2016 Volume 59 Issue 6 Pages 408-413
「炎上」はごくごくわずかのコアな「常連」が繰り返し書き込む一方,「炎上」参加者は全体の約0.7%にすぎない。ネット「世論/輿論」というにはあまりにも炎上ユーザーはわずかすぎる。そして,加担確率が高い者は,男性で若く,高年収,子持ち,役職付き,または自営業主という属性があるという。
これは,田中・山口(2016)の大規模なネットアンケート調査(2014年および2016年6月)とその計量経済学的分析の結果わかったことである。2回の調査は,それぞれ約2万人と4万人を対象としており,その規模の大きさと,統計的分析の精密さが印象的だ注1),1)~3)。
「炎上」はいわば俗語で,その明確な学術的定義が存在するわけではない。辞書を見ると,「インターネット上の電子掲示板のコメントやブログの記事に対し,多くの批判や誹謗(ひぼう)中傷の書き込みが集中すること」注2)とする。ただし,Twitterでも炎上現象は見られるし,まれではあるが,Facebookなどのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)でも炎上現象はある。また,「多くの」書き込みとはどの程度なのであろうか。
炎上の研究書には,次のような説明がある。田代・服部(2013)4)によれば,不特定多数からの「ネットいじめ」であって,コントロールができない状況であるとする。また,荻上(2007)5)によれば,「ウェブ上の特定の対象に対して批判が殺到し,収まりがつかなさそうな状態のこと」という注3)。
本稿では,インターネットに発信した情報に対して,罵倒・罵詈(ばり)雑言を含む否定的コメントが殺到し,反論や弁明が極めて困難で,事態をコントロールできなくなっている状態を,炎上ととらえよう。
さて,約2万人を対象とする2014年の調査では,過去全期間で炎上に加担した,つまり書き込みをした経験がある者は約1割の2,020人であった。男性で若く,世帯年収の多い者が加担する確率が高いとされた。さらに,2016年の4万人を対象とした調査では,役職を変数に加えて計量分析を行ったところ,役職付きと自営業主の炎上加担確率が高く,特に部長クラスで高いとされた。さらに,炎上加担の動機は,「楽しいから」というものは20%程度で,むしろ許せなかった・失望したなどの「正義感」が70%程度だったという2)。
その一方で,過去1年に11件以上の炎上事件に書き込みを行い,1つの事件当たり51回以上書き込むという炎上のコアな「常連」(これは,筆者が名付けたもの)は,前出の4万人調査では,わずか7名しかいなかったとされる。また,そもそも1件当たりの事件の参加者がごく少数であるという経験的事実も,4万人調査とは別に行ったTwitterの炎上事件における3回以上の批判ツイートを行った者の数(約2.8%)の推計と合致した3)。
上記の7名が炎上の火をつけ,執拗(しつよう)に火を燃やし続けるコアな炎上の主役である。そして,この調査でみえてきた,年収も社会的地位も高い「加担者」は,このコアな「常連」の炎上させる火に誘われて,怒りのコメントを散発的に書き込む――こういう炎上現象の背後にある実態が推測できる。
上記の7名は標本数があまりに少ないのでどれだけ参考になるか不明であるものの,アンケート調査を見ると,だいぶ世の中を辛辣(しんらつ)かつネガティブに見ている。「ずるいやつがのさばるのが世の中だ」(86%),「罪を犯した人は世の表舞台から退場すべきだ」(71%),「努力は報われない」(71%),「世の中は根本的に間違っている」(57%),「自分は周りの人に理解されていない」(57%)――このような回答が並ぶ3)。
この定量的調査は,コアな「常連」に関しては,従来の直感的な論評や事例報告と一致している点で,まずは興味深い。そして,彼らが炎上させた案件に,散発的に加担する「加担者」の多くがいわば社会の主流の人間であるという新たな知見も注目される。調査からみえてきたこれらの結果をどのように理解し,とらえればよいだろうか注4)。
ごく一定数のわずかな者(上記の「コアな『常連』」)が炎上現象を起こしている事実が,定量的調査によってほぼ確認されたこと。これが,第一に重要である。
従来の炎上に関する論評によれば,執拗な書き込みを行う者はごくわずかだとされる。これは,繰り返し書き込みを行う者は回数が多くなるごとに急激に減っていくという今回の調査結果(1回35%,2~3回34%,4~6回13%)2)と一致している。さらに,Twitterにおける炎上についても,3回以上同じ話題についてリツイートする者は,非常に少ないこと(3回以上は2.8%)が,前出の田中(2016)の講演では示された3)。
次に,執拗に書き込みを行う者の価値意識は,道徳感情や正義感であるものの,ルサンチマンを根底にするもののように思えること。つまり,炎上現象において噴出する道徳的感情や正義感は,とても取り扱いが厄介にみえる。
ルサンチマンは,キルケゴール(Kierkegaard)6)やニーチェ(Nietzsche)7)が道徳哲学において主題的に取り上げた心的態度注5)で,シェーラー(Scheler)によれば,ニーチェがフランス語で表現したこの感情は,ドイツ語でいえば「怨恨(えんこん) Groll」に最も近いとされる注6),8)。この感情は,復讐(ふくしゅう)感情や嫉妬がその始まりである。ところが,無力なゆえに,その感情を表現できなかったり,復讐行動に移せなかったりする場合がある。このような感情の表現や表出が長年にわたり積み重なることで,転倒した価値意識を生む。つまり,自分の手が届かないような,ある人の美質や優れた点を認めないだけでなく,それをそのまま理由として,道徳的非難を行うなどの行動が生じる。堂々とした背筋の伸びた姿勢のよい人間に対して,「偉そうだ」と反発し非難するなどの感情や態度が,ルサンチマンに当たる。ここでは,価値の置き換え・転倒が生じている注7),8)。
炎上現象は,道徳的非難の形をとることが多く,有名人や目立つ者に対して向けられる。非難や怒りの根拠・理由が曖昧であったり,当人たちには自明と信じられても証拠や専門的解釈が不在の場合がある。
たとえば,多数の少年が起こした残虐な事件の加害者だったとうわさされ,ネットで執拗に攻撃が続けられたスマイリーキクチ氏9)の例では,明らかな証拠が存在しなかった。
また,2020年東京オリンピックエンブレムの盗作疑惑事件(以下,五輪エンブレム事件)においては,前出のシンポジウムにおける福井(2016)の説明によれば,著作権侵害が生じていると考える専門家はごく少数だったとされる10)。
すなわち,五輪エンブレム事件について,著作権実務の専門家の多くは,佐野研二郎氏のエンブレム作品が,ベルギーのデザイン事務所の著作権侵害とはいえないし,これが著作権侵害となれば,デザイン業務の多くが成立しないと考えていたと,著作権実務に詳しい福井(2016)は説明している10),11)。
証拠や専門的裏付けがないにもかかわらず,対象を執拗に攻撃し,その対象が存在することさえ(少なくとも,表舞台に存在することを)許さないという攻撃者の態度は,ルサンチマンの表れのように思われる。
前出のシェーラーによれば,議会制度や刑事裁判,決闘,新聞は,ルサンチマンとしての大衆情動を解除する役割をもっていると説明される。復讐感情や嫉妬を表現することで,その害を減少できるというのである注8),8)。また,同じくシェーラーによれば,身分制社会から解放され,誰もが原則的に平等であるとされる近代社会では,逆に他者との差異による小さな競争心や嫉妬がルサンチマンへと育つ可能性がある8)。シェーラーが正しければ,近代社会はルサンチマンを生みやすい社会だということになる。
もしかすると,インターネットにおけるルサンチマンに基づく道徳感情や正義感の発露は,シェーラーのいうように,大衆情動の解除という社会的機能を有しているのかもしれない。
ネットだけで炎上が起こっているならば,謝罪してアカウントを削除してしまえば,炎上は沈静化し,日常生活に被害は及ばない可能性が高い。特に,Twitterの場合,炎上しているのは,自分のタイムライン(TL)のみで,ネット全体に及ぶ現象ではない。Twitter Japan社 牧野友衛執行役員は,TwitterにおいてTLで炎上が起きたようにみえても,それは自分のTLだけのことで,ブロックやミュートなどで対処できるということをユーザーは知ってほしいと,ある講演で述べている12)。
しかしながら,やはりシェーラーによれば,上記のうち,新聞は「ルサンチマンを流布することによってその総量を増大させる」こともできるとされる8)。つまり,新聞があおったことで,さらにルサンチマンが募るということもある。
多くの炎上現象において,新聞をはじめとするマスメディアはルサンチマンの解除には役に立たず,むしろ増幅させ,さらに問題を手に負えないものに変えていったように思われる。その典型は,五輪エンブレム事件であろう。
遠藤ら(2004)は,マスメディアとネットでのコミュニケーションとの間に,言説の連鎖的な相互参照があることを指摘した。マスメディアで取り上げられた事柄についてネットで論評が行われ,その論評をマスメディアが取り上げることで,さらにネットでの議論が沸き立つという連鎖的な相互参照によって,「世論」が形成されることを,複数のトピックスについて実証的・経験的な仕方で示した13)。
遠藤ら(2004)の研究から,ネットでの意見はマスメディアに反発することもあれば,マスメディアがネットでの意見の大勢をおとしめることもあって,ネットとマスメディアの関係は一筋縄ではいかないことがわかる。
炎上現象が社会的に大きな事件となる場合,マスメディアがネットでの言説を拾い上げ,それを大きく取り上げて,その言説の正しさを裏付けるかのように報道が続くことで,当事者が問題をコントロールできないほどに炎上が増幅されると考えられる。
もちろんマスメディアは,世論をすくいあげて広く伝えることが役割の一つであるかもしれない。
ところが,ルサンチマンを取り上げて広めていけば,ただそれを増幅するだけであろう。田中(2016)がメディア学者の佐藤(2008)の見解を引きながら説明したように,今回に限らず,ネットでの言説をそのまま広めることには,公論(public opinion)としての世論の形成に寄与するのではなく,世情(popular sentiment)としての世論を扇動する結果となる場合が少なくないように思われる注9)。
マスメディアがルサンチマンをあおった結果として,前出の五輪エンブレム事件では,佐野氏とその家族は「これ以上は人間として耐えられない限界状況」に追い込まれたのではないだろうか。
しかしながら,著作権侵害には当たらないとする著作権法の専門家(たとえば,前出の福井(2016))の見解はネットメディアには掲載されたものの,新聞・テレビのマスメディアにおいては,ベルギーのデザイナーが著作権侵害で訴訟を起こしたこと,ネット上でこの問題を巡って炎上が起きていることを重点的に報じ,著作権の専門家がこの問題をどうみるかという解説は不十分だったように思われる注10)。
ネットで炎上現象が起きている際に,マスメディアは,こうした専門家の見解を重点的に伝えたうえで,炎上の「火消し」をしてもよかったのではないだろうか。すなわち,単純で制約が大きな表現(「ありふれた表現」と著作権法教科書などでは説明される)に関しては,その見た目が類似し,後発の著作物の著作者が先行する著作物にアクセスした(つまり,見たり聞いたりした)経験があっても,著作権侵害が成立しないと,マスメディアで専門家が説明してもよかったように思われる。
マスメディアは,ネットの言論と比較した場合,多くの専門家の知見を含む多くの社会的資源を活用して,広く信頼性の高い情報を伝えることができる点に優位性がある。ネットの言論を拾い上げて紹介するだけでは,今回のように,問題を増幅して,当事者をひどく苦しめる結果に陥ることになるだろう。
さらに,裁判によって決せられる著作権侵害事件のように,専門的知見と適正な手続きによって解決されるべき問題について,世論だけを取り上げて,問題を複雑化するのは望ましいことではないはずだ。
ところで,ここまで炎上現象はルサンチマンのなせるものではないかと議論してきたものの,実際のところ,炎上現象における怒りや正義感は,復讐感情や嫉妬が(当人にもわからない形で)偽装されたルサンチマンか,それとも問題解決へと結び付くポジティブな怒りや道徳感情であるか,即座には判断しがたい。私たちの日常生活における憤りや正義感も同様だ注11)。
シェーラーが正しければ,競争社会である近代社会に生きる私たちは,ごく少数の例外を除けば,そもそもルサンチマンに陥る危険が常にある。仕事や友人関係,恋愛など自分の意のままにならない事柄はたくさんある。ネガティブな感情を制御し,ルサンチマンに気付き克服しようとする個人的な試みは,確かに有意義であるし,称賛されるべき態度である。
ところが,その「意のままにならない事柄」の原因は,私たち人間社会の前提や仕組み,私たちが他人(特に社会的な弱者)に向ける態度(とその前提となる価値意識)であったり,その他苦しんでいる当人の意思ではどうにもならないものであるかもしれない。だから,ルサンチマンに陥った人々をただ非難し,ルサンチマンを克服せよと責めても,問題を解決するどころか,当人や私たちの苦しみを長引かせ増幅する可能性もある。つまり,他者非難のためにこの概念を使うだけでは,問題は解決しないだろう。
インターネット利用の場面に戻れば,私たち自身が正義の発露と思って,匿名で気軽に他者を非難しようとするとき,いったんキーボードを打つ手を止めて,わが身を振り返ることができれば,炎上や「類焼」を起こしたり,加担せずに済むかもしれない。ルサンチマンから,否定のための否定,反対のための反対に走っていないか,私たちは,ツイートや書き込み,他者をただ否定しようと非難する前に立ち止まることはできるだろう。
また,シェーラーの議論にせよ,ニーチェの議論にせよ,ある時代・社会における社会的弱者の批判や道徳的反駁(はんばく)について,すべてルサンチマンであると片づけるかのような傾向には,極めて強い違和感を抱かざるをえない。また,特定の民族や性が転倒した価値意識を抱きやすいとするならば,それらの民族や性が置かれた社会的条件について,慎重に検討を加えたうえで,その表現にも細心の注意を払わなければ,偏見や差別を助長するだけであろう。
いずれにせよ,他者の態度をルサンチマンと分類し断罪するのは,他者の否定によって自分を強者の立場に置く,それこそ転倒した価値意識の働きかもしれない。本文で述べたように,むしろ自分自身がルサンチマンに陥っていないかどうかチェックし,自らの考えと行いを正すために,この価値意識・態度に関する知識を使う方が,実は有効であろう。