Latin America Report
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The Social Crisis and the income distribution in Chile: toward a better pension system
Koichi KITANO
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2020 Volume 36 Issue 2 Pages 16-31

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要約

2019年10月中旬に中高生の地下鉄無賃乗車運動から始まったチリの大規模な反政府デモは、瞬く間に社会問題全般に対する改善要求へと変わっていった。特に、高齢者の貧困の問題と年金改革要求は広く国民が支持する要求となった。統計データから見ると、チリの貧困・所得格差の実態は近年改善がみられる。しかし、OECDへの加盟や左派勢力の躍進などにより、貧困・所得格差の問題に関する民衆の不満は急速に高まっている。これまで、チリは比較的安定した政治システムと堅実な経済政策を維持してきたが、躍進する左派勢力と力を増す民衆運動を前に、政策の大転換を迫られている。

はじめに

2019年10月中旬に中高生の地下鉄無賃乗車運動から始まったチリの大規模な反政府デモは、世界中のメディアから注目されることとなった。ちょうど1カ月先には、米中貿易戦争の行方を占う上で注目されていたAPEC(アジア太平洋協力)首脳会議が予定されていたこと、さらに、これまでラテンアメリカの中で政治的にも経済的にも安定していると思われていたチリで、突然の非常事態宣言と夜間外出禁止令が発令される事態になったからだ。当初一部の学生による騒動と思われていた運動は、数日のうちに一般民衆にまで拡大し、その要求は発端となった地下鉄運賃値上げ反対だけでなく、チリが抱える広範な社会問題の改善要求となった。マスメディア各社は、運動の発生当初には中高生の「大規模地下鉄無賃乗車(Evación Masiva de Metro)1」の見出しで報道していたが、一般民衆が反政府デモに参加するようになると、この運動を「社会危機(Crisis social)」と呼ぶようになった。

2019年10月18日に「社会危機」が勃発して以来、チリ政府の政策優先順位は一変した。その前日までは、大統領官邸では連日主要経済閣僚が集まりAPEC首脳会議に向けた対策が練られていた。APEC会議を主催することは、停滞局面にある経済状況を改善する切り札として、ピニェラ大統領が世界の自由貿易にコミットする姿勢を国内外にアピールできる絶好の機会と考えられていたのである。さらに、12月2日からはCOP25(国連気候変動枠組条約第25回締約国会議)も予定されていた。ここでは、地球温暖化の解決にも尽力する成熟した国家の姿を打ち出そうと、8月には大統領がG7会場のフランスに飛び、各国首脳との事前調整を行うほどの熱の入れようであった。ところが、「社会危機」の勃発で、自由貿易や環境問題に代わり、反政府デモが要求する国内の所得分配・貧困対策が喫緊の政策課題となった。危機発生以降、貧困対策としての年金改革や新憲法の制定について、国会内外や大統領の周辺で連日議論が戦わされている。

今回の社会運動では、地下鉄運賃の値上げが直接の引金となったが、その後反政府デモに参加した幅広い年齢層の民衆の要求は、チリが永年抱えてきた広範な社会問題の改善であった。社会運動の背景となっているのは、低賃金と高止まりする所得格差とされている。確かに、これまでチリはほかのラテンアメリカ諸国同様、所得格差が大きい国に分類されてきたが、近年はこれを是正すべく、社会福祉政策の拡充に努めてきたのも事実である。政治的言説とは別に、実態がどうなっているのか検証が必要であろう。

しかし、近年の所得格差の実態の変化はどうであれ、民衆からの格差是正要求が急速に高まっているのも事実である。これは、OECDの加盟によって比較対象が先進国となり、自国の社会政策が不十分であるという認識が高まったことが背景にあると考えられる。また、政治的にも、左派が躍進してきたことで、格差改善の社会的な要求が政治に反映されやすくなったことも影響している。

ピニェラ政権、および国会では、「社会危機」への対応として、10月半ば以降、矢継ぎ早に政策を打ち出している。なかでも高齢者の年金制度改革はデモを繰り広げる民衆の要求の中で最も強く求められている課題であり、運動の鎮静化のためにも対策は急務であった。年金制度改革は、バチェレ政権の第一期(2006年~2010年)に高齢者貧困対策のための改革が導入されたが、「社会危機」発生後に国会で議論されているのは、それからさらに一歩踏み込んだものになっている。本稿では2000年代のチリ年金制度改革の状況まで遡り、その成果と残されてきた課題について検討したい。

論文の構成は以下のとおりである。まず、「社会危機」運動での民衆の要求を整理したのち、ECLAC(国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会)のデータベースをもとに、チリの貧困・所得格差の状況について近年の推移をとらえる。特に、ブラジル、メキシコ、コロンビア、ペル-といった域内主要国との比較で、ラテンアメリカの中でのチリの位置を示す。次いで、OECDのデータや世論調査から、年金制度などチリの社会政策に対する不満が近年急速に高まっていることを明らかにする。政府は、これまで中下層への年金の充実を図ってきたが、より一層の拡充を求める民衆の要求は強まる一方である。最後の節では、2000年代以降の基礎的年金給付政策の変化について述べ、「社会危機」後に残された課題についてまとめる。

1. ラテンアメリカ諸国内でのチリの貧困・所得格差

(1) 「社会危機」の発生と民衆の要求

「社会危機」発生の発端となった地下鉄の無賃乗車は、当初、都心部の名門高校2で騒動を起こしていた一部の学生が、警察に追われて地下鉄駅に逃げ込んだ程度とみられており、政府内で警戒する声はなかった3。この高校での騒動は今年前半から激しさを増していたが、地下鉄運賃の値上げが発表された10月6日の翌週には職務室への放火事件も発生していた。これら学生の騒動に便乗したともとれる、地下鉄運賃値上げへの反発としての無賃乗車の呼びかけは、TwitterやWhatsapp(日本でよく用いられるLineに似たチャット機能アプリ)で瞬く間に周辺の中高生にも拡大した。新聞等で学生の無賃乗車が記事になる10月15日には、学生らに同調する大人も現れるようになり、17日には都心の4つの地下鉄駅が閉鎖された。同時多発的な地下鉄駅の破壊とスーパーなどの略奪、放火が起き、非常事態宣言で警察だけでなく500人規模の軍隊が治安にあたり、サンティアゴ市などで夜間外出禁止令が敷かれるのは、その翌日の18日夜からである。

このように、「社会危機」は当初地下鉄運賃の値上げへの反対運動から始まったが、運動の要求はこれまでチリが抱えていた多くの社会問題の解決を求める声に変わっていった。中でも、高齢者の貧困解消と最低賃金の引き上げ要求は際立っており、人々は「カセロラッソ(Cacerolazo)」と呼ばれる鍋を叩いて貧困の解消を訴えるデモを行った4

非常事態宣言が発令される事態に及んで以降、ピニェラ大統領の対応は比較的早かった。非常事態宣言を出した日の翌日19日には、運動の発端となった地下鉄運賃の値上げ凍結を発表した。また、当初「我々は強力な敵と戦争状態にある。彼らは、どこまでも暴力を用いることを辞さない。」とテレビで国民に訴え、社会運動への対決姿勢を鮮明にしていた。しかし、22日には、これまでの政府が長きにわたり国民の貧困問題を放置してきたことを謝罪し、連帯基礎年金と連帯保証手当の20%増額と、2021年、22年に75歳以上の高齢者への追加給付、そして最低賃金の35万ペソへの引上げなど一連の政策を発表した(表1)。

(出所)La Tercera, 23 de octubre, 2019.

それでも、民衆の運動は収まりを見せていない。危機が勃発して一週間後の10月25日にはサンティアゴ市だけで120万人といわれる過去最大規模の群衆がデモに参加して、年金制度の抜本的改革や賃金引上げを要求した。その後も、デモや放火、略奪、大学など公共施設の破壊が続くなど、社会の混乱は加速した。

(2) 社会危機発生の背景:貧困と所得格差

チリの社会危機の背景としてしばしば取り上げられる言説が、近年経済成長の鈍化によって所得の伸びが抑えられ、従来からある所得格差に対する不満が噴出している、というものである[Washington Post, Oct 29, 2019]。しかし、チリでは2000年代に入り、中道左派政権によって社会政策が充実してきたことも事実である。賃金の伸びの鈍化や所得分配の悪化はデータから観察できるのか、以下では国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(ECLAC)の統計を用いて検証する。

まず、近年の所得の伸びについて見てみる。図1には、ラテンアメリカ諸国と比較した平均実質賃金水準の推移を示している。2010年を100とした値で見ると、2018年のチリは121で、年平均増加率では約2.6%である。経済成長が著しいペルーは126とさらに高い値を示しているが、一方、ブラジル、コロンビア、メキシコのこの8年間の伸び率は、チリの半分以下となっている。このデータから、ラテンアメリカ主要国の中で見ると、チリの賃金所得の伸びは高水準で安定していて、特に停滞している状況とは言えないことがわかる。

国内の貧困の状況も改善を続けている。図2は、上記5カ国の貧困率の推移を示している5。チリの貧困率は、2000年代から低下を続けており、2017年には、主要5カ国の中では最低となる10.7%にまで低下している。2000年代まで最も低かったブラジルは同年19.9%であり、2014年以降貧困率がやや上昇傾向にあるのと対照的である。賃金の伸びが大きいペルーは18.9%、コロンビアは29.8%と高く、また同じOECD加盟国であるメキシコは43.7%と非常に貧困率が高い。

(出所)CEPALSTATデータベースをもとに筆者作成

(出所)CEPALStatのデータをもとに筆者作成

年金改革要求につながるチリの高齢者の貧困状況についても、ほかのラテンアメリカ諸国に比べると深刻とはいえず、また改善もしている。図3には、同5カ国の65歳以上の国民のうち、どれくらいの割合が貧困状況におかれているかを示した貧困率の推移を見たものである。これによると、チリは、2000年代から一貫して高齢者貧困率は低下を続け、2017年には4.0%にまで低下している。ブラジルは、これまで高齢者貧困率は最低の水準であったが、2017年はチリと同率となった。ほかのメキシコ、コロンビア、ペルーと比べると、大幅に低い値である。

次に、所得格差について見ていく。ここでは、所得格差の指標としてよく用いられるジニ係数を示す6。チリは、20世紀まではラテンアメリカの中でも所得格差が大きい国であったが、近年改善が進んできた。図4には、ラテンアメリカ主要国の2000年代からのジニ係数の推移を示していが、ここからわかるとおり、チリのジニ係数は2000年代を通して、低下傾向を続けて2017年には0.45まで下がっている。2000年代初めには、メキシコとほぼ同レベルでの0.51あったが、メキシコのジニ係数は横ばいであったのに対し、チリは低下を続けたため直近では約0.05ポイントの開きができている。ブラジル、コロンビアはいずれも0.5を上回る水準である。

(出所)CEPALSTATデータベースをもとに筆者作成

(出所)CEPALSTATデータベースをもとに筆者作成

さらに、所得五分位分布7を用いて国内の所得分布状況を検討する。図5には、ラテンアメリカ諸国の5カ国を直近値と約10年前の分布の比較を示している。この中で、チリの最低所得帯の第一分位(下位20%の所得世帯)が所得全体に占める割合は2006年の6.3%から2017年には7.7%に上昇し、第一分位と第二分位を足した低位所得層(下位40%)の比率でも17.0%から19.5%に増加している。低位所得層の所得獲得割合は、ブラジルで14.8%、コロンビアで15.9%、メキシコ16.8%、ペルー15.9%であり、これらラテンアメリカ主要5カ国内で最大である。また、最富裕層である第五分位の所得は低位所得層の2.34倍であり、この5カ国の中ではもっとも小さい。同比率は、近年所得格差の改善が指摘されてきたブラジルでも3.53倍であり、これら5か国の中では、所得格差は改善している様子がうかがえる。

(出所)CEPALSTATデータベースをもとに筆者作成

(3) 貧困・所得格差に対する世論

前項で示したように、統計データに現れる貧困・所得格差は改善しているにもかかわらず、貧困・所得格差問題に対するチリ世論の評価は厳しさを増している。調査機関「ラティノバロメトロ(Latinobarometro)」のアンケート結果をもとにしたECLACのデータベースによると、所得分配が不平等と考える国民の割合は、比較対象の5カ国の中ではチリが最も高く、2015年には95%となっている(図6)。実際の所得分配の上では不平等度が高いコロンビアやメキシコ、ペルーは80%台とチリより低いことがわかる。実際の不平等度は低い一方で、チリの国民の多くが所得分配に不満を持っている点が注目される。

この要因と考えられるのは、以下の二つである。一つめは、社会・経済状況に関する比較対象が変わった影響がある。チリは2010年にOECDに加盟した。それ以降、テレビニュース、新聞などのマスメディアでは、OECDレポートを引用する形で、経済・社会データを報道することが頻繁に行われるようになった。加盟以前は、チリはラテンアメリカ諸国内で所得の伸びも安定して高く、貧困・所得格差といった問題も改善に向かっているというデータが国民に示されてきた。しかし加盟後の報道タイトルには、「OECD加盟国中最悪(または、最悪のグループ)」という表現がつきまとうことになる。たとえば、2016年11月24日のラ・テルセラ誌では、チリは、OECD加盟国中ジニ係数(所得分配)が最も悪い国として報じている[La Tercera, 24 de noviembre, 2016]。図7にはOECDの最新のデータを用いて加盟各国のジニ係数を示しているが、このデータでは、チリはメキシコと並び最下位の0.46であり、ノルウェー(0.26)、フィンランド(0.27)、スウェーデン(0.28)といった北欧諸国と際立った差を示している。一方、貧困率8でみても同様で、ラテンアメリカで見れば貧困率の低かったチリは、OECDの北欧諸国と比較すると、国全体、および高齢者の貧困率はそれぞれ17%、18%とOECDで貧困率が最低であるフィンランド(いずれも6%)の約3倍の数値を示している(図8)。これらの指標がマスメディアでされるようになるのと、先に挙げた図6の、チリの所得分配が不平等という意見が高い水準で推移するようになるのは時期が重なっている。

(出所)CEPALSTATデータベースをもとに筆者作成

(出所)OECD (2019), Income inequality (indicator). DOI: 10.1787/459aa7f1-en (Accessed on 25 November 2019).

(注)直近で利用可能な年のデータを利用。オランダ、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、メキシコは2016年、日本は2015年、他は2017年。

(出所)OECD (2019), Poverty rate (indicator). doi: 10.1787/0fe1315d-en (Accessed on 25 November 2019).

さらに、チリ国内の政治環境も反映している。後述するように、バチェレ政権は第一期に続き、第二期でも年金改革を主要政策として掲げた。基金方式の現行制度では、年金支給額が当初想定されていた現役世代の7割から大きく下回り、最低賃金にも届かず高齢者貧困につながるとされている。このことから、さらなる改革が必要とする見解は、マスメディアを通じて国民に認知されることとなった。

また、2017年の大統領選挙戦での政治アピールも影響しているものと思われる。この選挙では、2011年の学生運動に起源をもつ「広域戦線(Frente Amplio)」の候補が左派の民意をくみ上げる形で大きな支持を集めた9。その選挙運動中で、新自由主義モデルを超える社会の実現を打ち出すなど、これまでのピノチェト軍政時代の遺制を否定する主張を展開している。中でも、教育問題と並んで、所得格差や貧困問題については関心が高く、積立方式の年金制度の改革は、高齢者の貧困につながるとして賦課方式の年金への移行の必要を訴えている。

(出所)Cadem (2019).

2. 年金制度改革

「社会危機」では、多くの社会問題に関する政府への改革要求が出された。その中で、高齢者年金制度の改善は、要求項目の中でもっとも多くの国民の支持を集めている(図9)。以下では、今回の社会危機での年金改革要求に至る経緯について述べる。

チリの年金基金運営会社(AFP)による積み立て方式の年金制度は、ピノチェト軍政期1980年に導入されたものである。それまでの賦課方式の年金制度で問題になっていた人口の高齢化に伴う構造的な財政赤字拡大要因を無くし、資本市場を拡大する効果は当時は画期的なものであった。しかし、民政移管後には多くの問題が指摘されるようになっており、1990年代にはすでに正規の職に就かず年金基金に加入しない無年金者の比率が大きいという問題が表面化している[北野 1999]。また、年金基金からの給付額についても、平均寿命が延びるとそれに基づいて計算される毎年の支給額が減るという構造的課題を抱えている。平均寿命が男性67.4歳、女性74歳であった1980年代当時の試算では、現役給与の7割程度が年金として支払われるといわれてきた。しかし、積み立て額を平均余命で割って支給額を算出するため、男性の平均寿命の78歳、女性84歳となった今日では、月ごとの受取額は激減し、最低賃金にも届かない給付水準の受給者が増えて不満が高まっている。

(出所)Macías [2019]

(表注)加入者数は、2019年6月の人数.

これらの懸念に対し、バチェレ第一期の政策では年金改革が重要課題となった。その最大の制度改変は、これまでの強制民間年金運用部分(第二の柱)に加えて、無年金者や積立不足の低年金者向けの第一の柱を創設したことである(図10)。これは老齢連帯基礎年金と老齢連帯保証手当からなる。老齢連帯基礎年金の支給要件は、①年齢65歳以上、②全世帯のうち、所得の低いほうから数えて60%までに位置づけられる世帯に属すること、③20歳以降に、継続的か否かを問わず、20年以上チリに居住し、かつ給付申請日から起算して5年以内に4年以上チリに在住すること、④その他の年金の支給を受けていないことである[島村 2015: 248-249]。給付額は2019年6月で、110,201ペソ10で59万人が対象となっている11。一方、老齢連帯保証手当の支給要件は、①および③と、⑤基礎年金額が連帯保証手当上限年金額(現在は325,646ペソ)を下回ることである。支給額の平均は、72,158ペソで、95万6千人が受給している。

しかし、同時期他のラテンアメリカ諸国で実施された年金改革と比較すると、このバチェレ政権第一期の年金改革は、非拠出型公的老齢年金制度の創設(第一の柱)という積み立て型から一部賦課方式への小規模な混合型再改革にとどまり、抜本的な改革とはいえない[馬場 2018:176-177]。それでも改革が実施できたのは、銅の輸出拡大により国庫収入が潤沢であったため、予算措置が講じやすかったことが理由としてあげられる[Castiglioni 2018]。これら年金の第一の柱と呼ばれる部分の創設によって、老齢者の貧困の緩和につながっている。図11は、第一の柱である連帯部分がない場合と、ある場合の高齢者の貧困率および極貧率比較推計値である。連帯部分の創設により、高齢者の極貧率は6.2%、貧困率は7.9%であるのに対し、連帯部分の存在によりそれぞれ1.2%、4.8%に低下したと推計している。

年金制度の改革は、バチェレの第一期では一定の進展がみられたが、2014年~2018年の第二期では与党連合内の足並みの乱れから見るべき改革にはつながらなかった[Borzutzky 2019]。第二期の改革では、大統領直轄の年金諮問委員会であるブラボ委員会(Comisión asesora presidencial sobre el sistema de pensiones)により、民間基金方式に国営の基金運営機関を加える案が検討されたが、意見が割れたため最終的に小幅な改革案が採用されている。これには国営機関という強力な競争相手の出現を嫌う年金基金運営会社の経済力を背景にした働きかけがあったとされる[Bril-Mascarenhas & Maillet 2019]。

(出所)Macías 2019.

政府による年金制度改革が遅々として進まないことへの反発として、賦課方式への抜本的な年金制度の改革を求める代表的な団体である「ノ・マスAFP(No+AFP)」のデモは、2016年以降数回発生している。大学教授のルイス・メシナ(Luis Mesina)が運動の先頭に立ち、しだいに広域戦線や労働組合も運動に合流してきた。2017年3月には5万人規模の参加者が集まっており、2019年に入ってからも3月31日に2000人規模のデモを行っている。その主張は、1980年代からの民間基金方式の年金制度に真っ向から異を唱えるもので、先進国で多く実施されているような公的賦課方式の年金制度への転換を訴えている。

年金問題に対する世論の関心は、この運動が発生するのと時期を同じくして急速に高まっている。公共研究センター(Centro de Estudios Públicos)は、チリを代表するNPOシンクタンクであり、世論調査を行ってきた。その中の、「政府が取り組むべき問題」は、10項目程度の選択肢から回答者に3つ選ばせる形式であるが、2017年8月の調査までは世論動向を見るうえで年金改革への関心自体が低く、選択肢の中に「年金」という項目はそもそも入っていなかった(図12)。しかし、選択肢に入った初回の2017年10月の調査では、いきなり38%の回答者が重要課題と回答している。その次の調査時(2019年5月)には、その割合は48%まで上がり、トップの「犯罪」への対策と同率となっている。このことから、民衆の間で、年金問題が急速に関心を集めていることがわかる。

(出所)CEP(各期) "Estudio nacional de opinión pública."

(注)選択肢の中から3つ回答した割合(合計は300%).

3. 「社会危機」後の年金改革に関する議論

政府は、社会危機の運動のなかで、国民の多くが要求している年金問題の改善を最重要課題として取り組んだ12。危機発生の一月後となる11月15日には、次年度政府予算策定をめぐる下院の議論の中で、連帯基礎年金を50%引き上げる案が圧倒的賛成多数で可決されている。チリでは、政府予算拡大につながる決定は大統領のみが有し、国会にはその権限がないため法案は効力を持たないが、政治的アピールとして決議された[La Tercera, 16 de noviembre, 2019]。

一方、国民の強い要求を受けたものとはいえ、この法案は与党連合の一角である国民革新党議員からの発議であったことから、上院や政府部内には非難する声も高かった。しかし、ピニェラ大統領側からの働きかけもあり、上院において財務省案をもとに折衷案が可決された。この折衷案では、年代別に連帯基礎年金の50%増までの期間を段階的に変えるというもので、80歳以上は、2020年からすぐに、75歳~79歳は2021年に、75歳以下は、2022年に165,302ペソに到達するよう、段階的に引き上げてゆくというものである。このほかにも、65歳以上の年金生活者には、公共交通機関の運賃を50%割引と、医療費の補助を現行の6722ペソから7200ペソに引き上げる案も合意されている[La Tercera, 22 de noviembre de 2019]。この上院で可決された年金に関する折衷案に関して、下院では、当初決議した来年度からの50%引き上げ案を譲歩することに反対意見が多く議論が続いていたが、最終的には、2020年度予算案提出期限の11月27日に両院協議会で合意に達した[La Tercera, 27 de noviembre de 2019]。合意案は、引き上げ期間については上院案の年齢階層別とするが、法案施行時期については当初の2020年1月から早めて、2019年12月から開始するとするものである。

これにより、年金問題に関する当面の対応策はまとまった。しかし、2020年度の財政赤字は厳しい状況となる。これまで銅の輸出収入を基金化してきた「経済社会安定化基金」からその10%にあたる14億米ドルをあて、さらに90億米ドルの財政赤字を計上している。この赤字幅は、リーマンショック時のGDP比4.3%を超えて、4.4%に達する。これまで健全な財政運営で知られてきたチリであるが、未曽有の社会的危機を前に経済政策の転換を迫られる状況になっている。

おわりに

高校生の地下鉄無賃乗車から突如勃発した「社会危機」は、永年にわたり未解決であったチリが抱える社会問題を一気に表面化させた。なかでも貧困、とくに高齢者の貧困改善要求は、連日の民衆のカセロラッソの運動の中で次第に勢いを増していった。

これまで、政策担当者や国際機関が、貧困や所得分配の指標としてきたデータでは、チリが近年悪化しているという傾向は観察できない。むしろ、ほかのラテンアメリカ諸国と比べて、安定して改善の方向に向かっているという評価のほうが適当であろう。

しかし、それでも人々の不満は抑えきれないほど高まっている。本稿では、この背景として、自国の置かれている状況の比較対象が、ラテンアメリカ諸国からOECDの先進国へと変化したこと、また、「市民のための政府」を標榜したバチェレ政権期に大きくとりあげられた年金制度の問題などが、新しい左派勢力が政治的主張の受け皿として市民運動と共鳴を始めている可能性を示した。現在の年金制度は、ピノチェト軍政期に当時の抑圧された政治状態で導入された制度であり、民政移管後30年の長きにわたり改革の必要性が叫ばれていながら、根本的な改革が実現しなかったものである。

米国カリフォルニア大学のセバスティアン・エドワーズ教授は、最近のチリの状況を、将来は不透明であるが「ネオリベラルの実験は完全に終息し、北欧型の福祉国家に転換するだろう」と述べている[La Tercera 19 de noviembre de 2019]。チリ有力財閥の出身で、有力誌に経済コラムを発表している国際的に活躍してきたエコノミストであり、これまでどちらかというと右派エコノミスト寄りの発言をしてきたが、その彼ですら、チリ経済政策の転換をはっきりと意識せざるを得ない状況ということであろう。

しかし、北欧諸国で手厚い福祉政策が実現できたのは、福祉国家としての歴史の長さと、かつての高い経済成長の成果といえる。現在のチリにはそのいずれもが欠けている。これまでであれば、安定した二大政党グループによる政治のかじ取りの中で、社会的要求があっても基本的には健全な財政運営が維持されてきた。しかし、急進左派や市民運動が勢いづいている現在の政治状況では、ポピュリズムに陥ることなく国民の支持を得ることは非常に困難になっている。

(2019年11月20日脱稿)

本文の注
1  サンティアゴの公共交通は、2007年に「トランス・サンティアゴ」と呼ばれる地下鉄・バスが一体となったシステムに移行した。先進的なシステムの導入であったが、遅延や混雑、さらには度重なる値上げなどで市民の反発も強く、特に治安の悪い地域のバスでは小規模な無賃乗車や襲撃が多いことが報告されてきた(http://www.fiscalizacion.cl/indice-de-evasion-de-pago-de-tarifa-en-transantiago/)。

2  Instituto Nacionalの名称で親しまれ、チリの公立学校では学業で最優秀レベルの生徒が集まる学校であり、多くの政治家を輩出している。ただし、裕福な子弟が通う名門私立学校に比べて予算が少なく、生徒・教員間に教育インフラ面での不満が高まっている。

3  チリの「社会危機」が発生直後の状況については、北野[2019]参照。

4  チリで「カセロラッソ(Cacerolazo)と呼ばれる、鍋(Cacerola)の底を叩いて婦人が行進するデモの形態は、1971年のアジェンデ政権期の食糧不足の時に始まったとされるが、その後、政権の左右を問わず政府に対して所得政策を求める際にしばしば実施されている。

5  ECLACが報告する貧困率の定義は、生存に必要な基礎的消費の額以下の所得しか得ていない層の割合を示す。

6  ジニ係数は、所得格差の大きさを数値で示したもので、完全平等(すべての人が同じ所得)の「0」から、完全不平等(唯一の人がすべての所得を得ている)状態の「1」まで数値化したものである。

7  所得五分位分布は、家計所得を低いほうから高いほうまでならべ、それを20%ごと5段階に区切って、それぞれの階層が全体の何パーセントの所得を得ているかを示したものである。所得格差の大きさの全体像を得るために一般的に用いられる。

8  OECDの貧困率は、全国民のうち家計所得が中央値(メディアン)の半分以下の国民の割合を指す相対的貧困率を用いている(https://data.oecd.org/inequality/poverty-rate.htm)。前出のECLACなど、国連機関が用いる絶対的貧困率と定義が異なるため注意が必要である。

9  2017年のチリ大統領選挙における「広域戦線」の台頭については、三浦[2018]を参照。

10  1(チリ)ペソは、2019年6月1日で、約0.15円に相当。

11  この名目金額は、毎年7月に年間の物価上昇率に応じて変更される。

12  もう一つの大きな政策課題となっているのは、新憲法の制定である。これについては、三浦[2020]を参照。

参考文献
 
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