本論文では,日本の地方債市場における地方債スプレッドについての実証分析を行い,地方債市場の特殊性と透明性について考察を行う.本研究では暗黙の政府保証論とスプレッド推定モデルの構築の困難性に注目し分析を進める.スプレッド推定モデルの構築は,機械学習モデル(Random Forest Regressor)を用い,目的変数であるスプレッド水準に寄与している説明変数の特定を行う.また,説明可能なAI(XAI: eXplainable AI)のツールのひとつであり,変数の説明力における重要性や変数の関係性を検証可能なSHAPで分析した結果,スプレッド推定モデルで説明力の高かった財務変数は実質公債費率,将来負担比率,退職手当引当金であり,新型コロナウィルス感染症の影響があった2020年と2019年とを比較すると,地方債償還が財政運営に与えるインパクトを示す指標である実質公債費率と,職員の退職手当の支払いに将来必要と見込まれる金額を示す公会計上の負債項目である退職手当引当金の寄与度の順位が2020年に上昇したことが確認された.本稿で,スプレッドが公会計指標を含む複数の財政指標により左右されることや,特に影響の大きい指標を具体的に明らかにしたことは重要な発見である.これに加え,本稿で構築した高精度のスプレッド推定モデルは,財政学・会計学における研究はもちろん,実務界における活用可能性もあることから,将来の分野横断的な研究展開が見込まれる.
現代社会において,社会の発展のためには株式市場・債券市場などの金融市場の成熟は欠かせない.本論文では,市場規模の大きさや社会的な重要性を鑑み,日本の地方債市場についての分析を行う.具体的には,日本の地方債市場における地方債スプレッドについての実証分析を行い,地方債市場の特殊性と透明性について考察を行う.
わが国における2020年度の公募地方債市場の取引金額は,発行市場年間約7兆円,流通市場約12兆円に上り,世界有数の規模である.近年のマイナス金利政策による国債投資の優位性低下に伴い,より高い収益性確保が可能な地方債への投資を金融機関が拡大していることから,投資対象としての地方債の重要性が高まっている.さらに,地方債は地方公共団体の財源確保の主要な手段であり,地方財政運営上の重要性も極めて高い.
日本の地方債市場は日本の国債市場,社債債市場,米国の地方債市場と比較してリスク認識,取引慣行,データの取得可否などにおいて違いや特殊性が存在する.そのため,国内外の機関投資家にとって市場の透明性が十分には確保されていない可能性がある.また,主に社債市場で行われているような信用リスクの研究は,これら特殊性の存在のため,日本の地方債に対しては限定されているのが現状である.日本の地方債の具体的な特殊性として,以下が挙げられる.第1に,日本の地方債には,事実上国債と同リスクであるとする「暗黙の政府保証論」が存在する.総務省の見解においても,「地方債は,当事者間で合意した場合等を除き,当初の約定通り支払われるものであるというのが政府見解です.現行の地方債制度においては,地方財政計画の策定及び地方交付税の算定を通じて,元利償還に要する経費について所要の財源を確保します.」(総務省ホームページ「地方債Q&A」より)と説明されている.第2に,地方公共団体においては,従前から単式簿記・現金主義の情報開示が行われてきたものの,複式簿記・発生主義に基づく公会計の財務諸表(公会計財務諸表)の作成モデルが統一されていなかった.また,これらは各団体のウェブサイトに個別に開示されるのみであり,データベース化もなされていなかったことから,公会計財務諸表の情報(公会計情報)に関して,データ取得や地方公共団体間の比較が著しく困難であった.ただし,後述のとおり,この点については現在の状況は改善されつつある.第3に,公会計情報を含む各種の財務・会計データの地方公共団体の公表時期が統一されていないこと,第4に,発行体格付・銘柄格付ともに取得している地方公共団体数が少ない上に,取得した格付けも基本的に国債と同等であり差異がないこと,第5に,現在の市場環境ではスプレッドが非常に小さく,精度確保の点で信用リスクのモデル化が困難であることが挙げられる.この点については,近年の市場環境では社債においても同様の問題が存在するが,社債市場の場合は,下位の格付けでは幾分スプレッドが大きくなるのでモデル化しやすい状況も想定しうる.それに対し地方債のスプレッド水準は小さく,地方債モデルの精度確保の問題点はより顕著である.第6に,対国債スプレッドの変動のうち,国債イールドの変動分がそのほとんどを占めてしまい,対国債スプレッドを目的変数とした分析が機能しにくいという課題がある.特に,現在の市場環境では地方債のイールド水準が非常に小さく,年限10年以下の国債スプレッドは現在マイナスであることが多い.これらの課題や特殊性は,その多くが社債市場にはみられないものであり,地方債の信用リスク分析の困難性の要因となっている.
地方債市場に関連する学術研究分野は会計学,財政学,ファイナンスの3つの領域に大別され,会計学においては公会計財務諸表と地方債の格付けとの関連性に係る研究,財政学分野では財政情報等が地方債市場に対して与える影響などの研究,ファイナンス分野では債券市場の信用リスク評価に係る研究などが行われている.本章では,上記3つの領域の先行研究のうち,本稿の主題に関連の深いものについてレビューを行う.
地方債のスプレッド推定モデルの構築に関する研究は主に米国で進展している.米国における地方公共団体の財務健全性とリスクプレミアムの関係性について, Goldstein,and Woglom(1991)は,地方公共団体の債務と地方債のイールドの関係について分析を行い,債務が多いほど高イールドとなることを明らかにした.流動性リスクについて考察を行った研究として, Wang,Wu,and Zhang(2008)では,説明変数に流動性リスクプレミアムを用いて地方債のイールド推定を行っている.Schwert(2017)は,米国地方債の対国債スプレッドを構成するリスク要因をデフォルトと流動性に区分して分析し,その結果,デフォルトがリスク要因の約80%を占めるとの結論を得ている.また, Downing and Zhang(2004)では,地方債の流動性と価格ボラティリティに正の関係を示した.格付けを用いた研究では, Capeci(1991)は地方債の格付けとスプレッドを対象とした信用リスクを財務指標により分析している.また, Liu and Thakor(1984)では説明変数に格付けを用い,地方債のスプレッドとの関係分析を行っている.その他の関連研究として, Harris and Piwowar(2006)は,地方債のトレーディングコストの推定を行い,価格の透明性の欠如を指摘している.また, Novy-Marx and Rauh(2011a,2011b)は,米国の地方公共団体の中には年金資金の不足で財政状況が悪いにもかかわらず,発行されている地方債スプレッドは同格付けの地方公共団体と同水準であるという市場のゆがみを指摘している.
わが国においては,地方債の対国債スプレッドに関する研究は主に財政学の分野で行われてきた.具体的には,2007年に制定された「地方公共団体の財政の健全化に関する法律」に基づき総務省が公表している「実質公債費比率」や「将来負担比率」等の既存の財政指標(既存指標)とスプレッドの関連性に関していくつかの分析がなされている.最近の研究では,石田・中里(2019)は,わが国における地方公共団体の複数の既存指標が対国債スプレッドに対して有意な影響を与えることや,ある団体の既存指標の悪化は他の自治体の対国債スプレッドに負の影響を与えることを明らかにした.その他に田中(2012)や中里(2008)などにより,既存指標が対国債スプレッドに有意な影響を与えていることに関しては概ね合意が得られている.また, Hattori and Miyake(2015)では パネルデータを用いて地方公共団体の財務健全性と地方債のスプレッドの関係について分析を行っている.三宅(2017)では,地方公共団体の財務状況や流動性指標(売買参考統計値最高値と最低値の差)と地方債のスプレッドの関係について分析を行い,有意な結果を得られなかったという結論を得ている.石川(2007)では,地方公共団体の財務指標,及び有効求人倍率のマクロ指標を説明変数とし,対国債スプレッドを目的変数としてモデルを構築し,有意な結果が得られている.わが国においては,国が暗黙のうちに地方公共団体の債務を保証しており,地方債と国債が事実上同リスクと見なされる「暗黙の政府保証論」の存在が言及されている(井潟・三宅(2007)).これに加え,津田・渡辺(2013)は,地方公共団体が資金調達のために発行した地方債の価格評価モデルを社債価格評価モデルに準拠した方法により推定し, そのモデルを通じて各地方公共団体の信用リスクを推定している.近年においては,原口,丹波(2021)では,地方債市場に対する会計学の意思決定有用性を主なテーマとして,会計学・ファイナンス・財政学領域の先行研究のレビューから,リサーチクエスチョンの具体化を行っている.このように,わが国においても地方債の対国債スプレッドは主に財政学領域にて重要なテーマとして取り上げられ,既存指標との関連性に関しては多くの言及がなされているものの,ファイナンスの観点から信用リスク分析に焦点をあてた研究の数は少なく,とりわけ,近年の市場の分析はごく少数である.また,説明変数に公会計財務諸表から算出した指標(公会計指標)を取り入れた研究はこれまでなされていない.
2.2 本研究の目的上述したとおり,日本の地方債市場の特殊性として,暗黙の政府保証論の存在,データの取得困難性と比較困難性,信用リスクモデル構築の困難性などが挙げられた.その中で,近年総務省により後述の「統一的な基準」が公表され,さらに「統一的な基準による財務書類に関する情報」としてデータベース化がなされ,総務省ウェブサイトにて公表されるなど公会計情報に関するデータ整備が進められたことなどから,データの取得と比較困難性に関する課題の一部は解消されつつある.しかし,日本の地方債市場には未だ課題が残る.本研究の目的はこれらの課題に関して信用リスク分析の観点から検討を行い,新たな知見を獲得することである.具体的には,特に暗黙の政府保証論とスプレッド推定モデルの構築の困難性に注目し分析を進める.
両者に注目する理由は下記のとおりである.まず,暗黙の保証論に関して,日本において地方債がデフォルトした場合の損失補填は法律上明文化されていないが,制度背景や総務省の見解にもみられる通り,元本は実質的に保証されており,地方債のリスクは国債と事実上同リスクであるとの解釈が成立しうるのは前述のとおりである.投資家側が地方公共団体間の信用リスクの差を意識している場合には,政府見解との認識に乖離が生じ,市場の透明性が確保されない可能性があるため,この点は地方債市場の課題の中でも特に重要と考える.
次に,スプレッド推定モデルに関して,スプレッドが低水準である現在の地方債市場の分析を進めるためには高精度のスプレッド推定モデルの構築が不可欠となるが,従来の重回帰モデルでは精度上の限界が生じるため,より高精度の手法を検討する必要がある.高精度の地方債スプレッド推定モデルは,信用リスク分析のみならず,財政学や会計学の議論においても強く必要とされるもので,分野横断的な活用可能性があることから,その開発に対する期待は大きい.これに加え,2020年前半は新型コロナウィルス感染症の影響で金融市場が大きく混乱し,地方公共団体による公的財政支出も拡大し始めた時期であり,これらが推定モデルにもたらす影響の検証も重要な課題となる.
以上の課題認識から,本稿の問題意識を「高精度のスプレッド推定モデルをどのように構築するか.また,地方公共団体間のスプレッドの高低の差が実際に存在する場合,どのような要因を投資家は明示的,あるいは潜在的にリスクとして意識しているか.」と設定する.スプレッド推定モデルの構築には,近年実務界でも注目されており,柔軟で高精度なモデル構築が可能とされている機械学習を用い,目的変数であるスプレッド水準に寄与している説明変数の特定を行う.説明変数には流動性リスクの代替変数を含める必要があるが,これまでわが国の地方債市場を対象とした流動性リスク指標は取引高データの取得が困難なこともありほとんど議論されていないため,本稿では流動性リスク指標の開発の試行も行う.機械学習モデルの課題としてモデルの解釈が困難なことが挙げられるが,本稿では,これを解決するため,説明可能なAI(XAI: eXplainable AI)のツールのひとつであり,変数の説明力における重要性や変数の関係性を検証可能なSHAPを活用する.さらに,新型コロナウィルス感染症の影響検証のため,当該影響の発生前の2019年と発生後の2020年をそれぞれ対象期間としてモデル構築を行い, 結果を比較することにより,地方債の信用リスク環境や評価に係る変化の有無について考察を行う.これにより,これまで乏しかった地方債の信用リスク分析研究の知見が蓄積されるとともに,実務における地方債投資のリスク管理への問題提起を行うことができると考えている.
説明変数の候補として,先行研究で影響が指摘されている「実質公債費比率」「将来負担比率」等の既存指標や総務省公表資料のうち,地方公共団体の財政状況評価資料として一般に用いられる「地方財政状況調査関係資料(決算統計)」データを使用する.
これに加え,本稿では前述の複式簿記・発生主義に基づく公会計情報も説明変数候補に加える.わが国の地方公共団体は,長きにわたって単式簿記・現金主義に基づく会計制度により運営されてきたが,総務省が2015年に示した「統一的基準」に基づき,今日では,多くの地方公共団体が複式簿記・発生主義に基づく公会計情報を公表している(総務省(2020)).2019年現在,ほとんどの地方公共団体は統一的基準モデルに基づき公会計財務諸表を公表しており,2019年3月31日時点で,1,788の地方公共団体のうち1,695団体が統一的基準による公会計財務諸表の作成を完了している(総務省(2019)).作成モデルの統一は,統一的基準の導入で大きく進展し,公会計財務諸表の比較可能性を向上させ,総務省がこれらのデータを「統一的な基準による財務書類に関する情報」(総務省データベース)としてホームページに掲載したことで,公会計情報の比較分析は導入前と比べて著しく改善された.市場がこの公会計情報をどのように評価しているか(あるいは評価していないか)は,信用リスク分析の観点からはもちろん,会計学上も重要な論点となり得るため,モデルに追加するものである.
3.2 分析データユニバース本分析では金利情報の取得のために債券分析データベース・ソフトウェア「イールドブック」を使用し,2019年4月15日から2019年5月31日までの期間,及び2020年4月1日から2020年5月29日までの期間を分析対象とする.データ取得が可能な地方債銘柄を対象とし,当該期間における日次ベースの地方債イールドデータを使用する.4月から5月のデータを使用しているのは,4月から5月は地方自治法に定められている地方公共団体の出納整理期間にあたり,いかなる財務指標も新規公表しない期間であるため,決算公表時期がまちまちである各地方公共団体の情報開示がスプレッドに対して与える影響を排除でき,年度ベースで公平に評価できると考えるためである.2020年初頭には新型コロナウィルス感染症の影響により,2020年3月に大きな市場の混乱が見られ,図1のとおり地方債市場においても2019年に比べ2020年のスプレッド平均値の標準偏差がやや高く(2019年:0.0003%,2020年:0.0008%),2020年4月と5月はある程度の市場の混乱が続いていた時期であったと思われる.したがって,2019年と2020年とをそれぞれ分析して対比することにより,上記感染症の影響を検証することとする.2019年データを4月15日以降としているのは,「イールドブック」では2019年4月15日以前のデータが取得できないという制約による.また,データサンプル数確保の観点から,プライマリーマーケットよりも多くの銘柄データを確保できるセカンダリーマーケットを分析対象とする.データ整備の結果,公会計情報等を全て入手可能であった49地方公共団体に係る143,020銘柄の地方債データに関して,対応するスプレッドを目的変数とし機械学習モデルにより推定する.スプレッド推定モデルへの適用においては,8割を学習データとし,うち学習データ114,416銘柄,テストデータ28,604銘柄とする.(表1)
図1 対東京都債スプレッド平均値の推移
表1 分析サンプル数
本節では,機械学習モデル構築における変数の作成方法について述べる.社債等の研究においては, イールドそのものの水準が市場環境に大きく左右されるため,無リスクと考えられる国債を基準とした対国債スプレッドを目的変数に用いることが多い.しかし,2016年から実施されている日本銀行のマイナス金利政策により,統一的基準に基づく公会計情報が本格的に公表され始めた2019年4月以降においても,主に残存年限10年以下の年限で国債金利はマイナスの値を取ることが通常となっている.一方,地方債のイールドは低水準のプラス値をとるため,対国債スプレッドはその大部分が国債金利のマイナス幅が占める.このため,対国債スプレッドは地方債イールドの変動よりもむしろ国債イールドの変動の影響を大きく受けてしまうので,地方債の信用リスク分析を行う際には有効に機能しない(原口・丹波(2021)).この状況を鑑み,本稿では,地方債の中で最もリスク水準が低いと見込まれる地方債の1つである東京都債をベンチマークとし,各銘柄と東京都債とのスプレッド(対東京都債スプレッド)を目的変数に採用する.スプレッド測定のためには,各地方債銘柄と同一残存年限の東京都債のイールド情報が必要となるが,異なる団体の同一残存年限の銘柄が存在することは稀であるため,東京都債をスプライン補間してイールドカーブを算出し,任意の残存年限の東京都債のイールドを導出しスプレッドを計算する.
モデル化に使用する説明変数は,地方公共団体の公会計情報,主要財政指標,決算統計などの各種指標,地方債市場データ,個々の地方債銘柄の属性データなど45変数である.スプレッド推定モデルに使用する目的変数と試行した説明変数の一覧は表2のとおりである.
表2 目的変数と試行した説明変数一覧
流動性リスクを表す変数として,同一取引日における各団体のイールド取引値データの最高値と最低値の差,日本証券業協会に取引値データを提出した証券会社数,スプレッドデータから計算される標準偏差の3つを試行し,モデルにおける説明力を確認しながら最終的な変数の採択を検討する.スプレッドの標準偏差は2019年と2020年の各年について,各地方公共団体の年限が0.5年刻み(0年超0.5年以下,0.5年超1年以下,以下同様)の範囲に入るデータの標準偏差を算出することにより求める.区分内のサンプル数が10未満のデータは計430サンプル存在するが,標準偏差値の信頼性が低下するため,データユニバースから削除する.分析対象とする4月及び5月は,財務指標が新規公表されない期間であるため,スプレッドの標準偏差が大きいということは,ファンダメンタルズ以外の流動性や市場要因により取引スプレッドが変動していると考えられる.一般的にはスプレッドの標準偏差が大きい銘柄は流動性リスクが高く, 標準偏差が小さい銘柄は流動性リスクが低いと考えられるため,スプレッドの標準偏差は流動性リスクの代替変数として解釈することができる可能性がある.図2と図3に,それぞれ島根県と札幌市の個別地方債銘柄の対東京都債スプレッドを残存期間ごとにプロットした例を示す.これらの図を見ると,各地方債のスプレッドは一定の残存期間の間隔ごとに線状の塊(日次データの集合)として分布していることがわかる.これは,地方公共団体が一定期間ごとに年単位の償還期限を持つ地方債を発行しているケースが多いことによると考えられる.スプレッドの標準偏差は0.5年刻みのデータごとに計算されるため,下図の例では線状の各塊のデータから計算されることになる.これらの図から,異なる団体間ではスプレッドのばらつきが異なることや,同団体内のスプレッドでも年限によりばらつきの差異が生じていることが目視でも確認できる.すなわち,本プロットからは,団体間の流動性の差異と年限による流動性の差異の存在可能性が示唆される.
図2 島根県の各年限スプレッド
図3 札幌市の各年限スプレッド
日本においては地方債のデフォルト実績がなく,デフォルトサンプルを利用したデフォルトモデルを構築できないため,本稿では信用リスクの定量化としてスプレッド推定モデルによる分析を行う.複数の機械学習モデルによりスプレッド推定モデルを構築し,最も説明力の高い機械学習モデルを選定する.その際,説明力の高い説明変数の絞り込みを行いながら,説明力を維持できる最少の説明変数を決定する.
各機械学習モデルの説明力を比較すると,学習データでの決定係数(R2)は下表3の通りとなり,一番説明力の高いモデルは,rf(Random Forest Regressor)で,説明力は約96.1%であることが確認される.また,表4は2019年,2020年各データにおける各機械学習モデルの説明力を比較した結果である.合算データ同様一番説明力の高いモデルはrfで,説明力は2019年が約97.7%,2020年約94.6%である.テストデータでの決定係数もそれぞれ同程度(合算:約96.5%,2019年:約97.6%,2020年:約95.1%)の水準であることが確認され, 2020年は他の分析と比べると若干低いものの,高い説明力が維持されている.Random Forest Regressorのパラメータ設定は表5の通りである.
表3 2019年,2020年合算データにおける各機械学習モデルの説明力比較
表4 2019年,2020年の各年データにおける各機械学習モデルの説明力比較
表5 Random Forest Regressorのパラメータ設定
Random Forest Regressorによる各変数の説明力は図4で示される.SHapley Additive exPlanations(SHAP)は,予測値に対する各特徴量の貢献度を図により可視化できる手法である.SHAPはモデル解釈の一部を可能とするツールとして有効であると考えている.一般的に,機械学習モデルは線形回帰などの手法に比べ説明力の高いモデル構築が可能であるが,モデルの解釈が困難であることが分析の目的によっては大きな課題となることもある.特に金融の分野では,機械学習の分析において,モデルの解釈を行うことは分析の内容をブラックボックス化させないという観点で非常に重要な場合が多い.SHAPは協力ゲーム理論における複数プレイヤーの協力によって得られた利得を各プレイヤーに公正に分配するための評価手法の一つであるシャープレイ値(Shapley Value)を機械学習に応用したものである.シャープレイ値の計算には,ある特徴量の値の増減が目的変数に与える影響を考慮するため,データの組み合わせを考える必要があり,計算量が膨大になるというデメリットが存在する.SHAPでは,計算量の軽減のため,シャープレイ値を近似的に計算できるよう工夫している.特に, Lundberg et al.(2020)がNature Machine Intelligenceに掲載されて以降, SHAPは自然科学のみならず社会科学の分野においても説明可能なAIにおいて有効なツールの1つとして利用され始めている.
図4によると,概ね符号は理論上整合的となっていることが確認される.特に説明力の高い財務変数は,健全化法に基づく実質公債費率(jissitsu),及び将来負担比率(syourai),統一的基準に基づく公会計財務諸表上の負債項目の一つである退職手当引当金を人口で除したもの(popretirement)であることがわかる.(表6)クーポン(COUP)は発行時の市場環境で変動すると考えられるが,その後のスプレッド水準にも影響を与えていることが示唆される.つまり,スプレッド算出に使用されるイールドはクーポン収入も加味された収益率であるため,クーポンの大小によってその後のスプレッドに影響を与えるのは合理的でないとも考えられるが,投資家が定期的に得られるクーポン収入を好む可能性がある.また, 発行高(ISSAMT)は概ね地方公共団体の規模を表していると考えられ,特に規模が小さい地方公共団体の銘柄の中には,スプレッド増大へのインパクトが大きいものがあることが確認される.残ったスプレッドの標準偏差(sd)に関して,スプレッドの標準偏差が大きいとスプレッド自体も大きくなる傾向があることは解釈上整合的である.一方,スプレッドが小さい領域で符号が反転していることがわかる.この反転は,残存年限が短くなった長期債と短期債のスプレッドの差異に起因する可能性がある.具体的には,両者が同一の年限区分(残存年限0.5年ごとの区分)に含まれていた際に,ごく一部の銘柄群(1,000銘柄程度)において双方のスプレッド水準が乖離し,標準偏差を引き上げているケースが散見された.これらのケースでは,残存年限が短くなった長期債のほうが,ほぼ同一の残存年限の短期債よりもスプレッド水準が小さく,結果として標準偏差が大きくなることから,スプレッドが小さい領域で標準偏差の符号が反転する一つの要因となっている.この問題を改善するには,説明変数に発行年月日を追加するなどの対応が考えられるが,今後の課題としたい.
図4 2019/20年合算データでのSHAP値
表6 説明力の高い変数リスト
※SHAP値:各変数がその予想にどのような影響を与えたかを算出するもの.横軸が目的変数への寄与度の大きさ,縦軸が特徴変数の貢献度の高さを示し,上位表示の特徴変数ほど目的変数への貢献度が高いことを示す.赤は説明変数が正の値を,青が負の値をあらわす.
例. jissitsuはjissitsuの値が小さくなる(青)ほど目的変数への寄与度が小さく(左側)なり,jissitsuの値が大きく(赤)なるほど目的変数へ寄与度が大きく(右側)なる.つまり,jissitsuは目的変数と正の関係があることがわかる.
図5,図6は2019年,2020年のそれぞれ単年データでのモデル構築の結果である.合算データでの結果と比べると,変数の説明力に関する寄与度の序列の入れ替わりが確認される.図中上位に位置する寄与度の高い上位2変数は,残存期間(YRSTOMAT)と実質公債費率(jissitsu)であるが,2020年では実質公債費率(jissitsu)の寄与度が最も高い.実質公債費率は,地方債による借入金の返済額およびこれに準じる額の大きさを指標化したものであり,新型コロナウィルスの影響がある2020年に寄与度がより上位になっていることが確認される.その他には,2020年には将来の負債である退職手当引当金(popretirement)も寄与度上位3番目に上昇していることがわかる.推測の域ではあるが,新型コロナウィルス感染症の市場への影響のあった2020年においては,これら地方公共団体の将来にわたる財政的負担が地方債スプレッドに対してより大きな影響を与え,両変数の順位が上昇した可能性がある.
図5 2019年データでのSHAP値
図6 2020年データでのSHAP値
次に,各年限における各地方公共団体の地方債の実績平均スプレッドを計算し比較する.例えば,年限2.5年超7.5年以下の平均スプレッドを比較すると,スプレッド水準が0.01%超である地方公共団体として札幌市,山梨県,大阪府,兵庫県,北海道,北九州市が挙げられる.図7は 年限7.5年超12.5年以下と年限12.5年超17.5年以下の各地方公共団体の地方債の実績平均スプレッドを表し,平均スプレッドが0.015%超の地方公共団体として大阪府,兵庫県,北海道が挙げられる.
図7 年限7.5年超17.5年以下の平均スプレッド
Random Forest Regressorにより残った説明変数のうち,地方公共団体の財務状態を示す変数は,実質公債費率,将来負担比率,退職手当引当金であることが確認された.前節の分析で実績平均スプレッドが高かった大阪府,兵庫県,北海道におけるこれら変数の水準を表7で確認している.各団体の2017年度の財務状態について,全地方公共団体中の平均からの乖離(σ)と順位(RANK)を一覧化したものである.スプレッド推定モデルで説明力の高いこれらの変数は,大阪府,兵庫県,北海道で高い水準であり,他都道府県のみならず,全地方公共団体と比べても非常に悪い状態であることが確認できる.
表7 実質公債費率,将来負担比率,退職手当引当金の比較
σ:各指標の数値が全地方公共団体中の平均から何標準偏差分乖離しているか.
Rank :各指標の数値が全地方公共団体中悪い方から何番目に当たるか.
※「全地方公共団体中」は実質公債費比率と将来負担比率は1,788地方公共団体中,退職手当引当金比率は1,699地方公共団体中,「都道府県中」RANKは47都道府県中.
本章では,スプレッド推定モデルによる推定値が実績値から特に外れている地方債銘柄について原因の分析を行う.表8はスプレッド実績値とスプレッド推定モデルによるスプレッド推定値の差が0.01%超の地方債銘柄を,乖離幅が大きい順に並べたリストである.スプレッドの乖離幅が0.01%超の地方債銘柄は8銘柄である.また,表9はスプレッド乖離幅が0.01%超の銘柄と,同地方公共団体発行で残存年限がほぼ同じ地方債銘柄のデータを表している.例えば,銘柄番号1の大阪府の地方債について,スプレッド推定モデルに使用した説明変数の値が近い銘柄は1aと1bの2銘柄存在する.1と1aと1bのデータを比較すると,説明変数の値がほぼ同じで,唯一違うのは銘柄の残存年限であり,1aとの差は0.06年,1bとの差は0.04年である.1aと1bのスプレッドの実績値は0.015%程度であるのに対し,銘柄1の実績スプレッドはマイナス0.002%である.このため銘柄1のスプレッド推定値は0.013%と1aと1bに近い推定値が算出されている.つまり,同じようなデータの銘柄が3つある場合,他の2つの銘柄に近い推定値が算出されていることが分かる.次に,銘柄番号2,4,5は山梨県の地方債である.これらの銘柄は残存年限が1.7年前後の銘柄であるが,スプレッドの実績値が0.12%から0.15%であるのに対して,推定値は0.14%前後となっている.銘柄1と同様の理由で,これらの銘柄についても説明変数のデータが非常に近い銘柄が複数存在した場合,それらの銘柄の実績スプレッド値に非常に近い推定値が算出されるケースがあることが確認できる.その他の銘柄についても同様で,説明変数の値がほぼ同じ水準の他の銘柄の実績スプレッド値に近い推定値が算出された場合に,比較的大きな乖離幅となることが確認できる.これは, Random Forest Regressorモデルの柔軟性により発生していると考えられ,表8の推定値の乖離を改善するには,さらに説明変数を増やすことで多くの情報を使用する必要があると考える.この点はモデルの説明力をどこまで改善するかという観点と計算時間やモデルの複雑性とのトレードオフであると考える.
表8 スプレッド乖離幅が0.01%超の銘柄
表9 スプレッド乖離幅が0.01%超の銘柄と属性が近い銘柄
本稿では,新型コロナウィルス感染症による影響が発生する前後の期間をデータ対象期間(2019年4-5月,2020年4-5月)として,我が国の地方債市場の信用リスク分析を行った.具体的には,Random Forest Regressorにより機械学習モデルを構築し,さらに変数の関係性と重要性を検証可能とする技術SHAPを用いてモデル解釈を行った.分析の結果,機械学習のスプレッド推定モデルはいずれの年度のデータセットに対しても有効に機能し,例えば,2019年2020年の合算データに関する説明力は96%程度と非常に高い値を示した.地方債スプレッドに対する説明力が高かった財務変数は実質公債費率,将来負担比率,退職手当引当金であり,その他の変数では残存年限,当初発行高対数,クーポン,流動性代替指標としての可能性があるスプレッドの標準偏差であることが明らかになった.これらの中で特に説明力が高かったのは残存年限と実質公債費率であった.新型コロナウィルス感染症の影響があった2020年と2019年とを比較すると,地方債償還が財政運営に与えるインパクトを示す指標である実質公債費率(jissitsu)と,職員の退職手当の支払いに将来必要と見込まれる金額を示す公会計上の負債項目である退職手当引当金(popretirement)の寄与度の順位が2020年に上昇したことが確認された.
さらに,実質スプレッド水準が相対的に高い大阪府,兵庫県,北海道について,スプレッド推定モデルで説明力の高かった実質公債費率,将来負担比率,退職手当引当金の各財務変数を調査すると,これらの水準は他の地方公共団体に比べ高く,スプレッド推定モデルの結果と整合的であった.
従来,わが国における地方債は国債と事実上同リスクとする見解(暗黙の政府保証論)も主張され,信用リスク分析を行う研究は限定的であった.本稿にて,新型コロナ感染症の影響が生じた時期を含むデータ期間を分析対象とし,スプレッドが公会計指標を含む複数の財政指標により左右されることや,特に影響の大きい指標を具体的に明らかにしたことは重要な発見である.これに加え,本稿で構築した高精度のスプレッド推定モデルは,財政学・会計学における研究はもちろん,実務界における活用可能性もあることから,将来の分野横断的な研究展開が見込まれる.一方,本稿の分析の分析対象期間は2年間のうちの4ヶ月分のデータによる検証結果であり,新型コロナウィルス感染症の影響が発生した特別な時期を含む期間でもあるため,モデルの安定性検証のためにはさらに長期のデータを用いた分析が必要であると考えている.そのために, 長期データにおける信用リスクを表す重要な財政指標や市場指標の特定,構築モデルの説明力の検証,地方公共団体間の信用リスクの差の検証をさらに進めていく.
これを発展させ,投資銘柄により地方公共団体間で恒常的な収益性の差が生じているかについて引き続き分析を進め,その要因分析を行うことにより,地方債の効率的な投資戦略についての考察も進めていく予定である.
本研究は科学研究費補助金(JSPS KAKENHI Grant Number JP19K23214, JP20K02058, JP21K13412),日本経済研究センター研究奨励金および一般財団法人ゆうちょ財団(2022年度)の研究助成の交付を受けて行ったものである.また,ロンドン証券取引所・FTSEグループThe Yield Book Inc. には,債券分析ソフトイールドブックを通じて効率的な分析ツールと貴重なデータを提供いただいた.この場を借りて御礼申し上げたい.