1200年記念事業推進協議会委員一覧(1983年7月現在)
代表委員:林田悠紀夫、今川正彦、塚本幸一 |
委員:会田雄次、青木善男、◯荒巻禎一、有馬弘毅、◯池坊保子、◯稲盛和夫、井上太一、◯井上襄、◯上田篤、上西亮二、上山春平、梅棹忠夫、梅原猛、大宮隆、岡本道雄、奥田東、北林英二、◯木下稔、◯栗林四郎、桑原武夫、高坂正堯、河野卓男、◯小谷隆一、小松左京、米谷栄二、◯坂上守男、◯榊田喜四夫、榊原胖夫、三条実春、瀬戸内寂聴、千宗室、高井隆秀、高山寛、立石一真、中川文一郎、◯長尾義三、◯西村大治郎、◯馬場正雄、◯林屋辰三郎、◯原栄美子、東伏見慈洽、福田芳子、富士谷あつ子、古川敏一、堀場雅夫、前川寿信、村上勝、◯森下弘、◯森谷尅久、八木保男、谷内口浩二、矢野暢、湯浅佑一、吉田光邦 |
◯は企画委員 平安建都1200年記念協会(1996、9)より作成
平安建都1200年記念事業は、平安建都1200年記念事業推進協議会の代表委員3名にみられる通り、京都の行政、経済界、学界の協働によって進められた事業であった。1980年代前半に平安建都1200年記念事業を構想、準備、推進してきたのはどのような人々であったのかを、行政、経済界、学界の順に詳細に検討し、明らかにしていく。
(1) 平安建都1200年記念事業と京都の行政行政についてみると、平安建都1200年記念事業は、1980年前後に新しく当選した京都府知事と京都市長の下で準備・推進された。
京都市では、舩橋求己に続いて1981年9月1日に市長に就任した今川正彦の下、1983年7月26日に市会での議決を経て、「基調テーマ」として、「伝統を生かし,創造をつづける都市・京都―建都1200年をのぞむ市民のまちづくり」を掲げる京都市基本構想が策定された(京都市、1983b、1、6、35)。この基本構想は、1950年の京都国際文化観光都市建設法、1957年の平和都市宣言、1978年の世界文化自由都市宣言で設定された理念を、具体的な施策と結びつけるために1980年を起点として「20年の将来を展望し」策定された「市政の基本方針であり、市民のまちづくりの指針」となるものであった(京都市、1983b、4–5)。京都市基本構想において、「建都1200年」は、市政の方針にとって重要な区切りとして位置づけられていた。
基本構想は、次のような流れで策定された。まず、1979年11月に学識経験者と京都市助役からなる京都市基本構想調査研究会が中心となり、京都市の「全庁的な体制」で「京都市基本構想案」の作成が開始された(京都市基本構想審議会、1982、6)。1980年6月の第3回調査研究会で「基調テーマ試案」を決定している(京都市基本構想審議会、1982、7)。そして、構想案について、1982年9月2日の第1回から翌1983年3月11日の第7回までの京都市基本構想審議会で議論を行い、審議会内の調整部会で最終的な文面にとりまとめ基本構想とした(京都市、1983a、31–32)。
京都市基本構想審議会は、京都市会議員、京都の大学の研究者、経済団体など関連団体の代表者、京都市助役からなる委員会であった。審議会会長は米谷栄二、会長代理は岡崎文彬、調整部会部会長は梅原猛であった。1978年に京都市の世界文化自由都市宣言を座長としてまとめた桑原武夫も委員として参加している(山田、2019、18)。他に、梅棹忠夫、小谷隆一、榊田喜四夫、塚本幸一などが委員となっており、委員は合計62人であった(京都市、1983a、29–30)。
京都府では、1950年初当選以来の蜷川虎三に代わり、1978年に知事に就任した林田悠紀夫の下で、1980年から京都府文化懇談会と21世紀京都ビジョン懇談会、2つの懇談会が開催された。
京都府文化懇談会は、1980年6月27日の第1回全体会議から1981年10月17日の第2回全体会議まで、複数の部会、総合部会、小委員会を含み、「京都府民の守り育ててきた文化をいっそう発展させるため、京都府の文化・芸術の振興施策、文化施設の整備、歴史的遺産・文化の当面する課題について広く意見を交換」する懇談会であった。議論の成果は、1981年10月付けで『京都の文化は日本の文化―新たなる創造発展をめざして』としてまとめられ刊行された。『京都の文化は日本の文化』の提言は、「京都府の文化全体を、長期的に展望すべきものから、当面行なうべき短期的施策まで含んだ総合的な指針」だとされていた。懇談会は、「京都の文化・芸術・産業など各分野にわたる37名」の委員、全体会議の他に、第1部会「日本文化と京都文化」、第2部会「地域社会と文化」、第3部会「文化活動の振興」の3つの部会から構成されていた。総合部会座長が岡本道雄、副座長が梅原猛、第1部会長が梅原猛、第2部会長は吉田光邦、第3部会長は河北倫明となっている。他に委員として、第1部会に梅棹忠夫、第2部会に川添登、塚本幸一、第3部会に榊田喜四夫らがいた(京都府文化懇談会、1981、34–37)。
『京都の文化は日本の文化』をみると、関西文化学術研究都市構想と平安建都1200年記念事業いずれについても議論が行われていたことがわかる。そのことは数多くの提言がなされる第3章「文化振興の施策」にみられる。たとえば、「京都文化の博物館を」、「京阪奈丘陵の地に、新しい都市として文化・学術・研究都市の建設を」、「日本の文化の歴史をもち、学問・文化の集積を有する京都に日本文化研究所の創設を」、「平安建都1200年に向けた記念事業を」、「国際的な芸術文化におけるコンクール等を」の5つの提言である。これらの見出しにあるとおり、「京都文化の博物館を」では後の京都文化博物館の提言が、「京阪奈丘陵の地に、新しい都市として文化・学術・研究都市の建設を」では関西文化学術研究都市の具体的な施設として、「国立総合芸術センター」、「インターナショナルな研究所」、「第2国立国会図書館」の提言が、「日本の文化の歴史をもち、学問・文化の集積を有する京都に日本文化研究所の創設を」では後の国際日本文化研究センターの提言が、「平安建都1200年に向けた記念事業を」ではそのまま「平安建都1200年記念事業」の提言がなされている。そして、「国際的な芸術文化におけるコンクール等を」では、芸術文化のコンクールを設立する提言とともに、「国際的な京都の文化賞を設けて、文化においての世界的な功績を表彰する、たとえばノーベル賞のような賞を京都に創設すること」という提言がなされている(京都府文化懇談会、1981、16)。
21世紀京都ビジョン懇談会は、同じく1980年6月27日の第1回全体会議から開始された懇談会であった。「21世紀の京都ビジョンをとりまとめるべく」、全体会議の他に「まちづくり」、「産業のあり方」、「人づくり」の3つの部会で議論が行われた(林田、1985、43)。この懇談会は、そもそもテーマが21世紀の京都であり、平安建都1200年ということは、主題化されていない。座長は奥田東、副座長・まちづくり部会長が梅棹忠夫、副座長・人づくり部会長が佐野豊、副座長・産業のあり方部会長が馬場正雄であった。委員に、稲盛和夫、梅原猛、河野卓男、小谷隆一、米谷英二ら66名がいた(21世紀京都ビジョン懇談会、1981、31;1984、31)。議論の成果は、1981年11月4日付けの『京都 世界にはばたく“創造の府”―21世紀京都ビジョン懇談会 提言その1』としてまとめられ、第3次京都府総合開発計画の中に位置づけられた。さらにその後『提言その1』で行われなかった議論は、1984年2月17日付けの『京都 未来をひらく“躍動の府”―21世紀京都ビジョン懇談会 提言その2』としてまとめられた。
『提言その1』では、具体的に「文化・学術・研究都市の建設」として、「人類の未来に貢献し、京都市などに集積されている文化・学術・研究機能をより向上発展させるため、飛鳥、奈良、京都を結ぶ日本・文化発祥の中心軸上に位置する京阪奈丘陵に“第二の平安京”ともいえる文化の首都を再現する」と述べられている。そして、より具体的な機関・施設としては、「国立総合芸術センター」、「第二国立国会図書館」、「学術、研究の総合調整などを行う中核機構や、国際問題に関する研究機構、創造的な知識集約型産業をのばすバイオテクノロジー、新素材などに関する研究機構など」が挙げられている(21世紀京都ビジョン懇談会、1981、21)。『提言その2』では、「文化・情報機能の充実」に関わる提言の1つとして、「京都独自の国際的な賞を創設すること」が挙げられていた(21世紀京都ビジョン懇談会、1984、20)。
これら1980年代初頭京都府・京都市の複数の懇談会の委員と、関西文化学術研究都市構想及び平安建都1200年記念事業推進協議会の委員との重なりをみると、関西文化学術研究都市構想の発端となった奥田東、岡本道雄、河野卓男、さらに関西学術研究都市調査懇談会委員(関西学術研究都市調査懇談会、1985、38)のうち、梅棹忠夫、梅原猛、岡崎文彬、馬場正雄、米谷栄二らは、平安建都1200年記念事業と、それにつながる1980年代初頭京都府・京都市の複数の懇談会の中心人物でもあったことがわかる(表4)。
関西文化学術研究都市と、平安建都1200年記念事業推進協議会に至る審議会・懇談会の重なり
関西文化学術研究都市の発端 | 関西学術研究都市調査懇談会 | 京都市基本構想審議会 | 京都府文化懇談会 | 21世紀京都ビジョン懇談会 | 平安建都1200年記念事業推進協議会 | |
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奥田東 | 発端 | 座長 | 座長 | 委員 | ||
岡本道雄 | 発端 | 委員 | 座長 | 委員 | ||
河野卓男 | 発端 | 委員 | 委員 | |||
梅棹忠夫 | 委員 | 委員 | 副座長・部会長 | 委員 | ||
梅原猛 | 委員 | 部会長 | 副座長・部会長 | 委員 | 委員 | |
岡崎文彬 | 委員 | 会長代理 | ||||
馬場正雄 | 委員 | 調整部会委員 | 副座長・部会長 | 企画委員 | ||
米谷栄二 | 委員 | 会長 | 委員 | 委員 |
河野(1992、98)、関西学術研究都市調査懇談会(1985、38)、京都市(1983a、29–30)、京都府文化懇談会(1981、34–37)、21世紀京都ビジョン懇談会(1981、31;1984、31)、平安建都1200年記念協会(1996、9)より作成
経済界をみると、京都経済同友会と京都商工会議所が、平安建都1200年記念事業を組織的に推進してきた。
京都商工会議所では、当時会頭だった塚本幸一が、林田京都府知事、今川京都市長とともに平安建都1200年記念事業推進協議会の3人の代表委員の1人となっている。塚本は、京都市基本構想審議会委員、京都府文化懇談会委員も務めていた。他にも、その前の第12代会頭だった森下弘もまた平安建都1200年記念事業推進協議会の企画委員となっている。塚本の後で第14代会頭になる稲盛も企画委員であった。
京都経済同友会では、平安建都1200年記念事業に関して、1983年3月付けの『建都1200年京都活力化への提言―京都は甦るか』と1985年3月付けの『建都1200年京都活力化への提言―京都は甦るか Part II』という2つの提言を出している。1983年3月の提言は、1982年4月から、京都経済同友会代表幹事の榊田喜四夫と立石孝雄、建都1200年京都活力化特別プロジェクト総合ディレクターとして塚本幸一、アソシエイトディレクターとして堀場雅夫、ディレクターとして小谷隆一らによって進められた(京都経済同友会、1983、3)。1985年3月の提言は、1983年の提言以降の研究の成果をまとめたもので、代表幹事の立石孝雄と榊田喜四夫、建都1200年京都産業活力化プロジェクトディレクターとして堀場雅夫、建都1200年京都都市活性化プロジェクトディレクターとして稲盛和夫らによって進められた(京都経済同友会、1985、3)。
平安建都1200年記念事業推進協議会への京都経済同友会の関わりをみると、多くの歴代代表幹事が、委員を務めている(表5)。平安建都1200年記念事業推進協議会の企画委員17名中、1983年設立時点で京都経済同友会代表幹事経験者は4人であった。他の経済界からの企画委員は、稲盛和夫(稲盛は1985年京都経済同友会代表幹事就任)、井上襄、栗林四郎、坂上守であった。経済界からの平安建都1200年記念事業推進協議会の企画委員において、経済同友会関係者がかなり大きな位置を占めていたことがわかる。
京都経済同友会代表幹事及び京都商工会議所会頭と、平安建都1200年記念事業推進協議会に至る審議会・懇談会の重なり
京都経済同友会 | 京都商工会議所 | 京都市基本構想審議会 | 京都府文化懇談会 | 21世紀京都ビジョン懇談会 | 平安建都1200年記念事業推進協議会 | |
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塚本幸一 | 第7代代表幹事 | 第13代会頭 | 委員 | 委員 | 代表委員 | |
森下弘 | 第2代代表幹事 | 第12代会頭 | 委員 | 企画委員 | ||
西村大治郎 | 第4代代表幹事 | 委員 | 委員 | 企画委員 | ||
立石一真 | 第5代代表幹事 | 委員 | 委員 | |||
小谷隆一 | 第6代代表幹事 | 委員 | 委員 | 企画委員 | ||
堀場雅夫 | 第8代代表幹事 | 委員 | 委員 | 委員 | ||
河野卓男 | 第9代代表幹事 | 委員 | 委員 | |||
榊田喜四夫 | 第10代代表幹事 | 委員 | 委員 | 企画委員 | ||
稲盛和夫 | 第12代代表幹事 | 第14代会頭 | 委員 | 企画委員 |
京都経済同友会「歴代代表幹事一覧」、京都商工会議所(2022、46)、京都市(1983a、29–30)、京都府文化懇談会(1981、34–37)、21世紀京都ビジョン懇談会(1981、31;1984、31)、平安建都1200年記念協会(1996、9)より作成
学界についてみると、平安建都1200年記念事業を推進する人々には、関西文化学術研究都市を主導した2人の元京大総長に加えて、京都大学人文科学研究所(以降、人文研と略)に所属、あるいは所属したことのある研究者、そして人文研と密接に結びつき、ときに新京都学派として括られる研究者が多かった(表6)。平安建都1200年記念事業推進協議会の企画委員は、17名中5名が研究者であった。大阪大学工学部教授上田篤、京都大学工学部教授長尾義三、京都大学経済研究所教授馬場正雄、京都国立博物館館長林屋辰三郎、京都市歴史資料館館長森谷尅久である。協議会委員53名中(うち企画委員17名)、研究者の委員(企画委員を除く)は、会田雄次、上山春平、梅棹忠夫、梅原猛、岡本道雄、奥田東、桑原武夫、高坂正堯、米谷栄二、榊原胖夫、矢野暢、吉田光邦の12人であった。企画委員では林屋、委員では会田、上山、梅棹、梅原、桑原、吉田の6人が、歴代所長を含む人文研あるいは新京都学派関係の研究者であり(柴山、2014、9、39–41;京都大学百年史編集委員会、1997、166;斎藤、1986、10–32)、研究者の委員だけでみると半分が人文研あるいは新京都学派関係の研究者であった。そして、1985年に財団法人平安建都1200年記念協会が発足する際には、会長に桑原武夫、副会長に林田悠紀夫、今川正彦、塚本幸一、林屋辰三郎が選出されている。平安建都1200年記念事業の研究者の中心には、人文研、新京都学派の人脈があったと言っていいだろう(4)。平安建都1200年記念事業推進協議会委員には入っていないが、人文研所長を2期務めた河野健二も21世紀ビジョン懇談会委員にいた。
京都大学人文科学研究所・新京都学派と、平安建都1200年記念事業推進協議会に至る審議会・懇談会の重なり
京都大学人文科学研究所・新京都学派 | 京都市基本構想審議会 | 京都府文化懇談会 | 21世紀京都ビジョン懇談会 | 平安建都1200年記念事業推進協議会 | |
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林屋辰三郎 | 所長 | 委員 | 企画委員 | ||
会田雄次 | 所属 | 委員 | 委員 | ||
上山春平 | 所長 | 委員 | 委員 | ||
梅棹忠夫 | 所属 | 部会長 | 委員 | ||
梅原猛 | 共同研究参加 | 調整部会会長 | 部会長 | 委員 | 委員 |
桑原武夫 | 所長 | 委員 | |||
吉田光邦 | 所長 | 部会長 | 委員 |
京都大学百年史編集委員会(1997、166)、斎藤(1986、10–11、142–162)、柴山(2014、39–41)、京都市(1983a、29–30)、京都府文化懇談会(1981、34–37)、21世紀京都ビジョン懇談会(1981、31;1984、31)、平安建都1200年記念協会(1996、9)より作成
さらに、桑原武夫、梅棹忠夫、梅原猛の3人は、平安建都1200年記念事業のみならず、この時期の京都の文化行政に関わる研究者の中心であった。桑原武夫は、世界文化自由都市宣言の起草から(山田、2019、18)、世界文化自由都市推進懇談会の座長を務めていた(京都市世界文化自由都市推進懇談会、1980、24)。梅棹忠夫は、もともと生態学者であったが、1960年代から近畿の自治体で文化行政に関わり、1970年の大阪万博について仲間と構想を開始し実際にそのブレーンとなるとともに、1970年代には文化行政の理論家として活躍、1970年代末に大平正芳政権が成立すると国家の文化政策の構想に関わっていた(大阪文化振興研究会、1974、9–10、48;大阪文化振興研究会、1975、65–68;上田、1979、236;端、2011、106–107)。哲学者の梅原猛も、当時の京都の文化行政における中心の1人であった。上田篤は、1970年代末までの京都の風致行政を1955年からの第1期、1965年からの第2期、1970年以降を第3期とし、第2期の代表的な人物として梅棹を挙げ、第3期の代表的な人物として梅原猛、西川幸治、川崎清を挙げている(上田、1979、67)。
関西文化学術研究都市構想から始めて、平安建都1200年記念事業を中心となって推進する人々について、行政、経済界、学界それぞれの観点から検討してきた。平安建都1200年記念事業に関連する複数の懇談会や協議会などの組織の中心となって推進してきた人々には重なりや一定の特徴がみられる。その重なりや特徴には、『京都府の百年』で言及されていた、1980年前後に就任した新たな京都府知事と京都市長の下での行政と、京都経済同友会と京都商工会議所を中心とした経済界の結びつきだけではなく、人文研、あるいは新京都学派の研究者たち、そして、関西文化学術研究都市構想を推し進める奥田東と岡本道雄という2人の元京都大学総長の存在がみてとれる。1980年代前半京都において、関西文化学術研究都市構想と平安建都1200年記念事業を推し進めるために、一定の人々が中心となって、産官学が連携する体制のようなものができあがっていたと言えるだろう。
それでは、この1980年代前半京都で産官学が連携する体制と1984年4月12日の稲盛財団の設立はどのような関係にあったのか。稲盛和夫は、1980年代前半京都で産官学が連携するこの体制の中心で活動するただ中において、その重なり合う人脈の中で、稲盛財団を設立したと言える。そのことは、稲盛和夫とこの体制の行政、経済界、学界との関わり、そして設立された稲盛財団とこの体制との関わりからみいだせる。
行政との関わりについてみると、稲盛和夫自身が、林田悠紀夫知事の下での文化行政の会議、21世紀京都ビジョン懇談会委員の1人であった。先述した通り、京都府文化懇談会と21世紀京都ビジョン懇談会の2つの懇談会いずれにおいても、京都で国際賞を出すという提言が行われていた。稲盛が参加していない京都府文化懇談会でも、京都で国際賞を出すという提言がなされていることから、1980年代前半京都のこの体制において、稲盛に限らず、京都で国際賞を設立したいという機運が生じていたと考えられる(5)。また、21世紀京都ビジョン懇談会で委員だったことから、稲盛は、少なくとも同時代の京都において、国際賞を出すということが受け入れられている、あるいは推進に値すると考えられているという認識を得ていたと考えられる。国際賞について言及のある『提言その2』は1984年2月17日付けで、稲盛財団設立認可が同年4月12日であり、2つはほぼ同時期に進行していたことになる。だが、財団設立を進める中、21世紀京都ビジョン懇談会で稲盛がどのような役割を果たしたのか、果たさなかったのか、具体的なことを示す資料は今のところ発見できていない。
経済界との関わりについてみると、稲盛和夫自身が、この体制における京都の経済界の側の中心人物の1人であった。稲盛は、京都信用金庫理事長だった榊田喜四夫が京都経済同友会代表幹事の時期から、平安建都1200年記念事業に関わるプロジェクトのディレクターを務めており、榊田から受け継ぐかたちで、1985年に代表幹事になっている(京都会議事務局、1985、10)。
学界との関わりについてみると、稲盛和夫は、1980年代前半、京都会議と比叡会議という京都の経済界と学界が交流する2つの組織を設立しており、2つともこの体制と重なり合っていた。
京都会議とは、直接に稲盛財団設立の基盤になった組織であった。自伝の記述では触れられていないが、京都会議は、実際には、稲盛和夫、矢野暢、榊田喜四夫の3者によって設立されたものだった。既述した天城会議に参加していた稲盛、矢野、榊田が、京都でも同様の組織を立ち上げようとして、京都会議を1980年に設立したのである(矢野暢、1986、211–213;京都会議事務局、1989、13)(6)。榊田は、政治・経済・学術・芸術の各界にわたる独自のネットワークをもっており、特に梅棹忠夫と親交が深かった(梅棹、1986、94–95;小谷、1986、125;榊田、1986、223–224)。
京都会議の例会では、基調報告と討論を行い、経済人と研究者の交流がもたれた。当初の正確なメンバーは不明だが、1984年刊行の活動報告冊子『京都会議』に掲載された例会のうち第1号掲載の1983年11月9日第19回例会の会議「1センチの宇宙からの出発」への出席者をみると、石田隆一、稲盛和夫、江崎玲於奈、佐藤文隆、田中美知太郎、波多野進、早石修、広中平祐、藤澤令夫、村田純一、森口親司、矢野暢である(京都会議事務局、1984、1)。同第1号の近況報告欄によれば、同時期に岡本道雄がアドバイザーとして参加している(京都会議事務局、1984、10)。すなわち、稲盛財団の基盤となった組織自体、稲盛、榊田、矢野という平安建都1200年記念事業の推進に関わる人たちによって設立され、関西文化学術研究都市構想の中心であった岡本道雄も加わっていたということである。
比叡会議とは、京都会議を設立していた稲盛和夫、矢野暢、榊田喜四夫に、梅棹忠夫とイセト紙工社長だった小谷隆一の2人を加えた5人が世話人となり設立された組織である(比叡会議事務局、1983、5)。梅棹は言うまでもなく、小谷も京都経済同友会第6代代表幹事であり、これまでみてきた複数の機関の委員を務める人物である。京都会議が、天城会議をモデルとしながらも独立に設立されたものであるのに対して、比叡会議は、天城会議の支部のような存在だった(椎名、1983、15–17;榊田喜四夫、1983、249–251)。第1回比叡会議は、稲盛財団設立のちょうど半年ほど前の1983年10月11、12日、全体のテーマを「文化首都の理論」として行われた。「文化首都」としての京都という位置づけは、平安建都1200記念事業の中心的なコンセプトの1つになっていく(7)。
稲盛財団とこの体制との関わりについてみると、稲盛財団設立時の理事、評議員(表7)、委員(表8)が、この体制と重なっていた(稲盛財団、1990a、214–216)(8)。行政からは、林田悠紀夫京都府知事、今川正彦京都市長が評議員(ただし1986年から府知事、市長は理事・評議員ではなく特別顧問[稲盛財団、1990b、186–189])。経済界から、栗林四郎、塚本幸一が理事、村田純一らが評議員、学界から岡本道雄、矢野暢が理事、奥田東が評議員となっていた。また、京都賞の審査機構としては、岡本道雄が最終的に授賞すべき候補者の決定を行う京都賞委員会の委員長及び先端技術部門審査委員会委員長、矢野暢が同京都賞委員会委員に加えて、精神科学・表現芸術部門審査委員会及び専門委員会委員長、梅原猛が精神科学・表現芸術部門審査委員会委員となっていた。
1984年度稲盛財団理事・監事・評議員一覧
理事長 稲盛和夫 |
副理事長 森山信吾 |
常務理事 稲盛豊実 |
理事・事務局長 瀬上清 |
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理事:赤司俊雄、天谷直弘、石坂誠一、牛尾治朗、岡本道雄、栗林四郎、瀬上清、千宗室、塚本幸一、橋口収、堀清彦、矢野暢 | ||||
監事:仙元隆一郎、宮村久治 | ||||
評議員:青山令道、安城欽寿、稲盛朝子、稲盛しのぶ、稲盛利則、井深大、今川正彦、植木光教、梅沢邦臣、江崎玲於奈、奥田東、救仁郷斉、椎名武雄、真藤恒、上西阿沙、土井定包、野村直晴、林田悠紀夫、広中平祐、福井謙一、藤井義弘、藤澤令夫、村田純一、吉國一郎、スチュアート・ルビッツ |
稲盛財団(1990a、214–216)より作成
第1回(1985)京都賞審査機関
専門委員会 | 審査委員会 | 京都賞委員会 | |
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先端技術部門 | 委員長:櫻井良文 委員:犬石義雄、尾崎弘、近藤文治、牧元利夫、山中千代衛、坂井利之 |
委員長:岡本道雄 委員:櫻井良文、犬石義雄、小泉光恵、西原宏 |
委員長:岡本道雄 委員:櫻井良文、広中平祐、福井謙一、矢野暢 |
基礎科学部門 | 委員長:広中平祐 委員:大矢勇次郎、佐藤文隆、寺本英、溝畑茂、山口昌哉 |
委員長:広中平祐 委員:伊谷純一郎、佐藤文隆、福井謙一 |
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精神科学・表現芸術部門 | 委員長:矢野暢 委員:遠山一行、丹羽正明、船山隆、諸井誠 |
委員長:矢野暢 委員:梅原猛、高階秀爾、藤澤令夫、諸井誠 |
稲盛財団(1990a、188–190)より作成
本論では、1980年代前半京都において、関西文化学術研究都市構想と平安建都1200年記念事業を推進する、産官学が連携した体制が成立していたことを示し、そのような体制のただ中で、その重なり合う人脈の中で、稲盛和夫が稲盛財団を設立したことを明らかにした。
本論には、以下のような稲盛和夫研究、公益法人・助成財団史、京都現代史における意義がある。
稲盛和夫をめぐる歴史研究において、稲盛財団の設立を、創立者の意図とその実現の物語を超えた同時代の文脈に位置づけたことは、そもそも京都において稲盛和夫がどのような活動をしてきたのか、どのような役割を果たしてきたのかの歴史叙述に貢献している。稲盛にとって、1980年代前半は、第二電電設立という新たな全国的な事業を展開した時期であったと同時に、経済同友会の代表幹事になり京都の経済界の中心的な位置を占め、京都の政治、経済界、学界が密接に結びつく動向の中で社会事業を展開し始めた時期であったと言える。
公益法人・助成財団史において、稲盛財団の設立について、創立者とその意図にとどまらず、その同時代の文脈を示したことで、組織とそれが設立された地域の状況との関係の比較を可能にした。たとえば、国際科学技術財団と稲盛財団について、前者の設立が政府中央との結びつきが強かったのに対して、後者の設立は京都のよりローカルな文脈との結びつきが強かったこと、逆にみれば、政府中央と地方で同時期にそれぞれの文脈で国際賞の設立が進行していたということが言える。あるいは、稲盛財団を取り巻く1980年代前半京都の状況を、同時代の大阪の状況と比較することもできるかもしれない。1980年代前半大阪では、サントリー文化財団を設立したばかりの佐治敬三、後に国際科学技術財団初代会長となる松下幸之助も関わるかたちで「大阪21世紀計画」が進行しており、同計画を進める財団法人大阪21世紀協会には、理事・会長として松下幸之助、企画委員の座長として梅棹忠夫と佐治敬三、副座長として上田篤、小松左京、堺屋太一、山田稔らの名前がみえる(大阪21世紀協会、1982、24)。
京都の現代史において、政治と経済の関係の観点からなされた1970年代以降の叙述に、学界との結びつきも存在してきたことを付け加えることができた。関西文化学術研究都市の中核機関である国際高等研究所、平安建都1200年記念事業に含まれた国際日本文化研究センター、京都文化博物館、世界人権問題研究センター、京都コンサートホールといった、1980年代から1990年代前半、京都にできたいくつかの大学外の学術文化機関は、同時代京都における産官学が連携する体制を背景としている点で、稲盛財団とある程度設立の文脈を共有していると言える(関西学術研究都市調査懇談会、1985、84;人間文化研究機構国際日本文化研究センター、2012、428;「京都文化博物館10年のあゆみ」編纂委員会、1999、6–7、172、193;世界人権問題研究センター、2004、1、112;宮崎、2022、s47;京都コンサートホール)。1985年に平安建都1200年記念協会が設立されると、京都賞を「京都をあげて応援する方向で接点がもてないかなどが検討」されてもいた(平安建都1200年記念協会、1996、14)。他方で、1980年代から1990年代にかけて京都では、複数の学術文化機関が設立されたが、その多くが、関西文化学術研究都市や平安建都1200年記念事業の事業として設立されたのに対して、稲盛財団は、人間的な結びつき、重なり合いをもちながらも、組織的にはこれらの2大プロジェクトに包摂されることなく、稲盛和夫による独立した社会事業である点で異なるとも言える。
関西、特に京都は京都復権運動が始まっておりまして、京都のいろんなダイナミズムがいま動員されつつある。その中において最も知的なガイダンスを与えるということが我々にできはしないだろうか、思い切って京都そのものにテーマを絞ろうではないかということになった。梅棹先生かどなたかのご提案だったかもしれません。思い切ってここで叡知を集めて京都論をやってみようではないかということで、今年は京都の文化首都としての特徴、あるいはその本質といいましょうか、それをいろんな角度から多方面的に、多専門的に洗う機会にしたいということになりました。(矢野、1983、23)
梅棹の基調講演「文化首都の理論」は、題名からすると、文化首都なるものに関する一般的な理論のようだが、実際には、文化首都という概念を立て、それによって京都を特徴づけ、その後のあり方を構想していくという内容だった。17世紀以後、東京が政治首都、大阪が経済首都、京都が文化首都という3つの首都型の都市としての分業が始まり発達したという見立てを行い(梅棹、1983、35–37)、その上で、過去の文化財の保護にとどまるものではなく、国内外の儀典を行う舞台となる「儀典都市」としての、そして美術工芸や学術などの文化情報の中心である「情報都市」としての京都であるべしという構想を展開するのである(梅棹、1983、42–45)。ここで重要なのは、これらの「文化首都」や「儀典都市」という言葉が、同時期の京都経済同友会の提言(「“文化的首都”京都の建設―儀典都市への道」や平安建都1200年記念事業による1984年の基本構想(「現代の京都は」「日本の文化首都としての世界的な地位を築いた」)において使われているということである(京都経済同友会、1983、4;1985、4;平安建都1200年記念協会、1996、4)。第1回比叡会議は、中心となる世話人の水準だけではなく、そこで議論される言葉自体が、平安建都1200年記念事業と重なり合い、連携するものであったのである。「文化首都」としての京都という捉え方は、この1980年代前半京都の体制を基盤として広がったと考えてよいだろう。この事実は、京都という都市の表象の歴史にとって意義があると思われる。
「文化首都」という言葉自体は、都市計画家の石川栄耀が第二次世界大戦敗戦後の東京復興計画などで東京について使用していたし(石川、1947、51;吉見、2021、85–105)、京都を、東京や大阪と比較し、「文化首都」として位置づける記述の仕方についても、もともと梅棹自身が行ったものではない(比叡会議事務局、1983、214)。だが、「文化首都」として京都を位置づける記述の仕方は、梅棹が大平首相の下で発表した「新京都国民文化都市構想」(梅棹、1980)に対して出された新聞記事(「『文化首都』建設を―田園都市構想で梅棹氏提言」『朝日新聞』1980年3月7日)に由来するものであった。「儀典都市」という言葉は、梅棹がもともと1950年代後半、天皇を京都に戻す天皇環幸論を唱えた際に使用したものであった(梅棹、2004、95–99)。