2025 Volume 21 Issue 2 Pages 2-9
太平洋戦争の中でも最も激戦だった戦いの一つは沖縄戦である。この戦いで展開されたのは戦艦大和の沖縄特攻である。戦闘機による護衛のない戦艦大和は、米軍機によって一方的に攻撃され撃沈されることが予想されていたにも関わらず、作戦は実行され、4000人以上の将兵が無駄死にした。山本七平は、この作戦を非合理的な「空気」による決定だったという。しかし、本論文ではその決定にはある種の合理性があったことを明らかにし、いかにしてこの不条理を回避できるのかを説明する。
周知のように、沖縄は太平洋戦争における激戦地である。そこでは、様々な悲劇がおこった。多くの評論家は、その原因が人間の「おろかさ」つまり非合理性や非倫理性にあるとしている。
例えば、山本七平は戦艦大和の沖縄特攻は、非合理的な「空気」によって決定されたという。そして、その非合理的な決定のために、4000人以上の将兵が無駄死にしたという。
しかし、そのような解釈をしてしまうと、今後、このような悲劇を避けるには、われわれ人間は完全合理的で完全倫理的であるべきだ、という実行不可能な政策提言に導かれることになる。こうして、問題は解決されることなく、悲劇は繰り返されることになる。
これに対して、これから説明したいのは、そのような悲劇は実は人間の非合理性によって起こるのではなく、むしろ人間の合理性が生み出すということである。つまり、沖縄戦では多くの人々が無駄死にしているが、その場合でもやはりそこにはある種の合理性があったということである。
このような結論を導くために、以下の道筋で議論を進めたい。
以下、この流れで議論を展開する。
まず、山本七平(2018)が非合理的な「空気」による決定の例として取り上げた戦艦大和の沖縄特攻(防衛庁防衛研究所戦史室,1968)について説明する。
1945年4月1日、米軍が沖縄本島へ上陸開始した。これに対して、日本軍は「菊水作戦」のもとに、米軍艦船に対して航空機による特別攻撃作戦を展開した。そして、これに呼応して、連合艦隊首席参謀であった神重徳大佐が「水上特攻」の必要性を主張し始めた。
「戦艦大和の使い道」や「水上部隊による作戦の必要性」のほか、「成算があるかないかより、どうやって花道を飾るか、どうやって最後の花を咲かせるかが重要なのだ」と主張したのである。
このように、この大和特攻作戦は神参謀によって発案され、当時、横浜市日吉にあった連合艦隊司令部の長官であった豊田副武がこれを承認した。そして、このことを伝えに、神参謀は現在の霞が関にあった海軍軍令部へ向かった。海軍軍令部とは、陸軍参謀本部に対応する海軍の機関であり、ここで海軍の戦略や作戦が決定された。
神参謀が海軍軍令部で最初に会ったのは、軍令部作戦課長の富岡定俊少将であり、富岡はこの作戦はあまりにも無謀だということで反対した。しかし、神参謀はさらに軍令部次長であった小澤治三郎中将に会って、この作戦の承認を得た。そして、最後に軍令部総長であった及川古志郎大将がこの作戦を承認した。
こうして、大和沖縄特攻作戦は連合艦隊司令部から発案され、軍令部が承認し、そして作戦が実行されることになった。このことを、神参謀は、当時、特攻基地のあった鹿屋に出張中していた草鹿龍之介参謀長に電話で連絡した。草鹿参謀長は、この作戦に納得できず、激しい議論となった。もともと草鹿参謀はこの作戦に反対していたため、神参謀が草鹿参謀長の出張中を狙って起案しともいわれている。
出所:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
しかし、神参謀が「陛下から『航空部隊だけの総攻撃か』という御下問があった」と説得した。最終的に、草鹿はこの作戦を了解した。そして、草鹿は戦艦大和の司令官であった伊藤整一への説明役となった。
こうして、草鹿参謀長は鹿児島から水上飛行機に乗って、当時、山口県徳山沖に停泊していた戦艦大和へとこの作戦計画を説明しに向かった。伊藤整一長官は、海軍大学校首席卒であり、米国帰りの知性派の超エリートであった。それゆえ、すぐに大和特攻作戦に反対した。戦艦大和に航空機による護衛がなければ、米軍機にすぐに発見されて攻撃されるので、そもそも目的地である沖縄まで到着することはできない。それゆえ、戦艦大和の乗り込む多くの将兵が無駄死することになると強く反対した。戦艦大和に随行する駆逐艦の官長たちもこれに反対した。
しかし、最後に草鹿参謀長が伊藤長官に「一億玉砕の魁になってもらいたい」懇願した。これに対して、伊藤は「それならば何をかいわんや。よく了解した」と答えたという。そして、幹部を集めて「われわれは死に場所を与えられたのだ」という一言で、全員が納得したという。
この水上特攻の連絡を受けた、沖縄に配置されていた日本陸軍第32軍は、この特攻を時期尚早とみなし、中止を要望した。しかし、4月6日午後、戦艦大和は九隻の駆逐艦を引き連れ、山口県徳山から沖縄へ出撃した。
予想した通り、大和は米軍機にすぐに発見され、300機以上の米航空機に左側面を集中的に魚雷で攻撃された。こうして、戦艦大和は沖縄に到着することなく、米軍によって撃沈された。そして、4000人以上の将兵が無駄死したのである。
以上のような戦艦大和の沖縄特攻に至る意思決定プロセスを、山本七平(2018)は非合理的な空気による決定だと主張した。彼によると、論理明晰な伊藤整一長官は、最初はその空気を理解していなかった。しかし、やがて伊藤はその空気を理解したという。それが論理的でも理論的にも説明できない空気にもとづく作戦であることを理解したという。
果たしてそうだったのか。そこには、人間が陥る合理性はなかったのか。実は、この意思決定は合理的だったのである。このことを説明してみたい。
取引コスト理論は、新古典派経済学あるいはその極限である新自由主義を批判する形で、登場してきた理論である。ここでは、M.フリードマン(Friedman,1962)の新自由主義を取り上げてみたい。
フリードマンによると、人間は完全に合理的であり、利益・効用最大化する経済人だと仮定される。このような経済人の世界では、資格制度・規制など国家の介入は不要となり、個々人は自由になる。
例えば、彼によると、医師の国家資格制度は不要であり、弁護士の国家資格制度もまた不要だという。というのも、完全合理的な経済人としての国民はだれが上手な医者であり、だれが下手な医者であるかを知ることができ、まただれが優れた弁護士でだれが下手な弁護かも理解できるので、需要と供給の原理つまり市場の原理に任せれば、能力のない医師や弁護士をだれも需要しないので、結局、優れた医師や弁護士だけが残るからである。
したがって、国家が介入するいかなる資格制度も必要ないのである。必要なのは自由な市場だけなのである。
3.2 取引コスト理論と限定合理性ところが、2009年にノーベル経済学賞を受賞したオリバー・ウイリアムソン(Williamson,1975, 1985, 1996)によると、人間は限定された情報の中でしか合理的に行動できないという限定合理的な存在であり(限定合理性)、スキあらば相手の不備に付け込んで利己的利害を追求する機会主義的な存在(機会主義)であると仮定する。
このようなより現実的な限定合理的で機会主義的な人間同士の取引では、相互に騙されないように様々な駆け引きが発生し、人間関係上の無駄つまり「取引コスト」発生する。そのコストは、会計上に表れないという意味で「見えないコスト」でもある。
この見えない人間関係上の「取引コスト」の存在を考えると、世の中には不条理(合理的失敗)が発生する(菊澤, 2014, 2016a,2016b,2018, 2022)。たとえば、いまより効率的作戦と非効率的作戦といった2つの作戦があるとする。もし人間が完全合理的ならば、作戦の実行をめぐって人間関係上の取引コストはゼロになるので、当然、より効率的な作戦が選択されることになる。
ところが、実際には人間は限定合理で機会主義的なので、より効率的で理想的な作戦を遂行する場合でも多くの反対者が存在し、彼らを説得する必要があり、それゆえ多大な取引コストが発生する可能性がある。この場合、損得計算すると、効率的な作戦よりも取引コストの少ない非効率的な作戦を選択し実行する方が合理的となる。
このように、人間は取引コストを節約するように行動するということ、これがウイリアムソンの取引コスト節約原理である。そして、人間は取引コストを節約するために、合理的に非効率的な作戦を選択する可能性がある。つまり、人間は不条理に陥る可能性がある。また、取引コストを節約するために、様々な制度が形成されてきたのであり、今後も形成されると考えるのである。
3.3 大和特攻をめぐる取引コスト理論分析この取引コスト理論にもとづいて、改めて戦艦大和の沖縄特攻に至る意思決定プロセスを分析すると、当時、戦艦大和を温存しようとすると、日本海軍の上層部にとってはあまりにも大きな取引コストが発生する可能性があったことがわかる。そして、その取引コストの存在を考慮すると、以下のように大和特攻という多くの無駄死を伴う非効率的な悲劇の作戦を実行せざるをえなかった可能性がある。
例えば、当時、日本海軍が戦艦大和特攻を反対し続けることは、海軍の上層部にとっては、人間関係上、非常に辛かった。というにも、大和特攻を反対し温存し続ければ、「卑怯者」として熱情型の軍人から揶揄される可能性が高かった。卑怯者という言葉は、軍人にとっては非常に辛い言葉であった。そして、それに反論する交渉取引コストは、あまりにも高かった。論理的に説明し反論しても、結局、言い逃れといわれてしまうだろう。
また、当時、天皇を説得する取引コストも高かった。及川軍令部総長が、3月30日に沖縄方面に航空機による特攻を行うことを奏上したとき、陛下から「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」と質問された。これに対して、及川総長は言葉がでなかったのである。それゆえ、天皇に戦艦大和の温存についての説明・交渉・取引コストは、海軍にとっては非常に高かった。
さらに、当時、若く未熟なパイロットを中心に構成された海軍航空部隊が神風特攻隊として敵に体当たり、同様に陸軍もまた航空機による特攻作戦を展開していた。こうした状況で、海軍の象徴である戦艦大和を温存し続けることは、海軍にとって辛かった。陸軍から水上部隊無能と評価され、それが定着すると、それを取り除くための事後的な交渉取引コストはあまりにも高かったのである。
さらに、「大和」を温存し、終戦を迎えれば、「大和」は米軍に接収され、戦利品として見世物にされる可能性があった。これは、日本海軍にとって最大の屈辱であり、しかもそれを阻止する交渉取引コストはあまりにも高かったのである。
このように、「戦艦大和」を温存し続けることは、海軍上層部にとって膨大な取引コストを事前・事後に発生させる可能性があった。それゆえ、大和の特攻自体が無意味で多くの将兵の無駄死させる「統帥の外道」といわれても、大和沖縄特攻を遂行する方が当時の海軍上層部にとって損得計算上、合理的だったのである。つまり、海軍は合理的に失敗したのである。
以上のような不条理を回避するためには、事前に組織内で取引コストを節約するような諸制度の構築が必要となるだろう。しかし、このような制度政策だけでは、不条理は回避できない。というのも、そのような制度政策の展開と実行それ自体にコストがかかるからである。人間はこのようなコストの大きさも認識するので、このコストがあまりにも高い場合、結局、何もしない方が合理的という2次的な不条理に陥ることになる。
結局、このような与えられた状況を損得に還元して計算し、プラスならば選択して実行し、マイナスなら中止して撤退するという経済合理的な意思決定原理に従う行動には限界があるということである。
そのような損得計算原理に従う行動は状況決定論なのである。つまり、状況が人間の行動を決定するという因果論的な行動なのである。多くの人間は、このような損得計算原理に従って行動しているが、このような行動原理に従って合理的に行動するかぎり、不条理は回避できないといえる。
経営者やリーダーが損得計算原理(損か得か)という経済合理的で因果論的な行動原理つまりカントのいう理論理性(カント,1961a,1961b,1962)に従って組織をマネジメントすると、一見、すべてがうまくいくように思える。しかし、経済合理的なマネジメントだけでは、リーダーは様々な取引コストを認識し、いつかどこかで不条理に陥る可能性がある。まさに、「失敗の本質」は、経済合理的で理論理性的な損得計算原理にあるといえる。
4.2 実践理性にもとづく価値判断原理では、どうすべきか。経営者やリーダーは、損得計算原理に従う単なる理論理性的な人間以上の存在であるべきである。つまり、カントのいう道徳的に正しいかどうかを価値判断する実践理性(カント, 1979)を行使する人物であるべきなのである。すなわち、もし正しいと価値判断するならば実践し、正しくないと価値判断するならば実践しないという価値判断原理にも従う必要があるということである。
確かに、正しいかどうかといった価値判断は主観的なので、その経験的妥当性は問えないだろう。それゆえ、エリートは価値判断を避けようとする。しかし、経験的妥当性は示せないからこそ、価値判断にもとづく主観的で自由な行動に対して、その「責任」をとればいいのである。
つまり、主観的な価値判断にもとづく行為に対して、経験妥当性ではなく、「責任」をとるという「道徳的勇気」がリーダーや経営者には必要なのである(菊澤,2022)。このような人間の行動に、モノや動物にはない人間としての「魅力」や「気品」が生まれるのである。
4.3 損得計算原理と価値判断原理の階層性しかし、大抵、損得計算と価値判断の結果は一致する。つまり、儲かることは正しいのであり、儲からないことは正しくないのである。この場合、徹底して経済合理的なマネジメントを行えばいい。したがって、この場合、組織は命令と服従の原理に従って機能する機械的な組織となるだろう。
しかし、損得計算と価値判断の結果が一致しない場合、それゆえたとえ儲るとしても正しくないと価値判断されることは中止すべきであり、また儲からないが正しいと価値判断されることは実行すべきである。つまり、常に価値判断の方を優先し、重視すべきである。
つまり、経営者やリーダーは、まず徹底的に損か得かを損得計算し、その上でその結果に従うことが倫理的に正しいかどうかを常に裁判官のように問う、それゆえ重層的に価値判断できるより高次の人間であるべきである。したがって、カントの理論理性を実践理性によってコントロールできる人間であるべきなのである。
こうした経営者やリーダーによる価値判断を通して、リーダーや経営者は組織メンバーに対しても価値判断を迫ることになる。果たして、この経営者やリーダーの主観的価値判断は正しいのかどうか。部下もまた価値判断をすることになる。そして、もし部下がそれは正しくないと価値判断すれば、その部下はその組織を去るだろう。もし部下がそれを正しいと価値判断すれば、その部下は組織に残るだろう。
こうして、組織内のメンバーも価値判断することになり、組織全体に価値が注入され、組織文化が形成され、損得計算以上の原理つまり共通価値のもとに組織は編成されることになる。これによって、メンバーの“無駄死”を回避できるような有機体的な組織が形成されることになる。
松下幸之助によると、あるビジネスをめぐって損得計算し、たとえそれが儲からないとしても、そのビジネスがお客さんのためになる、これは正しいと思うと、勇気がわいてきたという。まさに、従業員を無駄死させることなく、道徳的勇気でさまざまな不条理を回避してきたリーダーの言葉であると思う。
戦後、生き残った旧日本海軍の青年将校たちは、かつての上官たちを「ずるい人たち」と批判している(NHKスベシャル班, 2014)。戦後、旧軍に関連する会合があっても、彼らは当時の上官を上座ではなく末席にすわるべきだと主張した。特攻に行く若い人たちに「自分たちも後で続く」といって見送っていたが、結局、上官はだれもいかなかったという。戦艦大和特攻をめぐって、日本海軍の上層部には損か得かだけではなく、正しいかどうかを価値判断し、その責任をとってほしかった。そうすれば、いくばくかの悲劇も減らすことができたのではないだろうか。