Japan Marketing Journal
Online ISSN : 2188-1669
Print ISSN : 0389-7265
Special Issue / Invited Peer-Reviewed Article
History of Japanese Restaurants in New York City
Takeshi Matsui
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2023 Volume 42 Issue 4 Pages 16-26

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Abstract

本論文の目的は,米国ニューヨーク市(New York City,以下NYC)における日本料理レストラン(Japanese restaurant)の歴史的発展の経緯を明らかにすることにある。主要な発見事実は2つある。第1に,戦後の日本企業の対米進出にともない,接待など法人需要が高まったため,高級日本料理レストランの発展を促した。日本のレストランのNYC進出に日本企業が出資するケースも見られた。第2に,かつて米国人に知られた日本料理は,すき焼き,天ぷら,テリヤキぐらいしかなかったが,企業家の努力を通じて,寿司やラーメンのような未知の日本料理が定着した。さらに近年では,居酒屋,焼き鳥屋,カレー専門店,モツ鍋料理店,お好み焼き屋,洋食レストランなど,日本料理の細分化が進んでいる。この集合的な努力がゆえに,NYCは米国の他の都市には見られない日本料理の多様化が実現している。

Translated Abstract

The purpose of this paper is to examine the historical development of Japanese restaurants in New York City (NYC). There are two main findings. First, the postwar expansion of Japanese companies into the US led to an increase in corporate demand for Japanese restaurants for entertaining their clients, which stimulated development of upscale Japanese restaurants. In some cases, Japanese companies directly invested in expanding Japanese restaurants into NYC. Second, the only Japanese cuisine known to Americans in the past was sukiyaki, tempura, and teriyaki, but through the efforts of various entrepreneurs, less well-known Japanese dishes such as sushi and ramen have become new icons of Japanese cuisine. More recently, Japanese cuisine has been further subdivided into a variety of restaurants, including izakaya (Japanese-style pub) and restaurants specializing in items such as yakitori (skewered chicken), curry rice, motsunabe (a hotpot dish with mainly beef or pork), karaage (fried chicken), okonomiyaki (Japanese savory pancake), and yoshoku (Western-influenced cooking). Because of this collective effort by entrepreneurs, NYC has achieved a diversification of Japanese cuisine not seen in any other part of the US.

I. はじめに

本論文の目的は,米国ニューヨーク市(New York City,以下NYC)における日本料理レストラン(Japanese restaurant)の歴史的発展の経緯を紐解くことにある。NYCは,その民族的多様性を背景にして,多種多様な外国料理(foreign cuisine)・民族料理(ethnic cuisine)を享受できる米国では例外的な都市である(Ray, 2020)。こうした競合的なレストラン市場において,日本料理レストランはNYCでの存在感を高めてきた。

例えば2010年の「ザガットサーベイ」(Zagat Survey)1)で評価された日本料理レストランは全体の5%を占めている(Ray, 2020)。これはNYCの民族構成から見たら,非常に大きな数字である。なぜならば,2012年の米国地域社会調査(American Community Survey)によれば,日本人の祖先を持つ人々はNYCでは25,672人とわずか0.3%しかないからである(Ray, 2020)。また日本料理は,その社会経済的地位が高い。同サーベイに掲載された各国料理レストランのメニュー平均価格を見ると,日本料理(46.72ドル)はフランス料理(47.81ドル)に次いで2位である。この日本料理のメニュー価格の高さは,中国人移民など非日本人による日本料理レストランの開業理由にもなっている(Wank & Far, 2015)。

本論文の構成は次のとおりである。II.では研究プロジェクトの概要と貢献について説明する。III.~V.では,NYCの日本料理レストランの歴史を追う。VI.でまとめを述べる。

II. 研究プロジェクトの概要と期待される貢献

本論文は,米国における日本料理の歴史的発展に関する研究プロジェクトの一部をなす(Matsui, 2021)。本プロジェクトの調査は2022年2月に始められた。同年11月現在で,NYC,ボストン,デンバーなどで80件ほどのインタビューを実施した。また新聞記事,料理書,レストランのメニューなどの歴史的アーカイブからの資料収集も進めている。

以上の成果の一部として,本論文はNYCの日本料理レストラン業界についての知見をまとめている。本プロジェクトは文化社会学の理論枠組みに基づく研究である(Matsui, 2021)。しかし本論文は歴史記述に焦点を絞っている。

本プロジェクトは,日本食2)の米国での歴史的発展を包括的に研究する事実上初めての学術研究である。これまでも日本食に関する様々な研究が行われてきたものの,ある時代や地域,ジャンルなどに限定したものである(Asakawa, 2022; Chong, Emin-Tunc, & Arnold, 2018; Farrer, 2015; Farrer, Hess, de Carvalho, Wang, & Wank, 2019; Guth, 2021b, 2021a; Imai, 2015; Inouye, 2018; Issenberg, 2007; Ji-Song Ku, 2013; Kim, 2013; Ku, 2014; V. J. Matsumoto, 2013; Solt, 2014; Wank & Far, 2015)。これは,米国における中国料理の発展について分厚い研究(Y. Chen, 2014; Chong et al., 2018; Coe, 2009; Liu, 2015)があり,さらには各種の外国料理・民族料理についての研究(Farrer, 2015; Park, 2017; Ray, 2020)が積極的に行われてきたこととは対照的である。ここに本プロジェクトの重要性を見出すことができる。またNYCにおける日本料理レストランについては,実務家による回想など充実しているが,学術的な研究はまだ存在しない(Aoki, 1989, 1991; Kamide, 1963; Kuraoka, 2015; H. Matsumoto, 1995; Saito, 1988)。

この歴史記述的な貢献に加えて,日本文化に根付いた文化製品(cultural product)の海外展開の実践について明らかにする本プロジェクトは,いわゆる「クールジャパン」政策やグローバル・マーケティングに対して多くの実務的示唆を提供できる。さらには,審美的な評価がなされるコンテンツなど非物質的な文化製品に注目してきた文化社会学への理論的貢献も期待できる。なぜならば,同分野は主に,食のような物質的・審美的な性質を兼ね備えた文化製品についての研究が不十分だからである(Matsui, 2021)。

III. 戦前:最初の日本料理レストラン「都」

1. タクワン貿易と戦争の影響

米国における日本食の歴史は,19世紀後半にハワイや西海岸に移民した日系移民に日本食を提供したことから始まった。このような商売を「タクワン貿易」と呼ばれた。冷蔵輸送の技術がない当時は,その名の通り,取り扱っていたのは漬物,缶詰,乾物,日用雑貨であった(Kojima, 2012)。また,米国本土初の日本料理レストランとされる大和屋(1887年,サンフランシスコ)以来,日系移民向けのレストランが徐々に増えていった(Kitaoka, 2006)。

第2次世界大戦以前の米国における日本食の受容は,日露戦争,第一次世界大戦,第二次世界大戦の影響を受けた。米国人の最初の日本食への関心は,日露戦争での日本の勝利への驚きであった。「どのようにして魚食が日本人を勇敢で強くしたのか?」といったタイトルの記事(“How a fish diet made the Japanese brave and strong?,” 1904)が掲載されるなど,勝利の理由を日本人の食生活に求める議論がなされたのである(Guth, 2021b; Jacob, 2018)。

米国人の食生活を改善するための手本として日本食から学ぶという議論もあった(Guth, 2021b)。例えば『ボストン・クッキング・スクール・マガジン』に1905年に掲載した「日本のサンドイッチとその背景」という記事は,日本食のことを「どの文明国もまだ達成していない叡智」と評価している(Campbell, 1905)。一方で,日本食は,とてもアメリカ人が食べられるものであるという見解も少なくなかった(“The way the Japanese live,” 1908)。しかし第一次世界大戦の同盟国であった日本人の食生活に対しては,「美味しく,難解で,美的」という好意的な評価も見られた(Hopkins, 1917)。

2. 都:NYC初の本格的日本料理レストラン(1914年)

NYCでの最初の本格的な日本料理レストランとされているのが,1914年に桑山仙蔵が開業した「都」である(Inouye, 2018)。都は,第二次世界大戦前に日本人と白人の両方の顧客に対応したNYCで唯一の成功した日本料理レストランである(Sawada, 1996)。

桑山は,すきやき,とんかつ,天ぷら,テリヤキなど,米国人の味覚に馴染みのあるものをメニューに揃えた。しかしそばとうどんは英語のメニューには含めなかった。なぜならば桑山は「白人の米国人には,日本の味を楽しむための素養も馴染みがないことを知っていた」からである(Inouye, 2018, p. 99)。その後,桑山から経営を任された塚田数平は,1939年に移転した新店舗を,テーブルクロスで覆われたダイニングテーブルがある高級感のあるインテリアにした。日本人の駐在員や政府関係者,留学生のみならず,裕福な白人をターゲットとしたためである(Inouye, 2018)。

NYCで最古の日本食料品店は,1907~1908年に創業し,現在も営業している「片桐」である。桑山も1916年に日本食料品店「桑山商店」を設立した(Inouye, 2018)。当時の米国人にとって,タクアンのような日本食は異臭を放つ未知のものでしかなかった。それが理由で店を移転せざるを得なかった桑山は,その伝記で次のように述懐している。

(桑山商店が入居していた:引用者注)アパート住居の人々が,地下室に蓄えてある味噌,醤油,タクアンやその他の漬物,そして種々雑多な日本食料品の臭気がプーンと,全階を通り,一番上の四階までもとどくというのだ。日本食料になれていない欧米人には,とても堪えられない臭みだ。文句が出るもの無理はない。

それで仕方無しに,ここを立退くことにした(Inouye, 2018, pp. 100–101)。

西海岸の日系人は,日米開戦がゆえに強制立ち退き,強制収容所への収監を余儀なくされたため,日本食も含めた多くのビジネスを断念せざるを得なかった。NYCでは都も桑山商店もかろうじて営業できたものの,客足が遠のき,嫌がらせを受けることもあった。そこで米国陸軍に招集された桑山の長男栄一の軍服姿の写真を額に入れて商店のショーウィンドウに飾ったり,レストランの玄関や食堂に吊るしたりしたという(Kamide, 1963)。

IV. 戦後:高級料理としての日本料理

以上のように,第二次世界大戦前の米国ないしNYCにおける日本食の発展は,両国間の政治的関係によって大きく左右された。しかし戦後以降は,むしろ両国間の経済的関係が日本食普及に対して影響を及ぼすようになった。それが顕著に見られたのがNYCである。

1. レストラン斉藤(1957年)

都に続き,1957年に開業した本格的日本料理レストランが,「さいとう」である(Saito, 1988)。1906年生まれの店主の斉藤もとは,幼少期より芸者の世界に入った(Saito, 1988)。その後,25歳のときに西欧と米国を巡る富裕層の世界旅行に加わる幸運に恵まれた。「一口つけただけで胸やけを起こすのではないだろうか,というシロモノ」と彼女が酷評したひどい日本食をパリの日本旅館で経験したことが,その後,上海とNYCで本格的な日本料理レストランを開くきっかけになったと述べている(Saito, 1988, p. 55)。

「ニューヨークの女傑」(H. Matsumoto, 1995)と呼ばれた斉藤は,NYCの戦争花嫁の苦難を描いた有吉佐和子の小説『非色』(1964年)に登場する日本食レストランの女主人のモデルである。斉藤は自分のこだわりをとことん追求する人物であった。例えばさいとうでは,当時の『ニューヨークタイムズ』で米国人が畳で食事をする様子の写真が掲載されたように,客は靴を脱いで畳に座らなければならなかった(Claiborne, 1959)。

私としては,いくらアメリカ人が靴を脱がないといっても,靴をはいて生まれてきたわけじゃなし,脱いでいいとなればきっと脱ぐはず,その方が寛げるはずだからと簡単に考えていました。ですから,

「私は靴を脱がせてみせます!」

と啖呵を切っていたのですが,やはり開店してみるまではずっと不安の種でした。

日本間のない日本料理店など,私の頭にはありませんから,何としても脱いでいただかなくてはなりません(Saito, 1988, p. 171)。

洋風のダイニングテーブルを使用した都と逆に,さいとうではテーブルクロスも用いなかった。本物らしさをどこまで追求するか,米国人の生活様式や好みにどこまで合わせるのか,という問題は,その後も多くの企業家が悩んだことであった。

2. 三大料理:すき焼き,天ぷら,テリヤキ

当時,米国人に知られていた日本料理は,すき焼き,天ぷら,テリヤキの「三大料理」ぐらいであった(Kawashima, 1960)。このうちテリヤキは,米国で独自に発展した日本料理である。ロサンゼルスの日本食卸会社の共同貿易を1960年代以降主導してきた金井紀年は,米国流のテリヤキとの最初の直接の出会いを次のように回想している。

テリヤキをご馳走すると誘われて食べに行ったことがあります。てっきりブリか何かの魚を照り焼きにしたものが出てくると思っていたら,醤油とみりんと砂糖で味付けしたようなビーフステーキです。ずいぶん面白いものがあると思って調べてみると,ハワイの日系人が伝えたものだということでした(Ichikawa, 1996, p. 80)。

本来,「照り焼き」は料理の名前ではなく,魚を調理する方法である。しかし,そのような「誤解」を正すのではなく,そうした捉え方に正面から向き合うビジネスもあった。その顕著な成功例は,テリヤキソースなどの醤油製品を,バーベキューなど米国人の食文化の中に統合したキッコーマンである(Ji-Song Ku, 2013)。

一方,すき焼きは,進駐軍の兵士が日本で体験して味を覚えたとされている。その結果,全米各地に「日本料理の看板をかかげ,帰還米兵の花嫁となってきた日本婦人が,きもので給仕にでる『スキヤキレストラント』の数も非常に多くなった」という(Kamide, 1963, p. 141)。『非色』の主人公もその一人であった。こうして,すき焼きは一般の米国人にも知られる日本料理となり,その内容とは関係ないにも関わらず,1963年に米国でヒットした坂本九の楽曲「上を向いて歩こう」の英語タイトル(「Sukiyaki」)にもなった(Asakawa, 2022)。

3. レストラン日本(1963年)

1963年に倉岡伸欣のぶよしが創業し,現在も営業を続けているレストラン日本は,NYCで最初に寿司を提供した日本料理レストランである。共同貿易の金井がリトルトーキョー(ロサンゼルス)にある日本料理レストラン「川福」に働きかけて米国最初の寿司バーを設けたのが1965年であるから,倉岡の試みが非常に早かったことが分かる(Kitaoka, 1997)。

倉岡がNYCでレストラン事業を始めた背景として重要なのは,日本企業の米国進出であった。彼らは,米国人顧客を接待する必要があったため本格的な日本料理レストランを求めていたのである。その一人がソニーの共同創業者である盛田昭夫であった。盛田はNYCに滞在し,ソニー製品の米国への輸出を担っていた(Morita, 1986)。レストラン日本を40年間務めた前副社長の馬越恭弘やすひろはハンター・カレッジでの講演で次のように説明している。

当時,日本製品は安っぽくて質が悪いという評判しかありませんでしたが,盛田氏はソニー製品を米国,そして世界に売り込もうとしていました。盛田氏は倉岡氏に「ニューヨークに本物の本格的な日本料理レストランを開いてもらえませんか?西洋レストランではなく,本格的な伝統的なスタイルの日本料理レストランにクライアントを連れて,おもてなしをして私たちの製品を売り込みたいのです」と頼んだのです(Makoshi, 2021, p. 1)

1963年にレストラン評論家クレイグ・クレイボーンが『ニューヨークタイムズ』に好意的なレビューを掲載したことで,知名度が上がり集客できるようになった。

天ぷらバーでは,カウンターに座ったゲストに,さまざまな魚介類や野菜を衣で包み,ごま油で揚げてすぐに提供できる。生魚を使った伝統的な料理である寿司もバーで提供され,マグロ,オヒョウ,イカ,アワビの切り身がネタとしてあり,醤油,ショウガ,すりおろしたホースラディッシュであるワサビが添えられている(Claiborne 1963, p. 37)。

「生魚を使った伝統的な料理である寿司」とか「すりおろしたホースラディッシュであるワサビ」という説明から分かるように,当時,寿司は未知の日本食であった。

4. ベニハナ:生魚を使わない「クッキングダンス」レストラン(1964年)

レストラン日本から1年遅れて,1964年にNYCにオープンしたのが,ロッキー青木(青木廣彰ひろあき)の鉄板焼きレストラン「ベニハナ・オブ・トウキョウ」(以下ベニハナ)である。1959年,レスリングの日本選抜として米国遠征をした際に,青木は帰国せず留まり,レストランの開業資金を得るために,ハーレムでアイスクリームを売る商売を始めた(Aoki, 1989, 1991; McCallum, 2022)。

開業資金が確保できベニハナは無事に開業できたものの,当初は客足が伸び悩んだ。しかし『ヘラルド・トリビューン』のクレメンタイン・パドルフォードがベニハナを記事に取り上げたことで,この苦境を乗り越えた(Aoki, 1989)。青木は当時を次のように回想している。

アメリカの「ベニハナ」へ一度でも立ち寄ってくださったお客さまなら,きっとご存じだろう。当店売り物の「クッキング・ダンス」だ。

ヘラルド・トリビューンの花形女性記者を観客にして,ショーの初舞台は幕を上げた。

赤いクッキング帽子をかぶったシェフが千両役者のような見得を切って登場すると,うやうやしく おじきをした。腰の革ベルトには二本の肉切り包丁が差してある。

「エヤーッ!」

突然,気合もろとも居合抜き,二本の包丁を頭上にかざした。

パドルフォード記者が「ほうっ!」と嘆声を上げた。「BENIHANA introduces the Japanese steak ceremony」(ベニハナが日本のステーキ儀式をご紹介します)とおごそかにボク。

鉄板に載った牛肉や野菜がたったったっと目にもとまらぬ早業で切りさばかれていく。度肝を抜かれたカメラマンは,シャッターを押すのも忘れたようだ。

香ばしい匂いで肉が焼け始めると,塩,こしょうの木筒をマラカスのようにふり回してかける。天井高くほうり上げたり,背面投げまで。空中で手玉にとった徳利から日本酒が降ってくる(Aoki, 1989, p. 78)。

この派手なパフォーマンスを「売り」とするベニハナについて,斉藤もとが「ベニハナでは,すべてテーブルで調理する。熟練したスタッフが不要なので,手っ取り早く儲かる方法だ」と批判している(Costikyan, 1980, p. 84)。しかし重要なのは,当時の米国人が気味悪がった生魚のような「ぬめぬめ」(icky)した「ぬるぬる」(slimy)したものを使わず,食べ慣れた豚肉,鶏肉,エビを食材として採用した青木の方針である。つまり,「ベニハナの料理は,日本に住む日本人が食べるようなものではなかったが,一般的な米国人が気に入ることができるくらい『安全』なものだった」のである(Asakawa, 2022, p. 63)。こうした大胆な現地化がゆえに,ベニハナは日本料理レストランで唯一の全国チェーンに成長した。

5. 日本企業と高級日本料理レストラン

1950年代以降,日本企業の米国進出が増えると,NYCに支店が多く設立され,高級ホテルで支店開設パーティーが頻繁に開かれるようになった。そこで振る舞う日本料理を手掛けたのが,さいとうとレストラン日本だった。「当時,この両者が日本料理店の両横綱と称されていたので,各企業の担当者もどちらかの店に任せておけば安心だった」と,当時,レストラン日本で働いていた松本紘宇ひろたかは回想している(H. Matsumoto, 1995, p. 33)。その後,松本は1975年にNYC初の寿司専門レストラン「竹寿司」を創業している。日本企業のパーティで最も豪勢だったのは,さいとうとレストラン日本がともにウォルドルフ・アストリア・ホテルに出張した新日本製鐵の合併披露パーティ(1970年)であった(H. Matsumoto, 1995)。

こうした日本企業の対米進出の加速は,日本のレストランのNYCの進出も促した。注目されるのは,日本企業がこの進出に投資したことである。例えば,天麩羅の老舗店「稲ぎく」が,初の海外支店をウォルドルフ・アストリアに1974年に開業した際には,トヨタ自動車も出資した(Honda, 1981)。同ホテルの副社長兼支配人は,「日本の裕福なビジネスマンがニューヨークに流入していること,また東京銀行が近くにあることを考えると,日本食レストランをオープンするのは自然なことでした」と述べている(Gerston, 1974, p. 34)。

また1987年に開業した「寿司でん」は,三菱商事の共同事業である(“After ramen, sushi: Mitsubishi Corporation gets down to business in the food service industry,” 1985)。寿司田は,本格的な寿司を提供するため,すべての職人を日本から派遣していた。この方針は,日本人駐在員を主要顧客として持つ限り,日本と同じものを提供すべきというプレッシャーがNYCの日本料理レストラン市場に存在していたことを示唆している。なお2017年に政権をとったドナルド・トランプが,寿司職人のビザ更新を拒否したため,寿司田は2019年にレストランを閉鎖している(“Sushiden closed, sushi chefs’ visas not renewed,” 2019)。

V. 新たな日本食アイコンとしての寿司とラーメン

1. どさん子ラーメン(1974年):ファストフードとしての「ラーメン」(Larmen)

三菱商事が関わったもうひとつのレストラン事業は「どさん子ラーメン」である。現在ラーメンは英語では「ramen」と綴るが,どさん子ラーメンは「larmen」と表記していた。ラーメンの食べ方に戸惑う米国人客について『ニューヨークタイムズ』が以下のように報じたように,当時,ラーメンは米国人にとって未知の日本料理であった。

「どさん子」を訪れるたびに,丼一杯の麺を食べるのに苦労している米国人を見かける。日本人は丼をあごの高さまで持ち上げ,麺を素早くすするが,多くの米国人は,丼をテーブルの上に置いたまま,麺を箸に巻きつけている(“Japanese noodles as fast food,” 1981, p. 31)。

1980年,辻調理師専門学校の創立者辻静雄による日本料理に関する大判の料理書が米国で出版された(Tsuji, 1980)。担当編集者によると,当時はラーメンが「和食」ではなく「中華料理」と見なされていたため,同書にはラーメンのレシピは含まれていない(2022年10月12日インタビュー)。また,当時,日清食品や東洋水産のインスタントラーメンが普及していたため,ラーメンは安価な食品だと考えられていた(Solt, 2014)。ラーメンが本格的な日本料理として注目されるようになったのは2000年代になってからである。

2. 新たな日本食のアイコンとしての寿司

当初は馴染みのなかった寿司は,次第に知名度が高まった。それだけではなく,1980年代には寿司は高級なイメージが持たれるようになった。

華道からハイテク電子機器まで,日本的なものに熱中するアメリカのトレンドとともに,日本食の人気は高まっている。日本食,特に寿司は,上流の世界では,洗練された低コレステロールの栄養食として,食のステータスシンボルになりつつある(Hartley, 1984, p. 1)。

しかし逆に,魚の生食の危険性を批判されることもあった。例えば,上述の竹寿司では,料理評論家ミミ・シェラトンによる『ニューヨークタイムズ』の批判記事(Sheraton, 1981)が出ると「一時,アメリカ人客は確実に,三,四割減った」という(H. Matsumoto, 1995, p. 155)。

このように良しにつけ悪しきにつけ,寿司は社会的注目を集めるようになった。つまり,すき焼き,天麩羅,テリヤキに加えて,寿司が新たな日本食のアイコンとなったのである。

3. LarmenからRamenへ:ラーメン・ブームとその高級化

2000年代に入り,もう一つの新たな日本食のアイコンとなったのがラーメン(ramen)である。上述の通り,どさん子ラーメンはファストフードとしてラーメン(larmen)を打ち出していた。こうしたラーメンの低価格イメージは,2004年に「モモフク・ヌードル・バー」を創業したデビット・チャン,2008年に1店舗目をNYCに構えた「一風堂」,2013年にアイバン・ラーメンを開業したアイバン・オーキンらのビジネスによって,払拭された。

これらの新しいラーメンレストランは,店舗規模が大きく,前菜からデザートまで多彩なメニューを提供している。また,ビールぐらいしか置かない日本のラーメン屋と違い,ワイン,カクテル,地酒など,さまざまなドリンクを提供している。そのため客はラーメンだけ食べてすぐに店を出るのではなく,西洋式レストランのように,まずドリンクと前菜を楽しみ,メインディッシュであるラーメンを食べて,デザートで締めくくる。つまり,どんぶり一杯のラーメンを啜ったらすぐ店を出る日本の顧客と違い,滞在時間はより長く,支払い金額も高い。つまりラーメンレストランでの顧客の振る舞い方が異なるのである。

実際,あるラーメンレストラン経営者は,開業した頃に,顧客が前菜を食べ終わる前に,ラーメンをテーブルに持ってきたら苦情を言われたというエピソードと教えてくれた。日本の感覚でさっと食べるものとして考えていたためであり,米国人顧客は,ラーメンレストランでは他のレストランと同様に,食事だけでなく食事中の会話もリラックスして楽しむことをよく理解していなかったのである(2022年5月9日インタビュー)。

一風堂が2008年に市場に参入した際に,他店のラーメンが10ドル未満だったにも関わらず,13ドルでラーメンを発売した3)。その後,一風堂が2011年に15ドル,さらには2013年に17ドルに値上げすると,競合するラーメン店もそれに応じて値上げをしたため,ラーメンの低価格イメージは払拭された。

一風堂らによるラーメンの高級化戦略は,業界関係者から高く評価されている。なぜならばラーメン作りは手間がかかるのに,日本では「ファストフード」のイメージがあまりにも強く,値上げが困難だったためである。値上げが実現したことで,NYCではラーメン業界の新規参入が相次ぎ,寿司に加えてラーメンが日本料理のアイコンとして定着した。

4. ラーメンレストランにおける「ポーク・ベリー・バン」というサイドメニューの定着

NYCのラーメンレストランの特色の1つは,ポーク・ベリー・バン(pork belly bun,豚バラ肉を楕円形の平べったい白い饅頭でくるんだもの)がサイドメニューとして提供されていることである。この日本にはないメニューを加えたのは,モモフク・ヌードル・バー(2004年開業)のデビット・チャンだと言われている。チャンによると,北京ダックにヒントを得て,ラーメン用の豚バラ肉の残り物を活用するという知恵だったという(K. Chen, 2021)。

一風堂(2008年開業)も「平田バン」という名前でポーク・ベリー・バンを導入した。このため,ラーメンレストランにはポーク・ベリー・バンがサイドメニューにあるものだという期待が米国人顧客の間に形成され。後続のラーメンレストランの多くがサイドメニューとして導入したことで,こういった期待はより強固なものになった。

中には,東京でラーメン屋を経営したことがあるアイバン・オーキン(アイバン・ラーメン)のように,ポーク・ベリー・バンをメニューに含めない方針の店もあった。しかしあまりにも多くの顧客からポーク・ベリー・バンがないかと聞かれたため,1年で諦めて,このメニューも提供するようになったという(2022年7月12日インタビュー)。

5. 高級おまかせ(omakase)レストランの台頭

以上のように,寿司とラーメンが,日本食のアイコンとして定着してきた。この寿司に関して,近年,注目されている新しいキーワードが「omakase」(おまかせ)である。おまかせは,ニューヨーク伊藤園が2002年に始めたモダン懐石レストラン「会」が早い取り組みであったが,おまかせを提供する日本食レストランが増えてきたのは最近のことである。

おまかせレストランでは,例えば20種類の寿司が,2時間の間に同じ順序でどの顧客に提供される。飲み物はアラカルトだが,いくつかの追加オプションを除いて,顧客は自由に食事を選ぶことはできない。価格は100ドルから950ドルまでさまざまである。

米国でレストラン・ビジネスを成功させる鍵は,顧客の個別の要求に柔軟に対応することである。嫌いな食材を抜いたり,寿司にソースをかけたりするのは,そのような対応例である。しかし,おまかせレストランは,アレルギーや宗教的理由などの例外を除けば,シェフが決めたメニューに従って,顧客全員が同じものを食べる特殊な空間である。

これらのおまかせレストランは,日本から高品質の寿司ネタを輸入して使用しているため,原価が高くなる。しかし,全顧客が同じメニューを食べるため原材料のロスが発生しにくい。こうた収益性の高さから投資家から注目されるビジネスとなっている。

6. イーストビレッジにおける日本食ビジネスの集積

都,さいとう,レストラン日本,竹寿司,稲ぎく,寿司田といった駐在員をターゲットとした高級日本料理レストランは,NYCマンハッタンのミッドタウンに位置していた。こうした動きとは別に,ダウンタウンのイーストビレッジでは1980年代以降,若い企業家たちにより日本料理レストランや日本食品店の集積が形成された。

1968年に横浜から船で渡米した八木ボン秀峰しゅうほうは,高校時代の友人である若山和夫(後にNYCで居酒屋チェーン「イースト」などを経営)とフィラデルフィアで4年過ごした。その後,1976年に,世界の旅から戻ると,若山とイーストビレッジで野菜の卸売業を始めた(N. Matsumoto, 2015)。当時のイーストビレッジは荒れた地域であり,不法占拠者や麻薬の売人や多かった。その後,1980年に初めて八木が手掛けたレストランが,アメリカンダイナーズ「103 Second Avenue」である。最初の日本料理レスランは,寿司レストラン「HASAKI」(1984年)である。その後,1987年には「銚子」,1992年にはしゃぶしゃぶレストラン「しゃぶ辰」,1993年には地下の日本酒バー「でしべる」をイーストビレッジに開業した。1996年にミッドタウンに開業した「酒蔵」は,イーストビレッジに来たがらない日本人駐在員のために開いた日本酒レストランである。1998年には「蕎麦屋」,2000年にはラーメン店「来々軒」をイーストビレッジに開くなど,多様なジャンルの日本料理を紹介してきた。

もう一人の企業家は,トニー好田よしだ(好田忠夫)である(Simonson, 2022)。1969年にNYCに来た好田は,イーストビレッジのアイススクリーム屋に職を得た。この店が潰れた後に,好田が取り組んだ最初の日本料理レストランが,大豆バーガー,蒸し野菜,玄米などをメニューとする自然食レストラン「道場」であった。その後,1993年に日本の高級バーを再現した「エンジェルズ・シェア」,1994年に「パン屋ベーカリー」,1995年に日本食品店「サンライズ・マート」と様々な日本食関連ビジネスをイーストビレッジに立ち上げた。2018年には,ブルックリン地区サンセットパークの商業施設「インダストリー・シティ」に日本料理のフードコートとサンライズマートを有する「ジャパン・ビレッジ」を開業した。

八木と好田が「下町ダウンタウン」で展開してきたビジネスは,(酒蔵のような例外を除けば)ミッドタウンで展開された日本企業向けの高級日本料理レストランとは性質が異なるものであった。八木はイーストビレッジでの犯罪事件を契機に,1990年から秋祭りを開催した。好田も新しく開いたジャパンビレッジで2021年から夏祭りを開催している。こうしたイベントなどを通じて地元コミュニティに貢献することを重視している。

両者とも,同じレストランをチェーン展開することはせず,新業態を広げていった。こうした先駆的な取り組みもあって,近年では,居酒屋,焼き鳥屋,カレー専門店,モツ鍋料理店,お好み焼き屋,洋食レストランなど,NYCでは日本料理レストランの細分化が進んでいる。この結果,NYCは多様なジャンルの日本料理を楽しむことができる都市になった。

7. 日本料理レストランビジネスを支えるインフラストラクチャー

以上の日本料理レストランの発展の背後には,それを支えるインフラストラクチャーがあることも見逃せない。ここではその概略を4つに分けて説明する。

第1に,日本食材の輸入・卸売企業である。NYCで1970年に創業した「ダイエートレーディング」と「セントラル貿易USA」や,「共同貿易」,「JFCインターナショナル」,「ウィズメタック・アジアン・フーズ」などが日本食レストランへの食材を供給している。

第2に,寿司ネタやラーメンなどの素材を提供する企業である。1983年にハワイで設立された製麺メーカー「サン・ヌードル」は,2004年にロサンゼルスに,2011年にはニュージャージー州に工場を建設した。全米でのラーメンの安定供給を実現しラーメン・ブームの原動力となった。特にNYCでは,同社の二代目経営者の夘木うき健士郎が,人気ラーメン店「中村屋」(神奈川県海老名市)を経営する中村栄利しげとしとともにRamen Labという実験店舗を2015年に開き,ラーメン文化を啓蒙する活動を展開した。また1977年にニュージャージー州で設立された「ヤマ・シーフード」は,NYCなど近隣のレストランに新鮮な魚介類を毎日安定供給するビジネスを続けてきた。

第3に,日本料理用の調理器具や食器の卸売会社である。1982年に創業した「コーリン・ジャパニーズ・トレーディング」は,日本の包丁市場を米国で開拓したことで知られる。現在では,日本人に限らず,あるいは日本料理以外の一流シェフもその多くが顧客である。

第4に,業界団体である。2020年に設立された「ニューヨーク日本食レストラン協会」は,日本食の地位向上と市場の発展を目的に2020年に設立された。最近のロビイング活動の成果が,焼酎をより多くのレストランが提供できる法改正である。従来,焼酎を提供するには,取得が難しいハードリカーライセンス(蒸留酒などアルコール度数が高い酒類を提供できるライセンス)が必要だった。しかし米国ニューヨーク州のアルコール飲料管理法(Alcoholic Beverage Control Law)改正が2020年6月に成立したことで,ソフトリカーライセンス(ビールやワインなどアルコール度数が低い酒類を提供できるライセンス)があれば,日本の焼酎(アルコール度数24%以下)を,提供できるようなったのである。

VI. おわりに

本論文は,日本料理レストランのNYCにおける発展の歴史を紐解いた。主要な発見事実は2つある。第1に,戦後の日本企業の対米進出にともない,接待など法人需要が高まったため,高級日本料理レストランの発展を促した。日本のレストランのNYC進出に日本企業が出資するケースも見られた。第2に,かつて米国人に知られた日本料理は,すき焼き,天ぷら,テリヤキぐらいしかなかったが,企業家の努力を通じて,寿司やラーメンのような未知の日本料理が定着した。さらに近年では,居酒屋,焼き鳥屋,カレー専門店,モツ鍋料理店,お好み焼き屋,洋食レストランなど,日本料理の細分化が進んでいる。この集合的な努力がゆえに,NYCは米国の他の都市には見られない日本料理の多様化が実現している。

謝辞

本研究は,ハーバード燕京研究所客員スカラシップおよび科学研究費基盤研究(B)(研究課題/領域番号:18H00905)の支援を受けている。また本プロジェクトを進めるにあたり,ポール・ディマジオ教授(ニューヨーク大学)を始めとする多くの方々からのご支援を頂いている。心より感謝申し上げる。

1)  ザガットサーベイとは,一般の人々へのアンケートに基づいたレストラン評価システムであり,1979年に発行されたニューヨークのレストラン案内書がその嚆矢である。

2)  ここで言う「日本食」(Japanese food)とは,レストランなどで調理・提供される「日本料理」(Japanese cuisine)に加えて,豆腐など小売店で入手できる加工食品も含めたより広い概念である。

3)  ここで示されている価格は「Chopsticks NY」(chopsticksny.com)と「pecopeco!」(pecopecony.com)というウェブメディアに掲載されたレビュー記事に基づいている。記事内で複数のメニューが紹介されている場合は,平均価格を算出した。

松井 剛(まつい たけし)

2000年に一橋大学商学研究科博士後期課程修了,博士(商学)。プリンストン大学社会学部客員フェロー,安倍フェローを経て2018年より現職。2021年より東京工業大学教授を兼務。2022年2月より2023年1月までニューヨーク大学社会学部客員研究員,2022年8月よりハーバード燕京研究所客員研究員。専門はマーケティング,文化社会学,消費文化理論。

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