Japan Marketing Journal
Online ISSN : 2188-1669
Print ISSN : 0389-7265
Marketing Case
A Case Study of VAN Jacket and Kensuke Ishizu:
Reconsidering the Value Created by VAN
Keiko Kotani
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2021 Volume 40 Issue 4 Pages 84-93

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Abstract

本ケースでは,日本のライフスタイルに大きな影響を与えたファッションブランド,ヴァン・ヂャケット(1954–1978)と,創業者の一人である石津謙介(1911–2005)に焦点を当てる。卓越した発想力で新しい顧客と価値を創造し,様々なマーケティング手法を駆使して頂点に上りつめたVANだが,その存在は顧客の高齢化に伴い失われつつある。従業員や顧客は,VANという学校に入学した順に後輩から先輩になり,OBになっていくという構造が,会社やブランドとの一体感を醸成した。当時の顧客や従業員は,今でもVANとの体験価値を自身のアイデンティティとして持ち続けている。本稿ではその軌跡をたどり,VANが創出した価値の再評価を行う。

Translated Abstract

This article focuses on Van Jacket (1954–1978), a fashion brand that has had a major impact on the Japanese lifestyle, and Kensuke Ishizu (1911–2005), one of the founders of the company. VAN has created new customers and value with outstanding creativity and has climbed to the top by using various marketing methods. However, its presence is being lost with aging of customers who know VAN. The structure, in which employees and customers change from junior to senior after enrollment in VAN school and become alumni after graduation, fostered a sense of identification with the company and the brand. Former customers and employees still have the experienced value of VAN as their own identity. This paper reassesses the value created by VAN by following this trajectory.

VANとKENTの看板(左),VAN GUARDSのユニフォームとボール(右)

出典:2018年12月 吉田三郎商店にて筆者撮影

I. はじめに

本ケースは,1960年代から70年代の男性ファッションのモンスターブランドであるヴァン・ヂャケット(「VAN」)と,その創業者の一人で「ファッションの神様」と呼ばれた石津謙介(「謙介」)を取り上げる。日本の男性ファッションは,VANと謙介無くして語ることはできないほど,重要な役割を担っている。ファッション業界だけでなく経済界でも「実は昔アイビーだった」という経営者は多い。高度経済成長期のVANの軌跡を辿り,その理念や戦略を紐解いていくと,栄華を極め倒産したブランドという面だけでなく,顧客体験となる場の創造,人とのつながりや一体感といったマーケティング戦略の先駆的な側面が見えてくる。本ケースでは,関係者のインタビュー,謙介に関する書籍,石津事務所や元社員のウェブサイトから,VANと謙介の価値を再評価する。

II. VANの概要

1. VANの誕生

VANの歴史は,1951年,謙介が大阪で立ち上げた石津商店から始まる。良質な生地を使った高級服で,デザインの優れた高品質な服作りをめざした。「男の正しい服装は伝統的な英国式のものである」(Hanafusa, 2018, p. 73)とし,英国式の高級紳士服を製造販売した。物がなかった戦後が終わりに近づき,GHQによる綿紡績設備の再建で起きた「ガチャマン景気」と朝鮮戦争の特需もあって,お金はあるがモノが少ない,という時代であった。謙介の作る服はすぐに生産が追いつかなくなり,老舗店の仕入れ係がわざわざ取りに来る状況となる。1954年にはヴァン・ヂャケットに社名を変更,翌年東京に進出した。

1950年代から60年代,日本には,映画,テレビドラマ,音楽,雑誌などで米国の文化が流入し,若者は米国に憧れを持つようになる。謙介は,「Esquire」「GQ」といった米国のファッション雑誌に掲載されていた大学生のファッションに注目する。富裕層であるアイビー・リーグの学生がキャンパスで着ていたのは,ボタンダウン,金ボタンの紺のブレザー,コットンパンツ,コインローファー,マドラスチェックのシャツ,ハリントンジャケット,レジメンタルのタイなどで,その代表的なブランドが,ハーバード大学学生御用達のBrooks Brothers(1818年創業),イェール大学学生御用達のJ.PRESS(1902年創業)であった。

1959年,石津商店の立ち上げメンバーの一人で,レナウンの関連会社にいた高木一雄と共に世界一周旅行をした謙介は,アイビー・リーグの学生ファッションを参考にし,日本の若者向けのアイビー・ルックを作り出す。それまで,学生が着る服は詰襟であり,社会人になれば百貨店でスーツを仕立てるというのが一般的であった日本には,「若者が普段着る服」というカテゴリは存在しなかった。謙介の長男・祥介は,「父が作っている服を着て初めて,詰襟以外のものを着るようになった」1)という。映画「ウエストサイド物語」や「卒業」,TVドラマ「サンセット77」「ルート66」の登場人物が着ているような服が手に取って買えるようになった若者は,VANの商品に飛びついた。

VANのショップに行けば,アイビーに統一されたアイテムがすべてそろった。当時,シャツはシャツ屋が,ネクタイはネクタイ屋が,靴は靴屋が作り,問屋を通して商品を流通させるのが通例であったが,VANは問屋を介さず,一つのブランドですべてを扱った。自社にノウハウがないアイテムは,リーガル,月星化成(現・ムーンスター),山本防塵眼鏡(現・山本化学)といった企業と手を組み,ダブル・チョップ(共同開発)でVANオリジナル商品を作った(Hanafusa, 2018, p. 80)。あえて流行は追わないが,TPOをわきまえた着こなしを身に着けたい若者が,毎年新たな顧客となった。つまり,VANは学校,ショップの店員は先生で,毎年VAN学校に入学する若者がいたのである。ベテランの顧客は新入生の先輩であり教師となった。ちなみに,このTPO(Time, Place, Occasion)という言葉は,今でこそ一般的に使われているが,謙介の造語である。

2. アイビー・ファッション

日本の男性ファッションは,謙介のアイビー・ファッションから始まったといっても過言ではない。アイビー・リーグとは,米国東部のエリート校である,ハーバード,ペンシルベニア,プリンストン,イェールなど8つの大学のスポーツ・リーグの公式名称で,今ではその8大学を表す言葉として一般的に使われている。ヨーロッパからの移住者が上流階級を形成し,子息がエリートとして教育を受けていた有名校で,在学中に英国に留学したり旅行したりする学生たちは,英国の伝統的なファッションをキャンパスに持ち込み,そのファッションのまま政財界に入り米国のリーダーとなっていった。

これを取り入れたのが謙介のアイビーである。「流行に左右されることなく,長く着ることのできるもの,そして着る人のプライドとか,プレステージとか,何か着る人に満足を与えてくれるような,ひとつのファッション体系」(Ishizu, 1983, p. 95),これが謙介の考えたアイビーのアイデンティティであった。毎シーズン流行にのった高い服を買う余裕は学生にはない。長く着られるクオリティの高い服を選び,汚れたら洗う,それが弊衣破帽の精神,いわゆるバンカラであり,アイビーはこの精神に共鳴する。

次に謙介は,ファッションに関して無知であった男性たちの指南書を作る。それが雑誌MEN’S CLUBである。謙介が「男の服飾」として発刊を手掛け,1954年の創刊号からアイビーを特集した。当初は高めの年齢層向けであったが,1963年に若者をターゲットにし,副題であったMEN’S CLUBの名前で誌面を刷新した。写真やイラストを駆使して,服のこだわりや着こなし方を掲載した。例えば,ボタンダウンの襟のボタンホールの位置,背中のセンター・ボックス・プリーツにはループ,綿100%のオックスフォード生地で,洗濯後に糊をつけない,といったこだわりと,このジャケットにはこのシャツとネクタイを合わせる,靴下と靴はこう選ぶ,といったhow-toが詰まっていた。

1964年,東京オリンピックの直前,銀座のみゆき通りには,VANの紙袋を持ちマドラスチェックのジャケットとコットンパンツ,ローファー姿の「みゆき族」が出現する。何をするわけではなく,みゆき通りにたむろする若者は社会現象として大きく報道され,若者はVANと謙介のアイビーに傾倒していく。祥介は,「当時のマーケットは軍服と学生服以外何も知らない人だったから,アイビーという色のインクを落としたら,それがフワーっと広がった」という。VANのファッションは,男性のカッコよく見せたい,もてたいという「ナンパ意識」をくすぐるものであった。

III. 石津謙介の人物像

1. 終戦まで

謙介は,1911年,岡山の裕福な紙問屋の次男として生まれた。子供の頃から,食や服にはこだわりがあり,金の7つボタンの詰襟が着たいがために,小学校を転校したという逸話もある(Udagawa, 2006, p. 23)。慶應義塾大学に進み,家を継ぐことを拒否した長男に変わり,謙介は,3年の東京生活と引き換えに家を継ぐことを了承し,明治大学に進む。親の仕送りを十分に受け,遊び倒したという。大学では様々なスポーツに興じ,ファッションセンスを磨き,ダンスホールに通った。3年後昭和モダニズムを満喫した謙介は,契約通り岡山に戻り,結婚をし,紙問屋を継ぐが,その後も道楽ぶりを発揮する。学生時代から乗り物好きであった謙介は,ドイツからグライダーを取り寄せ,組み立て,最終的にはパイロットの免許を取得する。スポーツメーカーの美津濃(現・ミズノ)から声がかかり,グライダー・パイロットの教官として招かれたほどである。

1939年,戦時色が濃くなってくると,謙介は,大川照雄(のちのVAN創業者の一人)に誘われ,天津への移住を決断する。紙問屋をたたみ家族で天津に移ると,大川兄弟の会社,大川洋行(洋品店)に入社する。当時の天津は,日本,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツなどの居留地のある国際都市で,空襲もなく,人々は比較的余裕のある暮らしをしていたという。ここで謙介は,初めてファッション・ビジネスに携わり,営業や宣伝をしながら,各国の文化や,英語・中国語を習得する。天津ではグライダーの軍事教官として特別待遇を受け,戦地への招集は免除になっていた。このまま家族と天津で敗戦を迎えることになるが,当然財産は無くなったものの,米軍の通訳となり,持ち前の社交性と語学を使って人脈を広げた。

2. 終戦後

引揚げ後,大阪でレナウンに就職するが,高木一雄と大川照雄と3人で始めた洋服づくりが評判を呼び,3人でレナウンを退社して石津商店を立ち上げる。謙介は,デザイナー,プランナー,ライターとしての才能を発揮した。当時あったVANという風刺雑誌を見て,これだ!と思った謙介は,使用許諾を取り,社名をヴァン・ヂャケットに改称,雑誌の表紙さながら赤と黒のロゴを作成する。スウェットシャツのことを「トレーナー」,ハリントンジャケットを「スウィングトップ」,半袖ワイシャツを「ホンコンシャツ」,紳士服の洋品店を「メンズショップ」と名付けたのも謙介である。道楽のおかげでファッションだけでなく音楽,映画,グルメ,車,海外の知識も幅広く,様々なペンネームを使い分けて多彩なコラムを書いた。若者がどんな洋服を必要としているのか,どんな情報を欲しているのか,その時代を見抜く力を持っていた。

謙介は,ユニフォームのデザインも積極的に行った。警視庁(1963年),東海道新幹線や東京オリンピック(1964年),大阪万博(1970年),札幌オリンピック(1972年)などを手掛けている。1957年に立ち上げたファッション十三人会(現・日本メンズファッション協会)は,メンズファッション界全体をプロモートしていくことを目的に結成され,ファッション・ジャーナリスト,評論家,デザイナーと業界を束ねた環境作りを行った。72年からはベスト・ドレッサー賞を,82年からはベスト・ファーザー賞を発表している。「流行は作らない,風俗を作りたい」(Hanafusa, 2018, p. 28)という言葉通り,謙介の野心はVANという会社を超えて日本の文化に影響を与えていった。

3. 謙介と家族

謙介には3人の息子がいた。長男・祥介,次男・祐介,三男・啓介である。1960年に祥介がVANに入社すると,弟2人も後に続く。長男の祥介は,謙介が出す直感的なヒントをもとに実質的に会社を動かす役割を担っていたが,スポーツマンであった啓介は,広告代理店からVANに入社するとすぐにVANスポーツ部を立ち上げ,スポーツを結びつけたブランド拡張を行う。自身も映画に出演するなど,スポーツ,クリエーター,アーティスト,モノづくりと,謙介に負けるとも劣らないクリエイティビティを発揮する。

初代KENTショップ(VANの大人向けブランド)の店長となった安田昌弘は,謙介を慕う一人であるが,謙介から「君は私のものをすべて自分のものにしてしまう。私のものはすべて,これからは自分の子供たちに伝え教えたいので,君には教えられない」と言われたというエピソードがある(Dankai Punch 5, 2007)。それほど子供たちに期待をし,VANを継がせたいと切望していた。それでも謙介の周りには人が集まり,孫の塁が「絶大的に人たらし」と表現するように,豪快で頑固だが,人を楽しませることを好み,周囲から愛される人物だった。

IV. VANの戦略

1. VAN TOWN 青山

1963年,VANは本社を青山3丁目に移転する。付近は静かな住宅地であったが,表参道や絵画館前の並木道には西洋的なイメージがあった。翌64年の東京オリンピックに向け,青山通りの道幅は40メートルに拡張され,渋谷から三宅坂までの都電が通り,砂利道だったキラー通りは舗装された。オリンピックのおかげで,緑の多い青山にスポーツのイメージもついた。

繁華街である銀座や赤坂と比べて人が集まる場所でなかった青山を,謙介はファッション・タウンに変えるという構想を抱いていた。VANが本社を青山に移すと,1966年にコシノジュンコ,70年に三宅一生,73年には川久保玲など,続々と若いデザイナーが集まり始める。謙介が青山に注目した理由は2つある。「青山という高い場所で物をつくったら,渋谷,赤坂,原宿,六本木など,低い街にすべて流れていくだろう。なにしろ,これらの街は,青山を中心にすべて下っているのだから。ファッションだって流れるはず」。そして,「青山,外苑地区というのは,東京のグリーン・エリアであり,スポーツ・エリアだから。これはVANの精神に一致するし,人々はそこで一番くつろぐことができる」(Ishizu, 1983, p. 97)と考えたからある。

1972年には港区北青山3-5-6の場所にVAN356ビルが完成,VAN TOWN AOYAMAの屋上広告が完成し,青山はVANタウンと呼ばれるようになる。ビル内にはパリのピエール・カルダン劇場をお手本にしたVAN99(キュウキュウ)ホールが作られた。青山地域の人々への還元と,各界の才能ある若者に活躍の場を与えることを目的としていた。地域の子供向けの映画会や社員の結婚式,絵画や写真の個展,ボクシングの興行,音楽やファッションショー,落語やお笑いなど,様々な催しが開かれた。つかこうへいの「熱海殺人事件」,野田秀樹の「走れメロス」,コシノジュンコやイッセイミヤケのファッションショー,ダウンタウン・ブギウギ・バンドのライブ,タモリの四か国語麻雀など,様々なジャンルのエンターテイメントがここで開催された。

青山には,KENTショップなどの直営店の他,VANが出資したイタリア家具のアルフレックス,生活雑貨のオレンジハウス,インテリア植物のグリーンハウス404が続々とオープンする。原宿のパレフランスの地下には,大阪から全国展開したスコッチバンクができた。サントリーの佐治敬三とVANとのコラボレーションにより創業したバーである。ファッションを楽しむ人々のいこいの場を提供しようというコンセプトで,ボトルキープに真鍮の鍵を用い,重厚感のある洒落たバーであった。謙介は,「ファッションとはライフスタイルのことであり,明日をどのように生きるか,ということを考えること」「明日への楽しみ,喜び,意欲,こんな生活を考えること,それがファッションだと思っている」(Ishizu, 1983, p. 155)と述べている。VANは単なるアパレル企業ではなく,アイビーというファッションを通して,VANカルチャーという日本にはなかったライフスタイルを提案し啓蒙していくミッションを掲げる会社であった。青山はその中心地であり,新しい文化を創造するVANタウンとなっていった。

2. VANのマーケティング

VANは実に様々なマーケティング戦術を創出した。まず,役者を広告塔に仕立てた。俳優とのつながりは,天津時代の信欣三との出会いに端を発する。謙介は,戦後俳優座と民藝で活躍する彼を通して,新劇人とのネットワークを構築した。当時のスターは良い普段着がないことが悩みだった一方,俳優たちがVANの服を着てくれれば歩く広告塔になることから,両者の思惑は一致した。彼らは,出世払いで,VANの倉庫にある服を持ち出すようになる。回収できるとは毛頭思っていなかったが,それでも高価な新聞広告を出すよりも採算が合う。VAN黎明期には,そんな若手俳優の高倉健,菅原文太などをモデルに起用した。

商品の情報拡散には,雑誌,テレビ,ラジオを利用した。まだ男性がファッションを語ることは軽薄と考えられていた時代に,謙介はMEN’S CLUBで,ペンネームを使い分けて大量のコラムや雑文を執筆した。慶応の学生でのちにVAN社員となるくろすとしゆき(現・服飾評論家)やイラストレーターの穂積和夫とともに,MEN’S CLUBをVANのPR誌的存在へと押し上げる。1965年には祥介,くろすとしゆきらが渡米して,アイビー・リーグを視察,その成果は「TAKE IVY」と題する写真集とドキュメンタリー映画となった。テレビでは「VAN MUSIC BREAK」,ラジオでは「VAN HOLIDAY IN ROCK」という番組があった。VAN MUSIC BREAKの司会は前田武彦,レギュラーバンドに渡辺貞夫らが出演し,ジャズやボサノヴァの演奏をした。VANのファッションを身にまとったモデルや謙介自身が出演して前田とトークを繰り広げる,ジャズとおしゃれをテーマにしたスタジオ番組であった。

謙介はまた,式場壮吉,徳大寺有恒らと1956年にRacing Mate発足,レース関連専門グッズを取り扱った。スポンサードのレーサーには生沢徹や浮谷東次郎などがいた。謙介のスポーツ好きは息子たちにも遺伝しており,祐介は63年の第1回日本グランプリにドライバーとして参加している。第4回日本グランプリではVAN PORSCHチームが優勝。66年には,初の米国外開催となったインディ500(富士スピードウェイ)でグラハム・ヒルのチームスポンサーを務めた。69年には,「VAN SPEED SPECIAL」という世界の自動車レースを取材して紹介するテレビ番組を提供している。

1965年,啓介が入社しVAN SPORTS部ができると,スポーツファンを取り込んでいく。社内には様々なクラブがあったが,中でもアメリカン・フットボール部VAN GUARDSは突出していた。66年には,明治大学の現役チームと試合し善戦,その後大学で活躍した有名選手が続々と入社することになる。その人気は大量の大卒採用につながった。VAN GUARDSは,69年の第1回パイオニアリーグ戦で全勝優勝を果たし,76年には第1回パールボウル決勝に出場(日本大学が勝利),翌年も決勝まで勝ち上がった(明治大学が勝利)。年間2,000万ともいわれる費用は全面的に会社が支援し,ウェアやロゴ入りのグッズを社費で製作した。新聞やニュースで取り上げられるなど,パブリシティを増やしたため,ブランド認知や採用に大きく貢献した。

プロモーション活動では,1964年の「TAKE IVY」を皮切りに,毎年のようにキャンペーンを打っていく。雑誌をアイビーの着こなしの教科書として利用していたため,キャンペーンでは敢えて商品説明をせず,米国の生活や文化を紹介するコンテンツでVANのブランドイメージを伝えた。キャンペーンでは,特約店や百貨店向けの販売マニュアル,ディスプレイ,カレンダーやポスターの他,販売促進用のノベルティグッズを大量に準備し,雑誌には広告やタイアップ記事を出し,協賛するテレビ,ラジオ番組でキャンペーンの告知を行い,地方の放送局とはタイアップイベントを行った。70年のGlobal Eyeキャンペーンからは,テレビ,ラジオでバーター協賛を開始,スポンサー料を払わず,商品を提供してクレジットを買った。その商品は視聴者プレゼントとなった。

当時,祐介率いるVAN宣伝部の破天荒さは群を抜いていた。1969年のThe Weekenderキャンペーンでは,富士重工の飛行機エアロ・スバル「ウイークエンダー号」をゼブラ柄にペイントして懸賞品としたが,高額すぎることを理由に公正取引委員会の指導が入ったという逸話がある。飛行機がダメなら車だ,ということで,スバル360(これもゼブラ柄に塗装)10台に変更したという。ある時は,日本橋東急百貨店(現・コレド日本橋)の2階売り場に,学校のプール大の巨大水槽を置き,大島の海女さんにVANのロゴのTシャツを着て潜ってもらうというセール・イベントを開いた。ところが会期が半分を過ぎたところで水槽が割れ,一階売り場は水浸しになったという。「何事にも好奇心を持て」「楽しい仕事をしよう。でも,仕事を楽しくするのは自分だ」という謙介の言葉通りの企画は,顧客を魅了した。そのほとんどは,企画書も稟議も無く決済された(Dankai Punch 5, 2007)。

3. インターナル・マーケティング

社内報VAN PRESS2)は1966年に創刊した。掲載される情報は,新商品,新ブランド,業績,直営店,営業所,キャンペーン,内見会,組織変更,人物紹介,部活,社員旅行/視察・研修旅行,社内アンケート調査など,VANに関することすべてであった。創刊号のトップページには,3名の創業者の言葉が掲載されている。「これは知らせるための社内報である以上,読んで知っておいて貰わねば全く意味がない。これに書いてあることは,社員残らず知っているということの前提にもなる」(謙介)。「社内報が一種の教科書的な役目を果たし,知識の供給源になればと思っている」(大川照雄)。「優秀な人間がただいても何にもならない,それらが良き理解をもち,お互い良く触れ合わなければならぬ。(ある会社の社内報で)会社と社員が一体となり,仕事を通じて社会に尽くし,より良き人間関係を作ろうという信念がにじみ出ていた。この社内報の使命たるや重大なものといえよう」(高木一雄)。社内へ情報を浸透させることで,一体感を醸成しようとしていたことが分かる。

この創刊号が出た1966年は従業員350名であったが,71年には1,000人を突破,75年には2,600人に膨らんでゆく。ブランド数もこの頃から増加している。当初は,若者をターゲットにしたVANと,それより上の世代向け高級路線のKENTの2ブランドであったが,次第に,子供向け,女性向け,ビジネス,スポーティカジュアル,アウトドア等のシーン別ブランドや,SPALDING,HEAD等のスポーツブランドが立ち上がる。事業が細分化し,人が増えて関係性が希薄になることを,少しでも食い止めようとしたのがこのVAN PRESSだったといえよう。

利益を社員に還元するため,福利厚生も充実させた。社食,複数の保養施設,ファミリーセール,海外研修,社内研修プログラム「VAN SD SCHOOL」等があり,1973年には北海道日高に牧場「VAN STATE」を購入し,社員研修などに利用した。また,社員のスポーツを推奨しており,72年には第1回VAN SPORTS FESTIVAL(社内大運動会)を開催している。社内にはアメフト部の他,野球,ラグビー,アイスホッケー,テニス,ヨット,バスケット,スキー,サッカー,自転車のみならず,カーレース,射撃,シンクロナイズドスイミング,キックボクシングといったものまで,多彩なクラブがあった。謙介が,スポーツは日常生活の一部であるべきだと考えていたことも影響しているだろう。VANのウェアを来てスポーツに興じる社員は,顧客接点としても重要な役割を担っていた。

4. VANの社風

VANで働く社員たちは,時代の最先端を行く人々であった。特に60年代の社員は野心家だらけで,3~4年で辞めて事業を起こした。シップス顧問の鈴木晴生,オンワードデザイナーの谷敏夫,ハリウッドランチマーケット社長の垂水紀雄,メーカーズシャツ鎌倉会長の貞末良雄,そして吉田カバンの創業者の三男である吉田克幸などは皆VANのOBである。謙介も,ここで学んだら卒業していっていいんだぞと,退社を容認していたという。若い人たちは,創業時の人たちからその人柄を学び,話し方,遊び方,飲む場所などを教えてもらった。謙介は「VANは会社じゃなくて学校だった」(Udagawa, 2006, p. 165)と繰り返し述べている。今も活躍する人材を育ててきたことも学校である所以の一つであろう。祥介によれば,謙介は社内に向け「VANは入門服だからな」とよく言っており,VANを卒業して活躍することが社員間の競争になっていたようである。「(元VANの人は)とにかく本当に誇らしげですよね,倒産したのに」と祥介は笑うが,元社員でVANや謙介のことを悪くいう人がいないのは,在籍(在学というべきか)していたのが特定の一時期だったにもかかわらず,出身校に愛着を持ち続けるかのように,会社と社員が一体化していたからである。

VANの社員の出社時間はまちまちで,会議室にはビリヤード台が設置され,ジャズが流れる自由な社風であった。受付や食堂にも,エアホッケー,サッカーゲーム,シャッフルボードなどのゲームがあった。1974年のVAN PRESSに掲載された社内アンケート調査によると,ノーネクタイで出勤する人が多く,男性の87%が喫煙者で,独身男性の4割がスキーを,妻帯者の6割がゴルフをし,8割が酒をたしなみ,そのうちウイスキー党は85%である。大卒初任給平均(男性)が78,700円の時代に,1か月の小遣い平均は独身男性で34,000円,妻帯者で45,000円であったことから,給料の高さもうかがえる。

1975年のVAN PRESSで謙介は,「仕事の遊び化」をうたっている。「仕事の遊び化とは,仕事を遊びのように楽しく心豊かで,個人の希望や夢や志を表現し実現してゆく自由で創造的なものにしてゆく人間活動の方向をさし示す考え方。このような仕事の遊び化を許容し満足させることができる企業こそが『人間活動集団』と呼ぶにふさわしい。仕事と遊びを生活の中で統合し一体化させるという考え方,すなわち新しい『生活の論理』こそ私たちの『思想』である」としている。この自由闊達な組織風土はトップダウンで形成され,従業員だけでなく,従業員を通して顧客もVANに一体化していった。

祥介は,謙介から晩年,「俺は起業家として失敗をしてきて,お前らに遺産・財産は何も残せなかった。でも人間のつながりだけは,せっかくできているんだから大切にしろよ」と言われたという。今でも孫の塁に「僕は昔アイビーだったんですよ」と話しかけてくる人は多い。VANの洗礼を受けた人々が現在の日本社会で活躍し,VANのアイデンティティを継承している。VANが創出したのは,ファッションや直接的な人のつながりだけではない時間を超えた価値の体験であった。

V. 倒産後のVAN文化

1. VANの終焉

70年代に入ると,年商は69億円,71年には97億円,72年には126億円,73年には137億円と右肩上がりとなる。しかし,不穏な動きはそれよりも前に始まっていた。1968年,週刊新潮にVANの放漫経営に関する批判記事がでると,その影響で翌年三和銀行が融資を停止する。謙介は丸紅と交渉し,商社から初の融資を受けた。とはいえ,商品が売れれば現金が入ってくるため,数か月で返済してしまう。借入れをして商品を作り,売上で返済し,余剰は広告や販売促進,ファッション文化の醸成,そして社員への還元というサイクルで動くようになると,その高い返済能力に,商社が次々とVANに興味を示すようになる。

しかし,商社による強気の生産体制はすぐに行き詰まった。1974年,年商は300億円に達したものの,在庫が膨らみ経営不振に陥る。2つの組合も結成され,社内には組織変更で販売部が誕生する。ここで初めて販売管理,在庫管理が始まるのである。得意先管理,各店舗の部門別損益などの管理を始めたものの,売れ筋の欠品を許さない百貨店は,売上に対する責任を持たない。大量に発注し大量に返品するという委託形態のため,期末には在庫が積みあがった。徐々に在庫のバーゲンセールの頻度が上がっていった。

事業の多角化も進められていた。1969年,社員だった保科正が,VANの出資でアルフレックスを設立。1971年に,VAN,東洋紡,三菱商事の三社合弁でラングラージャパンを設立。南カリフォルニア工科大学でマーケティングや社会心理学を学んだ経歴を持つ岡野興夫が取締役に,大川照雄が社長に就任し,祐介も出向する。1972年には,丸紅と鐘紡の資本を受け,直営のセレクトショップであるショップ&ショップスを設立,高木一雄が出向する。73年のVAN PRESSにある組織図を見ると,この3つの関連企業が多角化の大きな柱であることがわかる。専務だった大川と高木が別会社に行くと,72年,祥介が代表取締役副社長に選出される。そしてこの年,啓介の白血病が発覚する。

1973年に第一次石油危機が起こると,原材料は高騰,1975年に年商は452億円に達するも,大幅減益に陥る。この年,啓介が36歳の若さで他界する。謙介は,祥介に経営主体を委ねるが,そこに丸紅,三菱商事,伊藤忠といった商社が経営に参画してくる。背景に,アパレル業界の市場飽和と第一次オイルショック後の繊維不況からくる国民の不安があり,当時の通産省は,銀行や商社にアパレル業界への資本投下を指示した(産業構造審議会および繊維工業審議会「70年代の繊維産業政策のあり方について」1973年)とされている。しかし,謙介が育てたVANの精神と,利益を追求する商社の論理は相容れないものであった。もっとも謙介は,会社の規模が大きくなってくると,経営意欲を急速に失っていったようである。さらに期待していた息子啓介の死が追い打ちをかけ,VANは迷走していく。

1976年には新規採用を停止し,牧場から撤退する。このころ商品はスーパーにまで並びはじめる。77年,丸紅の沢木鷹平が社長に就任し,謙介は会長に,祥介は専務に降格する。年商は380億円に落ち込み,欠損は44億円。退職者が続出し,社員数はピークの2,600人から1,500人となる。奇しくも,1976年2月にロッキード事件が明るみに出て,7月に田中角栄が逮捕され,丸紅からも複数の逮捕者が出た。金銭の授受をしたのが繊維部長であった伊藤宏専務で,VANの窓口だった人物である。78年,丸紅はこれ以上の単独支援強化は不可能と判断し,4月6日,VANは会社更生法を申請する。負債総額は500億円。10月13日に会社更生法申請が却下され,アパレル業界では戦後最大の倒産となった。

2. 倒産後の石津謙介とVAN

倒産については様々な原因が考えられるが,謙介本人はというと,「つぶれたのは,ある時,ボクが全くやる気をなくしてしまったから,社員もやる気をなくし,それでつぶれたのである。ボクは始めっから,決して,いわゆる経営者ではなかったのだ」(Ishizu, 1983, p. 188)と述べている。

1978年に倒産後,会社は破産財団となり,破産管財人弁護士よる整理が行われた。80年には,東京地裁でヴァン労組vs大口債権者(丸紅・三菱商事)の和解法廷において合意が成立した。商標は元社員らが立ち上げる新会社が継承することになり,新生VANがスタートする。青山から青葉台へ会社を移転。販売店舗はKent-shop青山など計7店舗が残った。

謙介は倒産後1年7か月ほど浪人生活を送っていたが,周囲が放っておくことはせず,1979年12月には「石津謙介を励ます会」が開かれている。この年,雑誌POPEYEでは「Thanks a lot VAN. VANが先生だった」という特集が組まれる。雑誌Hot-Dog PRESSでは,82年に「石津謙介のニュー・アイビー教科書」という特集が組まれている。POPEYEとHot-Dog PRESSは高校生,大学生の教科書となり,第二次アイビーブームが起こるのである。

1983年に石津事務所を開設すると,謙介は精力的に執筆活動を行い,ライフスタイルを様々な視点からトータルに提案し啓蒙する本を出版していく。1988年には,旧VAN九州営業所の倒産10周年記念のパーティーに招かれている。倒産した会社の社員が社長を招いて倒産周年パーティーをする会社が他にあるだろうか。謙介は2003年に「男たちへの遺言」を出版すると,2005年5月,93歳でその一生に幕を下ろした。その年の12月にはVANのOB/OG会による「石津謙介会長にお別れをする会」が開催,2011年には「石津謙介会長の生誕100年を祝う会」が青山で行われ,300人を超える関係者が集合した。今でも各所でOB会が開かれるという。

一方,新生VANは,ライセンス契約をしていた伊藤忠グループのベルソンジャパンが倒産し,一時期はその姿を消したかに思えたが,2016年頃から息を吹き返す。台東区蔵前の本社隣にVAN SHOP KURAMAE(図1)をリニューアルオープン,2020年9月現在,全国に23店舗を展開している。商品には現代の技術や素材を取り入れているものの,全盛期のVANの顧客が懐かしむような,かつてのテイストのままの服を作り続けている。しかし,今の若者はVANのアイデンティティも謙介の存在も知らない。かつての顧客ですら,VANが営業を続けていることを知らない人や,創業家である石津家とはまったく関わりの無くなった会社であることを知らない人も多い。

図1

現在のVAN SHOP KURAMAE

出典:筆者撮影

VANの残した有形ブランドを活用していくのは現経営者であるが,70代になる当時の顧客と20代の若者をつなぐ役目をするのは自分だと,塁はいう。「VAN全盛期の人たちは,そのうちいなくなってしまう。するとそのままふっと忘れられてしまう恐怖感があって」,「実はVANに影響を受けていて…という,そういう方がいらっしゃるっていうのを僕は糧に」して,「僕なんかがどうそれをどう後ろから援護射撃していくか」,それをいつも考えているという。

VI. おわりに

マーケティング1.0時代のVANのプロモーションは,当時の先進事例であった。しかしそれ以上に,いまだに多くの人々が当時のVANとの体験価値を自身のアイデンティティとして持ち,各地にコミュニティが存在し続けていることからも,特異なブランドであることは間違いない。石津謙介という人物は,人同士のつながりや会社との一体感,青山という地での有機的な場の創造,顧客を教師にしていく時間軸のあるCX,スポーツ/エンターテイメント/ファッションを掛け合わせたコミュニティなど,現代に通じるマーケティングの先駆者であった。倒産した会社にもかかわらず,当時のVANと石津謙介のスピリットは今でも生き続けている。

謝辞

石津謙介氏の長男・石津祥介氏,孫・石津塁氏,元VAN社員・吉田尚暉氏からお話を伺いました。また,VAN SITE内の豊富な公開資料を参考にさせていただきました。心から感謝を申し上げます。

1)  以下,本稿の祥介と塁のコメントは,2020年1月に筆者が実施したインタビュー内での発言である。

2)  VAN PRESSは,VAN SITE内で公開されている。http://www.vansite.net/vanpress1.htm

小谷 恵子(こたに けいこ)

明海大学経済学部講師。博士(経営管理)。青山学院大学大学院国際マネジメント研究科博士課程修了。共著に『ケースに学ぶ 青山企業のマーケティング戦略』(中央経済社)。

References
  • Dankai Punch 5. (2007). Tokushu 1, VAN no ougon jidai. Dankai Punch 5. vol. 5. Tokyo: Asuka Shinsha.(団塊パンチ5(2007).「特集1 VANの黄金時代」『団塊パンチ』vol. 5.飛鳥新社)(In Japanese)
  • Hanafusa, T. (2018). IVY wo tsukutta otoko. Ishizu Kensuke no shirarezaru koseki. Tokyo: Temjin.(花房孝典(2018).『アイビーをつくった男 石津謙介の知られざる功績』天夢人)(In Japanese)
  • Ishizu, K. (1983). Ishizu Kensuke all catalogue. Tokyo: Kodansha.(石津謙介(1983).『石津謙介オール・カタログ』講談社)(In Japanese)
  • Udagawa, S. (2006). VAN Stories. Tokyo: Shueisha.(宇田川悟(2006).『VANストーリーズ』集英社)(In Japanese)
  • VAN PRESS. (n.d.). VAN SITE. VAN PRESS. Retrieved from https://vansite.net/index.htm (November 3, 2020). (In Japanese)
 
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