Journal of Management Philosophy
Online ISSN : 2436-2271
Print ISSN : 1884-3476
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The Pursuit of Goodness in Management: A New Dimension through Encounters with the “Other” That Transcend Time and Space
Ayano NISHIHARAToshiyuki KAWASHIMA
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2022 Volume 19 Issue 1 Pages 2-18

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【要 旨】

昨今の経営において、株主資本主義や利益第一主義を脱した新たな資本主義を模索する動きがある。他方で、企業のパーパス(存在意義)を問う動きもある。こうした動きは企業も社会の一員として共通善や公共善を目指す存在への転換であると言える。しかし、このような経営における善の内実は、対象の捉え方によって変わる。今日の経営の対象はあくまで人間であり、個人としての人間だけでなく組織や企業などの人間が形成する共同体を含むが、それらは人間中心という独善になってしまう可能性を孕む。

こうした問題意識に立ち、本稿は、数ある経営理論の中でも哲学を基盤に置き、善を起点とする知識創造理論において、その対象が「我々」人間に限定されているという見地に立ち、それを「他者」へと拡張する可能性を示す。

本稿第2項の知識創造理論の検討では、同理論が哲学における知を概観し、西田やハイデガーを参照するが、「他者」を考慮していないことを明らかにする。第3項の斎藤の哲学では、ハイデガーが「他者」を論じていることを明らかにする。第4項の西田と仏教では、西田と仏教(臨済宗、浄土真宗、真言宗)が「他者」と深く関わることを具体例も交えて論証する。

こうした考察から、想定し得ない「他者」を知識創造理論に明示的に取り入れることにより、知の生態系という「我々のため」の善に留まらず、新たな可能性へと開かれると結論する。また、政治や経営において、「我々」が「他者へ」の次元を視野に入れることで行動や思考の変容を起こし、「他者へ」の次元を護ることを提案する。この論考を通じて、時空間を超えて想定し得ないものについての想像と畏敬の念を持って善を追求し、「他者へ」の次元から政治哲学や経営哲学を語り、実践する人々が増えることを期待したい。

1.はじめに

昨今の経営において、株主資本主義や利益第一主義を脱した新たな資本主義を模索する動きがある。たとえば、2019年8月にアメリカの経済団体ビジネス・ラウンドテーブルは「米国の経済界は株主だけでなく、従業員や地域社会などすべてのステークホルダーに経済的利益をもたらす責任がある」との声明を発表し、株主第一主義からの脱却を宣言している。また、アメリカ最大の投資運用会社ブラックロックのCEOラリー・フィンクは投資先のCEOに向けた恒例の年次レターで、2019年ごろからステークホルダーを重視する姿勢を打ち出している。

他方で、企業のパーパス(存在意義)を問う動きもある。これまで企業の経営理念にはビジョン(将来像)やミッション(使命)という用語が用いられることが多かったが、パーパスには社会的な視点が込められている点に違いがある。

この背景には、気候変動による自然災害、貧富の格差の拡大、そして2020年以降はCOVID-19によるパンデミックなど人類が直面する地球規模の課題がある。国連が2015年9月に採択した「持続可能な開発目標(SDGs)」は、2030年までにこうした課題を解決する17のゴールを示し、「誰一人取り残さない」をスローガンに地球と人々の繁栄とパートナーシップによる平和を目指すもので、企業もこれを担うことが前提されている。

こうした動きは、20世紀後半に主に米国の経営学や経済学に見られた人間を個人の利己的で合理的な判断に基づいて利益を最大化する「経済人(homo economicus)」とする定義や、企業の経済活動から社会やコミュニティに与える影響を外部性として排除し、経済的利益と社会的利益は相反するものとする考え方からの離脱であると考えられる。換言すれば、企業も社会の一員として共通善や公共善を目指す存在への転換であると言えよう(野中・廣瀬・平田2014野中、編2021)。

このような経営における共通善や公共善への接近において、検討すべきことがある。それは対象の捉え方である。経営の対象は、あくまで人間である。内閣府が提唱するSociety 5.0においても、経済発展と社会的課題の解決が両立する人間中心の社会の実現を提唱している。情報処理機器や人工知能(AI)などの機械を中心とするのではなく、人間を中心に置くことが前提にある1)。企業においては、「ヒューマンセントリック(人間中心)」を標榜するところもある。

しかし、対象を人間に置くという観点に立つことは2つの点で問題がある。1つめは、想定され得る(想像・理解が可能な)人間以外の対象を排除しているという点である。具体的には、地球上に存在する人間以外のすべてのものである。なお、ここで言う「人間」とは、個人としての人間、つまり自分自身だけでなく、自分が属する組織や企業など、人間が組織する共同体を含む概念で、これを「我々」と本稿では呼ぶ。SDGsのゴール14や15では地上や水中の生物や資源についての言及があるが、人間が利用する対象であり、人間中心の考え方に立つものと言わざるを得ない。2つめは、想定され得ない(想像・理解が難しい)次元の「他者」の可能性を排除している点である。想定され得ないから排除するという考え方もあり得るが、排除してよいのかという疑問は残る。

これらが問題であるのは、対象をどう想定するかによって、善の捉え方が変わるからである。人間を対象とする観点では、人間生命の存続に役立つ価値を持つものが善である。しかし、人間生命の存続を脅かすからという理由で、あるいは人間生命の存続に役立つからという理由で、自然を人間の思い通りに改変し、自然を搾取してきたことが今日の気候変動やパンデミックにつながっているのではないか。つまり、人間のみを対象とする善は、独善的になってしまう可能性があるということだ。独善的とは、個人としての人間、つまり自分自身だけでなく、自分が属する組織や企業などの共同体の維持存続という意味での善だけを考えることである。

こうした問題意識に立ち、本稿は、数ある経営理論の中でも哲学を基盤に置き、善を起点とする知識創造理論でも、その対象が「我々」に限定されているという見地に立ち、それを「他者」へと拡張する可能性を示す。

2項では知識創造理論における善の対象が、「我々」に限定されていることを確認する。3項では斎藤慶典の哲学から、知識創造理論に大きな影響を及ぼしている西田幾多郎とハイデガーが「他者」に関わることを論じる。4項では、3項の「他者」論を踏まえつつ、知識創造理論と西田の背景にある仏教をもとに、具体例なども参照しながら「他者」との関わり方を考える。そして、最後の5項で、知識創造理論がその対象を想定し得ない次元の「他者」へと拡張する可能性と、21世紀の経営において善をどのように実践できるかについて論ずる。想定され得ない「他者」の可能性を視野に入れることによって、より高次の次元のパーパスやミッションを企業や個人が追求し得ることを示し、その実現に向かって思考や行動を変容し、日々実践する一助となることを目指す。

2.知識創造理論における善

野中郁次郎らが提唱する知識創造理論は、『知識創造企業』の第2章にある通り、西洋と日本の哲学を基盤とする(野中・竹内2020b)。古今東西の知を取り扱った主要な哲学者の考えに基づいて理論を構築している点は、経営理論の多くが経済学を基盤にしているのに対して特異である。しかし、これによって知識が暗黙知と形式知という2つのタイプから成ることを示し、これらの相互変換によって組織的に新たな知識が創造されるとするSECIモデルの基盤を構築している。暗黙知とは言語化しづらい身体的・主観的な経験知、形式知とは言語化された普遍的・客観的な理論知のことである。

知識創造理論は、知識を「個人の全人的な信念/思いを真善美に向かって社会的に正当化していくダイナミックなプロセス(A dynamic process of justifying personal belief towards truth, goodness, and beauty)」と定義する(野中・山口 2019:210-211)2)。この定義は、プラトンの「正当化された真なる信念(Justified true belief)」という知の定義が土台にあり、真善美が中核概念を構成している(野中・竹内 2020b:96)。個人の全人的な信念や思いが起点となるため、人間や「我々」、それに対する「他者」が重要となる。また、社会的に正当化するという点は、知識は人と人、人と環境との相互作用から創られる(真空では新たな知は創造できない)、という捉え方を意味する。そのため、暗黙知と形式知の相互変換から成るSECIモデルは組織的な知識創造のプロセスを示すもので、対象は、自組織や自社に留まらず、昨今注目されているオープン・イノベーションやソーシャル・イノベーションを包含し、知識を媒介とする知の生態系を構築するものである。

また、アリストテレスのフロネーシス(phronēsis)という概念を援用し、知識創造を促進する実践知リーダーは「共通善(common good)や徳(virtue)の価値基準を持って、個別のその都度の具体的な文脈のただなかで、最善の判断ができる実践的な知的能力を持つ」とする(野中・遠山・平田 2010:98-100)。この能力を持つリーダーは、コミュニティや社会、世界の人々や環境との間で共通善を追求し、現実化を図る(野中・廣瀬・平田 2014)。

知識創造理論では知識を真善美に向かうプロセスと考えるが、その実践においては真善美の中で善を起点に位置付け、その実践を真、実践の現われる様を美と捉える3)。この点は、野中・竹内 (2020a) が、実践知を発揮するリーダーシップの能力を6つ――何が善かを判断して善なる目的を設定する、個別具体の事象から本質を直観する、「場」を創出する、本質を物語る、政治力を使い分けて物語りを実現する、組織のメンバーの実践知を育む――に分け、真善美のうち善のみをこの6つの能力に入れ、しかも1つめの能力に位置付けているところに表われている。言い換えれば、善を起点にしたリーダーシップが、真善美に向かう知識創造を促進することを示唆している。このように、知識創造理論は、知識の定義に「真善美」という価値観を入れ、「善」を起点とした価値判断を行うという点で、単なるハウツーを示す経営理論ではなく、「生き方」を示す経営哲学でもある(野中・竹内2020a)。

知識創造理論における善を詳しく見ると、その捉え方には3つがある。1つめとして、知識創造理論の善は、共通善――社会にとって善いこと、全人類にとって善いこと――である(野中・竹内2020a:168-169)。これは、「我々のため」の善と言える。「我々」が構成する共同体において、構成員が共通に善であると認識する善だ。知識創造理論は、その共同体を様々なレヴェルの組織、コミュニティや社会から、全人類にまで拡張しているが、それぞれのレヴェルでの共同体の共通善、「我々のため」の善という意味で一貫している。

2つめとして、知識創造理論の善は、「三方よし」が巡環――サイクルではなくスパイラルアップ――する善である。野中・竹内 (2020a:171-174) は、YKKの「善の巡環」という経営哲学を紹介している。YKKの社員が努力してよりよいものを低コストで作れば、顧客は満足してビジネスが拡大する。そうすれば、YKKの取引先の業績も伸張し、YKKと取引先企業の株主利益が増大する。さらに、それは税収増をもたらし行政サービスを支えることにもなる。企業を取り巻くステークホルダーは様々に繋がり合っているから、企業の善行は巡環する。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の実践により、自組織が繁栄することになる。「情けは人のためならず」という諺があるのは、我々が古くから善が巡環することを経験的に知っているからだ。善をなせば、それが巡環して結果的に「自分のため」や「我々のため(共同体のため)」になる。顧客の満足する商品やサービスを提供すれば、売上や利益は自ずとついてくるという考え方は、エーザイなど知識創造理論で取り上げた他の企業にも見ることができる(野中・遠山・平田2010野中・竹内2020a)。

3つめとして、知識創造理論は、以上のような善についての判断が「いま・ここ」でなされるとする(野中・竹内2020a:180-189)。「いま・ここ」とは、新たな知識が創られる「場」である。この「いま・ここ」すなわち「場」は、西田幾多郎の「場所」、ハイデガーの「ダー」(「現存在」の「現」、本稿はこれに〈現に〉という術語をあてる)に根ざしている(野中・竹内2020a:262)。知識創造理論は、「いま・ここ」について2通りの説明をしている。1つめの「いま・ここ」は、知識創造を推進する実践知リーダーが、「共通善の価値基準をもって個別のその都度の具体的な文脈の中で判断する」際の「個別のその都度の具体的な文脈」である。これは、時間的、空間的に限定された「場」のことであり、時計が示す時点と地図が示す地点として明示することができる。2つめの「いま・ここ」は、時間的、空間的に限定されていない「場」である。野中・遠山・平田 (2010:65) は、木田元のハイデガー論を参照しつつ、「いま・ここ」が「時空間を超越し、過去・現在・未来を同時に生きる」次元であり、過去・現在・未来が同時に現われる「場」だとする。これは、西田の「場所」の概念を取り入れている。このように、知識創造理論において、善を判断する「いま・ここ」には、時計や地図が示す時点や地点のレヴェルと、過去・現在・未来が同時に現われるレヴェルの両面がある。

以上により、知識創造理論の善は人間を対象とする「我々のため」のものと言えるだろう。では、想定され得る(想像・理解が可能な)人間以外の対象、また、想定され得ない(想像・理解が難しい)次元の「他者」の可能性の検討は全くされていないのだろうか。

その問題を解くカギは、西田やハイデガーを手がかりに考えた2つめの「いま・ここ」にある。この「いま・ここ」、すなわち「時空間を超越し、過去・現在・未来を同時に生きる」次元での善とは一体何かについて、知識創造理論の中で十分に明らかにされているとは言いがたい。なぜなら、2つめの「いま・ここ」は「他者」に触れるものであるが、「他者」について理論の中で検討していないためだ。

しかし、「他者」への兆しはある。例えば、野中・遠山・平田 (2010:17-18) は、カントの『判断力批判』の崇高に言及し、「『畏れを知る』ことは自己の限界を知り、自己をより大きな関係性の中に位置づけることを知るという点で、知識にとって重要な意味を持つ」と指摘する。ここで言う「畏れ」は、「人間の能力を超越する大自然のもの、いわゆる『絶対的なもの』との出会いからうまれる畏怖の念」(桑島2008)である(野中・遠山・平田2010:17)。このことから、想定され得る人間以外の自然という対象を、知識創造の前提に置いていると言えるだろう。つまり、人間に大自然を、言い換えれば「我々」に「他者」を対置することが新たな知識創造には重要だということに気づいている。しかし、理論の中ではそうした点を明示的に導入するまでには至っておらず、さらには想定され得ない「他者」の可能性を視野に入れることもできていない。こうしたことから、知識創造理論の善はなお「我々」にとっての善に留まっており、独善的になる可能性をはらむと結論づけざるを得ない。しかし、想定され得る人間以外の対象についての認識はあるから、そこから一歩進んで想定され得ない次元の「他者」との関わりへと議論を展開する余地は十分にあると考えられる。

図1 知識創造理論の善(イメージ)

出所:著者ら

3.斎藤慶典の哲学における善

知識創造理論が基盤とする哲学の中でも、現象学は重要な意味を持つ(野中・山口2019)。とりわけ、本稿の議論においては西田幾多郎とハイデガーが重要な位置を占める。そこで本項では、現象学を中心に研究し、ハイデガーを「我々」と「他者」の対置関係のもとに検討する斎藤慶典に基づき、善とその対象について検討する。これによって、知識創造理論の背景にあるハイデガーが「他者」と深く関わっていることを示し、知識創造理論に「他者」を導入する可能性を明らかにしたい。

3.1 斎藤の「善美真」

西洋哲学では、真善美という順序で考えるのが古代ギリシア以来の基本だが、斎藤は善を最初に置く。なぜなら、「我々」の活動の最も基礎にあるのが善だからだ。生命的存在者の活動の最も基礎にあるのが善である。生命体に対して、何かが姿を現わす。その姿を現わしたものと様々にやり取りすることによって生命は維持される。生命体の生存にプラスの価値を持つものが善、マイナスの価値を持つものが悪である。この判定が、生命活動の最も根底にある。たとえば、「我々」は日々自分が出会うものを判定し、善いものを積極的に取り入れる。栄養素は生存に役立つ善いものだから、積極的に摂取する。自分に好意を持ってくれる人は、生存のために有用な仲間だから接近する。逆に、毒を持つものは生存を阻害する悪いものだから、排除したり排泄したりする。自分に敵意を持っている人は生存を脅かすかもしれないから逃げる、あるいは戦う。これが生存の最も基礎にあり、動物においても植物においても人間においても事情は同じである。

ただ、人間の場合は、共同生活が欠かせない。しかも、その共同体の規模はかなり大きい。共同体とは仲間の集団である。仲間は、共同で生存を支え合うから善いものである。知識創造理論の善(共通善、巡環する善、「いま・ここ」の善)はこの意味で、「我々のため」の善と言える。自分たちの生命維持を支えてくれる共同体を存続させるための善だから、それは追求されるべきものである。知識創造理論は共同体を全人類にまで拡張し、その維持のために追求すべきことを共通善とする。また、「誰一人取り残さない」をスローガンにするSDGsの善も、人類全員の存続のためのものと捉える限り「我々のため」のレヴェルにある4)

生命の維持に貢献する栄養になるもの、つまり善いものを摂取するとき、我々は美味しさ、快を感じる。危険なものや忌避すべきものは不味い、つまり不快を感じる。このように快不快という仕方での感受のことを、斎藤は享受と呼ぶ。享受とは、味わうことである。享受するものは快だったり不快だったりするが、その中のある部分が美醜である。美醜は、享受の全てではない。たとえば、小鳥を見たとき、美しいではなく可愛らしいと言うことがある。美しいとは違った仕方の享受をするのだ。このように、我々は日々接するものを生命維持のために摂取したり排除・排泄したりすることに伴い、それらを様々な仕方で味わっている。これが、真善美の美の次元、享受の次元である。善と享受は同時に成り立つ。我々が美味しいものを食べるとき、それは生命維持に役立つ(善)と同時に美味という快の享受である。ビジネスで言えば、顧客満足を得ることは企業の存続に貢献する(善)と同時に、それを実現した従業員たちは充実感という快を味わう。

斎藤は、真を第3の次元に位置付ける。真理を知るというのは、物事がそれ自体としてどうであるのかを知ることである。ある物事がそれ自体としてどうであるのかは、生命維持とは独立である。生きていくには、何かが生存に役立つかどうかが分かればよい。何かがそれ自体として何であるかは、生きていく上ではどうでもいいことである。ところが我々は、それを問題にする。自分が出会っている物事が何なのかを考える。最終的には、この世界それ自体を対象にして、一体これは何なのだ、その中で生きるとは如何なることかなどと考える。自分の生存や「我々」の共同体の存続についての有用性とは異なる視点から、出会うものに向かい合うのだ。そして我々は、それがそれ自体として何であるかを知るということさえも、享受する。真理の探究には、味わいがあるのだ。対象が自分の生命維持に役立つかどうか、自分が属する共同体の存続にとって有用かどうかとは独立に、その対象それ自体が何であるのかを知ろうとするときに初めて問題になるのが、真である。

3.2 斎藤による「新たな次元」―「他者へ」―

これまで善美真の3つの次元を検討したが、斎藤はさらに、その3つに収まらない次元を考える。それは、自分や「我々」にとっての全くの「他者」に関わる。第1の次元から第3の次元までは、善と判断された対象を自分や「我々」の中に回収する動向に貫かれている。物事のそれ自体におけるあり方を問う真ですら、それを知ることで「我々」は満足を得る。すなわち人間中心のエゴイズムである。生命維持のために何かを自分の体内に摂取したり、快をもたらすものとして享受したり(味わったり)、それ自体が何であるかを理解する(理解することを「腑に落ちる」と言う)というのは、対象を自分の中に回収する行為である(これはその裏面として、害をなすものを排除する行為を常に伴う)。それに対して、自分たちの中に決して回収できないものを斎藤は「他者」と呼ぶ。

この「他者」が「他者」であるがゆえに、そちらに向かって自分自身を差し出す動向というものがある。これを斎藤は「他者へ」と呼ぶ。それは、第1から第3の次元のエゴイズムとは全く次元を異にする動向である。最も典型的な「他者」とは、死あるいは世界の無だ。死や無は、決して自身の中に回収できない。死なない人はいないのだから、「我々」は必ず死を被る。すなわち、それを排除することはできない。死は自分自身の存在を無にしてしまう。だから、死を自身の中に回収することも排除することも原理的にありえない。決して自分には回収も排除もできない「他者」へと向かう態度とは、たとえば、自分の死が必ず訪れることを視野に入れた上で、どう生きるかを考えることだ。あるいは、他人と向き合うとき、他人の背後にその固有の死を見て取ることだ。他人の死を自分に回収することはできない。決して他人の死を代わりに死ぬことはできないし、それを経験することもできない。そうした回収・排除不可能性を知りながら、他人と向き合うことがある。生命以外も含む自然に「他者性」を見ることもある。地球がなくなるときを考えて(その「とき」がいつか来ることは、宇宙の歴史を見れば間違いないと言ってよい)、美しい自然の背後にその無を見てもおかしくはない。それが「他者へ」という次元である。

レヴィナスは、「他者へ」を「善さ」と定義した(斎藤20002005)。レヴィナスの「善さ」は、自分の生命や「我々」の共同体の維持に役立つかどうかという尺度とは全く違うレヴェルにある。ひたすら「他者」へと自分自身を差し出す行為か否かによって、「善い」かどうかが決まる。この次元での悪は「他者へ」という動向を堰き止めること、その動向を反転させて自己や「我々」へと向かうこと、すなわちエゴイズムである。1番めの次元の善のように、自分の生命維持のために有用なものを摂取するのはエゴイズムである。共同体存続のために知識を創造するのは「我々のため」だから、それもエゴイズムの内にある。エゴイズムは、自らの維持を至上命令とする生命にとって当然のことだ。その観点からは、エゴイズムは善である。ところが4番めの次元では、エゴイズムは別の意味での「善」の反対概念として悪となる。斎藤は、このように第1から第4の次元を整理する。

3.3 〈現に〉から「他者へ」と向かう善の探索

斎藤は、ハイデガーが中核に据える「現存在」の「現」に〈現に〉という独自の術語をあてる。これが、知識創造理論の2つめの「いま・ここ」に相当する。〈現に〉とは世界の最終的な基盤であり、そこから全てが現われる。したがって、〈現に〉から全ての議論を立ち上げ直さなければならないという主張が現象学の中核にある。〈現に〉は「いま・ここ」ではあるが、「いま」とは現在という特定の時点、「ここ」とは空間の中で自分に最も近い地点のことではない。現時点は〈現に〉において姿を現わすものの1つに過ぎない。〈現に〉においては、過去の様々な出来事や追憶、未来に訪れる様々な出来事や予期の全てが姿を現わす。〈現に〉では、過去・現在・未来の全空間、素粒子が飛び交うミクロの空間次元から数多の銀河が連なるマクロの宇宙空間までが現出する。〈現に〉からすべてが現われるというのはこの意味である。

古くから、芸術は、過去・現在・未来が同時に現われる〈現に〉を様々な仕方で表現してきた。典型的なのは、死者たちが現在に臨在する物語である。現代の映画やドラマにもそのようなシーンがある。多くの人々がそれらを違和感なく受け入れるのは、〈現に〉を暗黙的に知っているからだろう。この〈現に〉をどう考えるかは哲学において極めて重要な課題であり、〈現に〉から第4の次元の「他者へ」の関わりが見えてくる。

「他者」とは、典型的には死や無のことであった。死や無の捉え方には、大きく2つがある。その2つを説明するために、まず、世界を根底で支える〈現に〉をもたらすエネルギーについて触れておきたい。それはビッグバンを惹き起こしたエネルギーとしても具体化し、その力によって宇宙、地球、生命が生まれ、善美真から第4の「他者へ」の次元へと進展する5)

死や無についての1つめの考え方は、死をこの大いなるエネルギーへの還帰と捉える。還帰した後、次世代の様々な生命体がそこから姿を現わす。一定の役割を果たした個体は、死して次世代に場所を譲ることで生命全体の維持と発展に役立つのである。大いなるエネルギーのもとに還帰して生命共同体の再生産に貢献するという死や無の捉え方は、第1から第3の次元を貫くエゴイズムの内にある。死後に向かう大いなるエネルギーは最大限に拡張された「我々」の共同体であり、維持拡張が要請されるものだからだ。たとえば、輪廻がこのような考え方に属する。

2つめの考え方は、エゴイズムの外に出る「他者へ」の次元に関わる死や無である。それは、世界を支える〈現に〉をもたらすエネルギーさえ無い次元へと消えてゆくことだ。死する私はそこにおいて、世界の存在根拠であるエネルギーさえ無いレヴェルに向き合うことになる。このとき、世界は無くてもよかったのになぜ存在しているのか、という問いが立つ。だがこの問いに答えはない。無の中に存在の根拠の「ある」余地はないからだ。そうであれば、世界が存在することは奇跡以外の何ものでもなくなる。世界の全ては、〈現に〉において間主観的に現出する。だがその〈現に〉には、存在根拠がない。ならば〈現に〉は、いつ無くなってもおかしくない。〈現に〉は、無の深淵に浮かんでいるかのような在り様をしているのだ。そのことを受け入れることで、全てが成り立っている。私の死とは〈現に〉が無い次元に消えていき、二度と帰ってこないことかもしれないのだ。

第4の「他者へ」の次元では、〈現に〉をもたらすエネルギーの中で「生きよ」と命ぜられて生きるのではなく、むしろそうした奇跡的なものが〈現に〉あることを享受し、それを深々と味わうことをもってよしとする生き方が見えてくる。この私のもとで、〈現に〉、過去・現在・未来の全てが現われているという奇跡を享受するのだ。このとき、この私一人が世界の全てを担う。世界が〈現に〉そのような仕方で姿を現わした現場に居合わせるのは私だけかもしれず、それは私の死と共に永遠に失われ、無に帰すからだ。斎藤(2018b:48-87) は、この意味での〈現に〉を〈「私」という単独者〉と呼ぶ。〈「私」という単独者〉のもとで、過去・現在・未来の全てが〈現に〉現われる。このとき、〈「私」という単独者〉は世界全体と外延を等しくする(斎藤2018b:78)。この単独者としての「私」を誰かに代わってもらうことはできない。この「私」が死ねばもはや世界は〈現に〉という仕方では現われないし、それは二度と帰ってこない。この意味で、〈現に〉は唯一なのである。

図2 斎藤の「真・善・美」と「他者へ」

出所:著者ら

図3 斎藤の〈「私」という単独者〉

出所:著者ら

4.西田幾多郎とその背景にある仏教の善

知識創造理論の「場」――そこに集う人々が間主観的な関係のもとで、新たな意味を共に創り、善に向かって知を創造する場所――の理論的背景には西田幾多郎がある。西田は、仏教の臨済宗と浄土真宗から多くを受け取り、その哲学を磨き上げた。また、知識創造理論自体も仏教に言及し、暗黙知の底には阿頼耶識があるとしている(野中・山口2019)。安藤礼二 (2018:46-48) によれば、西田の盟友である鈴木大拙は、阿頼耶識と如来蔵を同置した上で禅(臨済宗など)と浄土教(浄土真宗など)と密教(真言宗など)に同じ構造を認めた。こうした点を踏まえ、西田幾多郎とその背景にある仏教(西田が論じた臨済宗と浄土真宗、それらと同様に如来蔵思想を根本に置く真言宗)における善とその対象について、3項に引き続き斎藤慶典に基づき検討し、それらが「他者へ」という動向に深く関わることを示したい。このことを通じて、西田と西田が基づいた仏教に深く根ざしている知識創造理論に、「他者へ」を導入する可能性が開かれていることを明らかにする。

4.1 西田の哲学における「他者へ」

西田は臨済宗や浄土真宗から多くを学んでいる。斎藤 (2011:108-111) によれば、それらは「他者へ」、つまり斎藤の第4の次元と深く関わっている。西田の哲学では、自分が大いなるものと一体であるかのような調和的世界観が語られることがある。それは、世界に遍在する大いなる仏との合一による安心立命を説くタイプの仏教に対応する。世界をもたらす大いなるエネルギーのもとで全てが調和的に共存し安心を得る、死後にはそのエネルギーのもとに還帰して安らうという考え方だ。これは斎藤の善美真の第1〜第3の次元、すなわちエゴイズムの内にある。

ところが、最晩年の西田 (2004:336) は「場所的論理と宗教的世界観」で、場所的論理と仏教を徹底的に突き詰めた果てに到達する境地を、『臨済録』を引いて「一歩一歩血滴々地」(一歩一歩ごとに血が地面に滴り落ちる)と表現した6)。ここに至って西田の思考は、大いなるエネルギーのもとで安らうことを超えて、そのエネルギーの無の可能性を問う次元へと突入している。つまり、「他者へ」である。それはエゴイズムの次元の根本的転覆であり、安心立命の対極にある。このとき、もはや世界の存在根拠は磐石ではない。世界の全てが現出する〈現に〉は、底なしの深淵の上に投げ出される。西田は、臨済宗や浄土真宗にそのような事態を見たのでないか7)

「場所的論理と宗教的世界観」で西田は、臨済の「赤肉団上有一無位真人、常従汝等諸人画面出入」、『歎異抄』の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」を、「瞬間が永遠」、「唯一の個」と説明している(西田2004:341)。「瞬間が永遠」とは過去・現在・未来の全てが現われる〈現に〉のことであるから、西田は「一無位真人」と「親鸞一人」を唯一の〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉の意味で捉えている。つまり西田は、臨済や親鸞が無という「他者」と関わると捉え、無に直面するからこそ、〈現に〉の唯一性が際立つと考えたのではないか8)

4.2 仏教における「他者へ」:浄土真宗の他力の慈悲

無という「他者」に触れる「親鸞一人」に、「他者へ」という動向を見て取ることができる。この点について、中島岳志 (2021) の利他論を参照したい。中島は、親鸞の他力の慈悲を、立川談志による「文七元結」の解釈から読み解く。

「文七元結」は、博打の負けで困窮する長兵衛が、金を失くして困っている文七という見知らぬ男に50両という大金をあげてしまうという人情噺だ。しかも、その50両は、長兵衛の娘が吉原に身売りして作った金である。ただし、その吉原の女将は、長兵衛が真面目に働いて翌年の大晦日までに50両を返せば、娘を店には出さないと猶予を与えてくれていた。色々と大変なのだが、この噺はハッピーエンドで終わる。長兵衛、その娘、吉原の女将、その他の登場人物たちの利他が巡環して、みなにとってよい結果がもたらされる。

この噺をどう解釈するか。まずは、困っている他人に共感して利他をすれば、それが巡環して自分のためにもみなのためになるという、共通善と巡環する善の物語と読むことができる。その理解のもとでは、他人に共感して利他をすることが推奨される。そうすれば、結果として、自分にも共同体にも利益がもたらされるからだ。これは、自力と因果関係の利他と言える。他人に共感して助けるという自力の努力をすれば、それが経験的に知られる因果関係(情けは人のためならず)に基づき巡環し、自分のためにも共同体全体のためにもなるというわけだ。

これに対して談志は、「世の中、これを美談と称し、長兵衛さんの如く生きなければならない・・・などと喋る手合いがゴロゴロしてケツカル。大きなお世話である。」と喝破する。談志は、「文七元結」に善の巡環という因果関係を認めない。また、長兵衛の利他を、文七への共感という自力によるものではなく、偶然的なものと見る。長兵衛は偶々、吾妻橋を通った。そこに困っていた文七がいたから金をやったまでだ、と言うのだ。このように談志は、自力による共通善の実践と因果法則による善の巡環という解釈を斥ける。談志 (2018:20) は「落語とは非常識の肯定である」と言った。談志の常識とは、共同体における共存のために作られたものを指す。非常識を肯定した談志は、共同体の維持には収まらない次元、換言すればエゴイズムの外部を護ろうとしたと言ってよい。

このような、談志の偶然的で因果関係の外にある利他に、中島は親鸞の他力の慈悲を見る。自分や共同体の利益を期待しつつ他人に共感する自力の利他ではなく、阿弥陀仏の他力によって到来する慈悲である。中島によれば、親鸞は「存在すること自体の罪」を知ったときに他力の慈悲が到来すると説いた。その上で、(談志が解釈するところの)長兵衛の利他を、他力の慈悲と位置付ける。長兵衛が、自分がどうしようもない人間であること、自分が存在すること自体の罪に向き合ったとき、どこからともなく他力の慈悲がやって来た、というのが中島の見立てだ。

このことを、本稿の論脈から考えてみよう。「存在すること自体の罪」を知るとき、〈現に〉が「他者」に触れるのではないか。存在すること自体が問われるならば、全世界の存在を根底で支える〈現に〉の無と関わるはずだ。そこでは、〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉の唯一性が際立つ。これが、『歎異抄』の「親鸞一人」という事態だ。〈現に〉において現われる全存在者が否定された無我の境地において、自らが〈「私」という単独者〉であることを知ること、これが「親鸞一人」である。世界の全てはこの「親鸞一人」のもとで〈現に〉現われる。それが死ねば、〈現に〉もろとも全世界は失われる。その意味で、「親鸞一人」が世界の全てを担っている。この次元で到来する他力の慈悲には根拠がない。偶然である。全世界の根底を支える〈現に〉が、その無根拠性に触れているからだ。世界の存在自体が偶然ならば、その中での慈悲も偶然である。この慈悲は、無の深淵という「他者」から偶然にやって来る。それと同時にこの慈悲は、それに浴するのが「親鸞一人」だけでしかあり得ない(一人しかいないのだから)という意味で、必然である。他力の慈悲は、偶然にして必然なのだ。そして、この慈悲に浴した親鸞は、おのれを無という「他者へ」と差し出す。「親鸞一人」の次元における他力の慈悲は因果法則に基づかないから、共同体の道徳として共有すべきものではない。長兵衛の利他をそのように考えられるのではないか。

他力の慈悲は、芸術にも通じる。柳宗悦が起こした民藝運動は、浄土教の他力を基盤とする。他力による表現だ。その強い影響を受けた染織家の志村ふくみは、自分が色を作るのではなく、色がやってくるのだと言う。芸術作品は、手順通りにやればできるものではない。芸術において、自力の努力と成果の間に因果法則は認められない。大変な試行錯誤の果てに、芸術家は無我となる。そのとき、作品が到来するのだ。そこに、根拠が分からないまま、唯一の〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉に到来する他力の慈悲と同じ構造を見て取ることができる。

4.3 仏教における「他者へ」:真言宗の慈悲

無我を説く仏教が、その無我を「一無位真人」や「親鸞一人」のように唯一の自分自身を意味する言葉で示すことがある。そもそも、無我を説いたブッダは、同時に「自灯明(自らをたよりせよ)」と言った9)。無我の境地が自灯明だという矛盾表現は何を意味しているのだろうか。禅僧の内山興正 (2003:90-98) は、道元を引きながら「尽一切自己」、「自己ぎりの自己」を説く10)。真言宗ならば、法身大我だ(金山・柳田2018)。「自灯明」も「一無位真人」も「親鸞一人」も「尽一切自己」も「法身大我」も、〈現に〉において間主観的に現われる多くの人々の内の一人ではない。それを虚妄として否定するのが無我である。無我とは、間主観的に現われるふつうの意味での我を否定することで覚知される次元のこと、すなわち過去・現在・未来の全世界が現出する〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉のことである。無我を、自分自身を意味する言葉で示すのは、そのためだ。仏教では、修行によって無我に至ったとき、〈「私」という単独者〉のもとで〈現に〉全てが現われていることを知る。

無我が、無に直面する〈「私」という単独者〉であることを示す好例が、真言宗の法身大我だ。それは全世界をもたらす仏であり、過去・現在・未来の全世界に遍在している。仏教は一般に、世界をもたらし世界に遍在する力を空(くう)と呼ぶ。仏教の空には、空虚だけでなく膨張という意味がある。膨張とは、斎藤が言う世界をもたらすエネルギーのことだ。したがって、空とは世界をもたらすエネルギーにして、世界をその根底で支える〈現に〉のことだと考えてよい。井筒俊彦は、空のことを絶対無分節と呼ぶ。空は全てが現われる場所であるが、それ自体は何かとして分節されているわけではないからだ。その井筒は、真言宗の法身大我のことを「絶対無分別のコトバ」と言う(1985:264)。絶対無分別の次元にも分節(コトバ)があるのだ。井筒は、全世界をもたらす絶対無分別のコトバである法身大我に、世界創造の思いを見る。井筒の哲学に「他者」を見る余地を認める斎藤慶典(2018a)を敷衍すれば、その世界創造の思いは、世界の無に触れている。世界創造の思いは、ひょっとしたら世界はなくてもよかったのではないかという問いが生まれる次元、世界の有無が問われる次元、世界がその無に接する次元で生ずるからだ。そこでは絶対無分節というエネルギーが、その無に触れる。この事態のことを、井筒は絶対無分別のコトバ(分節)と言ったのだ。分節線が入るとは、差異が生ずることである。創造の思いとは、絶対無分別がその無に触れて原初の微かな差異が生ずることだ。無に触れる法身大我は、〈現に〉のように、無の深淵に浮かんでいるかのような在り様をしている。真言宗が世界の根源を法身大我と呼ぶのは、それが〈「私」という単独者〉のような在り方をしているからであろう。その唯一性は、存在の無根拠性に照らされて光を放つ。

空海の慈悲を表現する言葉に「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん(高野山萬燈萬華会の願文)」がある。残すことなく全ての衆生を救済するという願いだ。これは、一切衆生の背後に〈「私」という単独者〉の唯一性を認めている。真言密教では、あらゆる衆生が〈「私」という単独者〉である法身大我の顕現だと考えるからである。このように空海は、あらゆる人々を〈「私」という単独者〉と見て慈悲をなす「他者へ」を説いた。

5.「他者へ」の可能性を視野に入れ、護る経営に向けて

本稿第2項の知識創造理論の検討では、同理論が哲学における知を概観し西田やハイデガーを参照するが、「他者」を考慮していないことを明らかにした。第3項の斎藤の哲学では、知識創造理論の背景にあるハイデガーが、「他者」を論じていることを示した。第4項の西田と仏教では、知識創造理論が根ざしている西田と仏教(臨済宗、浄土真宗、真言宗)が「他者」と深く関わることを具体例も交えて論証した。

善を起点に置く知識創造理論は、対象を人間とし、「我々のため」の善という前提に立っている。その知識創造理論は、知の生態系という「我々のため」の善に留まらず、想定し得ない「他者」を視野に入れることで、新たな可能性へと開かれる。それは、〈現に〉と「他者へ」という視点を組み込んだ善を導入することだ。対象を人間とし、その生命や共同体の維持再生産という次元に身を置きながら、同時に想定し得ない「他者へ」という動向をその可能性において護る善である。これにより、人間中心の「我々のため」の善が独善的になることを防ぎ、「畏怖の念」を持ちながら経営を、さらには政治や経済に携わることができると考える。

斎藤の「他者へ」とは、その唯一の〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉を無に差し出すことであった。奇跡的に存在する〈現に〉を無に向けて差し出すのだ。もちろん、無に向けてというのはあくまで最終的に、である。ビジネスが対象とする人間はいずれみな死ぬ。人類も(長いタイムスパンで見れば)いずれ滅亡するだろうし、太陽系も太陽が大爆発したら解体する。この宇宙すら、いつか無くなるのかもしれない。いつかは全てが無に帰するならば、我々の表現活動は、最終的には無に向けて差し出されると言うほかない。すべてのビジネスが対象とする人間も最終的には無に帰すのだから、我々はその人間の背後に無を見ることになる。仏教も「我々のため」のレヴェルと無我のレヴェルを重ねて見る11)。ビジネスで言えば、企業が利益を追求する活動の中に、「他者へ」という動向を見出すということだ。無の深淵から到来し無の深淵へと消えてゆく仏教の「他者へ」という動向は、さまざまな表現を生み出してきた。それは、仏教の影響を受けた様々な芸術作品、伝統芸能、武道などから談志が示した庶民の利他まで、幅広い。知識創造理論においても、そのような善を実践することができるのではないか。たとえば、日本の経営者やビジネスパーソンは仕事のやりがいを大事にする。これは、生命や共同体の再生産に収まる話だろうか。株価を上げることよりも、社員を守りたいという動機が強くある。そのとき、社員を通して〈現に〉の唯一性を見ている可能性はないか。共同体のために有益というだけでない、第4の「他者へ」の次元に踏み込んでいることがあるように思われる。

ビジネスは生の営みであると同時に表現であり、この点は芸術と同じだ。ビジネスは生命や共同体再生産のための金儲けだが、それを通じて唯一の〈現に〉を味わう側面もあるのではないか。唯一の〈現に〉あるいは〈「私」という単独者〉を無へと差し出す「他者へ」という動向には、深い味わいがある。決定的な深みは、無との関わりから出てくるのだ。たとえば日本文化は、それを「もののあわれ」という形で表現してきた。あわれは別に美しくはない。しかし、深い味わいを湛えている。我々の祖先はそれを和歌に詠み、能で表現してきた。それは、世界をもたらすエネルギーから逸(そ)れることだ。エネルギーという力の外部を視野に入れて、その上でこの現実に関わり直すという対応があってよい。それに取り組んだ先人たちはたくさんいた。仏教哲学がこの現実を空(くう)とか無と見るのは、そういう視点からではないか。死や無が哲学的思考の視野に入っている度合いから見ると、西洋哲学よりも東洋哲学(仏教、道教などの中国哲学、インド哲学、イスラーム哲学など)に、より学ぶべきものがある。

だが、「他者へ」の実践があくまで「ひょっとしたらそうかもしれない」という可能性の次元にとどまることを忘れてはならない。死や無に触れたことは、決して確証できないからだ。電車の中でお年寄りに席を譲ったとしよう。この利他は、「他者へ」、すなわち(その死を背後に宿した)唯一のお年寄りのためだろうか。それとも、利他によって自分自身が満足するというエゴイズムによるものだろうか。実は、この両者を見分けることはできない。自分が満足したことは、何らかの快がもたらされることでそれと知れる。しかし、「他者へ」は死や無という絶対経験できない次元に関わっているから、その行為が「他者へ」の実践なのかどうかは決して立証できない。したがって、その利他はひょっとしたら「他者へ」の実践だった可能性がある、としか言いようがない。ビジネスならば、利益追求のための顧客満足の背後で、ひょっとしたら「他者へ」が行なわれている可能性があるということだ。

だが、「他者へ」の実践があくまで可能性のレヴェルにとどまるからといって、それを軽視すべきではない。むしろ、そのような「他者へ」の可能性を積極的に護ることを、フロネーシスの実践と考えられないか。斎藤によれば、ハイデガーはフロネーシスを「瞬間」(固有性の相のもとでの現在)に結び付けている(2018b:457)。「瞬間」とは、唯一の(固有の)〈現に〉のことだ。〈現に〉の唯一性は、死あるいは無に触れることに由来する。「他者へ」の可能性を否定すれば、世界はエゴイズム一色に塗り潰されてしまうだろう。それは、生命を根底で支えるあの力(エネルギー)に全面的に服すことに等しい。

政治や経営は、単に人間の生命の維持や共同体の存続に貢献するという領域を抜け出し始めている。芸術、教育、医療、製薬などの分野では、利益を追求しながらも唯一の〈現に〉に向き合い、「他者へ」と向かう次元を暗黙の内に護ってきたとも考えられる。実際、音楽、美術、映画などの芸術産業だけでなく、建築、飲食、ファッション、プロダクトデザインなど幅広い分野のビジネスが、第2の享受の次元に関わっている。教育産業、医療産業や企業の研究所は、第3の真の次元に取り組んでいる。それら第2の享受、第3の真に携わる人々や組織の中には、第4の「他者へ」の次元に関わっているものもあると思われる。先端的な金融工学やITなどの数学的な分野でも、たとえば、数学者の岡潔(1997:236)が、数式が芸術作品のような仕方で到来することがあると述べているように、「他者へ」のビジネスがありうるのではないか。

行き過ぎた資本主義に基づく経済活動は、未だ人間中心の利益を徹底的に追求する方向にある。Black Lives Matterやアジア系ヘイトなど、人種間の対立も収まる様子がない。他方、COVID-19の世界的な流行やVUCAの世界と言われる中、人間中心のエゴイズムと「他者へ」の両面が現われるようになった。たとえば、SDGsの「誰一人取り残さない」というスローガンは、人類共同体全員の生命を守ると捉えればエゴイズム(「我々のため」)の次元にあるが、〈現に〉の唯一性を語っているのだと考えれば「他者へ」のことだと解釈することもできる。

人間中心のエゴイズムから「他者へ」と完全に転換せよと言うのではない。人間を対象とする「我々のため」の善を捨てることは、自らの生命や共同体の維持再生産を放棄することになる。そうではなく、「我々」が「他者へ」の次元を視野に入れ多少なりとも配慮することで行動や思考の変容を起こせば、エゴイズムに基づく企業活動の中であっても、「他者へ」の次元を護ることができるのではないか。

そのためには、多くの政治家や行政官、ビジネスパーソン、あるいは一般の市民が、「いま・ここ」(〈現に〉)を起点に想像の幅と深さを広げ、時空間を超えて想定し得ないものについての想像と畏敬の念を持ち、善を追求することが必要だろう。それには、本稿で新たな視点をもたらした哲学や宗教などの教養を学び実践することが重要だ。1人でも多くの志ある次世代リーダーにこの論考を通じて「他者へ」の次元を伝え、これを護り、政治哲学や経営哲学を語り実践する人々が増えることを期待したい12)

  1.   

    「理念・哲学なき行動(技術)は凶器であり、行動(技術)なき理念は無価値である。」

    ― 本田宗一郎 (田上, 2003)

1)  内閣府サイト「Society 5.0」https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/

2)  野中・竹内(2020a:105)は、知識を「ある特定の状況や文脈において他者や環境との相互作用を通じ、人々によって創造され、実践される、正当化された真なる信念」と定義したうえで、より広く知識を捉える定義として「“真なるもの”をめざす、正当化された個人的な信念のダイナミックな社会的プロセス」とし、この「真なる」とは「われわれがそういうものとして信じているという意味」だとしている(野中・竹内 2020a:原注18)。

3)  野中・西原(2017:21)は、「知識は真善美のすべてに向かうプロセス」とし、「真の表現が美(美学)であり、真の実践が善(倫理学)である」とするが、2021年1月に、本論文の著者の1人が野中郁次郎に行ったインタビューで、善を起点とすることが確認された。

4)  ただし後述するように、SDGsを「我々」の生存のための善とは違う「他者へ」のレヴェルで捉えることもできる。

5)  斎藤(2014)第5章、第6章を参照。同書は本稿が善、美、真、「他者へ」の展開として論じた事態を、世界をもたらすエネルギーによる生命の進化と、そのさらなる展開として詳論している。

6)  これを斎藤(2011:109)は、「安心立命の対極」、「底なしの深淵」と言う。

7)  末木(2018)は、西田の絶対矛盾的自己同一について、全てが場所において同一化されることに疑義を示す。同時に、仏教においても全てが大いなるもの(真如や法身)に回収されることはないという解釈、大いなるものを超越する解釈の可能性を探求している。

8)  このことをもって斎藤は、〈現に〉を〈「私」という単独者〉と呼んだ。この「私」のもとで過去・現在・未来の全てが〈現に〉現われる。その意味で、この「私」は世界の現出を担っている。この「私」が死ねば、世界の全ては〈現に〉もろとも無に帰して二度と還ってこない。

9)  永井(2018:294)は、ブッダの自灯明を〈私〉の次元に位置付ける。〈私〉とは、永井独自の術語で、〈現に〉と同様、過去・現在・未来の全てが現われる唯一の場所である。世界現出の根底において、全てが大いなるものに回収されるという西田解釈や仏教解釈と違い、斎藤と永井は「私」(斎藤)や〈私〉(永井)の唯一性を強調する。

10)  藤田・永井・山下(2016:98-172)は、内山の「尽一切自己」、「自己ぎりの自己」が永井の〈私〉に通じていることを検討している。

11)  大乗仏教の修行は、瞑想等によって自我(〈現に〉に現出するふつうの意味での自我)から無我(空)を目指すが、そのまま無我にとどまるわけではない。無我から自我へと戻り、自我(世俗)を生きながら無我の慈悲を実践する。このとき、自我と無我を二重に見ることになる。井筒俊彦はこれを「二重の見」と呼ぶ。「二重の見」の例として、真言密教の「三句の法門」における「方便を究竟とす」、禅の「十牛図」の「入鄽垂手」などがある。大乗仏教の慈悲は空に基くと言われるが、それは「二重の見」をもって慈悲をなすということである。

12)  本論文の執筆にあたっては、慶應義塾大学文学部 人文社会学科(哲学系)教授 斎藤慶典氏よりいくつもの有益なアドヴァイスをいただいた。ここに記して感謝の意を表させていただきます。

参考文献
  • 安藤礼二 (2018) 『大拙』講談社.
  • 藤田一照・永井均・山下良道 (2016) 『〈仏教3.0〉を哲学する』春秋社.
  • 井筒俊彦 (1985) 『意味の深みへ―東洋哲学の水位』岩波書店.
  • 金山穆詔・柳田謙十郎 (2018) 『日本真言の哲学―空海『秘蔵宝鑰』と『弁顕密二教論』』大法輪閣.なお、底本は (1943) 弘文堂書房
  • 桑島秀樹 (2008) 『崇高の美学』講談社.
  • 小林三郎 (2013) 「ホンダ イノベーション魂!Part 3 第4回 哲学なき技術は凶器だ」2013年8月5日、日経クロステックウェブサイト.https://xtech.nikkei.com/dm/article/FEATURE/20130725/294353/
  • 永井均 (2018) 『世界の独在論的存在構造―哲学探求2』春秋社.
  • 中島岳志 (2021) 『思いがけず利他』ミシマ社.
  • 西田幾多郎 (2004) 「場所的論理と宗教的世界観」、『西田幾多郎全集 第十巻』岩波書店所収.なお、論文は1939年.
  • 野中郁次郎・遠山亮子・平田透 (2010) 『流れを経営する―持続的イノベーション企業の動態理論』東洋経済新報社.
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  • 野中郁次郎・西原文乃 (2017) 『イノベーションを起こす組織――革新的サービス成功の本質』日経BP社.
  • 野中郁次郎・山口一郎 (2019) 『直観の経営―「共感の哲学」で読み解く動態経営論』KADOKAWA.
  • 野中郁次郎・竹内弘高 (2020a) 『ワイズカンパニー―知識創造から知識実践への新しいモデル』東洋経済新報社.
  • 野中郁次郎・竹内弘高 (2020b) 『知識創造企業(新装版)』東洋経済新報社.
  • 野中郁次郎編著 (2021)『共感が未来をつくる—ソーシャルイノベーションの実践知』千倉書房.
  • 岡潔 (1997) 『岡潔―日本のこころ』日本図書センター
  • 斎藤慶典 (2000) 『力と他者―レヴィナスに』勁草書房.
  • 斎藤慶典 (2005) 『レヴィナス―無起源からの思考』講談社
  • 斎藤慶典 (2011) 『「実在」の形而上学』岩波書店.
  • 斎藤慶典 (2014) 『生命と自由―現象学、生命科学、そして形而上学』東京大学出版会.
  • 斎藤慶典 (2018a) 『「東洋」哲学の根本問題―あるいは井筒俊彦』講談社.
  • 斎藤慶典 (2018b) 『私は自由なのかもしれない―〈責任という自由〉の形而上学』慶應義塾大学出版会.
  • 末木文美士 (2018) 『死者と菩薩の倫理学』ぷねうま舎.
  • 田上勝俊 (2003) 『新しいものを次々と生み出す秘訣』かんき出版.
  • 立川談志 (2018) 『談志 最後の落語論』ちくま文庫.なお、底本は (2009) 梧桐書院.
  • 内山興正 (2003) 『坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる』大法輪閣.
 
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