2015 Volume 58 Issue 6 Pages 474-478
John Lockeの「労働所有説」は,労働による私有財産の正当化として知られるものの,著作権など知的財産権を正当化する理論としては旗色が悪い。現在の知的財産システムは,規則功利主義によって正当化されると考えるのが主流である。これは,この連載でも説明したとおりである1),2)。
ところが,規則功利主義による知的財産権・知的財産システムの正当化を批判して,労働所有説で知的財産権を正当化した方がよいと主張する哲学者もいる。この代表的な哲学者は,Adam D. Mooreである。彼は,インセンティブに基づく規則功利主義による知的財産権の正当化を批判して,Locke主義的な正当化が正しいと主張する3)~5)。
Lockeの労働所有説においては,もともとの世界は,誰のものでもない私たちの共有物として神が与えたものと仮定する。だが,私たちの身体は私たちの所有物であって,その身体を自由に用いて行う労働を無主物たる土地などに付加し,混合することで,その無主物は私たちの所有物となると説明する。もとは無主物である野兎(のうさぎ)も追い立てて捕獲するという労働によって,私たちのものになる。ただし,それは「共有物として他人にも十分な善きものが残されている」かぎりは,というただし書きが付く。そして,同時に,私たちが所有できるのは,自分自身が生活の便益のために消費でき,腐らせたりして無駄にすることがない範囲に限られる6)。Lockeによれば,これが自然法の定めたところなのである。
Mooreによれば,Lockeの労働所有説の現代的な解釈としては,労苦に対する対価としての所有権という考え方や,所有は労働の功績であるとする考え方,他者の自由・自律の尊重から所有権が生まれるという考え方があると説明する3)。最後の立場は,リバタリアニズム(libertarianism)注1)等による労働所有説の解釈で採られる見方で,誰かが取得・創造した物をその手から奪うことは自由・自律の侵害であるから,この自由・自律の侵害を防止するため,所有権があるとする思想である7)。
Mooreは,さらに,前記のLockeのただし書きに注目する。「共有物として他人にも十分な善きものが残されている」かぎりという条件は,知的財産権に関しては十分条件であって,この条件を満たすならば,自分の創造物を独占することができるのだと説明する3),8)。
労働所有説に基づく知的財産権の正当化は,確かに知的財産権の重要な側面を説明しているようにみえるのだが,筆者はこの立場を採らない。理由は,次のとおりである。
まず,自由・自律に基づく正当化に関しては,知的財産権の対象となる情報は,有体物と異なる重要な特徴があり,必ずしも創造者に「独占」させる必要はないという反論が成り立つ。つまり,所有権という概念そのものが情報には有効ではないのである9),10)。音楽を同時に複数の人が聴けるように,情報は,同時に複数の人が享受できるうえ,Jeffersonの著名なたいまつの火の比喩のように,使っても消費されず他者に受け渡す(複製・伝達)ことができる。ほかの人に使わせても,創造者は困ることがない。
著作権や特許権などの知的財産権は,排他的な物権的構成を有するものの,その創造者に対して,独占的な所有権というよりも,その利用から生じる利益を独占する用益権を与えるように見える10),11)。この点からみて,自由・自律の観点から知的財産権を正当化する立場はあまり分がよくないように思われる。
労苦や功績の対価・報酬という見方にも問題がある。たとえば,キャンディーのチュッパチャプス(chupa chups)の包み紙のデザインはSalvador Dalíの手によるものであることはよく知られているが,このデザインはこのキャンディーを製造・販売する会社の重役との昼食後ナプキンにささっと描き上げたものである。私が苦労して1週間かけて描き上げた絵画は,Dalíのわずかな時間で描き上げた包み紙のデザインよりも金銭的報酬を多く生むとは思えない。
また,功績の対価・報酬とみた場合でも,功績はそれぞれより優れている,劣っているなどの評価ができるのに対して,著作権はどのような出来の著作物であろうと,等しく与えられるので,功績の対価・報酬とみることは難しそうである。だから,功績の対価・報酬とみることも難しい。
こうした理由から,筆者は,(人格権的要素を除く)知的財産権は規則功利主義によって正当化される人工的な権利だと考える。ただし,巷間(こうかん)で言われているように技術開発や著作物の創造などのインセンティブを与えるという機能を有しているとみるのは誤りだと思う。インセンティブ論は見かけ上の正しさをもつだけで,市場秩序維持機能こそが規則功利主義による正当化の際には注目すべき知的財産権の機能である10)。これは後述する。
Mooreが批判する規則功利主義による知的財産権の正当化とは次のようなものである。つまり,特許権や著作権などの知的財産権はインセンティブを与えることで,知的財産の社会的生産を増大させ,最適化するので,社会的効用の観点から創造された人工的権利である,というものである。本稿では,このような議論を「インセンティブ=規則功利主義論」と呼ぶ12)。
ここで,規則功利主義という言葉をあらためて説明しておこう。
功利主義とは,ある行為の善悪は,その行為の帰結によって決まるとする帰結主義の一種で,ある社会の最大多数の最大幸福,または最小不幸を実現する行為が最善であるとする「功利原理」をその方針とする倫理思想である13)。
このように,功利原理を個々の行為に直接当てはめて意思決定するべきとする立場は,行為功利主義と呼ばれる。また,個々の行為に直接功利原理を当てはめるべきという立場から,直接功利主義とも呼ばれる14)。
ところが,日常生活の中で,いちいちの行為についてその善悪を,その帰結が最大多数の最大幸福,または最小不幸を実現するかどうかを確かめながら,どのような行為を選択するか決めることはほぼ困難である14)。
多くの功利主義者は,功利原理を用いて意思決定する必要はなく,家族・友人への義務やさまざまな道徳的規則を考慮していれば,結果的に功利主義的に行為することとなると考える。先ほどの直接功利主義に対して,これは間接功利主義といわれる14)。
このように,「さまざまな道徳的規則や義務を守ることが社会全体の幸福に貢献するかどうかを評価し,貢献すると認められる規則や義務を二次的な規則として採用する立場」15)は,規則功利主義と呼ばれる。
ここで,再びMooreの議論に戻る。Mooreは,「インセンティブ=規則功利主義論」について,内在的批判と外在的批判を行う。このうち,外在的批判は,規則功利主義による正当化を行うとしても,行為功利主義的な正当化をすることとなってしまい,知的財産権ルールを正当化することにはならないというものである12)。
たとえば,生命と著作権保護を天秤(てんびん)にかければ,誰かの生命を守るためならば著作権を侵害しても構わないというような例外的ルールが認められそうだが,こうしたルールを認めたら,いくらでも例外的状況を考えられるので,個々の例外的状況について行為のよさを判断しなければならなくなり,規則功利主義といえなくなるだろうというものである12)。
このような批判は,規則功利主義に対する批判としてはやや不当に思われる。功利原理から導かれる規則は二次的なものであって,必要があれば功利原理に立ち戻るべしというのが規則功利主義の考え方であるから,規則が成立しない例外的状況に着目して,規則功利主義が成り立たないと主張するのは,規則功利主義に対する批判としては当たらない。
また,規則功利主義には,ある行為の善悪をいうためには,まず行為の記述・説明を行う必要があるが,この行為の記述・説明に関する難点もあると,Mooreは主張する。規則功利主義においては,ある行為がよいかどうかは規則に従っているかどうかで決まり,その規則の善悪はその帰結に照らしてよいかどうかによって決まる12)。
ところが,私がある行為をしたとして,その行為を記述・説明する仕方は多数ある。たとえば,行為が行われた環境や文脈,行為のもたらす帰結にどこまで言及するかによって行為の記述・説明は変わってくる。その記述・説明によって,行為の解釈・意義も変わる12)。
Eric D'Arcy16)とDavid Lyons17)は,行為記述は,行為と環境,帰結とを区別して記述することを提案したが,彼らによれば,「特定の行為の妥当な記述かどうか決定するのにあたっては,私たちは道徳規則を用いている」18)という注2)。そうすると,行為を記述するには規則を前提とする。ところが,規則(道徳規範)がよいかどうかをみるためには行為を記述する必要があるが,その行為を記述するには規則を前提とすることになる。つまり,行為の記述が先か規則が先か循環が生じる12)。
これが,Mooreのもう1つの規則功利主義に対する批判である。とはいえ,この批判も当たっているとはいえないように思われる。
規則功利主義が規則の善悪の判定を行う際には行為に言及する必要があるものの,規則そのものがどのようなものか記述するに当たっては,特に行為の記述は必要がない。見かけ上循環が生じるように思えるものの,まずは規則功利主義において問題となっている規則を明晰(めいせき)に定義すれば,そこから行為の記述ができ,そこからその規則の善悪が判定されることとなる。
一方,Mooreの内在的批判は,知的財産権が情報の創造のインセンティブを与えないケースが多々あって,インセンティブ論からは知的財産権の存在根拠が説明できないというものである12)。この点については,筆者もまったく同意する。
たとえば,著作権は著作物の法定利用行為の許諾権と報酬請求権を内容とするものの,多くの創造者は,インセンティブがなくても,著作物の生産にいそしむ。自己表現を行う欲求に従ってという場合もあるだろうし,過去においては宗教的動機による芸術表現や学術活動があったことが知られる10)。Mooreの指摘するところでは,Eli Whitneyの綿繰り機の発明は権利なしでも発明の動機付けがあったという19)。
一方,産業財産権に関しては,技術開発や商業活動に労苦や資金を投入して励むよりも,産業財産権を濫用して,できるだけ楽をして金銭を多く獲得する行動がときにみられる。このような行動は,技術開発や商業活動を促進するどころか逆に阻害する。Mooreは,大企業が所有する特許を使ってベンチャー企業の市場参入を妨害して,健全な市場競争が行われないケースを指摘する19)。
ところで,金銭的報酬請求権を内容とする知的財産権は,貨幣と財とを交換する市場を前提としている。市場外の贈与・交換においては,金銭的報酬請求権はほぼ意味をもたない。この意味で,著作権も特許権も著作物市場や技術的製品の市場を前提とする権利である。この市場における競争を健全に行うためには,他者の知的成果にフリーライド(ただ乗り)する者がいた場合にはそれを排除するなどの機能が必要だが,市場そのものにはそのような機能は存在しない。したがって,外部から何らかの情報の利用に関して市場の秩序を維持する機能を加える必要がある。知的財産権の機能は,第一にはこの市場秩序維持機能にあると,筆者は考える10)。
そして,知的財産権は,知的創造のインセンティブを与えるというよりも,フリーライドを防ぐことで,金銭的報酬を得る機会があると開発者やクリエイターに信じさせることで,金銭的インセンティブを失わせないように機能する。その意味で,知的財産権のインセンティブ付与とみえる機能は二次的なものである。これらの論点については,すでに別稿で詳細に論じた10)。
Mooreが指摘するように,知的財産権のインセンティブ論に無理があるのは間違いがないのだが,知的財産権は市場秩序機能を第一義とすると考えることで,規則功利主義的な知的財産権の正当化は十分に可能である注3)。Mooreの批判があっても,知的財産権の規則功利主義的な正当化は十分に存立する余地があると考える注4)。