2017 Volume 59 Issue 10 Pages 711-715
2006年から,オーストリア・リンツ市で開催されている「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」注1),注2)を毎年訪問している。
アルスエレクトロニカ・フェスティバルは,「アート,テクノロジー,社会」をテーマに,最先端の科学技術に関する研究プロジェクトを世界各地から幅広く集め,それらがもたらす「未来社会を変えるインパクト」を分野横断的な視点からとらえていこうという壮大なミッションをもって運営されている国際イベントである。
毎年9月初頭に開催されるこのアルスエレクトロニカ・フェスティバルには,世界各地から約9万人の人々が訪れ,大いににぎわう(図1)。日本からも研究者や科学者だけでなく,行政関係者,企業の研究開発部門の人たち,またアーティストたちも多く訪問している。
このフェスティバルは,リンツ市が所有する市営会社であるアルスエレクトロニカ社によって,町の文化資本,社会資本を形成する目的と戦略で運営されているイベントである。
リンツ市はこの戦略を見事に成功させたといえる。長期にわたる失業問題や産業の低成長率に苦しむヨーロッパの中において,住民人口よりも雇用数が多い町となり,新たな産業創出をも実現しているからだ。こうした成果によって,2009年には欧州文化首都に選ばれ,また2014年にはユネスコ創造都市としても選ばれている。
ちなみに2015年,東京都が2020年をマイルストーンとして,東京の文化・産業の発展を目指すガイドラインを「東京文化ビジョン」として策定したが,その中の大きな目標として掲げられている「先端技術と芸術文化との融合により創造産業を発展させ,変革を創出」するためのモデル事例として,東京都はリンツ市とアルスエレクトロニカ社との取り組みを参照している。
さて,今回僕が推薦するのは,ジョン・マエダ氏注3)の『シンプリシティの法則』である。
日本語で「シンプル」というと,単純化する,簡素にするという意味合いが強いと思うのだが,著者の意図は,「より伝わるか,より実用性があるのか」という点にある。
そして,情報や社会が複雑化していく中で,「シンプリシティはきっと成長産業になるはずなのだ」と述べ,そのための「10の法則」と「3つの鍵」とを挙げている。
僕がこの「シンプリシティー」というコンセプトと出会ったのは,2006年のアルスエレクトロニカ・フェスティバルだ。2006年のフェスティバルテーマが,この「シンプリシティー」で,そこに「the art of complexity(複雑さの芸術)」という副題が付いていた。
ジョン・マエダ氏はその年のアルスエレクトロニカ・フェスティバルのフューチャーアーティストとして招かれ,探求成果を発表した。また,世界各地からの専門家たちとの公開ディスカッションも行った。
ジョン・マエダ氏は,コンピューターサイエンティスト,グラフィックデザイナーであり,2006年当時はMITメディアラボの副所長を務めていた。その後,ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン(RISD)の学長を務めた後,ベンチャーキャピタルに勤務,そして現在は,「WordPress.com」等で知られるAutomattic社で「コンピューテーショナルデザインおよびインクルージョン担当グローバルヘッド」のポジションにいる人物である。2008年には,米エスクワイア誌によって21世紀の最も影響力のある75人のうちの一人に選ばれている。
2006年というと,日本ではちょうどブログ,ポッドキャストといったソーシャルメディアサービスが飛躍的に普及した頃だった。これまでのマスメディアの情報を一方的に伝えるありようから,誰もがインターネットを通して情報を発信しあうことができる環境がいよいよ進み,メディアについての考え方も大きく変わろうとしていたときである。Facebookが学生限定の枠を取り払い,米国で一般向けサービスとして公開されたのが2006年の秋だったことを振り返ると,この時期は,メディア・テクノロジーと生活者とのかかわりを考えるうえで,一つのターニングポイントだったともいえる。
情報量がただ多くなるだけでなく,送り手と受け手の関係が複雑に絡みあう社会が生まれ,生活や社会のあり方そのものが複雑化していた。こうした時代背景の中で「シンプリシティー」というコンセプトは非常に重要な視点をもたらしたと思う。
ちなみに当時,僕は博報堂DYグループ内のメディア環境研究所というシンクタンク的な部門にいた。インターネットをはじめとするメディア・テクノロジーを,広告コミュニケーションへの商用活用という視点だけにとどめずに,新しい生活文化を生み出す力,つまり,「これからの暮らしのありようを変えていくとともに生活者や社会の中の価値観そのものをも刷新していく力」としてとらえ,その可能性をより深く探求していきたいと考えていた。アルスエレクトロニカ・フェスティバルを訪ねたのも,こうした問題意識をもっていたためだった。
さて,『シンプリシティの法則』の中では,先に述べたように「10の法則」と「3つの鍵」として,以下のように書かれている。
ここではその一つひとつを説明する代わりに,実際に,2006年のアルスエレクトロニカ・フェスティバルで彼が語った言葉を,当時の僕のメモから引用してみたいと思う。
・「シンプリシティーとは,情報を減らすことじゃない。意味を豊かにするプロセスだ」
・「“より多くの情報”とは,“より多くの潜在的な意味”をもたらすものだ」
複雑な社会の中で,どうやって強く人を引き付けることが可能なのか。彼はそこに「シンプリシティー」の価値を見いだそうとしている。それは,必要なものを選び抜き,簡潔にしていくことで,逆に,人生の喜びや楽しさを増やしていくことである,とも拡大解釈することができると僕は思う。
本書には,彼をコンピューター・サイエンスの世界からデザインの世界へと誘ったグラフィック・デザイナーのポール・ランドや田中一光とのエピソードも交えながら,「シンプリシティー」を巡る探求と,彼自身の人生の軌跡が記されている。読者も,手引書,マニュアルとして読むというよりはむしろ,自分なりの問いを深め,それぞれの人生の「シンプリシティー」を探求していくための触媒として読むのがよいように思う。
「人は人生の楽しみや喜びを増やしていくために,いかに必要なものを選び抜き,簡潔にしていくことができるのか」。実はそれは課題解決のための方法論であるデザインの領域のテーマというよりも,むしろ「アート」の領域にある問いである。
アートとは,人,社会,世界とは何かをとらえる「フレーム」であり,世界の真理を探究していく「態度」だ。ルールはなく,個人がそれぞれの信念において自由に探求していくことが,アート的態度であり思考である。アート作品とはそうした個人の探求の成果として生まれた結果であり,見つけだした問いと発見を共有するためのコミュニケーションツールなのだ。
そして,その問いと発見が深く本質的であればあるほど,人の心を揺さぶり,感情を喚起させる力になる。アートの価値とは,その感情の喚起力に左右される。
その意味で,アートとサイエンスは同じ根をもっていると思う。逆に,課題解決のために考案されてきたデザインは,課題解決を実現する機能を創り出すテクノロジーと近いのかもしれない。
「人はいかに人生の楽しみや喜びを増やしていく」ことができるのかという問いは,だからこそアートの領域にある問いであり,少なくとも,従来の(伝統的な)デザインや,あるいは(伝統的な)マーケティングの領域を超えたところにある議論である(もちろん,デザイナーの中には,こうした問いをもった人が多くいることも知っているが)。
これからの時代は,こうしたアート的な思考や問いかけを含んだ商品,サービス,体験を人は求めていくようになるのではないかと思う。テクノロジーは機能を創り,デザインはインターフェースを創る。アートは人の心を動かすエモーションをそこにインストールすることを可能とする。単に機能ではなく,人の心を動かすようなエモーショナルなビジョンがどこまでそこに込められているのか。
複雑化している社会の中では,人はますますこうしたことに直感的に,そして敏感になっていくのではないだろうか。次にイノベーションが起きるとしたら,こうしたアートの領域と,デザインやテクノロジーの領域との接点においてではないかと思う。
『シンプリシティの法則』(原著)が刊行されてからすでに10年がたつが,こうした意味において,この本が問いかけているテーマはますます今日的であるように感じている。
ジョン・マエダ氏自身,2006年のこの著書の刊行後2014年まで,Webサイト「lawsofsimplicity.com」(http://lawsofsimplicity.com/)を通してその「法則」を継続的に更新し続けていた。そして僕はそんな彼の姿勢にも強く引き付けられているのだ。
2006年のアルスエレクトロニカ・フェスティバルの副題も,複雑化する社会状況,社会課題に対して,人の心を引き付ける魅力をもちながら,最善の解決先をつくりだすこと,そしてそのための探求が時代のテーマなのだという提案だと僕は受け取っている。そのタグラインは,「シンプリシティー(Simplicity)」がもつ,シンプルでは決してない複雑さをよく伝えていたように思う。
そして,それは僕自身が当時抱えていた「問い」でもあった。そして僕はこのときの経験がきっかけとなり,その後も毎年このオーストリアの小さな町に通い続けることとなったのだ。
アルスエレクトロニカとリンツ市が目指し,大きな成果を生んだ「先端の科学技術を生かした地域社会創生」というビジョン。まさに今「アートとテクノロジー,サイエンスがどのように融合していくか」が,次世代の生活文化,社会基盤をつくり出すための重要なテーマになってきているのである。このテーマに挑んでいくためにも,「シンプリシティー」という言葉に込められている,「人生の楽しみや喜びを増やしていくために,いかに必要なものを選び抜いていくことができるのか」という問いは,とても大きな意味をもつように思う。
科学技術が新しい生活文化を生み出す力となる,つまり暮らしのありようを変え,生活者や社会の中の価値観そのものをも刷新していく力となるためには,人の心を揺さぶる,感情を喚起させる創造的な「問い」を伴わなければならない。「シンプリシティー」はその問いかけのためのガイドラインとなる発想だ。そして本来その発想は,日本人が最も得意としてきた価値観,文化に基づくのではないだろうかと思う。
今,サンフランシスコのベンチャー企業には,日本の禅(ZEN)の精神に注目するところが増えている。それは彼らが進めてきた「技術革新がより良い世界を創る」という米国的な楽観主義の向こうに,こうした深い精神性,文化的なイノベーションの可能性が探求されようとしていることの表れではないだろうか。Apple社をけん引したスティーブ・ジョブズがまさにその代表的な人であったことは,もはやいうまでもないことだろう。
最後になるが,「先端テクノロジーとアート的思考を生かした地域社会の成長戦略」を日本を舞台で考え,実践していくために,2014年に,アルスエレクトロニカ社との共同プロジェクトを立ち上げることになった。僕は今このプロジェクトリーダーを務めている。これも「シンプリシティー」を探求し続けてきた行程が導いてくれた僕なりのチャレンジである。
現在,アルスエレクトロニカ社とリンツ市の取り組みについては,2017年3月に刊行予定で書籍を執筆しているところである。これについては,またの機会にご報告できれば幸いである。
株式会社博報堂 クリエイティブプロデューサー。戦略コンサルティング,クリエイティブ,コミュニケーションデザイン,先端メディア開発,事業開発などにおける幅広い知見と経験を生かして,数々の企業のイノベーションを支援してきた。著書に『共感ブランディング』(講談社)等がある。また現在,博報堂とアルスエレクトロニカ社との共同プロジェクト「FUTURE CATALYSTS(Hakuhodo × Ars Electronica)」を立ち上げ,社会イノベーションの実現を支援する取り組みを展開している。2014年度からアルスエレクトロニカ社が主催する国際コンペティション「PRIX ARS ELECTRONICA」の審査員も務め,アーティスト,イノベーター,研究機関との国際的なパートナーシップを広げている。またフォトグラフィック・アーティストとして,写真集等の著書も多数出版している。