2023 Volume 20 Issue 1 Pages 16-32
これまで日本の経営者は自らの「経営哲学」を以って、社員に対し「かくあるべし」とその行動のあり方を指示してきた結果、日本の企業は諸外国の企業を追い越し、物質的な豊かさを実現したが、物質的に満たされた現代においては「かくあるべし」では人は動かなくなり、やらされ感を助長し、自発性と成長を阻害し、行き詰っている。
そこで、本研究では、これまでの日本の経営者の「かくあるべし」という考え方と行動に道を示し、重大な影響を及ぼしてきたと考えられる経営者の抱く形而上学的論理(経営者哲学)について、批判的な議論を行い、時代変化を踏まえた課題を明らかにし、それを解消する今後の経営者哲学を推測した。
永野(2015)は、経営哲学の経験科学的側面だけでなく形而上学的側面に対して批判的な議論を行うことが不可欠であり、Popperの批判的合理主義に基づき、他者との批判的な議論を可能とする定式化の中での厳しい議論が不可欠であると主張した。
これに対応し、本研究では、定式化の手法としてPopperの提唱する理論的枠組みの中でSCAT分析の概念化のプロセスを活用した。
これにより、日本の経営者哲学に「強制」あるいは「存在・価値の否定」が内包されていることを明らかにするとともに、批判的合理主義に基づく考察により、現代における課題解決への論理の有効性と論理の内部整合性とに疑問があることを示した。
また、平出(2005)は、経営・経済哲学(倫理学)において、「存在=被制作性」という存在概念が近代形而上学的思考の超克を不可能としており、この超克のために、「存在=被制作性」という存在観に基づく諸活動に抗して、「存在=生成」という存在観に基づく活動の領域を確保することを主張した。
本研究では、この視点から今後の日本の経営者哲学について考察し、「宇宙は生成・発展する意志と力を持っており、人間に注ぎ込み、人間は『無条件に』生成・発展するものである」となると推測した。
これまで日本の経営者は自らの「経営哲学」を以って、社員に対し「かくあるべし」とその行動のあり方を指示してきた。その結果、日本の企業は諸外国の企業を追い越し、物質的な豊かさを実現した。
しかし、現在、物質的に満たされ、「かくあるべし」では人は動かなくなり、かえってやらされ感を助長し、自発性と成長を阻害し、行き詰まりを見せている。
そのため、これまでの日本の経営者の「かくあるべし」という考え方と行動に道を示し、重大な影響を及ぼしてきたと考えられる経営者の抱く形而上学的論理(以下、「経営者哲学」)1)について批判的な議論を行い、時代変化を踏まえた課題を明らかにし、それを解消する今後の経営者哲学を推測することが必要であると考えた。
1.2 研究の目的、意義本研究は、日本における「経営者哲学」について、現代の経営に影響を与えている近代以降の経営者の経営者哲学を分析し、批判的な議論を行い、時代変化を踏まえた課題を明らかにするとともに、その課題を解決する今後の経営者哲学を推測することを目的とする。
本研究は、現在および将来の経営者に対し、経営哲学を思索する上での示唆を与え、行動の変容をもたらすという実務的意義があるとともに、経営者哲学について批判的な議論を行うための定式化の手法を提示するという学術的意義がある。
1.3 研究の方法 1.3.1 用語の定義本研究では、経営哲学から経営者哲学(経営者の抱く形而上学的論理)を抽出して分析を行うことから、「経営哲学」「形而上学的論理」「経営者哲学」を以下のように定義する。
本研究では、形而上学的論理について批判的な議論を行うため、Popperの提唱する方法論的枠組みを用いる。具体的には次の2点を当為の判断基準として批判的な議論を行う2)。
本研究では、現代の企業経営に影響を与えている近代以降のこれまでの経営者哲学を分析することから、「文献調査」を調査方法とし、SCAT分析3)の概念化ステップを分析方法として用いる。
SCAT分析の概念化ステップは以下の4ステップである(大谷, 2019, pp.286-294)。
このSCAT分析の概念化ステップの意義は、分析手続きの定式化による分析者能力に依存しない分析結果の安定化と分析過程の明示化による省察可能性と反証可能性の増大にある。
本研究でSCAT分析の概念化ステップを用いる妥当性は以下の2点である。
(1) 分析手続きの定式性と明示性による「解釈の恣意性」の排除
本研究では文献を対象に分析を行うが、一般に文献を分析する場合の文言(テクスト)の解釈は、分析者に委ねられ分析者の能力に左右されやすく、また恣意が入りやすいという懸念がある。SCAT分析の概念化ステップは定式的で分析の過程が可視化され明示的に記録される分析手続きである。これにより分析者の能力への依存を軽減し安定的な結果を導くことができると同時に、妥当性の省察を分析者に促し、第三者からの批判のしやすい環境に置かれることで分析者の「解釈の恣意性」を排除する可能性が高まる。
(2) 全データ使用性による「文言選択の恣意性」の排除
文献研究のもう1つの懸念点は、分析対象とする文言の取捨選択に伴う分析者の「文言選択の恣意性」の存在である。分析者の意図する結論に導くために、分析者にとって都合の良い文言のみを選択的に分析することがあり得るということである。SCAT分析の概念化ステップは、採取したテクストデータの全部を使用し、恣意的な選択を行わない。終始全テクストデータを見ながら分析を進めて行くため、文言の取捨選択といった分析者の主観を排除し、「文言選択の恣意性」を排除する可能性が高まる。
以上の2点から、本研究でSCAT分析の概念化ステップを用いることに妥当性があると考えられる。
1.3.4 文献調査の対象者経営者哲学の分析の対象者は、現代の企業経営に影響を与えていると考えられる近代以降の経営者から選定する。
選定にあたっては、経営理念史、あるいは経営史の先行研究である土屋(1967)と宇田川・生島(2011)において研究対象とされている30名より、(a)本人の著作物、(b)記念館、(c)顕彰会、(d)研究会の存在状況に基づき、特に影響度が高いと推察される、渋沢栄一、松下幸之助、稲盛和夫を分析の対象者とする。選定のための一覧表を表1に示す。
出所:筆者作成
経営者哲学について、これまでどのような研究がなされてきたか、経営者哲学の内容について批判的な議論を行う視座を持つ研究か否か、また、実際の経営者の経営者哲学について分析する視座を持つ研究であるか否か、の視点から明らかにする。
2.1.1 経営者哲学の内容について批判的な議論を行う視座を持つ先行研究経営者哲学の内容について批判的な議論を行う視座を持つ先行研究として、永野(2015)、平手(2005)がある。
① 永野(2015)の研究(批判的合理主義に基づく経営者哲学の検証)
永野(2015)は、「経営哲学」は経験科学的要因と形而上学的要因を含むとし、それ故に、「経営哲学」研究を行うに当たっては、経験科学的側面だけでなく形而上学的側面についても批判的な議論を行うことが不可欠であるとする。
永野(2015)は、Popperによる批判的合理主義に基づき、形而上学的理論については世界3の理論に照らしてその評価を行うことを提示した4)。そして、世界3の住人である客観的知識は、他者との批判的な議論を可能とする定式化の中で厳しく議論される必要があるとし、批判的議論のためにフレームワークの共有や連続性は必要なく、「問題を解いているか」「他の理論よりも良く解いているか」「その解決は実り多いものか」「他の問題を解決するために必要な他の理論と矛盾しないか」といった点についての議論を行うことを通して、形而上学的理論に対する知識の成長が可能になるとしている。
以上のように、永野(2015)は、Popperの批判的合理主義に基づき、「経営哲学」における形而上学的論理に対する批判的議論の必要性を指摘するとともに、その方法について、示唆を与えるものである。
② 平手(2005)の研究(存在論に基づく経営者哲学の方向性の示唆)
平手(2005)は、ハイデガーおよびニーチェの論考5)を参考に、「存在論」の視座から、古代より現代に至るヨーロッパ文明の形成原理を解明した上で、存在概念のありかたを次のように考察する。即ち、プラトン以来2500年間にわたって「存在=被制作性」という存在概念がヨーロッパ文明を支えてきた根源であることを指摘する一方、それ以前の「ソクラテス以前の思想家たち」は、「存在=生成」として、万物を生きて生成するものと捉えていたとし、ニーチェは近代ヨーロッパ文明の総体を批判し、新たな文明の登場を図るべく、「存在=生成」という始源に立ち返らせ、生成の自然的運動原理の復権を企図したとする。
そして、存在論の社会理論に与える影響を考察し、存在論を基底とした経営哲学は「人間の条件」に重要な影響を与えるとした上で、「存在=被制作性」という存在観に基づく諸活動に抗して、「存在=生成」という存在観に基づく「活動」の領域をいかに確保するかが、経営哲学における今後の第一の課題になると指摘する。
以上のように、平手(2005)は、経営哲学について、「存在論」の視座から存在観の重要性を指摘し、「存在=生成」を、今後の方向性として示している。
2.1.2 実際の経営者の経営者哲学について分析する視座を持つ先行研究実際の経営者の経営者哲学について分析する視座を持つ先行研究として、川上(2010)、佐藤(2013)、吉田(2009)がある。
① 川上(2010)の研究(経営者の宗教性の解明)
川上(2010)は、経営者自身の宗教性について、松下と稲盛を対象として、宗教の経営者に対する影響という観点と合わせ、考察を行う研究である。松下と稲盛は、自分自身の世界観や人間観を「宗教」とは呼ばず「哲学」と呼んでいるが、影響を受けた宗教の独自の再解釈を行って、宗教性を帯びるものになっているとする。
② 佐藤(2013)の研究(経営者哲学の形成要因の解明)
佐藤(2013)は、経営者哲学を、経営者個人の哲学と、それが経営体を通じて組織や社会に浸透した経営体哲学に分類できるとする。その上で、戦後活躍した経営者の経営者哲学の形成要因を「宗教的なもの」とし、経営活動を通じて経営体の哲学となり、企業哲学や組織哲学手段とし、社会貢献という事業哲学を目的として形成されてきたとする。
③ 吉田(2009)の研究(松下の経営哲学と人間観の再評価)
吉田(2009)は、松下幸之助の経営哲学と人間観を明らかにし、その上で、松下の現在における再評価を試みるものである。吉田は、松下の人間観において、経営者哲学を明らかにし、さらに、福田(2006)において、サルトルと対比しつつ前時代的としながらも、環境問題などにおいて今日においても一定の妥当性を認めていることを引きながら、東洋的思想として、さらに評価されるべきである、としている。
以上の様に、川上(2010)、佐藤(2013)の研究は、いずれも、経営者あるいは経営哲学における宗教性の存在を認めるものであるが、その内容について批判的に議論するものではない。また、吉田(2009)を引用しながら松下の経営者哲学に対し評価を行っているが、現代において、松下を再評価すべきであるとしつつも、具体的な批判的議論はなされていない。
2.2 先行研究の限界以上に見たように、永野(2015)、平手(2005)は、経営者哲学について批判的な議論の必要性を指摘し、方法を示唆し、議論し、さらに今後の方向性を示すものであるが、日本の実際の経営者について、批判的議論を行い、日本の将来の経営者哲学を推測するものではない。
また、川上(2010)、佐藤(2013)、吉田(2009)は、日本の実際の経営者について、それぞれが抱く経営者哲学を宗教的側面あるいは人間観から解明する研究であるが、経営者哲学の内容を批判的に議論し、また、具体的な将来の方向性を示すものではない。
このことから、経営者哲学に関する先行研究の限界は、日本の経営者の経営者哲学について批判的な議論を行い、将来の経営者哲学を推測することに限界があると言える(表2)。
出所:筆者作成
本研究の背景と目的、意義、および、経営者哲学に関する先行研究の限界に基づき、本研究では、以下の2つの研究の問い(リサーチ・クエスチョン)を掲げる。
(2) 現代における課題を解消する経営者哲学として、今後、どのような経営者哲学が推測されるか。
以下に、先に選定した経営者の経営者哲学について、①当該経営者の活動した時代背景と活動内容、②当該経営者の経営者哲学、を明らかにし、経営者哲学をSCAT分析の概念化ステップを活用して、リサーチ・クエスチョン1「日本の経営者の経営者哲学について、同質な点は何か。差異は何か。また、現代における課題は何か。」を明らかにする。その上で、「4.今後の経営者哲学に向けて」において、リサーチ・クエスチョン2「現代における課題を解消する経営者哲学として、今後、どのような経営者哲学が推測されるか。」を明らかにする。
なお、経営者哲学をSCAT分析の概念化ステップにより分析することから、②において、経営者哲学を原文のまま抽出する。抽出した経営者哲学の原文は、四角囲みに示す。
3.1 渋沢栄一の経営者哲学 3.1.1 時代背景と活動6)渋沢栄一は、1840年(天保11)に生まれ、1931年(昭和6)に没する。生年は、国内では、翌年には水野忠邦による天保の改革が始まる、まさに幕藩体制の解体期であり、海外では、隣国中国とイギリスとのアヘン戦争が始まるなど、欧米列強のアジアへの進出が目覚ましくなってきた時代である。没年は、前年に大恐慌となり、第二次世界大戦に突き進みつつある時代である。渋沢は、幕藩体制の解体期から昭和初期までの日本の近代社会・経済の確立期に活躍した人物である。
渋沢は、幕藩体制の解体期にあっては、商業も行う富裕な農家で商才を発揮し、権勢、時勢に対し義憤を抱き、尊王攘夷の志士として活動したが、道義心と事業力を買われて幕臣として頭角を現す。幕府の倒壊前にフランス他ヨーロッパ諸国への洋行の機会に恵まれ、見聞を深め、日本経済の近代化の理想を抱く。
明治新政府にあっては、その財政能力から、大蔵官僚として財政運営体制の基盤構築に尽力するが、第一国立銀行の設立を機に実業界に転身し、金融業の基盤確立を中心として、産業の興隆を図り、日本経済の近代化に多大な貢献をした。
実業と合わせ、公共・社会事業にも寄与した。日本の資本主義経済の近代化に、物質的な面の実現だけでなく、精神的、道義的な意識の涵養に尽力した一生であった。
3.1.2 経営者哲学1912年(明治45)に出版された『青淵百話』は、渋沢の経世七十有余年の随想録といえるものであり、その巻頭第一話「天命論」、および第十話「天の使命」において、渋沢は、「天」についての彼の思索を著している。
この中で、渋沢は、「余は孔子の説に服す」としているように、天命観について、孔子の影響を受けている(渋沢, 2011, p.4)。
渋沢は、孔子の言葉、「天を
さらに、「天何をか言はんや、四時行はれ、百物生ず、天何をか言はんや」については、「天は人間行為の指導者として崇敬すべきもので、自然界に対しても偉大なる配剤の力を持つもの」であることを言い、「天とは自然の力の集合したものであることを説いて居る」とした(同, p.5)。
以上の論語解釈をもとに、渋沢は自身の天命論を展開している。以下に『青淵百話』より、渋沢の経営者哲学を抽出し、原文のまま示す。
(1) 『天』については(中略)、之を西洋で謂へば『造物主』の如きものであらう。之と定まれる形は無いけれども、一つの霊が有る(渋沢, 2011, pp.1-2)。 (2) 天は霊のみだから、言はんと欲して言ふことが出来ず、行はんと欲するも行ふことが出来ないので、 (3) 天は公正無私にして絶大無邊の力を持つもので、人はその命ずるままを行ふべきもの(同, p.2)。 (4) 神は比較的人間界に近いものであるが天は (5) 人の身の上や、一家の内なぞに幸福や不幸があるのは、これ即ち天命の然らしむる所で、人として天命に背かぬ行為をすれば、天は之を助けて幸福を授けるし、若しそれに反して悪行醜事を行へば、天は直ちに之を (6) 天は実に霊妙なるものである。公明なるものである。正大なるものである。廣く社会の為を思ふが、一人に禍福を (7) 天命とは実に人生に対する絶対的の力である。此の力に反抗して事を為さんとしても、それが永久に遂げ得るものでないことは、(中略)既に幾多の歴史が之を証明して居る(同, p.9)。 (8) 『天命を知る』時に於て、人は初めて社会的に順序あり系統ある活動が出来ると共に、其の仕事も永久的生命のあるものとなるので、(中略)天命を楽しんで事を為すといふことは処世上に於ける第一要件で、(中略)『天命に安んずる』の境地には何人も到着し易い所である(同, pp.9-10)。 (9) 元来人が此の世に生まれて来た以上は、自分の為のみならず、必ず何か世の為となるべきことを為すの義務があるものと余は信ずる。即ち人は生まれると共に天の使命を |
松下幸之助は、1894年(明治27)に生まれ、1989年(平成元)に没する。生年は、日英通商航海条約が締結され、不平等条約の撤廃の端緒を開き、また、日清戦争が始まる年であって、翌年には勝利し、これを契機として日本の資本主義が飛躍的に発展を遂げる時代である。没年は、日本の経済はバブル期にあり、物質的な豊かさを謳歌した時代である。松下は、日本の資本主義経済の勃興から、第2次世界大戦を経て、高度経済成長を遂げる時代に活躍した人物である。
松下は、日本が日清戦争に勝利し、経済が進歩発展する中で、9歳から丁稚奉公で商売を学び始め、15歳の時にこれからは電気の時代になると考え電灯会社に就職した後、自ら考案したソケットの製造を決意し、事業を立ち上げる。アタッチメントプラグや砲弾型電池式ランプを考案し、その他さまざまな商品開発を続け、また販売も次第に独自で手掛けて事業を拡大した。
37歳の時、ある宗教の本部を訪問した際、そのありように感銘を受け、自らの会社こそ聖なる事業であるという信念を強くし、社会の公器としての使命に生きる覚悟を持った。
以来、従業員、販売会社・代理店を彼の思いに
松下の経営者哲学は、彼の行ったPHP運動において打ち出した「新しい人間観の提唱」の中に著されて、また、PHP運動の拠点とした真々庵に建立された「根源の社」の設立趣旨(谷口・德田, 2018, pp.48-49)に著されている。いずれも、短い文章で端的に語られているが、松下(1995)、松下(2009)は、それをさらに詳しく語っている。
この中で松下は、「新しい人間観の提唱」は、過去何千年にわたる幾多の先人の各種の文献記録を取捨選択してまとめたものではなく、それらを参考としつつも、より基本的には、人間発生以来今日までの人間の営みを洞察し、その中から人間の本質について考察推知して得たものであるとする(松下, 1995, pp.33-34)。
川上(2010)は、松下の思想の宗教的背景を探索するものであるが、松下に影響を与えた宗教として、どの宗教から影響を受けたのか明示することは難しいとする。昭和の初めから戦後間もないころまでの、松下の相談相手であった真言宗の僧侶加藤大観から、真言宗でも用いられる「宇宙根源」という言葉を聞いていたのではないか、家族ぐるみの付き合いであった石川芳次郎の妻から聞いた「生長の家」の教えの影響を受けているのではないか、としながらも、宗教関係者などいろいろな人から話を聞いて、独自に哲学を構築したとする。
以上から、様々な思想家が松下に影響を与えており、それらを参考にしながら、自身の体験と思索の末に、松下の経営者哲学が結実したものと思われる。
以下に、松下(1995)、谷口・德田(2018)、松下(2009)より、松下の経営者哲学を抽出し、原文のまま示す。
(1) 宇宙に存在するすべてのものは、つねに生成し、たえず発展する。万物は日に新たであり、生成発展は自然の理法である(松下, 1995, p.12)。 (2) 人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている(同, pp.12-13)。 (3) 人間は、絶えず生成発展する宇宙に君臨し、宇宙にひそむ偉大なる力を開発し、万物に与えられたるそれぞれの本質を見出しながら、これを生かし活用することによって、物心一如の真の繁栄を生み出すことができるのである(同, p.13)。 (4) かかる人間の特性は、自然の理法によって与えられた天命である(同, p.13)。 (5) この天命が与えられているために、人間は万物の王者となり、その支配者となる。すなわち人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。そしてなにものもかかる人間の判定を否定することはできない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である(同, pp.13-14)。 (6) 人間の偉大さは、個々の知恵、個々の力ではこれを十分に発揮することはできない。古今東西の先哲諸聖をはじめ幾多の人びとの知恵が、自由に、何のさまたげも受けずして高められつつ融合されていくとき、その時々の総和の知恵は衆知となって天命を生かすのである。まさに、衆知こそ、自然の理法をひろく共同生活の上に具現せしめ、人間の天命を発揮させる最大の力である(同, pp.15-16)。 (7) 長久なる人間の使命は、この天命を自覚実践することにある(同, pp.16-17)。 (8) 宇宙根源の力は、万物を存在せしめ、それらが生成発展する源泉となるものであります。その力は自然の理法として、私どもお互いの体内にも脈々として働き、一本一草のなかにまで、生き生きとみちあふれています(谷口・德田, 2018, p.48)。 (9) 人間の繁栄は、すべて宇宙の秩序にもとづいて与えられるものであります。この秩序に従って生きぬくことが大義であります(松下, 2009, p.24)。 (10) 万物は宇宙の秩序に従って調和を保っています。人間もまた、この秩序に順応することによって、調和の生活を生み出すことができます(同, p.34)。 (11) 人間の目的は、人間を中心として、生成発展の理法を万物の上に顕現し、もってお互いの繁栄、平和、幸福を図るところにあります。繁栄、平和、幸福の実現は、人間の主観的な願いでもあり、また真理にもとづく天与の使命でもあります。お互いに生成発展の理法を自覚し、絶えざる創意と工夫とによって、この目的の達成に努めなければなりません。そこから豊かな繁栄の社会が生まれてまいります(同, p.58)。 |
稲盛和夫は、1932年(昭和7)に生まれる。その前年には満州事変の勃発とともに軍部の動きが活発化し、稲盛の生まれた年の5月には五・一五事件により犬養内閣が倒れ、政党内閣制が崩壊した。以降、軍部が政治に対する発言力を強め、日本経済の軍事化が急速に進んだ時代である。
稲盛は、第2次世界大戦後の復興期に、幼少期から京セラ創業後アメリカのメーカーからの受注を獲得する頃までにおいて、不治の病を得、受験失敗などの挫折を経験ながらも、すばらしい人間性を備えた人々の好意と善意を受け、懸命に努力することによって、運命を好転させていった。そして、心のあり方、人間としての生き方を思索し続け、経営実践を通して、稲盛の経営哲学と経営管理システムの根幹をつくり上げた。
その後は、その経営哲学に従い、経営管理システムを用いて、事業の多角化と海外市場への多面的展開、異業種企業の合併、電気通信事業への参入、日本航空の再生を遂行する他、顕彰事業「京都賞」の創設、「日米21世紀委員会」の設立、京都商工会議所会頭としての財界活動、「盛和塾」での経営者育成など、社会貢献活動を行ってきた。
3.3.2 経営者哲学稲盛の経営者哲学は、稲盛(2001)、稲盛(2019)に著されている。その中で、稲盛は、「宇宙とは何か」についての考察に際して、自らを理工系出身として科学という合理性を軸とする思考法を取るとしている(稲盛, 2001, p.16)。
稲盛は、稲盛(2001)、稲盛(2019)において引用される、谷口雅春の生長の家の聖典『生命の実相』、ジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』、安岡正篤の『運命と立命』にある『
以下に、稲盛(2001)、稲盛(2019)より、稲盛の経営者哲学を抽出し、原文のまま示す。
(1) 地球上…いや全宇宙に存在するものすべてが、存在する必要性があって存在している。どんな微小なものであっても、不必要なものはない。人間はもちろんのこと、森羅万象、あらゆるものに存在する理由がある(稲盛, 2001, p.8)。 (2) 人間は存在するというだけにとどまりません。知恵をもち、理性をもち、心をもっているという点で、人間は「万物の霊長」といわれるように、地球上の生物のなかでもっとも進化したものですから、たんに存在するということを超える大きな価値を内在しているはずです。それは、人間は世のため人のために貢献することができるということではないかと私は考えています。つまり、宇宙という大きなものから見た場合には、何もしなくてもただ存在するだけで価値があるのですが、意識をもった人間、考えることのできる人間、自分を磨くことができる人間は、たんに存在する以上の価値を生みだすことができる、それが世のため人のために尽くすことができるということなのです(同, p.11)。 (3) 宇宙には森羅万象あらゆるものをあるがままに存在させているのではなく、それが生成発展する方向へ動かしていく流れ、すべてのものを成長発展させるような進化をうながしていく流れがあるというふうに理解しています。つまり、無機物的な法則というよりは、宇宙にはすべてのものを生成発展させ、進化をさせていく「意志」が存在するというふうに考えた方がよいと思うのです(同, pp.19-20)。 (4) 創造主は(人間に)最初の意志を与えてくれただけなのです。最初の意志とは、「すべてのものを幸せな方向に進化・発展させる」という意志のことです(同, p.41)。 (5) 創造主は上からすべてのものをコントロールしているのではなく、その根源なるもの-魂のなかのいちばん中心になるもの-だけを人間に与え、あとはわれわれが自由にできるようにしているのです(同, p.41)。 (6) 人間は自由だから、欲望をいくらでも追及していける。(中略)足るを知って欲望の肥大化を抑えるべきなのです。これこそが「叡知」です。この叡知は、もともと創造主が与えてくれた「愛」のなかに含まれているのです(同, p.44)。 (7) われわれが善き意識をもったとき、宇宙に充満する「すべての生きとし生けるものよ、よかれかし」という意識-「創造主の意識」といっていいかもしれませんが-と合致します。そのような美しい個人の意識は、宇宙の意識と波長が合い、すべてがうまく行き、物事が成功、発展へと導かれていくのです。逆に、宇宙の意識に逆行すれば失敗するに決まっているのです(同, p.119)。 (8) 人の心の奥には「魂」といわれているものがあり、そのさらに奥深く、核心ともいうべき部分には、「真我」というものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい心の領域です。(中略)その真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものである、と私は考えています(稲盛, 2019, p.26)。 |
本研究では、渋沢、松下、稲盛の経営者哲学の原文について、公開されているEXCELフォーマット(大谷,2019)を用いてSCAT分析の概念化ステップ1から4を適用し、概念化を行った(表3)。これによって導かれる最終ステップ4「そこから浮かび上がるテーマ・構成概念」を、「天・宇宙根源」「人間存在」「内包する思想」の分類を付して表4に再掲する。
出所:筆者作成
出所:筆者作成
この概念化プロセスから、渋沢、松下、稲盛の経営者哲学について明らかになることを、以下に示す。
①渋沢の経営者哲学
絶大な力を有する天の存在を認め、その絶対性を持って、天は人に天命を与えるとする。人間はその天命に従事することを宿命とし、幸福になるための条件は天命に従事することとする。人は社会に貢献することを義務とする。ここには、天命に従事すること、社会に貢献することへの「強要」と、それを行わない、あるいはできない人に対する「存在・価値の否定」が内在する。
②松下の経営者哲学
宇宙根源の力の存在を認め、その力は自然の理法として森羅万象に注がれ万物が生成・発展するとする。人間の万物の霊長としての地位は天命によって与えられ、人間は宇宙に君臨し万物を支配するとする。人間の偉大さは一人では発揮できず、衆知により最大化できるとする。繁栄し調和するための条件は、宇宙の秩序に従い生成発展の理法を自覚実践することとする。また、繁栄、平和、幸福の実現は天与の使命であり、人間の目的であるとする。ここには、宇宙の秩序に従って生成発展の理法を自覚実践すること、繁栄、平和、幸福を実現することに対する「強要」と、それを行わない、あるいはできない人に対する「存在・価値の否定」が内在する。
③稲盛の経営者哲学
万物を生成・発展させ進化させる宇宙の意志の存在を認め、万物には存在の必然性と価値があるとする。人間は宇宙意志と同一であるが、自由の中で欲望を抑制する叡知も与えられているとする。成功し発展するための条件は、宇宙の意識に同調することであるとする。また、人間の価値は存在することだけではなく、社会に貢献できることであるとする。ここには、宇宙の意識に同調すること、社会に貢献することに対する「強要」とそれを行わない、あるいはできない人に対する「存在・価値の否定」が内在する。
以上より、渋沢、松下、稲盛の経営者哲学について、以下が明らかになる。
a.天・宇宙根源に関して
「天」「天命」「宇宙の根源」「万物を生成発展させる宇宙真理あるいは宇宙意志」の存在と「天」「宇宙の根源」がもたらす絶大な力の存在を認めている。
b.人間存在に関して
人間は不完全であるとする。
c.内包する思想に関して
「天命への従事、天命の自覚実践、宇宙意志との合致」を「幸福、繁栄、成功、発展」のための条件としており、繁栄、平和、幸福の実現を人間の目的とし、社会への貢献を人の価値としていることにより、そこに、「強要」が内在し、それを行わない、あるいはできない人に対する「存在・価値の否定」を内在している。
a.人間存在に関して
渋沢は、天を絶大なるものとし、人間は天命に絶対服従するべきものとしたが、松下は、人間は天命により万物の霊長としての地位を与えられ、善悪是非を判断し万物の存在理由を顕現させる崇高、偉大な存在であるとした。
稲盛は、宇宙の意志と人間の真我は同一であるとし、存在するだけで価値があるとした。
以上のSCAT分析の概念化ステップによる分析結果をもとに、Popperの提唱する方法論的枠組みを用いて、経営者哲学に対する批判的議論を行う。具体的には、次の2点を当為の判断基準として批判的な議論を行う。
渋沢、松下、稲盛の経営者哲学において、宇宙の根源の力と宇宙意志を認め、人間は万物の霊長であり、宇宙の意志と同一であり、その存在自体に価値があるとしつつも、人間は不完全であり、幸福、繁栄、成功発展のためには、天命として与えられた使命への従事と社会貢献、天命の自覚実践、宇宙意志への同調が、その条件として付され、さらに、人間の目的は繁栄、平和、幸福の実現であり、人間としての価値は社会貢献できることにあるという、人間としての存在目的の定義付け、価値の定義付けがなされていることを見ることができる。
(1)論理の有効性:課題を解決しているか
これらの経営者哲学は、これまでの西洋社会に追いつき追い越そうという時代、物質的な豊かさを求めていた時代では、会社の発展、社会の繁栄、人の幸福の実現という課題に対し有効に働き目的を達成したが、物質的な豊かさを獲得した現代においては、「かくあるべし」という制約を課し、「生きづらさ」をもたらしているという新たな課題を発生させており、現代における有効性が疑わしいと思われる。その理由は以下の2点である。
(2)論理の内部整合性(内部無矛盾性):論理の内部に自己矛盾がないか
本来、人間は、宇宙の意志を受け、そのエネルギーを注入され、万物の霊長として、存在自体に価値があるとしているにもかかわらず、幸福、繁栄、成功のための条件付け、人としての義務・存在目的・価値定義がなぜ必要なのか、必要ないのではないか、という疑問が湧いてくる。人間の絶対的な価値を認めながら、人間は不完全であるとし、価値に条件付けがされるという価値の相対化がなされている。ここに論理の矛盾を認めることができ、また、その条件や定義を満足できない人に不安を煽りながら、行動をさせる方便となっていると解釈することができる。
以上に見るように、渋沢、松下、稲盛の経営者哲学は、現代において新たな課題を発生させ有効性に問題があり、自己矛盾を含んでいる。
4.2 今後の経営者哲学に向けてここに、先行研究レビューにおいて取り上げた平出(2005)を、今一度取り上げる。
平出(2005)は、経営・経済哲学(倫理学)は近代形而上学的思考の上に立脚しており、「存在」の始源的深みに対する考慮がなく、「存在=生成」という存在概念ではなく、「存在=被制作性」という存在概念に依然として規定されているために、近代そのものの超克はもとより、近代を大きく規定する形而上学的思考を超克することは不可能であるとする(平出, 2005, p.79)。
そこで、平出(2005)は、ニーチェが「存在=生成」の存在概念の復権を企図したように、経営哲学において、「存在=被制作性」という存在観に基づく諸活動に抗して、「存在=生成」という存在観に基づく活動の領域を確保することを主張した(同, p.81)。
この視点から、改めて日本の経営者哲学について考察すると、「宇宙は生成・発展し人間も同一に生成・発展する」にもかかわらず、形而上学的論理の領域で、幸福、繁栄、成功のための条件付け、人間の目的・価値定義がなされたために、批判検証がなされないまま、現代にあっては「かくあるべし」の呪縛となって、人々に「生きづらさ」をもたらしていると考えられる。
以上より、筆者は、平出(2005)が経営哲学において本来の姿「存在=生成」に立ち返ることを主張したように、日本の経営者哲学は、宇宙の生成・発展の原理に立ち返り、幸福、繁栄、成功の条件付けや人間の目的・価値定義をすべて捨て去り、また、人間の不完全性を主張することなく、「宇宙は生成・発展する意志と力を持っており、人間に注ぎ込み、人間は『無条件に』生成・発展するものである」となると推測する。
これにより、人々を、宇宙の意志に従わなければならないという呪縛から解放し、人間の存在に対する絶対的な価値と信頼を根本思想として、人が本来持っている宇宙起源の力を自然の内に発揮でき、自己否定をすることなく、自己肯定感の下に、自主性を発揮することができると考える。
このように、推測した経営者哲学によれば、(1)論理の有効性について、現代における課題(「かくあるべし」という制約を課し、「生きづらさ」をもたらしているという新たな課題)の解決に有効であり、(2)論理の内部整合性について、人間の価値に何ら条件を付して相対化させないため、人間の価値の絶対性を保ち内部整合性を実現している。
4.3 本研究の限界と発展本研究では、過去の経営者哲学に関する文献情報をもとに、今後の経営者哲学を示すことに留まっている。
ここに示した経営者哲学が、現在あるいは将来の経営者の育成現場への応用を通じ、経営哲学の思索に示唆を与え、行動変容をもたらすことを期待するが、育成現場における具体的な応用方法に関する研究が残されている。
また、経営者哲学について批判的な議論を行うことを可能とする定式化の手法として、Popperの批判的合理主義に基づく批判的議論の枠組みの中でSCAT分析の概念化ステップを活用する方法を提示したが、ご批判を仰ぎたい。