2020 Volume 39 Issue 3 Pages 80-88
永年の間,多くの革新的なアイディアによって発展してきた日本料理業界において,日本人の食嗜好も変わっていくなか,その技術を将来に効果的な方法で普及・伝承していくことが必要とされている。また,グローバリゼーションの進展により,海外へ向けて普及させていく方法論も確立が急務である。経営学において,伝統的な日本料理を取り上げた研究は多くはないが,その研究は「食べる」という行為の性格上,多くの学問分野に広く渡っている現状がある。本論では日本料理産業内の職業料理人の組織という視座に基づき,料理の構造化,組織と技術伝承,必須食材の供給という3つの視点から先行研究のレビューを行っていき,日本料理の普及・再現について検討すべき課題の抽出を試みるものである。
The Japanese cuisine industry has developed through a series of innovative ideas over a long time. As such, skill transfer has always been an issue and should be achieved effectively to the next generations. Moreover, it is necessary to find a way to expand the business to overseas countries in this global age. While many investigations have focused on Japanese haute cuisine under a wide variety of academic fields, as “eating” can be widely applicable, there has been little examination in the field of business administration and management. Based on the perspective of the professional chef organizations in the Japanese cuisine industry, this article will review previous research, with the view of dish structuring, organization and skill transfer, and essential ingredients, and will clarify issues related to the diffusion and reproducibility of the cuisine.
「日本料理とはいったい何ですか。」「ホワット・イズ・カイセキ?」近年,日本の食に興味を持ち海外よりやってくる方々より,こういった質問をよく耳にする。以前は寿司についての問いが多かったが,寿司は海外にて一定の認知は得たといえよう。寿司のグローバル化の要因として,マグロの世界的な消費や流通の変化についても研究も行われた(Bestor, 2000; Issenberg, 2007)。UMAMIという言葉も5番目の基本味(甘味,酸味,塩味,苦味,うま味)として加えられ(Kurihara, 2012),その意味とともに英語で表現されることが増えた。デンマークのレストランの料理人であるRedzepi and Zilber(2018)は,日本において多くの技術革新のあったkoji(麹)を活用し,umamiを引き出す発酵の使い方について著した。ニューヨークタイムズ紙のAmlen(2018)は,同紙のクロスワードパズルにumamiという言葉がこれまで14回取り上げられた,と述べる。他国においても日本の食文化の受容が進んでいるといえよう。
料理および日本料理を含む食文化に関する研究は,これまで歴史学,文化人類学,民俗学,経済学,考古学,社会学,文学,調理学,食品学など幾多もの分野で行われてきたが(Ehara, 2009),これも食べるということの裾野の広さ,社会性などからの要請であろうかと思われる。裏を返せば,どういった学問分野であっても,料理及びそれを食するという行為は研究対象となりうる可能性があるということである。グローバリゼーションの進展,食の嗜好の変化,消費対象がモノからコトへ移り変わるなか,今後もその分野の拡大は一つの潮流であろう。
いっぽう,経営・マーケティングの分野では,食品小売業や加工食品,外食チェーンレストランに関する研究としてこれまでも行われてきたが,伝統的な日本料理について採り上げたものは決して多いとはいえないだろう。
本論は,日本料理を室町時代に原型を辿ることができる京都を中心に発展した料理と定義し,その普及と再現性に関しての関連研究をレビューしていくものである。その際,職業料理人がその構成員である日本料理産業内の組織という視座で捉えることで,混同されやすい一般消費者向けの調理技術の普及との区別を図ることにも留意していく。
また,本論においてレシピとは,料理名とその制作に必要とされる要素(食材及び手続・手順など)の全部もしくは一部を,自らの記録あるいは他者への伝達・普及の目的の為に,テキストで記述された説明書である,と定義し使用していく。
料理を構造化して記述・分類することが続いている。料理構造とは調理素材と調理法を要素としてそれらの構成要素間の相互関係をいう(Kawabata, 1996)。Kawabataによれば言語学や人類学などからのアプローチにより調理法の体系化が試みられてきたが,代表的なものとして,Lévi-Strauss(1968)は,「料理の三角形」を提案し,なまもの,火にかけたもの,腐ったものを三角形の頂点におき,火にかけたものはなまものの文化的変形とし,腐ったものはなまものの自然的変形とした(図1)。Tamamura(1980)はLévi-Strauss(1968)の示唆したものを発展させ,「料理の四面体」を示した。火(熱源)を三角形の頂点におき,底面の三つの頂点には,熱媒体である水,油,空気をおく。火とそれぞれの頂点を結ぶ稜線をそれぞれ,煮物ライン,揚げ物ライン,焼き物ラインと名付けた(図2)。これらにより調理の法則性が解析され,調理の創作にも役に立つとしている。
料理の三角形
料理の四面体
フランスの物理化学者であり,フランス料理の著名シェフとの協働を行うThis(2009)は,料理を数式にて表現し,新しい料理に応用していくことを提唱している。
2. 料理の記録の歴史いっぽう,料理の作り方を記録して,自分あるいは他者が再現したいという欲求は有史より普遍のものである。最古のレシピといわれるものは,紀元前1600年頃にメソポタミアの粘土板に楔型文字で書かれたものが見つかっており(Bottéro, 2002/2003, pp. 4–8, 42–61),そこには美味しい煮込みの作り方を他者に伝えたい作り手の想いが読みとれる。
時代が下り,中世末期にはフランス料理の確立の歴史がはじまった。14世紀末には,フランス王の宮廷料理人であるタイユヴァン(Taillevent)がフランス語で『食物譜(Le Viandier)』を著した。当時,親方から見習いに口承の伝統にのっとり伝えられていた料理を体系化し,書き記して本にした最初の一人だった。『食物譜』は手稿本だったため,当初あまり流布していなかったが,印刷技術の発明後,15世紀末から17世紀初頭まで,好評を博し多くの版を重ねた。(Poulain & Neirinck, 2004/2017, pp. 26–51)。
20世紀初頭にはエスコフィエ(Escoffier)がフランス料理の体系化に尽力し,その代表作『料理の手引き(Le Guide Culinaire)』(Escoffier, 1903)を著した。これは今でも世界中の調理場で参考書となっている(Poulain & Neirinck, 2004/2017, pp. 208–221)。
日本においては,Harada(1999)によれば,中世までに貴族が中心の大饗料理,武家の儀礼の本膳料理,禅僧が中国から学んできた精進料理の発達がみられ,茶の湯の発達にともなって戦国期には,精進料理と本膳料理の長所をいかした懐石料理が考案され,器や盛りつけなどに気を配り独自の美学を構築した,日本料理を代表する調理法が出現してきた。儀礼をつかさどる包丁人流派という集団においては,中世までは流派ごとに料理書が作成されたが,基本的に秘事口伝のかたちをとっていた。江戸時代に入ると,料理書が印刷されるようになったため,幕府や大名レベルの料理人は別として,民間レベルにおいては出版をとおして調理に関する知識を入手しやすくなった。Ehara(2008)は,出版物としての料理書は,1643年の『料理物語』がはじめとされ,不特定多数の人々を対象としたことは画期的であり,その後料理書の刊行が相次いだ,としている。
記録の際の計量については,Wilson(2012/2014, pp. 147–187)は,19世紀になるまでレシピを書くときに分量を明確に表す手段を持たず,料理法を伝授するというのではなく,台所仕事を熟知した者の記憶を補う類のものであり,こうした理由から昔のレシピから料理を作ることはとても難しい,と指摘する。Wilsonによれば,料理本の計量表現は「クルミ大のバター」といったように,エンドウ豆,ナツメグ,指,ひとつかみ,などと身近なものに広がった。計量は秤の普及や度量衡の統一を待たねばならず,時間,熱も時計,温度計の登場を待たねばならなかった,とある。
栄養教育で知られる香川栄養学園・女子栄養大学の創始者 香川綾は,料理を広く伝達できるようにと,1933年より当時の一流の和洋中料理人の調理の手順や分量を料理カードに書き起こし,収集を行った(Kagawa, 1985)。その際,著名日本料理人の渋谷力太郎はそれまで舌加減で料理を教えてきたが,このやり方にも優位性を認め協力をしたとある。のちに計量カップと計量スプーンも考案したKagawaは,初学者でも計量化で80パーセントは料理を再現できるとし,まず料理のポイントを掴むことを計量という方法から入ると提案している。
料理はテレビ草創期からコンテンツとしての期待は大きく,日本でテレビ放送が始まって4年後の1957年にNHK『きょうの料理』は開始され,今日まで60年余りにわたって,一般消費者向けに4万品以上の料理の作り方を映像として紹介してきた。同番組は健康,園芸といったジャンルとともに同局の長寿番組の一つとして現在も親しまれ続けている(Ohno, 2018; Ujihashi & Ohno, 2018)。初期の『きょうの料理』は生放送で開始され,最初の料理はカレーライス,テキストは半年後に刊行された。また,番組を続けているなかで,一度も分量を出さなかった日本料理人がいたとある(Kawamura, 2003)。
1966年には柴田書店による職業料理人向けに料理専門誌『月刊専門料理』が創刊し,現在まで半世紀以上の永きにわたりレシピや技術情報を提供し続けている。同年に京都の老舗料亭の主人と料理長で結成された「柴田日本料理研鑽会」はそれまで公開されることの少なかった各店の料理手順を写真付きで紹介し,「技術の公開で,業界の発展に寄与する」ことをめざし,今日まで継続している(Shibata-shoten, 2016)。
21世紀に入ると,インターネット技術の発達や端末の普及により,一般消費者向けにウェブ上でレシピを提供するサービス『クックパッド』(1998年開始)(Cookpad, 2019)などが展開され,レシピを発信・共有したい消費者とレシピを探索・利用したい消費者を結びつけている。
ここまで,料理構造化の試みと料理の記録の歴史の先行研究を辿ってきたが,伝統的に日本料理の職業料理人においては記録して残す,伝えるという動きは諸外国ほど活発ではなかった,といえる。20世紀になり,職業料理人向けの専門誌・料理教本が発刊され,立場を超えた料理人同士の交流も進んできたこと,料理産業以外からにも研究する者が現れたことより,表面的にはかつてより構造化が進み,レシピの普及も行われるようなったといえよう。
近世より手工業が発展し,そこに手工業者すなわち職人において徒弟制度が不可欠なものとして発展してきた。Endo(1946)によれば,徒弟制度,別の言葉で言い換えれば,年季弟子制度というものにおいて,徒弟となりうるには十一歳から十三歳くらいの間の,技術においては未知の素人でなければならないことが挙げられる。一般に徒弟の年季は十年といわれ,親方はその徒弟に技術の教授指導,衣食住の世話,夏冬の仕着,金銭,年二日の休息日を与えるとされる。いっぽうで徒弟においての義務は,無断で暇取しないこと,他の親方の為に働かないこと,技術を秘密として他へ漏らすことは厳禁,役銭,恩返し奉公とある。その後,弟子入りしてから十八・九歳頃に元服ののち,さらに定められた徒弟期間を終えてはじめて一人前の職人となる。独立には親方からの営業の鑑札を貰い,仲間の承認が必要であった。18世紀の中頃の大阪においては,畳刺・大工・木挽・葺師・左官・張付師・傘張・桶師・差物師等につき鑑札がないものを雇わないようにと触れがでている。しかし,まだ職人には義務があった。技術を磨き人物を磨くために旅に出ることであり,他所者職人・渡り職人として辛酸を味わうことであった。加えて,すべての職人が親方になるわけではなかった。親方権は一つの株として一定数に限られており,多くは従来の親方のもとに雇われるか,またその所持する鑑札によって他の親方に雇われるかであり,ここに親方と徒弟との間に他所者職人が多数存在するのである。
言い換えれば,職人の世界において親方,渡り職人,徒弟が存在するのである。
上記のような近世の徒弟制度を背景にした形で,料理人の世界も類似の構造がみられる。明治末生まれの料理人であるNishinaka(1986)によれば,京料理の修行には,当時二つの道があり,一つは料理屋に直接入って「子飼い」として育てられる方法,もう一つは「部屋」という組織に入って,職人のなかでもまれて修行する方法,とある。Kanzaki(2004)によれば,京都の料理界には,1985年頃まで料理屋に丁稚奉公するという旧来の修行制度が厳と維持されていたとある。その序列は,下から,追いまわし・八寸(場)・揚方・向板・焼方・煮方・板長という階級である。丁稚奉公制度がなくなった現代においても,京都の料理屋の厨房で,一般に同様の形態の厨房分業がみられ,一人前になるには最低でも十年かかるとされる(Kurisu, 2007)(図3)。
京都の料理屋の修業のステップの一例
出典:『よくわかる板前割烹の仕事 たん熊北店の全技法』柴田書店,2007
Nakazawa(1977)によれば,明治以前より部屋という制度は存在し,この部屋の親方は,元々は何々流という包丁流派を名乗る包丁人であった。彼らは武家社会がなくなったあと,料理を教える傍ら料理屋へ料理人を斡旋してその収入による職業になるのである。Nakazawa(1971)は,板前の親方が,料理屋に自分の弟子や渡りの職人の世話をする。身許も保証し全責任をとらなくてはならないが,その分実入りもあり,いつしかそれが専業となった,と述べる。Kanzaki(2004)によれば,部屋は一般的には1960年代くらいまで活発であったが,京都では1987年の段階でも,就職斡旋業者として部屋が8軒あり,推定400人前後が部屋を通して働いていたという。Kanzakiによれば,こうした部屋に所属する「渡り料理人」と料理屋に奉公して育ててもらう「子飼い」がおり,料理屋は「子飼い」が成長して戦力となることが理想であるが,いざとなれば即戦力も必要なため,厨房の経営のために部屋との付き合いをかかさないようにしていたとある。部屋では,料理屋から依頼があると所属する職人の経歴,実績,評判などをみてそれに適当な人材を送りこむことになる。
1958年に調理師法が成立し,調理師と名乗ることには国家資格が必要となった。これを契機として,部屋組織に属しその裏書のもとで渡り職人として店舗を移動していた料理人たちの流動性は低下したと思われる。以降日本料理店も企業化し,日本全体の終身雇用化の波をうけ,店舗間移動の機会も減少したと予想される。またKanzaki(2004)が述べるように,調理師学校が各地にできてからは,教育や料理人の斡旋という観点で部屋の役割を代替していったのではと考えられる。
江戸の後期より料理屋が普及してきたことが,日本料理産業の発展を促すことになった。しかし,その技術の普及や教育については同業者のギルドのなかでのクローズな形をとり,近世の職人徒弟制度の面影を現代まで残すこととなった。
日本料理において格言のようにいわれる言葉の一つとして,「椀刺(わんさし)」というものがあり,献立の華は椀物と刺身である,ということを指している(Shibata-shoten, 2010)。出汁はその椀物に用いられ,味・風味の決め手となるものである。一般に最もよく用いられる出汁は昆布と鰹節でとったものであり,またその味付けや香り付けには醤油を用いることが多い。刺身といえば,日本料理人の包丁の冴えを見せるものであるが,多くの場合,醤油を主体にしたもので食することが多い。そこで,ここでは日本料理の骨格を形作る食材として,昆布・鰹節・醤油を挙げ,その産業の成立についての先行研究をとり上げていきたい。
1. 昆布の流通昆布という言葉は,日本において8世紀に初めて記されたとされる(Oishi, 1987)。これは近畿地方でのことであるので,すでにこの時代に北方が産地である昆布が遠路を流通してきたということが推測される。Oishiによれば,927年に完成した『延喜式』の中には昆布という言葉が20回近く使用され,陸奥からの貢納品として,神事,仏事に使うことが決められていた。時代は下り,室町時代には箱館(函館)近郊の昆布を「宇賀昆布」と称し,京都で販売されていたとある。
近世以降では,昆布の主産地は箱館などの港を窓口とした蝦夷地(北海道)となった。そこから日本海を航行し近畿圏に流通させた北前船の有力商人の研究として,Nakanishi(2009)があり,昆布が中心ではないが,昆布も積載されていた北前船による遠隔地間商品市場における生産者・商人・輸送業者のあり方に着目したなかでの鯡肥の流通の研究(Nakanishi, 1998)がある。北前船による昆布の運搬は昆布流通に不可欠であり,江戸時代の北前船の西廻り航路を「昆布ロード」と称し,その特徴を論じたOkui(2012),北前船の構造や寄港地を詳細に論じたShio(1993)などがある。Katakami(1999)は蝦夷地の地理および歴史的な奥地進出の段階を踏まえて近世中期から明治初期の昆布流通を論じた。近世以降の研究にはいずれも,有力商人,多くの場合近江商人が関係し,昆布をはじめとした蝦夷地産物の流通の発展に尽力したものとなっている。
2. 鰹節の流通Miyashita(2000)は,その歴史については遅くとも奈良時代までに他の魚類にはないカツオの特徴が知られ,堅魚,煮堅魚,堅魚煎汁などの製品がみられる,と述べる。Miyashitaは我が国の鰹節に多大な影響がみられるとしてモルジブを挙げ,南西諸島よりの生産技術の流入・発展の可能性を論じている。近世以降になり,紀州より出た製造技術が普及したことにより土佐,枕崎,房総,伊豆,焼津と生産地が広がり,明治に入り全国的に生産地が展開されることとなった(Miyashita, 2000; Miyauchi & Fujibayashi, 2013)。Inaba(2001)は近世以降の東京の鰹節商人の歴史を綴り,東京の流通の発展を論じた。
3. 醤油の流通Hayashi and Amano(2005)によると,素材の色を生かし,素材のうま味を引き出すような料理に最適な調味料として造られたのが淡口(うすくち)醤油であり,播州の龍野(兵庫県南西部)を発祥としている。いっぽう関西の古い醤油産地で,近世は濃口(こいくち)醤油を作っていたことから後に関東の醤油醸造業に大きな影響をあたえたとされているのが紀州の湯浅(和歌山県中部)である,とする。林・天野は全国各地の醤油醸造産地にも着目し,その産地間の技術の移転・交流の影響についても論じている。Yoshida(2018)は,醤油の技術史を述べるとともに,海外との交流にも言及し,19世紀末からの輸出への取り組みにまでを述べた。
上記,昆布・鰹節・醤油と日本料理に必須とされている食材の研究を俯瞰してきたが,それぞれの産業内での文献の蓄積は各所に存在するまでも,醤油をのぞけば決してその数は多いものとはいえない。サプライチェーンやその統合という観点では,既存研究者の分野も多様であり,現時点では十分ではないといえる。
本論では,日本料理の普及に関する研究課題として,重要かつ過去にはあまり検討されてこなかった視点より整理を試みてきた。最後に,日本料理産業がこれからも国内外問わず普及・発展し,その産業が再帰的であるために以下の三点を研究課題として提示したい。
第一に,様々な視点より,料理の構造化が試みられてきたが,未だ職業料理人向けには効果的な方法が確立できていない,ということである。いつの時代においても,料理人は厨房におり,その手足や五感を使いながら,即時的・瞬発的に調理をしている。その手順をレシピ化したり,科学的に分析しようという動きは続いているが,職業料理人は料理の構造化に関して,活用できていない要素が多いように見受けられる。しかし,レシピ化されていることは,あるレベル以上の技量を持つ料理人にとって,新しい料理を習得・創造する際の助けとなることは間違いなく,国籍を超えた料理を作る際には不可欠なものであろう。料理の普及のためには,構造化に加えて,他に必要な要素があると考える。
第二の点は,過去に存在した料理人の徒弟制度に,日本料理産業内の技術普及や人材品質管理,職人の需給調整の点について意義を見出すものである。料理人の間のみでの技術伝承方法に着目するのではなく,産業システム全体としてその構成員の活動内容を検討することにより日本料理における基本思想や哲学に立ち戻り,将来や他国での日本料理の技術普及に効果的であろう要素を抽出することができるかもしれない。
第三の点として,必須食材の供給に関しては,総じて産地やブランドについて,その需要家・料理産業との関係が今まで十分に研究されていない,ということがある。例えば,昆布においては,京都の日本料理店では利尻昆布という北海道北部を産地とするものが多く使われているが,なぜこれを京都で好んでつかっているのか,きっとマーケティング活動が行われた結果であろうかと思われるが,そういった観点では先行研究がほとんどないといえる。鰹節,醤油についても同様である。特定の産地の製品が優位性を持ち,現代の顧客に使用されているということは,近世・近代のある時点でのマーケティング・ミックスが結実したということであり,そういった産業的観点から産地醸成や流通販売をみていくということは,これからの日本料理の発展や他国への展開についても必要不可欠のものと考える。
以上のような課題を挙げたが,決して日本料理の普及や再現に関してのすべてのものを網羅したということではない。しかし,今後における課題を断片的ではあるが整理をした点については学術的に意義のあることと考える。
遠藤 剛史(えんどう たけし)
早稲田大学商学部卒業,ボストン大学経営大学院修了。
現在,一橋大学 大学院経営管理研究科博士後期課程在籍。