2020 Volume 36 Issue 1 Pages 12-17
2006年秋,ライターの山田直樹さんから連絡が入りました.山田さんとは,ドキュメンタリー番組制作に際して,情報交換する関係でした.「折り入って,お話ししたいことが……」ということでしたので,ゆっくりと時間が取れるように,赤坂の店で落ち合いました.
「実はうちの長男の病名がわかったんです」と話を切り出されて,最初は何のことかわかりませんでした.それは「AADC欠損症」との出会いだったのです.山田さんは,熱心に病気の説明と,長男慧さんが生まれてから,ここまでの経緯を丁寧に話してくれました.
ではAADC欠損症とはどのような疾患なのか?
2015年に遺伝子治療を成功させた自治医科大学(栃木県下野市)のホームページに説明がありました.
「芳香族Lアミノ酸脱炭酸酵素は,重要な神経伝達物質であるドパミンやアドレナリン,セロトニンの合成に必須の酵素です.ドパミンは主に運動機能を調節し,アドレナリンは自律神経の働きを調整,セロトニンは睡眠・食欲・体温などの体のリズムや感情などの調節と関わっているとされています.いずれも人として生きてゆくうえで,大切な働きをしているのですが,AADC欠損症は生まれつきAADC遺伝子の変異があり,AADCが働かなくなる常染色体劣性遺伝性疾患なのです.寝たきりで首がすわらず,眼球が上転する発作やジストニアと呼ばれる全身を硬直させる発作があり,症状が進むと死に至る難病でした.2006年秋の時点では,日本でAADC欠損症患者はわずか3人,世界でも100人程度の「希少難病」だったのです(Fig. 1).
奇跡の子どもたち(株式会社タキオンジャパン提供)
はじめて山田慧さんと会ったのは,2007年2月18日でした.山田さんのお宅を訪ね,直樹さんと章子さんご夫妻と共に慧さんにカメラを向けた日です(Fig. 2).母親の章子さんは,ありのままの慧さんを取材・撮影して伝えてほしい,と話し,私は,わかりました,と答えました.
奇跡の子どもたち 山田家写真(株式会社タキオンジャパン提供)
その後章子さんとの会話では「ゼコゼコはどうですか?」が挨拶代わりになりました.寝たきりの慧さんは,自力で“痰”を吐き出すことができません.
いつもそばで見守る章子さんが,細い管で痰を吸い出していかなくてはなりません.痰の吸引を終えると,慧くんを抱きかかえて,気泡が胸にたまらないように,胸を抑えていました.普段はおだやかな笑顔の慧くんが不機嫌そうな表情に変わると発作が始まる兆候です.その頃は日に数回発作に苦しんでいました.この「ゼコゼコ」していた状態は,嚥下機能(飲み込む力)が落ちて,唾液までもうまく呑み込めなくて気管に入ってしまい,また肺を動かす筋肉が弱くて,肺がきちんと膨らまず,気管に入った異物や痰を吐き出す力がないために,「ゼコゼコ」になっていたのです.従って「ゼコゼコ」が改善して,「呼吸が安定してほしい」というのは,当時のご両親の願いでした.
慧さんは生後間もなく異常が見つかり,原因がわからないままさまざまな検査を受けていました.脳性麻痺をはじめ,どれにも当てはまらなかったと言います.そして10年が経ち,髄液の検査の結果,2006年8月,AADC欠損症という病名が判明したのです.病名がわかり,病気への向き合い方,治療法を求める気持ちが強くなっていた時期でした.その後月2回ほど山田さんの自宅に通いました.そして徐々に取材対象を広げました.慧くんが通う特別支援学校,障害者医療が専門の東部療育センターです.特別支援学校では,登校してすぐ健康調査を受けます.体温測定や母親からの聞き取りをして慧くんの健康状態を確認します.教室ではマンツーマンで担当教師が接します.療育センターでは,運動療法と機能改善訓練のためのリハビリを行います.硬くなりやすい筋肉をほぐし,身体の柔軟性を取り戻すのです.
2007年6月,AADC欠損症の残る2人を訪ねました.山形県南陽市に住む松林佳汰さん,亜美さんの兄妹です.二人の主治医は山形大学医学部附属病院小児科の加藤光弘医師でした.加藤医師は兄妹の同じ症状をみて,国立精神・神経医療研究センター(東京)を受診するよう勧め,診断の結果,日本で初めてのAADC欠損症患者と分かったのです.そこで加藤医師と連絡を取り,松林佳汰・亜美さんの取材のお願いをご両親に取り次いで欲しいと依頼し,了解を得ました.
松林佳汰さんは1999年12月生まれの7歳,亜美さんは2003年生まれの4歳でした.松林さんのお宅を訪ね,父勝之さん,母瑠美子さんとお話ししました.勝之さんは「私はこのような病気があることを知りませんでした.二人の病名を知った時は,正直びっくりしました.この病気のことを世の中の人に知ってもらい,自分の子どもはともかく,他のお子さんを救うことになればと思います」と快く撮影に応じて下さることになりました.
その日はお父さんのお休みの日.佳汰さんと亜美さんの間に生まれた長女の紗希さんと家族はファミリーレストランに向かいました.お母さんは両脇に車椅子に座った佳汰さんと亜美さんを置いて,スプーンで食事をすりつぶしながら口に運んでいました.オレンジジュースもスプーンですくい,飲ませます.
「どう?おいしい?」「まだ食べる?おなかがすいていた?」答えのない二人に話しかけながら,自分が食べることを忘れて,家族の食事の時間を楽しんでいました.
一か月後,日に数回に分けて投与する薬と栄養補給の時間.天井から吊るされたフックに掛けられたパックには,液体状の薬が入っており,管(チューブ)を通して,佳汰さんと亜美さんの鼻から注入していました.お昼寝の時間,亜美さんが泣きだし始め,やむことがありません.発作が始まったのです.隣に横たわる兄,佳汰さんが妹をなだめるように手を添えますが,収まる様子は見えません.激しく泣く亜美さんをカメラは捉え続けました.そしてご両親は,ありのままを撮り,公表してほしいと念を押しました.つまり一切の映像加工処理(顔がわからないようにモザイク処理する)をしないということを確認しました.わざわざそのことに言及してくださったことに,私は感動しました.
2007年7月から慧・佳汰・亜美さんの3人の取材・撮影が続きました.
慧さんは7月,運動療法の一環として,特別支援学校最上階にあるプールに入りました.母章子さんが首のすわらない慧さんを支え,プールに漬かりながら身体の緊張をほぐし,いかにリラックスできるか,取り組みます.20分,30分と次第に,慧さんの表情も体の突っ張りも和らいでゆくように見えました.
東部療育センターでは筋肉をほぐす理学療法の他に,作業療法がおこなわれました.担当の先生もいかに楽しく両方に取り組ませられるか工夫します.
慧さんはゲームを通して,認知機能を高め,身体の反応を養うことになりました.画面を動く標的に弾を当てるゲームです.慧さんの表情は真剣そのもの.先生も「サトシ,思いっきり打ってみろ」と突き放します.何度かタイミングが合わず,外れましたが,繰り返し行うことで,標的に弾が当たりました.慧さんは満足そうな笑顔を浮かべていました.
佳汰さんと亜美さんは,山形県立総合療育訓練センターにいました.療法士の先生に支えられて立ち歩きをします.自分の意志で体を動かすことのできない二人は,すべて支えられながら,リハビリを続けています.この日はさらに障害を持つ小児が通える民間施設で,お昼寝,おやつ,歌う,遊ぶのプログラムで午後の数時間を過ごしました.このわずかな時間を使って,母瑠美子さんは,食料品や生活物資のまとめ買いにスーパーへ向かいました.
松林家の地元にある熊野大社.その宵宮の日,瑠美子さんは,佳汰さん,亜美さんらと浴衣を着て向かいます.地元で生まれ育った瑠美子さんは,近所の皆さんとのお付き合いを大切にしています.周りの皆さんも二人の子どもが希少難病であることをご存知です.熊野大社の境内には屋台が軒を並べ,“おみくじ”を引き,お母さんは二人の手を合わせてお参りしていました.
地元の若い衆が翌日神輿を練り歩く相談をしていました.半纏にねじり鉢巻き,男衆です.顔なじみのご近所さんが佳汰さんに声をかけます.佳汰さんも見知った顔にニコニコと微笑みます.
「OK,ニコニコしてるな.OKだな,よ~し,病気に負けんなよ.病気に負けねで,お前も大きくなったら神輿担げよ,な.よ~し,がんばんんべ~」と佳汰さんの頭を撫でまわします.少々荒っぽい,心のこもった激励の言葉でした.佳汰さんは,男衆の勢いに圧倒されながら,嬉しそうでした.本当に,いつか大きくなったら神輿を担げるようになるのでしょうか?そんな未来がやって来るのか.その時はそう思いました.
取材を始めて半年後,希少難病AADC欠損症の治療法はどこまで進んでいるのかを知るために学会を訪ねました.最初は第49回日本小児神経学会(大阪)ですが,AADC欠損症についての研究成果は見当たりません.続いて「第41回日本てんかん学会」(福岡)を訪ね,その会場で加藤医師から台湾大学の李旺作教授を紹介されました.李教授はすでに台湾の患者を多数診ていました.台湾の患者の様子はどうか,について聞きましたが,東京に寄ってから帰国すると聞き,二日後東京で山田さんご一家と会っていただけることになりました.李教授は慧さんに投与されている薬の種類や処方法を聞き,お母さんは「ゼコゼコ」の症状緩和について聞きました.こうして希少難病に関わる医師と患者家族が国を越えて繋がりました.
1996年から始まった蔵王セミナー,正式には「小児神経症症例検討会」です.冬の2月,山形県蔵王のふもとの温泉ホテルを会場に,全国から小児神経医が集まってきます.大学や地域の病院・施設などの境界と世代を越えて,医師たちが自費で集合します.それぞれ今抱えている患者の症例を伝え,自分の診断,診察が正しいのかどうか,参加者同士がざっくばらんに意見交換する場です.蔵王セミナーの事務局を務めるのは,加藤光弘医師でした.蔵王セミナーへの参加には掟(心得)がありました.
◆蔵王セミナーでは必ず1回は発言する
◆恥をかくことを,潔しとする
◆ふだん着で参加し,上下関係は気にしない
AADC欠損症の患者の取材を開始して2年後,「第14回蔵王セミナー」(2009年2月14日~15日)では,加藤先生に企画していただいてAADC欠損症の患者・家族に参加していただきました.全国の意志の皆さんに,この病気の症例をじかに知っていただき,理解を深めていただくと共に,新たな患者の発見に繋ぎたいという考えからでした.2日目の朝,米国ニューヨークのAADC欠損症の患者,スワティ・プラパガールさん(7歳)の自宅とスカイプで繋ぎ,患者家族同士の交流を行いました.セミナー開始前の朝8時から約一時間続きました.そしてセミナー終了後の午後2時から大広間で「第1回小児神経伝達物質病研究会」が開かれました.セミナーから残って下さった全国の医師は30名.内容はAADC欠損症の公開診察です.山田慧さん,松林佳汰さん,亜美さん,次々と診察を受けます.初めてAADC欠損症の患者を診察する医師の方々.
その診察の間に,佳汰さんに発作が起きました.体が硬直し,眼が上を向く症状が現れたのです.すかさず加藤先生が解説します.「多分ここにいる皆さんが,この状態をパッと見ても,誰も発作だとは思わないでしょう.診察室の短い時間で,この状態で入ってこられて,『オクロジャイルクライシス』と分かる人はかなり少ないんじゃないかと思われます」と.松林勝之さんは「こういう機会が生まれるとは想像もしていなかったので,皆さんに感謝しています」と感謝の言葉を語りました.
この年,松林さん,亜美さんは鼻からチューブで薬や食料を注入していたのをやめ,「胃瘻」を始めました.直接体内に注ぎ込むことにしたのです.
取材を始めたのは,AADC欠損症を広く世の中に伝え,治療法が見つかるキッカケになればというものでした.そこで2010年春,「テレメンタリー」(テレビ朝日系,30分ドキュメンタリー)で放送することになりました.初めて電波に乗り,全国から反響がありました.しかしその時点でも新たな患者は見つかりませんでした.その頃,台湾では画期的な治療法が行われていたことを,のちに知りました.しかし,日本で行われる可能性は見つからず,数年が経ちました.
それは一本の電話から始まりました.
2015年5月20日,佳汰さんと亜美さんの母,松林瑠美子さんからでした.
「稲塚さん,お久しぶりです.急に決まったことですが,来月佳汰と亜美が自治医科大学に入院して,“遺伝子治療”を受けることになりました.撮影に来られますか?」驚きました.治療法が見つからないと言われていたAADC欠損症です.「わかりました.必ず伺います.お知らせ下さってありがとうございます」と答えました.
6月3日朝,山形県南陽市の松林宅を訪ねました(Fig. 3).その時佳汰さんは15歳,亜美さんは12歳になっていました.父勝之さんは,「5月の連休明けに自治医科大学で遺伝子治療について伺いました.ようやく治療ができると聞いて,嬉しい反面不安もあります.台湾では治療を受けた子供たちがほとんど座れるようになっているというのです.もう信じられない奇跡の話ですよね」母瑠美子さんは,「発作がおさまるのであれば……」と思ったと言います.
奇跡の子どもたち 亜美さんを抱く母(株式会社タキオンジャパン提供)
翌6月4日朝,遺伝子治療のため,瑠美子さん運転のワンボックスカーで佳汰さん,亜美さんの兄妹は自治医科大学に向かいました.
到着後,病室に現れたのは主治医の山形崇倫小児科学教授(とちぎ子ども医療センター長)と担当医の小島華林医師でした.私はこれまで取材してきた経緯から,特に取材を許していただきました.記録映画「奇跡の子どもたち」が完成し,上映できたのは,自治医科大学の協力があってこそと感謝しています.
一週間後,遺伝子治療のカンファレンスがありました.山形・小島先生に加え,手術を担当する脳外科の中嶋先生も参加して,詳しく遺伝子治療の手術の説明があったのです.手術は「定位脳手術」と呼ばれ,脳の表面2か所に穴をあけ,5センチほどの「被殻」と呼ばれる場所に,AADC遺伝子のベクターを注入するというものでした.患者二人は意志伝達手段がありませんので,親御さんの承諾を得て行う「臨床研究」ということで,手術を行うことになったのです.
約一時間,手術の内容について,丁寧な説明を受けた母瑠美子さんは「よろしくお願いします」と伝えました.
最初に遺伝子治療を受けたのは,佳汰さん.6月29日の手術日,朝から病室を訪ねました.兄と妹の絆は深い,手術室に向かう時間が近づくと,亜美さんが大声で泣き始め,つられるように佳汰さんも涙ぐみます.担当医の小島先生が佳汰さんを懸命になだめます.お母さんによると佳汰さんは前日午後からメソメソし始めていたとか.9時には手術室に入り,予定通り遺伝子治療が行われました.午後3時手術終了.佳汰さんはPICU(小児集中治療室)へ.母瑠美子さんは,執刀医の中嶋先生から説明を受けます.心配された脳内の出血も見られず,手術は無事終了.AADC遺伝子のベクターが脳内に注入されました.
一か月後,次は妹の亜美さんです.こちらも無事手術が終了しました.
そして手術から二週間経った頃から,少しずつ動きが出てきました.腕が活発に動き始め,佳汰さんは物を掴み始めたのです.亜美さんも手術後まもなく,活発に体が動くようになりました.
佳汰さんは手術から二か月後にPET検査を受けました.特殊な薬を使い,佳汰さんの脳内にAADCベクター(酵素)が根付いたかどうかを調べる検査です.山形教授,小島医師,検査技師らが見守る中,脳を映し出した画面の一部が赤く色づき,脳内にAADCベクターが定着していることが確実になりました.遺伝子治療手術が成功した証でした.母瑠美子さんは画面を見て,「すごーい」と声をあげました.その二か月後亜美さんもPET検査で同じ結果が出ました.そして翌2016年1月には,山田慧さんも遺伝子治療を受けたのです.
2016年春,2度目の「テレメンタリー」が全国上映されました.AADC欠損症という希少難病で寝たきりだった3人が,遺伝子治療によって思いがけない改善が進み,さらに今後も改善されて行くことが予感される内容に,大きな反響が起きました.手術から三か月後には首がすわり,次第に発作が減少し,発作が見られなくなったのです.2016年冬,10年前と同じように亜美さんは口から物を食べることができるようになりました.歩行器を使って,自分のチカラで一歩一歩歩み始めます(Fig. 4).佳汰さんは自分の手を使って,電動車椅子のレバーを動かしながら,前へ進むことができるようになったのです.慧さんは,「ゼコゼコ」が解消し,食べ物がスムーズに咽喉を通る,「嚥下」の機能ができるようになりました(Fig. 5).
奇跡の子どもたち 亜美さん笑顔(株式会社タキオンジャパン提供)
奇跡の子どもたち 佳汰さんの笑顔(株式会社タキオンジャパン提供)
そして翌2017年春,記録映画「奇跡の子どもたち」が完成しました.取材を始めてから10年が経過し,AADC欠損症の3人の子どもたちは寝たきりで,発作に苦しみ,自分の意志で体を動かすことができませんでしたが,遺伝子治療によって,奇跡的ともいえる改善を果たしたのです.映画は全国で公開され,今も上映会が続いています.2018年には「第59回科学映像祭グランプリ」,キネマ旬報文化映画部門第4位となり,2019年10月には「サンフランシスコ日本映画祭」で英語版として上映されました.
AADC欠損症の国内の患者は,現在6名.次々と遺伝子治療を受けて,改善しています.2007年に初めて訪ねた時,松林勝之さんは,「この病気のことを広く世界に伝えることができれば,自分の子どもはともかく,他のお子さんを救うことになるかも知れない」と佳汰さん,亜美さんの取材に快く応じてくれたのです.その言葉に背中を押されて,取材を続けてきて本当によかったと思います.いま,慧さんは20代になり,佳汰さんは高等学校を卒業し,亜美さんはさらに活発な動きを見せています(Fig. 6).
奇跡の子どもたち(株式会社タキオンジャパン提供)
そしてこれから,AADC欠損症の遺伝子治療の成果を踏まえて,ほかの小児神経物質病に生かせる研究と治療が進むことを願っています.