2013 Volume 55 Issue 11 Pages 852-854
近代的著作権法は,王室による検閲と結びついた出版特権から生まれたことは,よく知られた事実である。日本では,明治時代に成立した著作権概念・著作権法は,欧米からの借り物と江戸時代における版権概念の混淆とでも言うべきものだった。江戸時代における版権概念はどのようなものだったか。ヨーロッパで成立した出版特権・著作権との比較から見るのが,本稿の目的である。主要な参考書は,中野三敏『和本のすすめ 江戸を読み解くために』(岩波新書,2011年)である1)。
まずは,和本の歴史の概略を見る。
明治時代以前,手すきの和紙に書かれたか,印刷された本を「和本」という。書かれたものは「写本」,印刷されたものは「刊本」「板本(はんぽん)」という2),3)。
板本は,8世紀から慶長(元年=1596年)の頃までは,「整版」と呼ばれる印刷技法によるものが中心だった。整版は,木版画技法で印刷した板本である。その後,戦国時代,秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮半島からは銅活字印刷技法が,宣教師によってグーテンベルク式の西洋活字印刷術が導入され,前者は貴人・富裕層にもてはやされた4)。
寛永(元年=1624年)の頃,この流行は止み,再び整版印刷が主流となる。石碑などを写し取る拓本の手法による「拓版」や,西洋銅版画の手法を取り入れた「銅板」も登場するものの,板本の主流となる製作技法は,整版だった。また,天明(元年=1781年)の頃現れた木の活字を使う「近世木活」は,自費出版のような素人出版で用いられた。この状況が幕末まで続く4)。
寛永の頃,整版が主流となったのは,この時代,出版業が営利事業として成立したからだと,中野三敏は説明する。京都・大阪で本屋が台頭し,営利事業として成立すると,一度活字をばらしてしまうと重版がしにくい活字が嫌われ,文字や絵を彫った板木を保存しておけば,板木を補修しながら版を重ねることができる整版が好まれるようになったのだという5)。本屋の台頭の背景として,徳川家光の治世である寛永の頃になると,戦国の世も遠くなり,世情も安定し,書物に対する需要が増大しただろうことも想像できる。
江戸時代の「版権」は,まずはこの板木に対する権利であった。本屋がこの板木を取引し,板木を所有することが「版権」であった。つまり,「板権」だったのである。ただし,江戸時代の日本の都市ではしばしば火災が起きたが,火災で板木が燃えてもその板木に対する権利は生きており,取引された。その点で,板権・版権として板木という物質が取引されたものの,当事者の意識上は出版・印刷の権利が取引されていたことがわかる。投資額が大きな刊本などの場合,共同板権もありえた6),7)。
このように,同業者同士で版権を取引し,共同版権などの所有形態も存在した点など,ヨーロッパと江戸時代の版権/板権にはよく類似する点が認められる。ただし,江戸時代の板権は,板木の物質性とよく結びついていた。
一方,著作者の権利は未成熟だった。
中江藤樹は「翁問答」を仲間内で読む写本として配布したが,これを勝手に「翁草」と称する刊本としてある本屋が売り出した。中江は内容に不満足だからという理由で,本屋に板木を打ち壊すよう頼んだが,その代わりに迷惑料として女性に対する教訓を書いた「鑑草」の原稿をこの本屋に与えたという8)。
曲亭馬琴の例でも,読本を合巻(複数の読み本を合本にしたもの)にする際,勝手に刊本をつくることに不満を漏らしているものの(つまり,事前通告が必要と考えている),たいした手立ては打てていない。歌舞伎狂言に仕立てる場合は事前通告も必要ないという意識だったようだ。しかし,気に入らない合巻や歌舞伎狂言への脚色の場合,作者名を削除するよう馬琴が申し入れ認められた例もある8)。
このように,江戸時代には,著作者には著作権や著作者人格権に相当する権利や利益があるという意識がなかったことがうかがえる。戯作者などが得ていた報酬については,稿を改めて論じる。
さて,板木を取引するには,本屋の同業者組合に属していなければならなかった。同業者組合には,「月行事」と呼ばれる組合の役職者がいて,重板・類板の「差構」という異議申し立ての訴えがあった場合,トラブルを仲裁した7),9)。
重板とは,ある刊本に版権がない本屋が版権を有する本屋に許しを得ないで出版することで,類板とは,版権を持つ本屋に許しを得ないで類似する刊本を出版することだった。
類板は,現代の著作権や剽窃についての思考法では理解が難しい。類本の差構は,表現や内容の類似ではなく,形態や様式の類似にも及んだ。例えば,「古今相撲大全」と「墨江草紙」という2つの読本の本屋の間で争われた差構では,両書で重なる内容・表現は見られない。ところが,版権を管理する登録台帳である「株帳」に記された分類が両書とも「双紙読本」で同一であって,相撲を題材とする「墨江草紙」が「古今相撲大全」の株に抵触したことが理由と,推測されている10)。
ところで,前出の中野によれば,資料的に年次が明らかな本屋の同業者組合は,元禄7年(1694年)京都に存在した書林仲間3組(上・中・下の3組で,およそ120名と中野は推測)である。この組合は,私的なものだったので,「講」と称していた9)。
享保6年(1721年),幕府の諸商人・職人への仲間結成の呼びかけで,京都の本屋の仲間組織が公認される。併せて,5か条の出版条令も発せられた。有力な本屋が所属する公認の「本屋仲間」が結成され,仲間内の業者には条令を守る義務が生まれた。この条令を機に,京都・大阪・江戸の三都で本屋仲間が結成される9)。
近世イギリス・フランスにおける出版・印刷業の免許は首都に限られ,王室による検閲と結びつけられた出版特権が組合に属する出版・印刷業者に与えられたことは,すでに見た(本誌2012年8月号)11),12)。本屋を規制する出版条令と併せて本屋仲間が結成された事実を見ると,ヨーロッパに遅れて,日本でもヨーロッパと同様の出版・印刷制度が生まれたように見える。
しかしながら,享保の出版条令は検閲令ではなく,版権所有者を明確にする機能があって,この条令によって,出版業がさらに盛んになったと,前出の中野は評価している13)。
享保の出版条令は5か条を含むが,その内容は,①出典の正しい学術書の要求,②表向きのポルノ禁止令,③出自に関するプライバシー保護(親告制),④奥付への作者と版元の実名の記載義務,⑤徳川家に関する書物の禁令であった。④は,従来幕府に不都合な内容の書物の著者・版元を処罰する制度とされていたものの,むしろ誰が版権所有者であるかを明らかにし,営業上の権利を保護したと,中野は言う。本屋仲間の記録によれば,紛争のほとんどが版権をめぐってのもので,この際には奥付記載の版元の名前が証拠となったとされる13)。
ただし,江戸の書物問屋が新刊書を出す場合,自主検閲制度が存在したのは間違いがない。新刊・古板の再板をしようとする者は組行事に稿本と開板願または再板願を提出し,吟味を受ける。行事が幕府の出版条令に触れると判断したものは返却するか絶板を言い渡された。内容上判断が難しい場合,町奉行所へ伺いを立てた。新板の場合,幕府の吟味を受けるため,行事から奥印証明を押した開板願とともに稿本を町奉行所に提出した。刊行が許可されてから,申請者は板木を彫り始めた7)。
また,由比正雪の乱の直後には政情不安の中で軍学に関する本が制限され,規制を受けないはずの写本では「実録もの」の作者が死罪となった。作者の馬場文耕は,享保の改革を賛美し,当時の家重をはじめ改革に反するとも目された諸藩大名を批判・中傷し,筆禍を引き起こしたのである。しかしながら,江戸時代筆禍による死罪者はこの1件のみとされる14)。
いずれにせよヨーロッパ諸国の検閲制度に比べると非常に緩い出版規制しか,江戸時代には存在しなかったらしいことが推測できる。
中野は,為政者の高い倫理性に対する被治者の信頼があって,社会・生活が安定したことが,庶民文化の隆盛をもたらし,出版規制の緩さもこの治世の安定が背景にあると見ているようだ。この江戸時代観が正しいかどうかは,筆者はまだわからない15)。
まとめよう。活字本ではなく整版が主流の江戸時代では,著作権・出版権は,板木という物質に基盤を置いた「板権」が存在した。その板権を守る仕組みは,本屋仲間という同業者組合に基礎があった。ここまでは,ヨーロッパと共通である。ただし,内容・表現に拠らない類板概念や,緩い検閲制度については,ヨーロッパとは違った。このような東西における版権概念の共通点と違いが,どのような社会制度や経済を背景に生まれたかは興味深い問題だ。