2016 Volume 33 Issue 1 Pages 12-16
甲状腺外科領域において,医療安全対策の必要な問題点が多数ある。外来診療では待ち時間へのクレーム,甲状腺穿刺吸引細胞診では承諾書の必要性,施行後の出血や疼痛対策,CT検査などでは造影剤アレルギーの問診などが問題となる。医療訴訟の増加する現代では,手術適応の決定や説明義務(インフォームド・コンセント,自己決定権)に関して,カルテ記載の内容が重要となっている。手術合併症の中では,術後出血,不測の反回神経まひ,気管カニューレの事故抜去などに関するトラブル対応が重要である。マニュアル整備も必要であるが,危機管理で最も大事なことはスタッフの教育と人材育成であることを銘記する必要がある。
全国の病院管理体制の基盤として,医療安全対策室や医療安全管理委員会の構築と整備・運用が始まって10年以上経過し,多くの安全管理指針やマニュアルの整備が行われてきた[1~3]。当院でも,この間スタッフの教育・啓蒙活動が順調に行われてきた。
甲状腺外科領域では他部門(心血管外科,消化器外科など)と比較して重大なトラブルは少ないが,医療訴訟の増加する時代背景では,甲状腺診療における安全対策や危機管理も重要となってきた。
平成26年度インシデント・アクシデントレポート総数は1,502(アクシデント153)であり,ここ数年大きな変化を認めなかった(図1)。報告の頻度順では点滴注射27.1%,転倒・転落22.7%,与薬15%,チューブ類のトラブル7.3%であった。

年度別事故報告件数(平成22年~平成26年)
部署別報告件数は約93%が看護部からとなっている。どの病院でも他職種からの報告は少ない傾向にある。特に医師部門からのレポートはごく僅かなものであり,医療安全に対する認識が低いものと考えられる(図2)。

平成26年度事故報告部門別件数
甲状腺外科領域では外来検査,術前診断,手術適応,術式選択,手術合併症,術後管理などが医療安全上問題となる。甲状腺疾患に特有な問題もあり,以下の項目について述べる。
1.外来診療,検査に伴うトラブル
2.病状説明,手術適応・手術方法の説明へのクレーム
3.手術合併症:出血,不測の反回神経まひなど
4.術後合併症:気管カニューレ抜去,テタニーなど
5.術後フォローアップの重要性への理解力不足,内服薬の調整など
多くの病院で聞かれる不満やクレームで最も多いのが外来での待ち時間である。完全予約制,診察人数制限などの方法もあるが,診察予約がとれない状況になり,医療サービスの矛盾が生じる。
当院では甲状腺外来の診察を地域連携室経由の新患外来と再診外来に分け,術後フォローアップのための関連施設を併設している。各病院でも待ち時間短縮の工夫をしているが,満足できるものは少ない。
2)超音波検査,穿刺吸引細胞診のトラブル甲状腺腫瘍の疑いで紹介を受けた場合,エコー検査と穿刺吸引細胞診はほぼ必須のものであり,以前は口頭での説明を行っていた。しかし,穿刺後の一過性気分不良,血圧低下,疼痛などの訴えを時々経験する。近年の医療状況を考えると,説明・同意書は必須のものとなりつつある。
特に,抗凝固薬,抗血小板薬の内服や血液透析施行中などの状況下では穿刺による血腫形成のリスクが高く,要注意である。
当院で使用している,超音波検査ならびに穿刺吸引細胞診の説明・同意書を示す(図3)。

当院で使用しているエコーおよび穿刺吸引細胞診の説明と同意書
穿刺後の疼痛,腫大などの訴えがあれば,担当医が直ちにエコーで状況確認し,説明,冷却・鎮痛剤処方を行っている。対応が悪く説明不十分であれば,トラブルとなる危険性が高い。
逆に,穿刺吸引細胞診を行わなかったことで訴訟に発展した事例もある。この訴訟では甲状腺腫瘍に対する穿刺吸引細胞診を怠ったことにより手術適応を誤った過失,十分な説明をしなかった過失があるとして損害賠償請求が行われた(東京地方裁判所 平成15年(ワ)第17363号 損害賠償請求事件)。裁判の結果,患者側の請求棄却となったが,注意が必要な事例である。
3)CT検査のトラブル:造影剤によるアレルギー問診とカルテ記載の有無が造影剤アレルギーによる医療訴訟の重要ポイントとなった事例がある。
頸部腫脹のため造影CT検査施行したところ,アナフィラキシー・ショックにより死亡した事例である。裁判では問診施行の有無が争点となったが,最終的に最高裁判所において医療側勝訴が確定した。カルテ記載の重要性が再認識された事例である[4]。CT検査前の問診では,そのほかに腎機能評価,経口糖尿病薬内服の有無なども重要である。
4)術後外来フォローアップ甲状腺癌術後のフォローアップの中でも,ハイリスク症例では最低20年間行うべきであり,再発を早期に発見し治療を行うことが重要である。TSH抑制療法を行う場合は,甲状腺ホルモン剤内服の目的,病状,フォローアップの重要性を理解してもらう必要がある。
甲状腺手術の合併症として特徴的な問題は,術後出血,気管切開の管理,不測の反回神経まひなどである。
1)術後出血・頸部血腫甲状腺手術において,最も大きな合併症であり,対応を間違えると重篤な状況に陥る。多くの施設では,術後管理マニュアルの作成やスタッフ教育を行い,早期発見,早期手術を行える体制を整えているが,細心の注意を払っても,発生を完全になくすことは困難である。
当院でも過去10年間の甲状腺手術1,898例(2005~2014)中,術後出血症例を14例(0.74%)経験した。全例頸部血腫は軽度で,直ちに局所麻酔下に開創,ドレナージ,止血術を施行し大きなトラブルはなく,クリニカルパス通りに退院可能であった。
以下の早期発見・早期対応策が重要である。
① 術後頸部の注意深い観察:創部の大きなガーゼは観察を妨げるため,必要最小限の大きさにして,術後頻回に頸部腫脹の有無を観察する。
② ドレーンの観察:ドレーンは血腫予防には無効であるが,性状を観察するために有用である。
③ 頸部の痛みと呼吸困難感は必発であり,普段と異なる自覚症状は要注意である。
④ 頸部血腫を確認すれば,直ちに開創,ドレナージを行う。
2)気管切開の管理術後早期の気管カニューレ抜去は極めて危険であり,再挿入は困難なことも多い。緊急事態であるとの認識が必要である。気道確保が重要であり,気管挿管をためらうべきではない。気管カニューレ再挿入困難な状況で盲目的に無理やり挿入することは危険である。ベッドサイドで誰にでもできる処置として,気管切開部に摂子などを挿入し気道確保することも一法である。
気管カニューレ抜去はガーゼ交換,喀痰吸引,体位変換時に起こりやすい。当科ではカニューレ抜去防止のためカニューレのウイングと皮膚をナイロン糸で前後左右の4か所で固定している(図4)。甲状腺手術後に気管切開を必要とする患者は両側反回神経まひ,喉頭浮腫,高齢などの要素があり,カニューレ抜去は極めて危険であることをスタッフ全員が認識すべきである。

気管カニューレの皮膚固定(ナイロン糸で4針固定)
術前反回神経まひがある場合は,既に説明が行われておりトラブルにはならないが,術前反回神経まひがなく術中に腫瘍の反回神経浸潤が判明した場合は問題である。軽度の浸潤(EX1)であれば術後反回神経まひを生じるリスクは低いが,高度の反回神経浸潤(EX2)であれば鋭的剝離温存しても一過性反回神経まひを起す可能性がある。このような場合は,家族に手術室に入ってもらい状況を説明し,理解を得るのが重要である。実際の浸潤状況を見れば理解しやすく,説明も簡単である。「百聞は一見に如かず」と考える。
外来での検査結果説明は十分な時間をかけることが望ましいが,多忙な外来診療では説明不足に陥りやすい。細胞検査,画像診断などを説明し,時間をかけて家族とよく相談するように説明している。
従来,医療側から説明を行い患者側から同意をもらうインフォームド・コンセント(Informed consent)が重要とされてきたが,これからは患者の自己決定権(Informed decision)がより重きをなすと考えられる。
進行癌以外では,甲状腺癌の緩徐な発育を考慮すれば,外来での経過観察中にゆっくり考えてもらうのも一法であろう。病状についての十分な説明がなされず,また実際に説明を行ってもその記録が不十分であれば説明義務違反に問われかねない[5~7]。
一般市民の医療に対する理解と意識は「病気は治って当たり前であり,医療における失敗やミスは許せない」とするものが大多数であろう。しかしながら,治る病気と治せない病気があることも厳然たる事実である。
これまでの医療訴訟を見ると,裁判には法律の解釈など独自の論理がある。
医療訴訟で医療過誤による民事賠償が認められる条件は以下の3つであろう[8]。
① 患者に予期せぬ悪い結果が起こり,重大な障害があった場合
② 医療従事者などに過失や説明義務違反がある場合
③ 悪い結果と過失の間に因果関係が証明あるいは強く類推される場合
弁護士の力量と裁判における戦略が医療訴訟の勝敗を左右することは言うまでもない。
医療紛争やクレームの発端は些細なことが多い。トラブルの初期に適切な対応がされていれば防げていた事例が殆どである。診療経過中に予期せぬトラブルや合併症が起こってもその都度,状況説明と治療方針を説明していれば多くの場合は納得が得られるものである。
初期対応ミスを避けるための心得を以下に挙げる。
① 聞く力:傾聴する姿勢が重要である。相手の話を途中で話をさえぎってはいけない。聞く姿勢が誠意の表明である。
② 当事者による直接の面談:相手の希望に沿って速やかに面談し,誠意を表明することが重要である。担当医師(上司も含む),看護師,事務など複数の人間で対応し,記録を残す必要がある。
③ 迅速な対応:初期対応が最も重要であり,対応が遅いと評価されない。
④ 交渉技術:相手に誠意をもって対応することが重要である。歴然たる事実を隠ぺいすることは論外であるが,事実関係が不明確な場合に類推で話をするのは最悪である。相手を拒絶する印象を与える「ダメ」,「ノー」などの発言を控えることも交渉技術の一つである。
相手と会話する時の重要な要素として,視覚情報と聴覚情報の有用性を示したメラビアンの法則[9]が良く引用されるが,中江藤樹(1608~1648)は江戸時代に既に同様の教えを行っている[10]。
中江藤樹の教えの一つである「五事を正す」を以下に記す。
貌:愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接する
言:相手に気持ち良く受け入れられるような話し方をする
視:愛敬の心を籠めて人を見る
聴:話す人の気持ちに立って相手の話を聞く
思:愛敬の心を持って相手を理解し思いやりの心をかける
これまで各業界などで様々な事故防止対策やマニュアルが作られてきた。医療の世界でも航空業界や食品業界など異業種の取り組みを参考に対策を立ててきた。しかし,如何に事故原因の分析,対応,マニュアルなどを整備しても事故を完全になくすことは至難の技である。
医療組織や運用ソフトの充実より,優れた人材の養成と医療安全に対する意識の向上が重要である。スイスチーズモデルで事故が防止できるわけではなく,防御壁は優秀な人材であることを病院管理者,各部門の責任者が自覚することが最も大切である。
甲陽軍鑑[11]に記された武田信玄(1521~1573)の言葉とされる,『人は城,人は石垣,人は堀,情けは味方,讎(あだ)は敵なり』は現代にも通用する名言である。
あかね会土谷総合病院の医療安全に多大な貢献を戴いている上田澄恵医療安全対策室副室長ならびに伊美礼子同副室長に感謝申し上げます。