Journal of Management Philosophy
Online ISSN : 2436-2271
Print ISSN : 1884-3476
Errata
Errata: Summer Lecture by Shunsuke Thurumi on July 3rd, 1988 in NAGO City
Mikio OSHIRO
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2024 Volume 21 Issue 1 Pages e2-e24

Details
【要 旨】

2023年9月に経営哲学学会は40周年を迎えた。40周年を迎えるにあたり、学会の榊󠄀原研互会長から「是非とも学会創設者の島袋先生の故郷で40周年記念大会を開催したい」との打診があり、なぜ沖縄で開催されなければならないのかの説明を聞くとその情熱に押されて引き受けることとなり、さらに名桜大学にて開催することが理事会でも決定された。

成り行きで私が大会実行委員長を引き受けることとなり、大会のスローガンをどうするか、統一論題をどうするか、を考えなければならなかった。その時、私の頭には二人の人物の言葉が浮かんできて外せない概念だと強く思った。

終始拘った概念の1つが「ぬちどぅ宝(命は宝)」であった。これは第40回全国大会の案内でも説明したのでここでは詳細は省くが学徒出陣により「完全に死を覚悟」した学会創設者の島袋嘉昌が最後まで拘った概念であり、この概念は大会第1日目の統一論題に採用された。

もう1つはこれから講演録にて紹介する鶴見俊輔から授かった「間主観性」という概念だった。鶴見の講演会は1988年7月3日、名護市民会館において開催された。当時、20歳になったばかりの私は鶴見という哲学者の講演会とはどのようなものなのか、とても興味があり、ワクワクしながら参加した記憶がある。しかし、当時の私には鶴見が伝えたかったことの全ては理解できなかった。いや、鶴見は難しい表現をできるだけ使わずに丁寧に分かりやすく話してくれたので、全くの意味不明だったということではない。むしろ、色々と深く考えさせられる内容だった。

その講演会において特に「間主観性」という言葉が強く心に残り、今でもそのことを考え続けている。この鶴見による講演会がなければ第40回全国大会の二日目の統一論題は成り立たなかったであろう。それくらい私に今でも強く影響を与えている大事な概念であり、これからも考え続けなければならない概念である。

1.はじめに

2023年9月に経営哲学学会は40周年を迎えた。40周年を迎えるにあたり、学会の榊󠄀原研互会長から「是非とも学会創設者の島袋先生の故郷で40周年記念大会を開催したい」との打診があり、なぜ沖縄で開催されなければならないのかの説明を聞くとその情熱に押されて引き受けることとなり、さらに名桜大学にて開催することが理事会でも決定された。

成り行きで私が大会実行委員長を引き受けることとなり、大会のスローガンをどうするか、統一論題をどうするか、を考えなければならなかった。その時、私の頭には二人の人物の言葉が浮かんできて外せない概念だと強く思った。

終始拘った概念の1つが「ぬちどぅ宝(命は宝)」であった。これは第40回全国大会の案内でも説明したのでここでは詳細は省くが学徒出陣により「完全に死を覚悟」した学会創設者の島袋嘉昌が最後まで拘った概念であり、学会の規約第2条でも「生命の尊厳を最高の価値基準」とすると謳われていて沖縄で開催するからには外せない概念だと思った。この概念は大会第1日目の統一論題に採用された。

もう1つはこれから講演録にて紹介する鶴見俊輔から授かった「間主観性」という概念だった。鶴見の講演会は1988年7月3日、名護市民会館において開催された。当時、20歳になったばかりの私は鶴見という哲学者の講演会とはどのようなものなのか、とても興味があり、ワクワクしながら参加した記憶がある。しかし、当時の私には鶴見が伝えたかったことの全ては理解できなかった。いや、鶴見は難しい表現をできるだけ使わずに丁寧に分かりやすく話してくれたので、全くの意味不明だったということではない。むしろ、色々と深く考えさせられる内容だった。その講演会において特に「間主観性」という言葉が強く心に残り、今でもそのことを考え続けている。この鶴見による講演会がなければ第40回全国大会の2日目の統一論題は成り立たなかったであろう。それくらい私に今でも強く影響を与えている大事な概念であり、これからも考え続けなければならない概念である。

あの時、あの会場で鶴見から直接話を聞いた歴史の生き証人として、これは是非とも世の中に公表すべき内容だと、ずっと思い続けた36年間だった。今、ようやく、こうして公表する機会を得たことは喜びというよりも、むしろ何か使命を果たした安堵感の方が大きい。この機会を与えてくれた経営哲学学会に対して心から感謝している。

それでは、36年前の名護に時を戻し、当時、実際に何が話されたのか、確認してみよう。なお、講演内容は私がテープ起し作業の一切を行ない、項目立ても行なった。そのため、「活字以前」という刊行物にて発表された輿石正(こしいし まさし)による内容とは違う内容となっている。もちろん、鶴見の話す講演内容に相違があってはいけないので、そこは同じであるが細かな点、例えば鶴見の口語表現をできるだけ残しライブ感を演出したり、項目立てをこのでは私が考えたりなど相違点があるという意味である。また、鶴見は輿石の招待がなければ沖縄で講演することはなかったと思われので、その意味でも輿石は重要な役割を担っている。

2.講師紹介

輿石正:それでは、講演会を始めさせていただきます。まずは、講師紹介から。本日、鶴見俊輔先生をお迎えして、「ジンブン」についての講演会を開催することができました。「ジンブン」という沖縄の方言がどういう幅を持つのかは、私もまだつかめない。ただ、鶴見さんが、この沖縄の方言である「ジンブン」、やや「知恵」という言葉に近いものを、どう翻訳していくのかということを、久しぶりに生徒になった気持ちで、ゆっくり聞いてみたいと思っています。

那覇で講演をやらなく、素通りしてきて名護で講演会をやり、その3日後には現在住んでらっしゃいます京都にお帰りになるという。昨日、沖縄に入ってきまして、初めての沖縄入りです。沖縄で最初に鶴見さんが話をするのは名護の地であったというのは、僕にとって非常に意義深いことだなというふうに思っております。那覇を通過してきて、名護のこの地で、鶴見さんが、この7月3日に講演をしてくれるということが、自分の、ないしは自分の仲間たち、そして地域の人たちにとっての1つのきっかけになっていくような、そういうものであったらいいなと思っています。しなやかに修正を加え続けるという、ものの考え方をされている鶴見さんにとって、「ジンブン」というものが、どういう角度から切り込まれるのか、そして、どんなデッサンが僕らの目の前に見えるのかということを期待したいと思っています。それでは、鶴見さんを紹介いたします。鶴見先生、よろしくお願いいたします。(会場拍手)

3.「ジンブン」について

鶴見俊輔:この会の案内文に書いてあるんですが、これはとてもおもしろいもので、こういうふうに題を出されたんだなあ。これは、私に、なんか、考えるはずみを与えるおもしろい文章で、これが分かっているか分かってないか、心許ないんですね。というのは、ジンブンというのは、私の使っている言葉ではないし、この土地の言葉なんですね。ですから、それを、それと私が持っている言葉とは、意味のズレがあるでしょう。だから、この土地の言葉に入って何か言うっていうことは、相当勘違いがあるかもしれないんですね。そういう勘違いがあるとして、やってみようという気になったんです。

ここに到着して、そのジンブンというのは何ですかと聞いたらば、だいたい名詞として使うと言うんですね。「ジンブン持ち(ジンブン ムッチャー)」、これは知恵者というものに当たるらしいのですが、それは、学校の成績がいい人には使われないって言うんですね。学校の成績がいいとか、大学出ているっていうことでは「ジンブン持ち」にはならない。むしろ、集団が危機に陥った時に、何か出口を見つけて助ける人。そういう時に、「ああ、あの人はジンブン持ちだ。」というふうに使うっていうことを、さっき、ここで伺ったんです。それから、もう1つ、「ヤナジンブン」っていう言葉があるそうで、これは悪知恵があるという意味らしいんですけど、私の言葉で言えば「悪人性に富む」ということですね。悪人というのは非常に合理的なものなんです。悪いことをしようと思う時には、ある目的があって、それに手段を考えていきますからね、悪人は合理的なんです。だから、自分が戦う相手が悪人である時は、相手が戦ってくるのは合理的ですから、こちらも合理的に考えていけば、ある程度対抗できるわけなんですけども、そういう意味で、科学とか法律というのは、非常に悪人性に富んでいるわけですね。それに対抗するためにも、悪人性を自分の中に持たないと、なかなか対抗できないんですね。だから、軍国主義に対抗するっていうのも、ある程度、「ヤナジンブン」を持ってないと対抗できないと思いますね。

今日の話は、「知識とジンブン」のすきま、ということなんですが、私の普通に使っている言葉で言えば、知識と知恵のすきま、知識と知恵のすきまに自分が立って、どう見るかというふうに問題を捉えてみましょう。

4.ことばの定義について

初めに、定義をしたいんですね。定義って、それは、何でもいいんですよ。1歳とか2歳の子に何か聞かれた時に、やっぱり、定義しないといけないでしょ。これ、非常に難しいんです。やってみるほかないんですね。「大人になると分かる」というのは非常に、つたない答えなので、こういう人は私が考える意味での、哲学に長けている人ではないし、ジンブン持ちではないでしょう。子供のレベルまで降りて、子供の持っている言葉で答えが出せるほうがいいんです。そういうふうに努力することは、一種の哲学的な修練なんですね。ですから、子供を育てるっていうのは、その親にとっても大変な知的成長のチャンスなんですね。だから、子育てに時間取られて、というふうなことを言う人は、あまり思想とか哲学に興味持っていないというか、ちょっと違って考えている人だというふうな気がしますね。例えば、子供というのは、それは突拍子もないことを言いますよ。「地獄極楽は本当にあるのかい?」とか、「死んだらどうなるのか?」ということを言うでしょう? そういう時に、やっぱり、必死になって答えを探す、これが重要なんですね。例を挙げれば、私の子供が2歳くらいの時に、「地獄極楽は本当にあるのかい?」と聞くので、「今は君と一緒にこうやって暮らしているから、これは極楽だ。戦争になると、戦争は人と人の殺し合いだから地獄だ」と言ったら、分かったような顔をしましたね。もう1つ、「死ぬとどうなるのか?」と、ものすごく不安になって、切実な問題としてやって来た時は、「死んだ後は、私やお母さんは、君の頭の後ろに、熱い感じになって残るから、いつまでも一緒にいるんだ。心配はない」と答えたら、ほんとに心配のないような顔をして、また遊びに行きましたね。その記憶は今も残っているらしいんですよ。何を言われたかは忘れたけれども、心配がなくなって、非常に安心した気持ちになった、と言っていますね。その子供は今、23歳ですが。だから、それはそれで、切実な子供の不安に、ある意味で答えられたと思うんですね。そういうのが、ジンブンだろうと思うんです。

もういっぺん、定義をし直しましょう。「知識」という言葉がありますね。これは知識とジンブンのすきまっていうことですから、知識という認識として考えると、これは、ある程度ほかの人が試すことができるということなんですよ。このやり方でやったらお饅頭をふかすことができるとか、こんなやり方でやればエビを煮て赤くすることができるとか、あるでしょう?そういう、誰がやっても追試験できる。こういうふうにして、違う人が同じやり方でやってみて、失敗したり、成功したり、条件がちょっと違いますからね、それで知識の積み上げができてくるんですね。非常に長い長い積み上げが可能になって、科学的知識というものには進歩があるんです。

5.「間主観性」について

今日、1つだけ聞き慣れない言葉を使うことを許してほしいんです。漢字を使わないといけないので、書くものがあったら書いてほしいんですが、それは、「間主観性」という言葉なんです。これは、大変具合が悪い言葉なんですけどね、「間」という言葉を書きまして、「主観性」。なぜ、この言葉を使わなきゃいけないかっていうことをお話ししますけどね。間主観性。客観性と同じことじゃないかと考えられるかもしれないですけど、違うんです。それは今日の話のポイントなので、ちょっと覚えておいてください。

今の、追試験というのは、ある意味で間主観性があるから、どこの人が実験しても、それこそヨーロッパの人が考えたのをアフリカで実験しても、それが一緒になっていくでしょう。追試験。これは間主観性なんです。科学の知識が成り立っていく上での、前提とされる間主観性ですね。ところが、ジンブン、知恵のことになってくると、そういうふうになかなか行かないんですよ。それが問題なんです。

6.真理と方角

科学的な認識、知識の場合には、ある仮説を立てて、その実験をして失敗すれば、その間違いによって確実に進歩していくんです。間違った、これ駄目、という方向で、駄目な方向が分かってくる。 そうすると、真理の方角というのは、だいたい決まってくるんです。こうやって取り出して、「これが真理だ」ということは言えないんですよ。真理の方角だけ。真理は方角にあり。真理なんかないんだっていうこともなかなか言えないんです。これは、人間の言葉の使い方の前提から行くと、それはできないことになっているんです。

タルスキー(Alfred Tarski)というポーランドの論理学者がいまして、この人は1冊しか出なかった哲学雑誌を出した人なんですが、ポーランドで。1冊しか出てないんです。1号しか出ないで潰れたのですが、そのことによって哲学史に残っているんです。それは『真理の概念』と言うんですけど、その中心は非常に簡単なことなんです。「東京駅は東京駅にある」、これは文ですね。さらに続けて、「という文は、真理である。もし、東京駅が東京にあるならば。」分かりますか。かぎ括弧の中はセンテンスなんです。言語なんです。言語の中にあるものは、必ず言語の外の何ものかを指している。それが真理の条件なんですね。われわれは、そういうふうな規則に従って言葉を使っているんです。

これは、非常に、こんな簡単なことを、と言うけども、確かに簡単なことなんです。みんなの使っている言葉の前提になるんですけども、タルスキーがこれを定式化したことによって、2500年の西洋哲学史に残るでしょう。彼こそ、ポーランドの学問の誇りなんです。この言葉は必ず外を指す。外を指すけども、それに逆らって、これが真理だっていうことは言えないんですよね。方角なんです。で、方角は間違いによって決まるんです。だから、ひどい間違いをしたら、その間違いをしたということがプラスになるんですね。だんだん、その真理の方角が分かってくる。これが認識、知識の場合なんです。知識は間違いによって積み上げられていく。ある方角に向かうことができる。それが真理なんですね。

7.知恵と間主観性

ところが、知恵のほうになりますと、これは、知識よりも深く、それを持っている人の値打ちの感覚ですね、こういうものがいいとか、悪いとか、こういうものが美しいとか、そういう感覚に縛られているんですね。他人が受け継ぐことは大変難しくなるんです。自分本位になっているんですね。知識は、今の間主観性があるっていうことは分かるでしょう? つまり、主観というものを越えて違う主観の間に行き交うものがあって、共同の場が作れますね。共同主観性と言ってもいいんですが、間っていうのは、隙間があるから、今日の話は隙間の話でしょう?だから、ちょうど間主観性っていう言葉が適当なんです。

それでは、知恵には主観性だけしかないのか。間主観性はないのかという問題。これは哲学の問題ですね。知恵の領域に入ると、間主観性というのは、もっと複雑にはなっていくけど、やっぱり、あると私は思うんです。

8.日本の教育

もう1回、知恵に帰りましょう。知恵というのは、自分で問題を立てて、自分で解くということなんです。今、日本で共通一次というのがあって、それが国立の大学入学試験を縛っていて、それに倣って私学もそういうふうにやっていますし、だんだんに、経済力に応じて、たくさんの人が受けるようになりましたね。大学生が増えているし、大学の入試のための一種の予備校みたいに高校がなっていって、高校に入るための入学試験が、また大学の入学試験の影響を受けていて、中学校もそうで、小学校もそうで、しまいには幼稚園に入るのさえ大変なんですね。いい幼稚園に入って、いい小学校に入らないと、そういうふうになって、大変な競争になっていくんです。その競争は、なんで競争かというと、問題は既に教師が作ってあるんです。教師の中の親分格の人が作っているんです。その選択肢というのが、○×になっているんですね。確かに、幼稚園の時からそういうところに入っておくと、その○×をやるのが早くなるんです。これは1つの技術ですから。3歳からこの○×をやると、早くなるんですよ。東京で調べたところ、子供がお母さんから一番たくさん聞く言葉は「早く、早く」なんですって。「早く、ご飯食べて。早く学校行って。早く宿題やって。早く、早く、早く」と言うんですね。これはすごいんですよね。ところで、これと比較して、ピアノの演奏を2つテストしてみたんですって。ショパンのある曲を、ある1つは、ゆっくり正確に。ある1つの曲は、早く、間違えて。どっちがうまいかって聞いたら、学齢の子供たちが、ほとんど異口同音に、「早いほうがうまい」と答えたというのです。これは、今の日本の子供たちがどういう状況に置かれているかをよく表していると思いますね。

確かに、大学入試に向かって、18歳の時に受けようとして、3歳から訓練していると、早くなるんですよ。それと同時に、3歳から18歳までの間、15年間、問題を作ったことないから、問題を作る能力は全く育たない。だから、自分が森の中で迷子になった時、どう道を見つけたらいいかっていうのを自分で問題を作って解いていかなきゃいけないでしょ? でも、そういうことに出合ったことないから、できないんです。

阪大の教授が書いていたんですが、条件反射について書け、という問題を出したら、学生は、全然答えられなかったらしいんです。文章を一気に長くつなげていくことできないんですよ。○×どちらが正確かっていうのは、ぽん!と、すぐできるんですけどね。

9.大卒の新聞記者

新聞記者まで大学出から取るようになった、これは昭和の初めからなんです。ある機関が調べたところでは、日本ではわりかし早く、大卒と決めているんです。イギリスはもっと遅いらしいですよ。たとえば、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)ですが、あの人は、学歴なしなんです。小学校だけなんです。アメリカで、あちこちをほっつき歩いて、新聞記者として暮らしを立てて、新聞記者の時代に数冊本を書いていて、非常に優れた本なんです。こういう経歴の人は、19世紀のアメリカにもいたし、20世紀になっても何人か出たんですが、日本ではアメリカよりも早く閉じちゃうんですね。日本でも、そういう人は出たんですよ。明治、大正の大記者は、そういう人が多いんです。池辺三山とかね。それから、吉川英治とかね。秋山安三郎とか、長谷川伸。みんな、小学校卒の新聞記者で、大記者ですね。

大卒になると、どれだけいろんなことが分かっているかというのは、極めて疑わしいんですが、○×が早くなるのは確かなので、長谷川伸や吉川英治より早いでしょうね。だから、例えば、ある人が死んだというと、その死んだ人の友人のところに電話をかけて、「何々さんが亡くなりました。コメントを。」って言うんです。コメントでかなりかけ離れたことを言うような人が言ったことは新聞には出ないんです。

この間、聞いた話ではね。去年、上野英信が亡くなったでしょ。炭鉱にずっといた人ですが、亡くなった時に、一緒にかつて住んでいた谷川雁のところに記者が電話を掛けたら、「早く死んで良かったね。石牟礼道子みたいに神様になったら、つらいからね。」と言ったそうです。でも、そういうコメントは新聞には出ないんですよ。規格から外れていますからね。そういう時に出る基本は、「惜しい人を亡くした」。若い人だったら、「これからの人だったのに」。だから、返事があったら、すぐに、「お」か「こ」になっているんですよ。○×で、「お」って言ったら「惜しい人を亡くした」。「こ」って言ったら「これからの人だった」。記者が電話かけるでしょう? 「何々さん、何々さんが亡くなりました」と聞いて、返事で言ったのが、「お」、「こ」とか押したら、すぐに新聞できちゃうんですよ。勲章なんかもらうと、「ご感想は」と言うから、「名誉なことにございます」と、そりゃ名誉に決まっているんだ、もう。「め」と打つんですよ。ほかのこと言っても、新聞には出ないんですよ。もう、3歳から18歳まで勉強して一流大学出ますと、「お、こ、め」、それだけを、ぱぱぱっ、と早く打つ能力が発達していますからね。一流大学出るのに900点取らないといけないんですよ。それはもう、そのエキスパートになっているんですから。「お、こ、め」と、こういうふうに、なっているんです。だから、新聞の未来は暗澹たるものですね。これ、読む必要があるのかどうか、よく分からないくらいになってくるんじゃないかと思うんです。

少なくとも、ハイテクノロジーが、どんどん、どんどん、進歩していくかというと、確かに科学技術、知識の面では進歩しているんです。間主観性で大きなビルが建ってきますから。しかし、価値観を入れていって、ジンブンというか、知恵の面から見ると、今の新聞記者は、小学校卒で、うちが潰れて放り出されて、土木労働者になって、少尉と一緒に暮らしていた長谷川伸のような知恵は持っていないですね。そう思います。そういう時代に来たんです。これは、新聞ということに絡めて、知恵のほうから見た場合と、認識のほうから見た場合と、違うんですね。そういう問題なんです。

その知恵のほうは、受け継ぐことが大変に難しいんですよ。だから、かつて日本の新聞の初めに、朝日新聞には池辺三山という偉い記者がいたんです。この人のお父さんが熊本の西郷って言われた人で、西郷の乱に荷担して首切られたんですよね。だから、子供はものすごく苦労して、あまり学校行かないできたんです。この人は、『明治の政治家』という本が文庫本で今も出ていますが、すごい人ですね。夏目漱石を引っ張ってきて、東大辞めさせて、朝日に新聞小説を書くように仕向けたのは池辺三山なんです。

10.自分で問題を作る能力

こういう大記者の知恵を、今の朝日の記者は受け継げるかっていうと、これは疑わしいですね。もう、「お、こ、め」になっているんだから。無理ですね。「お、こ、め」以外の人をどういうふうにしたら探せるか、これは難しいですよ。皆さん、考えてください。私は1つだけあるんですけどね。小学校の時からの学校の成績を全部取り寄せることなんです。平均して、ずっと頭の良かった人は、必ず創造性に欠けるところがある。乱気流で変動した人は、ある種の創造性を持っている可能性が高いです。私が調べた限り、何らかの創造的な仕事をした人は、上がったり、下がったりした人がとても多いです。

例えば、宮沢賢治なんか、主席でとおったと、いろんな伝記に書いてあるけども、小学校の時は確かに成績良かったんですけども、中学校に入ったら、1年から5年まで、ずっと成績悪いんです。5年で専門学校落第しちゃうんですよ。落第して、病院に入って、看護婦と恋愛して、結婚させてくれって言って、親と大げんかになっちゃって。ついに諦めて、もういっぺん勉強始めて、高等農林に首席で通って、首席で出ていますね。すぐに助手になっている。これは、こういうふうな乱気流、中学校5年間いったい何をしていたのかっていうことは問題だし、確かに宮沢賢治は、自分で問題を作る能力を持っていた、ということですね。それは、日本の外の人を見ても、だいたいそうですね。そういう人たちが育たない場所に、日本の教育制度は、日本が豊かになったためになっているという、大変に逆説的な状況があるんですね。

だから、広中平祐という数学者は、一生懸命、学生をアメリカとフランスに留学させるという運動をやっているでしょう? そうしないと数学者が育たないからって言うんですけれども、それを一生懸命やっていて、自分の金を出して、コマーシャルなんかも出ているけど、自分が金儲けしたいためじゃないんですよ。ある目的を持ってやっているので、立派なことだと思います。その方法で、これからやれるのかどうか。この意味でも、私は、新聞記者の問題だけじゃなくて、新聞の未来だけじゃなくて、日本の学問の未来は暗澹たるものだと思いますね。

科学技術だけが、ずっと上がっていくんです、確かに。世界との情報の交換をやりますからね。日本のところに来て、新しいこと聞いてくるわけですが、間主観性でレベルは高くなっていくんですけども、それは、自分にとってどうなのかっていう、自分が問題を作るという意識から離れているし、その科学技術を生み出した結果が自分にとってどうか、人間にとってどうか、ということを考えなくなっているわけですね。

11.天才集団の町

ロスアラモス(Los Alamos)というところ、ご存じですか。アメリカにあるんですけども、ニューメキシコ州、ロスアラモスって小さい町があるんです。1942年に、ロスアラモスに、その小さい町の中に、もう1つ小さい町を作ったんですね。その小さい町の住民は、すべて天才の知能指数を持っていたんです。天才の知能指数っていうのは、いろいろ言えるけど、IQ140くらい、140以上ってことでしょうね。上限はきっとさらにあるわけですが。この人たちが集められて、原爆を作っていたんです。その原爆は、結局3発できるわけですが、1発は実験、もう1発は広島に落としたんです。

ところが、あと1発残っていたんです。同じ種類のものだったら、だいたい結論が分かっているから、保存しといたかもしれないけども、別の組み合わせで作っていたんです。そのため、これを、実験成果が知りたくて、どのくらい威力があるか試したかったっていう、単純な好奇心のために、それを長崎に落としたんです。考えられないでしょう? ナイフが2つあって、1つで人を刺してみた。もう1つ別の種類のナイフがあった。これで、誰かを刺してみて、どういうふうになるか調べてみたいって、全然知らない人をまた別に刺すっていうのは、ちょっと普通じゃ考えられないですよね。しかし、ただ、好奇心というものは、科学的な知識の増大っていう意味から言えば、それで追試験ができるわけですから、やったんです。

原爆そのものは、最初の原爆でさえ落とさなくたって日本は負けていました。ましてや、その威力が分かった後、次のもう1つの爆弾、もう1つ残っているからといって落とすっていうのは、大変に不思議なことですね。そういう爆弾を作り、それを止めるという運動を起こさず、それがどういうふうに使われるかということを頭の中に疑問を起こさない、天才の集団というのは、いったい何でしょうか。1942年のロスアラモスに集められた天才の町っていうのは、いったい何でしょうか。それは、知識の問題だ。1つの極論ですね。極北ですよ、知識の。そう思うんです。そこでは、知識が知恵に支えられていないんです。

12.ジンブンに支えられた知識

私の友達が一人、私と同級生だった人がいて、それは、近頃、ブラケット賞をもらったんだから、非常に偉い人なんです。世界を代表する物理学者なんだろうと思うけども、時々来るけども、仕事の話はいっさいしないから、私は物理学者じゃないし、こちらは知らないし、向こうも知らないで、やってくるんですけども、彼が言っていたのは、自分がそれに誘われたけども行かなかったって。なぜかって言うと、自分はカリフォルニア州で育っていて、子供の遊び仲間に日本人がたくさんいて親しい気分を持っていたから行かなかった、と言っていましたね。だから、その友達は、知恵を持っているんです。ジンブンを持っているんです。ジンブンに支えられた知識を持っていたんですね。

私は、15の時から知っているんですけどね、その人物を。この間、講談社のブルーバックスというのを見ていたら、ちゃんと彼の名前が、ビッグバンの、宇宙の形成の、理論の計算方式を作った人というので出ているんですよね。ウチヤマデビットの理論っていうんですけども。駅上で売っているブルーバックスの中に出てくるほど偉い人なのかっていうのを、彼を通してではなく、駅で買った本で初めて見つけましたね。彼は知恵者なんです。そういう時に、ある種の感銘を受けますね。そういうふうに、非常に知恵というのは、間主観性という考え方から言って、人に伝えにくいものだ。この間主観性っていうのだけは、使うことを勘弁してほしいんです。今日の鍵になる言葉。だけども、知恵にとっても間主観性はある仕方で成立すると思うんですね。

13.自らの戦争体験

皆さんの問題を、私が想像して話すよりも、私にとって、何が自分の知恵の出所かっていうことを話しましょう。

戦争中のある夜なんですが、戦争が始まった時、私は19歳だったんです。アメリカにいたんですが、すぐ牢屋に入っちゃって、捕まえられて、3カ月牢屋にいて、交換船で帰ってきたんです。私は、日本で小学校しか出てないので、とにかく体も何も全部英語になっていますからね、非常に困ったんですよ、日本に来て。

海軍の嘱託でいて、つまり、海軍の第一戦地区にいれば、従軍に引っ張れないだろうと思って逃げていったんですが、自分の中にある問題っていうのは、私は日本が負けると思ったから帰ってきたんです。勝つほうに居るのは、何となく申し訳ない。これは、合理的ではないですよ。つまり、自分の価値判断なんです。何となく、勝つ側に、牢屋の中にいたんだけど、それでも食うに困らないわけだから、それが嫌だったんで帰ってきたんです。人を殺したくないなと思ったんですよね。それが自分の問題だったんです。この日本の戦争の目的、いいと思ってないんだから。

海軍で、軍艦にも乗っていましたが、ラジオ聞いていたんですが、ジャワのジャカルタというところにいたんです。ある晩、夜遅く、随分遅くなってから、青い顔して隣の部屋の男が帰ってきたんですね。彼が、「今日は人を殺してきた」と言うんですよね。それは、インド洋で、オーストラリアから来る船団と日本の艦隊、それは、ぼろぼろの艦隊なんですが、遭ったんですね。捕虜にしちゃったんです。捕虜の中には第三国人がいたんです。ポルトガル領のゴアの人が何人かいたんです。これは第三国人ですから、国際法から言って敵ではないんですね。ところが、その捕虜が病気になったというんで、海軍の軍医が、「外人に回す薬はないから殺せ」と言ったんですね。それが、その隣の人間に命令が来て。自動車に乗せて、連れていった、そのポルトガル領のゴアの人間っていうのは、有色人種で、ほとんど黒人ですよ。アフリカ人もいたんです。車に乗せるというので病院に連れて行ってくれると思って、こうやって拝んで喜んでいるんだって。ある所に着いたら、もう兵隊が穴掘っているんですね。そこに入れて、生きているうちに土をかけちゃって、中に銃で何発か撃って、「ぐー、ぐー」と言って、声が聞こえて嫌だったって、帰ってきて。帰ってきたけど、眠れなくなっちゃったんですね。それで、私の部屋に来たんです。なぜ命令が私のところに来ないで、彼のところに行ったか。本当に、それは偶然なんです。

私のところに来た時に、私は、拒絶できただろうか。これ、全く国際法違反なんですよ。私は、戦争裁判っていうのは反対なんですよ。だから、占領が続いて、戦争裁判が続いてる間は、このことについては言ったことないんです。つまり、その責任者が処罰されるっていうことは、ずっと連鎖で死刑になりますからね。そのきっかけを作りたくなかったんです。私のところに来た場合に、私は拒絶できたと思いたいんですけども、分からないんです。恐怖心から、何があったか分からないです。つまり、彼はなぜ名指しされたかっていったら、彼は合いの子だったんです。イギリス人と日本人との間の合いの子だったんです。私はアメリカの教育を受けている人間なんで、私を名指すこともできたでしょう。「お前はアメリカで教育受けているんだから、どうせ日本が負けると思ってるんだろう。どうだ、やってみろ。殺せ!」というふうに言ってきたかもしれないんです。偶然、彼になったんです。

14.知識の出所

戦争とか、戦争犯罪というのは、そういうふうに偶然によく絡まっているんですね。偶然、私は、自分の知っている限り、人を殺さないで戦争を終えて今まで来たんです。これは偶然なんですよね。自分の意思はある程度働いているんですよ、逃げ回っていたんだから。実際、私は、そういう局面に行ったら自殺しようと思って、盗んだアヘン持っていたんですけど、そのアヘンの使い方が分からなかったから、あんまり自信がなかったんです。

戦争が終わってから42年たちましたね。この42年間に、私は何度もそこに戻って考えるんですが、その間に変化は1つあるんです。それは、私にとっての戦後の思想の成長。これは知識の成長じゃないですよ。自分の知恵の成長です。自分の知識が拡大したとか、向上したっていう問題じゃないんです。

今、私は、違った考えを持つようになっているんです。もし私が、自分を守りたいという恐怖心から、そのゴアの第三国人を銃で撃って殺したとしたら、その後の私は、逃げ回ったかもしれないが、つまり、戦争裁判で殺される。しかし、それでも、その後になっても、それを思い続けて、できれば、自分は人を殺したことがある。だが殺すことは良くない、ということを言い続けたいと思うんです。それが、今、私が、戦後42年間、こうやって同じ問題を考えて到達した場所なんです。これは、私は、自分の物差しで言えば、自分の知恵の進歩だと思います。今、私が立っているのは、そういうところなんです。これは、自分の問題なんですよね。でも、それが、とにかくそこにいつも戻って、私は考えてきたんです。そこにある問題があって、それは知識と無関係。科学的認識と無関係です。だから、自分の底の底にある問題なんです。すべて、それと絡めて、私にとって知恵のある、出てくる場所は、それなんです。

つまり、知恵というのが出てくる場所は、どうしても、自分対自分の局面を避けることはできない。自分が自分に対する取り組みの局面っていうのがあるんですよ。そこから知恵は持ってくるんだろうと思います。そこが知識と違うんですよね。○×で、ああ、これは教師が考えそうだから、こっちだろうとやってね。完全にランダムでやったら、半分は合うはずなんですがね、そういうのとは違うということです。

こういう知恵の出る場所には、学術語は必要ないんです。つまり、借り物の言葉が通用しない場所なんですよ。

15.借り物のことば

皆さんの中にも、大学に行かれた方が居ると思うんですが、大学1年生って、一種のヤクザが新しい言葉を覚えるようなもんで、ヤクザの口調を使うようなもので、「おい、スケどうした」とか何とか、ヤクザがやるでしょう? 「おい、坊主どうした」とか、そのような、そういうので言葉を、その時、その時で覚えるんです。

私が大学教師をしていた初期だったら、「疎外」という言葉がはやっていますよね。ソガイ。疎外という言葉を、何となく自信がないなと思っても、いっぺん使ってみると、それは何だか相手も知らないから、うまく使えるようになって、何となく使えるようになると愉快になってくるんです。その次、アノミー(Anomie)という言葉がありましたね。アノミーなんてちょっと、今だったらどうですかねえ。今だったら、ディコンストラクション(Deconstruction)とか、脱構築とか、そういうもの使ってみて、お互い、「お前、まだ脱構築分かってない」とか、そういうふうので、大学生らしい気分、ヤクザの仲間入りしたような気分で、気分が高揚してくるんですよね。

そういう言葉は、しかし、だいたい一過性なので、流行が終わりますと、50、60、私の年代になって、大学教授であれば、教授職に就いていれば同じ言葉使うかもしれないけど、そうじゃない場合は、飲み屋なんか行って、「うーん、脱構築なんて言った時代もあったなあ」とか、「ああ、疎外なんて言っていた時代もあったなあ、懐かしいなあ」なんてことになって、ただ、そういう酒の肴になるだけだと思うんですよ。それを使って自分がものを考えるということは、60、70になったらないでしょうね。それは借り物の言葉だからです。だから、自分が借りてきた言葉はすぐに手垢が付いてしまうんですよ。何となく、それを使うのは、元々恥ずかしかったんだけども、今になってみれば、これは青春の言葉であって恥ずかしいなあ、という感じになっちゃうんですね。

16.借り物ではない言葉

じゃあ、そういう手垢が付かない言葉は何かっていうと、一番型にはまった言葉が一番手垢が付かないんです。つまり、歩くとか、眠るとか、赤いとか、白いとか、こういう言葉は手垢が付きませんよ。ありがとう、これも手垢が付きません。だから、死ぬ時に、ありがとうと言って死ぬとして、この言葉には手垢が付きませんね。何百万回その生涯で使ったとしてもね。

例えば、そういう言葉で言えるようなものを、自分の内部に持っている、それを脱構築とか疎外とか、そういう言葉を使わないで捉えられるものを自分の中に持っていれば、それが知恵の出てくる場所なんですよ。だから、その知恵が出てくる場所を探り当てるっていうのは、若い時はなかなか困難ですよ。知恵は外から来るように思い込んでいるところがあって、若い時は難しいんです。

17.沖縄の新聞

私は、沖縄の新聞をこの4年間読んできたんです。なぜ読んできたかというと、その前に、日本の各地の新聞を見て、抜き書きする仕事をずっとやっていたので、丸3年間それが続いたんですね。北海道とか徳島とか、いろんな新聞があるんですね。鹿児島とか、そういうのを見ていて。全部見ていくと、結局、沖縄と沖縄以外に分けられるように、私には感じられたんです。それが3年間の私の印象なんです。3年たって、その仕事を辞めてから、沖縄の新聞だけ取っているんです。

全国紙は全部東京から出ているわけですが、東京の人は、東京が日本だと思っているんですよ。私は京都に住んでいるんですが、たまに東京で、偶然、道で古い友人に会うと、「いつ日本に帰ってきたの?」って言うんですね。それはね、憤慨に堪えないんだけど、事実であることも確かなんです。つまり、テレビとか、全部東京にベース置いていますからね。新聞もそうだし、週刊誌もそうでしょう? 日本列島全部が、どんどん東京化しているんですよ。その中にあるわけですね。ですから情報というものは、だいたい東京本位と言っていいんです。

各地の新聞は、東京の新聞以上に東京的なんです。これが恐ろしいところなんですよ。私は3年間、随分いろんなところの新聞を読んだんですが、その時の有力者が、翼賛体制として出てきて、その土地のニュースというものはそんなに多くないんですよ。東京から送ってくるものを出しているのが中心なんですね。

沖縄は違うんです。私が取っているのは琉球新報なんですが、2紙を取るだけのゆとりがないんで1つになって申し訳ないんだけども、今日は、朝から沖縄タイムスを読んできました。この2つは違うんですね。

問題を1つ出したいんです。これは、ジンブンと知識の隙間っていうことなんですが、東京から来るものは沖縄の人にとって知識本位になるでしょう。それが、やっぱり、押し寄せてきいているんですね。沖縄タイムスも、琉球新報も、東京からのニュースを取っているんでしょう、幾らか。否定することのできない東京の日本化、というか、全日本の東京化の中で、これは沖縄にも押し寄せてくるわけで、空港に降りた時に見ると、沖縄っていうのは、ハイライズ、高層ビルディングがいっぱい建っていますね。そういうふうに、もう、なっているんですね。この東京化を避けることはできないと思うんです。その中で沖縄は、自分の態度を抱いて、どのくらい、どのように生き続けられるかっていう問題なんです。それが「問題1」ですね。答えてほしいんですよ。

沖縄の新聞を読んだことからお話ししましょう。沖縄の新聞は、東京の新聞と違って、自分がここで暮らしている態度というものに裏打ちされていると思うんですね。東京の全国紙は、かなり進歩的なことを、今のところ、どれも書いていますが、この投書欄と社説の間に隙間があるんですね。それが沖縄の場合には少ないんです。特別な日だからですが、6月23日の新聞を見ますと、社説のほうでは、「米軍が強行した県民の水がめでの、湖水訓練に対する怒りの中で、私たちは今日、43回目の慰霊の日を迎えた」というのを、ずっと書いてありますね。さらに、「国側は、集団自決は軍命令だけによるものではないという立場をとり、対立が発生している」ということにわたって社説が書いてあるわけです。

と同時に、投書欄のほうには、ヒガナガさんという78歳の方が、「沖縄戦を語り継ごう」ということを書いておられて、「43年たっても未収の骨がある。沖縄戦で使用された爆弾は約20万トンで、1万トンが不発弾。そのうち発見された不発弾は900トンで、残りは土に眠ったままで、完全撤去まで50~60年はかかるという」、今の問題が書かれています。また、名城さんっていう方は、「悲惨な沖縄戦を思う」。それから、安村さんっていう方が、「さまよう英霊たち」。五十嵐さんという方が、沖縄慰霊の日に寄せて、ということを書いていますね。最後の五十嵐さんのは、「沖縄戦の果たした役割が、ますます重要性を帯びてくる。にもかかわらず、沖縄慰霊の日に関しての本土での報道は、その量においても質においても、もどかしいくらい絶対的に少ない。」と書いています。

こういう市民の投書と社説との間が地続きになっている感覚は、東京をベースにした全国紙にはない仲なんですね。だから、東京でかなり進歩的な社説を出しても、それは抽象的で浮いているっていう感じを持たせてしまう。実際に世論調査をしてみた結果は驚くんですが、「自分の人権を守ってくれるものは何か」という問いで、新聞を挙げている人は非常に少ないんです。

むしろ新聞が自分に向かって刃を向けてくるんじゃないか。今の『フライデー』とか『フォーカス』というものは、そういうことが、しばしばですけども、ほんとにひき逃げみたいな記事を書くでしょ? 人々の間で、そういうことに対する恐れのほうが強くなってきているんですね。だから、人権を守るっていうところに、○×で言いますと、新聞っていうのは、やっぱり、人権を守るっていう会社があるとして、もう市民の間にそれができてないんですよ。そういう恐ろしい状態があります。これは、市民の生きている場と新聞とが、同じ場を共有しているということ。さっきの間主観性があるんですね。そういう問題なんです。

18.白旗の少女

戦争ということですが、伝承は自分の中に生きる場があるという問題。それが出てくるんですけども、さっきの、白い、歩く、というふうな言葉は手垢が付かないと言いましたが、例えば、この新聞に比嘉富子さんの記事が出ていますね。これは、アメリカのカメラマンの撮った、白旗を掲げて壕の中から出てくる少女の話です。この話は、年寄りがいて、子供は撃たないから行きなさいと言って、ふんどしを裂いて白旗を作ってくれて、そうして子供が1人で出ていった。この中には、何の借り物の言葉も入れないで話すことができます。白い、歩く、ふんどし。それだけが要素ですね。これは、深いところに置かれる資格を持っているんですよ。

しかし、それは、いつも話していたら、やっぱり浮いてしまうでしょうね。結局、知恵の出てくる場所というものは、自分の中である表象として持っていても、何度も何度も話さないっていう、沈黙、何度も消してしまうっていう。言葉としても、記号としても消してしまうということを通して、もう1回それがむくむくと頭をもたげてくる。そういうものとして活力を持つものなんじゃないか、という感じがしますね。ですから、この話は、自分の中に伝承が生きていて、ある感情を作っていく1つの場だと思いますね。

これは、国家というものを切り開く1つの道を作っているんですね。国家制度というものは、だいたい、原爆ができて、広大な多国籍軍に大砲を作っている、こういうのに不適合なんですよ。ところが日本は、元々明治以後に天皇制政府を作ったことで、全部が一丸になって働くという習慣を作ってしまって、それが戦争で負けた時に終わるかと思ったらば、偶然、朝鮮戦争というものが起こったものですから、アメリカが日本を使いたいっていうことがあって、日本に儲けさせてくれて、復興させて、もう1回昔のように一丸になって働くという習慣ができちゃったんですね。そうすると、これは、国民、国家、現政府、この3つは違うはずのものだが、これがほとんど1つのものとして意識されるという明治以後の習慣がもういっぺん戻ってきているんですね。

だから、これでいいんだという自信を持って支配者がいるものですから、中曽根さんの、日本に少数民族はいない、アメリカはプエルトリコ人とかメキシコ人と黒人とが、知識のレベル、これ知恵のレベルじゃなくて知識のレベルを下げているから駄目なんだ、とかね。日本は単一民族だからいい、そういう発言とかね。それから、奥野大臣の話もあります。 中国に、自分は侵略戦争と思っていない。それからまた、林田法相の、奥野さんは文部大臣で、林田さんは法務大臣ですが、総理大臣、文部大臣、法務大臣と続くんですからねえ。林田さんのは、沖縄にはやかましい人がたくさんいるからという発言。やかましい人っていうのは考えようなんで、ここではっきりものを言って、よくぞ国家の暴走に、留めようとする力になってくれたと、なぜ思えないのか。これは考えようですよ。それは、国民というものと、国家というものと、現政府が同じだ、一体だっていう、こういう明治以後の伝統に切れ目がないからなんですね。

だけど、沖縄から見ると、どうしても、この切れ目が見えるでしょう? それがこの白旗の少女。これは、追われ追われて、軍の防空壕にいられなかったりして、来た人でしょう? それが年寄りの知恵でアメリカに投降するんですね。この語り継がれている話の中に、未来があるという感じがするんですね。

19.現代の「国際化という鎖国」

この間、ドナルド・キーン(Donald Keene)の、日本人の国際感覚っていう話を聞いて、とても教えられたんですけど、そのことに触れたいんです。その前に、本居宣長のことを言いたいんですよ。今日はその古事記伝からコピーして取ってきたので、これは又引きじゃないです。ちょうど私が中学1年生の頃、宣長っていうのは国語の先生に教えられてね。私は中学2年になると辞めたんですけど、嫌な記憶なんですよね。宣長は確かに、公平に見る時に、日本の生んだ最高の学者です。それは疑いないと思うんです。実証的な方法で、日本最古の本、古事記っていうのを読み解いたんですから。非常に優れた学者であって、方法も実証的と言えると思うんです。彼は、漢意(からごころ)を避けて、実証ということに徹したんですね。

だけど、その宣長が、古事記伝の序文に当たる、直毘霊(なおびのみたま)という、初めの所に、日本の国は天照大神がおられた国で万国に優れている、と。さらに、ほかの国は、天照大神の国じゃないから、定まれる主なく、蠅声なす(さばえなす)ところを得て、あらぶるによりて、みだれがましい国になった。しかも、ほかの国に比べて、日本が最初にできたって言うんですよ。世界の国について調べたこともない人間が、どうして日本の国が最初にできたと言えるんですか。実証主義なんて、全然こんなこと関係ないでしょう? とにかく、私のその中学の頃は、まだ、イタズラ者がいて、先生が「日本は国ができてから2600年」と言ったら、ぱっと手を挙げて、「先生、エチオピアは5000年なんですが、日本より古いんじゃないですか」と言ったら、先生が、ぐっと詰まって、「うーん、それは」と言って、「エチオピアのことは別として」と言うんですよね。そういう時代だったんです。だから、その時に宣長が使われたことは確かで、今、戦後42年たって、もういっぺん宣長をただ復興させるっていうのは、嫌な感じがありますね、私には。宣長が、日本に数ある学者の中の最高の学者であることは認めるんです。ただ同時に、宣長は、こういうとんでもないことを言った人なんですね。私は、子供の時の記憶、嫌な記憶というのは忘れがたいですね。宣長に対する嫌な感じとして残っているんです。

ところが、キーンの話を聞いて、ああ、と思ったのは、キーンは、それは江戸時代の半ば、鎖国の半ばから起こった1つの流れだって言うんですよ。江戸時代の中期までは、こういう思想はないというんです。神々の国だって言っても、ほかの国に神々いないとか、ほかの国よりもすごい、なんて、そういうのはないんですね。元々日本は、ほかの国の宗教を受け入れたので、仏教受容っていうのは非常に早やかったんです。仏教は日本人の作った宗教だと思って信じたのではなくて、インド人が作ったものを入れたんですね。そういう意味で、外国のものに対して、非常に心の広い、民族だった。それが2000年なんですよ。2000年間続いた。

鎖国というのは、たかだか200年なんですね。ただ、この200年だけを取ると、鎖国の伝統、鎖国の中で現れた1つの流れは、今も続いているというんです。それがキーンの説なんです。それは、日本だけが特別だという、そういう考えですね。キーンは、今、日本に住んでいて、「あなた、お刺身食べますか」と聞かれて、「食べます」と言うと、1週間に1度ずつびっくりされるんですって。もう嫌になったと言っていますね。お刺身食べられるはずないと思っている。それから、もう1つは、日本語の本を読むと、英語で読んでいると思って、「え、日本語で読んでいるんですか」と、これもびっくりされる。キーンは、源氏物語も平家物語も、原書を読めるんですから、日本人より読めるのが、それが分からないんですね。日本人以外は、日本の古典っていうのは読めないとか、日本語はできないという迷信。日本の食べ物は食べられないし、味は分からないだろうという迷信。これは、キーンによれば、鎖国の半ばから、本居宣長、それから極端に言えば平田篤胤ですね、その流れがあって、これが今も日本人の中にあるって言うんですよ。

20.沖縄から見た日本

沖縄ではどうですか。今、東京で、もういっぺん盛り上がっている感情っていうのは、中曽根総理大臣の、「日本は単一民族」だとか、そういう話がそこにあるんですね。200年の歴史を持っているわけです。だけど、沖縄の場合には、それは中心的な考え方ではないんではないですか。沖縄から見れば、鎖国の時に始まった日本中心の思想は、ちょっと違って見えるんじゃないか。その中心の思想が幾らか残っているとしても、それは平均の世論とは違うものじゃないか。だから、ここは明らかに内地よりも数歩、数百歩先に来ている局面があるということじゃないか、という気がするんですね。

だから、沖縄は日本人の国際感覚の中で、特別な場所だって言えるかもしれませんね。この特別な場所が、どの程度保たれるのか。沖縄の東京化というのは、鎖国化なんです。支配者が鎖国しようと思っているわけだから、それに対して、どれぐらい反鎖国でやっていけるかという問題をはらんでますね。つまり、これが「問題2」なんです。この鎖国以来引きずっている内地日本人の暗黙の前提は、今の沖縄には乏しいと思うがどうか。どういうふうにしたら、どのように残っていくだろうか、という問題なんですね。

とにかく、この高度成長というものは、止めることはできないし、入ってくるでしょう。それは、那覇空港から見た幾つもの高層建築を見ると、ああ、そうだなと思うんです。京都は日本の故郷なんて言いますけど、京都の目抜きの通り、河原町通と四条通、これが交差する所が京都の中心なんですが、その2つの通りは、東京の地上げ屋が入ってきて、すでに土地を買っているんです。京都人には手が出ないんです。京都人はあんまり収入がないんですよね。地元の産業が貧しいので。そうすると、東京のように、大きな高層建築を次々に作って、東京になってしまうというのが1つの流れですね。

これにどのくらい対抗できるか分からないんですが、上田篤という建築家は東京の真似をしないで行きたい、と。京都はむしろ日本の中にあるさまざまな地方都市の1つとなって、1つの道筋を作るべきだ、ということを言っているんですが、この意見がどのくらい受け入れられるか。これは、あと10年か20年、21世紀まで行ってみないと分からないでしょうね。

21.沖縄の役割

沖縄はどうだろうか。これは、伺いたいんです。沖縄が日本の高度成長の中に姿を没していく時に、その姿を没していくかたち、その流儀は、内地で朝鮮戦争以来とってきたかたちとは、いくらかは違うのではないか。どういうところに違いが現れるか。それを伺いたいんですよ。大変な問題だと思いますね。

というのは、ある仕方に違いが残れば、いつか日本全体が変わる時までに、そのてこになる。支点が残されるから、ですね。この日本の繁栄が、21世紀の終わりまで続くとは到底思えませんね。日本の国は資源がないんですから。そして、韓国、台湾、シンガポール、香港はもう、近代さにおいても、どんどん肩を並べてくるでしょう? あとは追い抜くでしょう。

第三世界と言われるところも、資源を安売りすることをどこまで続けていくか分かりませんよ。もちろん、当分は、今の南北格差というものは広がり続けるという予測ですね。20世紀の間は広がり続けるでしょう。でも、その時に日本が、今やっているように、南北の中の北のほうに閉じこもってしまってやっていく政策、北の内部の策ですね。それは、ある時には破綻するでしょう。戦前ならば、第三世界に対して軍艦を派遣し、軍隊を派遣して圧迫することができたけれども、それをやるかどうか、そこまで行くかどうかは疑わしいです。すると、どうなるのか。別の仕方で、今の鎖国は、「国際化という名の鎖国」は、こじ開けられなければならないでしょう。その時の鍵になるものは、どのように沖縄の気分の中に、沖縄の人たちの知恵の中に残されるかっていう、非常に重大な問題。日本の運命に関わる問題がそこに残っているという気がするんですよ。

22.相手の側に倒れること

その時に、内地の人が、沖縄の側に、沖縄の側から見るように、自分を倒せるかどうか、それが問題ですね。さっきの、認識の世界では、間主観性っていうのは、わりあい簡単にできるんです。だけど、知恵の世界になると、人に伝えることも難しいし、今、私が、自分の中のわずかに得た知恵について、知恵の出所について皆さんに申し上げましたが、それに響き合うものが皆さんの中にあるかどうか、私は分からない。大変難しいんです。

加藤典洋という若い文芸評論家がいて、その人が、『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』という題の本を書いたんですね。変な題でしょう? これ、カフカ(Franz Kafka)の言葉だそうですけどね。これは、私の言葉で表現すれば、間主観性の成立っていうことなんですよ。つまり、相手が、「私はこう考える、あなたはどう考えるか」と、ただ聞いていて、自分の立場を守り切るところでは、間主観性は成立しないんです。少なくとも想像力の側において、自分を相手のほうに、バーン!と倒してしまわないと駄目なんですよ。それが、君と世界の戦いでは、世界に支援せよ、自分の外の世界をまず支援してみて、自分の体を倒してしまうっていうことが大事です。そういうことなんですね。

だから、親と子で、教師が親。これは、相手の側に倒せる教師っていうのは、非常に少ないでしょうね。だって、髪をここまでにしろとか、スカートはひざ下何センチとか、そういうことにばっかりこだわっている教師が多いでしょう? それは、相手の気分に自分を倒したことがない。もし倒したことがあるとすれば、表現のスタイルは自ずと変わってくるはずですよ。

私の友人で、白鳥邦夫という人がいるんですが、その人は秋田県の高校の先生をしていたんだけれども、当番が回ってきて、学校の門の前に立って、服装検査と髪の検査をしないといけないことになったんですね。そういう時に、自分は、当然休まないで必ず早く行く、と言うんですよ。早く行って、向こうから生徒が来ると、はっきり目を見て、「おはよう!」と言うんです。ただ、それだけ。相当勇気いりますけどね。それだけ。結局、職員会議で叱責されたが、追放されるには至らなかった。そのくらいのことをやれるゆとりがあれば、教師も大したもんなんですけどね。その教師は、白鳥さんは、生徒の側にいっぺん身を倒して、そこから自分を見ようとしたからなんです。難しいですよ。

『黄色い髪』という連載小説、これは残念ながら琉球新報じゃないんですが、朝日新聞だったんですが、干刈あがたが書いた本です。干刈あがたも元々は南方出身ですよね。彼女が書いている主人公は、自分の娘が登校拒否をするようになって、娘の気持ちが分からなくなってくるんですね。それで、娘と同じように、まず自分の髪の毛を黄色く染めてみる。黄色く染めてみて歩いてみる。そこから始める話なんだけども、おもしろいですよね。

23.未来への希望

つまり、知恵の世界で、間主観性を成立させるというのは、認識が違って、多様な違う価値によって作られていますから、非常に複雑になってくるんです。感情も多様になってくる。だけど、それこそが重大な問題なんですね。だから、沖縄と本土の間に間主観性はどのようにして成立するか。この100年の対話の中で、それはどのようにして成立するか。それが日本の課題ですね。日本思想史の最も重要な課題の1つだと思うんですよ。

それは、一方では沖縄の人たちが鍵を握っているという気がしますね。完全に東京化すれば、つまり、ロスアラモスみたいになっちゃうわけですね。早く、早くっていうんで、ぽんぽんって打てるようになれば、もちろん、物凄く早く打てる人は出てくるとは思うんですよ。つまり、この前の戦争があって、海軍も陸軍も最高の参謀は沖縄から出ているんですからね。それは、近代技術を身に付けることは、やれると思うんですよ。だけど、その時に、完全に東京化するようにしてどうなるのか。そうしたならば、多様な間主観性はもう成立しなくなるでしょう。ある主観でそのまま沖縄に残り、本土の側から、沖縄のほうに身を倒してくる人が何人かいて、間主観性ができてくるということが、未来への望みですね。そういうことを私は感じるんです。

24.少し振り返り

そうだなあ。まだもうちょっと時間あるみたいだなあ。始めに戻りましょう。ちょっと一服させてください(水差しから水を飲みながら)。1つだけ難しい言葉を使った、間主観性っていうのは、これうまく言えないんですよ。「間」という字を書くんです。で、客観性と言ったらいいじゃないかと言うけども、客観性って怖いんですよね。なぜかっていうと、客観性って、さっきタルスキーの話をしたけども、客観的な社会っていうのがあって、それを自分は分かっているという立場に人は簡単に移行しやすいんです。ただ、それは、宇宙の歴史が終わって、終わったところに自分を置いて、そこから見ている立場で、無神論者と言えども神の立場に自分を置いて見ているんですね。だから、唯物論者であると自分を決め込んでも、神の立場から見たことになって、偶然に政治権力を握った、スターリンなんかの場合、少数の意見で、これが客観的である、共産主義政権が成り立った途端に、政治は科学になった、科学的な客観性とはこれだ、と指定するわけでしょう? その客観性っていうのは、実は自分が神の立場に立って指定しているんだっていうことが分からなくなっているんですね。これも恐ろしいんですよ。これを受け継いだ、ソビエトだけの話じゃなくて、日本の進歩派というものは、大なり小なりその影響を受けていますね。それが問題なんです。

そこから離れるためには、真理は方角にある。間違いによって試されている。ある方角を確かめることができる。「真理はない」などということは、われわれの言葉を使っている限り、言えない。真理のためには、間主観性の場を作っていく。これは、認識の場はいくらか作りやすいけれども、特に価値観が入ってくる知恵の場になってくると、非常に作りにくい。まず自分が自分の対する場を強くしっかり作ることによって知恵の出てくる場所はできるはずだ。これを抽象的な合い言葉にしないで、それは疎外だ、とか、アノミーだとか、そんなこと言わないで、常に、砂の上に描く絵のように、いっぺん絵を描いても消してしまう。常に1人で立っているような、そういう人間になっていく。必要なものは、必ずもう一度砂の上に描くことができるっていうことですね。それが言いたいことなんです。

25.墓参りの習慣

ちょっと話を変えますが、ここに来るバスで窓から見ていて、沖縄のお墓っていうのは、本土と違って非常に立派なものですね。お墓参りの習慣っていうものはあるだろうと思うんですよ。この間、木股知史(きまた さとし)と言う、若い人が書いた、『<イメージ>の近代日本文学誌』という本があるんですけども、今年出た本です。それを読んでいたんですが、明治時代の夏目漱石の「こころ」から、戦後の、大岡昇平の『武蔵野夫人』に至るまで、間には、徳冨蘆花の『不如帰』、それから、伊藤左千夫の『野菊の墓』、田山花袋の『田舎教師』、どれもが、お墓参りを中心にプロットができていると言うんです。筋書きが。あっと思いましたね。それが全体のまとまりを与えているんです。

私は、墓参りの習慣があんまりないんですよ。京都に住んでいて、墓は東京にあるんですが、何となく墓地にお金だけ入れて、あんまりお参りしてないんですけどね、良くないんですが。自分の中に墓参りっていうのは消えてしまったのだと思って、考えていたんですね。ところが、あるんですね。それは、私は6月15日には、必ず東京に出て、樺さんが亡くなった(国会の)南通用門に花束を持ってくことにしてるんです。それは仲間がいるんです。その時、一緒にデモを行なった「声なき声の会」という、無党派のデモをやった仲間がいるんですが、一緒に行って花を置くんです。

それから、8月15日には、昔は坊主になっていたんですよ。で、坊主になっているうちに、1人、頭はげちゃったから、15年、ちょうど戦争の長さでやめたんですけども、そのあとも必ず8月15日に会っていたんです。その中の1人亡くなったんで、そのうちに、そのかたちもやめようと思っているんですが、とにかく今年はやることにしました。それで、必ずその日は昼飯抜くことにしているんです。

だから、8月15日と6月15日は、いずれも私にとっての墓参りなんですね。坊さんになるんですよ。たくさん、そこで死んだ人がいて、と言っても、6月15日の場合は、樺美智子さんという女性1人ですけども、女子学生がデモに出てって、死ぬなんてことは、私は若い時、考えたことがないんですよね。そういうことが起こったっていうことを、私、忘れたくないからなんです。とにかく私の1年は、615と815の間で、ぐるぐる、ぐるぐる回っていたんです。忘れないですね。やっぱり、私も墓参りして回っているんだなということを、その木股さんの本を読んで考えさせられたんです。ましてや、沖縄に住んでおられる方たちは、ここに生きてきた祖先との共同性を墓参りによって確かめるということが、私なんかより、さらに強くあるんじゃないかなっていう気がしたんです。

26.理想の生き方

私が今、持っている知恵の出てくる場所というのは、さっき言ったとおり、戦争の時の、殺したくないな、だけど、殺さないっていうことは、人間の偶然によって起こったことで、私はそれで良かったとだけ思うべきではないという気持ちなんです。もう1つは、戦争中に、辻潤という人が飢え死にしたんですよ。昭和19年に。辻潤というのは、大正時代には大変によく知られた人だったんです。ダダイストというんですね。伊藤野枝の最初の旦那でもありましたし、すごく知られた人で、尺八がうまくて、知っている有名人の所に行って、門の前で尺八吹いたら必ず飯がもらえる人だったんですよ。それが、そういうふうに物乞いに歩かず、自分のアパートで飢え死にしていたんです。

これは、すごいと思うんですね。皇国万歳とか、これは神州不滅だとか、正義のための戦い、なんて文章、全然書いてないです。だけど、戦争の中で飢え死にするって、偉いことだなあと。私は今、自分が思想史の中で、誰を目の前に置くかというと、辻潤のように、ある仕方で、飢え死にしたいと思いますね。だけど、それは、今、高度成長の時代で、飽食の時代でしょう? 実際、私は、戦争中の、2倍とは行かないまでも非常に太っていますね。元々私は38キロくらいしかなかったんですから、ほとんど2倍に近いんですよね。だから、自分が今こういうふうに相当太っていて、飢え死にした辻潤を理想として生きるっていうのは、非常に滑稽なことには違いないんですが、そういう逆説を、生きているということは、必ずはらんでいるんですね。私は目の前に辻潤を置いて生きたい。それが高度成長の時代での、私の理想ですね。

27.沖縄の行き方

だから、フーコ(Michel Foucault)はもちろん偉いし、レヴィストロース(Claude Lévi-Strauss)も偉いんですが、レヴィストロース、ものすごく偉いですよ。レヴィストロースの中にある、ブリコラージュ(Bricolage)という手作りのものを作っちゃう、モデルをね。その考え方は、ジンブンという言葉に非常に近いんです。手足を使って、そこで何とか切り開くっていう。

だけど、構造主義とか、ポスト構造主義とか何とかいうふうに、合い言葉で言われてくると、これはね、脚立の上で出初め式やるような、そういう感じになって、論壇の雑誌というのは、脚立の上の出初め式に近い。しかし、辻潤は、脚立の上での出初め式から始まった人なんです。大正の初め、ロンブローゾ(Cesare Lombroso)を訳したり、いろんなことを訳した、いろんなことやった、新語を作った人なんですが、最後は、尺八吹いて、乞食坊主みたいに暮らして飢え死にしちゃったんですから、最後は本当に地べたの芸で生きて、窮死した。これは、日本の知識人としての1つの理想みたいな気がしますね。

こういうことを私は考えているんです。それが自分の知恵の出てくる場所、私なりのジンブンなんですけどね。沖縄ではどうなのか。ちょうど日米戦争が始まる直前の1940年に、柳宗悦がここ沖縄に来て、いっぺん警察に捕まっているんですよね。それは、方言を大切にしよう、東京の標準語だけに身を任せてはいけない、ということを言ったためなんです。沖縄のその時の内務省と対立したんですね。警察って内務省が管理しているところですから、捕まえたんですけども、その時に、捕まっても柳宗悦は態度を変えないで、こういうことを書いているんです。「沖縄の俗語によってたつことが、日本にとっての国際的な文学を作る根本の道だ」というんです。恩納ナベなどの作った沖縄語の歌が、そこから細い道が世界文学に向かって描かれいてる。ダンテの神曲もまたイタリアの1つの方言から起こった。これは、柳さんっていうのは白樺出身で、何かキザなことを言うというふうに取った人がいると思うんですが、今、48年後、見てみると、全然そうじゃないですね。古びてないですよ。だから、ここから今の「国際化という鎖国」を打ち破る道が開かれている。この柳さんが持った直感を、さらに強く自分の中につかむ。これは、沖縄に対して、中央の権力、財力の助けを借りて、中央政府が言っていることと同じことを言うというのではなく、沖縄の行く道じゃないかと思うんです。

28.軍による住民虐殺

再び、琉球新報から引きますと、琉球新報の5月22日に、イシミネトモタカさんという人が書いていますね。沖縄についての、いろんな屈辱的な体験を持っている。事あるごとに、本土の人は万歳と叫びたがる。これに自分は、嫌だなという感じを持っている。それから、われわれの大部分は天皇制になじめない。したがって、天皇の声、行動を描写するのに最高の敬語を用いるマスコミの風習にもなじめない。もっとさかのぼって、われわれは方言を使うと、方言札というものを首からぶら下げられた屈辱も忘れることができない。さらに戦時中に日本の軍隊が、住民を何百人となく殺害したことも忘れることができない。もし戦争の場所が鹿児島であったとしたら、軍人はそこの住民を殺害したであろうか。これは難しい問題ですよ。確かに、殺害命令が出たという証拠は、文書においては見つかってないんですね。朝鮮人を、大量に殺した時の、震災(関東大震災)の時も、文書による命令というのは出てないんですけども、しかし、あり得ることで、おそらく起こったことと思えるんです。しかし、鹿児島でも起こったのではないかと思いますね。

根拠は、司馬遼太郎という人の話ですが、司馬遼太郎は、戦争の末期には少尉で、戦車隊の隊長だったんですよ。小隊長ですね。浦和の奥のほうにいたんですね。彼は考えて、東京に米軍が上陸してきたら、そこに避難民が、ずーっと大道を上がってくるだろう。その時に、戦車隊の出動を命じられたらどうするんだろうと思って、自分の上の中隊長に聞いたって言うんです。

「そんなことは何でもない。住民を無視して戦車で、進むんだ。ひき殺しても構わない。」これは、司馬遼太郎が書いていますよ。彼の戦争体験の究極のものは、そこなんです。彼の知恵の出てくる場所なんですよ。ですから、鹿児島でも起こり得たでしょう。東京でも起こり得たでしょう。そして、沖縄では起こりました。そのことを洞察し得ない文学者は、想像力が貧困ですね。そういうふうに私には思えます。

イシミネさんの話に戻ると、鹿児島では起こり得なかったっていうところは、私は少し異論があるんですが、そういうことを列記していて。「しかし、沖縄独立論に自分は組みすることはできない。独立した後、いったいどうやっていくんだ」と。「この経済の規模から言って。これは無理じゃないか、無責任な議論だ」と。「しかし、沖縄独立論が、沖縄の自主、主体性を主張する原点であり、反中央集権や、反中央政府の気骨を養う根拠となるという意味で言われるのでなら、私も沖縄独立論者の仲間に加えていただきたい」とあるんですね。やっぱり、これ、沖縄出身の人で、こういうふうに方角を指している人がいるんだなと思って、沖縄の新聞を読んで教えられたということの1つなんです。

29.鎖国を解く鍵(まとめに代えて)

さっき申し上げたように、南北格差は20世紀終わりまで広がり続けるでしょう。北はますます豊かになっていくんです。南はますます貧しくなっていく。21世紀に入っても、この問題は残るんですね。そういうことをやって、ますます北の中に閉じこもるという鎖国の政策を日本政府が続けるとしたら、いったいどういうふうにして、これに対抗することができるか。この今の鎖国を解く鍵は、いろんなところでなければいけないんだけど、1つの鍵は沖縄にあると思いますね。

つまり、幕末の日本の鎖国状態で言えば、幕末の日本の蛮学社中とそれを助けた人たち、例えば高野長英なんていうのは、逃げ回って、いろんな所を逃げ回ったんですが、それをかくまった人たちというのは、依然として今も誇りを持って、子孫がいるんですよ。長英は、自分の出身の水沢ではかくまわれなかったんですよ。追放して、関係ないっていうことにしたんです。だから、今、高野を名乗る人たちは、長英が逃げ回ってる時には全然手を差し伸べなかったんです。しかし、逃げ回ってる時に、宇和島と東京と、名古屋、名古屋では1人これで切腹していますね、責任を取って。それから上州には、助けて、うちに置いた人たちがいるんです。

こういう蛮学社中の動きっていうものは、開国に対する準備運動を続けていたわけですね。そういうふうに蛮学社中とその協力者たちというふうな場所に沖縄はあるというふうに私には感じられるんですが、そういうお話によって、皆さんと私との間に、間主観性が成り立ったかどうか。それは分からないです。どうも、ありがとうございます。(拍手)

30.あとがき

今回の講演録は、36年間、記録媒体にカビを生えさせないようにとカメラの除湿庫に入れて保管し続けてきたもので、記録媒体はカセットテープである。テープを起こす際にまずやらなければならなかったのは、カセットデッキを探すことであった。「はじめに」でも書いたが、実際に講演を聴いた者としては、なんとしても自分の手で起こしたかったが、なかなか時間が取れず、しかも、何度も聞き返す作業を繰り返すとテープが古いので切れてしまうのではないかという危惧もあり、ついに、断腸の思いで業者へと委託した。ただし、業者へ依頼する過程でアナログテームのデータをデジタル化し送信しなければならず、結果的に永久保存版のデジタルデータが出来上がったのは嬉しい副産物であった。それから原稿の見直しに時間を要し、業者も聞き取れずに黒塗りがたくさんあって、それを1つ1つ録音データで聞き返し確認し、ようやく、ここまで辿り着けたのである。

内容は36年前の講演とは、とても思えないほど、「今の沖縄」が置かれている状況、今の日本が置かれている状況そのものである。講演内で紹介された36年前の琉球新報の社説にあった「米軍が強行した県民の水がめでの、湖水訓練に対する怒りの中で、私たちは今日、43回目の慰霊の日を迎えた」という内容と、現在、県民が反対する辺野古のキャンプシュワブ埋め立てを強行する政府の姿勢と重なり、そこには、1mmも成長を感じさせないほど全く同じ態度である。それはなぜか。よく耳にする「地元の理解を得る」という政府コメントがあるがこれは、実は、とても強硬な姿勢を表す言葉である。騙されてはいけない。つい、「理解を得る」という表現から、話し合いにより双方が歩み寄るものだと多くの人が誤解しているが、この言葉の本当の意味は、政府はただ一方的に説明するだけであり、理解するのは、ひたすら地元側である。つまり、鶴見の表現を借りると、政府は一切、沖縄の側に身を倒していないのである。一度たりとも、である。もちろん、沖縄も政府の側に一度倒れてみる必要がある。それなくしては、政府と沖縄との間に「間主観性」など存在するはずがない。

また、安倍前首相が政治生命を賭してと、こだわっていた憲法九条の改悪には軍靴の足音が聞こえてきたが、36年前にも、すでに本居宣長や平田篤胤を復活させようとする動き、「日本は単一民族」という中曽根発言、さらには、「沖縄にはうるさい人たちがいる」という現職の大臣発言なども紹介されていた。最近のテレビ番組における「日本はすごい」、日本は特別という「日本賛美」が甚だしいのも、すでに36年前から始まっていたのかもしれない。合理的にことを進める悪人に対抗する方法も示唆に富んだ鶴見の解説であった。今を生きる我々に生きる力を与える鶴見からのメッセージが36年の時を超え、このタイミングだからこそ意味がある内容なのかもしれない。

最後になったが今回の講演録は、できるだけ手を加えずに鶴見の生の声を届けることを心掛けたので、このような編集となった。さらには、本来ならば、編集者はあまり多くを語らず、今回は鶴見の講演録だけを資料として提供する目的であったが、講演内容があまりにも時宜を得た内容であったため、つい、多くをコメントしたくなってしまった。その点は、ご容赦願いたい。主観と主観の「間」に存在する間主観性がより多くの人々の間に広がり、ジンブンムッチャーが多くなれば、少しは世の中が良くなるかもしれない。今回のほぼ本邦初公開の一次資料が、そのような世の中に少しでも近づくことに貢献ができれば、この講演録を公表した意義は大きくなる。

改めて、36年前に鶴見から沖縄に贈られた置き土産に感謝すると同時に、沖縄に与えられた宿題を解き明かす新たな使命が生まれた。

 
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