Journal of Management Philosophy
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Special Issue : Sustabilitiy and Management Philosophy
The New Dimension of Corporate Governance: From Organizational Reform to Mindset Reform
Akira KOMATSU
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2022 Volume 18 Issue 2 Pages 69-74

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【要 旨】

日本企業では今なおコーポレート・ガバナンス改革の必要性が叫ばれている。しかし、労使の生産共同体的な企業観に立脚する日本企業に、株主利益を第一義とする米英の営利的な企業観に立脚したガバナンス機構を導入した結果、従業員の地位は著しく毀損された。日本企業は、米欧のモデルに倣う建前だけの形式的な機構改革をやめ、本音の生産共同体的な企業観に回帰して、これからのグローバル競争に立ち向かうべきである。

1.はじめに

コーポレート・ガバナンスの問題が、学界や実業界で取り上げられるようになって久しい。会社法やコーポレートガバナンス・コードなど、法制面でも強制力ある改革が繰り返し試みられてきたが、いまなお時代のキーワードの一つであり続けているのは、いまだ変わるべき何かが変わっていないからであろう。この間、いったい何が変わり、何が変わらなかったのか。おそらくは変わらなかった部分にこそ、コーポレート・ガバナンスの残された真の課題が隠れていると考えるべきであろう。

日本企業の現状を見ると、株主利益を高める機構上の改革が強力に進んだ反面、生産共同体の構成員である従業員の立場は後退を強いられてきた。「人間不在」の方向へ振れている感がある。その結果が、政府主導のいわゆる働き方改革の提唱である。しかし、労働環境の改善は、政府に言われるまでもなく、本来コーポレート・ガバナンスの守備範囲であるべきではなかったのか。これからのコーポレート・ガバナンスには、労使の生産共同体的な企業観に立脚した、人間主体の、人間中心の経営をめざす「精神の改革」が必要であることを主張したい。

2.なぜ株主主権のガバナンスになったのか

コーポレート・ガバナンスのテーマは、歴史を遡れば、バーリ=ミーンズの問題提起に由来する。バーリ=ミーンズは、彼らが実証した「経営者支配」という新事態に対して、社会は、株主利益を守り抜く伝統的方向か、それとももっと広く社会全体の利益を目指す革新的方向かのいずれかを選択して、新しい規律を加えなければならなくなったと提起し、彼ら自身は、後者の立場を支持した。彼らが支持した社会全体の利益を目指す革新的方向は、ステークホルダー尊重の経営へと発展することになった。「社会」の声を経営に反映させるための手段として「社外取締役」制度が導入され、アメリカではマイノリティーの代表者を社外取締役に選出する動きなども進んだが、日米欧いずれにおいても、ステークホルダー経営は株主主権を超克するまでにはいたらず、株主主権の下で各種ステークホルダーに配慮する経営が追求・展開されてきた。

株主主権が超克されなかった理由は明白で、機関投資家が台頭するにいたったからである。経営者支配といわれる状況の下でも、機関投資家による所有の力は強大で、経営者は機関投資家の意思を排除することは不可能であった。とりわけ日本では、長期的経営を重視する視点から株主への配当が業績連動ではなく、「安定配当」政策を取っていたため、概して配当性向が低く、短期的な運用成果を期待する機関投資家とりわけアメリカの投資ファンドからは、株主軽視の批判が寄せられた。こうした批判は、やがて日本の経営の仕組みが分かりにくいという批判にまで発展する。一方、こうした批判に同調して、日本の経営者の中にも、日本経済再生のためには企業の活性化が不可欠であり、そのためには社外取締役中心のアメリカ型のガバナンス機構への移行が必要・有効であるという主張が生起し、新しい会社法(2006年5月施行)に反映されるにいたった。会社法では、株式会社制度の大幅な規制緩和がなされるとともに、委員会設置会社の本格導入が図られ、その後も社外取締役普及のための法改正が重ねられている。

結局、世界の趨勢を見ると、コーポレート・ガバナンスの整備は、機関投資家の台頭を背景に有したがゆえに「株主主権」を前提に進展したのであり、また日本の場合は、経済再生の過剰な期待を担って、アメリカをモデルとする機構改革が、ほとんど無批判的ともいえるほどに進んだのである。

3.経営倫理との混同

コーポレート・ガバナンスを論じる時、注意しなければならないのは、「経営倫理」との混同である。企業の不正や経営上の不祥事が起こると、日本のメディアでは判を押したように「ガバナンスの欠如」という批判が寄せられる。しかし、不祥事を起こす企業や経営者に欠如しているのは、「経営倫理」「道徳」「正義感」であって、そうした経営倫理の欠如を、ガバナンスの次元で論じることは筋違いである。

バーリ=ミーンズが経営者支配を実証した時、たしかに彼らも、専門経営者が株主利益よりも自分たちの自己利益を優先する可能性があることを指摘した。ちなみに、そこから派生した理論が、株主は専門経営者が株主利益に相反しないようにコストを支払う必要があるというジェンセン=メックリングの「エイジェンシー・コスト」論である。しかし、そこで議論される専門経営者による自己利益の追求とは、株主利益に相反する方向の利益追求という意味であって、必ずしも法に触れる不正行為や反社会的な行為による利益追求を意味しているのではない。なぜなら、不正や反社会的行為による自己利益の追求は、専門経営者に限らず、所有経営者すなわち大株主経営者であっても同じように犯す可能性があるからである。

コーポレート・ガバナンスは、経営者が株主の方を向くべきか、それとも広くステークホルダーの方を向くべきかという「株式会社改革のためのテーマ」であり、経営者がいずれの側を向くにしても、そこに残るであろう経営者による不正や反社会的行為の可能性は、あらためて「経営倫理」の次元で解決すべき問題である。経営倫理の欠如に由来する不正や不祥事を、次元の異なるガバナンスの仕組みによって防ごうとすれば、問題を根本解消できないばかりか、ガバナンス自体もいたずらに監視や罰則の強化という方向へ向かわざるを得なくなるであろう。つまり、コーポレート・ガバナンスを経営倫理の問題と混同しているかぎり、コーポレート・ガバナンスの改革自体も、焦点がぼやけて、何のための、誰のための改革かという肝心な点から、遠ざかってしまうのである。

4.形式だけのコーポレート・ガバナンス

日本におけるコーポレート・ガバナンスの改革をあらためて振り返ってみると、制度いじりと言ってもよいほどに、表面的な機構改革ばかりがなされてきた感が強い。アメリカをモデル視して、社外取締役の導入・増員があたかもコーポレート・ガバナンスの切り札のごとくみなされ、それが会社法に条文化された。当初は、「委員会設置会社」を新設することにより、上場会社が伝統的な監査役会設置会社から移行することを期待したものの、期待通りに実現しないとみるや、会社法は、旧来の社外監査役をそのまま社外取締役に置き換える「監査等委員会設置会社」を新設(2015年改正施行)して、旧来の監査役会設置会社を強引にこの監査等委員会設置会社へ移行させ、社外取締役の普及(数合わせ)を図るにいたった。会社法の何という狡猾さであろうか。会社法自体がこの程度のレベルであるから、当事者である経営者も、コーポレート・ガバナンスを法形式レベルで捉え、おおかたは機構の整備と説明責任への備えがガバナンスであるという理解でいるのではないかと思われる。

日本でいちはやくアメリカ型のコーポレート・ガバナンスの導入を主張し、現在、日本取締役協会会長を務めるオリックス株式会社シニア・チェアマンの宮内義彦でさえ、形式化を憂えて次のように述べている。

「20年以上前から、日本の企業統治システムを変えなければだめだ、コーポレートガバナンスを強化しようと言い続けてきた身としては、昨今のガバナンス改革は形式を整えることばかりで、本質が見失われている気がしてなりません。

たとえば、2人以上の独立社外取締役を置き、これをもってコーポレートガバナンス・コードをクリアした、と胸をなで下ろしている経営者が少なくありません。社外取締役を選任するにしても、会社として何を期待するのか、その責務をまっとうするにはどのような能力や考え方の人が求められるのかを理解していないと、単に名の知れた人や華々しい経歴の持ち主を選んでしまうといったことが起こりがちです。頼まれたほうも、引き受けたのはいいけれど、何をすればいいのかよくわかっていない状態です。」(Diamond Quarterly 2020.1.31「日本のコーポレートガバナンス その未来を考える[前編] 社外取締役が名実ともに機能するシステムがカギ」2020年7月10日アクセス)

日本は、あらためて、何のための、誰のためのコーポレート・ガバナンスかを問い直す必要がある。

5.置き去りにされた「従業員」

現実のコーポレート・ガバナンスが基本的には株主主権の下で進展してきたことは、前述のとおりである。「株主価値」「株価経営」といったスローガンのもとに株主利益を高める経営が追求されてきたが、一方でコーポレート・ガバナンス論の成果として、ステークホルダーの存在が強調され重視されるようになったことは事実である。株主主権に代わる「ステークホルダー資本主義」と呼ばれるガバナンスの主張が高まっている。とはいえ、ステークホルダーの中で最も重要な位置を占めるのは、いうまでもなく「生産共同体としての企業」を構成する従業員であるにもかかわらず、ステークホルダー資本主義のガバナンス論では従業員の存在が希薄化されてしまったように思われる。ステークホルダーという概念が登場する以前は、学問上、企業の利害関係者は、インタレスト・グループ(interest group,利害者集団)と呼ばれ、実体としては従業員、投資家、消費者の三者が中身をなした。ステークホルダーという概念は、利害関係者の実体を、債権者、仕入れ先、下請け先、地域住民など、より周辺にまで広げることにはなったが、結果として従業員の地位を「数ある関係者の中の一つ」(one of them)に貶めてしまった。少なくとも、投資家と消費者が地位・存在感を高めたのとは対照的である。

コーポレート・ガバナンスは、繰り返すまでもなく、もともとは株式会社改革のためのテーマである。改革のためにステークホルダー資本主義を提唱するのであれば、ステークホルダーの最も重要な位置にいる従業員を、第一に考えて悪いわけがない。そうであるならば、コーポレート・ガバナンスの議論は、本来、従業員の地位向上や労働条件の改善を、初めから守備範囲とすべきであったのである。にもかかわらず、従業員は、株主主権のガバナンス論では初めから排除され、ステークホルダー資本主義のガバナンス論では置き去りにされた感がある。結果として、日本では従業員の労働条件は「人間不在」の方向へ振れてしまっている。そのさらなる結果が、現在展開中の政府主導の「働き方改革」キャンペーンである。生産共同体という面から見れば、従業員は企業の主たる構成員である。その従業員の労働条件が劣化していくようでは、企業自体のサステナビリティーが危ぶまれる。

日本企業は、足元を見据え、コーポレート・ガバナンスを再構築する必要がある。これからのガバナンス改革には、機構改革よりも、生産共同体的な企業観に回帰する「精神の改革」が強く求められる。

6.生産共同体的企業観

日本企業のガバナンス改革が形式に終わっているのは、そもそも目指そうとするガバナンス改革の方向が、企業を所有者の営利手段とみる英米型の企業観に立脚しているからであり、企業を労使の生産共同体とみる日本本来の企業観とは異なっているからである。ちなみに、企業は所有者にとっては「営利手段」であり、企業を職場とする経営者と従業員にとっては「生産共同体」なのであるから、英米型と日本型のそれぞれの企業観はいわば盾の両面で、一方が正しく他方が間違っているという関係にあるわけではない。しかし、どちらの企業観を重視するかは、所有者側に立つか働き手の側に立つかの違いを表す。基本的に日本人の企業観は、働き手の側の生産共同体的な立場であるから、上場会社の経営者でさえ自社の株主を「外部者」とみなして警戒心を拭いきれないのである。生産共同体的な企業観に立つかぎり、株主主権を志向する現行の株式会社法制の下では、歪みが生じることは避けられない。

冒頭に、「いまだ変わるべき何かが変わっていないからであろう。この間、いったい何が変わり、何が変わらなかったのか。おそらくは変わらなかった部分にこそ、コーポレート・ガバナンスの残された真の課題が隠れていると考えるべきであろう」と述べたが、その解答は、こうなる。日本のコーポレート・ガバナンス改革がもし本気で英米型を目指すのであれば、変わるべきは日本人の「企業観」であり、株主主権を正当化する英米型の企業観の受容ということになる。しかし、現実にはこの間、株主主権を志向して法制上の機構は変わったが、日本本来の生産共同体的企業観は変わることがなかった。だから、日本企業の株主主権の姿勢は「建前」だけに終わっているのである。「本音」と異なる建前だけの改革を続けるかぎり、日本企業はいたずらに疲弊し、英米の機関投資家の目には、日本企業の改革は不十分と映り続けるに違いない。

繰り返すが、企業観の違いは「正誤」の問題ではない。間違っているのであれば正さなければならないが、企業観の違いは「価値観」の違いであって、互いに尊重すべきものなのである。それゆえ、筆者も株主主権それ自体を全否定するつもりはない。しかし、株主が主権者であることを根拠に自己の利益だけを追求するような経営を強要するとなれば、それは行き過ぎであると強く批判せざるを得ない。

ステークホルダー資本主義論が生起した背景にも、まさに株主主権の行き過ぎに対する批判があることは間違いない。とはいえ、上述したようにステークホルダー資本主義は、必ずしも従業員を重視する方向へは進まなかった嫌いがある。しかし一方で、アメリカにおいても、実質的に労使の生産共同体的な企業観に立脚して、株主主権そのものに代わる株式会社の新しいシステムを目指した改革プランが提唱されていた事実にも注目しておきたい。

株式会社の利益の帰属・分配システムの改革を主張した会計学者アンソニーによるプランがそれである。一言でいえば、アンソニーは、株主への配当も「コスト」化し、最終利益を「企業主体」(entity)に帰属させる会計システムの改革を提唱したのである。利益を株主に帰属させる現行システムの下では、従業員への給与はコスト(人件費)であり、従業員は株主の利益を生むための用具という位置づけを免れない。ひきかえ、利益は社会に貢献する企業それ自体(企業主体)のものであり、株主への配当も従業員への給与も等しくそのためのコストであると位置づけるならば、株主だけでなく従業員の役割も見直されることになる。

アンソニー・モデルは、ステークホルダー資本主義を実現するための最適の改革プランであると考えられる。アンソニー本人はハーバード・ビジネススクール教授として、またアメリカ国防省の会計システムを改革した人物として知られているが、「企業主体」を前面に出した彼の株式会社の改革モデルは、株主主権を当然視する営利的企業観が支配的なアメリカでは「過激」に映ったのであろうか、日の目を見ないでいるようだ。しかし、その内容は、生産共同体的企業観に立脚する日本には、まったく違和感なく受け入れられるプランである。失われた従業員の地位を回復するためには、日本こそが率先して導入・実現を図るべきガバナンスの改革案であるといえよう。

7.グローバリゼーションと日本企業の進路

これからの日本のコーポレート・ガバナンスに必要な改革は、日本企業が本音で立脚してきた生産共同体的企業観の正当性を堂々と主張し、生産共同体への回帰を図ることである。日本企業の疲弊を防ぎ従業員の人間性を回復するために、企業を生産共同体に回帰させるべきであるという主張自体は、別の機会(「日本株式会社の再設計―生産共同体への回帰―」日本経営学会第92回全国大会統一論題報告)に論じたので詳述はしないが、こうした主張が決してグローバリゼーションに逆行するものでないということを、念のために強調しておきたい。

外国の機関投資家の要求に同調し、英米型の企業観をモデル視して日本企業の機構改革を推進してきた関係者の中には、英米型こそが世界標準であり、英米型に合わせることがグローバリゼーションであるという思い込みが少なからずあるようだ。経済活動の広がりによってグローバリゼーションが進むことは避けられないが、グローバリゼーションとは、世界の画一化ではなく、各国の多様性の上に諸事象が普及していくことを意味する。異なる価値観がぶつかりあった時には、互いに違いを尊重する姿勢が不可欠である。「多様性」(ダイバーシティー)を認め合う姿勢の上にこそ、グローバリゼーションは歪みや犠牲を生じることなく展開しうるのである。外国の機関投資家が株主利益の経営を要求してきたからといって、納得がいかなければそれに屈する必要は少しもなく、むしろ「従業員を尊重する経営は企業業績に積極的に貢献し、長期的には株主利益にもつながる」、「成長を通じて株主に貢献するのが、日本企業の流儀だ」ということを論理的に主張すればよいのである。

日本のコーポレート・ガバナンスに問われている喫緊の課題は、従業員が株主利益の用具的存在と化した現状を改革し、人間主体・人間中心のガバナンスを実現することである。そのためには、日本企業は、生産共同体的企業観に立脚して「本音の経営」を行う必要がある。グローバリゼーションの意味を誤解したまま、意に沿わない株主主権を掲げて「建前の経営」を続けるかぎり、従業員はますます疲弊し、高まる配当性向によって資本蓄積(内部留保)は剥奪され、日本企業のサステナビリティーは危うくなるばかりであろう。生産共同体への本格的な回帰のためには、奇しくもアメリカ人のアンソニーが提唱した「企業主体」の制度化が最も有効かつ現実的な進路であると認められるが、とりあえずは、せめて従業員を重視する方向へ転換する決意、「精神の改革」が必要である。展開中の「働き方改革」も、生産共同体への回帰を意識した確固たる精神改革の上に実行されるのでなければ、一過性の対症療法に終わってしまうことであろう。

近未来を展望するならば、進展しつつあるデジタル・トランスフォーメーションの下で、AI(人工知能)が多くの専門職種に置き換わっていくと見られる。労働市場の流動性は高まり、従業員の入れ替わりが活発化する方向へ進んでいくに違いない。しかし、付加価値を創造する主体は従業員をおいてほかになく、人間が完全不在化した企業から利益が生じることは決してありえないのである。言い古された言葉ではあるが、結局のところ「企業は人なり」である。折しも世界中がコロナ禍に見舞われ、日本も本格的に経済回復を図らなければならなくなった今、日本企業は、本来の生産共同体的企業観に立ち返り、誇りと自信をもって主体的にグローバル競争に立ち向かっていくべきであろう。

 
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