Journal of Management Philosophy
Online ISSN : 2436-2271
Print ISSN : 1884-3476
Special Issue
Interpersonal Aspects of Management
Osamu OGAWA
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2024 Volume 20 Issue 2 Pages 14-28

Details
【要 旨】

本稿では、経営哲学とは何かという本源的な問いについて、本学会の『学会会則』に照らしながら考察を行った。その背景には、現実に本会則に謳われているような「生命の尊厳を最高の価値基準とした、人間性に基づいた企業経営」が行われ、「生きがいのある産業社会」が実現しているのだろうかという疑念と、そもそも、多くの経営者や研究者の間で、そうした考え方自体が薄らいでいるのではないのかという懸念がある。社会、組織、価値、利他性などについて1つ1つ検討しながら、経営者には企業存続のための利潤の追求とともに、そこで働く人たちの生きがいを創造する、生身の人間対人間の経営を実践する使命があるのではないかと問い掛けている。

1.経営哲学について

1.1 経営哲学とは

「経営哲学とは何か」と問うと、何を今更そのような問題を持ち出すのかと訝しく思われるかもしれない。しかし本来、哲学とは常に本源的なことを問う学問であるはずなので、このような本源的な問いを改めて持ち出し、問い直すことも無意味ではないものと考えている1)。言うまでもなく、経営哲学という言葉が持つ概念を一意的に定義するということはなかなか難しいことである。しかし、幸いなことに、経営哲学を標榜するわが国唯一の学会である本学会の会則に、学会の目的と指針が掲げられているので、それを手掛かりに経営哲学とは何かを考えてみれば、少なくても、それが本学会員の共通認識から大きく逸脱するものではないものと思われる。さらに、それによって哲学学会の名のもとに、その定義の妥当性を担保できるのではないかと考えられるため、まずは本学会の会則に照らして「経営哲学とは何か」ということを考えてみることから始めてみたい。

わが経営哲学学会の『学会会則』を繙くと、その第2条には、「本会は、生命の尊厳を最高の価値基準とし、人間性に基づいた企業の指導原理を確立するための経営哲学の研究を目的とする」と、その目的が明確に謳われている。さらに続けて、「その目的のために次のことを行う」として4つの指針が示されている。

  1. (1)「経営哲学」の創造と「いきがいのある産業社会」の実現。
  2. (2)「経営哲学」の調査・研究の発展とその実践的教育の普及。
  3. (3)「経営哲学」の研究者相互の協力と懇親。
  4. (4)「経営哲学」の研究に関する内外の学会その他の団体との連絡・交流。

これら4つの指針のうち、(1)の指針に関しては、それ自体、経営哲学の目的の1つであると言うことができるだろう。なぜなら、他の3つの指針と並記されてはいるものの、その他は目的を実現するための学会の運営方針に関する指針であると考えられるからである。さらに、後者3つの指針のうち(2)の指針については、特に、その意義を世の中にもたらすための実践的な教育を普及していくことが謳われているのに対して、それに続く2つの指針が、本学会および学会員のコミュニティにおける行動の指針となっていることを考えると、経営哲学に関する研究の成果を実践的な教育によって提供することにより、世の中に貢献するという本来的な学会の存在意義に照らして、より上位に置かれるべき指針であると言うことができよう。

こうした整理に基づいて、会則に掲げられている経営哲学の目的を表現し直すならば、それは「生命の尊厳を最高の価値基準として、人間性に基づいた企業の指導原理を確立するための経営哲学の研究活動を行い、その実践教育の普及によって、生きがいのある産業社会の実現に貢献すること」とすることができるだろう。そして、このことから帰納的に、経営哲学とは「生命の尊厳を最高の価値基準とした、人間性に基づいた企業の指導原理とは何かを探求する学問」であると定義できよう。これは十分に、一般性を持つ経営哲学の定義として通用すると言えそうであるし、少なくても当学会において大きな異議はないものと考えられる。

このように経営哲学を定義したところで、筆者が抱かざるを得ないのは、ではこの定義に照らした時、現在の経営実践において果たして生命の尊厳が真に最高の価値と捉えられているのだろうかという疑念であり、それを基準に人間性に基づいた企業経営が本当に行われているのだろうかという疑義であり、われわれが現在生きている産業社会が、本当に生きがいのある社会となっているのだろうかという疑問である。そもそも本学会の会則に、こうした目的が掲げられた経緯を想像してみると、以下のような2通りの筋道が考えられる。1つは、この学会に集まった当時の研究者たちの中に、発足当時の企業経営や産業社会について、今こうして筆者が抱いているのと同じような疑念を持つ先達たちが多くいたからではなかったのだろうか。それだからこそ、こうした目的を実現するために本学会が立ち上げられたのではなかったのだろうかという想像である。もう1つは、発足当時の企業経営や産業社会に目的に掲げられているような兆しが見えており、それをより社会に浸透させていかなければならないと考えた先達たちが、自らも研究活動によってそれに資するために集まったのではないかという想像である。

これらは、あくまでも発足当時を知らない筆者の想像であるが、問題はこれら経緯がそのどちらであったとしても、果たして、それ以降、学会会則の目的に掲げられているような企業経営が実現されており、本当に生きがいのある産業社会が実現しているのか。もしくは、それらが達成されつつあるのかということである。口幅ったいようだが、筆者自身はそれを肯ずることができないが故に、上記のような疑念や疑義を払拭できずにいるわけである。それどころか、そもそも人間の生命の尊厳や人間性ということ自体が、現在では多くの経営者のみならず経営学研究者の中では薄らいでしまい、見えにくくなってしまっているのではないかという懸念を抱かざるを得ないのである。

さらに、人間の生命の尊厳や人間性というものに対する思いや関心が薄くなっているという傾向は、決して経営者や研究者だけではなく、現在のわが国において多くの人々の間で見られる傾向ではないかと筆者は感じている。また、そうであるが故に、経営者や研究者にそのような傾向があるということなのかもしれないが、学会会則の目的に謳われている「生命の尊厳を最高の価値基準として、人間性に基づいた企業の指導原理を確立するための経営哲学の研究を目的とする」という言説に照らせば、企業の指導原理を体現するのはまず経営者であろうし、その確立のための研究に取り組むのが研究者であるはずなので、まず彼らの間にこそ、こうした思いがなければ到底、経営哲学などという学問が成立する余地などないものと言えるのではないだろうか。

今回、統一論題の報告者としてご指名いただき、発表の機会をいただいたので、本稿では、日頃から筆者の抱いている、こうした疑念や考えについて改めて考察を加えてみたいと考えている2)

1.2 経営哲学の意義

本学会の編集によって発行されている、『経営哲学とは何か』という書籍の筆頭に掲載されている村田 (2003) の論文では、まず、哲学としての経営という視点から「経営とは何か」と根底において問う時、そこに現れてくるものは次の3つになるだろうとされている。それらは、第1に「人間の営みとしての経営を根底に置いてみるときそこに現われる人間の、人間自身の姿」、第2に「経営学が成立するところの根拠を問うところのものとしての哲学」、第3に「経営者の哲学であり経営実践の理念」となっている。さらに、こうした前提をもとに経営哲学の意義について、第1に「経営ということの本源の意味を明らかにすることを通して人間の生き方を示すこと」、第2に「経営学の根底を問い、その基礎を批判的にあきらかにすること」、第3に「文明の将来について見通しを与え、社会と文明を思想において切り拓くこと」だとされている。さらに、経営哲学を「経営の意味の探求」、「経営学の方法論の探求」、「経営者の哲学の探求」の3つの領域に区分し、それぞれに対応する対象を「人間」、「組織」、「経営」として提示した上で、「経営は組織を中核として行われる人間の営みである。そこには人間の生身の生活がある。そうであるから経営の哲学的探究に意義がある。そして組織を中心に考えたとき、経営者の実践の哲学がある」と述べられているが、筆者もこうした見解に異議はない。そもそも経営学は究極的に、組織に関する学問だと言うことができるのではないかと考えられる。なぜなら、もし組織というものが存在せず、個々の人間がお互いに関わりを持つことなく生活を営んでいるとするならば、また、もし協働によって価値が生み出されることなどないのであれば、経営学は無用の学問であるばかりか、それが生まれる必然性さえないものと考えられるからである。

アリストテレスが語ったとされる「人間は社会的動物である」という言説は、社会と人間を語る際によく用いられる引用句であるが、実際に『政治学』を読んでみると「凡ての人は、善きものであると思われるもののためにすべてのことを為す」というアリストテレスらしい倫理的でアプリオリな前提3)から、人々が構成する「共同体」は、いずれもある種の善きものを目当てに作られるというように論理が展開する。こうした共同体の最初の形態は、日々の用のために自然に即して構成された共同体としての「家(つまり家族)」である。さらに、日常的ではない用のために、2つ以上の家によって「村」という共同体が構成され、2つ以上の村によって「国」という共同体が構成される。そして、その国は生活のために構成されるのであるが、それもまた善き生活のために存在する。この論理に従えば、最初の共同体が自然に構成されたものであるので、演繹的に国(社会)は自然に存在していると結論でき、国が自然に構成されたものであるが故に、それを構成する「人間は自然に国的(社会的)動物である」とされているのである。

また、ボウルズ・ギンタス (2011) は、協力(cooperation)を「他者と共に相互に利益をもたらす活動」と定義した上で、人々が協力するのは自己利益のみを求めるのではなく、心の底から他者の幸福を気に掛けているからなのだと主張している。だからこそ、人々は社会規範の遵守や倫理的な振る舞いに大きな価値を見出し、他者の協力的な振る舞いを食い物にした者に罰を与えるのである。たとえコストが掛かったとしても、集団全体に利益をもたらす共同作業への貢献は人々に満足感や自負心、高揚感をもたらし、集団への非協力は恥や罪の感情を引き起こす。そして、人々がこうした道徳感情を持つのは、われわれの祖先が生活していた自然・社会環境において協力的な人々が構成する集団の方が、非協力的な人々が構成する集団よりも生き残りやすかったからだとしている4)

これらのことから逆説的には、人間とはアリストテレスが指摘するように社会生活を行う動物であり、ボウルズとギンダスの言うように協力する種であったからこそ組織は誕生したということになる。そして、近年になって大規模な生産活動を行う企業という組織が出現してきたことにより、その企業組織の活動を研究対象とした経営学という学問が生まれたのである。こうした事情を考えると、経営学のフィールドにプレイヤーとして現れるのは必然的に組織であり、その組織を司る経営者(マネージャー)だということになる。しかし、その一方で、企業で働く個々の人たちは抽象化され、経営資源として挙げられる「ヒト・モノ・カネ」という要素の1つとして捉えられるだけで、彼らに関する研究が行われたとしても、そのほとんどは彼らの生産性を上げるにはどうすればよいかという視点や、その結果その企業の利益にどれほど影響をもたらすかといった視点から行われたものである。それ故に、H. フォードが科学的管理法に基づき、ベルトコンベア方式を導入して流れ作業による大量生産を確立した1913年から、23年後の1936年にはC. チャップリンが映画『モダンタイムス』によって、労働者の尊厳が顧みられず機械の歯車のように取り扱われている実態を、皮肉を込めた喜劇によって強烈に非難したのである。

例えば、従業員エンゲージメントに関する研究を行っているバッキンガム・グッドール (2019) では、彼らが「仕事に対する一連の態度・姿勢をより厳密に定義することで、エンゲージメントを測定することに成功し、業績に対する影響度を割り出すことができた」としている方法によって、従業員エンゲージメントを高めるためには「信頼関係を重視すること」や「ともに学ぶこと」などが重要だという結論に至ったとしている。これらは、いわゆる経営学の方法論としては問題はないと考えられているし、その知見は経営学的には重要な知見であることは間違いないだろう。ほとんどの場合、経営学の立場ではまず企業業績を向上させるという至上目的があり、それを実現するためには従業員エンゲージメントを向上させる必要があるという論理になっている。これも現在の経営学的な視点からは、特に問題はないと言うことができよう。しかし逆に考えた場合、もし従業員エンゲージメントの向上が企業業績の向上に貢献しないのであれば、エンゲージメントという従業員の主観的な側面について経営者は関心を持つ必要がないということになりかねないのではないだろうか。そもそも従業員の人間性に基づいて考えるならば、組織において「信頼関係を重視すること」や「ともに学ぶこと」は、それ自体に重要な意味があることなのではないかという、まさに哲学的な疑問が生じるのである。

また、バッキンガムとグッドールの研究においては、エンゲージメントという定性的な要素を評価するために、積極的にそれを「数値化」し「測定する」するという方法論が用いられているが、確かに最近ではこうした定量的な分析こそが科学的な方法論であるとされる傾向にある5)。社会科学の一学問分野としての確立を志向する経営学は、ますますこうした科学的な方法論だと考えられている方法を取り入れようとし、客観性への執着が強化されるのであるが、それによって主観性は科学的方法論の名の下に徐々に削ぎ落されていくのである。例えば、入山 (2012) は、アメリカにおける経営学研究の最前線の様子が紹介された、非常に刺激的で興味深い内容の書籍であったが、当時その帯に「ドラッカーなんて誰も読まない。ポーターはもう通用しない」と書かれているのを見て、唖然とした記憶がある。また、本文においても「確信を持って言いますが、アメリカの経営学の最前線にいるほぼすべての経営学者は、ドラッカーの本をほとんど読んでいません」とされ、いかに経営学の最前線で科学的な方法論が重視されているかということが説かれていたが、反面、経営学が生身の人間から遠ざかっていくことに大きな疑問を感じた覚えがある。ポアンカレは『科学の価値』の中で、科学の「客観的価値」とは「物事の本当の性質」ではなく、「物事の本当の関連」を意味すると述べているが、科学的な学問を志向する現在の経営学の分野においても、結果的には、物事の本質よりも物事の関係性(因果関係)とそれを探り出す方法を見出すことが主要な研究対象となっているような観がある。

このような経緯の中で、経営学から村田 (2003) が第1の領域としていた「人間の営みとしての経営に現われる人間の、人間自身の姿」が霞んでいき、いつしか視界から消えかけているように思われる。そして、第2の領域である「組織」や、第3の領域である「経営」に比べて、経営学において第1の領域が語られることがほとんどなくなっているのである。村田が言うように、経営とは「組織を中核として行われる人間の営み」であり、そこには最も本源的な「人間の生身の生活」があること自体は変わらないはずであるのに、今や経営学はそのことにはほとんど関心を示さなくなっているのである。組織に属し、組織で活動する人間はそれぞれに個性を持つ生身の人間であるにも関わらす、そのような生身の人間性(つまり「人間の本当の性質」)には関心を持たれることなく、ヒト・モノ・カネという経営資源の一要素(「物事の本当の関連」における一要素)としかみなされなくなっているのではないだろうか。

もちろん、科学としての経営学ということに関して言えば、それ自体には問題はない。ポアンカレの言うように、そもそも科学とはそういうものだからである。しかし、実際の組織や経営の現場にこうした方法論がそのまま持ち込まれ、「人間の営みとしての経営に現われる人間の、人間自身の姿」が考慮されない場合には大きな歪みが生じてしまう可能性がある。さらに、こうした問題は、それが人間の生身の生活に関わる問題であるだけに、それに巻き込まれる人たち(それは、ほとんどは弱い立場に置かれた人たちなのであるが)にとっては、非常に深刻な問題となるのである。それにも関わらず、そうした人たちの姿が視野に入らない経営学には、この問題を解決するための用意がない。そして、実際の組織の中で、また経営の現場において生起するこの種の問題について、ほとんどの経営学の研究者たちは自らの専門分野外のことだとして、それを解決することが自らの役目だと考えることはないのである。確かに、研究者としての彼らのこうした言い分は正当な言い分であるし、そのこと自体は、決して責められることではないだろう。問題は、こうした人間の生活から乖離してしまった「経営学」という学問を科学として学ぶ人たち(その多くは、学生ということになる)が、その知見が実際の「経営」というものだと思い違いをしてしまうことであり6)、実際に、そうした思い違いに基づいて「経営」に携わっている人の視野には、そこで活動する生身の人間の姿が余計に視野に入りにくくなり、互いに他者に対する思いが至らないことによって様々な問題が起きているということなのである7)

こうした問題を解決するためには、経営者を始めとする経営に携わる者たちの視野に、生身の人間の姿を浮かび上がらせる必要があり、そのためには経営学という学問の中にこうした役割を担う分野がなければならないのである。そして、それを担うことのできる分野こそが、経営哲学なのではないかと筆者は考えている。それが、科学的な方法論のドグマに固執した者から、科学的な手法を用いていないとか、主観的である(言い換えれば、形而上学的である)という理由によって批判を受けたとしても、真摯に「生命の尊厳を最高の価値基準とした、人間性に基づいた企業の指導原理とは何かを探求する」ことが経営哲学の使命なのではないだろうか。

まさに、こうした役目を担うのが経営哲学の「第一義」であるという意味で、村田 (2003) は3領域のうち「人間」を筆頭に挙げているものと考えられるし、筆者もそのように考えている。松下電器の創業者である松下幸之助8)や、京セラの創業者である稲盛和夫9)を始めとする卓越したわが国の経営者たちが、経営において生身の人間の生活を大切に考えていたことはよく知られている事実である。それ故に、彼らの考え方や経営姿勢は今でも「経営哲学」と呼ばれ、心ある経営者たちの間で鑑として語り継がれているのであろうし、当学会においても、重要なテーマの1つとして研究され続けているのである。

また、経営学者のドラッカーは、その自伝に以下のような興味深いエピソードを書き残している。それは、彼が故郷のウィーンを離れ、ロンドンに亡命していた当時のことである。「仕事のかたわら、毎週金曜日の夕方にはケンブリッジ大学へも足を運んだ。「ケインズ経済学」の生みの親、ジョン・メイナード・ケインズの講義を聞くためだ。講義にはいつも数百人の聴講者が集まり大盛況だった。(中略)ケインズはヨーゼフ・シュンペーターと並ぶ20世紀最高の経済学者であり、講義では学ぶことも多かった。それでもケインジアンになろうとは思わなかった。講義を聞きながら、ケインズを筆頭に経済学者は商品の動きにばかり注目しているのに対し、わたくしは人間や社会に関心を持っていることを知ったのである」。このことは、モノやカネの動きからではなく人間的な側面から考えるドラッカーの経営学が、社会科学においては最も理論化が進んでいた経済学に対する違和感をきっかけに、主観的であると斥けられてきた生身の人間に立ち返り、それを土台に構築されていった契機を物語っている。ドラッカーの経営学が、「経営哲学」と呼ばれるのは、こうした人間観に立った学問だったからだと言えるのである。

2.働くということ、仕事について

考えてみると、およそすべての動物は自らの生命を維持するために、絶えず食べ物を求めて行動している。魚が海や川の中を泳ぎ回るのも、草食獣が森や草原を歩き回るのも、肉食獣が草食獣を追い求めて歩き回るのも、食べ物を手に入れるためである。同様に、人間もその生命を維持するためには、常に食物を摂取しなければならないことは言うまでもない。それ故、進化論が説くように人類が他の種から進化してきた種だとするならば、われわれが「働く」とか「仕事をする」ということの究極的な意味を考えた時、それは自らの生命を維持するための糧を得るためといった共通した目的に帰すことになるだろう。このように考えると、われわれは「なぜ働くのか」といった問い掛けに対して、「食べるために働く」というのは当然の返答であり、「仕事をしなければ食べていけない」という答えが多く返ってくるのも、ある意味では自然なことかもしれない。

しかし、動物の種の中には集団生活を営んでいる種が少なからずあり、例えば肉食獣の中にはライオンのように、捕獲の効率を高めるために協力して獲物を負い込んだり、一方のグループが獲物を追い立てる役割、他方のグループが待ち伏せて捕獲する役割というように、作業を分担して狩りを行ったりするものがある。さらに、その狩りに加わっている若い雌ライオンの子供たちの面倒をみる役割を受け持っているのは、子育ての終わった年配の雌ライオンだという。その上で、捕獲された獲物は、序列はあるものの、その集団のメンバーの間で分かち合われることになるのである。また、アリが「働きアリ」、「兵隊アリ」、「女王アリ」などと役割を分担して共同生活を営んでいることは、よく知られているところである。つまり、こうした分業によって直接、食物を獲得・生産する仕事をするものと、間接的にそれを支える仕事をするものに分かれていったものと考えられるが、こうした分業が複雑に進んだわれわれ人間の世界、特に経済が発達した国々で働く多くの人たちは、本来の直接的な食糧確保のための仕事とはおよそかけ離れた、多くの種類の仕事に従事している10)。このように、ほとんどの人が、自らの仕事が直接的に食糧を獲得したり生産したりする仕事ではないものの、仕事によって得られた収入の中から、自らの(もしくは家族の)食費を賄っていることに鑑みると、やはり基本的には、われわれは生活の糧を得るために働いているということは間違いないだろう。

しかし、翻って考えてみると、こうして複雑に分業が進んだわれわれの仕事というものは、自分が担当した仕事をこなすことによって、お互いに他者に何らかの便益を与えているものだと言える。つまり、どのような仕事であれ、われわれが働くということは誰かの役に立つ利他的な性質を帯びた活動だと言えるのである。そして、われわれはお互いに自らの仕事によって他者に便益を提供する一方で、他者の仕事から生まれた便益を受け取って生活していると言えよう。こうした便益の交換、換言すれば価値の交換は現代社会では、直接的な便益同士の交換(例えば、物々交換)ではなく、貨幣という道具を用いて行われているのであるが、こうした貨幣を使った価値の交換をわれわれは売買取引と呼んでいる。

さて、分業によって分担された仕事をわれわれは担っているわけであるが、同じ種類の仕事を受け持つ者が個々に仕事をするよりも、組織を作って協働する方が効率的である。なぜなら、力を合わせることによってより大きな仕事ができることと、その組織の中でさらに新たな分業が生まれて、より効率が上がる可能性が高まるからである。こうして生まれた組織を企業と呼ぶことができよう。企業は、他者(顧客)に便益(価値)を提供し、便益を受けた者からその見返りとしてそれに見合った貨幣(代金)が支払われるということになる。そして、支払われた代金が企業の利益の源泉となるが、利益が収益と費用の差額であるならば、便益を受けた人のその便益が大きければ大きいほど、その見返りとして支払われる対価は大きくなるはずである。一般に、われわれはこの便益のことを「付加価値」と呼ぶわけであるが、以上のような事情から、それは一般的に貨幣の値の大きさで示されることになる。このように数値で表すことによって、それは非常に明瞭で、わかりやすく計算しやすい尺度となる。そのため本来、企業が提供する利他的な便益の評価は、利益という数値に置き換えられて示されることになる。

3.企業の存在

3.1 企業について

近代経済学において確立されている完全競争市場モデルの前提は、企業の目的は利潤の追求であり、その行動原理は利潤の最大化であるという仮定である。確かに、企業活動を経済的な側面から捉えるならば、およそその通りである。しかし、そもそもその利潤の源泉というものがどこにあるのかということを考えてみると、それは先に見たように企業が提供する製品やサービスと交換に、それに見合った対価として顧客から受け取る金銭ということになるだろう。言い換えれば、企業はその活動により創造した付加価値を顧客に提供することによって、利潤を生み出していると言うことができる。このように考えると、企業活動によって創られ、提供されるあらゆる製品やサービスは、必ず価値を持っているということになる。もし、企業が価値のないものと引き換えに顧客から対価を得ようとするならば、それは決して企業活動などと言えるものではなく、詐欺行為以外の何物でもないだろう。

そこでまず、この「価値」という言葉の意味を『広辞苑(第6版)』で当たってみると、1つには「物事の役に立つ性質・程度。経済学では商品は使用価値と貨幣価値をもつとされる。ねうち。効用」と説明されている。これに照らしてみると、企業活動によって創造される製品やサービスは、それらを購入する顧客にとって何らかの役に立つものでなければならないことになる。また、経済学において、商品11)は使用価値と貨幣価値をもつと記されているが、これらは1枚のコインの裏表のような関係にあると言えよう。つまり、顧客はまず使用価値、つまりその製品やサービスが自らの役に立つかどうかという基準で商品を評価し、自らの役に立つと判断するならば、それを購入するためにその程度に見合った金銭を支払うことになる。すなわち、顧客の側に立てば、まず先に、その製品やサービスが自らの役に立つかどうかという視点からその価値を判断し、その価格がその価値に見合うならば代金を支払い購入するということになる。つまり、まず使用価値が吟味されたのちに、それに見合う貨幣価値が判断されるという順になる。こうした関係が成立する時、その製品やサービスの使用価値と貨幣価値がつり合うこととなり、まさに一枚のコインの裏と表のように2つの価値が一致することになるのである。これを企業の側から見るならば、企業は顧客の役に立つ製品やサービスを創造し、それを提供することでその対価としての貨幣を受け取っていることになる。換言すれば、企業は顧客へ製品やサービスの使用価値を提供することによって、それに見合う貨幣価値に相当する対価を受け取っているということになるのである。これが、企業の利潤の源泉である。

さて、『広辞苑』には、価値に関して次のようなもう1つの説明が記されている。それは、「〔哲〕「よい」といわれる性質。「わるい」といわれる性質は反価値。広義では価値と反価値を含めて価値という。㋐人間の好悪の対象になる性質。㋑個人の好悪とは無関係に、誰もが「よい」として承認すべき普遍的な性質。真・善・美など」という説明である。冒頭に付されている〔哲〕という記号は、哲学用語であることを示しているが、この意味での「価値」は、アリストテレスに準拠して「快楽的善」・「有用的善」・「道徳的善」からなる「善」と考えてもよいだろう。『ニコマコス倫理学』の中でアリストテレスは、「あらゆる技術、あらゆる研究、同様にあらゆる行為も、選択も、すべてみな何らかの善を目指していると思われる。それゆえ、「善とはあらゆるものが目指すもの」と明言されたのは適切である」として、「われわれが行うための事柄のうちに、われわれがそれ自体のために望み、また他のさまざまなものも、そのもののためにこそ望むような何らかの目的が存在するとすれば、・・・明らかに、このような目的こそが善であり、しかも最も善きもの(最高善)であるだろう」と記している。また、「最高善」であるものの名前について、「大多数の人々の見解は一致していると言ってよい。なぜなら、一般大衆も教養ある人々も幸福と呼んでおり、「よく生きる」ということ、あるいは「よくなす」ということを、「幸福である」ことと同じものと見なしているからである」としている。

こうした視点で考えると、価値という言葉の狭義の意味で示されている「「よい」といわれる性質」という定義は、企業が提供する製品やサービスが顧客にもたらす価値についても十分に当てはまるだろう。経済学において使用価値という言葉は、いかにも製品やサービスの持つ実用的な面だけを表現しているように受け止められがちであるが、顧客が製品やサービスを購入するのは、それ自体またはそれを使用することによって、その顧客に「よい」ことがもたらされるからだとも言える。なぜなら、誰しも対価を払ってまで、自らに「よい」ことがもたらされないものを購入するとは思えないからである。因みに、経済学では取引の対象になるもののことを「財」と呼ぶが、その原語が英語の“goods”であることからも、本来的に“よいもの”を意味していることが分かる。つまり、究極的に企業活動とは人々の幸福に貢献するということであり、哲学的にはそれが本質であると言えるのではないだろうか。翻って、アリストテレスが『政治学』において、「凡ての人は、善きものであると思われるもののためにすべてのことを為す」というアプリオリな前提で議論を展開していることは、先にも述べた通りである。

3.2 企業の責任について

しばらくの間、経営学の議論のテーマとなっていたCSR(Corporate Social Responsibility)に代わって、最近ではM. ポーターとM. クラマーが提唱するCSV(Creating Shared Value)が経営学界のみならず実業界においても議論されるようになっている。前者は、「企業の社会的責任」のことであり、企業は社会システムの一構成員として社会に開かれた存在であるという前提から、企業自らが社会に対して果たすべき責任のことを意味している。しかし、実際の議論の中で使われているCSRの概念は、各々の文脈において非常に多義的である。ただ、その概念がどのような文脈の中で語られているとしても、その底流には1つの共通した考え方があるように思われる。それは、企業はその活動の目的である利潤の追求とは別に、社会の一員として社会によいことをなすべき責任がある(消極的には、少なくても社会に悪い影響を与えてはならない責任がある)という考え方である。つまり、CSRを語る人は誰しも、企業は社会において「よき存在」でなければならないという前提に立って議論しているはずである。

しかし、その一方で、よい製品やサービスの創造によって社会に付加価値を提供すると同時に、雇用を創出することが企業の社会的使命であり、それこそが本来の企業の社会的責任であるといった伝統的なCSRの考え方がある。こうした視点から、企業の利益につながらないCSR活動というものは、この考え方に矛盾するのではないかといった批判や、いわゆる利潤の追求を目的とする私企業が単独で公共的な活動の意思決定を行いうるのかといった批判があり、私的な性格と公的な性格という二面性を持つ企業は、CSRへの取り組みに慎重にならざるをえないといった見解も示されている。こうしたことから現実のCSR活動の多くには、法令を遵守し人権に配慮して社会から批判を受けないような消極的で、倫理的な活動に止まる傾向が見られた。そこで、ポーターとクラマーはこうした姿勢を「受動的CSR」もしくは「義務的CSR」であると批判した上で、企業は戦略的に社会的価値と経済的価値の両立による共通価値の創造を目指さなければならないとしてCSVを提唱し、企業は社会課題を解決しながら自らの競争力を高めることができると説いているのである。

例えば、最近SDG’sという言葉をよく耳にするが、これはSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)のイニシャルである。SDG’sについて外務省のホームページ12)では、「2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one left behind13))」ことを誓っています」と記されており、日本も積極的に取り組んでいるとされている。SDG’sについては、学界のみならず実業界でも昨今盛んに取り上げられているが、実際の企業の取り組みを見ると、確かにCSV的な姿勢で取り組まれていることが多いように見受けられる。

ポーターらの提言するCSVは、見方によっては伝統的なCSRへの先祖返りを説くプラグマティックな開き直りのような印象もあるが、別の見方をすれば、CSVの考え方は1つの弁証法的な総合を示唆していると解釈することもできる。先にも述べたように、企業は社会のためによいことを為す責任を負った利他的な存在であることと、企業が利潤の追求を目的とする利己的な存在であることはどちらも否定し難いアンチノミーであり、どちらかだけを企業の使命とするということはできない。すなわち、企業とは他者に利をもたらすという意味で利他的な存在であるというテーゼと、自らの利潤の追求を目的として活動しているという意味での利己的な存在であるというアンチテーゼをともに抱えた存在なのである。これについては、先に述べたように企業は社会に役に立つ製品やサービスを提供し、その見返りとして受け取る収益によって利潤を生み出す存在であるという考え方や、利潤を追求する企業活動が一方で雇用創出という社会的価値をもたらすといった考え方が両者を統合するジンテーゼだと言うことができるかもしれない。しかし現実的には、なかなか理想通りには止揚できないが故に、それを模索するために改めて、企業の社会的責任とは何かといった議論が何度も持ち出されてくるのであろう。

4.利己と利他について

こうした弁証法的総合が実現しにくい理由について、企業が利他的な活動よりも利己的な活動を優先してしまうものだと多くの人は考えているのではないだろうか。さらに、こうした認識を先鋭化させ、企業の利己的な活動を激しく非難する人たちがいる一方で、他方に、こうした企業の利己的な活動こそが本来の企業の役割であると擁護しようとする人たちがいる。前者の極端な例として、企業(資本家)の利己的な活動を全面的に否定し、20世紀前半に平等な社会を建設するという理念の下に生まれたソビエト連邦(現、ロシア共和国)を筆頭とする、共産主義体制を敷いた国々を挙げることができよう。しかし、21世紀を待つことなく、ほとんどの国の共産主義体制は崩壊し、いまだに共産主義を標榜している国々もまた、経済開放などの名目の下に実質的に社会主義経済体制を放棄してしまっている。今から振り返れば、それは壮大な社会実験であったと言えるが、結局、人間の利己主義を否定する目的で成立した社会体制が、政治指導者や役人たちの利己主義によって崩壊し、再び人間の利己主義を肯定する功利的な社会体制に回帰したのだと言えよう。

一方、後者の立場を支持する人たちにその根拠を尋ねるならば、彼らの多くは「近代経済学の父」と呼ばれたA. スミスの「神の見えざる手」を持ち出し、市場における企業の利己的な利潤追求によってこそ、効率的に社会に利益がもたらされるからだという功利主義のドグマを主張するだろう14)。さらに、近代経済学の理論体系が科学的にエクセレントになるに連れて、すなわち数学的に精緻化されるにしたがって、このドグマはより強化されてきたと言える。それ故に、それはスミスの真意ではなく、『国富論』で一度だけ使われている「見えざる手15)」という表現がデフォルメされ、それを経済学者たちが自らの都合の良いように歪曲して解釈し、利用しているのではないかという根強い批判にも、彼らは科学的な方法論に則っているという自負を盾に、一向に興味を示そうとはしないのである。とは言え、そうした人たちの中でさえ、さすがに企業が利己主義に徹底し、利他主義には一向に関心を持つ必要などないといった極端な考えを持つ者はいないのではないかと思われる。なぜなら、企業活動とは必ず他者と関わらなければ成り立たない活動であり、企業が活動するには従業員や買い手(顧客)はもちろん取引先や流通業者、株主や債権者などとの関係がなければ成立せず、そもそも他者がいないならば市場など存在しないからである。

このように考えると、企業は利他主義だけでは存続はできないし、利己主義だけでも成立しないということは明らかである。つまり、企業は人間と同じように、利己的な面と利他的な面という矛盾した両面を併せ持つ存在だということなのである。それ故に、企業活動を継続していくためには、この両者のバランスを常に図っていかなければならないということになる。そして、そのコントロールこそが企業経営において、欠かすことのできない経営者の重要な役割であると同時に、その巧拙を分ける不可欠な要素だということができよう。しかし、このバランスは崩れ易い。それは、企業が人間同様、どうしても利他的な活動よりも利己的な活動を優先し過ぎてしまう・・・・・・・・・という性格を持っているからである。これには2つの理由が考えられる。その1つは、既に触れたように、企業の目的は利潤の追求であるという経済学の前提が利他主義よりも利己主義と相性がよく、あくまでも経済学のモデルの前提であるはずの考え方が独り歩きして社会に浸透するにつれ、多くの人がそれを疑うこともなく、現実の企業の目的が利潤の追求だと思い込んでしまっているためである16)

もう1つの理由は、われわれが企業という実体のない抽象的な概念を擬人化し、いかにも企業が自らの意思を持ち、主体的に行動しているように考えてしまうからである。本稿においても、これまでの文脈で当たり前のように企業が利潤を追求するとか、企業が付加価値を創造するといった表現や、企業は利己的であるとか、利他的であるといった表現をしてきたが、現実的には企業の意思決定はその企業に属する誰か(通常は、経営者やマネジャーである)、つまり生身の人間が行うものであるし、企業活動自体もその企業に属する誰か、つまり生身の人間が行うものである。それにもかかわらず、企業という概念17)の抽象度が増し、それが抽象的になればなるほど、そこに所属する生身の人間の輪郭は徐々にぼやけていき、やがて個々のメンバーの持つ個性や多様性が捨象され、最後には組織という概念の中に埋もれて姿が見えなくなってしまうのである。こうした過程の中で、各メンバーは匿名性のベールに覆われて自らの利己的な行いに対する後ろめたさが薄れていくとともに、所属する企業の利己的な活動に関与することへの抵抗感も徐々に薄らいでいく18)。さらに、他のメンバーたちも結局そうしていることを相互に察知することによって、こうした傾向がお互いに強化される。これによって彼らの間では、企業の目的は利潤の追求であるという経済学のドグマがいよいよ説得力を持つことになり、メンバーたちはいつしか、利己的な活動が自分たちの仕事の本質であるとまで考えてしまうようになる。こうして、企業は利他的な活動よりも利己的な活動を優先し過ぎてしまうことになるのである19)

企業において現実的に意思決定し、活動を担っているのは生身の人間である。本来、企業は所属するメンバーの(それに加えて、時には・・・・・・・・・・取引先や受注先などのメンバーとの)協働活動によって、誰かが必要とするものを創り出し、それを提供することによって、その見返りとして得られる利潤をメンバーの糧とするという利他と利己のバランスと、その循環によってゴーイング・コンサーンとして存在している。それ故に、企業のこうしたあり方から、松下幸之助や立石一真などの卓越した経営者は「企業は社会の公器である」と考えていたのである。しかし気を付けていないと、このバランスは崩れ易く、循環は反転してしまいかねない。それは、企業の活動がそもそも人間の活動に由来しているからである。われわれ個々の人間は生存本能を持っているが、人間が生物の一種である以上、それは当然のことであろう。つまり、われわれは個々に自己保存本能を備えているということであり、まさに人間の持つ利己的な考え方の源泉はここにあるものと言える。

だが、もし、われわれがそうした本能の命ずるままに生きているとするならば、T. ホッブズが主張したように、われわれは常に「万人の万人に対する闘争」に明け暮れなければならないことになるだろう。ホッブズは、こうした仮定の下でリヴァイアサンを登場させるわけであるが、この仮定はあくまでも理論上要請されたものであって、実際には、そのようにわれわれが利己主義に基づいてのみ生きていると想定することは、逆にわれわれが利他主義に基づいてのみ生きていると想定することと同様に、非現実的なことであろう。つまり、われわれは利己主義でなければ自らの生命そのものが維持できなくなるし、利他主義でなければ生活の場である社会を維持できなくなるという矛盾を抱えた存在なのである。つまり、われわれは自らの中にこうした相矛盾する2つの性質を持っているということなのである。

この矛盾から想起されるのは、孟子の説いた人間の本性は善であるという「性善説」と、荀子の説いた人間の本性は悪であるという「性悪説」の、人間の本性に関する議論である。それぞれ人間の本性に関する考え方は正反対ではあるが、各々を繙いてみると、前者は人間には誰しも「不忍人之心20)」があり、本性の中には生まれながらにして「仁」、「義」、「礼」、「智」21)の善の萌芽が備わっている。しかし、これらを育てる努力をしなければそれらは開花することなく、善が発揮されることはないという主張である。それに対して後者は、人間の本性は悪であり「生而有利好22)」であるので23)、人間が善であるためには、「偽」(人為)によらなければならない、つまり、正しい導き手により礼と義とが感化される必要があると主張している。性善説と性悪説という、互いに相容れない前提から説き起こしている両者の主張であるが、各々の前提から導き出されている結論が、善なる本性が内包している善の萌芽を開花させるためにも、悪の本性が悪に陥ることなく善と転ずるためにも、われわれは善を培っていかねばならないという1つの結論に収束していることは非常に意味深いことである。

さらに、両者の善と悪に関する考え方が一致している点もたいへん興味深い。孟子は、培っていかなければならない善として、善悪を分別し(智)、悪を恥じ憎む心(義)という、言わば正義を愛する心と、他者を憐み(仁)、譲り合う心(礼)という利他的な心を挙げている。それに対して、荀子は悪とは利己的で貪欲な心のことであり、それを克服するために正しい導き手によって感化されなければならない善として、利他的な「礼」と正義を愛する「義」を示している。つまり、両者の結論は、善とは正義を愛し利他の心を持つことだということに収束しているのである。彼らは、紀元前300年前後の中国戦国時代を生きた人物であるが、哲学史を振り返ってみると古代ギリシアから今日に至るまで、洋の東西や時代を問わず善悪の問題、つまり利己主義と利他主義の葛藤の問題は、常に人間にとって大きな哲学的難題だったのである。

5.人間対人間の経営

この利己と利他の葛藤は、一個人の判断や内省における迷いの元から、果ては国家間の戦争の原因に至るまで、いつの時代も常にわれわれに大きな影響を及ぼし続けている。中でも、完全競争市場を基本モデルとする資本主義経済において、活動する企業の旺盛な原動力の源が、人間の利己的な欲求にあることを否定することはできない。その原動力のお陰で、現代を生きるわれわれは物質的には大いに豊かになり、多くの面で便利さを享受できるようになったと言える。しかし、その裏でわれわれは何か大切なものを失いつつあるように思えてならない。それは善なる利他の心である。近年、豊かさと引き換えに急速に利己主義の暴走が利他主義を侵食しているように思われる。R. W. エマソンは、『自己信頼』の中で「社会は新しい技術を身につけると古い本能を失う」と述べている。

アダム・スミスは、『道徳感情論』の中で道徳感情について次のように記している。「どれほど利己的な存在であるかのように見えても、他者の運命に関心を持ち彼らの幸福を心の底から願うことは間違いなく人間の本性の一部である。だが、そうすることからは喜び以外の何も得られない」。近代経済学の父と呼ばれ、自由な商業者の活動が結果的に国の富をもたらすと説いたアダム・スミスが想定した商業者たちとは、実はこうした道徳感情(共感)を心に持った人たちであったことは心に銘じておく必要がある。今後、企業経営者が自社の利潤の最大化のために生身の人間へのまなざしを失ったまま、利己的な欲求を満たすための競争に明け暮れる利潤追求の道を歩むのか、それとも経営活動の本来の使命である他者への利他的な考え方を蘇らせて、生身の人間対人間の経営の道を歩むことによって真の付加価値を創造する道を歩むのか、それはまさしく、個々の経営者や経営学の研究者が真摯に考えなければならない経営哲学の問題なのである。

1)  哲学という言葉を動詞化して、「哲学する」という表現を時折見掛けるが、この「哲学する」という表現の意味は、こうした本源的な問いに基づいて思索を重ねることだと解してよいだろう。

2)  本学会第39回全国大会において、筆者のような非才に統一論題における報告の機会を与えていただいた大会委員会、および理事の先生方はじめ会員のみなさまには、この場をお借りして深く御礼を申し上げます。

3)  これが、アリストテレスの考える人間の本性、つまり自然の姿なのだと言える。

4)  ボウルズらの示しているこの言説は、「真」だと考えられる。特に、経営学の研究者の中にもしこれを疑う者がいるとするならば、その研究者が経営学を研究していること自体が矛盾していると言えよう。先にも述べたように、経営学とは究極的には組織を研究する学問であり、C. I. バーナードが説いたように組織の成立のためには複数の人の協働意欲、つまり互いの協力が不可欠であり、それによって組織の目的(つまり、組織の生き残り)の実現の可能性が高まるからである。

5)  例えば、最近ではJ. Z. ミュラー (2019) が測定への固執が機能不全をもたらすとして、過剰測定や非生産的な測定を批判している。

6)  H. ミンツバーグは著書『MBAが会社を滅ぼす』において、実務と乖離したこうした傾向を痛烈に批判している。

7)  こうした科学の弊害とでも呼ぶことのできる問題は、経営学に限らず、経済学や心理学を始め、あらゆる科学に付き纏う。例えば、科学の範とされる物理学の知見により生まれた核兵器によって、一気に多くの生命が奪われる惨事がもたらされたことを想起すればよい。

8)  松下幸之助は、事あるごとに従業員たちに対し、「松下電器は何をつくるところかと尋ねられたら、松下電器は人をつくるところです。併せて電器器具もつくっております。そうお答えしなさい」と訓示していたと伝えられている。

9)  京セラを創立後まもなく、若い社員が団体で待遇保証を要求するという思わぬ事件が起き、3日3晩の交渉の末、彼らを説得した稲森は、それを機に「会社はどうあるべきなのか」と考え抜き、その末に見出された「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献する」という答えは、それ以来、京セラの経営理念の中心に掲げられている。

10)  令和2年度に実施されたわが国の国勢調査の集計結果を見ると、2020年の産業3部門別の就業者割合における第1次産業(農林業、漁業)就業者の割合は、3%となっている。

11)  ここでは、製品やサービスなどを含む広い意味に捉えている。

13)  実際のアジェンダにおいては、“As we embark on this collective journey, we pledge that leave no one will be left behind.”となっている。

14)  A. スミスが「近代経済学の父」だと称えられるのは、まさにこの理由からである。しかし、彼の道徳・倫理思想を考慮することなく、この一面だけを都合よくデフォルメして経済理論の基礎に置くために与えられた称号だとすれば、彼は決して喜びはしないだろう。それよりも、人間を深く洞察した彼には「近代人間学の父」の称号の方がずっとふさわしいのではないかと個人的には思う。

15)  「見えざる手」という表現は、国富論の中では第4編第2章において唯一用いられている表現であり、原文では“an invisible hand”となっている。つまり、「神の」という表現は、たぶん日本語に訳出された時に翻訳者が付け加えた装飾なのではないかと考えられる。しかし、これによって一層、経済学のドグマは神聖さを纏うようになったのである。

16)  毎年3年生になる時点で、筆者のゼミナールに入ってくる学生たち(経済情報学部に所属)に質問すると、毎年ほぼ全員から次のように答えが返ってくる。1つは、企業は競争に勝ち抜いて自らの利益を上げようとする存在であるという答え、もう1つは、自らが仕事をする目的はお金を手に入れるためであるという答えである。

17)  これは、企業に限らず家族や学校、地域や国など多くの抽象的な概念にも共通して言えることである。

18)  その最たる一例が、H. アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で描いた、ナチス将校アイヒマンの姿であろう。

19)  企業不祥事が絶えない背景には、こうしたメカニズムがあるものと、かつて証券会社の一営業社員として証券不祥事を体験した筆者は、自らの実感としてこのように考えている。

20)  他者の苦痛や不幸を見るに忍びない憐みの心。同情心。

21)  仁とは憐みの心、義とは悪を恥じ憎む心、礼とは譲り合う心、智とは善し悪しを見分ける心のことである。(孟子・公孫丑章句上

22)  人間は、生まれながらにして利を好む。

23)  これに加えて、生まれながらにして「有疾悪」(憎悪の心を持っている)であり、「有耳目之欲」(見たり聞いたりすることによって起こる欲心、すなわち感覚的な欲望をもっている)だとされている。(荀子・性悪篇第二十六

参考文献
  • アリストテレス (1961) 『政治学』岩波文庫
  • アリストテレス (1971) 『ニコマコス倫理学』岩波文庫
  • アーレント, H. (1969) 『イェルサレムのアイヒマン』みすず書房
  • 入山章栄 (2012)『世界の経営学者たちはいま何を考えているのか』英治出版
  • エマソン, R. W. (2009) 『自己信頼』海と月社
  • 荀子 (1961) 『荀子』岩波文庫
  • スミス, A. (2003) 『道徳感情論』岩波文庫
  • ドラッカー, P. F. (2001) 『マネジメント(エッセンシャル版)』ダイヤモンド社
  • ドラッカー, P. F. (2009) 『知の巨人ドラッカー自伝』日経ビジネス人文庫
  • バッキンガム, M.・グッドール, A. (2019) 「チームの力が従業員エンゲージメントを高める」『DIAMONDハーバード・ビジネスレビュー』2019年11月号
  • バーナード, C. I. (1956) 『経営者の条件(新訳版)』ダイヤモンド社
  • ポアンカレ, J. H. (1977) 『科学の価値』岩波文庫
  • ボウルズ, S.・ギンダス, H. (2011) 『協力する種』NTT出版
  • ポーター, M.・クラマー (2011) 「共通価値の戦略」『DIAMONDハーバード・ビジネスレビュー』2011年6月号
  • ホッブズ, T. (1954) 『リヴァイアサン』岩波文庫
  • ミュラー, J. Z. (2019) 『測りすぎ』みすず書房
  • ミンツバーグ, H. (2006) 『MBAが会社を滅ぼす』日経BP
  • 村田晴夫 (2003) 「経営哲学の意義」(経営哲学学会編『経営哲学とは何か』)文眞堂
  • 孟子 (1968) 『孟子』岩波文庫
 
© The Academy of Management Philosophy
feedback
Top