2020 Volume 37 Issue 1 Pages 31-43
本稿では、2019年6月に誕生したブケレ政権のおよそ1年の成果を振り返る。まず、閣僚等の人選と政府計画の概要から新政権がめざすものを明らかにする。次に、過去の政権や周辺国との比較をふまえながら、重点政策である治安対策と汚職対策に評価を加える。最後に、昨今浮上した大統領と立法府との対立および新型コロナウィルスによる混乱の背景と、大統領によるそれらへの対処の仕方について述べる。
2019年6月1日、エルサルバドルにラテンアメリカ初のミレニアル世代の大統領が誕生した。1981年生まれ、37歳のナジブ・ブケレ(Nayib Armando Bukele Ortez)氏である(写真1)。世代とは単に生まれた年ではなく、経験の共有にもとづく概念であるから、米国の世代論をそのまま当てはめるには無理があるだろう。ともあれ、政治討論会よりもSNSを通じて発信することを優先し、コメント欄への書き込みで自身の評価を測り、アカウントのアイコン変更を知らせるツイートの拡散に余念がないブケレ氏の姿は、人々に新時代のリーダー到来を予感させたようだ。
サンサルバドル市長時代に同市の治安回復に効果を上げたことが高く評価されたとはいえ、当時の所属政党を追放されて自身の政党を立ち上げたばかりのブケレ氏が、国政で手腕を発揮できるかどうかは未知数の部分が多い。大統領選の前月に発表されたブケレ氏の政策・政権構想には、過去の政府文書や国内の大学に提出された研究報告書の内容を安直に盗用した部分が数カ所にわたって指摘されるという「コピペ」疑惑も浮上した1。しかしそうした攻撃材料をものともせず、ブケレ氏は治安回復と汚職撲滅をエルサルバドルの最重要課題として掲げ、その処方箋を「ポスト内戦体制からの脱却」と結びつけるレトリックで左右の二大政党を下し、歴史的勝利を飾ったのである2。
写真1 国会本会議場の外で支持者に呼びかけるブケレ大統領。後述する2月9日「国会恫喝」事件の一場面(ロイター/アフロ)。
(出所)筆者作成。
(注)カッコ内は大統領在任期間、影付きは政党指導部(内戦当事者)。
ではここで、ブケレ氏がエルサルバドル政治においてどのような位置を占めるのかみてみよう。エルサルバドルは1992年の内戦終結以来、内戦当事者による二大政党が選挙を通じて勢力を拮抗させながら、紛争を再燃させることなく政治的安定を維持してきた。前出の「ポスト内戦体制」とは、右派の国民共和同盟(Alianza Republicana Nacionalista : ARENA)と、左派のファラブンド・マルティ民族解放戦線(Frente Farabundo Martí para la Libeación Nacional: FMLN)を中心とする左右イデオロギー対立によって特徴づけられる政党政治の構図である。図1は、これらの政党および過去の大統領とブケレ氏の関係を示したものである。2000年代半ば以降、二大政党は勢力を拮抗させるなかでより広い支持層への訴求力が期待できる有名人候補者を大統領選に擁立した。2004年にARENAから当選したアントニオ・サカ(Elias Antonio Saca González)元大統領と、2009年にFMLNから当選したマウリシオ・フネス(Carlos Mauricio Funes Cartagena)元大統領は、いずれもスポーツキャスターや報道リポーターとして活躍した経歴から選挙の顔として担ぎ出された「短距離選手」である3。任期満了後、サカは権力の保持を目論んで党を分裂させたことを理由にARENAを除名され、フネスは指導部批判を理由にFMLNを除名された。そして2人とも、在任中の公金横領や不正蓄財などの汚職が発覚し、サカは現在服役中、フネスはニカラグアに亡命中である。2014年の大統領選挙では、二大政党がそれぞれ「マラス」と呼ばれるギャング団と集票目当ての取引をしていたことが発覚した4。そしてその頃、政党に対する国民の信頼は低下の一途をたどっていた5。
そうしたなか、ブケレ氏はフネス政権下の2012年にFMLNから人口7000人のヌエボ・クスカトラン市長に初当選し、政治家としてのキャリアをスタートさせた。2015年には同じくFMLNから首都サンサルバドル市の市長に立候補し当選を果たすが、在職中の2017年、党内対立の扇動や女性蔑視発言などを理由に党を除名される。それを転機に、2019年の大統領選に打って出たのである。ブケレ氏は自身の政党として中道左派~中道の「新しい理念」(Nuevas Ideas: NI)を立ち上げたが、選挙に政党名登録が間に合わなかったため、サカ元大統領がARENAを除名された後に結党した中道右派の第三党「国民統合のための大連合」(Gran Alianza Nacional: GANA)6から出馬した。
こうしてみると、二大政党は内戦当事者とその腹心および継承者が指導部を独占する一方、サカやフネス、ブケレのような高い発信力を強みとする若い世代の傍流政治家を排除してきた。ブケレ氏の躍進は、国民のあいだに二大政党の汚職やギャングとの癒着に対する不信感があったことと、国民の多くが二大政党の硬直化した組織や政策を見直すことを求めていたことが背景にあったと考えられる。
さて新政権樹立後、ブケレ大統領は過去の施策の延長線にとどまらない新機軸を打ち出したといえるだろうか。二大政党が多数を占める立法府との関係はどのような状況にあるのだろうか。国民の支持や期待が絶大なだけに、公約の不履行はエルサルバドルの将来に大きな禍根を残しかねない。そこで以下、新政権発足からおよそ1年を振り返って、ブケレ大統領の有言実行に対する姿勢や、困難な局面でこそ試される政権運営の手腕に対する評価を試みたい。
はじめに、ブケレ大統領の脇を固めるのはどのような人たちかみておこう。閣僚等の人選から、新政権のどのような思惑が読み取れるだろうか。
まず、わかりやすい特徴として、閣僚16名の男女比を1:1にしたことが挙げられる。保健大臣の交代によりその後、男性9名、女性7名の構成に変わったが、過去に例をみない多数の女性閣僚を登用することで政権のリベラルさやジェンダーギャップ解消への関心を明確に示すかたちとなった7。NGOや国際機関、市政や民間企業でキャリアを積んだ市民派のメンバーが多く、また、これまで陸軍出身者が就任してきた国防大臣に、初めて海軍出身者を登用するなど、政権に新鮮味をもたせることを重視した陣容と総括できる8。
そうしたなか、財務大臣と地方開発大臣の2名は、FMLN政権の閣僚および準閣僚経験者である。彼らの登用は、こと経済・財政政策および地方開発政策に関して、FMLNを相手に立法府との対話・協調を図ろうとする大統領の姿勢の表れとみることができよう。地方交付金(地方社会経済開発基金Fondo para el Desarrollo Económico y Social de las Municipalidades: FODES)の8%から10%への引き上げなど、FMLNが推進してきた政策を現政権の目玉政策として踏襲した部分もある9。最大野党であるARENA(87議席中37議席)との関係が悪化しても、FMLN(23議席)の協力を得れば、二大政党以外の24議席は与党(11議席)および大統領派(12議席)10と無所属(1議席)なので、なんとか国会を乗り切ることができる。
大統領選で出馬した名目上の所属政党であるGANA(10議席)とは、引き続き協力関係にある。大統領は自身の政党NIから2名(内務大臣と環境大臣)を入閣させる一方、GANA所属議員(法務副大臣と農牧副大臣)や結党の指導者であるサカ元大統領に近い人々を政権移行チーム11と準閣僚メンバーに迎えた。今後の政界再編の可能性に備えた人選か、サカ元大統領の選挙アドバイザーが新設ポストの大統領府報道官兼広報長官(Secretario de Prensa)に任命され、また、2014年の選挙でサカ元大統領を統一候補に擁立した「統一運動」(Movimiento Unidad)のキーパーソンといわれる元GANA議員が公共事業副大臣に任命されたが、在任中の汚職事件で服役中の元大統領の影がちらつくことをいぶかしむ声もある12。
それ以上に不穏な空気を招いたのが、国家文民警察(Policía Nacional Civil: PNC)の長官人事である。PNCの前身にあたる国家警備隊で内戦中の人権侵害や超法規的処刑にかかわった部署の責任者だったとされるマウリシオ・アリアサ(Mauricio Arriaza Chicas)氏を警察のトップに据えたことは、やはりというべきか、案の上というべきか、市民社会からの批判を呼んだ13。それでも新政権の治安対策にとって、PNCで麻薬取締局長や首都圏警察本部長を歴任した強硬派のアリアサ氏は、余人に代えがたい人材だったのだろう。治安対策への本気度をにじませているが、政府による非人道的な状況下での拘束や、裁判抜きの処刑がサンチェス=セレン前政権下で横行したことが問題視されるなか[PDDH 2019]14、現政権下でも同様の問題が指摘され始めており15、法治国家の揺らぎが引き続き懸念される。
(2) 政府計画の概要新政権は、どのような社会経済発展のシナリオを描いているのだろうか。表1はブケレ大統領の政府計画(Plan Cuscatlán)に掲げられた12の重点政策(Proyectos Insignia)を政策分野別にまとめたものである。
(出所)クスカトラン計画
最優先事項として後述する治安対策、汚職対策を挙げるほか、経済や行政の分野を重視している。このうち、成長戦略の決め手になるとみられるのが、大規模なインフラプロジェクトを含む太平洋沿岸部一帯(Franja del Pacífico)の開発計画である。西部のアカフトラ港と東部のラウニオン港を結ぶ鉄道の建設計画や、東部ラウニオン県に新たな国際空港の建設計画が浮上しているが、もしどれかひとつでも実現に向けて動き出せば、日本政府が過去20年にわたって対エルサルバドル経済援助の重点分野に位置づけてきたラウニオン港を中心とする東部地域開発の進展を大きく左右する可能性がある16。これについては2020年1月に発表された「経済テイクオフ計画(Plan de Despegue Económico)」のなかで具体化が図られる見通しである。
同時に、政府計画の基本構想にあたる「新しい統治(Nueva Gobernanza)」への足掛かりとして、情報通信戦略「デジタル・アジェンダ(Agenda Digital)」が大統領府の下で始動することも発表された。大統領が掲げる「新しい統治」とは、行政の組織・制度の在り方や国民との関係を抜本的に見直し、8つの専門家チームを中心とする非省庁型の政策調整と、情報通信技術による新たな行政システムの構築をめざすものである。ただし、エルサルバドルでは2007年を最後に国勢調査すら実施されていないのが現状なので、「情報通信技術による新たな行政システム」を具現化するには今後、統計データの拡充が必要になるだろう。
新政権の最重要課題は治安の改善と汚職の撲滅である。ここではそれらに関する取り組みを振り返り、成果を確認する。
(1) 治安対策ブケレ政権の治安対策は短期間で目覚ましい成果をあげた。経済省統計センサス局(Dirección General de Estadística y Censos: DYGESTIC)の速報値によると、2019年の10万人あたりの殺人件数は35人で、世界的にみれば依然高い水準にあるものの、前年(50人)を大きく下回り、これまでの最少記録(2013年の40人)を塗り替えた17。ただし、国家文民警察(PNC)と陸軍の連携による治安部隊の強化や、彼らに対する賞与の支給といった幾つかの政策は、サンチェス=セレン前政権下で導入された。そのための財源である治安対策特別税(Contribución Especial para la Seguridad Ciudadana y Convivencia: CESC)も、前政権が2015年に5年間の期限付きで導入した制度を、ブケレ大統領が(廃止すべきという当初の主張を翻して)踏襲したかたちである。同国の殺人件数は2016年以降減少の一途をたどっており、現政権下における改善はその延長線にあるようにもみえる。とはいえ、現政権の「犯罪地域コントロール計画(Plan de Control Territorial)」(表2)18は、第1フェーズで警察および国軍の人員増強と犯罪組織の資金源の断絶に注力している。政府は対象となる市の数を半年間で12から22に拡大し、警察官とともに同計画に従事する陸軍兵士の数を3000人から8600人に増員するなど、限られたリソースを集中投下した成果が表れていることは間違いなさそうだ19。
加えて、ブケレ政権の治安対策は、過去の政権のそれと比較して改良された点がふたつある。ひとつは、犯罪組織の摘発と並行して、刑務所の管理体制を強化していることである。2000年代半ばのフローレス(Francisco Guillermo Flores Pérez)政権およびサカ政権による強硬策(Mano Dura/ Super Mano Dura)は、ギャングの構成員を大量に投獄し放置した結果、刑務所内で彼らの一層強固な組織化とネットワークの拡大を招いた。続くフネス政権は、刑務所内の待遇改善やギャングのリーダーに外部との連絡を可能にするといった便宜を供与し、その見返りとして市中におけるギャング間の抗争をいったん停止させることに成功した20。しかし当然ながら、それにともなう殺人件数の低下(2012~2013年)は一時的な見せかけの効果にすぎない。2014年には再び増加に転じ、2015年に10万人あたり103人という世界最悪の数字を記録するに至って、サンチェス=セレン政権は2016年3月に治安特別措置を発動し、国軍の投入に踏み切ったのである。ところが、投獄されたギャングのメンバーが携帯電話をひそかに持ち込んで悪用するといった刑務所内の問題への対処は徹底されなかった21。その点、ブケレ政権は携帯電話の電波の遮断(ないし妨害電波による制限)や囚人の頻繁な移送など、刑務所を掌握しようとする犯罪組織への対抗措置を講じている。
もうひとつは、犯罪組織を摘発するのと並行して犯罪の予防に重点をおき、早い段階で本腰を入れ始めたことである。2019年7月に発表された「犯罪地域コントロール計画」の第2フェーズは、若者をギャングの勧誘から守るためのスポーツ、文化、教育、職業訓練、雇用機会などの提供を通じた社会的包摂を主眼としている(表2)。治安の改善を長期的に維持するには力づくで抑えつけるだけでは不十分で、貧困や教育機会の欠如といった社会的側面に対処する必要がある、という考え方はサカ政権やサンチェス=セレン前政権にもみられた。しかし、結局のところ摘発で手一杯となり、予防策に対する国会の支持を得ることもできなかったという22。これに対し、ブケレ大統領はすでに第2フェーズに充当される中米経済統合銀行(Banco Centroamericano de Integración Económica: BCIE)との借款契約9100万米ドルに対する国会の承認を得ている。
(出所)エルサルバドル財務省
(注)カッコ内はBCIEとの借款契約。
一方、治安対策に比べると本気度が低いようにみえるのが、汚職対策の取り組みである。この分野における公約の目玉は、会計検査の対象外となる機密費の廃止と、エルサルバドル無処罰問題対策国際委員会(Comisión Internacional contra la Impunidad en El Salvador: CICIES)の設置である。政府は2020年国家予算から機密費の費目を外しており、その点ではすでに公約の一部を実現している。
問題は、CICIESの設置をめぐる動きである。CICIESとは、エルサルバドルにおける汚職事件(公金横領、贈収賄、資金洗浄など)の捜査および訴追機能を強化するための国際支援組織のことで、隣国グアテマラで2007年に設立された「グアテマラ無処罰問題対策国際委員会(Comisión Internacional contra la Impunidad en Guatemala: CICIG)」や、2016年にホンジュラスで始動した「ホンジュラス汚職・無処罰問題対策支援ミッション(Misión de Apoyo contra la Corrupción y la Impunidad en Honduras: MACCIH)」にならっている。ただし、国連の支援で設置されたCICIGと、⽶州機構(Organization of American States: OAS)の支援で設置されたMACCIHでは、託された権限の範囲が異なるため、どちらのモデルを採用するかによってCICIESの役割が変わってくる。おもな違いとして、第一、CICIGは政府と国連の協定にもとづき独自捜査の権限を与えられているが、MACCIHにはそれがない。証拠の提供や証人の移送といった捜査共助およびその前段階におけるさまざまな情報収集分析を通じて協力はするが、何を「事件」として捜査するかはホンジュラス当局23の判断による。第二に、CICIGは国連派遣の代表に任せられる現場の裁量が大きいのに対し、MACCIHの代表はOAS事務総長の報道官にすぎない。人員配置や経費配分の采配が事務総長の個人的ないし政治的判断の影響を受けるため、現場のニーズがおざなりにされることもあるという[Call 2019, 9]。要するに、CICIGの方が高い独立性と機動性を兼ね備えている。まさにそのことが、グアテマラの政府高官や企業家に次々と捜査のメスを入れることを可能にしてきたといえよう。しかしその反面、CICIGの独立性は主権侵害や政府や国民に対する説明責任の欠如につながる恐れがあり、そうすると政治的に孤立する危険性がある。他方、MACCIHは権力機構の根幹を揺さぶるほどの影響力は持っていないが、国の捜査・司法当局との連携を強化することで「国際協力の一調整機関」以上の活躍が期待できる24。どちらのモデルを採用するか、あるいは両者を折衷して新たなモデルを打ち出すのか、CICIGとMACCHIがそれぞれの役割を終えるなかで、CICIESが検討すべき課題は少なくない。そのひとつは説明責任の履行だが、具体的な事件の捜査・訴追に対する社会的要請が強まるなかで設立されたCICIGやMACCIHとは異なり、CICIESは何を捜査・訴追するかがそもそも明確ではないため25、その根拠などについて市民の目が入ることが望ましい[Call 2019, 15-17]。
ところが、ブケレ政権はそうした議論や検討を深めることなく、国連とOASの双方と拙速に事を運ぶなかで、なし崩し的にOASの支援に落ち着いた印象が否めない。あるいは、9月9日に政権発足100日目を迎える大統領が、100日間の成果のひとつとしてCICIES設立のための準備に着手したようにもみえる。その経緯は次のとおりである。エルサルバドル政府は2019年8月29日付けウジョア副大統領発国連事務総長あての書簡でCICIESの設置に向けた国連調査団の派遣を要請した。これに対し国連は9月12日にウジョア副大統領と国連事務総長の会談、25日にブケレ大統領と国連事務総長の会談を経て、9月30日~10月5日の日程でエルサルバドルに調査団を派遣した。その一方で、政府は9月6日にOASとCICIESの設置を検討するテクニカル・グループの発足に関する覚書に署名している。こちらはこちらで20日にヒル(Alexandra Hill Tinoco)外務大臣26がOASとの協力協定に署名し、24日にグアテマラ人弁護士のロナルス・オチャエタ(Ronalth Iván Ochaeta Argueta)氏がCICIES暫定代表に任命された27。政府は国連からCICIESの設立に関する11月4日付の提案書を受け取ったがこれを事実上放置して、同26日にOASとの枠組み協定に署名した。そして翌12月にエルサルバドル検察庁とCICIESが技術協力協定を結ぶことで、後者の正式発足に至ったのである。
ただ、為政者の汚職に対する社会からの大規模な異議申し立てと抗議運動を背景に設置されたMACCIH[中原 2018]とは異なり、CICIESの設置はいわば「上からの改革」である。そのため、エルサルバドルの捜査・司法当局との連携やCICIESの影響力はMACCIHよりも限定的になる可能性がある。実際、捜査対象となる案件の特定はもっぱらエルサルバドル検察庁主導でおこなわれており28、CICIESには当面、監査などを中心とする技術協力以上の役割は期待できそうにない29。技術協力協定の有効期間は2022年までであるため、その時を一旦区切りとして総括的な検証が待たれる。
ブケレ氏が大統領当選後、政権発足前から憂慮すべき問題として指摘されていたのが、「立法府をコントロールできないブケレ氏が、大衆の支持を盾に既存制度との対決姿勢を鮮明にした場合...ガバナンスの面で深刻な問題を引き起こしかねない点」である[吉田2019, 38]。2020年国家予算が成立した2019年12月の時点では、執政府と立法府のあいだに深刻な亀裂は生じていないようにみえる。だが実際は、大統領肝煎りの重要プロジェクトである「犯罪地域コントロール計画」に関して、第2フェーズに充てられる中米経済統合銀行(BCIE)との借款契約9100万米ドルを国会が承認したことは先述のとおりだが、第3フェーズに充てられる1億900万米ドルについては継続審議に付すとしたことで、軋轢の火種を残していた。
そのことが、大統領が国会を武力恫喝するという、まさに深刻な問題に発展した。あわや自主クーデターかという状況に至った経緯は次のとおりである。まず、1月の国会は年明けに発生した首都圏の水道水質汚染問題にかかりきりになり、1億900万米ドルの審議が滞った。大統領は法務省を通じて審議の再開を催促していたが、国会は水道水質汚染問題をめぐる政府の対応の悪さを追及する手を緩めず、保健大臣と上下水道公社(ANDA)総裁に対する証人喚問を決定したことで、大統領と国会のあいだに不穏な空気が流れ始めた30。なお、国会で閣僚に対する証人喚問が行われるのは十数年ぶりである。業を煮やしたブケレ大統領は、1億900万米ドルについて審議するための臨時会を2月9日に招集した。そして当日、大統領はSNSと政府車両を使って支持者を大量に動員し、彼らに国会本会議場を包囲させると、自身は武装した国軍兵士と警察官の一群をともなって会議場に乗り込み、議員らに圧力をかけるかたちで1億900万米ドルの承認を迫ったのである。
三権分立の原則を犯し、民主政治を捻じ曲げようとする大統領の暴挙に対し、国内外で批判が上がった。最高裁憲法法廷は翌10日に大統領の行為は違憲との判決を下し、大統領は米紙マイアミ・ヘラルドに弁明を寄稿するなどの対応に追われた[Bukele 2020]。2月27日、国会は本件に関する特別調査委員会を設置したが、大統領の反省を促すことはおろか、事態の原因・真相究明に至っていない。次に述べる新型コロナウィスルへの対応でうやむやになっているからである。
(2) 混乱する新型コロナ対策2月27日、すなわち前述の特別調査委員会が設置された日だが、エルサルバドル政府は新型コロナウィルス感染予防対策として、中国、韓国、およびイタリアからの渡航者を入国禁止にした。そしてその後、3月14日の国家非常事態宣言に向けて、防疫措置を強化した。エルサルバドルで国内最初のCOVID-19感染者(1名)が発見されたのは3月18日である。そこから遡ること1週間前の3月11日、ブケレ大統領は早くも学校一斉休校と居住者以外の外国人の入国禁止を指示し、憲法で保障される権利の一時的制限を含む国家非常事態宣言の発令準備を表明した。この対応と決断力は、国の医療体制に対する不安が大きいほど強権的な措置が取られる傾向がある[Blofield 2020, 2]としても、世界的にも群を抜く迅速さであった。あるいは、新型コロナ対策を口実に、2月9日の「国会恫喝」事件の関係者および大統領自身に対する責任の追及をかわして、特別調査委員会をうやむやで幕引きの方向へ持っていけるとでも考えたのだろうか。というのも、大統領が11日に国家非常事態宣言の発令準備を表明したことはすでに述べたが、それを理由に国防大臣に対する証人喚問の延期を国会に認めさせているからである。
いずれにせよ、先手先手のコロナ対策は、行政サービス面での実行力が伴わない場合が多い。たとえば、ブケレ大統領は3月21日に30日間の完全自宅待機命令を発令後、翌22日に貧困世帯を対象に一世帯あたり300米ドルの現金給付を行うことを、まずは自身のツイッターで発表した。しかし、その支給条件や申請方法がなかなか公表されず、公表の見通しの発表もないまま、担当窓口のウェブサイトにアクセスできない状況が続いた。そうした状況が、もともと行政把握されていない不安をもつインフォーマルセクターを中心に人々の焦りと混乱を呼んだのだろう。給付金を求める2万人が自宅待機命令に反して行政窓口に殺到し、市中にあふれて感染リスクを高める事態を招いたのである31。
本稿では、エルサルバドルの新政権が最優先で取り組んでいる治安対策と汚職対策のうち、過去の政権と比べて確実な手ごたえを得られつつある治安対策に対し、汚職対策はどこか上辺だけ取り繕っているような部分があることを指摘した。また、治安の改善と汚職の撲滅に備えて2020年1月に始動した成長戦略と情報通信戦略の具体化の見通しに触れた。
年明け以降、水道水質汚染問題や、治安対策の財源確保に必要な国会審議の停滞、そして新型コロナウィルスの流行という困難な局面が続くなかで、大統領の拙速かつ強引で場当たり的な行動が、国会および国民に混乱を生じる場面が目につき始めた。しかし2020年5月末時点の支持率は92%で、国民は引き続きブケレ大統領に希望を託していることがうかがえる。図2は大統領就任後1年間の支持率の推移を示したものだが、過去3代の政権で最も高い支持率(78%)を記録したフネス元大統領と比べても、ブケレ大統領の支持率は異様に高い。「ようやく民主化の深化に差し掛かったエルサルバドルの政治が、ブケレのポピュリスティックな政治で毀損される」[上谷 2020, 68]といったシナリオがいよいよ現実味を帯びてきたとは思いたくないが、2021年2月に予定されている国会議員・全国市長選挙の行方が今から気になるところである。
(出所)“Bukele cierra su primer año de trabajo con alta aprobación.” Prensa Gráfica, 24 de mayo, 2020.