Journal of Information and Communications Policy
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Strengthening the digital economy and society: How networked space should be?
George SHISHIDOFumiko KUDOTatsuya KUROSAKAMasahiko SHOJITatsuhiko YAMAMOTO
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2020 Volume 4 Issue 1 Pages 201-224

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Abstract

日本が目指すべき未来社会の形としてSociety5.0が提唱されてから数年が経ち、デジタル経済社会においてはサイバー空間とフィジカル空間の融合は深化している。

そこでは、Society5.0の名の下にイメージされていた創造性の発揮や利便性の向上が見られる一方で、従来の個人情報保護政策や競争政策の枠では捉えきれないデジタル経済社会における「新たな課題」も出現してきている。

このような「新たな課題」を適切に捉えるためには、現在起きている地殻変動を、単にサイバー空間の領域が拡張し、フィジカル空間を侵食しているものとイメージするのではなく、むしろ、サイバー空間における活動とフィジカル空間における活動が、データの流通を介して相互に深く影響を与え合うという関係性・循環性を適切に認識することが重要である。

そのようなサイバー空間とフィジカル空間の活動がデータの流通を介して相互に深く影響を与え合う相互の関係性・循環性を含む総体としての「ネットワーク空間」における状況と課題について、大きく4つの議題(「ネットワーク空間の環境変化とその背景」、「環境変化に伴う社会経済的な課題」、「課題解決に向けて採るべき政策、目指すべき姿」、「新型コロナウイルス感染症拡大に係る問題意識」)に分け、それぞれについて話題を提起しつつ、有識者による議論を行った。

1.イントロダクション(「ネットワーク空間」の影響力の増大に伴う社会経済の課題)

宍戸 「デジタル経済社会を支えるネットワーク空間の在り方」に関する座談会を始めさせていただきます。この座談会では、サイバー空間とフィジカル空間の活動がデータの流通を介して相互に深く影響を与え合う相互の関係性・循環性を含む総体を「ネットワーク空間」と呼び、それについて識者の皆さんと議論させていただきたいと思います。

ネットワーク空間の環境が様々な要因により大きく変化し、そこでは個人あるいは企業から情報が発信される、また、それらの個人や企業あるいは政府がその情報を受け取るという大きな2つの流れの循環が、今述べたサイバー空間とフィジカル空間の融合あるいは相乗効果を生んでいます。そして、このようなネットワーク空間が、かつての広場や政府が担ってきた公共的、パブリックな性格を非常に強めてきている状況だろうと思います。

それは同時に、フィジカル空間上のパブリックな領域を前提にして動いてきた主体の在り方、主体の行動が大きく変容しつつある状況でもあります。一人ひとりが公共空間に自由に出たり入ったりすることを前提にして基本的人権を享有し、また、公共的な活動あるいは経済活動に参加するといった個人の生き方が近代社会において成立していたところ、ネットワーク空間の成立とその影響力の増大によって個人の在り方がどのように変わっていくのかが、我々憲法学者にとって大きな問題として感じられています。

そのことをはっきりとさせつつあるのが、新型コロナウイルス感染症拡大における現在の世界や日本社会です。サイバー空間を通じて様々な公共的な活動が見られ、ICTの技術を活用した新型コロナウイルス感染症対策も様々に議論されています。しかし同時に、それには監視社会につながるのではないかといった懸念もあります。

また、サイバー空間の影響力の増大に対して、フィジカル空間の様々な問題も顕在化しています。例えばハードウエアの問題がありますし、家の中に個室がある人はテレワークに対応できるが、そうでない人はインターネットが使えても対応できないといった問題も明らかになりました。今後のニューノーマルも見据えた上で、サイバー・フィジカルが融合するネットワーク空間をどのように形成していくのかという問題が、新型コロナウイルス感染症の状況によってさらに切迫性を増した、と私は考えております。

このようなネットワーク空間の影響力の増大に伴う様々な社会経済的な課題は、すでにこれまで指摘されてきました。このネットワーク空間がデータの流れによって成り立っていることからすると、データが円滑に流通すると同時に、流れてはいけないデータが流れないようにするアクセルとブレーキの両方が必要です。

従来の個人情報保護法制やプライバシー権論では、個人が自らの情報のコントロールをする自己情報コントロール権または情報自己決定権を重視してきましたが、これだけネットワーク空間が大きくなり、非常に多くのデータが流れるようになると、本人によるコントロールがどこまで可能なのか、個人の判断をどう支えるかという問題や、ネットワーク空間における新しい、複雑なプライバシー問題が出てきています。

また、ネットワーク上に流れる様々な情報の中には、フェイクニュースやディスインフォメーションと呼ばれるものがあり、それが翻って、我々のフィジカル空間における公共的な政治や世論の在り方に大きな影響を与えています。

そういった状況の中で、この座談会では、識者の皆様と、今概観した問題状況を把握すると同時に、課題解決に向けて議論したいと思っております。また終わりのところで、新型コロナウイルス感染症拡大との関係で情報通信政策に期待されることについても御議論をいただきたいと思っております。

図1.ネットワーク空間のイメージ図

図2.「ネットワーク空間」を取り巻く課題

2.ネットワーク空間の環境変化とその背景

2.1.近年における「ネットワーク空間」の特徴や動向

宍戸 まず、この座談会の第1の柱である「ネットワーク空間の環境変化とその背景」について、工藤先生から話題提供をお願いします。

工藤 宍戸先生が提示されたネットワーク空間の特徴は、恐らく5つにまとめられると思います。過去5年の動向と、今後3年程度の将来予測を踏まえて提示します。

1点目は、あらゆる情報のデータ化・分析可能化です。例えばアンケートや商品を選択する「クリックベース」に、位置情報や生体反応などを取得される「センシングベース」が加わり、多様で豊富なデータが捕捉されつつあります。また、人や都市だけでなく、動物や自然にも対象が拡大するでしょう。新型コロナウイルス感染症で明らかになったとおり、人獣共通感染症対策のために、野生動物等の検疫情報も今後収集する必要がありますし、激甚化する自然災害に対応すべく、大気、海流、地盤のような情報もIoT(Internet of Things)で捉えられていくことでしょう。

2点目は、利用者の限定合理性です。膨大な情報の収集・分析が可能となる一方で、個人の判断能力や認知能力は大きく変わりません。そうすると、プライバシーポリシーを読まずに同意してしまうことが典型例ですが、情報を得ても十分に判断できない問題が顕在化します。それだけではなく、自己決定をどこまで尊重するのか、幸福と自律のトレードオフが生じるのではないかに留意すべき場面が出てきます。また、信頼できる人工的エージェント(代理人)のような、膨大で複雑な情報を縮限してくれる存在が今後ますます必要になると思われます。

3点目は、パーソナライズの精緻化です。ターゲティングや個別最適化が過度に進むと、自分好みの情報だけに泡のようにとり囲まれてしまう「フィルターバブル」現象や、閉じたコミュニケーションで自己の信念が強化・増幅される「エコーチェンバー」現象が発生すると言われています。宍戸先生が「通信の秘密に関する覚書」という論文で指摘された「先回りされる個人」も、今後深刻化するかもしれません。すなわち、ビッグデータに基づいてAIがプロファイリングなどをすると、本人の選好が捕捉され、決定に先立つ形で、好ましい選択肢が提示される情報環境が整う。快適ではありますが、自己決定との関係でセンシティブな課題をはらみます。

4点目は、情報拡散の加速です。個人が情報の受け手のみならず出し手になったことで、フェイクニュースや偽情報の問題は深刻化しました。さらに、サイバー空間はテキスト中心でしたが、通信技術等の高度化・一般化に伴い、画像や動画も豊富になり、イメージで駆動する世論形成がしやすくなるでしょう。機械学習を利用した偽動画製作技術「ディープフェイク」の動向にも注意を払わなければならないと思います。

5点目は、プラットフォームによる情報の管制です。アーキテクチャやアルゴリズムによって個人や企業が制約される問題が、さらに前景化するかもしれません。SNSでの情報の出し方を変えることで投票行動へ影響を与える「デジタル・ゲリマンダー」は、民主主義上の課題です。同時に、データやアルゴリズムの寡占の話でもあり、市場や競争政策の課題でもあります。過去5年で大きな問題となりましたが、その解決が今後3年でどう図られるか、注視したいです。

以上5点が、ネットワーク空間の特徴に関する見立てです。ただ、これらは本質的な特徴ではありません。なぜなら、技術やデータの使い方は、利用者や社会との相互作用の中で規定されるからです。私たちが介入することで、この特徴は変化します。憲法学者ジャック・バルキンが「The Path of Robotics Law」という論文で指摘しているとおりです。

さて、現時点での5つの特徴を踏まえ、3つほど話題提供をしましょう。

第一に、「近代的個人」との関係です。ネットワーク空間は、近代的個人を実現するものですが、同時にその前提となる諸条件を解体し、個人の在り方そのものを変容させる可能性も秘めています。すなわち、データの流通を通じて人々の生活を豊かにし、個人の尊重や平等や幸福追求を可能とする側面があります。他方で、デジタル人格のインテグリティ、AI美空ひばり現象などにみられた死者の情報、グループ・プライバシーなどは、<意思—行為—責任>の連関のような近代の建前を動揺させるかもしれません。

第二に、「公共性」です。4点目や5点目の特徴と関わりますが、プラットフォームの公共的性質が強調されつつあります。また、2点目の特徴とつながりますが、人間の限定合理性を補完する存在は、信頼に値しなければなりません。そうした信頼性や公共性をどう担保し向上させるのかが問題になります。

第三に、「ガバナンス」です。技術やデータのガバナンスは、必ずしもガバメント(政府)のみが担うわけではありません。プラットフォーム事業者をはじめとするビジネスの重要性を、私たちは長らく実感してきました。しかし、今般の新型コロナウイルス感染症によって改めて気づかされたのは、それでも政府は重要であったという点です。つまり、政府・行政が技術とデータを扱えるかが、国民の生命や健康を左右します。また、行政が企業と連携するB2G(Business to Government)のデータシェアも今後の課題です。G2B(Government to Business)におけるオープンデータの成果やシビックテックの活躍などにも注目すべきでしょう。同時に、政府・行政同士のG2G(Government to Government)のデータシェアの重要性も増しています。緊急時だけではなく、平時の対応にも生かしていく点も考える必要があるかと思います。

2.2.近代的個人の在り方を踏まえた社会

宍戸 ありがとうございました。ネットワーク空間の本質論ではなく、現在の特徴と論点の提示を頂きました。それでは、庄司先生からお願いします。

庄司 工藤先生のお話の中の、近代的個人の在り方を問い直すような状況になってきているという話に1つ思うところがあります。同意の有効性が今問われるようになってきていますが、人には認知限界があるので、それを補うような同意のデザインをしたほうがいいと思います。しかし、そうすると、誰かにある部分をお願いする情報銀行のようなものや、ナッジもですが、若干他者による介入という側面が出てくるところについて、近代人としては少し自由を失う警戒感も感じています。

一旦は近代的な、個人がちゃんと自分のことについて意思決定ができる前提に社会の前提を一度振った上で、認知に限界があるとしてそれを補う議論をするのであればいいのですけれども、そこまで行っていない段階で誰かが代わりに判断や設計してくれるとなると、誰かに任せ過ぎるのではないかという懸念を持っています。

宍戸 ありがとうございました。御指摘は、自律的な個人像を掲げてきた我々の近代的な社会を実現するためにICTの普及が進んできたはずが、その普及が非常に速くて、先ほど述べたようなネットワーク空間が形成されてきている。そのことによって我々が目指してきた近代的な社会や個人像が追いつかず、言わばポストモダンがプレモダンになるような状況が生じているという問題提起でもあると思います。それでは、クロサカ先生お願いします。

クロサカ 近代的個人については非常に重要なテーマと思っています。修士過程の頃に、この辺りの話にのめり込み、ニクラス・ルーマンやハーバーマスなどを読んでおりました。

当時はインターネットが、いわゆる第1次ネットバブルの時代で、目の前にネットが迫ってくる毎日でしたが、ソフトウエア・アーキテクチャや社会構造としてのアーキテクチャに我々は強く依存し、その影響を極めて大きく受けていることをそのときに感じました。

といいますのは、近代における公と私の概念の成立の背景に、家が建ち、家の内と外が隔たれ、境界に鍵があるという構造が非常に影響を及ぼしており、鍵をかけるようになった瞬間から我々は公と私を明確に分けるようになり、その境界を管理する意識が生まれるという言説があって、得心するところがあったわけです。

物理的なものも含め、そうしたアーキテクチャの影響を我々が受けているとすると、今のネットワーク空間やその発達からもまた影響を受けていて、恐らく近代的な自我の在り方も変わりつつある最中にいるという気がしています。

つまり、先ほど5点挙げられましたが、全ての問題提起がムービングターゲットだという気がしました。これをどうするのかは非常に悩ましい問題です。そしてこのタイミングでまたアーキテクチャが変わろうとしており、新型コロナウイルス感染症の影響もあれば、5Gがやって来るなど、様々な要因がある中で我々は今生きています。おそらく主体的にアーキテクチャを選択することがもはや困難な状況にあるのではないかと思います。

つまり、様々な外部環境の変化をどこかで受け入れなければいけない瞬間がある。ただ、それを無為に受け入れていくのでは、この時代に生きている意味がない。すなわち我々は人間として何を獲得したいのか、どのようなシステムの中で、どういったポジションを獲得したいのかを、そろそろ明らかにしていかないと、ただ単純に便利さを求めるというだけではない、その先のパラダイムに進めない。その獲得したいポジションのつくり方や定義の仕方、あるいは合意形成の仕方が今求められているのではないでしょうか。

従来であれば、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazonの4社)が向かう方向に行けばいいという雑な世界でしたが、人間が進む方向を示す存在としてのGAFAはもう賞味期限を迎えていると思い始めていて、では、次のパラダイムを感じさせる環境や技術、サービスの在り方が何なのかを同時に考える必要があると私は思います。

宍戸 ありがとうございます。現在の構造的な変容により近代社会の土台が影響を受けているということから始まって、我々が目指すべき社会像をどう議論すればよいのか、そのこと自体がまだ手探りの状況だということを御指摘いただいたと思います。それでは、山本先生お願いします。

山本 私自身は、ネットワーク空間は近代的な個人像を完成させるものとして、割とシンプルに捉えています。例えば、近代は個人を、封建的身分制下の「固定された」存在から「移動できる」存在に変えた。でも、実際のところ移動には多大なコストがかかり、そうした個人像は完全には実現されなかったわけです。しかし、テレワークは個の移動性・流動性を確実に高めます。他にも、マイナンバーは、「世帯」ではなく「個人」に振られますから、「個」を封建的な家族集団から解放して、その移動性を飛躍的に高めるかもしれない。さらに、データポータビリティ権により、自己のデータ一式、工藤先生のいう「デジタル人格」を自由に持ち運べられるようになれば、居住する自治体を含め、コミュニティ間を軽やかに移動できるようになります。

また、身分制の否定から生まれた近代的個人は、様々な社会的ステータスの間を自由に移動できる存在とされた。しかし現実には、どれぐらいの経済的・教育的リソースを「相続」したかで、ステータス間の移動は事実上制約されていました。いわゆる制度的・構造的差別も、こうした「移動性」を制約してきましたよね。しかし、例えば信用スコアのように、資産や学歴だけでなく、行動履歴を含む多様なデータポイントから個人の信用力を可視化してあげれば、個人は、生来的・制度的な諸条件から自由に、社会的ステータスを主体的に変更していくことができるかもしれない。

このようなことで、私は、ネットワーク空間は近代が夢見た「移動する個」を実現するためのものと、まずは考えています。ただ、もちろん課題もあります。1つは、個人の選択がアルゴリズムに「ハック」され、誘導されるという問題です。私は、自律的で主体的な決定を行う個人というのはあくまで規範的目標だと考えているので、現実として個人に認知限界があり、そうした能力を欠くことは問題だと思っていません。こうした欠損部分は、従前からも意識され、消費者保護制度など、この欠損を補完して決定をサポートする諸制度は存在してきました。ネットワーク空間では、AIやアルゴリズムがこの欠損部分を埋め、決定をサポートしていくわけですが、センシングやプロファイリングの高度化などで、あまりに個人の心理的傾向や認知バイアスが透明化してしまうと、認知過程を外から歪めることが簡単になる。これは確かに重要な課題です。

2つめは、個の移動性がネットワーク空間で飛躍的に高まると、あらゆる「集団」が、個人がテンポラリーに選択する目的的結社(ゲゼルシャフト)となり、集団の連帯、絆が育まれにくくなるという問題です。例えば自治体がスマートティ化して、個人によって容易に選択可能な団体になると、共同体意識が薄れ、団体自治が成立しなくなる可能性もある。これは婚姻関係も同じで、個の移動性が高まると、「家族」も容易に離脱可能な目的的結社となり、家族メンバーへの責任意識がなくなる可能性があります。ネットワーク空間が可能にする個の移動性が、「集団」の意義を大きく揺さぶるという課題です。

以上のような課題はありますが、私は、ネットワーク空間を、まずは個の自由、なかでも移動の自由を実現するものとして積極的に捉えています。けれども、どうも政府や経済界から、そういうメッセージがあまり発信されてこなかったように感じます。例えば、マイナンバー制や行政のオンライン化では行政の効率性が、スマートシティ構想ではイノベーションや経済発展が強調され、封建的集団からの個の解放や移動性といった規範的な目標は積極的に語られてこなかった。クロサカ先生が御指摘された、「われわれは何を獲得したいか」が、日本では明確でなかった。これは、DX(デジタルトランスフォーメーション)が目標とすべき理想的社会像が国民の間で広く共有されてきたエストニアなどと決定的に違うところです。

ただ、最近になって、日本でも、憲法の基本的価値と絡めてネットワーク空間やDXを規範的に方向付けていこうという動きが出てきています。例えば、内閣府が昨年公表した「人間中心のAI社会原則」の第一原則は「人間中心の原則」で、そこには、「AIの利用は、憲法および国際的な規範の保障する基本的人権を侵すものであってはならない」と書かれています。

宍戸 ありがとうございます。今山本先生がおっしゃったような、新しいICT技術の発達、あるいはAIやビッグデータを使っていくことが、単に経済発展のためだけではなくて、一人一人にとってより良い社会を築くために必要であり、その方向で考えるべきであるといった方向に、Society5.0という言葉が出てきた辺りから空気が変わった印象がありますね。

山本 はい。このあたりから人文・社会科学的な視点を加味して、ネットワーク空間を規範的に方向付ける動きが出てきたと思います。Society5.0で生まれた萌芽が、SDGsやAI倫理の構築といった国際的議論動向と合流して、先のAI社会原則とも結びついていく。日本ではまだまだ不十分ながらも、こうした「文理融合」によりデジタル社会を人文知を加味して方向付ける流れがそれなりに定着してきて、スマートシティの議論や、私も関わった情報銀行の議論などに影響を与えていると思います。

情報銀行も、最初は割とビジネスベースで議論が進んでいたような印象です。そこでは、個人の自己実現や、個人による情報の実効的コントロールの部分は二の次だったイメージがあります。しかしだんだんと、人間の認知限界があるなかで、「受託者」としての情報銀行が、どう個人の実効的コントロールをサポートするのかに重点が置かれるようになってきた。例えば、NTTデータが今年初めに行った調査を見ると、情報銀行に期待するサービスで最も多いのは、マッチングやクーポン券などではなく、「自身の個人情報の追跡・安全性確認サービス」なのですね。ビジネスサイドも、ここに真の需要があって、ここを掘らなければならないことに気付き始めているように思います。個人はデータを搾取する対象ではない。個人を尊重することが逆に競争優位をもたらし、利益をもたらすのだ、と。

宍戸 ありがとうございます。さらに工藤先生から、コメントがあればお願いします。

工藤 ありがとうございました。山本先生のおっしゃるとおり、近代的な個人像は「理想」的で「高めの球」だと私も思います。自然的な事実認識というよりは、規範的に構築されたモデルや理念です。それを前提として、つくり込まれたフィクションとして、近代の諸制度は構築されてきました。

そのため、理想や範型を実現するために技術やデータをどう使うかという視座も重要だと思います。近代的個人というモデルが何を実現するための仕組みや機能だったのかを分析できると、その再編に向けて、一定の示唆を得られるのではと考えます。

宍戸 ありがとうございます。今の工藤先生の御指摘は、先ほどクロサカ先生がおっしゃられた、この社会、あるいは世界をどうしていくのかを議論をするときに欠かせない2つの軸である、幸福と自律を巡る調整に関わりますね。庄司先生がおっしゃる、幸福一辺倒になるようなリスクと、個人の自律を通じて、自らの、あるいは社会全体の幸福を実現していく可能性に賭けるべきではないかという山本先生の御指摘を、工藤先生の立場から整理していただいたと思います。

庄司 スマートシティの議論や新型コロナウイルス感染症への対応などで、ビッグデータなどの様々なデータ、センシング技術やAIなどを使って、究極の管理社会のようなものを私たちはつくってしまうのではといったイメージが持たれがちですが、目指しているものは、近代的な自立した個人の活動を通じての幸福であるということが議論から見えてきましたので、大変心強く思いました。

3.環境変化に伴う社会経済的な課題

3.1.利用者による情報のコントロールと今後のビジネスの在り方

宍戸 次に、「環境変化に伴う社会経済的な課題」について、より具体的な議論を進めたいと思います。クロサカ先生、山本先生から話題提供を頂きたいと思います。

クロサカ ユーザがどれぐらい主体的にシステム及びシステムの変化に関与できるかという関与可能性(これは関与不可能性と言った方が妥当かもしれません)が高まっている問題意識の下、利用者による情報のコントロールが非常に重要といった議論がされていると思います。

利用者が情報をコントロールするために、利用者自身がその情報を制御している情報システムを十全に利用できることが大前提だと思います。一方で、ユーザという立場は与えられてはいるものの、我々は既存の情報システムをそれほど使いこなせていたのでしょうか。

それは機能的に複雑で難しいこともあれば、ビジネスモデルやシステムの構造、環境など様々な制約に起因して、ユーザであるにもかかわらず、システムの機能に対するアクセスが制限されていることもあるわけです。そのことから、既存の情報システムの多くが、人間中心のシステムアーキテクチャになっていないことが、蓋然性のある仮説として浮かび上がってきます。

そのように考えると、インターネットの発展と普及が、どこかのタイミングで人間を置き去りにしてきてしまった局面があるのではないかと考えられます。

インターネットは1990年代によく出来過ぎていた面があって、その当時の経済合理性に叶うものだったので、放っておいてもみんな使ってくれたわけです。それをどんどんビジネスのインフラとして取り込んで、勝手にモチベートされ、どんどん先に進んでしまった。結果、インターネットを使って回していくことが経済であるという世界になり、そのインセンティブメカニズムが、自己言及のパラドックスのような状態になってしまった。すなわち、人間がインターネットに合わせることを、要求されるようになった。その頃からシステムが人間のことを置き去りにして発達し、また置き去りにされた人間が駄目であるという文化が出来てしまったわけです。

そしてそのことにGAFAに限らず多くのプラットフォーム事業者は気づいていながら、彼ら自身も逃れられない、簡単には身動きが取れない状態になっていると思っています。

先日、あるプラットフォーム事業者の開発者向けイベントが開催され、プライバシー周りでも様々な取組が出てきたので面白いと思って見ていましたが、一番気になったのは、スマホを鍵にしようとしているということです。単にサイバースペースのアクセス権としての鍵ではなくて、物理空間の鍵として使っていこうとしており、彼らは、我々にずっとスマホを使わせようとしているのだということに気づきました。

顔認識システムや生体認証なども含め、スマホに依存しない世界でサイバー・フィジカルが融合し、企業側でコントロール可能なソリューションがすでに出始めています。Society5.0ではスマホはそろそろ要らなくなるはずなのに、そんな時代と逆行しているように感じたのです。

そういうことを言わざるを得ない彼らは賞味期限が近づきつつある気もしている一方、ものすごく大きなチャンスを我々はユーザとして迎え始めており、今だからこそ、我々が何をしたいのか、何を本当に幸せとして獲得したいのかをビジョンや理想からの逆算としてのアーキテクチャを考えることが可能なタイミングに来ていると思います。

その議論が抜けた状態での何らかのソリューションの提案は、非常に陳腐に見えてしまう。例えばスマートシティは危ないと思う瞬間があり、スマートシティ化して何をしたのかがはっきり示されないと、その街に住みたいか疑問に感じてしまうわけです。

そのことに多くの方が気づき始めていて、もう一回立ち戻って考えなければいけないことが問題提起されていると思いますが、一方でビジネスコンサルタントとしては、ビジネスモデルが見えないわけです。経済は社会の1要素にすぎないですが、経済を回していかなければいけないことも事実で、どのように事業化、産業化するのかが非常に難しいと感じています。

ただし、新型コロナウイルス感染症は、大きなヒントを与えてくれていると私は思っていて、生命に関する要件の優先度が急激に上昇しているからこそ、テクノロジーでサポートしてくれることはもっと考えられるべきであろうと思います。

生命が出てくるのであれば、財産も次に出てきます。価値交換やブロックチェーンベースの話などで20年間のインターネットとスマホの恩恵によってコンシューマライゼーションが進んでいるわけですから、割と簡単につくれる話だと思うのです。そして、簡単につくれるからこそ、それで何をしたいのかを明確に言語化していくことで合意形成を図るしかないと考えています。

仮にそれができるのであれば、ここから先の何十年は結構楽しくなるのではないかと思っていますし、今ちょうど分かれ目にいるのではないかと思っています。

3.2.人間やユーザ中心の考え方によって実現される社会

宍戸 ありがとうございます。山本先生からもお願いします。

山本 クロサカ先生のお話で「ユーザ」という言葉が出てきましたが、もしかするとそれがネットワーク空間における鍵概念になるのかな、と思いました。私は、ネットワーク空間における「個人」を、先ほどお話ししたイメージで捉えていますが、具体的な制度設計の場面では「ユーザ」というコンセプトが有用かもしれません。というのも、「ユーザ」は、何か「消費者」とも違うし、一つの国家に存在して、その国家の法・社会制度を前提としたドメスティックな「利用者」とも違うように感じるからです。

「消費者」は、消費者契約法上の取消しなど、事後的な是正・救済を受けうる受動的な存在だったと思うのですけれども、「ユーザ」はUI(ユーザインターフェース)やデザインによる事前的な支援を受ける。その支援により、特定の場面では、アグレッシブかつ主体的に選択・決定する存在となる。しかし通常の場面では、事業者のアルゴリズムが自動的に提供するサービスで基本的に満足する。要するに、受動性と積極性が入り混じった二面的存在で、かつ国境を越えた存在。今後は、「ユーザ」という地位を法的に分析し、それを中心に法・社会制度を構築していくというスタンスが重要になってくるのかもしれません。

例えば、情報銀行の場合、基本的には自らの情報を情報銀行に託し、情報の管理をしてもらう。そこは受動的です。しかし、透明性が確保され、データポータビリティ権などが認められることで、嫌ならその情報銀行から離脱して、他の情報銀行に託し直す、という決定・選択を行うことができる。すべてが「誰か任せ」ではなく、誰に任せるかについては主体的かつアグレッシブに選択している。これは、クロサカ先生が問題にされた情報のコントロールの限界とも関係します。私自身、これからの自己情報コントロール権ないし情報自己決定権は、一つ一つの個人情報の開示や利用をすべて本人がコントロールすることではなく、「誰にそのコントロールを任せるのか」という、つながり先をめぐる大きな自己決定に重点が置かれると思っています。トラストするネットワークに関するこの主体的決定を、ユーザ目線で、ユーザビリティの観点からどう実現していけるかがポイントになるように感じています。

また、スマートシティを例に挙げると、今後は「どのスマートシティに住むか」という大きな決定の次元がありうる。この結果、これまでの自治体=住民の関係から、自治体=ユーザの関係に変わってくると思います。各スマートシティが創り出すネットワーク空間にも「個性」が出てきて、あるシティでは、「幸福」ベースの「良き監視」が重視されるかもしれない。そうすると、その内部では多くの決定がAIにより自動化され、個人は受動的な存在になるわけですが、シティの選択という大きな決定は本人に留保される。その決定の次元では積極的な存在になるわけです。したがって、シティ内部のシステムにおけるユーザビリティが大事なのはもちろんですが、シティ間の選択を可能にするメタシステムのユーザビリティも重要になってきますよね。具体的にはマイナンバーだったりデータポータビリティ権の活用だったりするのでしょうが、ここでもユーザ目線が重要になってきそうです。

宍戸 ありがとうございます。今のお二人の話を受けて、コメントさせていただくと、最初にクロサカ先生から御指摘いただいた中で、これまでのサイバー空間が人間中心のアーキテクチャではなかったのであり、ビジョンをしっかり持ってサイバー空間とフィジカル空間を変えていかなければならないという話だと思います。

そこで、どうしても引っかかるのが、人間像を1つにできるのかという問題です。我々の歴史を振り返ってみると、近代国家という1つのシステムアーキテクチャが形成され、それが「個人」という像を創り出したわけですけれども、それは人々にとって1つの押しつけでもあり、しかも「個人」への約束とは裏腹に、国民国家の構成員であること、言語も標準化し、選択の幅が実は結構狭く、特定の生き方に向かうことが期待される、人間の平準化が伴った部分があったわけです。

新たに我々がある種の設計主義的な議論をして、人間中心ということを考えるときには、そこに非常に気をつけなければいけない。そのことを山本先生はユーザというコンセプトで切り取られたと思います。そこでは、選択が可能であり、多様性を保障するためのアーキテクチャでなければいけないということが、クロサカ先生の話と融合してくるのだと思います。

さらにクロサカ先生は、かかるアーキテクチャがいかにして供給されるのかという重たい課題を提起されたと思います。そこがうまくいかなければ、例えば国営アーキテクチャによって、国民国家がたどった道をまた繰り返してしまうと感じたところです。

工藤先生いかがでしょうか。

3.3.デザイン思考と数値化(センシング)によって実現される社会

工藤 2点コメントをします。まず山本先生のユーザというステータスについてです。私見では、ユーザは「タダで使う人」といったニュアンスもある気がしています。クロサカ先生のビジネスモデルの話とつながりますが、いわゆるGAFAは、広告かデバイスかEC(電子商取引)で稼いでいます。そして、端末を買う人が消費者で、広告を見る人はユーザではないでしょうか。広告を見たり、コンテンツを投稿したりする存在であるように思われます。ここで注意したいのは、データソースやデータ生成手段として、ユーザが扱われる点です。カントの定言命法に反するような「手段としてのみ扱われる存在」として見られがちだと思います。

他方、プラットフォーム事業者も、この点を気にしているからこそ、最近は「ユーザ」ではなく「個人」として扱おうとしています。バイデザインやデザイン思考などの形で、その人自身のことを見ながらサービスを設計していく発想が生まれてきています。デザイン思考は、データに基づいて各個人を深く理解し共に創造しようという発想なので、宍戸先生がおっしゃるような「人間の標準化」「人間像を1つにする」ことに一定程度抗い、バリエーションを持たせるものでもあるでしょう。それが市場競争のなかで実現するなら、明るい未来が待っていると思います。

宍戸 ありがとうございます。庄司先生、お願いします。

庄司 今のデザイン思考という言葉を拾って自分の言葉につなげたいと思うのですが、デザイン思考で重要なのはユーザ目線で考えることだ、あるいはユーザに寄り添うことだとよく言うわけです。しかし、そのユーザ目線や寄り添うという段階では、まだ主導権はユーザに渡していません。ユーザがデザインしているかのような気分で誰かがデザインしているわけで、本当にその人に自由や自立を与えているのかは疑問なところがあります。

プラットフォーム事業者の様々なサービスは、自由を与え、様々なことをさせて、たまにプラットフォーム事業者側も予想もしていなかったような使い方が出てきたりするわけです。例えば、ポケベルが女子高生に使われたように、普及段階に入って予想外の使われ方をしてくるといったメカニズムのようなことがこれから大事になってくるのではないかと思います。

この話をスマートシティに適用すると、ありがちな幸福ではなくて、その人が本当に欲しい幸福を予想外に見つけるようなことにつながるのではないかと思います。そのため、経済社会システムとしては、予想外の創造性のようなものを生み出す余地をどのように残すかが大事なのではないかと思います。

宍戸 ありがとうございます。クロサカ先生、お願いします。

クロサカ バイデザインの重要性は、私も御指摘のとおりだと思っています。そこで、クリックベースからセンシングベースへという話があったと思いますが、バイデザインはセンシングベースのほうがやりやすいのではないかという気がしています。なぜなら、クリックベースはUI、UX(ユーザーエクスペリエンス)といずれも非常に固定的でスタティックなものを前提としたシステムであり、それをどう使いこなすか、使い倒すかというユーザ側に利用要件を突きつけられている状態だと思うからです。

この後、センシングベースになっていくと、ユーザはシステムを使うという感覚が徐々に希薄になっていくと思います。つまり、ぼんやり歩いている状態こそが既にデータ化されていく世界であるということです。これはもちろん一見すると、完全に制御できないような気持ちになってしまうのですけれども、センシングされたデータを丁寧に解析し、全て記録していくような制御する方法は本来可能であるはずなのです。

振り返ってみると、我々はウェブサービスを使っている中で、自身のログデータさえも今、十分に提供されておらず、アクセスできていない。そのため、データポータビリティ権の話が出てくるわけです。しかし、ブロックチェーンなどによってコストと信頼性の問題を同時に解決することが技術的には可能になってきているわけです。この我々自身のヒストリーを我々自身が管理し、それを必要な局面でシステムやアーキテクチャに適用させていくことは、技術的には十分可能な世界に近づきつつあると思っています。

そのため、センシングベースにどこか怖さや気持ち悪さはあるとは思うのですけれども、丁寧に自分の記録を残し、それを自分自身がコントロールして、ここの部分は自分の認識としてシステムに反映させることや、この部分は間違えていたので、取り除くなどの制御ができるようになれば、我々は人間中心における人間像をユーザが自分で規定することが可能になってくるのではないでしょうか。そこにアーキテクチャや技術的な面も含めて将来可能性を見いだしたいと思っています。

3.4.政府と民間事業者の連携の重要性

宍戸 ありがとうございます。山本先生からもコメントはございませんか。

山本 先ほど工藤先生からユーザの特徴について言及がありましたが、興味深く伺いました。消費者は「買う」が、ユーザは「利用」する。その利用・アクセスは、多くの場合タダなので、タダで使う輩として敬意が払われないと。これは、ユーザをプラットフォームのためにデータを耕す農奴と捉える、E・グレン・ワイルのいう「テクノロジー封建主義」の発想に近いですね。ただ、今後、プラットフォームの透明性が高まれば、いわゆるアテンション・エコノミーの構造が可視化されていくと思います。アテンション・エコノミーとは、魅惑的なコンテンツや有用なサービスを提供することでユーザのアテンションを奪取し、このアテンションを広告主に売る、というビジネスモデルです。このモデルが可視化されると、サービスを受けられるのは、ユーザが「アテンション」を支払っているからだということになり、サービス提供とアテンションとの取引的な関係が明らかになる。それにより、ユーザはアテンションを支払ってくれる大切なお客様だ、という意識も出てくるのではないでしょうか。

また、宍戸先生からアーキテクチャがいかにして供給されるのか、といったお話がありましたが、一つ考えられるのは、プラットフォーム間の競争です。それには国家ないし国家連合が、プラットフォーム事業者に対して競争法的な規律をかけていく必要があります。透明性の確保や、データポータビリティ権の保障などにより、プラットフォームの選択可能性やプラットフォーム間の移動性を高めることで、プラットフォームのユーザビリティがマーケットドリブンで改善されていく可能性があります。

加えて、国家の側のアークテクチャがどう改善されていくのかにも注意が払われなければなりません。政府や国会の努力が不可欠なのはもちろんですが、プラットフォーム事業者の影響や存在も重要になってくると思います。プラットフォーム事業者は、国境を越えて多数のユーザを抱えており、そこから大量のデータを集め、分析することができる。洗練されたアルゴリズムを持っているかもしれない。公衆衛生などのために、国家がそうしたデータや予測モデルを必要とすることがありえますが、国家は、それらを得ることと引き換えに、プラットフォーム事業者からユーザフレンドリーな条件設定を要求されるかもしれません。それにより、国家は、プラットフォーム事業者から先進的なアーキテクチャを学び、取り込まざるをえないことになる。

今後、評価が分かれるかもしれませんが、例えば新型コロナウイルス感染症対策の接触確認アプリ(COCOA)は、GoogleとAppleの仕様を用いた。このときにGoogleとApple側から提示された条件を飲んだことで、アプリがかなりプライバシーフレンドリーなものになったとも考えられます。政府が、LINEやヤフーからデータを提供してもらった際も、むしろプラットフォーム事業者の方がユーザのプライバシーのことを考えていて、その中で政府の側がデータの扱い方を変容させていく側面もあったように思います。

国家とプラットフォーム事業者とが抑制と均衡の関係に立って、緊張のなかで戦略的パートナーシップを取り結ぶことで、それぞれのアーキテクチャが相互に鍛え上げられていくという可能性はあるように思います。

宍戸 ありがとうございます。アーキテクチャを供給するプラットフォーム事業者、それが既存のGAFAなのか、それ以外の新しい来るべき存在なのかわかりませんが、それとユーザのステータスで多様性が確保されるべき我々個人と、パブリックな集合体である国家の3面関係をどう考えていくかという問題かと思います。

また、今まで伺ったお話を踏まえると、ユーザはいわゆる「消費者」にとどまるものでもなくて、あるべき姿は組合に近いイメージかと思います。他と対立する主体というよりは、自らのエクスペリエンスを企業側やプラットフォーム事業者側に求め、企業側もエクスペリエンスをユーザに提供することをバイデザインで考えていく存在だろうと思います。

他方で、アーキテクチャを提供する事業者と国家、政府の間がつながる関係と、同時に緊張関係の両面が出てきました。これまでの、両者の間に距離があり、どちらが強いかという関係ではなくて、ぐっと距離が近づいてきて、両者が融合ないし連携していく。それと同時に、一方的な支配に事実上、陥らないような節度や緊張をどうもたらすか、より複層的な関係を考えていく必要があると感じました。

4.課題解決に向けて採るべき政策、目指すべき姿

4.1.今後のフィジカル空間のあるべき姿とプラットフォーム事業者との付き合い方

宍戸 さらに「課題解決に向けて取るべき政策、目指すべき姿」についても御議論いただきたいと思います。まずは庄司先生、お願いします。

庄司 新型コロナウイルス感染症への対応を考えてみると、デジタル経済社会はますます本格化し、サイバー・フィジカルの融合型になっていくでしょう。今まではどちらかというとフィジカルがメインで、サイバーが補助的でしたが、サイバーを強化しサイバーに軸足をおいて両方を組み合わせるような、新しいスタイルになっていくと思います。そうすると、必然的にネットワーク空間の在り方、環境も変わって、新たな課題もたくさん出てきます。

私が注目しているのは、その変化に伴って、フィジカル空間も変わらざるを得ないということです。通常の状態ではみんなオンラインにいるという前提になると、たとえば紙を使った手続をどうするか、ハンコをどうするかという議論は、人々の行動ばかりかオフィス空間や部屋の使い方も変えていくということになるでしょう。人と人がわざわざ会う場合には、明確に目的があって、その目的を最大限実現するための空間が求められます。

先ほどクロサカ先生から、スマホ以外という言葉がありましたが、オフィス空間そのものにコンピューティングを埋め込んで、ブレインストーミングの効果を最大化させるような空間の作り方などが考えられると思います。

そうなると、センシング技術などをあらゆる場所で駆使することになりますので、そうした社会でデータを扱う主要なプレーヤーには、さまざまな空間や物を扱っている企業や、ガバメントも含まれてくるでしょう。バーチャルだけでなくフィジカルも含めたデータを組み合わせることによって、さらに新しい価値が生まれてくると思います。

今までもオープンデータやB2Bの取引はありましたが、もっと様々なB2B、B2G、G2B、G2Gの取引や組み合わせをした、新しいビジネスやサービスの創出、シェアリングが起こるでしょう。個人データよりも、むしろ非個人のほうがいろんな組合せが起こるでしょう。そのためのルールの検討がさらに必要かと思います。

また、当面はネットワーク空間をコントロールする非常に強い影響力を持ったプラットフォーム事業者がいるわけですが、今のGAFAではないものになったとしても、常に市場には誰か大きなパワーを発揮する存在がい続けるでしょう。国家も市場も新しいプラットフォーム事業者とどう付き合うのかが重要です。

プラットフォーム事業者に対しては、役割の大きさ、影響力の大きさに応じた責任を負っていただく必要があると思いますし、ユーザも何らかの声を上げて、プラットフォーム事業者のチェック・アンド・バランシスを確立する必要があるでしょう。もちろん政府も彼らに対する規制や要求をしていく必要がありますし、また時には、新型コロナウイルス感染症対策の接触確認アプリのようにがっちり協力する必要もあると思います。プレーヤーが増えることによって、いろんな組合せで規制や協力を組み直す必要があると思います。

4.2.フェイクニュース対策とサイバー・フィジカル空間のバランス

宍戸 ありがとうございます。山本先生からも、お願いします。

山本 まず、P2G(Platform to Government)やG2P(Government to Platform)の関係についてですが、これは宍戸先生や庄司先生に整理していただいたとおりだと思います。今後は、あらゆる政策が、両者の戦略的なパートナーシップのなかで実行されていくイメージですね。例えば、フェイクニュース対策にも、政府とプラットフォーム事業者との戦略的関係が不可欠だと思います。政府が直接的かつ積極的に取り締まろうとすれば、検閲の問題が出てくる。また、そもそもフェイクニュースはプラットフォーム事業者の民間インフラを通じて流通するので、これを実効的に規律しようとすれば、プラットフォーム事業者の手を借りざるを得ない。

私自身は、プラットフォーム事業者が積極的にフェイクニュース対策を行ってもよいと考えています。ただ、どういうアルゴリズムで「フェイク」を選別し、タグ付けなどの対応をしているのかについては透明化すべきだと思いますし、こうした措置に対して投稿者が異議を申立てることのできる公正な手続も必要です。この点で、Facebookが、著名な憲法学者を3人も入れて創設した監督委員会(Oversight Board)のような疑似司法的な機関が必要かもしれません。政府は、基本的に、プラットフォーム事業者のこうした組織的・構造的な取組みの実施・運用を統制する役割にとどまるべきでしょう。

各事業者の取組みを政府が「見える化」して、基本的に競争原理に委ねるというスキームでは、フェイクに厳格な事業者もあれば、比較的緩い事業者もあるということになります。しかし、逆にすべての事業者が同じ基準で「フェイク」を取り締った場合のリスクを考えると、ある程度の多様性を維持した方が健全とも考えられます。これまでの伝統メディアにも、真偽がないまぜで記事を提供するものがあり、ユーザは眉唾と分かりつつそれを楽しんでいた媒体もあった。今後もそういう「遊び」のフォーラムは残ってよい。

もちろん、このスキームにも限界があります。ユーザは情報の真偽より、面白さや刺激を選ぶかもしれない。アテンション・エコノミーのビジネスモデルから言えば、とにかくアテンションを集めてクリック数やPV(ページビュー)を集めなければなりませんから、フェイク対策を真剣に行うインセンティブがあまり生まれてこない可能性があります。しかし、問題投稿に対処しなかった事業者に対して、広告主が徒党を組んで広告を引き揚げたりすることで、このようなインセンティブが生まれる可能性もある。プラットフォーム事業者を利用する企業の倫理性に期待するという、ESG投資に近いアプローチも重要だと思います。

もう1つ、選挙や憲法改正国民投票などの重要イベントに近接する特定の期間のみ、ユーザに多様な情報をバランスよく摂取させるため、プラットフォーム事業者に特別の規制を課すということも考えられる。政見放送のように、政党に対して無料で政見を伝えるスペースをウェブページ上に創設させるというアプローチもありえます。政治的に多様な見解をフィードさせることで、フェイクニュースの影響を軽減するわけです。これは、フィルターバブルやデジタルゲリマンダリングへの対策にもなるでしょう。期間的な限定があれば、それが事業者やユーザの自由を制約するとしても、憲法上正当化されることになると思います。

先ほども触れましたが、新型コロナウイルス感染症対策で、政府はいまやプラットフォーム事業者の協力なくして十分な公衆衛生が実行できないことが露呈しました。両者の戦略的なパートナーシップは不可欠でしょう。しかし、プラットフォーム事業者が、自らの経済的利益の実現のため、国家に近寄り、国家を「ハック」する可能性もあるわけで、両者の関係性を民主的にチェックする必要も出てきます。御存知のとおり、例えば政府が他の主権国家と条約を締結する際には、憲法上国会の承認が必要となります。主権国家と主権国家との取決めは、行政協定は別として、条約という形式が取られ、国会による民主的な統制を受ける。他方、政府とプラットフォーム事業者との「協定」や取決めは、今後は条約以上に我々の市民生活に影響を与えるかもしれませんが、そうした民主的な統制を受けない。接触確認アプリでもそういう傾向が見られましたが、プラットフォーム事業者の意向が、我々のプライバシーや自由、民主主義のあり方にダイレクトに影響しうるにもかかわらず、です。今後は、政府とプラットフォーム事業者との「協定」内容を透明化し、それを民主的にチェックする仕組みを構築することが必要でしょう。

最後に、庄司先生も御指摘されたように、サイバーとフィジカルを横串で刺す「ネットワーク空間」は、非常に有用なコンセプトです。ただ、サイバーとフィジカルのバランス、配分の問題はなお残りますよね。例えば、教育についていうと、最高裁の旭川学力テスト事件判決は、現場教師の「一定の範囲における教授の自由」を認めるに当たり、「子どもの教育〔は〕教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならない」と述べています。この「直接の人格的接触」の部分は、やはりフィジカルに軸足を置いた教育も必要ということを憲法上示唆しているのではないでしょうか。

また、人間の尊厳の核心領域も、もしかするとサイバー空間への転写になじまないかもしれません。例えば、個人の内心領域や脳の認知過程がその例として挙げられます。脳波測定を含むセンシングやプロファイリングによって個人の無意識的な精神構造までもがデジタル化され、ネットワーク空間で取引されるかもしれない。最初にクロサカ先生が御指摘されたように、すべてがネットワーク化されることで、物理的な境界による公私区分が融解し、プライバシーがすべて「自己決定」の問題になるわけですね。そのとき、本人の自己決定に委ねられない不可侵の尊厳領域があるのか。個人の無意識的な認知過程がそれに当たるとすれば、憲法19条の思想・良心の自由が根拠条文になるかもしれません。さらに、国会の審議・議決や、最高裁の判決、天皇の国事行為のような、儀礼性・象徴性・神聖性を必要とする行為をどこまでサイバー空間に転写し、ネットワーク化しうるかも憲法上の問題になりえます。

宍戸 ありがとうございます。庄司先生、山本先生からそれぞれ、データシェアリングとフェイクニュースに関する論点をいただきましたけれども、プラットフォーム事業者と政府の関係やその在り方を中心に、ネットワーク空間を構成する様々な主体の役割あるいは相互関係の整序の問題が提起されたかと思います。政府は自らが1つのアクターであると同時に、アクター間の関係を整理する存在であって、なかなか難しい問題もはらみますね。

工藤先生、クロサカ先生からも、自由に御指摘を頂ければと思います。

4.3.トラストの重要性とプラットフォーム事業者への対応

クロサカ まず山本先生に御指摘いただいたフェイクニュースの話は極めて難しい問題だと思っています。問題としての捉え方から問われており、捉えどころがないところも正直あるわけです。

フェイクの定義そのものが難しい点は、御指摘のとおりだと思いますし、ディスインフォメーションは、例えば、社会にとっても有害とみなすことは簡単なのですが、有害という言葉がいみじくも示しているとおり、「有害にすぎない」かもしれないわけです。また、フェイク、ディスインフォメーションと分かっていてもそれを信じたい、あえて面白がりたい、という方々もいますし、その自由も全否定はできません。

そしてここが極めて厄介なのですが、多くのフェイクニュースはFacebookやツイッターというメジャーなプラットフォーム経由で届けられており、いかにもフェイクニュースという感じでは来ないわけです。宍戸先生からの情報発信の直後に、「シシメディア」みたいなものが出てきて、いかにも宍戸先生っぽいニュースだけれども、凝視すると違うだろう、みたいなニュースも出たりするわけです。

従来は、実空間のアーキテクチャが権威を構成しており、それ自体が認証の役割を果たす面もある。最高裁大法廷で全員並んでいる姿を主要メディアが写真に撮ったりすれば、議論したらしいことが分かるわけで、権威と同時に裏づけになっていることでもあります。これをプラットフォーム含めてどう実現していくかが極めて難しい。彼らは今、タグをつけようとしていますが、タグで本当に機能するのか。またタグの許容はプラットフォームの介入を許しているわけですから、非常に悩ましい問題です。

総論は、何らかトラストを構築することが必要だと思います。真偽が混ぜられたメディアでも信頼感があるのはそこにトラストが認められているからであって、それをどう形成していくのかも課題です。

システム目線では、トラストやデジタルアイデンティティをどう実現し、誰に対してアイデンティファイア(識別子)をつけていくのかも課題です。また、複数の認証基盤の連携(フェデレーション)も含め、堅牢に認証する必要があるし、トラストアンカー(認証の基点)も必要でしょう。駅の売店で売られている新聞に(内容の真偽とは別に)一定の信頼があるような構造をサイバースペースでどう実現するのか、ということだと思います。

ただ、闇雲に政府認定メディアのようにすると自由な言論の価値を毀損するリスクが生じるので、非中央集権的に構築されていく必要もあります。誰が何をどこまでつくれば良いのかは、まだアジェンダの入り口に立っている状況だと思います。ただ、我々があったらいいなと思うものに多様性が出始めていますので、まずは、それを明確化していく営みが当面必要と思っています。

もう一つ、庄司先生の御指摘で、新しいプラットフォームとどう付き合っていけばいいのかは非常に重要と思っています。この3、4か月では、GAFAではなく、みんなZoomを使っているわけです。つまり、新しいプラットフォームと、既存のプラットフォームの情報の連携や、我々自身が持っているデータを拠出していくことが常に出てくる問題と思っています。

ただ、我々はその問題と向かい合って使っていくことも必要だろうと思います。原則はリスクと便益が明確に明示され、それを比較考量し、夜の飲み会だったらZoomに抜かれていてもいいみたいなこともあるでしょう(あるいは油断している飲み会こそ駄目という考えもあるかもしれません)。ここを判断するための材料、または判断のためのフレームワークが今後必要になってくるのではないでしょうか。

そうした判断は、最終的には事業者自身、またはユーザ自身が下すものです。しかし、判断するための構造や、評価基準を定めるための参照モデルが欲しい。そうしたモデルを比較考量して事業者やユーザが選んでいくということを、政府や中間的な存在がコンサルテーションするような役割が期待されると考えました。

4.4.フェイクニュース対策におけるソーシャルセクターの役割

宍戸 ありがとうございます。工藤先生、お願いします。

工藤 「中間的な存在が必要」という点ですが、諸外国ではソーシャルセクターが活発です。フェイクニュース対策でもファクトチェックをするNGOが活躍しています。一方、日本の情報分野におけるソーシャルセクターは、欧米と比べるとやや不活発な側面がありました。しかし、新型コロナウイルス感染症対策で、ソーシャルセクターの活躍が見られましたので、そこをどう伸ばしていくかを考えたいと思います。ソーシャルセクターが、どのようにすれば、社会の信頼や権威を獲得できるかもポイントでしょう。

これは余談ですが、実は私も統治機構における儀礼的要素に強い関心があります。三宅正太郎というユニークな戦前の裁判官がいます。治安維持法を策定したことで有名ですが、彼は、演芸や舞台芸術に精通し、その知見を裁判所のデザインに生かしました。検察官と弁護士が同じ場所から入廷すると癒着が疑われるので動線を分け、裁判官の座る法壇を奥にして一段高くすることで権威も高く見せるなどです。アーキテクチャによって、公正性や権威性を実装したと言えます。フィジカルな空間も、そうやって設計されてきましたから、ネットワーク空間においても、ある程度実装できるのではないかと思います。

最後に、データシェアリングの在り方についてです。構造、体制、役割分担を整え、信頼性と民主的正統性を獲得・担保することが重要という点に同意します。特に、誰がどうやるべきなのかを考えていきたいと思います。関連して、先日、「ディスインフォメーション対策フォーラム」を立ち上げましたので、ソーシャルセクターとして貢献していきたいと思っております。

宍戸 ありがとうございます。

5.新型コロナウイルス感染症拡大に係る問題意識

5.1.ユニバーサリティの確保と政府の在り方

宍戸 ここで私からも、新型コロナウイルス感染症拡大について、2つの角度から話題提供したいと思います。まず、既に話題にもなりましたけれども、感染症が拡大し、我々はフィジカル空間においては自粛しながらも、オンラインで授業をし、打合せをするなど、サイバーとフィジカルの融合、ネットワーク空間の形成がさらに進む中で、課題も幾つか見えてきました。

1つには融合を阻害したり、逆に変なカップリングを起こしたりするルールや環境を見直すことが、当面の課題です。例えば、テレワークが実現できるような環境を整備するためには、フィジカル空間だけでなく、広い意味でのリテラシーや、利用者のサポートも含まれます。

多様な人の多様な生き方や選択・行動を可能にするためにも、サービスのユニバーサリティをどう確保していくかが問題です。今まではフィジカル空間、サイバー空間各々において、それぞれユニバーサルを考えれば足りましたが、今後はネットワーク空間での総合的なユニバーサルサービスをどのように確保していくかが重要だろうと思います。

また、物理的なレイヤーにおけるユニバーサリティでは、安全性と信頼性の高い通信インフラを整備し、高度化していくことが必要です。5G網の整備と同時に、次の10年先を見据えた6Gの研究・開発支援も重要になります。サイバー・フィジカルの融合を適切に推し進めていくことが、情報通信政策の大きな課題として浮かび上がってきていると思います。

2つ目はさらに難しい問題です。政府は、建前上は国民が何とかしようと思えばできる、まさに公共的な存在そのものです。そして、ネットワーク空間の秩序を維持し、様々なプレーヤーと協働していく上での政府の在り方が、新型コロナウイルス感染症拡大の中で浮かび上がってきています。

データを様々な民間企業からもらいながら分析し、正確に情報を発信するという能力が日本政府に問われています。そのためには、政府が信頼されているのかというトラストの問題と、協働する能力ないし体制が備わっているかという問題があります。信頼できる適切な協働の相手方を選ぶことも含めて、協働の成果だけでなく、協働のプロセスを含めた全体を人々に見せることが必要になると思います。

また、接触確認アプリに関して既に指摘がありましたが、サイバー・フィジカルが融合してくる中で、情報を出す側としての一人一人の生活者や個人、市民にとって複雑化するプライバシー問題に対して、どのように政府が自らプライバシーを保障すると同時に、人々のプライバシーをプラットフォーム事業者等の企業や他の市民から守っていくのか。特にネットワーク空間における多量の情報のデータの流通・生成という観点からは、人々の認知限界がありますので、政府が人々をどう支えていくかという課題も見えてきたと思っております。

以上の私の話題提起にかかわらず、それぞれ自由に御議論・コメントいただきたいと思います。まず、山本先生からお願いします。

5.2.プライバシー問題と政府の組織の再構築

山本 1点目のテレワーク問題は、今後、政府も環境整備に向けて積極的に取り組んでいくことが求められると思います。テレワークは、個の移動性や自己実現という憲法的価値を実現するうえでも重要だからです。他方で、自宅などのプライベートな空間が「オフィス化」していくので、恐らくプライバシーの問題は回避できない。これまでのように労働者を場所や空間で管理できなくなり、データで管理するようになるので、使用者は労働者に関するより多くの情報を得ようというインセンティブが働く。そうすると、テレワークは労働者の生活を包括的に管理する「監視」に転化し、かえって個の自由や自己実現を妨げる可能性があります。

結局、コロナ禍で加速するニューノーマルは、両義性をもつということです。そこで構築されるネットワーク空間は、個の自由の実現に資する反面で、個の自由を縮減するための監視のインフラにもなる。それは、自由の可能条件であると同時に監視手段なわけですよ。政府は、ネットワーク空間があくまで前者を目的としたものであることを国民にしっかり説明していくとともに、その方向から逸脱しないよう、例えば、情報自己決定権ないしは自己情報コントロール権を基本的人権として承認し、これを具体化していくための制度構築を体系的に進めていく必要があると思います。それによって国民からの信頼も得られるのではないでしょうか。

具体的には、個人情報保護委員会の役割がますます重要になるでしょう。EUの基本権憲章では、データ保護機関が憲法的機関として位置づけられています。日本でも、個人情報保護委員会を憲法的機関として捉えていく必要があると思います。他方で、非個人情報については、自己決定の論理から離れて、積極的に利活用していく必要があります。自己決定の論理が適用される個人情報の世界=個人界と、それが適用されない集合的な情報の世界=集合界とを切り分ける必要がある。もちろん、ネットワーク空間の広がりに応じて、政府組織を大胆かつ柔軟にリストラクチャリングしていくことも今後は必要になるでしょう。例えば、フェイクニュースの問題は国家の安全保障とも関わる。外国勢力がプラットフォームやSNSを媒介に情報を操作することがありえます。中国の五毛党やロシアのトロール部隊などが有名です。そうすると、この分析には政府とプラットフォーム事業者との協働が必要になるだけでなく、政府内の関係部局、例えば総務省や防衛省などの協働も必要になるでしょう。ネットワーク空間は、これまでの行政単位をまたぐので、行政組織もそれに応じて柔軟に再構成される必要があると思います。

5.3.通信インフラへの投資と官民連携の促進

宍戸 ありがとうございます。工藤先生、よろしくお願いします。

工藤 1点目については、宍戸先生からも御指摘があったとおり、通信インフラへの投資が重要だと思います。東京などのメガシティが「感染症の培養器」になっているとの指摘を踏まえると、分散化や非接触化が必要です。そして地域分散の際、例えば、テレワークを地方でやろうとしたときに、オンライン会議システムが重たくて動かないのは困ります。

インフラ投資の進め方としては、例えば、国家戦略特区制度を活用し「スーパーシティ」として拠点化される5都市などで試行し、それを徐々にほかの地方中核都市などに広げていくことも一案でしょう。ゴール設定、戦略的投資、検証プロセス、スケーラビリティあたりがポイントだと思います。ゴール設定とスケーラビリティについてだけ言うと、スマートシティの価値は、生産性向上や効率化だけではなく、生命健康やウェルビーイングになっています。また、スマートシティはあくまで手段なので、課題解決のためには「枯れた技術」を横展開できれば十分かもしれません。その点も踏まえ、総務省さんにはインフラ投資戦略を検討いただければと思っております。

2点目ですが、新型コロナウイルス感染症対策で示唆的だった官民連携は、SNSや検索エンジンが「コロナ」などと検索したユーザに対して、厚生労働省やWHOなどの信頼に値するであろうサイトへのアクセスを促した点です。今後、政府とプラットフォーム事業者が協調・協働する際、例えば「本当に信頼できる情報だったか」などを学識経験者やソーシャルセクターが事後に評価・監査するといったガバナンスができると、より良い情報環境の構築に資するのではないかと思います。

別の教訓を得た官民連携の事例は、接触確認アプリです。日本政府は、GoogleとAppleの提供するAPIを採用しましたが、技術要因と市場環境によって実質的にそうせざるを得なかった。各国の保健当局のみがAPIを利用可能という「1国1アプリ」の方針を含め、プラットフォーム事業者の判断で、政府の選択肢はかなり制約されたと見ています。他方、プラットフォーム事業者側も手足が縛られています。EUのGDPR(一般データ保護規則)をはじめプライバシー保護を重視せねばならず、同時に、パーソナルデータ利活用に非常にアグレッシブな国を含む多くの公衆衛生当局と連携しなければならない。開発上の選択肢が制約されていると想像されます。こうした政府とビジネスの連携を、なるべく不幸な帰結にならないよう、誰がどうコーディネートしていくべきか。これは喫緊の課題です。

また、先ほど山本先生から国家間関係についてコメントがありました。干渉に耐えうるセキュリティだけでなく、諸外国から信頼されるデータガバナンスを備える必要もあると思います。と申しますのも、新型コロナウイルス感染症対策による出入国制限に伴い、検査結果の証明データや行動履歴などを各国政府が取得・利用し、場合によって相手国へ提供することの可否が問題となりうるからです。つまり、DFFT(Data Free Flow with Trust)ですね。もちろん、国家間だけなく、国内移動について、中央官庁と各地方自治体のデータ連携も焦点化するでしょう。プライバシー等を保護しつつ、実効性ある対策を行い、それを国民や住民に理解してもらうことは、大きなチャレンジです。

宍戸 ありがとうございます。庄司先生、お願いします。

庄司 まずサイバー・フィジカルが適切に融合していくためのインフラは私も極めて重要だと思います。マイナンバーカードもそうですが、行政サービスが本格的にオンライン化していく時代になっていきますし、義務教育がオンラインに乗っかって一部行われているわけですから、あらゆる場所で学習が出来るように子供たちにブロードバンドや端末、一定のリテラシーを保障してあげないといけません。それは働くということについても同様です。結局、紙で送らなければいけないことがあるとフルオンラインはできませんから、インフラとそれを使っていくための環境整備が求められます。

それから、政府というアクターについて、山本先生の話で思ったことは、国際政治の舞台にもなっているソーシャルメディアと政府の関わりは非常に重要です。また、新型コロナウイルス感染症は地震や水害のように被害が目に見えて分からず、私たちは毎日発表される数字とグラフを見てあれこれ論評しているという非常にメディア依存度が高い災害です。こういうときには、メディアが促進するポピュリズム的な状況に注意する必要があります。

ですので、そこで行われている議論に政府がうっかり参加するのは本当に危ないと考えています。きちんとファクトを把握して、淡々とファクトをまず流していくことが大事です。先ほど工藤先生がおっしゃったように、プラットフォーム事業者と協力して、ファクトがちゃんと表に出てくるようにすることがまずは大事で、それによって信頼も醸成されるのではないかと思います。

5.4.信頼のおける政府であるために期待する取り組み

宍戸 それでは、クロサカ先生、お願いします。

クロサカ まず通信インフラですが、皆さんの御意見と全く同じなので、もう少し過激なことを言うと、もう何でもかんでもICTインフラにしてしまいませんかと思っています。光ファイバーの補正予算500億円はとてもありがたいですし、皆さんの背中を押したい気持ちですが、些か「手ぬるい」とも思います。もはや全部5Gとインターネットでいいと思います。

従来のアプローチは、やはりデジタルデバイドの解消も含めて、不採算地域など民間がなかなか手を出せないところへの補助というアプローチだったと思うのですが、恐らく今回の補正予算で相当浸透するのだとすると、これからは投資のインセンティブやリスクヘッジといったことをサポートしてあげる、つまり、インフラ投資したいという人たちの背中を押すようなアプローチが必要で、整備の為の融資に政府保証を付与するようなドラスティックな方法も一考に値するのではないかと思います。

今、都市部を中心にトラフィックが逼迫していて、インフラが足りないことが出ています。インフラ観点では、千載一遇のチャンスです。それが公益に資すると私は思っています。

次に、利用空間やユーザの環境ですが、リテラシーの不足する方をサポートする全国的な体制は必要だと思っていて、駆け込み寺的なものが、セキュリティやプライバシー、労働法規、リテラシーなどその全ての観点において必要だと思います。こういったところが家の近くにある状態をいかにつくるかだと思います。

例えば、1つのアイデアとして考えると、キャリアショップがそれを担うアプローチもあると思うわけです。サービス面でのユニバーサルサービスみたいなものを担保していくことは、もう少しこの後、議論されていってもいいと思います。

次に、政府に期待することやお願いしたいことなのですが、4点あります。1つ目は、多様な価値観を提示する参照モデル(リファレンス)や助言(コンサルテーション)の主体になっていただきたいです。ユーザが自分で判断するための情報と枠組みを誰かに示してほしいというニーズがあると思うのです。今、意識の高いユーザであればあるほど、自分でそれを探して、判断するというフレームワークから自分で吟味することをやっているわけです。よって、政府に期待することは、一定の権威も含めて、このフレームワークやファクトが整理されていることのアンカーの役割を担っていただくことだと思います。

2つ目は、絶え間ないアップデートをお願いしたいです。位置情報プライバシーレポートのアップデートなど個別の話は置いておくとしても、できるだけ実態に合わせた分析や政策提言をしていただきたいですし、リソースが足りないのであれば、ここの識者5人で大臣のところへリソース拡充をお願いするぐらいではないかと思っています。

3つ目が、グローバルへの理解をぜひ深めていただきたいと思っています。インターナショナルではなく、グローバルであるということです。国家間(インターナショナル)での連携は既に日本政府は十分以上に機能していると思います。しかしながら、サイバースペースの特徴として、国家を超えた一元的なグローバル空間だということがあります。

とりわけこれからのグローバル空間は、かつての牧歌的なインターネットの世界の世界政府のような話ではなくて、DFFTに象徴されるような経済圏や価値観をいかにそろえていくか、といった点が重要になります。これはインターナショナルなアプローチだけでは技術理解も含めてできない部分があると思います。そのため、このグローバル空間をどのように日本の社会、あるいは国民の中に取り込んで安全な状態をつくっていくのかが必要だろうと思います。

4つ目は、新しい共同体、あるいはその中にあるアイデンティティなどのトラストアンカーのような役割を定義し、政府がどう関与をするのが理想的なのかを検討いただきたいということです。これは結果的に中央政府ではなくて、むしろ地方公共団体かもしれませんが、そうした新しい政府の役割に期待したいなと思います。

これは、ユーザが組合的なエンティティになるかもしれないという、宍戸先生の御指摘に近いかもしれません。またフランスの行政単位であるコミューン(地方自治体)のようなものかもしれません。我々はそういったコミュニティの中でこそ、むしろアイデンティティを最大に発揮できたり、それが一番安全であったりという状態が出来るかもしれないと感じるのですが、そうした機能が脆弱になっているようにも思います。

これをどう我々の日常生活や社会のインフラとして改めて位置づけていくのか。6Gの話が始まると、こうしたアイデンティティと社会構造の関係は、すぐ目の前の宿題としても出てくると思いますので、ぜひ議論を深めていただけるとありがたいなと思っています。

6.最後に

宍戸 ありがとうございました。本日の座談会では、サイバー空間とフィジカル空間が融合する状況を広く「ネットワーク空間」と名づけて、その状況と課題、個人の在り方の変容、そして、「人間中心」のネットワーク空間であるべきという観点から、政府の役割や組織の在り方、あるいは政府が今後重点を置くべき取組の必要性について、御議論いただきました。

もちろん問題は多岐にわたり、全てを論じ尽くすことはこの座談会では不可能ですが、ネットワーク空間が適切に機能するよう、この座談会をきっかけに議論が盛んとなり、それがまた情報通信政策に生かされていくことを、願っております。

Footnotes

東京大学大学院法学政治学研究科教授

東京大学未来ビジョン研究センター客員研究員

㈱企 代表取締役

武蔵大学社会学部教授、国際大学GLOCOM主幹研究員

慶應義塾大学大学院法務研究科教授

 
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