2015 Volume 57 Issue 12 Pages 933-935
プライバシー概念はとてもとらえがたいものだ。まず,いろいろなものがプライバシーと呼ばれる。次に,何がプライバシー情報であるかは文脈依存的である。今回は,前者のプライバシーの多義性について考える。
プライバシー法の専門家D.Soloveによれば,放っておいてもらう権利や,自己への限定アクセス(アクセスの限定),秘密,個人情報のコントロール,人格性(personhood),親密性(intimacy)がプライバシーと呼ばれる1)。さらに,歴史的にみれば,家族や身体,性,住居,通信など多様なものがプライバシーの名のもとに保護されてきた2)。
哲学者J. W. DeCewが執筆する『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』の「プライバシー」の項目によれば,プライバシーの多義性は次のように説明される3)。
第1に,人や情報の状態を記述するという意味での記述的意味でのプライバシー。また,その価値や保護すべき理由を主張する場合には,規範的意味でプライバシーという言葉が使われる。
次に,規範的意味で使われる場合も,それが権利であると考える論者もいれば,利益であると考える論者もいる3)。権利か利益かは,論者の倫理学的立場によって議論が分かれそうだ。カント主義や権利論に立つ者ならば権利として考え,功利主義者であれば,権利という概念を立てずに,利益と考えるだろう注1)。
第3に,情報的プライバシー(informational privacy)とプライバシーの憲法的権利(constitutional right to privacy)という分類がある。これは,米国におけるプライバシー概念の発展からみえてくる分類である。
1890年,S. WarrenとL. Brandeis4)が放っておいてもらう権利(the right to be let alone)としてプライバシーの権利を定義した際,イエロー・ジャーナリズムからの避難がこの権利の重要な内容であった。私生活をのぞかれたり暴かれたりしないというのは,私生活の情報を保護するという意味であった。1960年,W. Prosser5)がプライバシーの不法行為の4類型を定義した際も,プライバシー情報の保護を目的とするものであった3)。
私的空間の保護はローマ法以来の伝統といえるが6),プライバシーの権利という思想は,情報の保護という概念とともに成長してきたのである。情報プライバシーという概念は,このように不法行為法におけるプライバシーの権利の定着の中で生まれてきた。
一方,避妊具の使用や人工妊娠中絶について,カップルや女性の自己決定権を認めない州法の違憲性を争う中で,自己決定権的プライバシーの概念が生まれる。Griswald v. Connecticut(1965)で,夫婦に対して避妊情報を提供する行為を禁じるコネチカット州法が違憲とされた。Roe v. Wade(1973年)で,妊娠の継続を決定する権利が女性にはあるとして,人工妊娠中絶を禁止するテキサス州法が違憲とされた7)。
Griswald判決においては,米国連邦憲法には,自己決定権的プライバシー権について言及がないものの,半月が暗くなっている部分も存在してはじめて1つの月であるように,自己決定権的プライバシー権は権利章典(米国連邦憲法の修正条項)に暗黙裏に書かれているという「半影理論」が用いられたことでも著名である8)。
このような分類があったとしても,Soloveの指摘でみたように,多義的なプライバシー概念の定義を行うことは容易ではない。米国では,不法行為の分野では,Prosserの4類型のどれに当てはまるか,自己決定権の侵害がないかで,プライバシー侵害があったかどうか判断されたり,当然普通人であればプライバシーが期待される場面であるかどうか(これをプライバシーの合理的期待説と呼ぶことがある)9)で,プライバシー侵害があったかどうかが判断されていて,プライバシーとは何かという定義に関する議論は避けられる傾向にある注2)。
プライバシー概念は多義的であるようにみえるものの,実はプライバシーと呼ばれるいろいろなものには,整合的な根本的な価値(共通要素)を共有していて定義が可能であると考える立場は,前出のDeCew3)やF. Schoeman10)に従って,「整合説」(coherentism)と呼ばれる注3)。一方,プライバシーと呼ばれるものには共通要素はないし,ほかの立場に還元可能で,独自の価値はないと考える論者もいる。この立場は,「還元説」(reductionism)と呼ばれる。
前出のSoloveはプライバシーの多義性を認めたうえで,プライバシーと呼ばれるものはすべてに共通する要素は有していないものの,それぞれが別の概念と比べると一部意味上重なる要素や類似の要素があるからプライバシーと呼ばれるのだと,Wittgensteinの「家族的類似」という概念を使用して説明している11)。Soloveは,DeCewの分類に従えば,共通要素がないという点では還元説に近いものの,プライバシーの価値を認めているという点では,整合説の立場に立つという複雑な立場をとっていることとなる注4)。
プライバシーの価値を認めながらも,ほかの概念に置き換えて理解しようとする論者は少なくない。
たとえば,コンピューター倫理学の創始者の1人であるJ. Moorは,プライバシーは,ある特有の社会における「中核的価値(core values)」の1つである安全(security)の表現であると主張する12)。
中核的価値とは,人間の価値評価において共有され,根本的である価値のことである。中核的価値は,人類社会が生き延びるために必要なもので,通文化的なものだと主張される注5)。Moorによれば,社会が大きくなり相互作用が高度となって,それと同時に親密さが減少してくると,プライバシーは安全への欲求の自然な表現となるという注6),12)。
ところが,法哲学者・倫理学者のC. Fried13)にはじまる立場によれば,プライバシーは人間関係の構築・維持のために必要であるとされるし,法哲学者のS. Benn14)の立場では,プライバシーは人格性の概念に根を下ろし,人間の尊厳にかかわるとされる。これらの議論を聞くかぎり,安全という価値だけに還元できるようには思えない。
プライバシーの多義性に多くの論者が気づいているものの,決定的な解釈はまだ生まれていない注7)。