2023 Volume 7 Issue 1 Pages 139-162
日本のインターネット利用者全体の8割以上が、知人とのコミュニケーションや情報収集という社会生活におけるきわめて重要な目的のために、SNSを利用している。そして、SNSの利用はそうした目的達成のための主たる手段である。したがって、他者のSNS利用を阻害する行為は、対象者の社会生活に対する重大な脅威たりうる。
そこで、私人によるSNS利用に法的な保護を与えるための議論が各国で展開されている。なかでも有力な議論の一つが、ある私人が表現活動のために一定のフォーラム性を備えた財産を利用することを当該財産の管理者に受忍させることで、表現の自由という憲法的価値のより高次の実現を図るための議論、すなわちパブリック・フォーラム論(PF論)をSNSに適用するというものである。アメリカ合衆国の裁判例には実際にPF論をSNSに適用したものも存在しており、この議論の当否を検討する意義は大きい。
しかるに、本稿は、かかる裁判例及び日米の一部学説の潮流にもかかわらず、以下の2つの理由から、日本においてSNSにPF論を適用すべき理由は存在しないと主張する。第1に、SNSへのアクセスを法的に保障するという目的との関係で、SNSがパブリック・フォーラムか否かという問題を立てる意味がない。第2に、こうした問題に拘泥することにより、却って適切な利益衡量が阻害されうる。換言すれば、SNSに関する法的規制につき検討するためには、表現の場としてのSNSの特性及び利害関係人の利益状況をそれ自体として直截に分析すれば必要にして十分である。
この主張を論証するために、本稿は、「ある事案においてPF論が機能するとすれば、当該事案における表現の自由の反対利益は限定的であり、かつ、そうした反対利益の価値は表現の自由に比して類型的に小さい」という仮説を措定し、アメリカ連邦最高裁判例を題材としてその仮説の妥当性を示す。そして、SNSをめぐる利害状況はそうしたPF論の機能条件を充足するものではないことを論ずる。これにより、日本においてSNSにPF論を適用する理由がないことが明らかになる。
Social networking services (SNS) have become a crucial tool for communication and information sharing in Japan, with over 80% of internet users relying on them for social purposes. As such, any infringement on SNS use can significantly affect the social lives of individuals. Consequently, there have been calls to protect the use of SNS through legal means. One approach is to apply the public forum doctrine (PF doctrine) to SNS, which would allow private individuals to use property that can be considered a forum, and require administrators to tolerate such use, thereby promoting freedom of expression as a constitutional value. Although some precedents have applied the PF doctrine to SNS, this paper argues that the doctrine's applicability to SNS is questionable. Specifically, the paper contends that the PF doctrine may not be necessary to protect the interests of users and that it may hinder a proper balancing of competing interests. To support this argument, the paper posits the hypothesis that the PF doctrine should only apply when the counter-interests to freedom of expression are limited and less valuable than the freedom of expression itself. Using U.S. Supreme Court cases as a benchmark, the paper demonstrates that this hypothesis holds. Then, the paper shows that the interest situation surrounding SNSs does not satisfy these functional conditions. Therefore, it concludes there is no reason to apply the PF doctrine to SNSs under Japanese law. Instead, the paper proposes that the legal regulation of SNSs should focus on analyzing their characteristics as a forum for expression and the interests of stakeholders.
総務省の調査によれば、2021年8月末における日本の13~59歳の居住者の95%以上がインターネットを利用し、また、インターネット利用者全体の8割以上がFacebook、Twitter、LineなどのSNSを利用している。その主たる利用目的は、知人とのコミュニケーション(約9割)及び情報収集(約6割)である2。しかるに、この2つの目的の達成は社会生活においてきわめて重要な意義をもつ。そして、SNSの利用はそうした目的達成のための主たる手段(の一つ)となっている。裏側からいえば、何らかのかたちで他者のSNS利用を阻害する行為は、対象者の社会生活に対する重大な脅威たりうる。
このことを象徴的に示すのが、Facebookなど未成年者が登録可能なウェブサイトへのアクセスを登録性犯罪者に禁ずる州法の合憲性について論じたアメリカ合衆国連邦最高裁判所(以下「連邦最高裁」ともいう。)の判決である。同判決は、かかる州法は「今起きている出来事を知り、求人広告を確認し、現代のパブリック・スクエアで語らい、話を聞き、ひいては広大な人間の思惟と知識の領域を探索するための主要なソースへのアクセスを一挙に禁止する」ものであり、合衆国憲法第1修正に違反すると判断した3。
ここで注目されるのが、同判決が用いた「現代のパブリック・スクエア」なる表現である。1939年4以降、連邦最高裁判例は、他者が所有あるいは管理する財産を利用して私人が表現活動を行う利益を一定の条件のもとで権利として保護する法理、パブリック・フォーラム論(以下「PF論」ともいう。)を展開してきた。そして、「現代のパブリック・スクエア」なる表現は「パブリック・フォーラム(以下「PF」ともいう。)」という語との類似性を介して、このPF論を想起させる。そこで、学説はSNSへのPF論の適用可能性に関する議論を加速させ5、さらに、下級審裁判例にはSNSの特定の機能につきPF論を適用するものも現れた6。こうした議論の狙いは、SNSをある種の公的空間と捉えることで、私人によるそこへのアクセスを権利として保障することにある7。
PF論はアメリカ合衆国の判例法理であるが、「日本においてもパブリック・フォーラム論的なるものが存在している」8とされることもあり、こうしたSNSへのPF論適用の当否という論点は、日本の学説においても検討対象とされつつある。そこで、本稿は、日本法の解釈論としてSNSにPF論を適用する理由があるかを検討する。
1.2.本稿の行論この目的を達成するために、以下ではまず、PF論がいかなる議論であるのかを簡単に確認した後に、SNSへのPF論適用の当否という論点にまつわる先行研究9をレビューする(2)。そのうえで、そもそもPF論がいかなる条件のもとで有効に機能するのかを精査し、SNSへのPF論適用の当否を論ずる(3)。
結論としては、アメリカ合衆国における裁判例及び日米の一部学説の潮流にもかかわらず、以下の2つの理由から、日本においてSNSにPF論を適用すべき理由は存在しない。第1に、SNSへのアクセスを権利として保障するという目的との関係で、SNSがPFか否かという問題を立てる意味がない。第2に、こうした問題に拘泥することにより、却って適切な利益衡量が阻害されうる。換言すれば、SNSに関する法的規制につき検討するためには、表現の場としてのSNSの特性及び利害関係人の利益状況をそれ自体として直截に分析すれば必要にして十分である10。
ただし、本稿の目的はあくまでもSNSにPF論を適用すべき理由がないことの論証にとどまる。すなわち、SNSの特性及び利害関係人の利益状況に鑑みて採用されるべき法的規律の具体的内容については検討しない。そうすると本稿の目的はきわめてささやかで消極的なものといわざるをえないが、後に紹介するように日本の先端的な学説がPF論のSNSへの適用について迷いを示している現状に鑑みれば、このような目標設定が許容されないでもなかろう。
PF論とは、ある私人が①表現活動のために②一定のフォーラム性を備えた③財産を利用することを④当該財産の管理者に受忍させることで、①’表現の自由という憲法的価値のより高次の実現を図るための議論である。以下ではこれら①~④について、PF論のSNSへの適用という観点から意義をもつ要素に対象を限定しつつ概観する。
2.1.1.表現の自由日本国憲法は表現の自由に他の憲法上の権利に比して優越的な地位を与えているとされる。その根拠は、「公共圏への言論の安定供給を確保する条件を整えることで、〔……〕民主的政治過程を健全に作動させ、あるいは〔……〕真理を発見することに求められている」11。
ところが、およそ人間の活動は何らかの外的基盤がなければ成立しえず、表現活動もその例外ではない。そして、少なからぬ表現活動は自らの思想等を他者に伝達することをその目的とする。しかし、遺憾ながらわれわれの多くは他者を大量に収容しうる広範な空間の所有者ではないから、自身が権原を有する空間における表現活動のみでかかる目的を十全に達成しうる者は多くない。そうすると、こうした状況に公権力が何らかのかたちで介入しなければ、表現の自由の優越的地位の保障も画餅に帰し、「裕福な者のみが実効的なコミュニケーションをなしうるようになってしまうかもしれない」12。
そこでしばしば志向されるのが、道路や公園といった公衆の往来が期待できる空間における表現活動を法的に正当化するという方策である13。インターネットが普及し、電子機器さえ使用できれば自らの表現を世界中に伝達する可能性をほぼ万人が獲得した現代においてさえ道路や公園という公共空間におけるデモ活動が日々何らかのかたちで展開されていることは、このような物理的表現活動の意義を示している。そして、PF論は、表現のためのフォーラムとしての性質(以下「フォーラム性」という。)を有する空間について、任意の私人が表現活動のために当該空間を利用する権利を認める。すなわち、当該財産の管理権14を有する者は、自己の財産を他人に使わせる義務を負う15。この意味で、PF論はある者の財産権を制約し、他の者の表現活動を許すことで、言論活動の総量、社会全体の効用を増加させようとする構想といえる。
2.1.2.フォーラム性このように財産権を犠牲に供して表現の自由の保障を実効化するというPF論の構図に照らすと、いかなる財産にフォーラム性が認められるかが重要な問題となる。フォーラム性が認められる財産については、管理権者の権原・権限が制約されるからである。連邦最高裁判例16によれば、管理権者が公的主体である場合17、フォーラム性の認定は以下のような要件効果によりなされる。
第1に、道路や公園のように、長い伝統あるいは政府の命令(fiat)18により集会や討論に捧げられてきた場所たる伝統的パブリック・フォーラムがある。こうしたフォーラムにおいては、一方で、表現活動の内容規制実施のためには、やむにやまれぬ政府利益が存在し、かつ、手段が当該利益実現のために厳格に画定されて(narrowly drawn)いなければならない。他方で、時、場所、方法に関する内容中立規制実施のためには、手段が重要な政府利益のために厳格に仕立てられて(narrowly tailored)おり、かつ、コミュニケーションの代替的回路の余地が十分に存在しなければならない19。
第2に、劇場や会議室のように、表現活動のための場として国家が公衆に公開した場所たる指定的パブリック・フォーラムがある20。一般に国家はこうしたフォーラムを開設する義務は負わない。しかし、かかるフォーラムが開設された場合には、伝統的PFと同様の基準を充足しなければ当該空間における表現規制は許されない21。
第3に、伝統や政府による指定のいずれの観点からも公共的コミュニケーションのためのフォーラムといえない公有財産は、非パブリック・フォーラムとされる22。公有財産は、公有であることを理由として当然に表現活動のための利用に開かれるわけではない23。したがって、表現規制は、観点に基づく抑圧こそ許容されないものの、時、場所、方法に関する規制以外であっても合理的であれば許容される24。
2.1.3.財産――無体物のパブリック・フォーラム対象性ここまで有体物、とりわけ不動産を念頭に議論を進めてきたが、現在の連邦最高裁判例は、PF論が無体物やサーヴィスにも適用されうることを当然の前提としている25。たとえば、如上のPF類型論を提示したPerry判決は学校区内の郵便網利用が問題となった事案である。あるいは、Rosenberger判決は、学生活動への大学の補助金は「空間的あるいは地理的意味というよりも観念的〔metaphysical〕なフォーラムであるが、〔前者の意味でのフォーラムと〕同一の諸原則が適用される」とする26。
このように無体物等へPF論を拡張する方向性はそれほど問題視されてこなかった27。学説上は、違憲な条件の法理(unconstitutional conditions doctrine)28との問題意識の連続性から、こうした拡張を基礎付ける見解も存在する。すなわち、両法理は助成や援助の文脈における広範な裁量の憲法的統制という問題意識から出発したところ、違憲な条件の法理の適用範囲が縮小された結果、そこにPF論が拡張的に適用されるようになったというのである。そうすると、「地理的・物理的意味での「場所」以外の文脈において、パブリック・フォーラム法理を適用ないし類推適用するという考えは、決して突飛な発想ではないことが確認できる。それゆえ、公的表現助成の問題をパブリック・フォーラム法理の問題として考察することには、十分な理由がある」というのである29。
しかし、「突飛な発想ではないこと」と「十分な理由がある」こととの間には相当の懸隔がある。そして、連邦最高裁は「アナロジーを主張してはいても、説明はしていない」30。そこで、こうした拡張適用に批判的な見解も存在する31。この見解によれば、公開性のある不動産であること、集会が可能であること、政府の管理あるいは所有に服すること、その場での表現行為の帰属先が明瞭である(政府の表現と誤認されない)こと、表現行為により毀損されないことという5つの要件が充足される公有財産が典型的なフォーラムであり、これらのいずれかを欠くものについてはPF論の適用を慎重に検討しなければならない。そうすると、たとえば無体物へのPF論適用には懐疑的な視線が向けられる。しかし、先に述べたように、こうした結論は一般的に受容されていない。
2.1.4.管理権者 (1)問題の所在PF論は表現の自由のために管理権を制約する。そうすると、管理権者の属性、具体的には管理権者が私人であることを理由としてPF論の適用が一律に排除されることはないのか、という疑問が浮上する。なぜならば、管理権者が私人である場合には、そもそも私人が別の私人の行動を受忍させられる理由が――財産権(日本国憲法29条、合衆国憲法第5修正)も表現の自由(日本国憲法21条、合衆国憲法第1修正)もともに憲法的価値である以上は――自明ではないからである。換言すれば、私人の財産権と私人の表現の自由が衝突する場合に、前者を常に優位させてはならない理由があるかは当然には明らかではない。実際、PF論は財産の管理権者が公的主体である場合を想定して議論されるのが通例である32。
しかし、私人が管理権を有する財産が当然にPF論の射程を外れるのかについては対立が存在した。たしかに、現在では、裁判所は「アナログとデジタルの両方の世界において、〔PF論の〕私的空間への適用範囲拡張に消極的である」33。それでも、PF論の理論的射程、SNSへのPF論の適用の当否を検討するという本稿の目的に照らすと、かつての連邦最高裁判例の議論を参照する意義は大きい。そこで、以下では私有財産へのPF論の適用の当否を論ずる判例から、私有財産の機能((2))、私人たる管理権者と公的主体との関係((3))、そして表現内容と表現の場との関係((4))という3つの考慮要素34を抽出し、それぞれについてその意義を確認する。
考察の前提を確認しておくと、「所有〔ownership〕は常に絶対的支配を意味するわけではない」35。すなわち、何らかの基準により公益が優位すると判断される場合には、財産権に対する公権力による制約が実体法上は許容されうる。そうすると、他者の表現の自由を促進するという公益を考慮して立法府や裁判所がある主体の財産権を規制することは、それ自体として直ちに違憲の問題を生ぜしめるわけではない。そして、過去には、連邦最高裁自身が、表現の自由を重視して私人の財産権を制約する複数の判決を示していた36。
(2)私有財産の機能私有財産を利用する表現活動の抑圧が問題とされた事案においては、第1に、当該私有財産の機能が考慮されてきた。より具体的には、問題の私有財産が典型的なPFと機能的に等価であれば、財産権への制約が許容される方向に議論は傾く37。
ただし、こうした機能的等価性という評価的要件(規範的要件)の評価根拠事実としていかなる具体的事実を想定するかについては、立場が分かれていた。まず、会社町(company town)のように地方公共団体と同一の機能を果たす私有地に機能的等価性が肯定できることには争いがない38。これに対して、ショッピング・センターが公道と接続し、内部において商業地区と同様の歩道と道路の配置を備えていることを機能的等価性の評価根拠事実とみうるかについては争いがある。これを否定する立場は、機能的等価性は「関係する財産が包摂する地域が実質的には町へと変化している」場合にのみ肯定されるとして、如上の特徴は機能的等価性の十分条件ではないとする39。そして、最終的に連邦最高裁判例はこの立場を採用した40。
いずれにせよ機能的等価性の評価根拠事実、あるいは必要条件とされてきたとみうるのが、一般公衆への公開性(以下単に「公開性」ともいう。)である。すなわち、私有財産が一般公衆に公開されていれば、当該財産のPFとの機能的等価性が肯定される方向に議論は傾く。たとえば、「所有者が自らのために自己の財産を公衆の用に供すれば、その程度に応じて、当該所有者の権利は利用者がもつ制定法及び憲法上の権利により制約されるようになる」との言明41はそうした態度を典型的に表明している。
しかし、公開性についても、いかなる事実状態が存在すればこれが認められるのかは判然としない。「公衆がアクセスでき、自由に利用可能で、かつ、所有者が私企業であること以外に他のいかなる町や商業地区と区別するものがない」42場合に公開性が認められることに疑問はない。また、2本の公道が接続するショッピング・センターについて、「公衆は当該モールの財産に無制限にアクセス可能である」とした例が存在する43。これに対して、4本の公道により囲まれた土地上の一つの大規模建築物からなり、公衆が任意に立ち入ることのできるショッピング・モールについて、内部に「公道や公共歩道は存在せず、一部の内部モールにある景観エリアを除き、すべてが覆われ、閉ざされている」こと、警察官と同等の権限、装備を備えた警備員が常に巡回していることを指摘して、管理者が当該モールにおけるビラ配布者を排除しうるとした例も存在する44。これらを整合的に理解しようとすれば、ある私有地が公道などの公共空間に隣接しており、誰もが事実としてそこに自由に進入できるとしても、直ちに公開性が認められるわけではなく、当該空間の形状や管理の態様に応じて公開性が否定されうるということになろう。
ここで重要なのは、公開性には2つの次元が存在しうることであろう。第1に、当該空間が事実として公開されていることである(以下「事実的公開性」という。)。換言すれば、誰もがそこにアクセスしようと思えば妨害されずにアクセスできること、具体的には、たとえば公道が接続しており、また接続箇所において入場資格の確認などがなされない状態について、こうした事実的公開性を語りうる。これに対して、第2に、事実的公開性を前提として、管理者が設定した当該空間の設置目的に反する態様でそこに滞在しないかぎりはそこから排除されないことである(以下「法的公開性」という。)45。これは通常は事実的公開性と外観からは区別されない。たとえば、ショッピング・モールは誰もが入館しようと思えばできるのが通常であろう。しかし、管理者の許可なくデモ行為をそこで行えば警備員により排除されうるし、それは場合によっては刑罰をもって担保される(不退去罪〔刑法130条〕)。
このように公開性を区別すると、先に示した理解は、機能的等価性の必要条件としての「公開性」が事実的公開性にとどまらない、法的公開性であることを前提としている。換言すれば、少なくとも、管理者が公衆に対して事実上公開された空間を物理的性状により特定の目的に方向付け、かつ、人的資源を投入してそうした方向付けを実効化しようとする場合46に、事実的公開性が認められつつ表現活動との関係での法的公開性が、したがって、私有財産とPFとの機能的等価性の評価根拠事実の一つが否定される47。
(3)私的管理者と公的主体のつながり第2に、公的主体とのつながりが考慮されうる48。より具体的には、管理者たる私人が公的主体と何らかの密接な関係を有している場合には、財産権への制約が許容される方向に議論は傾く。たとえば、私有地上の表現に憲法上の保護を与えたMarsh判決の射程を短くすべく、同判決は「会社所有者が、州〔State〕の立場から」行動した事案に関する判断であるとの理解が提示されたことがある49。つまり、管理者と公的主体とのこうした密接なつながりがない事案においては、財産権が優位するというのである。
ただし、この要素についても、いかなる具体的事実を公的主体とのつながりとみるかについては争いがありうる。如上の立場は、会社町のように地方公共団体からの授権によりそれと同様の立場で管理者が活動していることを、かかるつながりの評価根拠事実とする。これに対して、より緩やかにそうしたつながりを認める立場も存在する。具体的には、地方公共団体が雇用機会創出という利益を求めてショッピング・モール建設に際して公道敷地を譲渡したことを指摘して、当該モールへのPF論適用を説く連邦最高裁判決個別意見が存在する50。その背景には、私的主体が商業地区と機能的に類似した空間を創出しようとするとき、地方公共団体には経費削減と税収増という観点からそれを促進する、裏側からいえば、商業地区という公共空間の整備をやめるインセンティヴが働くこと、そして、私有財産が公共空間の機能を代替し、かつ、当該私有財産に対するPF論の適用を謙抑的にすれば、市民が他の市民とコミュニケーションをする手段は乏しくなり、「富裕層のみが有効なコミュニケーションをなしうるようになるであろう」ことがある51。
(4)表現内容と表現の場のつながり第3に、表現の内容、すなわち、敢えて私有財産の利用を許容しなければならない理由があるかが考慮される。たとえば、反戦ビラの配布は公道で行ってもメッセージの伝達の効果に差異が生じないが故にショッピング・モール内でのビラ配布を保護する理由に欠けるとされた52のに対して、ショッピング・センターの労働環境について訴えるピケッティングは当該ショッピング・センターの敷地内で行うことに意義が認められるとされた53。しかし、私有地へのPF論の適用に肯定的態度を示したLogan Valley判決を明示的に否定し、財産権を表現の自由に優越させたHudgens判決54は、労働組合がショッピング・モール内でのピケッティングが問題となった事案であったから、現在ではこの要素はそれほど重視されないとみるべきかもしれない55。
2.2.パブリック・フォーラム論のSNSへの適用近時、こうしたPF論のSNSへの適用の当否が論じられている。具体的には、たとえば、SNSのアカウントを凍結された場合に、当該SNSがPFであると主張してそこへのアクセス、すなわち凍結解除を権利として事業者に求めるとか、公職者のアカウントからブロックされた場合に、当該アカウントがPFであると主張してそこへのアクセス、すなわち当該アカウントの投稿の閲覧、そこへのコメント投稿を権利として当該公職者に求めるとかいった局面が想定されている。
現在の日本の学説においては、PF論のSNSへの適用の当否について態度を留保する見解が一般的である56。以下ではその原因、すなわち、PF論のSNSへの適用についてはそれを基礎付ける要素とそれを退ける要素とがともに存在すると考えられていることを確認する。
2.2.1.帰結に基づく正当化PF論のSNSへの適用を基礎付ける際にまず語られるのが、その適用が望ましい効果をもたらすという論拠である。SNSは主体間の交流や表現活動につき重要な役割を果たすから、SNSにPF論を適用し、そこへのアクセスを権利として認めれば、表現の自由の価値がより高次に実現されるというのである57。インターネットを漠然と表現の自由のための民主的フォーラムなどと称する判例58の背後にこうした発想を読み取ることも不可能ではなかろう。
これに対して、PF論をSNSに適用しても望ましい帰結がもたらされる保障はないとの見解も存在する。なぜならば、SNSにおける表現活動は事業者が設計したアーキテクチャのうえでなされざるをえないからである。すなわち、公権力が事業者によるアーキテクチャ設計に積極的に介入するとか、事業者が自ら特定の内容の表現を表示されにくくするアルゴリズムを設定するとかいったかたちで表現規制がなされれば、SNSにPF論を適用し、SNSの利用や特定のアカウント閲覧に対する権利を認めたとしても、それが全体として表現の自由の価値を高める保障がないというのである59。
2.2.2.フォーラム性SNSへのPF論適用により表現の自由の価値がより高次に実現されるとの主張は、SNSが伝統的PFや指定的PFに準じた扱いを受けることを前提としている。
しかるに、こうした認定に有利に働く要素として指摘されるのが、SNSの公開性である。TwitterやFacebookは、基本的に誰でも利用、登録が可能である。そして、個々の公開アカウントの投稿へのアクセスも基本的には誰もが自由になしうる。この意味で、SNSには公開性が認められる60。あるいは、そもそもインターネットは本質的に公共的であり、伝統的PFのなかでももっとも伝統的なものたる公園のようなものであるとの議論も存在する61。
これに対して、SNSが伝統的・指定的PF類似のフォーラムであるとの認定を躊躇させる要素も指摘されている。第1に、SNSには伝統も政府による指定もない62。ただし、これに対しては、そもそも伝統という要件それ自体を再検討することにより対応すべきとの議論も存在する。この要件が存在するかぎり、現代的なPFを新たに認めることができなくなるからである63。第2に、SNSの公開性自体を疑問視する議論も存在する。すなわち、ショッピング・センターについてその公開性、PFとの機能的等価性を根拠にPF該当性を認めたPruneyard判決と対比したときに、同様の公開性がSNSにあるかが疑問に付される。曰く、「SMP〔social media platform〕へのアクセスは一般公衆に公開されているが、ショッピング・センターが物理的に公開されているのと完全に同じ態様とはいえないだろう。むしろスポーツの競技場や遊園地など、入場券さえ買えば誰でも入場できるが、出入り自由というわけではない施設のほうが、SMPにより似ている」64。
2.2.3.非物理的空間SNSは物理的な空間ではないが、先に検討したような連邦最高裁判例を引きつつ、これは特にPF論の適用に際して支障をもたらさないとされるのが通例である65。
ただし、SNSが物理的空間でないことにつき消極的に言及する議論も存在する。たとえば、「アーキテクチャは確かに私たちに「自由」を与える反面,その領域内では最初からユーザーの行為可能性の限界を「設定」してしまう。こうした領域に,物理的空間から発想が始まった「パブリック・フォーラム」論を適用することの是非は慎重に考える必要がある」66とされる。そうした評価の根拠は判然としないが、先に帰結主義的正当化との関係で言及した、非物理的空間においては規制の有無や内容が可視化されないため、PF論を適用しても適切な規律が実現される保障がないとの見解67と同旨を説こうとするものであろうか。
2.2.4.私人による管理SNS、より一般的にインターネットは私的主体により運営されている。この事実はSNSへのPF論適用に際していかなる意味をもたされているのか。
まず、SNSには複数の異なる次元の管理者が存在しうることに留意する必要がある。第1に、IPアドレスやドメインを管理する組織(ICANNなど)やインターネット・プロバイダのような、インターネットそれ自体の維持を担う主体が存在する。こうした主体は、直接にSNSの管理と関わるわけではないが、おそらくはSNSが存立する前提条件をなすという意味で、SNSへのPF論適用に際して言及されることがある。第2に、X社やMeta社のようなSNSを管理・運営する事業者が存在する。こうした主体は、SNS上での表現活動の態様を規定するという意味において、SNSの管理者である。そして第3に、SNS上にアカウントを作成し、そこで投稿等を行う個々のユーザーが存在する。こうした主体は、自己のSNSアカウント上で排他的かつ具体的に表現活動を行うという意味において、SNSアカウントの管理者である。
第1の次元については、インターネットは、少なくとも商業化以降は私企業により整備、発展、管理が担われていることを指摘し、これをSNSへのPF論適用への消極事由とみる議論68が存在する69。
第2の次元における管理者の属性は、たとえば、アカウント保持者がSNS事業者に対してアカウントの凍結解除を求める紛争類型において重要な意味をもつ。この局面におけるPF論適用の肯定は、当該アカウント保持者が事業者に対して表現の自由を主張してSNS利用を認めさせうることを含意するからである。しかし、SNS事業者は私的主体であるから、PF論を私的主体に適用できるのかという問題がここで一つの大きな障壁となる。
この問題については、一方で、SNS事業者が私的主体であることによりPF論の適用は排除されるとの見解が存在する70。まず、私的主体たるSNS事業者は財産権や表現の自由の主体である。しかるに、SNSにPF論を適用すれば、事業者は意に反して特定の者のSNS上での表現活動を受忍させられる。これは、事業者の財産権や契約の自由(より具体的には、利用規約を自らの望むかたちで作成する自由)に対する制約となりえ、さらには、事業者は自らが支持しない他者の自由な表現を自己の管理下でなさしめなければならないという意味で、事業者の(消極的)表現の自由との牴触もありうるというのである。他方で、先にみたように、管理者が私的主体であることをPF論の絶対的な適用除外事由とすべきとではないとの見解も存在した(2.1.4.)。そこで、SNSについても同様のことが妥当し、事業者が私的主体であるが故に当然にPF論の適用が排除されるわけではなく、SNSの公共性などに鑑みて必要があればその適用も排除されないとの見解も存在する71。
第3の次元については、公的主体や公職者が作成、運用するアカウントの管理者は誰かという問題が存在すると理解できる。一方には、アカウントを日常的に運用する公的主体や公職者が管理者であるとする立場が存在する72。このような立場からは、当該アカウントとの関係で管理者の属性がPF論適用の障害となることはない。これに対して、他方には、そうしたアカウントについてもSNS事業者がアーキテクチャを通じて実質的な支配を及ぼしているが故に、個々のユーザーはアカウントの所有者でも独占的支配者でもない、つまりその管理者としての適格性を否定する立場73が存在する74。
以上の議論状況を前提として、PF論のSNSへの適用の当否という問題に対していかなる態度を採るべきか。以下で本稿は、PF論をSNSに適用すべきか否かという問題設定自体を放棄し、端的にSNSにおける表現活動の問題状況に照らした利益衡量を行えば足りる、と主張する。
こうした主張を明示する見解は、少なくとも日本には存在しない。しかし、近時の学説はこれにきわめて近い議論を展開している。曰く、「ある人の私有財産の上で他人の表現活動を保護すべきか否かを決定するには、財産権と表現の自由という相対立する二つの権利・自由の衡量が必要であり、規範的・政策的判断を伴う。一般公衆に公開されたショッピング・センターがパブリック・フォーラムに当たるという命題は、衡量の結論の表明にすぎず、対象が違えば衡量のやり直しが必要であろう。SMP〔social media platform〕にパブリック・フォーラム論を適用するには、単に一般公衆に公開されているかという事実のみならず、当該空間をパブリック・フォーラムとすることが何を意味するかを踏まえて考察しなければならない」75。本稿の如上の主張は、この議論に最後の一歩を踏み出させるものにすぎない。
かかる主張を論証するために、以下では、まず、利益衡量の枠組みとしてのPF論が機能する条件を明らかにする(3.2.)。そのうえで、そうした機能条件に照らすと、PF論をSNSに適用するという議論が適切なものとなりがたいことを示す(3.3.)。
3.2.パブリック・フォーラム論の機能条件 3.2.1.問題の所在そもそもPF論に対しては、それが利益衡量の枠組みとして大雑把にすぎるとの批判がかねてより提示されている76。すなわち、「憲法上の保護は発話者の物理的位置に関するラベルではなく、事案における第1修正の価値と政府利益に依存するものでなければならない。もちろん、政府利益はしばしば場所の性質と結びついている。たとえば、公の歩道は一般的に政府利益がどちらかといえば弱い場所である。〔……〕このかぎりで、PF論は有用な発見的装置、利益衡量を喚起する短絡的方法である。しかし、この発見的装置が唯一の分析方法となれば、混乱と誤りしかもたらさない」77。かかる有力な批判にもかかわらず今日に至るまでPF論が「葛を想起させる」78ほどにアメリカ合衆国の判例及び学説に繁茂しているとすると、PF論の不当な射程拡張から逃れるためには、単にPF論の粗雑さを指摘したり、判例・通説によるその適用の不用意さを論難したりするにとどめず、そもそもPF論がいかなる条件下で機能する利益衡量の枠組みであるのかを厳密に認識することが有益であろう。
以下では、「ある事案においてPF論が機能するとすれば、当該事案における表現の自由の反対利益は限定的であり、かつ、そうした反対利益の価値は表現の自由に比して類型的に小さい」という仮説を措定し、その妥当性を検証する。そして、そのためにかかる仮説の対偶、すなわち、「ある事案において表現の自由の反対利益が限定的ではない、または、そうした反対利益の価値が表現の自由に比して類型的に小さいとはいえない場合には、PF論は機能しない」という命題の妥当性を主に連邦最高裁判例を素材として79論証する。また、ここで「機能しない」という語は、PF論を利用することで利益衡量が枠付けられているとはいいがたい事態が発生していること、たとえば、1つの事案におけるPF性の認定につき3つ以上の見解が対立する(利益衡量の枠付けに失敗している)とか、PF論に言及しつつ実際には論証過程においてPF論に意味がもたされていない(PF論が実際には利用されていない)とかいう状態を指すこととする80。
この仮説が裏付けられれば、かかる機能条件を満たさない事案類型にPF論の(類推あるいは拡張)適用を試みることの不毛さも示されよう。
3.2.2.パブリック・フォーラム論の機能条件 (1)反対利益の非典型性、表現活動との因果的距離典型的な伝統的PFや指定的PFにおける反対利益は限定的である。たとえば公道という典型例を想定すれば、そこで表現の自由の反対利益として想定されるのは、基本的には81、秩序維持や清掃などの負担増といった管理者の利益か、当該公道を混雑なく通行するといった一般公衆の利益である。このように反対利益が限定されている、あるいは表現活動の実施と不利益の発生とが単純な因果連鎖として対応する場合には、PF論は安定的に機能すると考えられる82。
これに対して、反対利益が典型的に想定されるものとは異なるものになる、あるいは表現活動との対応関係が弱まると、PF論の適用は安定性を失う83。たとえば、各家庭が設置する郵便受けに郵便切手を貼付していない書類等を投函した者を処罰する連邦法の合憲性が争われた事案84において、書類等を投函する市民の表現の自由の対抗利益として主張されたのは、郵便事業の収入の安定性であった。郵便を利用せずに郵便物たりうる物を各家庭に配達されると郵便事業の利益が損なわれるというのである。これは、典型例において想定される反対利益に比して、表現の自由の行使との因果連鎖における距離が明らかに遠い。果たして、連邦最高裁はPF論の適用について内部で対立することとなった。法廷意見は郵便受けをPFではない85と判断し86、White意見(concurring in the judgment)は郵便受けがPFかという問題設定自体が無意味であるとする87。これに対して、Brennan意見は郵便受けをPFとしつつ問題の連邦法は合憲であるとし、Marshall反対意見は郵便受けはPFではないが問題の連邦法は違憲であるとした。
また、補助金交付にPF論が適用される場合にも、議論が不透明となる傾向がある。たとえば、貧困者への法律支援業務に関する補助金に、既存の福祉関係法令の有効性を争わない旨の受給条件を付すことの合憲性が争われた事案において、連邦最高裁は、そうした給付条件は特定の見解を排除するためのものであるが故に違憲と判断している88。そして、この判決は、補助金給付についても限定的PFに関する先例が示唆的であるとして、PF論に言及する89。しかし、そこで語られているのは、国家は自らを批判する言論を選択的に抑圧してはならない、という表現の自由論の当然の帰結にすぎない。要するに、「法廷意見の実際の判示は、PFとのアナロジーに関する丹念な註解とはほぼ何の関係もない」90。
本稿との関係で注目すべきは、補助金交付事案における、被給付者による表現の自由の行使と反対利益の侵害との因果的距離の遠さである。まず、Velazquez判決のように反対利益がそれ自体として判決文に明示されないことすらある。これに対して、Rosenberger判決においては、宗教的学生団体の活動に大学が補助金を給付することによる国教樹立禁止条項(合衆国憲法第1修正)違反が問題とされた。これも、表現活動によりかかる違反が発生するというためには、大学からの補助金支給と当該団体の表現活動を公衆が認識し、かつ、かかる表現活動を大学の表現活動、少なくともその公認と判断する、という因果的経路を認定する必要がある。もちろん、こうした認定は可能であろう91が、ここで留意すべきは、こうした認定自体が複雑な、補助金の趣旨が指定的PFか非PFかという判断とは異質な議論の対象とならざるをえないことである。だからこそ、Rosenberger判決も、問題の補助金が指定的PFか非PFかという議論をせずに、観点差別、観点中立性の議論に終始している92。
このように、典型的な伝統的PFや指定的PFとは異なる類型の反対利益が問題となる事案に関する連邦最高裁判例は、裁判官の間で多岐にわたる対立をみるか、PF論を適用すると称しつつ実質的には観点差別禁止というPF論とは独立の法理を適用するにとどまる93。かくして、表現の自由行使の反対利益が限定的でない、すなわち、非典型的な利益を含むとか、表現の自由の行使とのつながりが弱い利益を含む場合には、PF論は機能しなくなるといえる。
(2)反対利益の重要性典型的な伝統的PFや指定的PFにおける反対利益は類型的に表現の自由に劣る扱いを受ける。たとえば公道という典型例を想定すれば、そこで表現の自由の反対利益として想定される秩序維持や清掃などのための負担増といった管理者の利益は表現の自由の制約を基礎付けるものではないとされ94、また、公衆が享受する自由使用の利益も表現の自由に優越しうるものとは考えられてこなかった95。すなわち、こうした利益はたかだか表現活動に対する時、場所、方法の規制を基礎付けうるにとどまる96。
これに対して、反対利益の重要性が相対的にであれ高まると、PF論の適用は安定性を失う。たとえば、JFK国際空港のターミナルにおける寄附勧誘行為規制が争われた事案97において反対利益として主張されたのは、営利企業たる空港が利益を獲得すべく提供する魅力的なサーヴィスの実現98、旅客の空の旅の円滑化99であった。前者が伝統的PFにおける反対利益と異質なものであることもさることながら、同判決が後者の意義を強調する点も注目される。すなわち、伝統的PFにおいては一般公衆たる利用者の利益が基本的に表現の自由に劣るものとして扱われていたのに対して、ここでは敢えて参照文献まで付して「空港の建設者や管理者は、効率的な空の旅に寄与するターミナルの提供に尽力している」100と強調されている。果たしてこの事案において、裁判官の判断は分かれた。Rehnquistら4名の裁判官による法廷意見は、空港ターミナルは非PFであるとして当該規制を合憲とした101。これに対して、Kennedy意見は、法廷意見とは異なる基準からPF性を判断したうえで、保安区域外の通路やショッピング・エリアをPFとし、しかし当該規制は合憲とする102。さらに、Souter反対意見は、PF性の判断基準と空港ターミナルの当該部分がPFであるという判断につきKennedy意見に同意しつつ、問題の規制を違憲とする103。
あるいは、表現活動がデモのような財産の一時的利用にとどまらない場合にも同様の問題が生ずる。この場合には、表現の自由の行使の影響がより長く及ぶため、典型事例に比して反対利益が強く侵害される、裏側からいえば、そうした利益への配慮の必要性が強まる可能性がある。クリスマス・ツリーやメノーラーの設置が許可されてきた州庁舎前広場にKKKが十字架の設置を申請したところ国教樹立禁止条項違反を理由として拒否された事案につき、連邦最高裁は、当該広場は伝統的PFであり、適切なディスクレイマーが付されていれば設置許可が後援と誤認されることはないが故に国教樹立禁止条項違反も発生しないから、申請拒否は違法であるとした104。これに対して、宗教団体による「7つの戒律」を刻んだ石碑の公立公園への設置許可が拒否された事案については、連邦最高裁は、公園は演説などの一時的な表現活動との関係では伝統的PFであるとしつつ、半永久的な記念碑の展示との関係ではそもそもフォーラム分析の対象にはならないとした105。なぜならば、そうした記念碑は通常は政府の言論であると考えられることに加え、そうした構造物は土地の利用を独占し、他の用法を永続的に妨害するからである106。そうすると、公有地に設置される構造物の定着性などによりPF論の適用の有無が区別されることになりそうであるが、こうした基準も実際には通用しない可能性がある。なぜならば、私人の表現活動を支援する目的でなされる政府の活動は、それ自体が指定的PFと判断され、PF論の適用対象たりうるからである。具体的には、公立図書館が寄附者に対して外壁タイルにメッセージを刻むことを許可した事案107を想定すると、これは明らかに表現助成であり、補助金交付にすらPF論を適用する最高裁判例の態度からすれば指定的PFとされる可能性がある。しかし、外壁の最後の一枚のタイルが埋まる時点を想定すれば明らかなように、こうした半永久的な構造物の設置許可は物理的な要請に基づきある表現活動と他の表現活動を差別する108。この二律背反にどう対応すべきかについて、PF論は直ちには回答を与えない。このように、空間利用の態様がPF論の典型事例とは異なる場合には、PF論は機能不全を起こす。
さらに、私人が管理権者である事案における考慮要素の輻輳化(2.1.4.)も、反対利益の重要性という現象の影響とみうる。既に論じたように、財産権も憲法上の権利である以上は、それが表現の自由に当然に劣後させられなければならない理由はない。そこで、いかなる条件のもとであれば表現の自由を優先させられるかを具体的に考慮する必要が生ずる。しかし、これはもはや、フォーラム性に応じて規律を差異化するという元来のPF論からは乖離しており、したがって判断の安定性が損なわれることとなる。
このように、伝統的PFや指定的PFの典型事例よりも反対利益の強度が増す事案に関する連邦最高裁判例は、裁判官の間で多岐にわたる対立をみるか、PF論を適用するか否かにつき判例ごとに態度を異にするか、PF論を適用すると称しつつ実質的には財産権侵害の程度との比較衡量のためにPF論からは直接には導かれない基準を援用することとなっている。かくして、表現の自由に比して類型的に小さいとはいえない場合には、PF論は機能しなくなるといえる。
3.3.パブリック・フォーラム論のSNSへの適用という仮象問題以上のようにPF論の機能条件が特定できたとすると、SNSにおける表現活動の反対利益が伝統的PFや指定的PFの典型事例に類比しうるような単純性等を備えているのかが、次なる検討課題となる。以下では、PF論のSNSへの主たる適用局面においてかかる機能条件が充足されないことを確認する。
3.3.1.事業者対ユーザーPF論のSNSへの適用局面としてまず想定されるのが、ユーザーが事業者に対してアカウントの凍結解除を求める際に、PFたるSNSへアクセスする権利を主張するといった、事業者とユーザーが対峙する事例である。
こうした事例においては、表現の自由の行使、具体的には凍結解除や新規投稿の反対利益として以下のような利益を想定できる。まず、事業者の利益がある。すなわち、私的主体たるSNS事業者には財産権あるいは契約の自由があり、また、SNS事業者自身も表現の自由を享受するから、自らの運営するSNSに自らの望まない発言を記載されない利益を観念できるかもしれない109(2.2.4.)。あるいは、著作権侵害を理由にアカウントが凍結された場合であれば特定人の著作権が反対利益になるかもしれず、また、スパム的投稿を繰り返すbotによりタイムラインを阻害される一般ユーザーの利益が考慮されるべきかもしれず、さらに極端な場合には、反対利益として公益、たとえばヘイトスピーチの防止や社会秩序の平穏が想定されることもありうる110。
これらすべてが当然に反対利益として考慮されるべきとはいえなかろうが、いずれにせよ、既に述べたPF論の機能条件からすると、このように反対利益の候補が多様かつ重要な事例についてPF論は機能しないであろうし、そもそもSNSがPFか否かを判断することにより適切な判断に到達できると考える理由がない。類型化を排除するものではないが、さしあたりは個別の事案においていかなる利益が問題となっているのかを具体的に検討して判断せざるをえないであろう。
3.3.2.公的ユーザー対私的ユーザー次に想定されるのが、公的主体が作成したアカウントからブロックされた私的主体がブロックの解除を求める際に、PFたる当該アカウントへアクセスする権利を主張するといった、公的ユーザーと私的ユーザーが対峙する事例である。
こうした事例においては、表現の自由の行使、具体的にはアカウントへのアクセスとそこでのコメントの投稿の反対利益として以下のような利益を想定できる。たとえば、公職者のTwitter、Facebookアカウントをフォーラム分析の対象外としたBevin判決は、公職者が自らの欲する自己の公的イメージを提示する利益、自らのメッセージを直接有権者に伝える利益、そのためにスパム的な投稿により自己のページを汚染されない利益などを考慮している111。そして、これもBevin判決が指摘するように、こうした利益を無視してブロックなどをおよそ公職者のアカウントに禁止する場合には、そもそもアカウント自体が閉鎖される可能性がある112。これは、一般公衆の知る権利に影響を与えうる。あるいは、ブロックされた私的ユーザーの側の利益についても、単純に表現の自由と理解すれば足りるのか、知る権利などの性質を加味する必要はないか113といった考慮が必要となるかもしれない。
つまり、この局面においても、反対利益の候補は多様かつ当然に私的主体の表現の自由に劣後するとはいえないものであり、かつ、そもそも私的主体の利益を単純に表現の自由と同定してよいかも問題である。そうだとすると、やはりこの場合についても、さしあたりは個別の事案においていかなる利益が問題となっているのかを具体的に検討して判断せざるをえない。
3.3.3.小括かくして、SNSへのPF論の適用が主として想定されるいずれの事案類型についても、PF論を適用すべきではないこと、すなわち、そうした事案類型においてはPF論が利益衡量を枠付ける議論として機能せず、法的判断を安定させるための道具であるPF論がその道具としての役割を果たさないという帰結が導かれた。そうだとすると、われわれがなすべきは端的に「規範的・政策的判断を伴う〔……〕衡量のやり直し」114であり、それに尽きる。その作業にPF論の適用あるいは類推適用という名称を付し、SNSがPFか否かという問題設定をする意味はない。
PF論が有効に機能する射程は非常に短いというのが本稿の結論である。改めて確認すれば、PF論が利益衡量の枠組みとして機能するのは、表現の自由の行使の反対利益が限定的であり、かつ、それらが類型的に表現の自由に劣るといえる局面においてのみである115。そうすると、日本においてSNSにPF論を適用すべき理由は存在しないし、SNSへのPF論の適用の当否という問題設定を放棄すべきである。第1に、PF論を適用してSNSがPFか否かという問題を設定したとしても、実質的にはその問いは論証過程において意味をもたない。論争的な適用事例においては、「ある財産がPFか否か」という問いへの答えそれ自体が複雑な利益衡量の結果として提示されざるをえないからである。そうだとすると、敢えてそうした問いに答える必要はない。第2に、こうした問題に拘泥することにより、却って適切な利益衡量が阻害されるという弊害が生ずる。典型的な適用事例とは利益状態において似ても似つかない事例にPF論を適用するか否かという問題を立てた時点で、典型事例との類否に思考が拘束される危険があるからである。「槌しか持っていなければ、すべての問題が釘に見えてくる」116。もちろん、利益衡量を枠付けるための議論は別に必要となるが、PF論という適用が正当化されない枠に拘る理由はない。
さらに、PF論の適用が表現の自由の保障の実効化という期待される効果を発揮する局面も限定されている。道路や公園にPF論を適用し、そこでのデモなどを認める場合には、普通はデモを試みる者は人通りの多い場所や時間を選択するから、PF論を適用して表現の自由の行使を認めさえすれば、表現の自由の価値がより高次に実現されるとほぼ確実にいえる117。これに対して、SNSは事業者が設定するアーキテクチャの上での表現を可能にするにすぎないため、仮にSNSが指定的PFであるなどと認定できるとしても、表現の自由の保障を実質化するというPF論の目的が達成される保障がない。たとえば、特定のアカウントの投稿が他のアカウントのタイムラインに表示される確率をきわめて低く設定するとか、特定のアカウントやその投稿を検索から除外するとかいった操作がなされれば、アカウント保持者の表現の自由の実現の程度は相対的に低くなると考えることができるかもしれない。そして、これがSNSへのPF論適用に関してアーキテクチャとの関係で指摘される問題の中核(の一部)であるとみうる(2.2.1.)。
このように考えると、PF論は物理的な表現空間を前提としており、観念的場にそれを拡張することが誤りであったのではないか、との発想に到達する。物理的空間であれば、利用と管理双方の態様が物理法則により時間的・空間的に118制約されるが故に表現活動に対峙する活動、それに関わる利益も限定され、したがってPF論による大雑把な判断が(多くの法曹が結論に合意するという意味において)適切な帰結を導く蓋然性が高まるのに対して、観念的な空間においてはそうした制約がより弱くなるため、PF論は十全に機能しなくなるのではないか。
こうした発想をさらに展開すれば、表現の自由論それ自体の物理的基礎という問題設定が得られるかもしれない。すなわち、従来の表現の自由論がかなりの範囲で表現の自由を反対利益(たとえば名誉や名誉感情)に優越させてよいという判断をしえた前提には、物理的な空間における表現、物理的あるいは時間的に制約のある媒体(書籍、新聞、ラジオ、テレビなど)における表現が想定されていたことがあるのではないか119。具体的な問題に引きなおせば、たとえば、こうした物理的制約を失った空間における表現の自由の行使の過剰が、SNS上におけるいわゆる殺到型あるいは炎上型の不法行為の背後にあるという、次の検証対象となる仮説が得られる。しかし、本稿においてこの仮説を検証することはできない。
1 一橋大学大学院法学研究科准教授・Firenze大学法学部客員研究員
2 総務省「令和3年通信利用動向調査の結果」(https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/statistics/data/220527_1.pdf)。本文及び脚註に記載したウェブサイト及び情報はすべて2023年4月10日時点のものである。
3 Packingham v. North Carolina, 582 U.S. 98, 107 (2017).
4 Hague v. Committee for Industrial Organization, 307 U.S. 496 (1939).
5 See e.g., Dawn Carla Nunziato, From Town Square to Twittersphere: The Public Forum Doctrine Goes Digital, 25 B.U. J. Sci. & Tech. L. 1 (2019). ただし、同判決以前からインターネット空間へのPF論適用可能性を扱う議論は存在した。See e.g., Steven G. Gey, Reopening the Public Forum: From Sidewalks to Cyberspace, 58 Ohio St. L.J. 1535 (1998); Dan Hunter, Cyberspace as Place and the Tragedy of the Digital Anticommons, 91 Calif. L. Rev. 439 (2003).
6 Knight First Amendment Institute v. Trump, 928 F.3d 226 (2d Cir. 2019).
7 したがって、「SNSへPF論を適用する」というとき想定されているのは、厳密には、単にこれを適用するにとどまらず、(後述する)伝統的PFや指定的PFに妥当する厳格な基準をSNS利用を阻害する行為の適法性審査に通用させることである。
8 中林暁生「パブリック・フォーラム論の限界?」山元一ほか編『辻村みよ子先生古稀記念論集 憲法の普遍性と歴史性』(日本評論社,2019年)473頁、489頁。参照、曽我部真裕「表現の自由(6)――表現等への政府援助とパブリック・フォーラム論」法教494号(2021年)71頁、72-74頁。
9 レビュー対象は日本法解釈論として提示された論攷に基本的に限定し、アメリカ法解釈論として提示された議論は補助的にのみ扱う。なぜならば、本稿はアメリカ法において採られるべき解釈論の内容に関心をもたないし、そもそも本稿著者にはそうした解釈論を展開、評価する能力がないからである。つまり、本稿はアメリカ法の議論をあくまでも道具としてのみ扱う。
10 たとえば、参照、松尾剛行「プラットフォーム事業者によるアカウント凍結等に対する私法上の救済について」情報法制研究10号(2021年)66頁。
11 文献も含め、参照、土井翼「行政機関による公表に関する法的規律の批判的再検討」一橋法学19巻2号(2020年)119頁、163頁。
12 Lloyd Corp. v. Tanner, 407 U.S. 551, 586 (Marshall, J., dissenting) (1972).
13 See e.g., Hague, 307 U.S. at 515-16.
14 管理権は通常は何らかの財産権(所有権、賃借権など)に基づき発生する派生的権限である。したがって、厳密は財産権と管理権とは区別可能である。しかし、本稿において両者を厳密に区別する必要は乏しいので、以下では両者を互換的に用いる。ただし、大まかには、表現の自由に対置される憲法上の価値の存在を強調する際に「財産権」や「権原」の語を用い、そうでない場合には「管理権」や「権限」の語を用いる。
15 Harry Kalven Jr., The Concept of the Public Forum: Cox v. Louisiana, 1965 Sup. Ct. Rev. 1, 13 (1965) は、「ある種の第1修正上の地役権」の設定と説明する。
16 以下で概観するPFの類型論の画期とされるのが、Perry Education Association v. Perry Local Educators’ Association, 460 U.S. 37 (1983) である(see Erwin Chemerinsky, Constitutional Law 1231 (6th ed. 2019) )。
17 管理権者が私的主体である場合については、項目を改めて詳論する(2.1.4.)。
18 Perry, 460 U.S. at 45は政府の命令による伝統的PFという範疇を認めるが、これは後述する指定的PFと区別できないと批判される(see Robert C. Post, Between Governance and Management: The History and Theory of the Public Forum, 34 Ucla L. Rev. 1713, 1758 (1987) )。
19 Perry, 460 U.S. at 45.
20 特定の目的を定めて開設される限定的PFなる類型が措定されることもあり、そこでは合理的かつ観点中立的な規制が許容されるとされる(see Perry, 460 U.S. at 46 n. 7)。限定的PFの意義については議論がある。一方で、近時の連邦最高裁判例にも限定的PFを指定的PFの下位類型として明示する判決(see Christian Legal Society v. Martinez, 561 U.S. 661, 663 (2010) )と、明示しない判決(see Minnesota Voters Alliance v. Mansky, 138 S. Ct. 1876 (2018) )とが存在し、他方で、限定的PFの認定に際して下級審裁判例には混乱が惹起されているとの批判も存在する(See Aaron H. Caplan, Invasion of the Public Forum Doctrine, 46 Willamette L. Rev. 647, n. 32 (2010) )。
21 Perry, 460 U.S. at 46.
22 Christian Legal Society判決は非PFという類型に言及しないが、その理由については複数の理解がありうる(See Chemerinsky, supra note 16, at 1232)。
23 United States Postal Service v. Council of Greenburgh Civic Assns., 453 U.S. 114, 129 (1981).
24 Perry, 460 U.S. at 46.
25 インターネット空間へのPF論適用が争われた初期の事案として、たとえば以下のようなものがある。Putnam Pit, Inc. v. City of Cookeville, 221 F.3d 834 (6th Cir. 2000); Putnam Pit v. City of Cookeville, 76 F. App’x 607, 610 (6th Cir. 2003); Cahill v. Texas Workforce Comm'n, 198 F. Supp. 2d 832, 833 (E.D. Tex. 2002); Page v. Lexington Cnty. Sch. Dist. One, 531 F.3d 275, 277-78 (4th Cir. 2008).
26 See Rosenberger v. Rector & Visitors of the University of Virginia, 515 U.S. 819, 830 (1995).
27 たとえば、Chemerinsky, supra note 16は観念的フォーラムについて格別には言及しない。
28 See Chemerinsky, supra note 16, at 1067-71.
29 参照、横大道聡「パブリック・フォーラム法理による公的表現助成の統制可能性」同『現代国家における表現の自由』(弘文堂,2013年)148頁、150頁。
30 See Caplan, supra note 20, at 669.
31 See Caplan, supra note 20, at 657-660.
32 See Chemerinsky, supra note 16, at 1233.
33 Amélie P. Heldt, Merging the social and the public: how social media platforms could be a new public forum, 46 Mitchell Hamline L. Rev. 997, 1009 (2020). 公共アクセスチャンネルを運営する私企業は国家的行為者ではなく、したがって、第1修正の規律対象外とする近時の連邦最高裁判例として、see Manhattan Community Access Corp. v. Halleck, 139 S. Ct. 1921, 1926 (2019).
34 各州憲法による表現の自由の保障の態様を考慮してPF論を私有財産に拡張適用する判例も存在する(see e.g., Pruneyard Shopping Center v. Robins, 474 U.S. 74, (1980))。See Chemerinsky, supra note 16, at 1256.
35 Marsh v. Alabama, 326 U.S. 501, 506 (1946). Cfr. Hudgens v. NLRB, 425 U.S. 507, 539 (Marshall, J., dissenting) (1976).
36 表現の自由に基づく財産権の制約を許容したものとして、Marsh, 326 U.S.; Amalgamated Food Employees Union v. Logan Valley Plaza, 391 U.S. 308 (1968); Pruneyard, 474 U.S.が、これを許容しなかったものとして、Lloyd Corp. v. Tanner, 407 U.S. 551 (1972); Hudgens, 425 U.S. がある。これらの判例について詳細に論ずる邦語文献として、参照、高橋義人「「公共空間」の民営化と「パブリックフォーラム」論」琉大法学85号(2011年)41頁、54-67頁。
37 たとえば、企業が所有する町は通常の地方公共団体と同等の機能を果たすが故に、その街路における文書配布を処罰する州法は、当該街路が私有地であるとしても、第1修正に反するとされる(Marsh, 326 U.S. at 506-8)。あるいは、公道との接続や内部における歩道と建物との関係に照らして商業地と機能的に等価と評価できるショッピング・センター内でのピケ活動は、第1修正により保護される(Logan Valley, 391 U.S. at 318-20)。
38 会社町は地方公共団体との機能的等価性がきわめて高いため、Marsh, 326 U.S. は今日ではむしろ国家行為法理(state action doctrine)の先例として扱われる(see Chemerinsky, supra note 16, 566)。
39 Logan Valley, 391 U.S. at 330-31 (Black, J., dissenting).
40 Lloyd, 407 U.S. at 560-63は、内部に駐車場、歩道、階段、エスカレーター、庭園、講堂、スケートリンクなどを包摂する1つの巨大な建物からなるショッピング・モールは商業区域と同視できるが故にPFである、とは判断しなかった。See also Hudgens, 425 U.S. at 518-19.
41 Marsh, 326 U.S. at 506.
42 Marsh, 326 U.S. at 503
43 Logan Valley, 391 U.S. at 318.
44 Lloyd, 407 U.S. at 553. Cfr., Logan Valley, 391 U.S. at 338 (White, J., dissenting).
45 およそ管理者の事実的・推定的意思に反する立入りにつき建造物侵入罪の成立を認める日本の最高裁判例の態度(参照、最決平成19年7月2日刑集61巻5号379頁)を強く理解すると、そもそも法的公開性は法的には観念できないとの立論も不可能ではない。たとえば、そうした理解からすれば、表現活動を目的としてショッピング・センターに立ち入ること自体が違法と評価されるからである。しかし、当該判例はキャッシュカードの暗証番号等を盗撮する目的での銀行支店に立入りに建造物侵入罪の成立を認めた極端な事例であり、かつ、理論的にもこうした態度には疑問の余地があるとされている(参照、井田良『講義刑法学・各論〔第2版〕』(有斐閣、2020年)170-171頁)ことから、ここではさしあたり、管理者から退去を要請されるまでは管理者の想定しない行為に対してもそうした空間が公開されていると理解しておく。
46 裏側からいえば、管理者が単に「この空間は表現活動のための空間ではない」と主張するだけで法的公開性が否定されるとは限らない。
47 公有財産たる伝統的PFや指定的PFについても、事実的公開性と法的公開性は区別される。たとえば、路上生活者を支援するために路上生活者でない者が道路上にダンボールを設置する場合(参照、最決平成14年9月30日刑集56巻7号395頁)には、両者の範囲がずれる可能性がある。しかし、一般的には、伝統的PFや指定的PFの特徴は、表現活動との関係で事実的公開性と法的公開性の乖離が極小化されている点にあるとみうる。両者とも、そもそも表現活動を行うことが少なくとも用途の一つとして想定されており、管理者たる公的主体はそのことを前提とするよう法的に拘束されているからである。
48 Jacob Kosakowski, Delete and Repeat: The Problem of Protecting Social Media Users' Free Speech from the Moderation Machine, 55 Suffolk U. L. Rev. 65, 79-80 (2022).
49 Logan Valley, 391 U.S. at 337 (White, J., dissenting).
50 Lloyd, 407 U.S. at 575-76 (Marshall, J., dissenting).
51 Lloyd, 407 U.S. at 585-86 (Marshall, J., dissenting).
52 Lloyd, 407 U.S. at 564-65.
53 Logan Valley, 391 U.S. at 311.
54 Hudgens, 425 U.S.
55 ただし、2000年以降の第9巡回区の裁判例はLogan Valley判決を復活させているとも指摘されている(see Mason C. Shefa, First Amendment 2.0: Revisiting Marsh and the Quasi-public Forum in the Age of Social Media, 41 Hawaii L. Rev. 159, 187 (2018) )。
56 参照、水谷瑛嗣郎「大統領のSNSアカウントはパブリック・フォーラムか」慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要70号(2020年)29頁、38頁、平地秀哉「デジタルプラットフォームの公共性と表現の自由」法教490号(2020年)60頁、64頁、興津征雄「ソーシャル・メディア・プラットフォームと公私の区分(下)」法時93巻12号(2021年)107頁、109頁。例外的に適用に肯定的な態度を明示するものとして、郭娜娜「インターネット・プラットフォームにおけるパブリック・フォーラム法理の適用可能性に関する一考察(2・完)」阪大法学71巻5号(2022年)151頁、175頁。
57 参照、郭・前掲註56)161頁、172-173頁。
58 See e.g., Reno v. ACLU, 521 U.S. 844, 868-70 (1997); Packingham, 582 U.S. at 107.
59 参照、郭・前掲註56)176頁。
60 参照、郭・前掲註56)173頁。
61 See Gey, supra note 5, at 1916.
62 参照、郭・前掲註56)161頁。
63 See Dawn C. Nunziato, The Death of the Public Forum in Cyberspace Contents, 20 Berkley Tech. L.J. 1115, 1161 (2005).
64 興津・前掲註56)109頁。類似の見解として、see Shefa, supra note 55, at 187.
65 参照、水谷・前掲註56)34頁、平地・前掲註56)64頁、興津・前掲註56)108頁。
66 水谷・前掲註56)38頁。
67 参照、郭・前掲註56)176頁。
68 水谷・前掲註56)34頁はこうした理解の存在を伝える。
69 しかし、神が天地を創造した(と仮定した)からといってその事実が個々の具体的な劇場などのPF該当性判断に何らかの影響を及ぼすわけではないのと同様に、この次元の管理者の属性が個々の具体的なSNSなどのPF該当性判断に際して意味をもつと考えるべき理由は乏しい。実際、私企業によるインターネット整備をSNSへのPF論適用の消極事由として紹介する水谷・前掲註56)34頁は、それに対する反論として、「SNSそのものについてパブリック・フォーラムとして扱うことは許されなくとも、政府・公務員のユーザー・アカウントは、コントロールすることが可能であり、こうしたものに限定しさえすれば同論を用いることは可能である」とする。これは、第1の次元での難点を第2の次元と第3の次元の峻別可能性から論駁するものである。そもそもこれが反論として成立しているのかは疑わしいが、いずれにせよそこでも第1の次元のレレヴァンスは否定されているとみうる。
70 参照、郭・前掲註56)160、176頁。
71 参照、平地・前掲註56)64頁、興津・前掲註56)107-109頁。
72 Knight First Amendment Institute, 928 F.3d at 231-32は、Donald Trumpアメリカ合衆国大統領(当時)のTwitterアカウントがホワイト・ハウスのソーシャル・メディア担当により運営されていること、政府運営に関する事項がツイートされていること、国立公文書記録管理局が当該アカウントのツイートを公式記録として扱っていることなどを指摘して、当該アカウントにPF論を適用している。
73 参照、郭・前掲註56)173-174頁。水谷・前掲註56)38頁もほぼ同旨を説き、結論としてはやはりPF論のSNSへの適用に慎重な態度を示す。Hargis v. Bevin, 298 F. Supp. 3d 1003, 1011 (U.S. Dist. 2018) は、公職者がTwitterやFacebookのアカウントを開設したとしても、その事実によりアカウントが公有財産に転換されることはないとする。
74 しかし、SNS事業者が設定するアーキテクチャが許容する態様でのアカウント運営しかなしえないことが、個々のアカウント保持者の管理者性を否定することでPF論適用の障害になる根拠には、やや判然としない部分が残る。たとえば伝統的PFにおいても、物理法則、地形的条件、技術水準という管理者の左右しえない制約が許容する態様でしか管理はなされえないが、だからといってPF論適用は排除されない。そうした制約が特定の主体の行為に起因するか否かによる区別は可能であろうが、なぜその点に着目すべきなのかを論証する必要はあろう。
75 興津・前掲註56)109頁。
76 これ以外にも、非PFにおける表現活動への制約が容易であるという帰結(see Cornelius v. NAACP Legal Def. & Educ. Fund, 473 U.S. 788, 826-27 (Blackmun, J., dissenting) (1985); Post, supra note 18, at 1762)、指定的PFと非PFとの区別を政府の意図に依存させることの不当性(see Gey, supra note 5, at 1535; Grayned v. City of Rockford, 408 U.S. 104, 116 (1972) )などが批判される。
77 Daniel A. Farber & John E. Nowak, The Misleading Nature of Public Forum Analysis,70 Va. L.R. 1219, 1234-35 (1984).
78 See Caplan, supra note 20, at 676. 葛はアメリカ合衆国南部において爆発的に繁茂し、外来種として問題視されてきた。See National Invasive Species Information Center, Kudzu, https://www.invasivespeciesinfo.gov/terrestrial/plants/kudzu.
79 本稿が提示する一般的な結論は、PF論関係判例を悉皆的に調査しなければ完全には支持されえない。しかし、本稿は一部の判例のみをサンプルとしている。したがって、本稿の結論に対しては反論の余地が大いに存在する。それでも、第1に、サンプルは先行研究において頻繁に言及されるものから取ったため、PF論に関する重要判例全体と比べたときに極端に代表性をもたないものではないと想定できる。第2に、これは審査基準による利益衡量枠付けの機能をどこまで重視するかとも関わるが、連邦最高裁判例において機能不全が発生した例が一つでも存在することを示すことができれば、本稿全体の目的との関係では十分であるとの考え方もありえよう。これら2点と本稿著者の能力的限界の考慮に基づき、以下では裁判例の悉皆的調査は行わない。
80 もちろん、「機能する/しない」という語には別の意味を割り当てうる。ここでこうした定義を採用するのは、SNS上の表現活動の法的規律についてPF論がこのような意味で「機能しない」ことを論証しようとする本稿の目的の帰結にすぎない。
81 もちろん、具体的な事情に応じて敵対団体からの襲撃による生命・身体への加害の危険といった考慮要素が付加されることはありうる(参照、最判平成8年3月15日民集50巻3号549頁)。
82 考慮要素が限定されていればそもそも生の利益衡量をしても判断は安定するであろうから、結局のところPF論には利益衡量を枠付ける機能はおよそないのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、大雑把な判断により「「給付」の拒否を「規制」と読み替える」(曽我部・前掲註8)71頁)というPF論の根本的な意義は動かない。また、PF論の適用が確立された事案類型については、個別事案において偶然的に発生する非典型的利益を無視して表現の自由を優位させることが正当化されうるという機能も認められえよう。たとえば、外国大使館の近隣の公道などで当該外国政府を批判する旗などを掲げる集会を禁止する連邦法の合憲性が否定された事案として、Boos v. Barry, 485 U.S. 312 (1988)がある。
83 本文で論ずるもの以外にも、表現活動がなされる場所が道路や公園ではなく、州議会議事堂敷地(Edwards v. South Carolina, 372 U.S. 229 (1963) )、裁判所周辺(Cox v. Louisiana, 379 U.S. 536 (1965) )、国立図書館敷地(Brown v. State of Louisiana, 383 U.S. 131 (1966) )、刑務所構内(Adderley v. State of Florida, 385 U.S. 39 (1966) )、裁判所内の投票事務所(Cameron v. Johnson, 390 U.S. 611 (1968))、学校及びその周辺(Tinker v. Des Moines Independent Community School District, 393 U.S. 503 (1969); Police Department v. Mosley, 408 U.S. 92 (1972); Grayned v. City of Rockford, 408 U.S. 104 (1972) )、軍事施設(Flower v. United States 407 U.S. 197 (1972); Greer v. Spock, 424 U.S. 328 (1976) )である事案について、判決内部そして判決相互の間で対立する複数の見解が並立している。本稿の観点からすれば、これらの空間における表現活動はそれぞれ非典型的な、あるいは後述するような意味で重要な反対利益を侵害する危険があるが故に、判断の多様性がもたらされていると説明されることになる。これらの判決については、参照、長岡徹「アメリカ合衆国におけるパブリック・フォーラム論の展開」香川大学教育学部研究報告第I部64号(1985年)53頁、57-65頁、紙谷雅子「表現の自由――合衆国最高裁判所に見る表現の時間,場所,方法および態様に対する規制と,表現の方法と場所の類型(3・完)」国家102巻5・6号(1989年)1頁、4-7頁、城涼一「合衆国最高裁判所におけるパブリック・フォーラム法理――その問題点と最近の動向」比較法雑誌45巻4号(2012年)179頁、186-197頁。
84 Greenburgh, 453 U.S.
85 非PFであると判断したわけではない。なお、Caplan, supra note 20, at 661は後述のWhite意見と法廷意見との間に差異をみているようにも理解できるが、法廷意見がPF論について詳論するのは郵便受けがPFであるとの当事者の主張を退けるためにすぎず、実質的には両者は同旨を説いているのではないか。
86 Greenburgh, 453 U.S. at 128-29, 132-33.
87 Greenburgh, 453 U.S. at 142.
88 Legal Servs. Corp. v. Velazquez, 531 U.S. 533, 548-49 (2001).
89 Velazquez, 531 U.S. at 543-44.
90 Caplan, supra note 20, at 663. 実際、この事件の控訴審判決はPF論におよそ言及せずに同一の結論を導いている(see Velazquez v. Legal Servs Corp., 164 F.3d 757 (2d Cir. 1999) )。
91 表現活動が帰属する主体の特定という問題については、see Caroline Mala Corbin, Mixed Speech: When Speech Is Both Private and Governmental, 83 N.Y.U. L. Rev. 605 (2008).
92 Rosenberger, 515 U.S. at 829-30.
93 実質的にみれば、ここでPF論は、給付請求権の発生を認めない政府の行為を権利侵害と構成し、説明するための道具になっている。このことがPF論の重要な機能であることに疑いはない(参照、前記註82)が、反対に、こうした機能がすべてPF論により果たされなければならない理由は特にない。
94 Schneider v. State of New Jersey, 308 U.S. 147, 162 (1939).
95 日本における自由使用の利益の法的性質につき、参照、土井翼「自由使用の非権利性という神話」一橋法学21巻2号(2022年)201頁。
96 Cox v. State of New Hampshire, 312 U.S. 569, 574 (1941).
97 Lee v. International Soc'y for Krishna Consciousness, 505 U.S. 672 (1992).
98 Lee, 505 U.S. at 682.
99 Lee, 505 U.S. at 682-83.
100 Lee, 505 U.S. at 682. ドイツ連邦憲法裁判所判例(BVerfGE 128, 226 [259f.])にも類似の議論がみられる。
101 Lee, 505 U.S. at 679-83.
102 Lee, 505 U.S. at 698-99.
103 Lee, 505 U.S. at 709-11.
104 Capitol Square Review & Advisory Bd. v. Pinette, 515 U.S. 753 (1995).
105 Pleasant Grove City v. Summum, 555 U.S. 460, 464 (2009).
106 Summum, 555 U.S. at 461, 479.
107 Caplan, supra note 20, at 667-69が、その奇妙な過程も含めて事案と難点を詳細に敷衍し、直上の2つの事例と対比している。
108 See Caplan, supra note 20, at 668.
109 自己の財産を他者の言論に供するよう強制することが当該財産の権利者との関係で表現の自由の侵害となるかという問題に関する連邦最高裁判例の整合的な説明は困難とされており(See Chemerinsky, supra note 16, at 1061-62)、ここで立ち入った検討はできない。
110 たとえば、SNSにおけるフォロワーがきわめて多く影響力をもつ人物が暴力や差別を扇動したが故にアカウントを凍結された場合が考えられる。
111 Bevin, 298 F. Supp. 3d at 1011-12.
112 Bevin, 298 F. Supp. 3d at 1012 quoting Summum, 555 U.S at 479. もちろんアカウントが閉鎖されない可能性もあるが、ここで重要なのは、表現活動によりフォーラム自体が消滅する可能性があるという点において、この公職者アカウント事例はPF論が想定する典型的事例とは区別され、むしろSummum判決に近いと理解しうることである。
113 水谷・前掲註56)36頁は「ネットワーク請願権」との理解を提示する。
114 興津・前掲註56)109頁。
115 ただし、前記註82も参照のこと。
116 Caplan, supra note 20, at 660.
117 「公道や歩道が意見交換の場として発展してきたのは偶然ではない。今日においてさえ、公道や歩道は、言論の発信者が、自分は単に信者に語りかけているわけではない、と確信できる数少ない場の一つである。他のコミュニケーション手段であれば、不快なメッセージに直面した個人はページを捲り、チャンネルを変え、あるいはウェブサイトから去ることが常にできる。公道や歩道ではそうはいかない」(McCullen v. Coakley, 573 U.S. 464, 476 (2014) )。ただし、物理的空間においてもアーキテクチャは当然に存在しうる(参照、前記註74)から、これはやや楽観的な態度かもしれない。むしろ、本文において続けて指摘した物理的基盤の問題も併せて、公道におけるようなコミュニケーションが実現する条件を厳密に同定し、それを法的に保障する手段こそを考察対象とすべきであろうか。
118 そして、空間の態様を道路、公園、講堂のように限定すれば、形態的な制約も発生する。
119 インターネットの普及により表現の自由論の再構成が求められているとの問題提起として、参照、曽我部真裕「表現の自由(4)――インターネットがもたらした変容」法教492号(2021年)51頁、56-58頁。