2026 Volume 22 Issue 2 Pages 2-18
本稿は、日本企業における「協働」の変容と、それに伴う企業倫理の課題を、ドイツの「オルドヌンク倫理学(Ordnungsethik)」の視点から理論的に検討するものである。従来の日本的経営は、終身雇用や年功序列を基盤とした画一的・固定的な協働を特徴としていたが、近年では雇用形態の多様化、グローバル化、Z世代の台頭、テクノロジーの進展などにより、協働のあり方が流動的かつ複雑なものへと変化している。このような中で、企業不正や企業不祥事のあり方も変化する可能性がある。実際、近年の企業不正の学術的な議論においては、従来のように不正を合理的・意図的に考えるだけでなく、無意識的・構造的な企業不正に関する議論も増加している。以上を踏まえ、本稿では、企業倫理の理論的枠組みとして、ホーマンらによって展開されたオルドヌンク倫理学を取り上げる。オルドヌンク倫理学は、個人の倫理意識ではなく、制度やルールなどの「秩序」によって倫理的行動を促すことを重視し、「ジレンマ構造」に基づく意図せざる帰結としての不正を防止することを目指す理論である。ただし、オルドヌンク倫理学は組織の動態性やプロセス性を十分に考慮しておらず、企業不正の多様性を捉えるには限界があるため、本稿ではオルドヌンク倫理学に加えて、バーナード、ニックリッシュ、ルーマンらの組織論を参照し、協働を動態的・プロセス的に捉える視点を導入する。これにより、オルドヌンク倫理学の制度志向と組織論的アプローチを接合し、新しい協働のもとで発生する企業不正に対する理論的対応を試みる。最終的に、経営者が組織の複雑性を理解し、倫理的な「観察」と「区別」を通じて、企業内外の規範を調整することが、新しい協働時代における企業倫理の鍵であると結論づける。
近年、企業経営における「協働」をめぐって大きな変化が生じている。とりわけ日本では従来、戦後復興と高度経済成長の過程で構築されたいわゆる「日本的経営」において、終身雇用や年功序列などの(暗黙的)制度により、企業経営における「協働」は、その多くが単一の「組織」の明確な境界の中で、きわめて画一的・固定的なものとして捉えられていた。
このような日本的経営における「協働」のあり方は一定の成果を収めたと言えるが、しかしながらバブル崩壊以降、そのような画一的・固定的な「協働」のあり方は大きく変化している。
日本的経営の諸特徴が完全に消滅したわけではないが(佐藤 2024)、例えば近年では徐々に終身雇用の側面が薄れ、転職が一般化して労働市場が活発化してきている。また女性従業員も中核を占めるようになり、女性管理職の増加を図る企業が増えている。また人手不足などの要因により外国人材も増加しており、英語を社内公用語とするなど、グローバルな経営手法を導入する企業もある。さらに企業をとりまく環境について見ても、海外機関投資家からの効率的な経営への圧力の増大や、SDGsやESDを背景とした企業の社会性をめぐる考え方の変化などもあり、「協働」のあり方はこれまでの日本的経営の下でのものとは異なるものとなるだろう。
このような新しい「協働」のあり方をふまえて、企業経営は今後どうなっていくのか。これについて本稿では、企業や組織の不正を扱う企業倫理をフィールドとして、特にドイツの「経済と企業の倫理学(Wirtschafts- und Unternehmensethik)」における代表的アプローチである「オルドヌンク倫理学(Ordnungsethik)」の理論的観点から、近年の新しい「協働」のあり方と企業倫理の関係について検討を行いたい。「オルドヌンク倫理学」は、ホーマン(K. Homann)を嚆矢として、経済学的な発想をベースとして経済や企業の倫理学を展開しているが、彼らの議論は個人の合理的選択をベースに倫理を考えるものであり、日本においてほとんど議論されていないアプローチである。それだけに「新しい協働」を考える上で従来とは異なる視点を提供できると考えられる。
具体的には、2節で企業経営における「協働」について、従来の「日本的経営」における協働と近年の日本企業における新しい協働のあり方を簡潔に見ていく。続く3節では、経営学や企業倫理の分野で議論されている企業不正や企業不祥事の議論を概観し、企業不正の発生を説明する上で、意図的な不正とともに、必ずしも意図的な不正ではないケースもあり、さらに倫理を合理的な観点からではなく、プロセス的に検討するアプローチもあることを見ていく。これらに基づき4節でオルドヌンク倫理学の主張を検討し、彼らの見方が必ずしも多様な企業不正のあり方を捉えられていないことを指摘した上で、それらを補強するアプローチとしてバーナード(C. I. Barnard)、ニックリッシュ(H. Nicklisch)、ルーマン(N. Luhmann)の議論を簡単に検討する。5節では、4節での検討を踏まえたオルドヌンク倫理学の観点から、これまでの日本企業とこれからの日本企業における「協働」を踏まえた企業不正の特質とその解決について検討を行う。最後にまとめる。
「協働」とは「同じ目的のために、対等の立場で協力して共に働くこと」(大辞泉)を意味する。「力を合わせて事にあたること」(同上)を意味する「協力」に比べて、より広い射程を持つ概念であると考える。「協働」は、近代組織論の祖であるバーナードをはじめとして、これまで経営学においても理論的な検討が重ねられてきた概念である。
そもそも人間は自由意志を持ち、様々な行動可能性を持つ存在であるが、他方でそのことによる不確実性を抑制し、他の人間と一緒に何かを成し遂げようとする。バーナードは人間を物的、生物的、社会的要因から考察し、それらは人間にとって制約となりつつも、逆に人間の多様性が協働を実現させることを論じている。
バーナードにおいては「協働システム(corporative system)」は、「少なくとも一つの明確な目的のために二人以上の人々が協働することによって、特殊の体系的関係にある物的、生物的、個人的、社会的構成要素の複合体」(Barnard 1938, p.65.邦訳67ページ)であるが、これら協働システムの中で、「意識的に調整された人間の活動や諸力のシステム」(p.72, 邦訳75ページ)が「公式組織」であるとされる。よって、「公式組織」は「協働」システムの一形態であると言える。あらゆる協働システムの中で、個々の企業は「公式組織」として「意識的に調整され」て運営されている。公式組織としての企業は、他の企業やその他ステイクホルダーと「協働」行為を行う。それらは、共通目的、貢献意欲、コミュニケーションという公式組織の3要素を満たすものもあれば、そうでない場合もあるだろう。
「協働」を考える場合には、企業やその他の様々な「公式組織」や、公式組織でないステイクホルダーとの関係を考える必要があるだろう。本稿では「協働」を、さしあたり個別組織内に限定されない、様々な(経済)主体間の共同作業行為と見なす。その際には、行為のつながり(ネットワーク)や、組織内外のつながりを考慮する視点が必要になると思われる。本稿では特に日本企業をめぐる「協働」のあり方について考えるが、先に述べたとおり、そのあり方は大きく変化しているように思われる。
従来の日本企業における「協働」について考える場合は、やはり「日本的経営」あるいは「日本型企業システム」といった、第二次大戦後日本において形成された独特な企業システムを考える必要があるだろう(例えばAbegglen 1958; 間 1971; 津田 1977; Ouchi 1981; 伊丹 1987; 岩田 1993)。
当然、「日本的経営」が単純明快な定義によってすべて表現できるわけではないし、これまでの日本企業がすべて「日本的経営」の名の下に議論できるわけでもないが、例えば佐藤(2024)によれば、日本的経営とは「日本の文化的特殊性からくる日本特殊的な経営のことであり、具体的には終身雇用、年功序列、企業内労働組合の3つをその構成要素としてあげることができ」るとしている。「日本的経営」についてはこれまで様々に議論されてきたが、初期には日本が他の先進諸国と比べて遅れているという議論があった。しかしそこから、日本の特殊性を強調する議論や、さらには普遍的な議論へと昇華させる動きも出てきた(佐藤 2024)。
日本的経営をめぐる議論として有名な三戸 (1991)は、日本的経営を「家の論理」として論じ、日本人の「家の存続と繁栄」という意識に基づく行動規範が、企業の経営者や従業員の意識や行動にも影響を与えているとしている。さらに勝部 (2023)は、三戸の議論に基づきながら、「家」が生活集団=経済集団であり、家計と経営が合体した共同体(187ページ)であるとしてその特殊性を議論している。「家」としての日本的経営の下では、欧米のような契約に基づく関係ではなく、「運命共同体」(188ページ)のようなウェットな関係が築かれることになる。それだけに、「協働」の観点から見ても、きわめて画一的な側面が強調されることになるのである。
とりわけ、自動車産業や電機産業のような日本を代表する企業群は、「ケイレツ」に見られるような、欧米とは異なる独特な経営システムを構築し、その中ではコアな従業員(新卒一括採用によって採用された男性従業員)が年功序列制度の下、定年まで勤め上げ、彼らのうちの出世の頂点が経営陣(取締役など)になるという形で、協働を体現する企業組織はきわめて同質的なメンバーによって構成されていたと言える。また企業間関係としても、代表的な日本企業は、メインバンクやケイレツに代表されるような、同質的でコアなステイクホルダーと強固な企業間関係を形成していた(谷本 2020)。
その反面、コアなステイクホルダー以外のステイクホルダーとの関係は希薄であったと言える。例えば女性従業員は中枢を占めることを期待されていなかったと言えるし、外国人従業員も現在に比べるとはるかに少なかった。さらに企業の外を見ても、コアなステイクホルダー(メインバンク、下請け企業など)との結びつきが強い分、それ以外のステイクホルダーへの意識は希薄であったと言える。すなわち、これらの「日本的経営」における「協働」は、同質的なメンバーによる画一性の強いものだったと言える。さらに日本社会全体としてみても、高度経済成長期は経済成長に向けて国民が一丸となっていた時期であり、現在に比べると社会の画一性は強かったと言えよう。
きわめて粗い特徴づけではあるが、以上のようなこれまでの日本企業の「協働」のあり方から見ると、近年の日本企業をとりまく変化は著しいものがあると言える。
例えば「終身雇用」形態は、それがすべてなくなったというわけではないにせよ、若い世代だけでなく中堅世代においても転職ヘの意識が一般化しつつあり、「終身雇用」ヘの意識は以前に比べかなり減っていると言える。年功序列賃金についても、近年の人手不足の状況において新卒社員の初任給が上昇する一方、中堅社員の給料は必ずしも全員が一律に上昇しているわけではないという状況もあり、年齢とともに給料が上がっていくという年功序列賃金のあり方は変化しつつある。
さらにその過程で、「ジョブ型雇用」についての意識も高まっている。これまで日本的経営の下では、「メンバーシップ型雇用」、すなわち「職務内容を限定せずに人材を採用し配置するやり方」(勝部 2023, 213ページ)が一般的であった。これはいうまでもなく、終身雇用の下で成立する人事制度であり、組織としての総合力を重視していた日本的経営の下では効率的な雇用制度であったが、近年ではメンバーシップ型雇用は徐々に主流でなくなってきている。「ジョブ型雇用」は「最初に仕事の内容を職務記述書で明示し、それに適した人材を雇用し配置するやり方」(勝部 2023, 213ページ)であり、「欧米で見られる契約型」(同)の雇用形態である。ジョブ型雇用の下では職務に関連付けられた採用形態が取られるため、必然的に終身雇用と年功序列のシステムは変化するようになるだろう。
この流れの中で、「働き方」についても変化が見られる。かつては所属企業への全身全霊の献身を求められるような働き方も見られたが、近年では例えば「エンゲージメント」という言葉が注目されているように、従業員の働きがいややりがいやウェルビーイングを重視する雇用政策がとられている。例えば味の素は、エンゲージメント調査により、役員報酬と社員の働きがいを連動させる取り組みを行っているし、またメルカリは、仕事の成果だけでなく目標の達成に向けてどう行動したかの「プロセス」も評価し、賃金に反映させることで、男女の賃金格差の是正や賃金における「アンコンシャスバイアス」(無意識の偏見)の解消を図ろうとしている。さらにパナソニックは、「育て方改革」交流イベントを開催することで、従来の従業員教育からの脱却を図ろうとしている(以上はいずれも日本経済新聞2024年5月7日付)。
また、このようなワークエンゲージメントを実現する企業に称される「プラチナ企業」なる分類が生まれている。これは、「働きやすさ」と「働きがい」という2つの観点で企業を分類するものであり、両方とも低い「ブラック企業」、働きやすさは高いが働きがいは低い「ホワイト企業」、働きやすさは低いが働きがいが高い「モーレツ企業」に対し、「プラチナ企業」は両方とも高い企業を指し、そこでは「1.老若男女が生き生きと働ける、2.会社と社員の目指す方向が一致している、3.働く場所や時間を問わない柔軟な労働環境が整備されている」(日本経済新聞2024年5月7日付)とされている。
さらに、企業の構成員である従業員も、これまでのように新卒一括採用で雇用された日本人男性が中心という状況から、女性やシニアはもちろんのこと、中途採用や外国人材、さらには「アルムナイ」(退職者)の採用も進み、例えば在籍者と退職者で新規事業を立ち上げるといった動きもある。加えて副業も活発化しており、他企業の従業員が副業として自社の事業に関与するケースも増えるだろう。そこにフリーランスのような立場の働き手が加われば、これまでに比してかなり流動的な協働のあり方が作られるだろう。
以上のことから見れば、これまでの日本企業を特徴づけてきた「日本的経営」のあり方は変化していると言える。当然ながら、佐藤(2023)や勝部(2023)が述べるとおり、日本的経営はすべて消滅したわけではなく、システムとして残存している部分も数多くある。とはいえ、変化の途上にあることは否定できない。
他方、新しい「協働」を考える上では、単に「日本的経営」のような経営システムのみを考えるだけで不十分であろう。その観点は多岐にわたるが、例えば近年のテクノロジーの発展は協働にも大きな影響を与えているだろう。インターネットやスマートフォンなどの普及により、われわれが情報を獲得する手段も大きく変化した。特に近年のSNSの浸透はわれわれの行動様式に大きく作用しており、政治的な影響力を持つほどにもなっているが、企業における協働のあり方も変容させていくであろう。
とりわけ、1990年代半ばから2010年代序盤に生まれた、いわゆる「Z世代」と呼ばれる若い世代は、SNSを自在に駆使し、それまでの世代とは異なる行動原理を持っている(原田 2020; 舟津 2024)。「新しい協働」に関して注目したいのは、SNSによってこれまでよりはるかに簡単に他者とつながることができるようになったがゆえに、とりわけZ世代はより他者やヨコのつながりを意識するようになっていること、そしてそのことで、彼らの間にある「規範」あるいは「同調圧力」に敏感な行動をとるようになっているということである(原田 2020)。
また、テクノロジーの発達により、われわれにはこれまでに比べはるかに多様な選択肢が与えられるようになり、まさに「多様性」を実現できる状況にあると言える。しかしながら、選択肢があまりにも多いと、限定合理的な人間は逆に選択できなくなるという「選択肢過多」の問題が知られている(Iyengar 2010)。
このような状況において注目されている現象が、例えば「エコチェーンバー」と呼ばれるものである。これは、「ソーシャルメディアを利用する際、自分と似た興味関心をもつユーザーをフォローする結果、意見をSNSで発信すると自分と似た意見が返ってくるという状況を、閉じた小部屋で音が反響する物理現象にたとえたもの」(総務省HP「インターネット上での情報流通の特徴と言われているもの」)である。また、YouTubeやAmazon Prime Video、Netflixなどの動画サイトにおける「アルゴリズム」も同様である。これらにおいては無数の動画が配信されているが、サイトのトップページには視聴者の視聴履歴に基づいて、視聴者の好みに合う動画がおすすめとして表示され、その結果、同種の動画を多く見ることになる。
つまり、新しいテクノロジーはわれわれの選択可能性を格段に広げたが、選択可能性が広がったからこそ、われわれの選択能力の限界が露呈することとなり、結果としてそれを和らげるために、むしろ人間が自発的に選択肢を狭めるような状態になる、ということである。このようなあり方は政治状況にも影響を与えており、「分断」をもたらしている一つの要因でもあるとも考えられる。
AI技術も急速に発展し、われわれの生活にも大きな影響を及ぼし始めている。かつてのGoogle検索のようなシステムはAIによって置き換えられようとしているし、企業の現場においても、文書作成など様々な作業がAIに置き換えられつつある。AIの浸透により、人間の自律性や創造性といった人間固有の能力に焦点が当たる一方で、AIによって置き換えられる作業を担っていた従業員が企業からいなくなるという事態にもつながるのであり、企業組織のあり方にも変化が見られるようになるだろう。すなわち、創造性に関わる作業についてコアな組織メンバーが仕事を行うという点で組織の凝集性は高まるかもしれないが、他方でこれまでの日本的経営のような「ウチ」と「ソト」といった明確な区別があるわけではなく、「ダイバーシティ」の観点から様々なステイクホルダーが関わるようになるだろう。例えば太田(2025)は、それまでの日本企業の組織が「共同体型」であったのに対し、デジタル化が進んだ現代においては、個人が仕事をするための「場」を与えることができる「インフラ型組織」が望ましいとしている。また佐藤(2024)は、日本企業においては組織内の権力格差が垂直志向から水平志向に移行しており、従来の日本企業は比較的強固な上下関係に基づいて権力関係が明確であったのに対し、近年では組織内での権力志向のレベルが低下し、職位にかかわらず水平的なコミュニケーションが志向されるようになっているとしている。
日本においてもこれまでの終身雇用や年功序列が崩れてくると、組織における「個」の側面が強くなると言えるものの、上述のSNSにおけるコミュニケーションのあり方の変化を考えると、「個」の側面ではなく、逆にむしろ「規範の同質化」がより志向されるようになる可能性もあるだろう。しかし、当然ながらそのような「規範」あるいは「同調意識」は常に望ましいものであるわけではない。上述のように「分断」をもたらし、結果的に社会の混乱をもたらすような、偏った「規範」や過度な「同調意識」であれば、それは場合によっては不正につながる可能性もあるだろう。
以上のような「協働」をめぐる近年の状況を踏まえて、次節では企業倫理の議論、とりわけ企業不正(組織不正)に関する議論を概観する。
企業倫理に関する研究は、主に規範理論、実践、制度などの点から検討がなされてきた(梅津2002; 間嶋 2023)。応用倫理学たる企業倫理は、倫理学の一分野であるとともに経営学の一分野でもあるため、両分野の研究者が多様な研究を行う境界領域であると言えるが、どちらかといえば規範理論には倫理学者が、実践や制度には経営学者が従事してきたと言える。
企業倫理研究において重要な研究対象となっているのが企業不正(組織不正、企業不祥事)である。ここで企業不正の発生に関する理論を検討していくと、古典的な理論の一つがエージェンシー理論である(cf. Jensen / Meckling 1976; Fama / Jensen 1983)。エージェンシー理論はあらゆる経済取引をプリンシパル(依頼人)とエージェント(代理人)の観点から考察する理論であるが、プリンシパルとエージェントの間で利害が一致せず、情報の非対称性が存在する場合、エージェントがプリンシパルの利害にならないような行動を引き起こす可能性があり、それが場合によっては不正となる可能性がある。エージェンシー理論は経済学特有の強い合理性の立場をとり、個人が自己の利益を追求するために不正を行うという説明方法となる。それを防ぐために、例えば社外取締役のような監視システムや株主利害に一致するような報酬システムの導入が考えられる。
エージェンシー理論より広い観点で不正を考察している古典理論が不正のトライアングル理論である(Cressy 1953; Albrecht 1991; Albrecht 2014)。この理論は、不正行為を起こす動機、不正行為が起こりうる機会、不正行為の正当化という3つの観点から不正行為の発生を考えるものである。エージェンシー理論のように経済合理性に限定することなく、より広い観点から不正行為を捉えている点でエージェンシー理論よりも応用可能性が高いと言えるが、あくまで不正を個人の利益の観点から考える(小室 2022)という点ではエージェンシー理論と共通している。
しかしながら、企業不正には個人の利益を目指した意図的な行為によるものもあれば、意図はないが不正を犯すという場合もあるだろう。例えば近年の行動経済学などの議論に影響を受けた「行動倫理学」(Bazerman / Tenbrunsel 2011)は、個人の倫理性には限界があるという「限定倫理性(bounded ethicality)」を提唱している。これは明らかにサイモン(H. A. Simon)の「限定合理性(bounded rationality)」にアイデアを得たものと推測されるが、これまでの倫理学が、いわば「完全合理性」のように、人間が倫理的状態を完全に認識できると想定し、そのような倫理的状態を提示し、実施させるという暗黙の前提があったとし、「限定合理性」と同様、人間の倫理性には限界があると主張する。
「行動倫理学」は人間の倫理的意図の限定性を示したものだが、不正の原因を人間の意図におかない研究もある。例えばPalmer / Maher (2006)は個人の意図のみでなくプロセスの観点からも不正の発生を考えている。彼らによれば、組織内で罪を犯す個人は、犯罪行為を明確に認識して、明確な意識を持って行うのではない。彼らは不正を個人の行動、組織構造、社会的プロセスの相互作用から生じるものとしてとらえており、不正が個人の意図のみでなく、集団の力学や環境要因によって助長されることを論じている。
また藤川 (2022)は、このPalmer / Maher (2006)に基づき、組織不正について、組織における計画部門と実施部門の不正について、「計画部門の不正に対する意図の有無の次元」と「実施部門の不正に対する意図の有無の次元」の観点から、「意図的組織不正」「無自覚加担型組織不正」「現場暴走型組織不正」「無知による不正」という4つの不正の類型を提示し、スルガ銀行不正融資問題とレオパレス21施工不備問題の事例分析を行っている。さらにPinto et al.(2008)は、組織不正を個人レベルと組織レベルの両方から考察し、組織の構造や文化が不正を促進するケースも重視して、受益者が個人か組織か、組織メンバーの共謀があるかないかという軸から4象限のモデルを考えている。福原/蔡 (2012)は、ミクロ/マクロなど5つの視点から不祥事研究を概観しつつ、意図と関与主体の観点から不祥事行動を4つに分類しており、會澤 (2023)は、「倫理的視点」「合理的視点」「社会的視点」から不正のあり方を複合的に検討している。さらに中原 (2024)も、様々な企業不祥事の事例を検討しながら、必ずしも組織不正が単一の「悪い意図」に還元できる訳ではなく、様々な「正しさ」が対立する中で不正が生じることを指摘しており、間嶋 (2023)は、既存の経営倫理研究に対する批判的潮流を検討し、特に「実践」としての倫理の新しい展開を検討している。これらは倫理がいかに生成され、いかに生成されないのかという観点から、従来の研究を補完するものとして提示されている。
以上のように、組織不正に関する議論においては、意図的な行為とともに、必ずしも意図的な不正ではないケースもあり、さらに倫理を合理的な観点からではなく、プロセス的に検討するアプローチもあり、実際の組織不正のあり方に応じて様々なアプローチがある。これを踏まえて、次節ではわれわれが本稿での基礎理論とする「オルドヌンク倫理学」の基本的な発想について見ていこう。
「オルドヌンク倫理学」は、ドイツの「経済と企業の倫理学」において、ホーマンとその協働者によって展開されている代表的なアプローチである(柴田 2023)。彼らは経済や企業の倫理問題の出発点を「ジレンマ構造(Dilenmmastruktur)」にあるとする(Vgl. Homann/Blome-Dress 1992)。「ジレンマ構造」はゲーム理論における囚人のジレンマのモデルから類推される状況であり、各経済主体個々人がいくら崇高な倫理規範をもっていたとしても、実際の経済活動においては、相互作用の相手の行動次第で、自分の利益を守るために反倫理的な行動をとってしまうことを示すものである。よって企業倫理を論ずるにあたり、各企業や経営者・従業員などの個々人に倫理規範を求めても、とりわけ激しい市場競争を戦っている企業にとっては無意味だということになる。
以上のことからオルドヌンク倫理学は、企業の行為レベルではなく、ルールや制度などの「オルドヌンク(Ordnung)」(秩序)のレベルで企業倫理を実現するべきと考える。具体的には、企業倫理行動を実現する倫理コーデックス(行動規範)の制定や、業界全体に適用する業界規範の制定等が挙げられる(Vgl. Suchanek 2015)。このような「オルドヌンク」の設定は、「ジレンマ構造」の状況に応じて、個々の企業が自発的に倫理行為を行うように仕向けるもの(個別的セルフ・コミットメント)と、多数の企業を集合的に倫理行為にコミットさせるようなもの(集合的セルフ・コミットメント)がある(cf. Pies et al. 2009)。いずれにしても、これらの方法は、個々の企業の倫理意識に企業倫理を求めるのではなく、ルールや制度などの「オルドヌンク」によって倫理行為を実行するようなインセンティブを企業に与えることを目指している。彼らの議論は「経済学的方法」に基づく倫理学を目指しており、個人主義的で合理主義的な観点から、倫理の「実施」に焦点を置いた議論となっている。
またこの「オルドヌンク」は、公式的なルールや制度のみならず、それらルールや制度を意味的に規定する、意味や文脈、理解のレベルをも包含している。例えばピーズ(I. Pies)は、企業行為のレベルを「ゲーム」、企業行為を規制するルールのレベルを「メタゲーム」、そしてルールを意味的に規定する意味や文脈のレベルを「メタ・メタゲーム」と呼んでいるが(Pies 2013)、オルドヌンク倫理学から見れば、例えば「メタゲーム」である業界規範が機能するように、それらを規定する意味や文脈のレベル、すなわち「メタ・メタゲーム」へ働きかけることも重要となる。つまり、ルールや制度の制定のみでなく、例えばその背後にある意識や文化などのレベルにも目を向け、一定の影響づけを行うということである。具体的な方法としては、例えば社会問題に対する経営者の世論への働きかけなどが該当するだろう(柴田 2023)。これを示したのが以下の図1である。

出所:Pies et al. (2009) p.386
以上、ごく簡潔にオルドヌンク倫理学の根本的な発想を検討した。オルドヌンク倫理学の考え方は、3節で検討した組織不正の枠組みで言えば、基本的には個々人(あるいは個々の組織)の意図的な行為が出発点となっている。彼らのアプローチは「経済人仮説」のような合理主義的な前提に立ち、個々人の利益追求という観点が出発点となる。よって、基本的に意図的な行為から出発するが、しかしながら企業不正は「ジレンマ構造」に基づく「意図せざる帰結」として生じると想定されている。われわれは、企業倫理を含む社会科学の主要課題は、社会現象における人間の意図と、そこから生じる「意図せざる帰結」の考察にあると考える(cf. Popper 1957; v. Hayek 1973; 柴田 2025)。その意味で、オルドヌンク倫理学の「秩序」志向は、組織不正を「ジレンマ構造」による「意図せざる帰結」として考察できるという点で一定の優位性を持つと考える。
4.2 「協働」を捉えるための組織論的主張:バーナード、ニックリッシュ、ルーマン他方で、オルドヌンク倫理学は「組織」そのものについては詳細な考察を行っておらず、組織をいわば経営者の意思決定のもとに完全に動く「機械」として扱っているように見える。上述の通り、ドイツにおける企業倫理は「経済と企業の倫理学」として議論されており、経済倫理の枠組みの中で企業の倫理行為が捉えられることになる。オルドヌンク倫理学の考えによれば、経済倫理の課題は、ジレンマ構造によって生じる反倫理的行為を制度などの「オルドヌンク」によって倫理的状態を実現することになる。一方、オルドヌンク倫理学による企業倫理の課題は、経済倫理において検討された「オルドヌンク」の不備を補うこと、すなわち制度やルールは完全ではなく、機能しない部分も出てくるため、企業が企業倫理を発揮してその不備を補い、倫理的状態を実現するのである。この意味で、経済倫理が制度倫理、企業倫理が行為倫理という役割分担を担っていると言える。
企業倫理を行為倫理として考えると、企業倫理は企業という一つの行為主体の活動として捉えられることになる。つまり、組織は単一の存在と見なされ、企業行為は経営者の行為と同一のものと見なされるため、企業組織の多様性は無視されるのである。しかし、2節で見た新しい「協働」のあり方、そして3節で見たような組織不正の多様性を考えるとき、以上のような見方をとるオルドヌンク倫理学では考察が不十分となる恐れがある。とりわけ、多様な「協働」のあり方を捉えるためには、組織内外との流れを動態的・プロセス的に捉える視点が必要であると考える。よって、本稿ではそのような視点を捉えるために、経営学や社会学において組織に関する原理的な考察を行っている論者として、バーナード、ニックリッシュ、ルーマンの議論を参照したい。
バーナードは、上述の通り組織を「協働システム」という観点から高度に理論的に定式化した論者である(cf. Barnard 1938)。バーナードは、人間を物的、生物的、社会的要因から総合的に捉える「全人仮説」に立ち、「誘因」と「貢献」、「有効性」と「能率」といった独自の観点から協働体系や組織を動態的・プロセス的に捉えようとした。また彼は、公式組織を厳密に定義しつつ、非公式組織の重要性も説いており、本報告の観点から見ても重要な見解を提供している。とりわけ、彼の議論は組織の存続や均衡について、コンフリクトの観点から動態的に捉えつつ、それを超えるために「道徳的リーダーシップ」を論じている点で、組織論的な企業倫理論としても重要な業績だと考えられる。
一方、ドイツの経営経済学において規範主義的な観点から価値の流れと組織に関する哲学的考察を行ったのがニックリッシュである(Vgl. Nicklisch 1922; Nicklisch 1932)。ニックリッシュは経営を「共同体(Gemeinschaft)」として捉えつつ、家政と企業との間の価値の循環という観点から一般経営経済学の体系を作り上げた。ニックリッシュは人間に関する哲学的考察に基づき、「精神」かつ「良知(Gewissen)」を持つ人間は「自由」であるとし、「自由」であるからこそ「共同体」に参加するとした。ここでの自由は無制限の自由ではなく、個人と全体の調和を意識した自由である。このようなニックリッシュの議論も、バーナードと同様、個人の自由と組織の利害という、もともとコンフリクトをはらんでいる側面を、「自由」だからこそ「共同体」の利害を考慮するというパラドックス的な観点から考察しているのが特徴的である。
ルーマンは社会システム論の立場から組織を理論的に説明している(Vgl. Luhmann 1984; Luhmann 1988; Luhmann 2006)。ルーマンによれば、組織はコミュニケーション、とりわけ「意思決定(Entscheidung)」のコミュニケーションを構成要素とするオートポイエーシス・システムである(Luhmann 1988)。組織は意思決定のコミュニケーションが次の意思決定コミュニケーションを生み出すという点で、あくまで作動上は自己言及的で閉鎖的であるとされる。その作動は、システムが環境との差異を「観察」し、構成要素を「区別」することで、次の意思決定コミュニケーションの接続をはかっているのである(柴田2013)。ルーマンの組織論においては、人間は組織の構成要素ではない。人間は人間そのものとしては捉えられておらず、心理システムと社会システムがそれぞれの構成要素を再生産するオートポイエーシス・システムとして捉えられている。
以上、バーナード、ニックリッシュ、ルーマンの組織に関する主張を簡潔に見てきた。もちろんこれらの学説はそれぞれ独自の主張をしている。ここではこれらの理論を統合するような見方は取らない。しかしこれらに共通しているのは、組織を動態的・プロセス的に捉えているという点、そして、組織内の個人の利害と組織全体の利害を対立的に捉えつつも、どちらかを強調することで対立を解決するのではなく、対立を別の形で解決しようとする点である。とりわけルーマンの組織の捉え方は、構成要素を人間とするのではなくコミュニケーションとし、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すオートポイエティックなシステムだとしており、一般的な組織の理解から考えるときわめてラディカルな見方であるが、一方バーナードの組織論においても、公式組織の定義は「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系」(Barnard 1938, p.72.邦訳75ページ)であり、この点から見ればバーナードにおいても組織の構成要素は人間でないとも解釈できる。バーナードの組織論においても、コミュニケーションが、貢献意欲と共通目的とともに組織の構成要素の一つであり、また有効性と能率、誘因と貢献といった観点から組織がつねに不安定な状態に陥る可能性をはらみつつも均衡を目指していく動態的なプロセスが描き出されている。一方、オルドヌンク倫理学の立場は合理主義的な立場であり、組織はきわめて静態的な存在として捉えられる。上述の通り、オルドヌンク倫理学においては組織の行動は経営者の行動と同一であり、いわば「機械」のような存在である。バーナード、ニックリッシュやルーマンの理論におけるような組織の動態性は考慮されておらず、いわば経営者の倫理的行動が実現すれば企業倫理が実現することとなる。しかしながら、先に見た企業不正の多様なあり方を考えると、オルドヌンク倫理学の理論的観点は企業不正の一面しか捉えることができないといえる。
オルドヌンク倫理学の考え方とこれらの動態的組織論の考え方は相容れないが、本稿では以下のような想定を取る。まず、組織における意思決定者としての経営者が組織運営において決定的な存在であるというオルドヌンク倫理学の個人主義的・合理主義的な観点を保持しつつ、彼の意思決定に際して、組織をどのような存在としてみるのかを考える際に、組織に関するこれらの理論の見方を経営者が持つことで、「新しい協働」に即した組織不正に対処できる、というものである。すなわち、組織の意思決定を行い、運営をする経営者が、組織を機械的に見るのではなく、組織が動態的で、様々な要素がコンフリクトを抱えながらもそれらが解消されていくプロセスであることを踏まえ、それに積極的に関与していく、ということである。このように、動態的な組織論の理論的観点をオルドヌンク倫理学の考え方に結合させることで、企業や組織の不正をより複合的に考察できると考える。これについて次節で検討したい。
オルドヌンク倫理学において倫理の根本問題として捉えられている「ジレンマ構造」は、当然様々な場面で発生しうるものであるが、企業との関連でいえば、オルドヌンク倫理学のもともとの発想では、「ジレンマ構造」においてはもっぱら「市場における企業行為」として理解されている。であるからこそ、企業行動が経営者の意思決定と同一視され、機械視されるのである。
しかし、当然ながら企業内においてもジレンマ構造は生じるだろう。例えば管理者と従業員の間には業務をめぐるジレンマが存在しうるし、また従業員同士、あるいは事業部のような部署間でもジレンマ構造は起こりうる。このようなジレンマによって企業不正が発生すると想定することは不思議なことではないだろう。この意味で、確かにオルドヌンク倫理学は企業組織においても有効かもしれない。
しかしながら、オルドヌンク倫理学のジレンマ構造は、原則的に合理的に行動する人間同士の相互作用から生じると考える。企業内の管理者や従業員はいずれも自身の行動を合理的に捉え、意図的に考慮したものとして実行する。「ジレンマ構造」は「意図せざる帰結」として生じるものであるが、個々の行為はあくまで意図的で合理的なものである。しかし3節で見たとおり、企業や組織の不正には個々人の意図的で合理的なものから、意図や合理性を想定できないものまで様々な側面があることを考えると、4節で見た動態的・プロセス的側面も考慮する必要があるだろう。
ここでは、日本企業における企業不正の問題について、従来の日本的経営のあり方とこれからの日本企業のあり方に分けて考える。とりわけここでは、4.1節で検討したオルドヌンク倫理学の3次元モデルに、さらに企業組織内の動態的プロセスを考慮に入れることで考察を深めたい。その原型を示したのが以下の図2である。

出所:図1に基づいて筆者作成
図2では、右上に図1のオルドヌンク倫理学の基本図式があり、それに対して左側の企業における経営者と、経営者が率いる企業組織内の3次元モデルが表されている。
これに基づき、次に日本的経営における協働について、図2のオルドヌンク倫理学の拡張された視点から検討する。
まず従来の日本的経営においては、組織メンバーの流動性が低く、また同質的な組織文化の中で、オルドヌンク倫理学のいう意味での「ジレンマ構造」が生じにくい状況だったと言える。終身雇用や年功序列などの「メタゲーム」は、メンバーの意識のレベルにも作用し、企業文化という「メタ・メタゲーム」としてメンバーの組織への帰属意識を高めたと言えよう。それが日本企業の高度経済成長を支えた高業績をもたらした側面もあるが、他方でそのような強い「メタ・メタゲーム」は、組織固有の規範への強制的な遵守を求め、長労働などの負の側面をもたらしたし、組織外にある社会の「メタ・メタゲーム」と齟齬をきたすことで、企業不正をもたらす可能性もあった。また日本的経営のもとでは、経営者もまた生え抜き従業員であり、そのような強い「メタ・メタゲーム」を打ち破る動機を持っていなかったとも言える。これらを示したのが以下の図3である。

出所:筆者作成
図3では、企業組織が強力なメタ・メタゲームのもとに強固な組織内関係を構築していたこと、そして組織内の関係の強さが組織外の倫理意識への希薄さを生み出すことが示されている(図3における×印)。
これについて、例えばこれまでの日本企業における企業不正の代表的な例である三菱自動車リコール隠し問題や東芝の不正会計事件などを見れば、企業が誇大化し、「サイロ化」したことや、強大な経営者が院政を敷いていたこと、従業員はExitでもVoiceでもなく、「見て見ぬ振り」をしていたことなどが指摘されているが(稲葉 2017)、このような事例を見ても、これまでの日本企業が組織の流動性が低く、メンバーが固定化されていたことで、様々な不正が発生していたことが窺える。
一方、これからの日本企業について考えてみれば、これまでの「日本的経営」に比べ、組織境界は曖昧になり、組織メンバーも流動的となるだろう。この意味で、組織内の強力な「メタ・メタゲーム」による画一性や固定性が徐々に変化し、メンバーが個々に利害を追求することで、オルドヌンク倫理学の言う本来の意味での「ジレンマ構造」が生じやすくなる可能性がある。その場合、オルドヌンク倫理学から見れば、組織内部でも「メタゲーム」と「メタ・メタゲーム」によってジレンマを解決することが求められるが、2節で見たとおり、新しい「協働」においても集団志向が失われているわけではなく、Z世代を中心として、ヨコのつながりや共通規範への意識が高まっていることを見れば、単に組織内のルールや組織規範を整備すればいいというわけではなく、組織境界を越えて、社会全体の「メタ・メタゲーム」を企業内の「メタ・メタゲーム」に関連付け、それを踏まえた「メタゲーム」、すなわち企業内のルールの設定が必要であろう。これを示したのが以下の図4である。

出所:筆者作成
図4では、図3におけるこれまでの日本企業と異なり、組織の強固な結びつきが薄れ、外部との関係による流動性の高まりが現れている。そのヨコのつながりは、当然望ましいものもあれば望ましくないものもありうる(〇印or×印)。これについて経営者がどのような方向づけを行うのかが肝要となるだろう。
本稿におけるこれまでの考察を踏まえて、むすびとして、企業倫理問題の解決を「経営者」という視点から検討したい。
新しい「協働」のあり方を踏まえれば、経営者は組織を、4節で検討したように動態的・プロセス的に検討する必要があるだろう。例えばバーナードの理論もニックリッシュの理論も、個人か組織かという二元論ではなく、組織内外の動態的・プロセス的な側面をとらえることのできる議論を展開しており、新しい「協働」を捉える視点として重要だと思われる。オルドヌンク倫理学の方法論的立場は個人主義、合理主義的立場であるが、企業を単体とみる経済倫理と別に、企業倫理においてそのような視点を取り入れることで接合をはかることができるだろう。
またここで経営者に焦点を当てるに際して、先に見たルーマンのいう「観察」と「区別」の視点が利用可能である。組織メンバーは固有の「観察」によって固有の「区別」を行い、それが組織のいわば「メタ・メタゲーム」となるが、ルーマンの考える組織は作動上「閉鎖」している組織であり(Luhmann 2006)、そうであるがゆえに不正が発生しうるのである(図5)。

出所:Simon (2005) p.316; 柴田 (2008) p.11
図5が示しているのは、ルーマンの議論に従い、企業や様々なステイクホルダー、市場がそれぞれ閉鎖的なシステムとして「観察」を行っている事態である。これらシステムの固有の観察が閉鎖的であるがゆえに、反倫理的な行為が固有のロジックの下に行われてしまうのである。マネジメントは、それぞれの主体が固有の観察を行っている事態を自分の「観察」によって捉えているが、それは当然純粋に客観的なものではなく、マネジメント側の固有の観察となる。
ここで、経営者が組織とは別の固有の倫理的「観察」を行い、新たな倫理的視点としての「区別」を行うことで、そのような組織固有の規範を打ち破り、不正を防止することができるだろう(柴田 2008)。経営者はそのような「メタ・メタゲーム」を打開する唯一のポジションにあると考える。バーナードは「道徳的リーダーシップ」を主張したが、最終的にトップの経営者がいかに道徳性を発揮できるかがカギとなるだろう。これを示しているのが以下の図6である。ここではaとしてマネジメント自身も固有の観察を行うが、それを含めた全体を観察する視点としてhの介入があり、ここにまさに倫理的状態を実現するような「区別」を行うということである。

出所:Simon (2005) p.317; 柴田 (2008) p.12