MEDIA, ENGLISH AND COMMUNICATION
Online ISSN : 2436-8016
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2026 Volume 16 Pages 59-82

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研究論文

MEDIA, ENGLISH AND COMMUNICATION, No.16   

2026 The Japan Association for Media English Studies

『クレイマー、クレイマー』におけるマンスプレイニングの会話分析

―テッドが抱えるミソジニー―1

稲永 知世(佛教大学)

Abstract: This paper aims to examine the mansplaining practiced by the protagonist Ted Kramer in the movie Kramer vs. Kramer, as well as the misogyny underlying this practice. To achieve this aim, the paper employs conversation analysis (Sacks, Schegloff, and Jefferson, 1974, etc.) as its analytical framework and analyzes the interactions depicted in the movie between Ted and two women: his ex-wife Joanna Kramer and her friend Margaret Phelps. The analysis reveals that when Ted engages in mansplaining, he tends to initiate adjacency pairs that diverge from the ongoing flow of conversation, overlap his utterances with the others, and interrupt them, thereby depriving them of their right to talk. Furthermore, grounded in misogyny, Ted continues mansplaining toward Joanna, who embodies feminist values and resists patriarchy. In contrast, he stops mansplaining toward Margaret, who has internalized misogyny, instead assigning her the roles of “good mother” and “saintly woman” within the patriarchal system.

Keywords: Kramer vs. Kramer, mansplaining, conversation analysis

1. はじめに

 1979年に公開された映画『クレイマー、クレイマー』(原題Kramer vs. Kramer;以降、『クレイマー』) は、従来「非イクメンであった男性が、反省をしてイクメンへと成長する物語」(河野, 2022, p. 254) に位置づけられ、主人公テッド・クレイマー (Ted Kramer) と息子ビリー・クレイマー (Billy Kramer) の関係の変化に焦点を当てられることが多かった2。しかし、Papke (1995, p. 1200) が指摘するように、当該映画の中心的テーマは、ビリーの親権をめぐるテッドと元妻ジョアンナ・クレイマー (Joanna Kramer) の争いにある3。したがって、当該映画を考えるうえで、テッドとビリーの父子関係だけでなく、テッドとジョアンナの夫婦関係にも注目する必要がある。

 では、テッドとジョアンナの離婚の原因は何だったのか。二人の離婚の背景にはさまざまな要因があると考えられるが、その一つとして、二人の対話の不足、そしてその原因となるテッドがジョアンナの相談について取り合わないという姿勢を挙げることができる。当該映画は、ジョアンナが家を出ようとする場面から始まる。彼女を引き留めるため、テッドは、“I just want to talk.”と発話し、妻と対話する (“talk”) 意志を提示する。この場面では、テッドが妻との対話を試みようとしているように見える。しかし、これまでテッドが本当にジョアンナと対話をしてきたのかというと、そうではない。ビリーの親権を争う裁判の場面において、ジョアンナは代理人弁護士から結婚後の就業継続の意思があったのかについて問われた際 (第4章を参照)、テッドに相談しても、彼女の考えを聞いてくれなかったこと (“…every time I talked to Ted, to my ex-husband about it, he wouldn’t listen.”)、彼女の考えを聞く代わりに、彼女の状況を一方的に説明する行為を遂行していた (“…he said that I probably couldn’t get a job that would pay enough to hire a babysitter for Billy.”) と返答する。ここから、ジョアンナが求めていないにもかかわらず、テッドがマンスプレイニング (mansplaining)、「女性の側が説明を求めているわけでもないのに男性が上から目線で説明する振る舞い」(三木, 2024a) を実践していた可能性があると言える。

 しかしながら、管見の限り、『クレイマー』におけるテッドのマンスプレイニングを分析対象とする研究は見当たらない (第2章を参照)。そこで、本稿は、テッドがジョアンナにマンスプレイニングを実践していた可能性があるのではないかと想定し、二人の相互行為を分析する。また、テッドは、ジョアンナの友人マーガレット・フェルプス (Margaret Phelps) をジョアンナと同じ価値観を共有する存在 (“Sisterhood.”) とみなし、マーガレットが彼女の家出をそそのかしたと考えている (4.2節を参照)。そこで、本稿は、テッドとマーガレットのやりとりにも注目する。

 さらに、近年の言語哲学研究では、女性が主体的役割を果たすことを認めないミソジニー (misogyny)4が、マンスプレイニングの背景を捉えるうえで重要な概念として位置づけられている。Johnson (2020) 等では、マンスプレイニングが生じる要因やその問題性について研究が進められ、その根底にミソジニーが存在することが示されてきた (2.2節を参照)。しかし、マンスプレイニングをミソジニーの表出として捉えるだけでは、それが相互行為のなかでいかに組織化されているのかを十分に明らかにすることはできない。

 また、「女性ならみんな私が意味することを知っている」現象であると言われているように (2.2節を参照)、マンスプレイニングは、単なる個別的な発話行為ではなく、女性の発話や知識を周辺化する相互行為的実践として現れる。こうした実践は、偶発的な発話として生じるのではなく、話し手と聞き手のあいだの相互行為のなかで、一定の規則性をもって組織されると考えられる。そのため、女性たちは、個々の場面を超えて、ある発話を「マンスプレイニング」と理解することができる。したがって、マンスプレイニングを理解するためには、それがどのような社会的背景から生じるのかだけでなく、女性の発話や知識の周辺化が会話のなかでどのような手続きによって実現されるのかを明らかにする必要がある。

 しかし、マンスプレイニングがどのような手続きによって遂行されるのかを、会話分析の観点から検討した研究は多くない。Joyce et al. (2021) は参与者が先行する一連の発話をマンスプレイニングとしてカテゴリー化する実践を分析しているが、マンスプレイニングの産出過程そのものについては必ずしも十分に明らかにしていない。そこで、本稿はマンスプレイニングを女性の発話や知識を周辺化する相互行為的実践として捉え、この実践が会話のなかで具体的にどのように組織化され、遂行されるのかを検討する。その分析において、会話分析 (conversation analysis, 以降CA; Sacks, Schegloff, & Jefferson, 1974等) は、発話の順番や連鎖、参与者間の応答関係に着目し、マンスプレイニングが相互行為のなかでどのように組織化されるのかを明らかにするための有効な分析枠組みとなる。

 こうした課題を検討するためには、映画やドラマをデータとして用いることが考えられる。自然談話においては、マンスプレイニングの生起をあらかじめ予測することは難しく、その場面を録音・録画し、分析に十分な数の事例を収集することは容易ではない。その点、映画やドラマでは、マンスプレイニングとして解釈可能な相互行為が生じる場面を繰り返し観察することができる。そのため、映画やドラマは、マンスプレイニングが相互行為のなかでどのように組織化されるのかを分析するための有効なデータとなりうる。

 最後に、『クレイマー』は、単なるイクメンへの成長物語にとどまらず、「一種のミソジニーの物語にもなっている」 (河野, 2022, p. 256) ということが指摘されている (2.1節を参照)。本稿は、この見解を踏まえ、テッドによる二人の女性に対するマンスプレイニングが、『クレイマー』が一種のミソジニーの物語になっている要因の一つであると考える。第5章で示すように、テッドはジョアンナに対するマンスプレイニングは継続させるものの、マーガレットに対するマンスプレイニングは見られなくなる。本稿は、この振る舞いの違いが、テッドのミソジニーだけでなく、マーガレットによるミソジニーの内面化とも関連していることを主張する。

2. 先行研究

2. 1 映画『クレイマー、クレイマー』

 『クレイマー』研究では、当該作品に内在するアンチフェミニスト的価値観やミソジニー的表象が繰り返し指摘されてきた。しかし、その多くは、作品の物語構造や表象を対象とした文学・文化研究的分析である (McMullen, 1996; Seiter, 1983, 1986; Tyler, 2007; 河野, 2022; 河野・西口, 2024; 関口, 2017, 2023 等)。とくに、海外の研究では、1980年以降、当該映画がフェミニズムへの反発や女性の排除の論理を内包していることが論じられている。たとえば、Seiter (1986) は、Seiter (1983) をもとに、『クレイマー』を含む1970年代以降にアメリカのメロドラマを、家庭の外で働く女性を罰することにより保守的でアンチフェミニスト的価値観を具現化していると批判する。また、McMullen (1996) は、Seiter (1986) と同様、『クレイマー』のアンチフェミニスト的価値観に言及しつつ5、同作の修辞学的意味をアメリカン・ドリームに共存する二つの強力な神話 (道徳主義と物質主義) の観点から考察する。そして、同作が男性にとっての物質主義と道徳主義の肯定的な統合を想定する一方、女性をそこから排除していると主張する (pp. 35-36)。

 日本国内で『クレイマー』のイクメン物語以外の要素にも注目が集まるようになったのは、2010年代頃からである。関口 (2017) は、20世紀後半のアメリカにおける「イクメン」の文化的表象とその歴史的背景を批判的に検討する。その結果、関口は、イクメン言説が新自由主義と結びつき、イクメンが選択の結果として生じるものと理解されることで、このような選択ができるのは一部の男性に限られるにもかかわらず、「『イクメン』の文化的表象がそのような現実を覆い隠し、『自己責任』の名のもとに格差が拡大する」(p. 196) と指摘する。こうした議論をさらに発展させたのが河野 (2022) および河野・西口 (2024) である。河野 (2022) は、イクメン物語を「非イクメンであった男性が反省をしてイクメンへと成長する物語」と「元々、特に葛藤を抱くことなくイクメンである男性の物語」(p. 254) と類型化し、『クレイマー』を前者の代表例と位置づける。そのうえで、河野は当該映画をイクメン物語であると同時に「一種のミソジニーの物語にもなっている」(p. 256) と指摘する。また、河野・西口 (2024) によると、ジョアンナは、「専業主婦に飽き足らず自分の夢を追いかけて子育てを『放棄』する」(p. 241) 女性として描かれ、「1970年代当時のフェミニズムに対するミソジニー的反感が反映されたキャラクター」(同上) である。一方、はじめはフレンチトーストさえ作れないほど、ケア労働に従事したことがなかったテッドは、「仕事人間だった男性性を修正していき、ケアする主体になっていく」(p. 242)。河野・西口によるジョアンナに対する『クレイマー』のミソジニー的反感という指摘は、Tyler (2007, p. 184) による、当該映画を「狂った悪い母親を追放することを軸に、家庭円満の解決策として父息子のロマンスを観客に提供する『男の泣ける映画』サイクルの元型」と位置づけた議論とも通じると考える。ジョアンナが「悪い母親」として物語の周辺へ追いやられることで、彼女が経験した苦しみや、テッドとの関係のなかで生じた問題は不可視化されるのである。

 以上のように、『クレイマー』研究では、当該作品に内在するアンチフェミニスト的価値観やミソジニー的表象が繰り返し指摘されてきた。しかし、その多くは物語構造を対象とした文学・文化研究的分析であり、そうした価値観が登場人物の言語行為を通じてどのように実践されているのかという問題、とりわけテッドがいかなる相互行為を通じてジョアンナを知識の担い手として扱わず、その発言権や主体性を弱体化させているのかという問題は十分に検討されていない。この点を踏まえ、本稿は、河野・西口が指摘する「1970年代当時のフェミニズムに対するミソジニー的反感」(2024, p. 241) を相互行為レベルで捉えるため、女性の発話や知識を周辺化する実践としてテッドが遂行したと考えられるマンスプレイニングに着目する。そしてCAの観点から、テッドとジョアンナ (および、マーガレット) の相互行為を分析し、その会話構造を記述することで、テッドによるマンスプレイニングの実践を明らかにすることを目的とする。

2.2 マンスプレイニング (mansplaining)

 本節では、マンスプレイニングの定義、およびその問題点に関する言語哲学的研究を概観する。Miki (2024, p. 13) は、マンスプレイニングを単に男性が女性に対して説明を行う行為ではなく、「女性がすでに知っているか、あるいは少なくとも、女性が男性に説明を求めなかったことを男性が女性に説明する振る舞い」(以降、下線は筆者による) と定義する。マンスプレイニングという概念は、2008年レベッカ・ソルニット (Rebecca Solnit) が、エッセイ「説明したがる男たち」6のなかで、男性が女性に説教したがる現象を問題化したことに端を発する。このエッセイのなかで、ソルニット自身が“mansplaining”という用語を使い始めたわけではない。しかし、彼女は自らの経験を提示し、マンスプレイニングが「女性ならみんな私が意味することを知っている (Every woman knows what I mean.)」現象だと述べる。

 以下は、ソルニットが取り上げた実例である。あるパーティで、ソルニット (2018) は、主催者の年配男性ラルフから質問攻め (“So? I hear you’ve written a couple of books.”、“And what are they about?”等) に遭い、写真家エドワード・マイブリッジについて言及する (“I’ve been researching Eadweard Muybridge, and…”)。すると、ラルフはマイブリッジについて解説し始め (“And have you heard about the very important Muybridge book that came out this year?”)、彼女の友人が繰り返し指摘した (“That’s her book.”) にもかかわらず、それを無視し、説明を続けたのである。

 この事例をもとに、これまで言語哲学では、認識的不正義の観点から、マンスプレイニングの問題点が指摘されてきた (Dular, 2021; Johnson, 2020; Luzzi, 2016; Miki, 2024; 三木, 2024a, 2024b等)。たとえば、三木 (2024a) は、マンスプレイニングを「単なる性格や振る舞いの問題ではなくジェンダーの問題である」と述べ、「ただ『偉そうに上から目線で語る』というだけではなく、知識の伝達・蓄積の現場から女性を排除したり、事実の報告や意見の主張の力を奪うことで女性の主体性を損なったりするメカニズム」があると主張する。ここでは、ラルフがソルニットに偉そうに上から目線でマイブリッジについて解説することだけが問題なのではない。この発話でラルフが言及しているマイブリッジに関する重要な本 (“the very important Muybridge book”) とは、ソルニットが書いた本である。つまり、ラルフが言及する本の著者がソルニットであることは、彼女のほうが彼よりもマイブリッジに関する知識を伝達・蓄積する力を持っていることを意味する (実際、ラルフは当該著書を読んだわけではなく、『ニューヨークタイムズ』紙に掲載された書評を読んだだけであった)。それにもかかわらず、ソルニットを知識の伝達・蓄積の現場から排除したことが問題なのである。このような観点から、本稿は、テッドによる説明の言語行為の一部をマンスプレイニングであると想定する。それは、テッドが (求められていないにも関わらず) ジョアンナの状況を一方的に説明することで、彼女を知識や判断の主体として扱わず、結果としてジョアンナが自己肯定感の喪失 (“no self-esteem”;第4章を参照) を経験しているからである。

 では、このようなマンスプレイニングは、女性の知識や発話に対してどのような問題を生じさせるのか。この点について、Johnson (2020, pp. 16-18) は、マンスプレイニングを発話行為理論の観点から分析し、ラルフの反応が二つの点で有害であると論じている。まず、自ら遂行した発語内行為を別の発語内行為として解釈される「発語内の不一致」が生じるという点である。ソルニットの発話 (“I’ve been researching Eadweard Muybridge, and…”; ソルニット, 2018) は質問ではなく主張である。しかし、ラルフはそれをあたかも質問であるかのように受け取り、一方的に説明を始める。この反応は、ソルニットの発話を主張として成立させない効果を持つ。その結果、ソルニットは、当該会話において主張することができず、発語内の力を奪われた状態に置かれる。このような事態の背景には、女性の知識や専門性を過小評価する男性側のミソジニックな背景的信念が作用している (Johnson, 2020)。つぎに、問題は「単発の」発語内の不一致にとどまらない。ソルニットが発語内の不一致に「定期的に」直面している点にもある。Johnsonは、女性が定期的な反応としてマンスプレイニングに直面する場合、その経験は挫折感を引き起こし、知識を伝えたり、自らの主張を行ったりすることへの妨げとなる可能性があると主張する。結果として、女性の主張が恒常的に情報要求として認識されることがあるとすれば、女性にとって、証言を通じて知識を伝達することが困難になるのである。以上のことから、マンスプレイニングは単なる失礼な説明行為ではなく、女性が知識の担い手としての能力を十分に発揮することを妨げる認識的不正義 (epistemic injustice) の一形態と理解できる。とりわけそれは、話し手の証言が不当に軽視される証言的不正義 (testimonial injustice;フリッカー, 2023)7に該当する。

 一方、CAを援用してマンスプレイニングを分析する研究も現れている8。たとえば、Joyce et al. (2021) は、CAと成員カテゴリー化分析を使用し、人びとが実際の相互行為のなかで、先行する一連の発話をどのような相互行為上の方法によって「マンスプレイニング」として位置づけるのかを明らかにしようとする。Joyce et al.は、その過程において、話し手が相手の社会的行為を再解釈し、その性差別的な性質を際立たせていると主張する。しかし、この研究は、先行する発話をマンスプレイニングとしてカテゴリー化する実践に焦点を当てており、マンスプレイニングがどのような会話構造のもとで産出されるのかについては十分に検討がなされていない。

 以上の先行研究を踏まえ、本稿では、マンスプレイニングが女性の発話や知識を不当に扱う実践であるというJohnsonの議論を念頭に置きつつ、CAの観点から、テッドとジョアンナ、およびテッドとマーガレットの相互行為を分析する。具体的には、テッドによる説明がどのような会話構造のもとで生じるのかを記述することで、テッドによるマンスプレイニングがいかに組織化され、遂行されるのかを明らかにすることを目的とする。

3.データと分析的枠組み

3.1 データ

 本稿が、映画『クレイマー』のなかで取り上げる場面は、①ジョアンナが家を出る場面、②マーガレットがテッドの家を訪れる場面、③テッドがジョアンナとレストランで会う場面、そして④ビリーの親権を争う裁判の場面、の4つである。

 まず、裁判が始まる場面以前にテッドとジョアンナが直接対話をする場面は、①と③に限られる。これらの場面において、テッドはジョアンナに対して《説明》を実践している。ただし、《説明》だけではマンスプレイニングであるとは限らない。ある行為をマンスプレイニングと判断するうえで重要な要素は、それが「女性がすでに知っているか、あるいは少なくとも女性が説明を求めてなかったこと」(Miki, 2024, p. 13) を《説明》する行為か否かである。ジョアンナは、①では自分が家出をする決意を表明し、③ではビリーの親権を求める意志を表明しようとする。それにもかかわらず、テッドはそれらの発語内行為の力を十分に受け止めることなく、ジョアンナに《説明》を実践しているのである。そのため、本稿は、①および③を第4章における主要な分析対象とする。

 つぎに、裁判が始まる場面以前にテッドとマーガレットが直接話をする場面は、②を含め4つである9。そのうち②以外の三つは、公園で子どもたちを見守りながら話をする二つの場面と、ビリーがけがをした後、マーガレットがテッドの家で皿洗いをする場面である。②では、テッドがマーガレットをジョアンナの “Sisterhood” にもとづく「共犯者」とみなしているため、マーガレットの《説明》の発語内の力を否定し、彼女に対して《説明》を実践している。他方、②以外の三つの場面ではテッドとマーガレットは友好的に会話をしており (発語内の不一致はみられない)、両者の関係の変化がうかがえる。これらの場面については、第5章で適宜言及する。

 最後に、④の裁判場面では、テッドとジョアンナが直接対話をするわけではない。両者はそれぞれ代理人弁護士から質問を受ける形式で審理が進行するが、その過程でジョアンナの証言に対してテッドが言及する場面がみられる。ここでは、ジョアンナの発話を否定したうえで、その発話に対する《説明》が実践されるとともに、テッドのアンチフェミニスト的価値観との関連もみられる。そのため、この場面も第4章の分析対象に含めることとする。

3.2 分析的枠組み―会話分析 (conversation analysis)―

 本稿が分析的枠組みとして援用するCAは、社会学的方法論の一つであるエスノメソドロジー (ethnomethodology)10に由来するアプローチであり、日常的になされる会話的相互作用の仕組みを明らかにすることを目的とする。CAは、会話的相互作用の経緯を詳細に記述・分析することで、一見無秩序に見える日常会話のなかに存在する、何かしらの規則性や秩序を明らかにしようとする。

 CAは、二つの意味で「データ中心的」である。まず、その関心は、ことばの外にあるもの (例、参与者のアイデンティティや相互行為の状況) ではなく、ことばそのものに向けられる。つぎに、CAは、ことばそれ自体のなかに参与者のアイデンティティといった外的情報が含まれるという考えを基盤としている。そのため、CAは一般的に相互行為者の属性等を分析上の前提とせず、会話そのものに現れる参与者の実践をもとに相互行為を分析する。

 前章では、マンスプレイニングが証言的不正義の一形態であることを指摘した (三木, 2024a等)。さらに、ソルニットが述べる「女性ならみんな私が意味することを知っている」という指摘は、マンスプレイニングが単なる偶発的な出来事ではなく、多くの女性によって反復的に経験される相互行為上の実践であることを示している。すなわち、女性たちは、マンスプレイニングを、自らの経験にもとづく常識知 (日常知) によって認識可能なものとして、女性たちのあいだで共有しているのである。こうした共有経験は、マンスプレイニングが個々の話し手の偶発的な振る舞いに還元されるものではなく、話し手と聞き手のあいだで一定の規則性のもとに組織される実践として捉える必要性を示唆する。したがって、マンスプレイニングの特徴を明らかにするには、その発生要因や社会的影響だけでなく、それがいかなる会話構造のもとで遂行されるのかを分析する必要がある。そこで、本稿はCAを分析的枠組みとして援用する。

 もっとも、本稿の関心は単なる会話構造の記述にとどまらない。テッドによる《説明》という行為は、単なる知識の伝達としての《説明》としてではなく、ジェンダー化された実践として捉える必要がある。そこで、本稿はフェミニスト会話分析 (feminist conversation analysis, 以降FCA) の立場、すなわち「抑圧や抵抗は抽象的な理論的概念ではなく、社会の成員が相互行為のなかで行う具体的実践として可視化される」(Kitzinger, 2000, p. 189) という立場を採用する。一見すると、フェミニズムに依拠しつつ相互行為者の属性に関わる分析を行うことは、参与者の属性を分析上の前提としないCAの基本姿勢と相反するようにみえる。しかし、フェミニズムにもとづく言語研究は、ジェンダーやセクシュアリティを本質主義的な所与のカテゴリーとしてではなく、達成物、すなわちパフォーマティヴな行為として捉える (Butler, 1993)。したがって、ジェンダーを相互行為のなかで構築されるものとして分析する限りにおいて、FCAはCAの基本的前提と矛盾しないとされている (Kitzinger, 2000, p. 170)。

 以上を踏まえ、本稿は、FCAにもとづき、テッドによるジョアンナ (およびマーガレット) への《説明》が、会話のなかでどのように組織されているのかを記述し、その相互行為上の特徴が、いかにジェンダー化された実践としてマンスプレイニングを構成しているかを分析する。

4. 分析

 第4章では、3.1節で概説した①~③におけるテッドとジョアンナ (および、マーガレット) の相互行為を分析し、テッドによるマンスプレイニングの実践を明らかにするとともに、これらの女性がテッドにいかに応答しているかを検討する。

 第1章で指摘したとおり、映画冒頭、テッドは“I just want to talk.”と言って、家を出ようとするジョアンナを引き留めようとする。しかしながら、ビリーの親権を争う裁判のなかで、ジョアンナにとって、テッドが自分と対話 (“talk”) を試みようとする存在ではなかったことが示される。以下の場面は、当該裁判において、ジョアンナ (J) が、代理人弁護士 (Gressen, G) から結婚後の就業状態に関する質問を投げかけられた場面である (場面の開始時間および終了時間は、トランスクリプトの冒頭に【】で記す):

【74:42-75:10】

01 G: Did you continue to work after you were married?

02 J: No, I did not.

03 G: Did you wish to?

04 J: Yes, but every time I talked to Ted, to my ex-husband about it, he wouldn’t listen. He

05 refused to discuss it in any serious way. I remember he said that I probably couldn’t get a

06 job that would pay enough to hire a babysitter for Billy.

 ジョアンナは結婚後の就労継続に関する議論 (“discuss”) について言及している。議論とは、一般的には《主張―同意/不同意》や《説得―同意/不同意》(以降、隣接ペア (の一部) を提示する際に《》を使用する) といった隣接ペアから構成される発話事象である。しかし、テッドは当該問題に関して彼女の話を聞こうとせず (l. 4)、ジョアンナから開始すると想定される真剣な議論を拒否していたのである (l. 5)。さらには、就業継続という問題はジョアンナに関わる問題である。それゆえ、自分の状況について一番わかっているのは彼女自身であると考えられるにもかかわらず、テッドは、彼女と議論をしようとしないだけでなく、あたかも自分のほうが彼女のことを知っているかのごとく、彼女が「ビリーのベビーシッターを雇えるほどの給料をもらえる仕事には恐らく就けない」という自分の意見のみを《説明》する (ll. 5-6)。Dular (2021, p. 21) は、マンスプレイニングが「偏見を伴うアイデンティティに関するステレオタイプによって引き起こされる、聞き手と話し手の認識的役割の機能不全的転倒」であり、(話し手の) 認識的な、そして実際的なアイデンティティの喪失等につながると主張する。この場面に敷衍すると、女性や専業主婦というアイデンティティに関する偏見を伴うステレオタイプにより、テッドは、結婚後も仕事を続けられるか否かを一番の当事者であるジョアンナよりも自分のほうが理解していると捉え、マンスプレイニングを実践した結果、認識的役割の機能不全的転倒が生じたことになる。それゆえ、ジョアンナは彼のこのような態度により、アイデンティティの喪失、および自己効力感・自己肯定感の喪失に陥り (“And because of his attitudes towards my fear and his inability to deal with my feelings I had come to have almost no self-esteem.”)、ビリーを置いてでも家を出ることにしたのである (“I was scared and I was unhappy. In my mind I had no choice but to leave.”)。ジョアンナが家を出た後、テッドはイクメンへの変化 (成長) に伴って女性と「対話」する行為者に変化したのか。ここから、テッドと二人の女性 (ジョアンナとマーガレット) のやりとりを分析していく。

4.1 ジョアンナに対するテッドのマンスプレイニング

 まずは、ジョアンナに対するテッドのマンスプレイニングに注目する。以下の場面は、映画冒頭、ジョアンナ (J) がテッド (T) に家を出ることを告げる場面である:

【04:55-06:27】

01 T: Joanna. (2) I’m home.

02 ((Jがドアを開ける))

03 T: Hi. I forgot my keys. I just gotta call the office before they go. Jo, you’re gonna be real

04 proud of me. I got good news.

05 ((Tが鼻歌を歌いながら電話のほうへと移動する))

06 J: Ted. =

07 T: = One second. Let me just do this.

08 ((Tが鼻歌を歌いながら電話をかける))

09 T: You know Jack Edwards in accounting? He committed suicide. Yeah, hi. Ted Kramer. Listen.

10 I gotta get those photos from the retoucher by tomorrow morning. OK?

11 J: I’m leaving you. =

12 T: = Honey, please. I can’t hear. What? Okay, you too. Thanks a lot. See you tomorrow. Did

13 you guys eat?

14 J: Ted, I’m leaving you. Ted, keys. Here are my keys. Here’s my American Express card.

15 Here’s my Bloomingdale’s credit card. Here’s my checkbook. I’ve taken $2,000 out of our

16 savings account. Because that’s what I had in a bank when we first got married.

17 T: Is this a kind of joke? =

18 J: = Here’s the cleaning, here’s the laundry ticket. You can pick them both up on Saturday. (1)

19 You, you have to [pick them up on Saturday.

20 T: [Jo, you wanna tell what’s the matter?

21 J: I paid the rent, [I paid] the Con Ed bill,

22 T: [Jo ]

23 J: And I paid the bill, so

24 T: You really pick your times to.

25 ((Jが家を出るために鞄を取ろうとする。沈黙の後、Tが笑う))

26 T: Well, I’m sorry that, that I was late, but I was busy making a living, all right? (1.8) Come

27: on, okay? (1.7) Can we stop now? =

28 J: = So that’s everything.

 ジョアンナはテッドに《呼びかけ》(l. 6)、テッドはその《呼びかけ》に《応答》する (l. 7)。しかし、この《応答》は“Ted.”とほぼ同時に発せられたため、彼女はトピックを開始することができなくなっている。このことから、テッドがフロア (floor)、つまり話し手が持つ会話の主導権 (Edelsky, 1981) をジョアンナから奪っていることがわかる。テッドは電話をかけながら新たな隣接ペアの第1部分 (First Pair Part, 以降FPP) である《質問》および《説明》を開始する (l. 9) が、《質問》に対する第2部分 (Second Pair Part, 以降SPP) である《返答》、《説明》に対するSPPである《受諾/拒否》を受け止める姿勢を示していない。FPPを開始するも、聞き手がそれに対するSPPを占めるかどうかを気にもとめないテッドに対して、ジョアンナはこれから自分が行う行為、つまり彼のもとを去るという行為の《説明》を開始する (l. 11)。しかしながら、テッドは間髪いれずにジョアンナの発話を遮る (“Honey, please. I can’t hear.”)。そして、会社の人との電話を終えた後、ジョアンナの《説明》に対するSPPを占めることなく、全く関係のない、新しい隣接ペア《質問―返答》のFPPを開始する (“Did you guys eat?”)。ここまでのやりとりにおいて、ジョアンナは《呼びかけ》(l. 6) と《説明》(l. 11) に対する《応答》をテッドから得ることができていないと言える。

 そこで、ジョアンナは自分がこれから行う行為に関する《説明》を継続する (ll. 14-16)。それに対して、テッドはこの《説明》に対する《同意》等は遂行せず、新しい隣接ペア《質問―返答》のFPPを開始する (l. 17)。ここでの《質問》と12-13行目の《質問》の相違点は直前の《説明》との関連性である。指示代名詞“this”の使用により、17行目の《質問》にはジョアンナの《説明》(ll. 14-16) との結束性 (cohesion) がある。しかしながら、結束性はあるものの、テッドはこの《質問》でジョアンナの《説明》を《冗談》として提示することにより、論点のすり替えを行っている (発話行為理論の観点からすると、発語内の不一致に相当する)。このように、ジョアンナは、《説明》に対するSPP、《同意/不同意》を得ることが再びできなかったため、テッドの《質問》(l. 17) の後、間髪入れずに《説明》を継続し、テッドに洗濯ものに関する《指示》を出す (ll. 18-19)。しかしながら、テッドはジョアンナの《説明》や《指示》に対するSPPの義務を果たさず、《質問―返答》の隣接ペアを再度開始しようとする (l. 20)。その際、テッドが自分の発話をジョアンナの発話と重複 (overlap) させるものの、ジョアンナはテッドにターンを奪われることなく《説明》を継続する。テッドは、これまで新しい隣接ペアを開始したり、発話を重複させたりすることにより、この場におけるフロアを握ろうとしていたが、それが叶わず、遮り行為 (interruption) により、ジョアンナの発話 (l. 23) を中断させ、ターンを奪い、ジョアンナの状況についてマンスプレイニングを実践する (l. 24)。ここでも、テッドはジョアンナの《説明》に対するSPP、《同意/不同意》を占めることは一切せず、ジョアンナの発話を軽視しているのである。

 その後、ジョアンナは沈黙したまま鞄を取り、家を出ようとする。この沈黙のなか、テッドは笑い、ジョアンナが《不服》等の発話を開始したわけではないにもかかわらず、《謝罪》と《釈明》を開始し (l. 26)、彼女からの赦しを《要求》する (“…all right?”および“Come on, okay?”)。また、各々の《要求》後に1.8秒間と1.7秒間の沈黙が流れる。この沈黙はターンの移行適格場所 (transition relevance place) であり、《要求》に対する肯定的な《応答》をジョアンナに促す役割を果たす。しかし、テッドはジョアンナからの《応答》を待つことなく、話をやめようと《依頼》する (l. 27)。それに対して、ジョアンナはテッドの《依頼》に対するSPPを占めることなく、間髪入れずにやりとりを中断すると《説明》する (l. 28)。では、26行目におけるテッドの《謝罪》は何を意味しているのか。この《謝罪》はテッドの帰宅が遅れたこと (“…I was late…”) に対するものである。しかしながら、ジョアンナのテッドに対する怒りは、裁判の場面を考慮に入れると、帰宅が遅れたことではなく、これまでのジョアンナへの振る舞いに向けられている。それゆえ、内容面においてテッドによる《謝罪》は《謝罪》の体を成していなかったのである。さらに、ジョアンナが《不服》を伝えていれば、テッドの《謝罪》は隣接ペアのSPPを占めることになる。しかし、上述のとおり、ジョアンナは《不服》を伝えているわけではないため、隣接ペアの面からみてもテッドの《謝罪》は《謝罪》としての機能を果たしていないと言える。

4.2 マーガレットに対するテッドのマンスプレイニング

 つぎに、テッドとマーガレットのやりとりに注目する。つぎの場面は、ジョアンナが家を出た後、同じアパートに住むマーガレット (M) がテッド (T) の家までやってくる場面である:

【08:48-10:20】

01 T: Joanna, that’s the most insensitive thing. Oh. Hi, Margaret.

02 M: She packed a suitcase?

03 T: Look, it’s nothing serious, really. I appreciate your concern. But I will –

04 M: She tell you where she was going? She must have said something to you.

05 T: Would you tell me?

06 M: How would I know? I wasn’t there.

07 T: Obviously, my wife and you two had numerous conversations about my shortcomings

08 which I haven’t been privy to. And I’d love to sit here and talk to you but I have a major

09 presentation in the morning and I just gotta get my work done. So please allow me to –

10 M: Ted. You don’t seem to realize we have a serious problem. =

11 T: = Wrong. Me. I got the problem. All you gotta to do is go out the door, go downstairs, and

12 go back to bed.

13 M: Ted, the fact is Joanna –

14 T: The fact is that for last six months I’ve been spitting blood to get this agency its biggest

15 account. And at five o’clock, we got it. At eight o’clock, the vice president tells me I’ll be

16 the next creative director. I come through this door to share with my wife one of the five

17 best days of my life, and she looks at me and *** tells me she doesn’t want to live with me

18 anymore! (6) Can’t you understand what she’s done to me?

19 M: (.) Yeah. She loused up one of the five best days of your life.

20 T: (4) You’re terrific. Boy, you’re (.) Thanks very much, really. (.) Sisterhood. I wanna thank

21 you for coming up here and cheering me up, but –

22 M: I didn’t come up here to cheer you up. I came up because I’m concerned about Joanna.

 マーガレットは、現状を重く受け止めないテッド (l. 3; “Look, it’s nothing serious, really.”) に彼が深刻な問題を抱えていることに気づいていないようだと《説明》する (l. 10)。しかし、テッドは彼女の《説明》に対して《不同意》という好まれない応答を行い (好まれない応答に特徴的な躊躇い等はみられないため、日頃からテッドがこのような応答を実践していたことが伺える)、自分の状況に関する《説明》を行った (“I got the problem.”) うえで、彼女に《指示》を出す (ll. 11-12)。しかし、マーガレットは彼の《指示》に従うことなく《説明》を再度試みる (l. 13)。これに対して、テッドは遮り行為を行い、マーガレットの《説明》を中断させ、自分の立場からみた状況について《説明》する (ll. 14-18)。マーガレットの発話を遮るだけでなく、彼女が使用した“the fact is”を繰り返すことにより、テッドは「マーガレットよりも自分のほうが事実を分かっている」ということを示していると言える。さらに、テッドは彼女に状況理解に関する《質問》をする (“Can’t you understand what she’s done to me?”)。この《質問》はSPPを要求するような単なる《質問》ではなく、反語的に「君には分からないだろう」という彼女に対する《非難》としても機能する。しかしながら、マーガレットは彼の《質問》に対する《返答》(および、《非難》に対する《不同意》) を実践し (l. 19)、テッドの発話 (ll. 14-18) の言い換えを行う (“She loused up one of the five best days of your life.”)。テッドは自分の発話に動じないマーガレットの《返答》(および、《不同意》)、そして発話の言い換えが予想外であったのか、動揺して口ごもる結果となる (“Boy, you’re (.)”)。

 ここで興味深いのは、テッドが遂行する《感謝》である (ll. 20-21)。テッドは直前にマーガレットを《非難》しておきながら、この (皮肉を含む)《感謝》において、彼女からケアを受けとること (“cheer me up”) を当然視した発話を実践する。このような見方は、「与えること/受け取ること」というモデルにもとづいた相互補完的な社会規範 (女性は女性にコード化された財とサービスを男性に与えるべきである一方、女性は男性にコード化された特典と特権を持つべきではない、という規範) の遵守を監視するために発生するミソジニー (マン, 2019, p. 176) を基盤としている。ただし、この時点でのマーガレットはテッドのミソジニックな見方に抵抗し、直前のテッドの発話を《否定》する (l. 22) 。結果として、マーガレットはテッドのマンスプレイニング、およびミソジニックな発話に怯むことなく、彼に応答しているのである (しかし、マーガレットはテッドとの公園のやりとりを経て、裁判の最中、ヒムパシー、「ミソジニー的な行為をした力があり特権的な少年や男性が、犠牲者である女性よりもしばしば同情や配慮を得るというもの」(マン, 2023, p. 8) をテッドに示すようになる。このことは、彼女によるミソジニーの内面化を示唆している)。

 つぎに、本稿は、ジョアンナが家を出た翌日、テッド (T) が職場でジム (J) と話をする場面に注目する。ここから見出すことができるテッドのアンチフェミニスト的価値観が、「アイデンティティに対するネガティブな偏見が人々の信用性判断を形成する特定のリスクに対して (もっとも中心的に) 働くような」(フリッカー, 2023, p. 120) 証言的不正義にあたるマンスプレイニングを引き起こすことに寄与しているのではないかと考えられる:

【17:35-18:02】

01 J: Teddy, is there another guy?

02 T: I don’t think so. She’s not the type. She’s got this friend, Margaret, downstairs… you

03 know, women’s lib. I think they may have cooked this up. It worked. I’m going crazy!

04 J: Look, not to worry. She’ll be back.

 引用部分の直前、テッドはジョアンナと喧嘩した場合に普段はどのような状況になるのかを説明している。そして、ジムの発話 (l. 1) は、ジョアンナにテッド以外の男性がいるのかを尋ねる質問である。テッドはその可能性を否定したうえで (l. 2;“I don’t think so. She’s not the type.”)、階下に住むマーガレットに言及し、彼女が「ウーマン・リブ (women’s lib)」11である (l. 3) と述べる。つまり、ジョアンナがテッド以外の男性ではなく、「ウーマン・リブ」であるマーガレットの影響を受けて家を出た可能性を示している。さらに、テッドは、ジョアンナの家出の原因となった二人のやりとりを“cook up”と評する (l. 3)。“cook up”は、“informal to invent an excuse, reason, plan etc, especially one that is slightly dishonest or unlikely to work” (Longman Dictionary of Contemporary English, 6th ed.) を意味する句動詞である。この句動詞の使用は、テッドがジョアンナとマーガレットによる計画をでっちあげられた不正直なものとみなし、自分がその被害を被っていると考えていることを示している (“It worked. I’m going crazy!”)。このことから、テッドはジョアンナとマーガレットによる計画を、フェミニズム (“women’s lib”や”sisterhood”) と結びついた信用しがたいものとして捉えていると考えられる。この評価は、女性/フェミニストというアイデンティティにもとづく偏見を示唆する。この偏見は、彼女たちの言葉に与えられる信用性を不当に低く見積もることにつながるだけでなく、会話上の実践にも現れる。前日、マーガレットがジョアンナの家出の理由を《説明》しようとした際、テッドはその発話を遮り、マーガレットが《説明》しようとした事柄を、彼女に代わって《説明》している。こうした応答は、マンスプレイニングと捉えることができる。また、マーガレットの発話が女性/フェミニストという彼女のアイデンティティに対する偏見によって信用されなかったのであれば、そこには「証言的不正義」が生じていたと考えられる。

4.3 テッドのマンスプレイニングに抵抗するジョアンナ

 家を出たジョアンナ (J) から連絡があり、テッド (T) は彼女とレストランで会うことになる。以下の場面は、レストランでの二人のやりとりである:

【53:35-55:43】

01 J: Anyway (.) That’s why I wanted to talk to you today.

02 ((Tがうなずく))

03 J: Last time you saw me, I was pretty bad –

04 T: [Shaky?((笑いながら))

05 J: [Shaky. Really bad. Yes, I was. I was.

06 T: Well, you look lovely now.

07 ((Jは返事をできずにいる))

08 T: What?

09 J: I have a whole speech.

10 T: Go. Go ahead.

11 J: ((一呼吸置いて))All my life I’ve felt like somebody’s wife or somebody’s mother or

12 somebody’s daughter. Even all the time when we were together I never knew who I was.

13 And that’s why I had to go away. In California, I think I found myself. And I got myself a

14 job. I got myself a therapist, a really good one. And I feel better about myself than I ever

15 have in my whole life. I learned a lot about myself.

16 T: Such as?

17 ((Jが何かを言おうとするが、口ごもる))

18 T: No, really, I’d really like to know what you learned.

19 J: ((躊躇いながら))I’ve learned that I love my little boy. And that I’m capable of taking care

20 of him.

21 T: What do you mean?

22 J: (3.5) I want my son.

23 T: You can’t have him.

24 J: Don’t get defensive. Don’t, don’t try to bully me. [***

25 T: [I’m not getting defensive. Who

26 walked out 15 months ago? =

27 J: = I don’t care.

28 T: Jo.

29 J: I’m still his mother.

30 T: Yes. From 3,000 miles away. And because you sent post cards [gives you the right to come

31 back?]

32 J: [I never stopped wanting

33 him.] I never stopped wanting him. =

34 T: = What makes you sure he wants you?

35 J: What makes you sure he doesn’t want me?

36 T: OK. We’re gonna sit here and bat this back and forth. It’s old times. =

37 J: = You can’t deny me. [*** me.

38 T: [Don’t tell me what I can or cannot do.((Jを指差しながら))Don’t

39 talk to me that way. =

40 J: = I anticipated this.

41 T: OK. *** You can do [what] you have to do. I’ll [do] what I have to.

42 J: [OK.] [Fine]

43 J: I’m very sorry about this.

44 T: OK.((Jが何かを言いかける))Just do what you have to do.((Tがワイングラスを壁に飛ば

45 し、店を出る))

 冒頭、テッドからの割り込みが1度出現するものの (l. 4)、話者交替はうまく進んでいるようである。たとえば、ジョアンナはテッドが使用した“shaky”を繰り返し (同時発話も引き起こしている)、《同意》を示すことにより (“Yes, I was. I was.”)、共同的対話を構築しようとしている (l. 5)。この表面的には滑らかな対話の結果、テッドはジョアンナの見た目を《ほめる》のである (l. 6)。しかしながら、ジョアンナはこの《ほめ》に対するSPPを占めることができない (l. 7)。では、この《ほめ》は何を意味するのか。公園でマーガレットに再婚の意志を聞かれた場面を考慮に入れると (第5章を参照)、テッドはその可能性を否定はしたものの、再婚、つまりジョアンナが自分の家父長的組織に戻ってくることを期待していた可能性がある。この後、テッドがジョアンナに対して怒りを示したのは、彼女がこの期待に反する発話を遂行したからではないかと考えられる。

 そして、ジョアンナはテッドに促されて、これまでの自分の人生と現在の自分を《説明》し始める (l. 11) が、自分の願い (“I want my son.”) を述べることができない。そこで、テッドが《質問》という形で発話を促す (l. 16) ものの、ジョアンナはこの《質問》に対するSPPを占めることができず、口ごもって沈黙する (l. 17)。では、このようなジョアンナの反応をどのように理解できるのか。女性解放 (第二波フェミニズムの目標) を目指してカリフォルニアに向かい、そこで自分自身について多くのことに気づいた (“I learned a lot about myself.”) ジョアンナが、自らの願いを明確に述べることは、十分に可能であるように思われる。しかしながら、Tyler (2007, p. 182) は、このような沈黙が出現するのは、『クレイマー』が「女性の観客を対象としている一方、女性の解放を白人のリベラルな男性主人公の視点からのみ語っているからである」と述べる。すでに述べたとおり、この映画はアンチフェミニスト的価値観を具現化した作品であり (Seiter, 1983)、ケア労働に目覚めたものの、女性解放の結果として不利益を被った白人のリベラルな男性主人公であるテッドからすると、ジョアンナによる気づきは望ましくないものなのである。『クレイマー』はこのような主人公の視点を代弁しているため、ジョアンナが自らの気づきや願いを十分に言語化することは抑制され、彼女は口ごもって沈黙するのではないかと考えられる。

 そして、ジョアンナはテッドの《質問》に口ごもるものの、テッドに続けるよう《依頼》されて《説明》を続ける (l. 19)。ただし、この《説明》はテッドにとっては理解し難いものであったため、テッドは彼女に“What do you mean?”と《質問》する。この《質問》に対して、ジョアンナは自分の願いを《主張》する (l. 22)。しかしながら、自分の期待していた《説明》とは異なっていたため、テッドはジョアンナの《主張》や《懇願》を《拒否》する (“You can’t have him.”等)。そして、テッドは自ら《質問―返答》の隣接ペアを開始し、《質問》という形式をとってジョアンナを《非難》する (ll. 25-26, ll. 30-31, l. 34)。しかし、ジョアンナはこれらの《質問》、および《非難》に対してSPPを占めることはせず、(時にテッドの発話と重複させながら) 自分の《主張》を行い (l. 27, l. 29, ll. 32-33, l. 37)、さらにはテッドに《質問》で返す (l. 35)。このジョアンナの振る舞いは、彼女がこれまでとは違って自分を取り戻したこと (l. 13; “I think I found myself.”) を示唆している。そして、テッドによる過去の (二人のやりとりに関する) 振り返りを踏まえて、ジョアンナは自分自身を否定することはできないと《説明》する (l. 37)。この発話はテッドに対する抵抗を示すものである。これは、「テッドがこれまでジョアンナを否定してきた」可能性、つまり昔のやりとりがジョアンナの声を抑圧するやりとりになっていた可能性を示唆する。

 ただし、テッドはジョアンナによる《説明》を《受諾/否定》することなく、指差しながらジョアンナに《指示》をし (ll. 38-39)、その後、怒りを露わにしながらワイングラスを壁に飛ばしてレストランを出ていく (抵抗を示していたジョアンナであるが、テッドによる怒りの表出に対して防御反応を示している)。では、なぜテッドはジョアンナにマンスプレイニングをするだけでなく、彼女への怒りを表出するに至ったのか (これは、テッドが一方的に彼女にマンスプレイニングをしていたこれまでのやりとりとは性質を異にする)。この疑問に関しては、第5章にて議論する。

4.4 裁判におけるテッドのマンスプレイニング

 最後に、本節はビリーの親権をめぐる裁判の一場面に注目する。ジョアンナが各代理人弁護士からの尋問に応答した後、テッドが同じように尋問に応答する場面である。この場面では、テッドとジョアンナは直接話をしているわけではないが、代理人弁護士を介して、テッドとジョアンナの先行する発話に応答する構成となっている。テッドはジョアンナによる親役割の実践に関する発言に言及し、ジョアンナに親役割について《説明》するという発話行為を実践する。

 まず、ジョアンナによる親役割の実践に関する発言をみていく。彼女は、代理人弁護士Gressenから親権を求める理由を裁判に説明するよう求められる (“Mrs. Kramer, can you tell the court why you are asking for custody?”)。そこで、ジョアンナはビリーが自分の子どもであり、彼を愛しているからだと答える (“Because he’s my child and because I love him.”)。そして、彼女は、ビリーを置いていったことは酷い振る舞いだった (“I know I left my son. I know that that’s a terrible thing to do.”) が、当時、あの家のなかでうまくやっていくことができなかった (“I was incapable of functioning in that home.”) と述べる。そのうえで、ジョアンナはビリーには父親のテッドよりも母親の自分のほうが必要だと代理人弁護士に伝える (“He needs me. I’m not saying he doesn’t need his father but I really believe he needs me more.”)。ただし、ジョアンナのこの発言は、本質主義的な性別役割分業規範にもとづいて、女性が女であるというだけで、男性よりもケア労働に長けていると示しているわけではない。ジョアンナは、自らの5年半の母親役割の実践とテッドによる18か月の父親役割の実践の比較にもとづいて (“I was his mommy for five and a half years and Ted took over that role for 18 months.”)、ケア労働の実践経験に関する《主張》をしているのである (“But I don’t know how anybody can possibly believe that I have less of a stake in mothering that little boy than Mr. Kramer does.”)。

 では、なぜジョアンナはこのように考えられるようになったのか。ジョアンナは結婚後の就業継続を望んでいたが、それが叶わず、また、彼女とは対照的に仕事に熱中しているテッドの態度によって、自信を喪失していた (“He was very involved in his career. And because of his attitude towards my fears and his inability to deal with my feelings I had come to have almost no self-esteem. I was scared and I was very unhappy.”)。しかし、彼女はセラピーを受けて自信を取り戻し、子ども以外の何らかの創造的、あるいは感情的なはけ口を必要としたからといって、それによって自分が母親失格になるわけではないと認識するようになったのである (“And just because I needed some kind of creative or emotional outlet other than my child, that didn’t make me unfit to be a mother.”)。「子ども以外の創造的あるいは感情的はけ口を見つける」ことには、子どものもとから離れて就業することも含まれると考えられる。このジョアンナの発話は、当時男性の役割とみなされていた有償労働に就いたからといって「母親失格になるわけではない」という認識を示し、本質主義的な性別役割分業規範への抵抗として位置づけられる。

 そして、結婚生活中は幸せではなかったと述べるジョアンナに対して、後日行われた尋問中、テッドは以下のように反論する:

【87:00-89:21】

01 When you were talking, when my ex-wife was talking about how unhappy she was during our

02 marriage, most of what she said was probably true. There’s a lot I didn’t understand. There’s

03 a lot I’d do different if I could just like there’s a lot you wish you could change but can’t. Some

04 things, once they’re done, can’t be done. My wife, my ex-wife says she loves Billy and I

05 believe she does. But I don’t think that’s the issue here. If I understand it correctly, what

06 means the most here is what’s best for our son. What’s best for Billy. My wife used to say to 07 me: “Why can’t a woman have the same ambitions as a man?” I think you’re right. And maybe

08 I’ve learned that much. By the same token, I’d like to know what law says a woman is a better

09 parent simply by virtue of her sex? I’ve had time to think about what makes a good parent.

10 You know, it has to do with constancy. It has to do with patience. It has to do with listening

11 to him or pretending to listen when you can’t even listen anymore. It has to do with love, like

12 she was saying. I don’t know where it says a woman has a corner on that market that man has

13 any less of those emotions than a woman does. Billy has a home with me. I’ve made it the

14 best I could. It’s not perfect. I’m not a perfect parent. Sometimes I don’t have enough

15 patience and I forget that he’s a little kid. But I’m there. When we get up in the morning, we

16 eat breakfast and he talks to me, and then we go to school. At night we have dinner together

17 and we talk and I read to him. And we built a life together and we love each other. (7) If you

18 destroy that, it may be irreparable. (9) Joanna, don’t do that, please. Don’t do it twice to him.

 テッドは尋問中のジョアンナの《主張》を《否定》しようとする。テッドは、ビリーに対する彼女の愛情を認めつつ (ll. 4-5;“My wife, my ex-wife says she loves Billy and I believe she does.”)、問題はそこではないと《指摘》し (l. 5)、ビリーにとって何が最善かを《問いかけ》る (“…what’s best for our son. What’s best for Billy.”)。ただし、テッドはこの《問いかけ》に対する答え (ll. 15-17) を述べる前に、ジョアンナからが過去に発した別の《問いかけ》に言及する。その《問いかけ》とは、“Why can’t a woman have the same ambitions as a man?”である (ll. 6-7)。この「なぜ女性が男性と同じように野心を抱くことができないのか」という《問いかけ》は、家父長的社会において、女性が男性と同じように有償労働に就いて、給料を得ることができないという現実を問い直す、女性解放を求めた第二波フェミニズムを象徴する問いである。これに対して、テッドは“…what law says a woman is a better parent simply by virtue of her sex?”という《問いかけ》をジョアンナの《問いかけ》と等価なもの (“By the same token”) として扱おうとする (l. 8)。この《問いかけ》は、法律が生物学的性別 (sex) にもとづき、女性が女というだけでケア労働 (とくに、育児労働) に長けているという本質主義的な前提に立っているかのように提示する。しかし、法律はそのような前提に依拠しているわけではない。また、テッドがジョアンナの《問いかけ》の趣旨を適切に理解し、それと等価の《問いかけ》をするとすれば、「女性が女であるというだけでケア労働を割り当てられるのはなぜだろうか」と問う必要がある。つまり、テッドは論点のすり替えを行っているのである。さらに、彼はジョアンナが実践として捉えていたもの (“mothering”) を感情 (“those emotions”) として、つまり女性が本来的に有する特性として捉え直している。このように、テッドは、ウーマン・リブなどの目的を適切に理解しているわけではないにもかかわらず、論点をすり替え、ジョアンナの《問いかけ》が何を問題にしているかを自ら定義し直している。その結果、ジョアンナの《主張》は問題ではない (“I don’t think that’s the issue here.”) とすることで、裁判のなかでも間接的にマンスプレイニングを実践していたと考えられる。

5. 考察―なぜテッドはマーガレットに対するマンスプレイニングをやめたのか―

 本章では、テッドによるマンスプレイニングの根底にある彼のミソジニーに注目し、なぜテッドがマーガレットに対するマンスプレイニングをやめ、対照的にジョアンナには続けたのかについて考察する。

 映画冒頭、テッドはジョアンナとマーガレットの両者に対してマンスプレイニングを実践していた。(マン) スプレイニングをするには、「目下の話題について周囲の人々よりも専門知識を持っている必要はないが、見解を求められている気配がなくとも、もったいぶって長々としゃべる必要がある。しかも、聞き手のジェンダーや人種などに基づいて、聞き手のほうが自分よりも知識が少ないと思い込んでいることが欠かせない」(シャフヴィシ, 2024, p. 251)。テッドは、家を出ようとする (そして、家に残される彼に指示を出す) ジョアンナに対しては“You really pick your times to.”と言って、彼女の行動に対する自分の見解 (「よりによって、なぜ今そんなことを」;日本語字幕の場合「考え過ぎである」) を述べる。そして、テッドの現状を説明しようとするマーガレットに対しては、“the fact is that”と言って彼女の発話を遮り、その後自分の《説明》のターンを長々と続けることにより、あたかもマーガレットが現状を理解していないかのように彼女に《説明》しようとする。こうした振る舞いの背景には、テッドが、ジョアンナやマーガレットが女性であることを理由に、自分よりも現状についての知識が少なく、自分こそが現状を説明できる立場にあるとみなしていたことがあると考えられる。

 しかしながら、テッドは公園でマーガレットの離婚理由 (元夫チャーリーの浮気) を聞いて以降、彼女とは対話を試みるようになる。二人が公園で子どもを見ながら会話をする場面は2回登場するが、とくに1回目が彼女との対話の起点となっている。以下は、テッドに再婚の可能性について尋ねられ、それに返答するマーガレットの発話である:

I don’t know, maybe it’s different if you don’t have children, but (3) even if Charlie and I aren’t living together, and even if we’re (.) sleeping with other people, and even if Charlie were to get married again, I don’t know, he’s still my husband and he’s the father of my children and (.) that stuff about “till death you part,” that’s really true.

 マーガレットは、どのような状況においてもチャーリーが彼女の夫であり、子どもたちの父親であると言う。そして「死がふたりを分かつまで (till death you part)」という発話は、二人がすでに離婚しているにもかかわらず、彼女があたかも自分が死ぬまで「彼の妻」であるかのようにチャーリーとの関係を捉えていることを示す。また、彼女はテッドの“You still think about him, don’t you?”という《質問》に対して“Only all the time.”と《返答》する。これは、マーガレットが、自分のもとを離れたチャーリーを今でも愛していることを示している。

 テッドからみれば、マーガレットは当初、ジョアンナの家出を焚きつけた彼女の「同類」、つまりフェミニズムに毒された仲間であった (“cooked this up”)。しかし、このやりとりを境として、マーガレットの位置づけは変化していく。自己実現のために自分のもとを離れた「無責任な母親」ジョアンナとは異なり、マーガレットは、チャーリーの浮気という不義理によって離婚したにもかかわらず、いまだに元夫を愛し、彼と暮らした場所を離れることなく子どもの世話をしている。そのため、マーガレットは、テッドにとって「無責任な母親」ではなくなり、「いい母親」として捉えられるようになる。Seiterは、映画における女性が、「処女/娼婦、いい女/悪い女、いい母親/悪い母親」(1986, p. 70) のような一連の対立に従って表象されていると述べる。この指摘を『クレイマー』に敷衍すると、ジョアンナとマーガレットは、当初家父長的支配から脱却しようとする、あるいはその脱却を手助けしようとする「悪い母親」として同じ側に位置づけられている。しかし、その後、テッドは、ジョアンナを「悪い母親」のまま捉える一方で、マーガレットを「いい母親」とみなすようになる。こうして、二人はテッドのなかで対照的な存在として差異化されるのである。

 こうしたマーガレットの位置づけは、その後のテッドの言動にも現れる。テッドとマーガレットが公園で子どもをみながら会話をする場面が再登場する。マーガレットのフランス語の先生について話している途中、ビリーがジャングルジムから落ち、目の付近を負傷する。手術が終わり、二人が彼の自宅の後片付けをしている際、テッドは今回のビリーの大けがを踏まえて、自らの身に何か起こった際にはマーガレットにビリーを託したいと伝える (“If something happened to me, I’m not saying anything is going to happen, but like you know, if a building fell on me, I just wanna would you consider taking care of Billy?... I know you’d be okay with him because you’re a good mother.”)。この発話は、テッドがマーガレットを「いい母親」とみなすだけでなく、ビリーの世話をするケア労働者、つまりケア労働を放棄し「いい母親」ではなくなったジョアンナの「代役」として位置づけるようになったことを示している。

 テッドのこのような捉え方には、「家父長制の遵守を監視し、パトロールする」 (マン, 2019, p. 128) ミソジニー12が作用していると考えられる。ミソジニーを内面化し、家父長制を遵守する「いい母親」マーガレットに対しては、テッドによるマンスプレイニングがみられなくなる。これとは対照的に、ジョアンナとレストランで話をする場面では (4.3を参照)、テッドは、家父長制的な「いい母親」の規範に従わないジョアンナを「悪い母親」とみなし、彼女に対して再びマンスプレイニングを行う。さらに、ジョアンナがテッドの言動に明確に抵抗を示すと、テッドはその抵抗を受け入れることができず、彼女に対する怒りを露わにするのである。

6. おわりに

 本稿は、会話分析 (conversation analysis; Sacks, Schegloff, & Jefferson, 1974など) に依拠しながら、映画『クレイマー、クレイマー』の主人公テッドと二人の女性 (ジョアンナおよびマーガレット) のやりとりにおいて、テッドが実践するマンスプレイニングを分析してきた。

 分析の結果、テッドがマンスプレイニングを実践する際には、相手が提示する隣接ペアの第1部分に対する第2部分の義務を果たさない、会話の流れとは異なる隣接ペアを開始する (それにもかかわらず、相手が第2部分を占めるかどうかは気にしない)、相手の発話と自らの発話を重複させる、相手の発話を遮ってその人の発言権 (フロア) を奪う、隣接ペアの第1部分に対して好まれない応答をするといった、会話の構造的特徴が明らかになった。また、《質問》という体裁のもとで隣接ペアを開始しながら、実質的には《非難》を遂行することも確認された。

 また、本稿は、テッドによるマンスプレイニングの有無が、彼の女性に対するミソジニックな言動と関連している可能性を指摘した。フェミニスト的価値観を体現し、家父長制的秩序を前提とした関係を維持しないジョアンナに対してはマンスプレイニングが継続される一方、ミソジニーを内面化し、テッドの価値観に一定程度同調するようになったマーガレットに対しては、マンスプレイニングが見られなくなる。ただし、この変化はマーガレット側の変化 (ミソジニーの内面化、家父長制的規範への遵守) だけに還元することはできない。なぜなら、家を出る前のジョアンナも家父長制的な性別役割分業に従っていたにもかかわらず、テッドが彼女に対してマンスプレイニングを行っていた可能性が示されていたからである。したがって、この変化を説明するためには、テッド自身の変化にも注目する必要がある。

 ここで注目されるのは、テッドのイクメン化である。テッドの育児参加は、一見すると、男性のケア労働への進出や性別役割分業の打破を示す表象として解釈できる。しかし、『クレイマー』がアンチフェミニスト的価値観を具現化している (Seiter, 1986など) ことを踏まえると、このイクメン化は、単なるテッド自身のケア労働者としての成長として捉えるだけでは不十分である。むしろ、重要なのは、テッドがイクメンとなり、育児を実践する男性として描かれることによって、母親の育児実践を評価する立場に立つようになる点である。その結果、テッドは「悪い母親」として位置づけられるジョアンナに対してはマンスプレイニングを継続する一方、「いい母親」として位置づけられるマーガレットに対してはそれを控える。この差異は、テッドのイクメン化が必ずしもジェンダー規範の解体を意味するものではなく、むしろ男性がケア労働の担い手となることで、母親のケアを評価する立場を獲得し、家父長制的秩序を再生産する可能性を示している。

 ただし、本稿の分析対象は限定的であり、ジョアンナとマーガレットについても分析した場面数は均等ではない。そのため、マンスプレイニングとミソジニー的言動、あるいはテッドのイクメン化との関係を一般化することはできず、ここで示した解釈は、あくまで仮説的なものとして位置づける必要がある。そのうえで、テッドのイクメン化が、「いい母親」/「悪い母親」の差異化や家父長制的秩序の維持とどのように結びつくのかについては、裁判後の場面や、テッドがマンスプレイニングを実践していない場面も含めて、さらなる検討が必要である。紙幅の都合上、この点については別稿で改めて検討したい。

 最後に、今後の課題を述べる。まず、マンスプレイニングが遂行される際の会話構造に関する分析は端緒についた段階にある。本稿の分析は限られた事例にもとづくものであるため、他の談話事象を対象とした場合には、異なる特徴が見いだされる可能性がある。したがって、今後は多様な談話データの分析を通じて、マンスプレイニングに特徴的な会話構造をさらに明らかにする必要がある。つぎに、本稿は、テッドの振る舞いを一事例として、ミソジニーにもとづく女性の差異化(「いい母親」/「悪い母親」)とマンスプレイニングとの関連を指摘した。しかし、この傾向が他の談話資料にもみられるのか、またどの程度一般的なものなのかは、今後の検討課題である。そのため、今後は他の映画やドラマなどの談話資料を追加的に分析する必要がある。

謝辞

本稿の執筆にあたり査読委員の方々から数多くの貴重なご指摘をいただきましたことを心より感謝申し上げます。

  1.    本稿は、2024年10月13日 (日) 開催の一般社団法人日本メディア英語学会第14回 (旧社団法人日本時事英語学会通算第66回) 年次大会における研究発表「主人公テッドのマンスプレイニングを会話分析する―『クレイマー、クレイマー』のテッドが抱えるミソジニー―」の原稿に加筆・修正を施したものである。
  2.    Forbes Japanの記事「『戦友』になったシングルファザーとその息子。奮闘の先に起きたこと|『クレイマー、クレイマー』」(2022年5月21日大野左紀子著;https://forbesjapan.com/articles/detail/47614;2025年3月24日最終閲覧) は、ジョアンナの苦闘にも言及するが、テッドへのビリーの怒りと反抗、そしてふたつの反復 (フレンチトーストの場面と左から右に向かって走る場面) にもとづく父子関係に焦点を当てている。
  3.    原題Kramer vs. Kramerは「クレイマー (原告) 対クレイマー (被告) の裁判」を意味し、『クレイマー』が親権をめぐる「法廷争い」を軸として展開していることを示す。
  4.    本稿は、ミソジニーを単なる嫌悪感情ではなく、家父長制を維持する社会的実践と定義する。ミソジニーは、「女性に課された (中略) 社会的役割が遵守されることを監視し、道徳的財や道徳的資源を女性から引き出すことを、そして、務めを無視したり、怠ったり、裏切る者にたいして異議を申し立てる」(マン, 2019, p. 6) 機能を果たす。また、ミソジニーと性差別主義の関係について、マン (同上, p. 128) は、前者は「家父長制の遵守を監視しパトロールすることによって、その社会規範を下支えする」一方、後者は「そうした規範を正当化する」と述べる。そして、河野 (2023) は、マン (2019, 2023) や上野 (2018) を参照し、「切りはなされた個人の内面に無から湧き上がる感情としてのみ捉えることはしない。それは同時に、社会・歴史的に構築されたもの」(p. 72) として捉え、「構造的なものである以上、ミソジニーは男性のみが抱くものではなく、その構造に囚われた女性のものでもある」(p. 77) と述べる。
  5.    河野・西口 (2024, p. 254) は、関口 (2023) が『クレイマー』を「フェミニズムの時代に男性は従属化したと思い込む男性たちによる『男性権運動』の文脈で読む」と評しながら、『クレイマー』に潜むアンチフェミニスト的価値観に言及している。
  6.    https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2008-apr-13-op-solnit13-story.html (2024年9月17日最終閲覧)
  7.    フリッカー (2023) は、認識に固有である2つの形態に注目している:証言的不正義と解釈的不正義 (hermeneutical injustice) である。前者は「聞き手が、偏見のせいで話し手の言葉に与える信用性 (credibility) を過度に低くしてしまう」(フリッカー, 2023, pp. 1-2) 時に生じる不正義であり、後者は「それに先行する時点、すなわち、人々が自分たちの社会的経験を意味づける際に、集団的な解釈資源にあるギャップのせいで不公正な仕方で不利な立場に立たされてしまう」(同上, p. 2) 時に生じる不正義である。
  8.    マンスプレイニングがいかに実践されているかではなく、“mansplain(ing)”という表現のメタ語用論的研究に関しては、Bridges (2017) や Lutzky and Lawson (2019) などを参照。
  9.    Lazar (2007, p. 142) は、フェミニスト会話分析を含めた「フェミニスト」を冠する研究領域では、主流の研究は中立的で客観的とされる探求を特徴としてきたが、フェミニストの研究者はこうしたあり方に異議申し立てをしてきたと述べる。本稿も、テッドと二人の女性のやりとりを同数取り上げることで「客観性」を保つことを目的とはしていない。むしろ、本稿では、このやりとりの数の差がテッドの二人に対する振る舞いの差異を反映していると捉えている。
  10.    エスノメソドロジーは、「どんな社会に住む人々にも社会現象を分析する方法が備わっており、いつも知識や体験と照らし合わせ手段を考えながら行動しており、その結果、人々が常識ある行動をいつも行っているという前提」(小池, 2003, p. 230) を持っており、「その行動がうまく実行されるための常識知 (日常知) の解明をする学問分野」(同上) である。
  11.    ウーマン・リブ (women’s liberation) とは、「1970年代の特定の方向性をもつ女性解放思想や社会運動」(ジェンダー事典編集委員会, 2024, p. 658) のことである。
  12.    ミソジニーは、「分割して統治せよ」(上野, 2018, p. 50) という鉄則にもとづき、女性が連帯することを認めず、女性を「いい母親」と「悪い母親」だけでなく、「聖女」と「娼婦」にも分断する。テッドとジムの対話の場面では、ジムの《質問》(“Teddy, is there another guy?”) に対するテッドの《返答》(“I don’t think so. She’s not the type.”) は、テッドがジョアンナを夫以外の恋人を作るような「娼婦」ではなく「聖女」とみなしていることを示す。テッドからすると、「聖女」であるはずのジョアンナは、家父長的組織の長である自分に反旗を翻すはずがないにもかかわらず、友人マーガレットの存在のせいで家出をしたのである。当初、テッドにとって、ジョアンナもマーガレットも彼のミソジニックな反感を向ける対象だった。しかし、マーガレットは、ジョアンナの「代役」になったことで、テッドにとって「いい母親」だけでなく「聖女」という位置づけにもなる。それゆえ、テッドはマーガレットではなく、職場の同僚フィリス・バーナード (=「娼婦」) と性交渉を行う。また、ビリーの親権を争う裁判で、テッドの代理人弁護士は、テッドとは離婚しているジョアンナに新しい恋人ができたことがあたかも問題であるかのような発言をする。このことは、テッドが支配する家父長制を遵守せず、テッド以外の男性と関係を築き始めたジョアンナを「娼婦」とみなしていることを示している。そして、ジョアンナが家を出た直後の場面とは対照的に、「いい母親」「聖女」であるマーガレットは、「悪い母親」「娼婦」であるジョアンナではなく、テッドを支持する発言をし、裁判の場面では、ミソジニーにもとづく二人の分断が描かれることとなる。

資料

トランスクリプトの記号一覧 (森本他, 2023, p. 11)

[ この記号をつけた複数行の発話が重なり始めた位置。

= 前後の発話が切れ目なく続いている。または、行末にこの記号がある行から行頭にこの記号がある行へと間髪入れずに続いている。

(数字) 無音時間の秒数。特に0.2秒以下の場合は (.) と表記。

文字― 直前の語や発話が中断されている。

((文字)) 非言語行動やデータについてのさまざまな説明。

*** 聞き取り不可の箇所を示している。

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森本郁代・北村隆憲・小宮友根・三島聡・サトウタツヤ・國井恒志 (2023)『裁判員裁判を解剖する―ブラックボックスを開く会話分析―』日本評論社.

書誌情報

掲載誌MEDIA, ENGLISH AND COMMUNICATION, No. 16 (2026, pp. 59-82)

発行元:一般社団法人 日本メディア英語学会

表 題:『クレイマー、クレイマー』におけるマンスプレイニングの会話分析―テッドが抱えるミソジニー―

著 者:稲永 知世(佛教大学)

要 約:本稿は、会話分析(conversation analysis; Sacks, Schegloff, & Jefferson, 1974など)を分析的枠組みとして援用し、映画『クレイマー、クレイマー』(原題:Kramer vs. Kramer)における主人公テッド・クレイマーとふたりの女性(元妻のジョアンナ・クレイマー、彼女の友人マーガレット・フェルプス)とのやりとりを分析し、このやりとりのなかでテッドが実践するマンスプレイニング、そしてこの実践の根底にあるミソジニーについて考察する。分析の結果、テッドがマンスプレイニングを実践する際には、その前に会話の流れとは異なる隣接ペアを開始する、発話を重複させる、発話を遮って、相手の発言権を奪うといった特徴があることが明らかになった。そして、ミソジニーを基盤とし、テッドは、フェミニスト的価値観を具現化し、家父長制を遵守しないジョアンナにはマンスプレイニングを継続した一方、ミソジニーを内面化することになったマーガレットには、マンスプレイニングをするのをやめ、家父長制における「いい母親」や「聖女」の役割を付与したのである。

キーワード:『クレイマー、クレイマー』、マンスプレイニング、会話分析

論文カテゴリー:研究論文

CCライセンス:CC BY-NC 4.0

執筆言語:日本語

受理日:2026年8月11日

© 2026 Inenaga Tomoyo

 
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