2013 Volume 19 Issue 2 Pages 52-58
WHOの健康憲章において健康は、「身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態をいうのであって単に病気や虚弱でないことをいうのではない」と定義される。Downieは、この定義から、健康は積極的健康と消極的健康の2面から定義されると指摘した。消極的健康とは疾病や障害をなくすという意味であり、積極的健康とは単に疾病をなくすだけではなく、良い状態に向かうという意味となる。Downieは、消極的健康と積極的健康の関係について、両者を直線の両端におく1次元的モデルや、消極的健康を横軸、積極的健康を縦軸におく2次元的モデルなどを示している。Downieにおいて、消極的健康と積極的健康の探求はともにヘルスプロモーション(健康増進)の目的であり、消極的健康と積極的健康推進とのいずれか一方を達成しようとする時、他方の達成も同時に探求すべきものである。健康増進が日本の公衆衛生のキーワードとなったのは1960年代前半である。公衆衛生行政における健康増進は、積極的健康であったり、消極的健康であったり、あるいはその両者を包含するヘルスプロモーションであったりと多義的であったが、1970年代後半には消極的健康に重心を置いた1次元的健康増進モデルへと収斂したように見える。健康増進は、良い状態への方向性を含意するものだが、高齢期には、身体健康や精神健康の向上が現実的な目標ではなくなる時がやがておとずれる。1次元的健康モデルにこれを当てはめれば、正の方向への向上がストップし、その後は不健康の方向に進むだけとなってしまう。高齢期の健康増進が可能となるのは、Downieの2次元的モデルである。消極的健康の方向への向上が不可能になった者も、積極的健康を向上させることは可能であるからである。老年学の観点から野尻雅美は、Downieの2次元的モデルを高齢者向けに発展させ、QOL座標を提案している。縦軸のウエルビーイングと横軸の生活機能(身体健康や精神健康)とのベクトルの和がQOLとなる。高齢者はある時期になれば、横軸方向の増進から縦軸方向への増進にシフトすることが重要であると野尻は主張しているように見える。この20年余り老年学は、高齢者の自立と生産性の維持という目標を掲げて発展してきた。しかし、後期高齢者の急増は、自立が困難であり生産性を維持できない高齢者あるいは超高齢者が地域に出現することを意味する。そうした者達への健康増進を考えるにあたって我々は彼らの特徴を改めて吟味する必要がある。心理学者のEriksonがライフサイクルの最終段階として提示した第9段階は、我々が超高齢者を理解するのに有用である。エリクソンは、脆弱ではあるけれども失われていく能力をたぐり寄せて統合し、衰えた能力のため完璧はめざせなくとも、それでもなお前進しようとする高齢者を描出した。自立が困難になっても、本能的に自律的であろうとする高齢者には尊厳という言葉が相応しいように思われる。エリクソンは、超高齢者は、失調要素と同調要素のせめぎ合いの中にあると言うが、同時に彼らは積極的健康と消極的健康のせめぎ合いの中にもある。専門家は、こうした高齢者への健康増進のあり方を実践の中で探ることになる。その中で、専門家は自らの在り方を問うことになるが、それは特別なことではない。日本の健康増進の歴史は、消極的健康と積極的健康とのせめぎあいの歴史であり、その中にあって、専門家は常に自らのあり方を問い続けてきたからである。
WHOの健康憲章において健康は、「身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態をいうのであって単に病気や虚弱でないことをいうのではない」と定義される。Downieは、この定義から、健康は積極的健康と消極的健康の2面から定義されると指摘した1)。消極的健康とは疾病や障害をなくすという意味であり、積極的健康とは単に疾病をなくすだけではなく、良い状態に向かうという意味となる。Downieは、消極的健康と積極的健康の関係について、両者を直線の両端におく1次元的モデルや、消極的健康を横軸、積極的健康を縦軸におく2次元的モデル、さらには身体、精神、社会的要因を含むより総合的なモデルを示しながら説明している。そして、消極的健康と積極的健康の間に明確な境目がないことを指摘した上で、ヘルスプロモーション(健康増進)では、疾病予防と積極的健康推進とのいずれか一方を達成しようとする時、他方の達成も同時に探求しなければならないと述べている。Downieにおいて、ヘルスプロモーションとしての健康増進は、予防と健康教育及び健康防衛の組み合わせで概念化されており、消極的健康と積極的健康の探求はともにヘルスプロモーションの目的である。Downieの健康観とヘルスプロモーションの思想については熊倉の優れた論考がある2)。
我が国において健康増進が公衆衛生のキーワードとなったのは1960年代前半である。国の厚生行政の概観を年度毎に示してきた「国民衛生の動向(厚生の指標の増刊号)」の1963年版には「栄養の改善は、健康増進、体位向上、疾病予防の上からきわめて重要なことである。とくに最近の公衆衛生活動は、疾病予防にとどまらず積極的な健康増進に指向しているところであり、栄養改善はますます重要さを加えることになってきた」という記述を認める3)。料理のデモンストレーション用に開発されたキッチンカーが地方都市や農村部をまだ巡回していた時代であり、栄養改善は公衆衛生の主要課題であった。同書の1966年版には、「公衆衛生」という章題の「栄養の改善」という項の小項目に「栄養指導と健康増進」が設けられたが4)、健康増進はしばらく栄養改善指導行政の文脈に置かれていた。その後、1970年版で項目名が「栄養と体位および健康増進」となり5)、1977年版では章題が「健康増進と疾病対策」となっている6)。章題や項目名の変遷から健康増進が厚生行政のなかで栄養改善指導の上位概念となっていく過程が読み取れる。
1972年には地域に健康増進センターの設置が始まっていた。「従来、国は疾病の予防、治療、リハビリテーション施策のような健康の回復に重点を置いた施策を進めてきたが、今後は健康の回復だけではなく、個人の健康の増進にも積極的に力を注ぐことになった」からである6)。ここでの健康増進はDownieが整理したところの積極的健康の探求に相当するものであり、Downieの書「Health Promotion」が出版された1990年より約20年も前にこの概念が日本の公衆衛生に現れていたことになる。1960年代から1970年代前半の各年版の「国民衛生の動向」には積極的健康としての健康増進が繰り返し登場する。「このような成人病や不健康状態に対処するためには、従来の消極的な対策のみでは不十分であって、むしろ積極的に健康な者が健康になるように、あるいは健康でない者が病人になってしまわないように健康増進に努める施策を推進しなければならない」の記述も認められる7)。Downieの消極的健康の概念やそれと積極的健康との両者を包含するヘルスプロモーションとしての健康増進に近い考え方も示されている。当時は、感染症や脳卒中などの疾病対策における成功を背景に、公衆衛生が消極的健康から積極的健康に手を広げはじめた、あるいはより広い視野で健康を考えることができるようになった時代であった。
1978年に厚生省は第1次国民健康づくり対策を開始している。「生涯を通じる健康づくりの推進」、「健康づくりの基盤整備」及び「健康づくりの啓蒙普及」が3本柱であった。このうち「生涯を通じる健康づくりの推進」は、健康診査体制の確立を意味するもので、第1次国民健康づくり対策は2次予防にも重点を置いていた。しかし、1988年からの第2次国民健康づくり対策は、「1次予防に重点が置かれ」8)るようになった。この背景には、第1次国民健康づくり対策の成果とともに1982年の老人保健法による健康診査の導入、つまり2次予防施策の充実があった。老人保健法の健康診査の主たる標的は成人病であったが、1996年に生活習慣病概念が成立して以後の標的は生活習慣病となっている。2000年より始まった第3次国民健康づくり対策は、1次予防の重視という考え方を引き継いでおり、相補う位置には老人保健法の健診があり、2013年より始まった第4次国民健康づくり対策は、メタボリックシンドロームの健診と相補的な関係になっている。つまり、第2次以後の国民健康づくり対策は、成人病・生活習慣病・メタボリックシンドロームの予防という消極的健康とペアになっており、国の保健対策の両輪となったように見える。
しかし、第1次国民健康づくり対策も実は、消極的健康とペアになっていた可能性がある。第1次国民健康づくり対策の始まる前年、1977年当時の厚生省担当課長は次のように記している。「由来公衆衛生には、健康の状態に応じて幾つかの段階が考えられる。……健康増進では、現在の健康な者をより健康に、という方向で考えられる。この考えは方向として理解できるものであるが、具体的にはなかなか難しい。……現代における健康阻害がマクロ的見地からみて老化促進に伴って発生するものが多いことから、その防止を最重点として取り上げるべきであろう。退職した老人が生きがいを失って、ひどくふけこんでしまう。果ては寝たきりになってしまうのでは困る、という考え方である。活力を保持し、社会への貢献を高めるということでなければならない。そこに健康増進の現代的意義を認めるべきであろう」9)。つまり、老化に関わる健康問題が生活習慣病(成人病)に先立つ消極的健康のより根源的な健康づくり運動のターゲットであった。第2次健康づくり対策は、80歳になっても身の回りのことができ、社会参加もできることをめざすもので、アクティブ80ヘルスプランと呼ばれた。第3次健康づくり対策では健康長寿の延伸がテーマの一つとなり、それは「寝たきりや認知症などによる要介護状態でなく生活できる期間の延伸」を意味していた。そして第4次健康づくり対策では、COPDや3次予防、健康格差などの新しいテーマが加わってはいるが、健康寿命の延伸とともにその特徴として挙げられているのは「社会生活を営むために必要な機能の維持及び向上」であり、これこそが第1次から3次までの健康づくり対策に通底するテーマであると思われる。我が国のヘルスプロモーションの焦点は「高齢者」にあったとも言える。第1次健康づくり対策開始当時の厚生省担当課長は「厚生省が企画する健康増進対策は、上述の理由から、その主な対象を中高年とし、目標を老化阻止、健康度の維持ということにおいている」と先の記述に続けている9)。
健康増進対策の目標に「老化阻止」が挙げられた時、その「健康増進」は、積極的健康の探求の意味合いは薄れ、自ずと消極的健康の色あいが強まる。「国民衛生の動向」の1977年版には「……国民保健の課題も、かつての結核を中心とした感染症から、高血圧、脳出血、心臓病などの循環器疾患、がんなどへと移行してきた。これらの疾病の発生要因は、環境と生体側の要因が長い年月をかけて複雑に関与していると考えられ、健康と病的状態は連続したものであり、明確に区別できるものではない。従って各個人の健康度も健康状態から病的状態まで種々の水準にあり、個々の健康水準に適応した健康増進の施策が必要である」と示されている6)。病因が非特異的であることや、病気と健康の境界が明らかではないことを指摘するなど、公衆衛生において当時有力であった「成人保健管理」論との共通点が認められる10)。1970年代後半において「厚生省が企画する健康増進対策」は、Downieの言う消極的健康を一端、積極的健康をもう一端とする1次元的モデル(しかも消極的健康に重心を置いた健康観)へと収斂したように見える。他方で、第2次国民健康づくり対策で示された「80歳になっても身の回りのことができ、社会参加もできること」は積極的健康であり、それを「めざす」というメッセージの発信はDownieの言う積極的健康教育に位置付けられるものであり、積極的健康増進が完全になくなった訳ではなかった。第3次、第4次の国民健康づくり対策から積極的健康増進のメッセージを読み取ることは難しくなった。しかし、健康増進の地域の専門家である公衆衛生の医師や保健師、健康運動指導士などは国の施策展開にとまどいながらも、消極的健康とともに積極的健康にも取り組み続けている。Downieが指摘するように、ヘルスプロモーションでは、疾病予防を達成しようとする時、積極的健康増進の達成も同時に探求することになるからであり、専門家達が積極的健康増進そのものの重要性を認めてきたからでもある。
第1次健康づくり対策から30年あまりを経た現在、第2次健康づくり対策で目標とされた「80歳まで身の回りのことができる」は、かなりのところで実現した。医療の発展や生活習慣病などに対する予防施策だけではなく、健康づくり対策で開発された健康づくりのための食生活指針や運動指針、休養指針、睡眠指針、そして栄養士や健康運動指導士などの保健関連職種の活躍などが寄与したものと思われる。健康寿命のさらなる延伸も実現していくだろう。しかし、健康増進は、良い状態への方向性を含意するものだが、高齢期には、身体健康や精神健康、生活機能の向上が現実的な目標ではなくなる時がやがておとずれる。その時、もうその人達は健康増進の対象ではなくなるのであろうか。あるいは、2000年に始まった介護保険法や、その法律の下に2006年から始まった介護予防の対象になるということであろうか。
この問題についての理解に、Downieが1次元的健康モデルに続いて示している2次元の健康モデルが役立つ。これは、消極的健康を横軸、積極的健康を縦軸として健康を大きく4分類するもので、横軸において消極的健康が良くない人の中にも縦軸の積極的健康は良という人達がいることが分かりやすく示されることになる。つまり、障害や病を持ちながらも適切な支援を受ければ積極的健康を増進できることになる。
Downieのこの考え方を高齢者に当てはめたのが野尻である11)。野尻のQOL座標は、生活幸せ軸と生活機能軸から構成される(Fig. 1)。横軸の生活機能軸は、身体的健康と精神的健康からなり、生活環境によって下支えされており、縦軸は、生活幸せ軸で、幸福、満足、安寧の程度を示すものだが、中心にスピリチュアリティーを置いている。これは、1998年に行われたWHOの健康の定義の見直しの議論を背景にしている。健康には身体的、精神的ならびに社会的の3つだけではなくスピリチュアルな健康があるという議論で、結局、WHOの健康の定義には加わらなかった。それを野尻はQOL座標に加えた。
野尻のQOL座標(野尻雅美.高齢者のQOLプロモーション.2012).
QOLは、生活機能軸方向の増進と生活幸せ軸方向の増進とのそれぞれのベクトルから合成される。高齢になり生活機能軸の増進方向のベクトルが小さくなるとき、生活幸せ軸の増進方向のベクトルが大きくなればQOLは保持されることになる(Fig. 2①)。高齢期でも生活機能軸に沿った増進は行うべきだろうが、その効果は少なくなり逆に怪我をしたり病気になるなど健康を害するリスクがある。むしろ、加齢とともに生活機能軸方向の増進から生活幸せ軸方向への増進へと徐々に路線変更することを野尻は提案している(Fig. 3)。野尻は、自らのこの考え方が、Rene Dubosの「目的の達成のためには心身の状態を犠牲にすることを厭わない」12)という考え方と似ていると述べている11)。なお、野尻は、生活幸せ軸方向の増進をウエルビーイング増進、生活機能軸方向の増進をヘルスプロモーションと呼んでいる。野尻においては、ヘルスプロモーションはDownieの消極的健康を意味する用語となっていることに注意が必要である。
QOL変化の2つの流れ(野尻雅美.高齢者のQOLプロモーション.2012).
加齢とQOLプロモーションの方向性(野尻雅美.高齢者のQOLプロモーション.2012より筆者が改編).
野尻は、公衆衛生研究者として2次元的モデルでヘルスプロモーションを考えることの重要性を説いたが13)、老年学の研究を進めるなかで縦軸を重視するQOLプロモーションの考えを発展させた14)。野尻の議論は、近年の老年学のパラダイムシフトに対応したものとみることもできる。長く老年学は、生活機能軸を中心とした1次元的な健康増進モデルを措定していたように思う。老年学でよく知られているロートンの能力モデルは、人間の活動能力を概念的に①生命維持から、②機能的健康度、③知覚-認知、④身体的自立、⑤手段的自立、⑥状況対応、⑦社会的役割に区分したもので、高齢期には高次の⑦社会的役割から低次の①生命維持にむけて活動能力が低下することを表している。しかし、この数十年の老年学は、高次から低次へ向かう方向性ではなく、低次から高次へ向かう方向性があることを掲げながら発展してきた。1980年代に登場したサクセスフルエージングという概念は、自立と生産性の維持を目標とする研究の発展をもたらし、野尻のいうところの生活機能軸の右側への延伸をもたらした。日本でサクセスフルエージングを提唱した柴田は、長寿、高い生活の質、社会貢献の3条件が揃うことをその必須条件とした15)。しかし、後期高齢者が急増する現在、サクセスフルエージングのスローガンの元に描かれる高齢者像には当てはまらない、つまり自立が困難となり生産性や社会貢献を維持できない高齢者が増えていくことを認めない訳にはいかない。秋山は、その高齢者に人生の新しいライフステージを、充実して幸せに尊厳をもって生きることのできる環境をつくることが老年学の課題であると指摘している16)。
こうした文脈の中で、「自立が困難であり生産性を維持できない高齢者」あるいは超高齢者をより理解しようという学術的な機運が近年高まっている。老年学者や心理学者が超高齢者像として注目するのはEriksonが提示した心理発達の第8・9段階17)とTornstamらの老年的超越である18,19)。Eriksonは心理学者としてライフサイクルの中での心理発達を論じ、その最終段階として老年期を第8段階として記述した。老年学者のTornstamらは、第8段階の高齢者像は曖昧と批判し、新しい高齢者像として老年的超越を提示した。Eriksonの第9段階は、そのTornstamへの回答である。Eriksonは、Tornstamらを「まだ若い」と指摘しその若さ故に視野に入っていなかった、年齢がより上の高齢者像を示し、さらに自らの考える老年的超越についても言及している。老年的超越と第8・9段階は、異なる概念であるが、相互に影響を与えあって発展しており共通した特徴も有している。例えば、第8・9段階とともに老年的超越も精神分析理論の影響を受けており本能的に現れるものとされている。Tornstamが老年的超越の特徴として挙げる「生と死に関する感じ方の再定義」や「物質的な関心の減少」や「自己中心性の減少」は、Eriksonが第8段階を特徴付ける自我として示した「英知」の「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」と対応するように見える。また、若い頃とは異なって時間や場所、世界が見えるようになる点、時代を超えた他者への共感なども双方で指摘されている。ここで両概念の詳細は割愛するが、秋山が提示した問題意識及び野尻の理論の理解を深めるという観点から、Eriksonの第9段階と老年的超越の記述より、より年齢の高い高齢者の姿をなぞってみたい。
第9段階で示されている高齢者は「身体は不可避的に衰える。ぎこちない身体の動きに毎日さらされ、しかも日々そのぎこちなさが増えていくという事態に向き合い、慢性的な屈辱感や急性的な屈辱感に襲われ、希望はいとも簡単に絶望へと道を譲ってしまう」状況にあり、「自らの能力に不信感を抱かざるを得ない」者達である。「自分の身体についても人生の選択についても、自らの自律性を信じられなくなる……安全を確保するために、そして自己コントロールの喪失に由来する恥を避けるために、十分な確認は行うのだが、何かを成し遂げようとする意志はどうしても弱くなる」。「目的の感覚と熱中の感覚は鈍り、もたもたと、あいも変わらぬ、人迷惑なペースで、ただただついていくだけということが沢山出てくる」。さらに、劣等感、同一性混乱、孤立などの非適応的な要素(これをEriksonは失調要素と呼んでいる)にも向き合わなくてはならない。
高齢期は、体と心とエトスの全領域で喪失を経験する。高齢期でも比較的若い第8段階では、それらの喪失に対して「統合」という適応的な要素(これをEriksonは同調要素と呼んでいる)が機能し人々の中で一貫性と全体性を保つことができるとEriksonは説明する。統合は「奮闘努力して考え込んだり実行したりすることを要求するものではない。一日一日をより良く生きるために生活の細部に地道な注意を払いながら、大小の活動を日々こなしていくことを要求するものである。それは極めて単純で直接的なものであり、それ故に極めて難しいもの」でもある。第8段階で特徴的な失調要素である絶望について「第8段階における生は、それまでの人生に関する回想的な評価を含んでいる。つまり、様々な好期を逸したとして後悔するのではなく、良く生きたとして自分の人生を受け入れられるかどうかが、その人が経験する嫌悪や絶望の程度を決定する」と説明した上で、第9段階では「人はそのような贅沢な回想的な絶望などしてはいられなくなる。能力の喪失や崩壊が彼の関心の全てとなる」と述べる。そして「その日その日を無事にすごせるかどうかが、それまでの人生にどれだけ満足しているかいないかに関わりなく、彼の関心の焦点となる」と続ける。第9段階では、「同調要素と失調要素のせめぎあいの中にあって、時間が経つにつれて、失調要素が優勢となる」が、「もし老人が第9段階の人生経験に含まれる失調要素を甘受することができるのならば、老年的超越性に向かう道への前進に成功する」、とEriksonは確信している。Eriksonは、「年老いていく自分に幻想を持たずに直面する勇気」を持ち、完璧を求めることはせずに創造的な活動や創造的想像に惚れ込むことを続けることを求める。Eriksonはそれによって「超越(トランセンデンス)」ではなく「トランセンダンス」に至るという。「トランセンダンスとは、(遊びや活動や喜びや歌を含む)失われたスキルを取り戻すことであり、そして、何よりもまず、死の恐怖を乗り越える大きな跳躍である」。
「このようにしてあなたはあなたの道をゆく。昇る陽に顔を向け、滑りやすい不安定な石に注意深く目を向け、そして、呼吸を荒げながら。あなたはペースを落とさざるをえなくなり、前進への決意の再確認を強いられる。前進すべきかそれとも諦めるべきかと、同調的な衝動と失調的な衝動が、常に、支配権をめぐって、そして、成し遂げようとする意志をめぐって、争っている。あなたは試練にさらされ、試されている。この緊張感が的確にコントロールされ、一点に集中すると、成功が訪れる。全ての歩みは、同調的衝動の主権と意志の力を試しているのである。」
引用が多くなったが、Eriksonが描いた高齢者は脆弱ではあるけれども気高く雄々しい、と筆者は感じた。崩れていく能力と全体性をたぐり寄せ、そのなかで完璧は目指せなくとも創造的に生きようとしている高齢者にAutonomy (自律)を認めるからである。Downieは、自己決定能力と自己制御能力、責任感、自己実現からAutonomyが成り立つと述べている。Eriksonの描いた高齢者は、自立は難しくなりつつあるかもしれないが、それでもなお本能的に自律的であろうとしている。そこに筆者は尊厳を感じるのである。
筆者は、また、Eriksonのこれらの記述から文字通り「おぼつかない足取り」で杖を使いゆっくりと背中を曲げて歩む高齢者を連想した。行き先は、老人福祉センターでのサークル活動である。足下の安全を確保することに集中しているが、往来する軽トラックやマナーの悪い自転車にぶつけられてしまうかもしれない下町の商店街である。サークル活動では、仲間と歌や軽体操を楽しんでいる。現在の国民健康づくり対策には見いだせなくなっている積極的健康の増進をみることができるかもしれない。こうした高齢者に必要なのは、野尻の言うQOLプロモーションであろうか? 当の高齢者からは「そんなことを考えている余裕はない」という答えがあるかもしれない。若い世代に、自転車マナーの向上とともに、「おぼつかない足取り」の高齢者の気高さを伝える健康学習が高齢者の健康増進に寄与するかもしれない。高齢者向けの栄養や運動、睡眠の指針を作ることが有用かもしれない。高齢者といっても年齢や生活機能により健康増進は異なるであろう。終末期の高齢者には野尻のQOLプロモーションが確かに一つの回答である。
我々は、Eriksonが描いた90歳代の高齢者の健康増進がどうあるべきかをまだ知らない。Downieは言う。「ヘルスプロモーションはAutonomyの促進に資するムーブメントである。それはヘルスプロモーターが自らの専門性をエンパワーメントの概念で説明することからもわかる。人々をエンパワーするということは、その人たちのAutonomyを促進することであり、“その人たちがなりうる全てのものになれる”よう支援することである」。Eriksonが描出した、第9段階の高齢者が気高く保持しようとしているAutonomyへの支援はヘルスプロモーター、つまり健康増進の専門家の本質的な仕事なのだ。
Eriksonの言葉を借りれば、90歳代の高齢者は「同調要素と失調要素のせめぎあい」とともに、消極的健康と積極的健康の「せめぎあい」の中にいる。現代社会に新しく登場した90歳代の集団を前にして、専門家の健康増進の知識や技術、あるいは医学や行政を代表する権威や義務感は、これまでと同じようには機能しない。専門家は実践を通して、支援の在り方を高齢者とともに探ることになる。それは専門家自身の在り方が問われることでもある。しかし、そのこと自体は特別なことではないのではないか、と筆者は考える。健康増進の専門家、特に公衆衛生の医師や保健師、健康運動指導士らは、健康増進行政の歴史的変遷と消極的健康と積極的健康とのせめぎあいの中にあって、常に自らのあり方を問い続けてきたからである。
本稿は第19回日本行動医学会学術総会シンポジウムで発表した内容を元としました。非学会員の私に発表の機会を与えて下さいました第19回日本行動医学会会長の坪井康次先生、並びに司会の労をお執り下さいました坂野雄二先生と中尾睦宏先生に厚く御礼申し上げます。健康増進について多くのご示唆を与えて下さいました野尻雅美千葉大学名誉教授に深謝致します。