2020 Volume 39 Issue 4 Pages 97-99
本書の題目は『マーケティング・リサーチのわな』であるが,副題は「嫌いだけれど買う人たちの研究」とある。つまり,本書の目的はマーケティング・リサーチの手法の使われ方の限界と可能性を検討するものであるが,数ある限界のなかでも言説と行為の矛盾を扱っている。
通常,マーケティング・リサーチを行う場合は,言説と行為は一致するという前提をとる。ところが,著者が中国消費者の自動車の購買傾向においては,「(日本車は)嫌いだ」と言いながら店舗で購入している事例が多く見られたという。本書は反日感情が問題となる中国の消費者に焦点を当て,彼らの日系自動車メーカーに対する態度に関する調査データと実際の購買行動データとの不一致を分析し,言行不一致を引き起こす要因を明らかにし,こうした現象があるなかでマーケターが取り得る方策について論じている。
本稿では次章で本書の概要を紹介し,最後に本書の貢献と限界を述べたい。
本書は7章で構成されている。ここからは各章の概要を簡単に紹介する。
第1章 マーケティング・リサーチの役割
本章ではマーケティング・リサーチの役割について述べる前に,まずマーケティングの役割について論じられている。そして,マーケティングを行う人たちに,マーケティング・リサーチの正当性を主張するためには,(1)説得するための構造,(2)顧客志向という考え方の共有,(3)消費者行動の理論の共有,の3つの条件が必要であることが述べられている。
なお,説得するための構造としては,「道具主義」的なアプローチがしばしば取られる。ここでいう道具主義とは,「観察される現象の一貫性のある記述と予測のみを科学のなすべき仕事とし」「なぜ消費者が特定の選択肢を選ぶのかといった心のメカニズムについて何かを述べるということを基本的に放棄した立場(阿部, 2013)」を指す。
第2章 説明する構造とデータ
本章では冒頭でコンジョイント分析を例にとり,評価と行為の関係を明らかにする実証研究の基本構造の事例として属性アプローチをとりあげている。さらに,属性アプローチに加えて周囲のプレッシャーや行動統制感を考慮したモデルとして,TPBモデルを挙げている。
本章ではこうした実証研究の基本構造を説明したうえで,「測定されるデータ」に焦点をあてて考察をおこなっている。我々分析者は測定されるデータが正しいという前提で測定されたデータを分析するが,実際には間違ったデータ,意図的な虚偽を含むデータ,矛盾を含むデータが含まれる可能性がある。筆者は測定されたデータを用いて数量的に分析できたとしても,こうした「間違いのあるデータ」の存在合理的に解釈できない可能性を論じている。
第3章 言説と行為の矛盾
冒頭でブランドの重要性を論じたうえで,前半は中国における日系企業の乗用車に対するブランド・イメージと選好に関する調査分析の結果を述べている。後半では修正敵意モデルを提示し,中国における日本車への製品評価,購買意図,敵意,社会的規範といった項目が,複数時点の調査から丹念に検証されている。その結果から,日本車の評価が低いにもかかわらず,日本車のシェアが外国車ブランドのなかでトップの地位を占めている矛盾を指摘している。
第4章 嫌いだけれど買う人たち
本章では3章で明らかになった「嫌いだけれど買う人たち」へのフォーカスグループインタビューを実施し,言行不一致の原因をテキスト・マイニングから探っている。分析の結果,反日という規範の中で,社会の暗黙ルールである「メンツ」が言説と行動の矛盾を引き起こしていることが明らかになった。
筆者は言説と行動の不一致を説明するモデルとして,2相モデルを提案している。中国における「メンツ」には「臉(リャン)」と呼ばれる道徳的な側面と,社会的・経済的な成功を顕示する「面」の二つの意味がある。2相モデルとは,社会的規範重視相(リャンとメンツが支配的な場)と社会的規範軽視相(メンツを気にしなくてもすむ場)の2つの相からなる。なお,本書では人々が計画したり実行する環境を「場」,場のなかで発生する,選択のために設定される状況を「文脈」として定義される。そして,場における文脈を測定することができれば,マーケティング・リサーチの予測力を向上できると論じている。
第5章 選択は文脈に依存する
本章では場と文脈の関係,選択における文脈の役割について掘り下げている。とくに,対人関係がつくる文脈の影響に焦点を当て,どのような対人関係を意識するかで選択内容が変わることを実験結果から論じている。消費者が場と文脈の影響を受けて選択をするのであれば,マーケターとしては適切な文脈を消費者に想定してもらえるよう場をデザインしなくてはいけない。また,このように選択は文脈に大きく依存するため,マーケティング・リサーチを実行する際には消費者の置かれた文脈に注意する必要がある。
第6章 ルールの多元性と文脈の形成
本章ではヒース(2013)『ルールに従う』を紹介し,選択が社会的規範に強く制約されることを示したうえで,文化や制度の問題を含む社会的規範が消費者行動に与える影響の検討を行っている。文化や社会規範は時代とともに変わるものであり,その変化を起こすためにマーケティングが果たす役割は大きい。実際に社会の規範が変わった事例として,カジノ,ヨガ,古楽の事例を挙げて論じている。文脈は場において形成され,場を文化のなかにある。そのため,文脈,場,文化に目を向けることの重要性を指摘している。
第7章 兆しを読む
これまでの議論から,これからの時代のマーケティングとマーケティング・リサーチの在り方を論じている。
本書は中国における消費者行動の調査に基づいた議論が中心であるが,選択が文脈の影響を受けることは中国人消費者特有ではなく,他の市場でも十分に起こり得る。ビッグデータの時代と言われる現在こそ,どうしたら肝心のデータを観測できるかを複数の実証分析と幅広い領域の理論から学際的に検討する本書の貢献は大きい。
本書では量的なデータを既存モデルにあてはめるだけの研究に対して批判的な立場をとっている。これは,マーケティング・サイエンスの領域で研究をしてきた著者ならではの深い洞察であり,「道具」を使いこなしてきたからこその視点であるといえる。なお,本書では道具主義という言葉が批判的に用いられているが,本書は,実は優れた道具箱でもある。因子分析,回帰分析,共分散構造分析といった「道具」を用いた筆者の実証研究の成果が多数紹介され,ディシジョンツリーやコンジョイント分析といった道具が丁寧に説明されている。
また,博識な著者らしく,本書ではアフォーダンス,SDロジック,プロスペクト理論,社会ネットワーク理論,ホフステッドの多文化世界など様々な領域の研究が登場する。多くの研究領域にまたがる研究結果を一本の線につなげる試みは,本書を優れた研究書へと昇華させている。また,各章に登場する,一見主題である言説不一致とは関係の薄い(しかし重要な)事例が楽しい。たとえば2章に登場するうそつき村の話や,山岸(2002)のいじめの限界質量の議論など,誰かに伝えたくなるような内容が多く盛り込まれている。
上記と表裏一体であるが,読んでいて気になっていたのは,話題が飛躍することである。たとえば3章,4章で中国市場における日系自動車メーカーの議論が詳細に論じられた後,5章においてはテーマが自動車や中国から離れ,リッツ・カールトン,アフォーダンス,共創が,6章ではカジノ,ヨガ,古楽の事例が論じられている。中国市場における言行不一致からの乖離に,読者は戸惑うかもしれない。
また,いくつかの実証分析はデータの概要(たとえばサンプル数や回答者のプロファイル)や分析の詳細についての説明が最小限にとどめられており,詳細を知りたくなる。もっとも,紙面の都合上,各実証分析の詳細をすべて掲載することは困難なので,補論や註で詳細情報を補っているのは現実的な落としどころであったと思われる。
なお,本書は日本マーケティング学会員が選ぶ「日本マーケティング本 大賞2019」準大賞を受賞している。授賞式において,筆者は「大学院生の頃,こういう本があったならよかった」という趣旨のコメントをしている。確かに,大学院生がマーケティング・リサーチの基本を学んだうえで,その後に本書を読むことは非常に有用と考える。ただ,順番は基本を学ぶのが先で,「マーケティング・リサーチのわな」を知るのはその後が望ましい。先に「わな」を読んでも,マーケティング・リサーチを一度も行ったことがなければ,実感に乏しいであろう。むしろ何度もマーケティング・リサーチを実践し(そして痛い思いをした)研究者や実務家こそ,マーケティング・リサーチのわなや落とし穴を指摘する本書の主張は深く染み入る。評者もそのひとりである。