2025 Volume 21 Issue 2 Pages 10-24
本論文の目的は、生命の価値づけについて、価値評価研究(valuation studies)の観点から検討することである。本論文の背景には、生命の価値が経済的な価値基準に基づいて評価されているという現実がある。生命に価格をつけるという行為は倫理的な問題を提起する一方で、政策決定やリスク管理のために不可欠な側面も持つ。そこで本論文では、複数の価値基準の混合と、だからこそ生み出される多様な実践を強調し、それらを捉える理論的枠組みの検討を試行する。
続く第二節では、命の価値づけに関する学術書を整理し、主要な論点を抽出する。フリードマン博士は『命に価格をつけられるのか』で、統計的生命価値(VSL)を用いた生命の価格付けについて論じ、その方法や限界を明らかにしている。一方、サスティーン博士は『命の価値:規制国家に人間味を』で、行動経済学的なバイアスやヒューリスティクスが生命の価格付けに与える影響を考察しており、費用便益分析の補正を提案している。最後に、ゼライザー博士は『モラルとマーケット』で、経済社会学の視点から生命保険市場の歴史を分析し、価格付けという経済的価値を成り立たせる非経済的価値を検討する重要性を説いている。これらの研究から生命の価値づけを検討する際の論点として、「生命の価格付け」と「複数の価値基準の混合と公平な評価方法」を抽出する。
第三節では、価値評価研究の理論的礎の一角を担うジョン・デューイの『評価の理論』を取り上げ、価値評価研究の分野で先に抽出した論点をどのように検討できるかを展望する。デューイの価値理論は、複数の価値基準が混合しながら実践を作り出す仕組みを明らかにする上での重要な枠組みを提供する。最後に第四節では、本論文のまとめとして、生命の価値が経済的価値を含む多様な価値基準が混合(blend)するなかで価格付けという形で行われていることを整理し、今後の研究課題に触れる。
本論文では、2023年に開催された経営哲学学会全国大会の統一論題テーマ「生命の尊厳」を、価値評価研究(valuation studies)の観点から検討する。そもそも「生命の尊厳」という壮大なテーマでの報告の話をいただいた時、筆者の研究分野(制度派組織論、institutional theory)でどのように論じることができるのかを考えてみたが、いい答えは見つからなかった。そこで、学会創立者の島袋先生が学会規則に刻まれた「生命の尊厳を最高の価値基準とし・・・」という文言に基づき、生命の価値づけに関する議論を手掛かりに検討することにした。生命の尊厳は最高の価値基準であるにも関わらず、現実を見てみると、それに価格を付けるという実践が産出されている。価格をつけるという実践自体は、政策決定やリスク管理のために不可欠な側面を持つ。しかし、そうした実践は様々な道徳・倫理的な問題を提起するだろう。それでは、この最高の価値基準である生命の尊厳と、それに価格を付ける実践が両立していくには、どのような議論を展開するべきであろうか。その手掛かりが近年、制度派組織論の議論を検討するなかで筆者が辿り着いた価値評価研究にある。制度派組織論のコア概念も価値評価研究の中で重要なトピックの一つとして検討されている。
続く第二節では、生命の価値づけの実践を理解する手掛かりとして、行動経済学と経済社会学の研究者によるそれぞれの学術書を取り上げ、論点を抽出する。第三節では、第二節で抽出した論点を価値評価研究の観点から検討するため、価値評価研究の理論的礎の一角を担うジョン・デューイ(John Dewey)による『評価の理論(Theory of Valuation)』1)を整理し、価値づけの議論に対する理論的貢献を展望する。最後に第四節では、本論文のまとめとして、生命の価値づけは経済的価値という単一の価値基準(体系)だけでなく、それを含んだ複数の価値基準(体系)が混合し実践が作り出されているという前提を踏まえた議論の重要性を述べ、複数の価値基準(体系)を検討する場合の課題にも触れる。
本節では、行動経済学の研究者であるハワード・スティーヴン・フリードマン(Dr. Howard Steven Friedman)とキャス・サスティーン(Dr. Cass R. Sunstein)のそれぞれの研究(2.1)と、経済社会学の研究者であるヴィヴィアナ・A・ロットマン・ゼライザー(Dr. Viviana A. Rotman Zelizer)の研究(2.2)を取り上げ、生命の価値づけがどのように論じられているかを整理し、論点を抽出する。この3名による研究を取り上げた理由は、前者の学術書がともに生命の価値というテーマを扱う最近の研究で、後者が古典的な研究に該当するためであり、今回の議論を始める手掛かりとして適切であると判断したからである2)。
2.1 フリードマンによる生命の価値づけの研究の概要初めに取り上げる学術書は、『命に価格をつけられるのか(Ultimate Price: The Value We Place on Life)』である。本書は、コロンビア大学准教授のハワード・スティーヴン・フリードマンによって2020年(翻訳版は2021年)に発刊された。同氏は、データサイエンティストや医療経済学者といった複数の肩書をもち、多岐にわたる分野で約100本もの学術論文を執筆している。本書で、同氏は命(life)の価値をはかる(計算する)統計的手法とそこに組み込まれる人間の尊厳(sanctity)の二律背反な関係について、様々な事象を用いて観察・説明している。ここでいう命の価値とは、統計的死亡リスクをベースに、命にどの程度の金銭を支払うかを算出する統計的生命価値(value of statistical life, 以下VSL)を指す(Friedman, 2020=2021: 25)。
このような命の経済的価値を表すVSLは、次のような3つの方法に採用されている。第一に、仮想評価法あるいは選好意識調査とよばれる方法で、支払意思の度合いを、仮想上の質問から測るものである。第二に、経済的意義とリスクに注目し、人がリスクと引き換える金銭(賃金と顕示選好)の関係を検討する方法である。フリードマンによれば、どちらの方法も誤った仮定に依拠しており、一貫性のない結論を引き出している(Friedman, 2020=2021: 36)。だが、こうした論理的な欠陥は、VSLを採用することで、大半のアメリカ人が抱く期待収入よりもはるかに高い金額が計算根拠に設定されることで不問とされる(Friedman, 2020=2021: 37)。大衆が実際に支払可能な金額よりも高い金銭的保護が、命の価値に提供されるからである(Friedman, 2020=2021: 37)。第三に、規制強化や安全対策への投資など様々な意思決定の場面に用いられる、費用便益分析(cost-benefit analysis)である(Friedman, 2020=2021: 76)。費用便益分析は、文字通り、費用と便益を比べ、便益が費用より上回るかどうかを見極める分析で、その結果は施策や規制の実施を判断する場面で用いられる。費用便益分析において、VSLは命の価値に代わる推定値として計算の中心に据えられている(Friedman, 2020=2021: 76)。統計的に算出した数値を命の価値として計算の中心にする構造は非常にわかりやすいものの、VSL自体の前提が曖昧なため、その曖昧さは費用便益分析にも矛盾を生み出す。例えば、VSLは死そのものの数値化ではなく、統計的死亡リスクに対する命の経済的価値であるにもかかわらず、費用便益分析では死亡の場合という形で死そのものが数値化されたかのように扱われる(Friedman, 2020=2021: 100)。このように、曖昧なVSLは、死に関する過大解釈や誤解を生みだしてしまう。
それでも、VSLを計算の中心に置く費用便益分析は多くの命を救う(保護する)場面で実際に用いられている。確かにVSLを用いれば命の価値として高い金銭的保護を考慮していることになり、費用便益分析を用いれば費用ばかりかかって成果がでないような規制を阻止することが可能となる(Friedman, 2020=2021: 101)。さらに、費用便益分析に入力する際の項目と仮定を明確にすることで、ある程度の透明性と説明責任が保証され、他者による分析の精査も可能となる(Friedman, 2020=2021: 102)。VSLの採用は命の価値を数値化することで生み出される利点がある一方で、過大解釈や誤解を生みだしたり、そもそもの対象がすり替わったり、命の価値を割引するなどという考え方まで登場させることとなったのである(Friedman, 2020=2021: 100)。
もちろん、フリードマン自身も命の価値がVSLだけで決定できないことは理解しており、それらの方法を「神でもない経済学者」が命の価格を計算する方法と指摘している(Friedman, 2020=2021: 28-29)。命の価値づけを考えた場合、数値化できない要素は非常に多い(リスクの捉え方の違い、道徳、株主資本上の権利、生活の質など)。こうした要素の大半は考慮されないか無視されることとなり(Friedman, 2020=2021: 76)、結果として同氏が指摘するように、偏った(間違った)仮定の上に分析を成り立たせてしまう。同氏も数値化されていない、すべての便益を精査して、それらが「絶対に無視されないようにする標準手法」が必要であると指摘するが(Friedman, 2020=2021: 102)、本書では費用便益分析の主な問題と限界を理解して、市民擁護団体や消費者監視団体、業界が透明性を担保し説明責任を果たすことの重要性を指摘するだけに留まる(Friedman, 2020=2021: 99)。
フリードマンが課題として残すように、命に価値をつける作業にはいくつもの対立する事実があって、たった一つのシンプルな理想的な解決策には至らず、「価値は複数存在すること」を受け入れる必要がある(Friedman, 2020=2021: 246)。命の価値が常に数値化(貨幣化)されている事実を受け入れつつ、複数の価値が存在しているからこそ、命の価格付けが公平な方法で行われるようにしなければならない(Friedman, 2020=2021: 247)。
2.2 サスティーンによる生命の価値づけの研究の概要次に取り上げる学術書は、『命の価値:規制国家に人間味を(Valuing Life: Humanizing the Regulatory State)』である。本書は、ハーバード大学教授のキャス・サスティーンによって2014年(翻訳版は2017年)に発刊された。同氏は法学者であるが、法学に行動経済学を結びつけた研究を数多く行っており、著名な研究として2007年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー(Richard H. Thaler)との共著『NUDGE:実践行動経済学(Nudge : The Final Edition)』がある。法学と行動経済学を結びつけた同氏は、命の価値(統計的死亡リスクをベースとした経済的価値)と、行動経済学的なバイアスによる歪みに注目する。本書で取り上げられている行動経済学的なバイアスは、各種ヒューリスクティクスによる間違った判断のことを指す。例えば、道徳的ヒューリスティックスを使った場合、ウソは良くないものの、ウソで子供の命を救えるならウソをつくかもしれない。利用可能性ヒューリスティクスを使った場合、エアバックやワクチンの義務化に対して、それがもつわずかな害の可能性ばかりに注目し、大きな効果のあるエアバックやワクチン自体を拒否する(Sunstein, 2014=2017: 212)。ヒューリスティックスが用いられた判断は、命の価値づけの際にも事実関係の間違いを起こしたり、死亡リスクの大きさを誤認させたり、費用便益分析によって正当化された方法や施策を実施しても、結果として金銭や命を失うことになりかねない危険性をもたらす(Sunstein, 2014=2017: 198-200)。
サスティーンは、こうした行動経済学的なバイアスとなるヒューリスティクスに対して、どのように対処することが正しい判断を導くためのカギとなるのかを検討する。具体的には、費用便益分析の補正があげられている。例えば、事前に情報を提供し説明を行うことで、行動経済学的なバイアスによる歪みの発生を抑えたり、歪みの幅を小さくする。そうすれば、費用便益分析が命の価値づけに用いる現時点での最適な方法であることを受け入れるだろう(Sunstein, 2014=2017: 247)というわけである。つまり、誤解を恐れず端的に言うと、間違っているのは行動経済学的なバイアスであり、費用便益分析は正しい、という結論である。
そのため、VSLを使った費用便益分析が正しい方向を示すことであり(Sunstein, 2014=2017: 159)、そのためには均一だろうが個人化だろうがVSLによる行動経済学的なバイアスは排除すべきであるという考えに至る3)。サスティーンが提示する行動経済学的なバイアスを除去する最善の対策は、まずは幅広く情報を収集し、可能な限りにおいて均一的VSLではなく、個人化したVSLを用いる(Sunstein, 2014=2017: 136-150)。そこから複数のVSLを示し、リスクと支払金額などの上限と下限を計算して、ある程度の金額の幅を提示し、その中間もしくは直面するリスク等に見合ったVSLを採用するという方法である(Sunstein, 2014=2017: 151-154)。このように、費用便益分析ではすべての価値を考慮したVSLを計算することが不可能なだけであり、定量化不能な価値でも考慮されている、というわけである。そのため、同氏の議論では、確かに尊厳や自由など定量化しにくい価値もあるが、それは費用便益分析では深刻な問題にはならないとする(Sunstein, 2014=2017: 248)。
2.3 ゼライザーによる生命の価値づけの研究の概要最後に取り上げる学術書は、ヴィアナ・A・ロットマン・ゼライザーが1979年に出版した『モラルとマーケット(Morals and Markets)』である(翻訳版は1994年)。上記に取り上げた2名の研究者による生命の価値づけの研究が、経済行動学の含意を用いた最新の議論であるのに対し、本書は生命の価値づけに関する古典的な位置づけにある。本書は、生命保険の普及について経済社会学の視点から分析されており、上記の研究が基づく行動経済学と理論的背景は異なる(その差異等に関しては、次の2.4で述べる)。生命保険史に関する既存の解釈に納得がいかなかったゼライザーは、生命保険の普及を説明するにあたり経済的変数が多変数的説明モデルにおいて必要な要素であることを受け入れつつも、経済学への偏向として経済的要素以外を二次的な説明変数としてしか見てこなかった点を指摘する(Zelizer, 1979=1994: 17)。このことからもわかるように同氏の理論的関心は、経済行動の非経済的側面にあり、「貨幣による定義の枠を超越するとみなされるものに対して、値段を付けること(Zelizer, 1979=1994: 3)」にある。そこで本書では、生命という非経済的価値と、貨幣という経済的価値が入り組んで構成される生命保険市場に焦点を当て、アメリカで生命保険が受け入れられるまでに時間を要した理由を次のように明らかにしている。
そもそも生や死は、大衆にとって神聖なもので、死や病は宿命であるという宿命論的な観念(価値体系)から理解されていた(Zelizer, 1979=1994: 56)。そうした非経済的価値によって正統化されていた生や死という部分に、貨幣によって経済的価値をつけようとする生命保険を導入しようとしても、当然、大衆は貨幣的に生命を評価することを咎める(Zelizer, 1979=1994: 3, 56)。つまり、生命(死)の貨幣化(生命保険)をなかなか受け入れられない大衆による文化的抵抗を受けるわけである。そこで大衆からの抵抗を減らすため、生命保険会社は経済的価値を強調することは止め、病や死が医療技術等の進歩により解決できるという、寿命の不確定な要素を人が制御できる非宿命論的な観念を強調することにした(Zelizer, 1979=1994: 69)。生命保険の違う見方を強調し、病や死における不確定要素を排除した結果、大衆は長寿となり、それは保険会社にとっての事業コスト削減にもつながり、「生命保険会社は長寿運動プログラムを採用した最初の組織となった」(Zelizer, 1979=1994: 71)。さらに、そもそも道徳的・倫理的規準で定義されていた「よき死」に、生命保険への加入が残される家族への金銭的補償になるということを強調することで、生命保険の契約という将来への財務的配慮が新たな条件として加わり、生命は経済的な資産として再議されることとなった(Zelizer, 1979=1994: 85-86)。このようにして生命保険会社は長い年月をかけ、大衆が信憑する宗教や道徳的観点などを味方につけることで、自らを道徳的慈善機関として確立するまでに至った(Zelizer, 1979=1994: 130-131)。貨幣が生や死という神聖さを結合することで、生命(死)の貨幣的評価は聖なる儀式とみられるようになったのである(Zelizer, 1979=1994: 191-192)。生命に価格をつけるという単一の経済的価値を強調していただけでは、辿り着けなかったポジションであろう。
このように「経済的に含みのある言葉を、多くの伝統的観念の中へ持ち込むことによって(Zelizer, 1979=1994: 85)」、生命の価格付けは正統化(legitimation)されていった(Zelizer, 1979=1994: 1)。生命の価値の再定義は生命保険業だけでなく、死を市場化する葬祭業などの同様の業種にとっても、こうした正統化によって批判をかわすことは必要となる(玉川, 2009: 247)。結果、複数の価値基準が入り込む生命保険の構造的なアンビバレンスは未解決のジレンマだけでなく、死亡表や複利計算、友愛主義など、それぞれの価値基準に基づいた正統化の行為や考え方を多様に生み出していった(Zelizer, 1979=1994: 144-147)4)。そのため、本書では、生命保険市場のような市場を、経済的市場ではなく、「多様な文化的及び社会的環境(settings)の下での消費、生産、そして交換を含む社会的関係の組み合わせ(Zelizer, 1979=1994: 序文3)」として捉えている。
ゼライザーは、生命保険の導入と普及によって、生命に価格を付けるという、それまでは神の領域と考えられてきた部分に功利主義が踏み込み、「人間存在の絶対的な評価を置き換えた(Zelizer, 1979=1994: 191)」ことを指摘している5)。生命保険会社は大衆の死や病に対する不安や不確定さを取り除き、家族に金銭的補償を行うという、大衆がもつ複数の価値基準を取り込むことで、生命に価格を付けるという生命保険への抵抗を取り除き、生命保険を浸透させていったのである。本書を通じて、ゼライザーは生命保険の歴史が非経済的要素を一貫して看過し、単一要因論で論じてきた危険性を指摘し、その修正を試みることで、生命に価格をつけるという生命保険の普及とそれがもたらした多様な変化を検証可能としたと言えるだろう。
2.4 小括:「生命の価値付け」と「複数価値の存在」本節では、上記に取り上げた3名の研究者による、生命の価値づけに関する議論を整理し、論点を抽出する。取り上げた学術書はあくまでも生命の価値づけに関する議論がどのように行われているのかを展望するためであり、これらがすべてを語っていると考えてはいない。ただ3名の議論を見てみると、生命に価格を付けるという価値づけの実践が、貨幣によって評価される経済的価値とその他の非経済的価値という複数の価値体系が混合した実践であり、そうであるがゆえに、対立を含んだ新しい実践が生み出され続け、こうした議論も継続していることが理解できる。
フリードマンやサスティーンによる経済行動学に基づいた研究は、生命に価格が付けられることを前提とし、その価格付けの方法に焦点を当てる。端的に言えば、その要点は生命の価格付けを合理的に行う公平な方法としてVSLを使った費用便益分析を推奨する点になるだろう。フリードマンは、費用便益分析を完全な答えではないとしながらも、現地点での最適解としている。サスティーンも、費用便益分析を完全に機能させるためには、合理的な判断を不可能にするバイアスの排除が重要としている。これに対し、ゼライザーの研究は、そもそも生命に価格を付けるということ自体から検討し、生命保険市場の成り立ちの分析を通じて、生命の価格付けが可能となった非経済的側面により焦点を当てている。
このように3つの研究は、同じように生命の価格付けという経済的価値に基づく行動を対象とするものの、経済行動学の研究が経済的行動の合理的な方法を前提とした判断の際に生じる非経済学的エラーの排除を議論するのに対して、経済社会学の研究は経済学的要素と非経済学的要素の相互作用の理解を深めようとする社会学的な議論を行っている。つまり、同じ価格付けという行動でも、前提となるVSLを用いた費用便益分析の捉え方は研究によって異なり、その答えは一つではない。
一方で、議論の共通点も見られる。それは「生命の価格付け」と「複数価値の存在」というキーとなる2つの論点である。最近の学術書にはどちらも、費用便益分析やVSLが取り上げられ、「(反対意見もあるが)現実では生命の価値に価格がつけられている」ことや「生命の価値づけには複数の価値が絡んでいることを受け入れ、できる限り公平な方法を考慮する」ことが指摘されていた。また、ゼライザーの研究でも、経済的価値と非経済的価値が織りなす、生命の価格付けと複数価値の存在に関する議論が行われていた。このように考えると、生命の価値に関する議論をすべてカバーできているわけではないものの、「現実では生命の価値に価格がつけられている」(生命の価格付け)点と「生命の価値づけには複数の価値が絡んでいることを受け入れ、できる限り公平な方法を考慮する」(複数価値の存在)点という、2つの論点をもとに生命の価値づけに関する議論を行うことの重要性は明らかであろう。そこで次節では、「生命の価格付け」と「複数価値の存在」という2点を検討するため、複数価値を前提とした価値づけの実践に注目する近年の議論を見ていく。
本節では、上記の研究レビューから導出した「生命の価格付け」と「複数価値の存在」という2点について、価値評価研究の観点から検討する。価値評価研究がメタ理論として依拠している、ジョン・デューイの『評価の理論』に議論の糸口を探求する(3.1)6)。『評価の理論』では、まさに生命の価格付けで用いられる費用便益分析のような科学的手続きと、それを用いて評価する生命の価値との関係を論じる際の重要点や手がかりが述べられている(3.2)。また、近年、組織研究で注目される制度派組織論のコア概念の1つである、制度ロジックス(institutional logics)も、価値評価研究において複数価値の実践を検討する際に依拠されている(3.3)。複数の価値価値の混合がもたらす科学的手続き(費用便益分析など)を用いた多様な実践(生命の価格付けなど)を検討することは、価値評価研究の重要な使命といえる。
3.1 価値評価研究の概説まず、価値評価研究について概説する。価値評価研究は、2013年にValuation Studiesという学術誌が発刊され、公にスタートを切った比較的新しい分野である。その創刊号に掲載されているHelgesson and Muniesa(2013)のタイトルにあるように、価値評価研究の目的は真価(worth)を問う(for what it`s worth)ことにある(Stark, 2009, 2011, 2017)。國部(2017)によれば、「worthは質的な概念であって、より基底的な価値を意味」し、「value/valuesとは、目に見えないworthを何らかの評価プロセスを通じて顕在化させた結果である」(100)。ここで価値の理論的迷宮に入るのではなく、評価プロセスを通じた価値づけの実践を検討することで真価を問おうというのが、この研究の特徴の一つと言える。ただ、価値の議論というのは、決して新しいものではなく、マックス・ウェーバー(Max Weber)やカール・マルクス(Carl Marx)をはじめ、古くから社会学や経済学の分野で行われてきた。経営学の分野でも、対象を計算可能にすることによって組織や社会が形成されるという価値評価の考え方はオーソドックスなアプローチである(松嶋, 2020: 3)。
では、価値づけの実践を検討する価値評価研究のどこにこれまでの議論との違いがあるのだろうか。これまでの価値の議論では、主に資本主義社会が抱える経済的価値(value)と、それ以外の社会的価値(values)が名詞的・静態的に議論され、それぞれの観点から批判的な検討が行われてきた。だが、こうした議論は価値の二分化を解消することはなく、往々にして一方通行の議論に終わっていた。この膠着状態を踏まえた上で、価値評価研究が理論基盤の一つとして参照したのが、プラグマティズムを代表する、ジョン・デューイの『評価の理論』である7)。事実と価値の二元論の克服を目指したデューイの中心的関心は、道徳的判断(moral judgement)と科学的判断(scientific judgement)の論理的手続の連続性の追求にあった(e.g., 天野, 1983; 鶴見, 1991)。
なかでも『評価の理論』では、価値づける(valuing)という、動詞としての価値が注目される。実は、経済的価値に関する「値をつける(price)」という用語も、社会的価値に関する「称賛する(praise)」「重んじる(prize)」という用語も、同じラテン語からの派生しており、もともとは「値踏みする(appraise)」「感謝する(appreciate)」はどちらを使っても変わらない言葉として使用されていた。つまり、そもそも価値づけるという動詞には、経済的価値の評価(見積もる“to estimate (on the value side)”)と社会的価値の評価(尊重する“to esteem (on the values side)”)という不可分な二重の含意が含まれていたのである(Dewey, 1939: 5, 和訳9-10)。この二重の含意を含む動詞としての価値を検討することの重要性に気づいたのが、科学技術と経済社会の相互影響(interplay)に関心を向ける学者たちであり(e.g., Stark, 2009; Lamont, 2012; Helgesson and Muniesa, 2013)、価値評価研究の始まりであった。
なぜそうした学者たちが、経済的価値と社会的価値の両方の評価を含む価値づけの実践(以下、価値評価の実践、(e)valuative practices)に関心を向けるのか。それは、近年、価値評価の実践に重大な変化が生じているからである(Kjellberg et al., 2013)。新自由主義、市場原理主義による効率性の追求、その成果を定量的に測定することが政府レベルで追求されるようになり、査定(evaluation)がもたらす不平等やメリトクラシーの問題に対する関心が高まっている(Lamont, 2012)。また、勝者が独り勝ちする社会(winner-take-all society)において、真価の複数階層や評価システムに関する理解も要求されている(Lamont, 2012: 202)。そのため、価値評価の実践では、「モノを測定(gauge)、査定(assess)、格付け(rate)し、貨幣的価値(monetary value)を与えるという現代社会の傾向」(Helgesson and Muniesa, 2013: 2)や「価値を産出(produce)、普及(diffuse)、査定(assess)、制度化する(institutionalize)」(Lamont, 2012: 203)といった、現代社会の変化に伴う価値の(再)定義や査定の場面が検討される(Kjellberg et al., 2013)。さらに、歴史的に生じてきた金融危機は、決して理論的な未発達ではなく、研究成果が実践に取り入れられることで発生したという指摘さえある(松嶋, 2020: 3)。つまり、私たちの周りに生じている目まぐるしい変化は、問題解決を目指し、積極的に様々な手法を開発し、それらを実践に取り入れることで、無自覚的にでも価値の定義や査定の再編を促していたのである。そうした実践を自覚的に検討していこうとする価値評価研究の意義は、生命の価値づけに関する実践に対しても影響があるだろう。
このように価値評価研究では、定量的に価値を測定・査定する近年の流れを遮断することではなく、そもそも二重の意味を含む価値評価の実践が批判的に問い直されていく。ただし、このときに注意したい点がある。それは、二重の意味を含む価値づけ(valuing)と価値評価(valuation)を同定しないことである。岩田(2014)は、デューイが価値づけと価値評価を区別することで、この区別された両者の連続性を捉えようとしたと指摘する(39)。価値づけが、評価される事物と他の事物との関係において情緒的な行為である一方で、価値評価は「思考と反省に裏付けられ、事物をその諸関係において観察し比較し見積もる(測定する)判断である」(岩田, 2014: 39)。つまり、価値づけという行為は生物としての衝動に根づいている「好み」から発生する(鶴見, 1991: 160)。あくまでも情緒的な「好み」に、価値を正当化する手段はない。そこで必要となるのが、正当性を保証する「値踏み」の行為であり、「好み」と「値踏み」8)が連続して繰り返し行われることで、未来の「好み」が再建され(鶴見, 1991: 160-161)、新たな価値評価の実践が導かれていくのである。
3.2 価値づけの実践における「現実的妥当性の保証」『評価の理論』を翻訳した磯野(1957)も、この理論が「価値をいかにして科学的命題として定立しえるか」という課題を解くことに焦点を当てているとする(138-139)。つまり、課題は「好み」と「値踏み」の連続における、「好み」の正当化である。そこでデューイは、科学的に保証される現実的妥当性に注目し、以下の2つの重要な観点を提示している。
第一に、状況に応じた価値評価の経験的検証である。価値の問題は、何か不都合や困難、衝突が起きたときのみに発生する(Dewey, 1939: 34, 和訳65; 磯野, 1957: 138)。問題が生じた場合、そのときの「好み」の妥当性は失われ、新たな「好み」を求める欲求(desiring)や関心(interest)が生まれる(Dewey, 1939: 37, 和訳70-71)。こうした欲求や関心は、「問題を克服しようとする行動的な現象」(Dewey, 1939: 51, 和訳99)であり、直面する状況により様々な欲求や関心が現れる。そのため、「欲求や関心が生じかつ機能する実際の条件の経験的調査」(小西, 1991: 169)を行われる。つまり、問題を克服するため、問題が生じた実際の条件(状況)を「値踏み」して、新たな「好み」が機能する条件は何かを検証する必要がある。具体的には、「さまざまな観察的・事実的データ(事実的証拠)に照らして、それらが採用された場合に起こりうる諸結果の予測、これら予想されうる諸結果の比較、さらにはそれらのうちのどれが現存する問題の解決にとってより有効であるか」を検討する(岩田, 2014: 41)。検証することで、新たな「好み」がどのような未来の結果をもたらすのか、を検討することができる。望むような結果が予測できれば、新しく生じた欲求や関心は未来の目標(end-in-view)に向かって「好み」として再建され、できなければ更なる探求が始まる(鶴見, 1991:161; 岩田, 2014: 41)。このように、未来の目標に方向づけされた「好み」は、実際の状況やそれがもたらす未来の結果から、その現実的妥当性を検証することができる(Dewey, 1939: 51, 和訳98-99)。検証できれば、同じ問題の発生を防ぐことができる未来の目標を形成することさえも可能となる(Dewey, 1939: 25, 和訳49; 小西, 1991: 172)。
この「好み」と「値踏み」の連続である価値評価の実践を経験的に検証するという観点は、それまでの究極的価値("final" value)を前提とする議論では無視されてきていた(Dewey, 1939: 56, 和訳107-108; 岩田, 2014: 42)。究極的価値は状況によって変化しないため、価値の問題は観察対象から外され、価値が問われている状況を検討するという観点は失われてきた。本論文で取り上げる生命の価値も究極的価値であるため、第2節で見たように、生命を価格付ける手法に焦点が当てられ、それ自体は観察対象から外れている。ただし同時に、現実には問題が生じ「好み」と「値踏み」の変遷が生じていた。そのため、価値評価の実践は、欲求や関心が生じかつ機能する実際の条件(状況)との関連で理解することが重要となる(小西, 1991: 174)。
第二に、科学的手法による価値評価のコントロールである。この観点は、第一の観点でも触れた、新たな「好み」を作り出すという部分と繋がりがある。第一の観点では、価値評価の実践が状況と切り離された形で検討されてきたことに対して、価値評価が状況依存的である限り、「好み」とそれが正当化される条件をともに検証する必要性を述べた。このときに注意すべきは、価値評価の実践において科学的手法が用いられていても、問われているのは価値命題であるという点にある。データに基づいた結果の予測や比較という科学的手法を用いると、問われるのは科学的命題(事実命題)(scientific propositions、または、well-grounded propositions、matter-of-fact propositions)となる。科学的命題とは「生起したり既に存在したりする事物や出来事に関するもの」であり、「生み出されるもの」に起因する価値命題(value-propositions)とは異なる(Dewey, 1939: 51, 和訳99)。価値評価研究で問う命題は、科学的手法を用いた価値命題であり、それが価値評価固有の命題(valuation-propositions)となる(Dewey, 1939: 19, 和訳38)。例えば、2020年に特集号「価値評価研究」が組まれた日本情報経営学会誌では、会計という手法がいかに公正でありうるのか(國部, 2020)が問われたり、科学的手法の改良のみでは組織不正を防ぐことはできない点が指摘される(中原, 2020)など、様々な価値評価固有の命題を問う論文が掲載されている。
この価値評価固有の命題を獲得するため、デューイは科学的命題には含まれない「手段‐目的(means-ends)」関係を注視する(Dewey, 1939: 24, 邦訳46-47)。手段‐目的関係は、目的が手段によって決定されることを示す(Dewey, 1939: 41, 邦訳78)。つまり、どのような手段を用いるかによって、その目的の価値も変わるということである。手段の適合性や機能性を考えない、目的の設定は愚かである。このことを、デューイは「焼き豚の起源についてのチャールズ・ラムのエッセイ」で例示している(Dewey, 1939: 40-41, 邦訳77-78; 小西, 1991: 172)。この物語は、豚小屋が焼け落ち、焼け跡を探しているときに、偶然に丸焼けになった豚を食べて、初めてその味を経験した人が、再びその味を楽しむために豚小屋を建てて燃やした、というものである。豚小屋を建てて燃やすという手段から考えると、焼き豚を食べるという目的の妥当性は限りなく保証されない9)。あくまでも、目的の価値は、使用される手段によって値踏みされなければならない(Dewey, 1939: 40-41, 邦訳77-78; 小西, 1991: 172)。
しかし、究極的価値を前提とする科学的手法には、データ(原因)が計算式(法則)に入力され、結果を得る因果関係だけが存在し、手段‐目的の関係は存在していない。そのため、科学的手法を用いる場合、往々にして事実命題が問われることとなり、「値踏み」の部分だけに焦点が当たる。そのため、手段‐目的の関係を注視することで、科学的手法が持ち込む事実命題ではなく、「好み」と「値踏み」の連続としての価値評価の命題に焦点を当てようというわけである。科学的手法を用いたとしても、これまでのように事実と価値が切り離された議論ではなく、問題の克服を目指した状況を反省的(批判的)に検証し、手段に応じた目的の価値を問うことが可能となる。第2節で取り上げた研究でも、問われたのは科学的命題であり、そのため費用便益分析などの科学的手法の改良などが指摘され、目的である生命の価値の部分に関しては(ゼライザーの研究を除いて)十分に触れられていなかった。
こうして価値評価の実践における手段‐目的の関係が解明できれば、望ましい結果を得られるように価値評価をコントロールすることも可能となる。未来の目標を考えに入れて「好み」を作り出すというのは、人間の価値評価行動の特長である(鶴見, 1991:160)。デューイは、価値命題に基づく価値評価と科学的命題に基づく科学的手法を結び付けることで、価値の絶対化を排除し、経験的に根拠づけられた知的なコントロールの可能性や実現を追求しようとした(小西, 1991: 180)。その根本には、価値評価が人間の行動の絶えざる現象であり、物質的関係の知識によって与えられる資源の使用による修正と発展が可能である、という考えがある(Dewey, 1939: 56-57, 邦訳109)。
3.3 小括:価値評価研究からの考察では、デューイの『評価の理論』からの含意を援用しつつ、第2節で抽出した生命の価値づけに関する2つの論点をどのように論じることができるのか。それは、価値の基盤となる真価が数量化や尺度化、貨幣化といった科学的手法を通じて測定されることで差分が顕在化し、それが新たな価値(体系)として導入され実践を動かしていく原動力となる、プラグマティックな価値評価のプロセス(valuation process)に注目するという点になるだろう。具体的には、以下の2点のように集約できよう。
第一に、生命の価値が貨幣化される「生命の価格付け」の論点である。費用便益分析といった科学的手法による、生命の価値の貨幣化は、生命保険や医療技術の発展を促す一因となったことは第2節で触れた。これは、科学的手法を用いて貨幣的価値を与えるという現代の傾向(Helgesson and Muniesa, 2013)の典型例である。この貨幣的価値の付与を否定することは意味がなく、本論文でも生命の価格付けが道徳的・倫理的に間違っていると主張したいわけではない。ただ、道徳的・倫理的に扱われてきた生命の価値が、費用便益分析などの科学的手法を用いて計算されていることを、どのように価値の議論と切り離さずに論じるのかという部分について、デューイの議論をもとに整理してきたわけである。こうした議論では、我々研究者も数値化を妄信してしまう状況に注意が必要である。これまで価値評価の実践が検討される際、哲学的なアプローチでは価値を計測する「値踏み」の側面が扱われず、経営科学や経済学のアプローチでは市場的価値のみを計測する数学的なツールの提供が積極的に行われてきた(Kjellberg et al., 2013: 15)。Kjellberg et al.(2013)は、この数学的なツールの提供が価値の計測に対する過信を生み出したことを指摘する(14)。例えば、Arjalies(2011)は、ファイナンス市場における価値のパフォーマンスが統計的のみに考慮されることで、価値評価の動的かつ手続き的な性質が見逃されてしまうため、査定方法の探索において研究者や専門家のなかでパラドックスが生じていることを指摘する(Kjellberg et al., 2013: 15)。こうした現代の特徴というべき価値評価の場面を分析するには、数値化への盲信によって因果関係のみを検討し、価値評価の場面を見落とさないようにする必要がある。そのため、3.2では手段‐目的関係を注視することの重要性を述べた。また、第2節でも見たように、生命の価値は貨幣化されることでその価値(価格)の上限や下限が計算され、差分が生まれ、そこに議論の余地が生じていた。こうして生み出されるズレや差分はどのように論じたらいいのだろうか。これが第二の論点につながる。
第二に、経済的価値や非経済的価値が混合する「複数価値の存在」とその公平な実施方法の論点である。第2節でレビューした研究で指摘されていたように、人々が目を向けて議論すべきは、貨幣的価値を否定することではなく、それによって他の価値が無視されたり、考慮されないという点である。ただし、その解決策としてあげられていた方法は、透明性や説明責任の徹底、第三者機関の設置、費用便益分析の補正などであり、多元的な価値の重要性を指摘しても、結局のところ、一元的な価値に還元されることになってしまう。Stark(2009)によれば、「状況を評価する際、われわれはある種の価値は計れるけれど、その他の種類の価値は測れない尺度を使うことで、あることは価値があると評価し、別のことの価値は評価しないというふうに基準を操っている」(邦訳2011: 67)。一元的な価値に還元しない現実を捉えるため、どのように多元的な価値の実践を検討するべきなのだろうか。その枠組みの一つとして、決着がつかない価値と価値の争いを「神々の闘争」と呼んだ、マックス・ウェーバー(Max Weber)の研究を基盤とする、制度ロジックスの議論が挙げられる。
制度ロジックスの概念は、Friedland and Alford(1991)が提唱し、次のように定義している。「個人と組織が、物質的実存を再生産および時空間を組織化する基礎となる超組織的な活動のパターンであり、同時に、その活動のカテゴリ化および意味付与の基礎となる象徴システムである」(Friedland and Alford, 1991: 232)。例えば、西欧とは、資本主義市場、官僚制国家、民主主義、 核家族、キリスト教を主要な制度ロジックスとする社会であると説明されている(Friedland and Alford, 1991: 248)。それぞれの制度ロジックスは「中心的なロジック(物質的実践と象徴的構築のセット)を持っており、それが組織原理を構成し、組織や個人が精緻化するために利用できる(has a central logic-a set of material practices and symbolic constructions-which constitutes its organizing principles and which is available to organizations and individuals to elaborate)」(Friedland and Alford, 1991: 248)。このように多元的な制度ロジックスから成り立つ社会のあり方は、「神々の闘争」に決着がつかないことを悲観しているわけではなく、多元的な価値が混合する状態が平常であり維持する重要性を強調している。ウェーバーは神々の闘争が終結し、一元的な価値(絶対的価値)にだけ依拠するようになり、人々や社会が機械的化石化していくことを危惧していた(田上, 2013等)。そのため、多元的な価値が緊張関係にあり、常に価値が対立している「神々の闘争」状態を、最適な状態と呼んだ(千葉, 1996: 65)。このような「神々の闘争」状態を、複雑でダイナミックな現象そのもの(institutional logics as complex, dynamic phenomena)(Lounsbury et al., 2021: 261)として表す概念が制度ロジックスである。國部・澤邉・松嶋(2017)では、「公平かつ平等な手続き的側面(鉄の檻)が社会に浸透するにつれて、むしろ、さまざまな矛盾する価値が顕在していくことを描いた、ウェーバーによる「神々の闘争」のメタファー」(10-11)として制度ロジックが説明されている10)。従来の規範や価値の理解を超えて、象徴的な信念がどのように実践やその他の人間関係の取り決めと絡み合っているかに焦点を当て、継続的な制度の変化や変革の重要な原動力となっていることに注目する(Lounsbury et al., 2021: 262-263)。
このように制度ロジックスは往々にして分析ツールとして捉えられがちであるが、制度ロジックスが混合(blend)した緊張関係が生み出す現象を検討するための概念であり、決してロジックスの多様性や入れ替わりを示すだけに概念化されているわけではない。Lounsbury et al.(2021)でも、理念型がヒューリスティックな使われ方をされてきたことによって、制度ロジックスがモノやコトとして扱われ、安定し与えられたものであるかのような誤解を与えるとして危惧されている(263)。実際に、そうした研究では、それぞれの理念型的なロジック(例えば、市場ロジック)が時と場所によってその内容を変えて、様々な形で具体化されてくる様相は取りこぼされている(Lounsbury et al., 2021: 263)。制度ロジックスの議論がすなわち価値評価研究というわけではないが、価値という論点を蔑ろにしてきた制度派組織論がその論点を取り戻すためにも、また価値実践を捉える視点のひとつとして、制度ロジックスと価値の研究が近年重視されつつある(e.g., Lounsbury and Wang, 2020; Friedland and Arjaliès, 2021; Friedland, 2021, 2024)。制度ロジックスに対する誤解を解きながら、メタ理論としての有用的な視点の検討・提供に関する議論は、まだ始まったばかりである(Lounsbury and Wang, 2020)。
本論文では、「生命の尊厳」というテーマのもとで、生命の価値づけに関する3冊の学術書から論点を抽出しつつ、それらの論点を価値評価研究の観点(とくにデューイの議論と制度派組織理論(制度ロジックス))から検討してきた。抽出した論点は、「生命の価格付け」と「複数価値の存在」という2点になる。まず「生命の価格付け」であるが、費用便益分析のような事実命題に基づく科学的手法に注目すると、いかに多元的な価値が生命の価格付けにつながるのかという価値命題が置き去りにされてしまう。科学的手法が用いられることで、いかに価値命題に基づく生命の価値評価が修正され展開されてきたのかを経験的に検討し、研究を蓄積していく必要がある。
次に「複数価値の存在」であるが、複数の価値の存在はこれまでも指摘されており、新しい論点でもない。重要なことは、科学的命題への価値命題の滑り込みや、価値命題同士の争いである。評価に関する研究では、往々にして評価手法の開発や策定に焦点が置かれるが、その際に思索的背景となる、科学的命題や価値命題の理論的な区別が意識されているとは言い難い。ただし、現実での混在を、そのまま理論的にも混在したまま議論を進めてしまえば、価値命題が見失われてしまう可能性が高い。もし価値命題が見失われてしまえば、たとえ状況を踏まえた経験的研究が行われ、価値の付与や測定が検討されていたとしても疑問が残る。つまり、単に経験的な調査を行えばいいというわけではなく、科学的手法への注目は「価値評価実践を通じて創造されてきた歴史的・文化的制度」(松嶋, 2020: 3)を見落としてしまうことになる。Fourcade(2011)が指摘するように、「どのように」行われた(行う)のかにだけ注目するのではなく、同時に「なぜ」行われたかを問うことで、異なるロジックに依拠する多元的な価値の影響を検討することができるだろう。
こうした価値評価実践を分析の俎上に載せる場合、課題として注意すべき事項が思案される。先述した数値化への妄信を含んだ、我々研究者の価値前提の滑り込みである。この点は、ゼライザーの研究でも経済学への傾倒として指摘されていた。ただ価値前提の滑り込み自体を含んだ価値評価の実践を検討することが価値評価研究の目指す先でもあり、プラグマティックな視点が必要となる理由とも言えるだろう。そこに科学的手法を用いることによって価値評価の修正と発展を通じて、我々の経験が変革していく可能性を探ろうとしたデューイの研究(岩田, 2014: 42)との共通点がある。経験的に認識されているステージで、いかに真価が問われ、価値が産出されているのか、そうした価値評価の実践を検討するための観点が求められている(Lamont, 2012)。価値評価の実践を解明することは、理論的な重要性だけでなく、新たに生じている価値評価の変化も捉えるという社会的な重要性もあると言えよう。
本研究はJSPS科研費18K12872、24K05075の助成を受けたものです。