2023 Volume 31 Issue 3 Pages 288-292
本学会にはすでに40年を越える歴史がある.呼吸ケアは,相互に深く関連する呼吸リハビリテーションとともに多職種の医療者により継続的に維持,発展してきた.高齢化社会を見据えて包括的な様式で進められ,地域ごとに多様化し発展している.協調して医療に従事する際には職種間の情報伝達,情報の共有,各職員の意欲と共通テーマの議論を日常の医療活動の中で進めなければならない.実臨床の中では,基本的な知識,経験差による考え方の相違など解決すべき将来の課題は多い.その中で意欲的に医療に貢献するという意思の共有は学会活動の基礎となるものである.
本学会はスタートの時点から多職種が参加するという他学会に類をみない構成が特徴である.総合的治療,集学的研究,集学的チームが,その体を表すものであり,多職種連携,多職種連携教育はその内容を示すものである.患者を最優先とし,競争意識をもった医療チームであり,イノベーションを受け入れ,経営を意識したリーダー・シップが求められている.多職種が連携して進める呼吸器疾患の治療戦略と活動の中で本学会が持つ社会的責任は大きい.
わが国には,呼吸器領域に限っても多数の学会組織があるが呼吸器内科学を中心とした医師グループから構成されている日本呼吸器学会と医師を含む多職種から構成される本学会の存在が大きい.
本学会の基礎となった第1回呼吸管理研究会は,1980年に開催された.芳賀敏彦,長野準,岡安大仁の各先生方のご努力によるものだった.1990年には学会誌発行となり,翌1991年に第1回日本呼吸管理学会の開催に至る.当時の発表演題は多岐におよぶ呼吸ケア領域に関するものであり,近年の演題と比較しても遜色がない.学会の運営と組織の維持には多額の費用を要するがこの時期に経済的に支えていただいたのは主に製薬メーカーであるが同じ形式で継続することはできなかった.私の入会は,1995年であったが,2006年には,総務委員として現在の「日本呼吸ケア・リハビリテーション学会」への名称変更の会議に加わった.米国で本学会に相当するAmerican Association of Respiratory Care(AARC)の出発が1980年であったが比較してもほぼ同じ時期からスタートしている.発足以来,米国学派の影響を強く受けながら進歩してきたがわが国では高齢医療に力を注いできた政策を反映して多職種による医療は独自の形で進歩してきた.
2012年,一般社団法人として法人格を取得し,私が初代の理事長を担うことになったが,思わぬ最初の難題が,過去に遡って多額の納税を求められたことだった.5年以前は時効になっているという解釈で免除してもらったが学会の規模にしては膨大といえる納税額となった.この出来事は,学会が将来も経営的に安定し,継続できるためには,会員数を増し,さらに多くの会員が意義を理解し,継続的に支えてくれる体制の整備が急務であることを教えてくれた.そのために,任期中に行ったことは,1)保険委員会の整備.会員が関わる医療業務の保険点数を確保し,収益に関わっている職種であることを理解してもらうことが必要である.2)慢性呼吸器疾患の認定看護師制度の発足.管理母体は,日本看護協会にあるが呼吸ケア領域に特化したレベルの高い専門看護師教育を目的とした.3)呼吸ケア指導士の発足.本学会を構成する多職種の医療者が共通で学び,若い世代を含め,つねに新しい呼吸ケアの体制を維持していくことが必要である.試験で判断するのではなく,参加してもらい,新しい情報に触れ,学ぶという形の整備が目的だった.
わが国では結核後遺症やポリオの後遺症が大きな社会問題となった時期があったが早い時期にこの領域に力を入れていたのがスウェーデン,フィンランドなど北欧だった.わが国での呼吸リハビリテーション(呼吸リハ)の濫觴は,芳賀敏彦先生が担った,と私は考えている.先生は呼吸器外科医だったが,わが国に呼吸リハという医療がなかったことを関係者から指摘され,修学のため北欧へ派遣されたと聞いている.
リハビリテーションは,古い歴史をもった医療である.ラテン語のhabilitatusを語源とし,適した状態にする(make it suitable)という意味をもつ.仏訳で能力(capability),熟練(skillfulness)という意味が付加された.William Osler(1849-1919年)は,「障碍者に対するリハビリテーションとは,医療が有するすべての叡智と個人の勇気をもってあたることであり,これを無駄なく適切にチーム医療として実施していくために科学的立場で患者を評価することが欠くべからざる要件である」と述べている.適切な評価の上に立ち多職種による実施は,この時期から提言されてきた要諦である.
呼吸リハは,1970年頃には全米各地で実施されていたが一定ではなかった.1980年代には毎年,米国胸部学会誌に全米の呼吸リハを行っている施設名が一覧表で公示,掲載されていた.実施施設は米国ですら限られていた.1974年,臨床色が強い米国胸部医師会(American College of Chest Physicians)の呼吸リハビリテーション委員会により組織化が提案され,米国胸部学会(ATS)が承認した.1994年,米国国立衛生研究所(NIH)の呼吸リハビリテーション・コンセンサス委員会が独自の定義を発表.1999年,ATSが改訂した定義を発表.以降は,ATS主導として進められてきた.
第32回本学会の招請講演の中でSally Singh教授が述べていたが1),黎明期の米国の呼吸リハの体制整備は,コロラド大学教授のPetty(1932-2009年),カリフォルニア大学教授のHodgkinの努力が大きかった.Hodgkinらが編集した,「Respiratory Care: A Guide to Clinical Practice」2)では呼吸ケアの黎明期は,パピルス記載のエジプト時代に始まること,人工呼吸器の発明は1948年に始まり,集中治療として整備されていく歴史が記載されている.1960~70年代に,集中治療の組織化や酸素療法の機器開発が進んだ.その発展史でPettyは,集中治療室からスタートし,在宅医療にまでの呼吸ケアの在り方について整備を進めた.彼は,人工呼吸器におけるPEEPを発明した人として知られている.1980~90年代の当時,新しい医療機器の開発への取り組みは米国で先鋭的に進められたがPettyの協力を得るためデンバーだけで150社以上の会社があったと伝えられている.多職種の参加が院内だけにとどまらなかったことは注目されてよい.「多くの専門分野にわたる学際的な」協力の考え方は米国ではこうして進められた.わが国では青柳卓雄氏によるパルスオキシメータの発明(1974年)による貢献が大きい.
呼吸リハは,英米では,通常,センター施設で行う通院型として,8週間コース,各2時間,疾患に対する教育および肺理学療法を実施するものが基本形となっている.近年,ようやく軌道に乗ってきたが米国,カナダでの調査では重症COPDでは呼吸リハが必要な患者の9%にしか実施されてこなかった.これも新型コロナウィルス感染のパンデミックの影響で通院型は崩壊状態に陥ってしまった.2019年5月,ダラスで緊急的に開催されたATS/ERS合同のワークショップは,危機的な状況に陥った従来型の呼吸リハの見直しを目的とした.多職種として呼吸器医,老年学,緩和ケア,プライマリケア,運動生理学研究者,理学療法士,作業療法士,栄養士,教育担当,心理学者ら計100人が参加してウェブ方式で開催された.オンラインによるDelphiプロセスという方法を用いて合意事項が発表された3).目的は,呼吸リハの本質的な要素と結果の確認,支払い側(保険者)合意による新しい呼吸リハとモデルの構築であった.このワークショップ内容について,第32回本学会で同じく招請講演を行ったBourbeauが自分の意見を投稿している4).論文の中で,呼吸リハは多職種による共同作業であり,教育,運動,不適切な生活習慣の変更を教えるものであること.実施の効果として,運動能力が向上し,労作時息切れが改善し,健康状態の全体が改善していくこと,その結果として増悪回数が減少し,医療費減額効果が得られるとしている.従来型の大病院通院型の呼吸リハは崩壊に近い状態にあることから新しいタイプの呼吸リハの立ち上げが急務であると述べている.会議の総括の一つとして,従来の呼吸リハの定義は変更を要しないがリハ効果を挙げるため「包括的な患者評価」が最重要であることが確認された.従来は,呼吸リハの実施項目に重点が置かれてきたが高齢患者が多くなるに従い,わが国でも取り入れられてきた高齢者総合機能評価,CGA(Compliment of Geriatric Assessment)似た評価が重要であることが認識されてきたということであろう.
急性期の集学的治療として複雑な機器使用による集中治療では,医師,看護師のみでの対応は困難であり,さらに患者を中心とした医療の質と効率性を高めるため多職種(multidisciplinary)という考え方が急速に進んだ.多職種で業務を行うという考え方は,1944年頃,すでに提唱されていたがWHOが「医師以外の専門職が医師と同等の立場で働く」と医療分野での多職種業務を奨めた.
急性期に行われる集中治療室での治療が多職種で実施され,効率を上げてきたが在宅医療の効率を高めるために多職種で実施されるようになったことは当然の流れといえるものだった.1997年介護保険法が成立し,2000年より施行された.これは,地域ごとに取り組むことと,多職種連携が必要とされるものであった.これに関する臨床研究は2000年以降,急速に進んできた.多くの邦文論文が発表されてきたが,要点をまとめると,多職種の中で情報が共有され,連携のなかで適切な情報提供が実施されるべきこと,対象患者への有効な問題解決が連携の中で組み立てられること,そのために連携の中ではアセスメントの補足がなされるべきであること,などが提言されてきた.経験にもとづく各論的な発表が大多数であり,総論的に論じたものは少ない.
在宅酸素療法は,Pettyの恩師のニューヨーク大教授,Alvan Barachのアイデアを実現したものだった.1950年代,二人の間で130通あまりの手紙のやりとりがあったがその中でBarachは,将来はこうなって欲しいという希望を込め,小さな酸素ボンベを持って街を歩く患者の漫画をPetty宛ての手紙に記していた5).
わが国では,厚生省特定疾患呼吸不全調査研究班が中心となり各種の難治性呼吸器疾患の臨床研究が進められてきた.1980年代にわが国ではすでに政策として高齢者医療が進められてきたが,多くの肺結核後遺症による慢性呼吸不全で長期入院を強いられていた人たちが在宅で継続治療できるために整備されたのが「在宅酸素療法」であった.医療チームで進める呼吸ケアは薬物や機器の急速な進歩と平行して理論,手技の進化がつねに求められ高度化し,複雑化している.急性期の呼吸ケアが軌道に乗った段階で,Pettyを中心とするデンバー・グループが進めた「長期酸素療法」はわが国では「在宅酸素療法」と呼ばれ,保険診療の上でも区分されてきた.これは高齢社会の呼吸ケアのあり方を見すえたものであり,デンバー・グループが進めてきた「長期酸素療法」とは考え方は必ずしも同一ではない.科学的検証としてのエビデンスを一致した基準で用いることが難しいことを示唆する.
私は,環境省所管の公害健康被害補償予防協会(当時)のサポートを受け,1995年1月に当時の研究班員11人とともに米国で呼吸リハに力を入れていた4施設を視察した.その一つがサンフランシスコ近郊にあるSt.Helena Hospitalであり当時の病院長がHodgkin教授であった.また,同時に訪問したHarbor UCLAでは運動生理学を専門とするCasaburi教授が実験中であった.この視察旅行で得た知見をもとに私は,報告書として重症の慢性呼吸器疾患の患者に対する呼吸リハとして「包括的呼吸リハビリテーション」と呼ぶ呼吸リハの考え方を提唱した6).これは一定の包括的な評価と基準に立ち,最重症で実施する在宅酸素療法を多職種で継続実施してことを基本的な考え方としたものであった.在宅酸素療法の黎明期に当たるこの時期,私自身は,東京都老人医療センター(現,東京都健康長寿医療センター)に勤務していたので在宅酸素療法は,高齢者の重症呼吸器疾患であっても快適で安全な在宅生活を維持するための要件と位置づけ取り組んできた.すでに訪問指導を含め多職種で活動していた.呼吸リハは,在宅酸素療法の実施とセットとなるべき治療法である.
多職種連携が進むにつれ,呼吸ケアの考え方にも変更と深化がみられるようになってきた.その要点は,医療者側の問題点として拡大してきた実臨床に応じた継続的な教育プログラムにあり,flexibility(時機に応じた柔軟な対応策), expertise(高い専門性),life-long learning(生涯継続の学習)の3要素の重視である.すなわち,提供されるケアの発展,環境に応じた柔軟な対応策と医療者自身の修学が強く求められるようになってきたことである.私は,わが国の多職種連携で進められている医療の形式を,指揮をとる医師の指示系統が明瞭なオーケストラ型,医療者相互が阿吽(あうん)の呼吸で実施している雅楽型,指揮者の存在が明確ではないが互いの協力で進められるジャズ型に分類している.どの様式も利点,欠点があり一概に論ずることは難しいがclinical governance(臨床的な管理体制)としての統括性をどのようにそれぞれの医療チームの中で維持,管理していくかが課題である.
他方,多職種連携が進むにつれて問題となってきたことも多い.以下がその問題点である.
・医療ケアの内容が複雑化してきた.
・病院医療とクリニックケアの断裂が生じてきた.
・その中で高齢患者は孤立,分断化が進んできた.
・専門性が進むにつれ職種間の情報伝達が難しくなってきた.
・情報の共有による統一したケアが必要となっている.
・関係する職員の意欲の違いがある.
・共通に議論する際の基本的な知識が欠如しており提供内容にばらつきが大きい.
1993年にHodgkin,Celliらにより編集された呼吸リハのテキスト第2版の中で,Hodgkinは将来の呼吸リハが多職種の医療チームにより行われるべきことを強調している7).この本の第3版への寄稿を求められ私は,本邦における当時の呼吸リハが欧米と異なる点と独自に解決すべき点を指摘した8).20年以上を経てわが国の多職種参加型リハは格段に進歩してきた.
ウィズコロナからポストコロナの時代に移行しつつある現在,医療が置かれている状況は急速に変革が進みつつある.現状と将来の課題として以下の問題点が挙げられる.
・医療体制について社会が役割の変更を求めている.
・急性感染症の背景にある慢性疾患管理の重要性.これは,高齢者でコロナ死者が多かったことに対する反省点でもある.
・医療情報がメデイアを通じてお茶の間に継続的に,しかもさまざまなレベルで連続して提供されるようになった.
・予防という視点の重要さが認識された.
・ウィズコロナを経てポストコロナに入りつつあるが呼吸ケア専門チームの存在が見えてこない.
ウィズコロナの中で大きな問題となってきたことは,医療者が超多忙であり,急性感染症の治療が主という医療の中でスタッフ間の意思疎通を欠く状態が増え,医療スタッフの燃え尽き症候群が急激に増加していることである9).しかも,その背景には医療情報が急激に膨張してきたことがある.1950年代の医師は,習った情報が倍加する時間は50年間であり,新情報の修得に窮することはなかった.しかし,2010年代に入ると倍化時間は3.5年間となり,2020年代には3ヶ月未満となると言われている10).この中で米国では若手医師はじめ医療スタッフのburn-outは深刻と言われる.ウィズコロナの中でわが国でも離職を考える医療スタッフが多くなっている11).対策は,医療現場となる下流で行う相互交流,中流で行う職場組織の見直しがある12).私は上流で多職種を支える役割は学会組織であると考えている.先に述べた,PettyとBarachは,文通を通して多職種を含む医療の在り方の哲学論をかわしたと伝えられるがAuguste Conte(1798-1857年)のpositive philosophyが共通のテーマだったと伝えられる.彼らは早い時代にすでに多職種相互の進め方,あり方に強い関心をもっていたのである.
Pettyの弟子にあたるPiersonは,AARCで追悼講演を行ったがPettyが将来を多職種に託す後進たちへの言葉として次の6項目を贈っている13).
・医療チーム内で専門職として働くこと.
・呼吸ケアで働く全ての人がチームメンバーであり患者に対しベストの治療ができるように働く.メンバーは互いに連絡を取り合うこと.
・呼吸ケアの教育は患者に対し最善が向けられるものであること.
・臨床医,研究者,呼吸ケア関連企業が互いに連絡し合う.
・全ては患者のためであること.
・呼吸ケアは崇高な職種で魅力的な職業であることを自覚すべきである.
2009年9月,私は,Petty先生から急ぎの内容の手紙を受け取った.10月に私は第19回の本学会開催の会長を控えており超多忙の身だった.Petty先生は,原因不明の肺高血圧症で数回,手術治療を受け,自らが酸素療法を実施しておられた.手紙は,6年前に在宅酸素療法の患者,家族に向けた著書「Adventures of an Oxy-Phile」5)を早急に全面改訂したい,日本における在宅酸素療法の展開や問題点をまとめた論文を作成してほしいという内容だった.完成して先生の手元に届いたのが12月3日.すでに重症だったが先生は目を通してくだされ,コメントを頂いた.先生が医学論文にコメントを寄せた最後の論文だったと後日,Louise Nettさんが知らせてくれた.12月9日に逝去されたことを聞いた.単行書は,翌年,長年のco-workerであった秘書や看護師Nettら3人の手で出版された14).執筆者は,医師だけでなく患者会の世話人など多職種の関係者から成っており,先生が最後まで気にかけていたのが多職種による呼吸ケアの実現であるという目標が感じられる構成となっている.巻末にはPetty先生と執筆者20人たちとの交流の歴史が記載されている.私とは1979年,留学先のカナダ,Winnipegで会ったのが最初でありわが国の在宅酸素療法の推進に向け交流を続けた,と私の顔写真と執筆者としての紹介がある.裏表紙には,釣りが趣味だったPetty先生が大きな鱒を釣り上げ破顔一笑.“patients come first”が口癖だったとの言葉がある.
慢性呼吸器疾患における呼吸ケアの体制は,わが国では地域包括ケアの方針を受けて独自の様式が作られつつある.コロナ禍の中で築かれてきた医療体制は全面的な見直し作業が始まろうとしている.その中にあって,患者を最優先とすること,多種職による構築をさらに進めるべきことに加え競争意識をもったスーパー・チームの構築とつねに医療経営を意識した行動など新時代に求められる課題は多い.
基調講演の機会を与えていただいた第32回本学会総会会長,桂 秀樹教授およびプログラム委員会の先生方に感謝します.
本論文発表内容に関して特に申告すべきものはない.