Japan Marketing Journal
Online ISSN : 2188-1669
Print ISSN : 0389-7265
Marketing Case
Strategic Transformation and Ambidextrous Manager:
Tatami’s Overseas Expansion
Hidetoshi Shiroishi
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2024 Volume 43 Issue 4 Pages 96-105

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Abstract

畳は日本の伝統的床材であるが,住宅の洋風化に伴い,市場は衰退傾向にある。一般に,畳屋は地域に根差して事業を展開している。なぜなら,畳を敷き込む際には,部屋の間取りや柱の位置に応じて,高さやサイズを調整する熟練の職人的技能が不可欠で,規模の経済を発揮できないからである。また畳は差別化が難しい製品でもある。それゆえに畳業界は典型的な多数乱戦型業界となる。そのような中で,久保木畳店は,全国の飲食店に畳のコースターを販売し,小物だけでなく畳のマットを海外に販売し,工場,カフェ,小物ショップ,ショールームを併設の複合型施設をオープンした。本論では,地方の零細畳店の海外進出について検討し,それが既存の畳事業に好影響を与えたことを検討する。

Translated Abstract

Tatami is a traditional Japanese flooring. The industry has declined due to the westernization of housing. Generally, tatami stores operate by establishing their business with deep roots in the local community. Their markets are geographically restricted because tatami cannot be supplied without skilled craftsmanship. Therefore, achieving economies of scale is challenging in this industry, and product differentiation is difficult. The tatami industry is a typical fragmented industry. The Kuboki tatami store sells coasters made of tatami mats for restaurants throughout Japan, and is expanding its business overseas. This paper examines new business ventures and overseas expansion of tatami stores, as well as the positive impact these ventures have had on the existing tatami mat business.

畳ビレッジ

2023年4月のオープンの工場,カフェ,小物ショップ,ショールーム併設の畳の体験型複合施設。県外だけでなく海外からも多くの人が来訪している。

出典:久保木畳店提供。

I. はじめに

有限会社久保木畳店(以下,久保木畳店)は西の奥羽山脈と東の阿武隈高地に挟まれた福島県中通りの須賀川市で1740(元文5)年に創業し,令和に至るまで長年市民に愛されてきた畳屋である。現代表取締役の久保木徹朗氏は14代目となる。2020年,東京の大手建設会社に勤めていた久保木家の長男・史朗氏が家業を継ぐために入社して以降,従業員8名足らずの家族経営の同社は,住宅の洋風化に伴い市場全体が縮小するなかで,都心の飲食店や,ニューヨークをはじめとする海外の都市に向けて畳小物製品を販売し売上を拡大させている。

そもそもほぼすべての畳屋は地域に根差して事業を展開している。畳業界は規模の経済の効かない典型的な多数乱戦型業界(Porter, 1985)である。なぜなら,畳屋の仕事は,畳を製造・販売するだけではなく,納品の際に間取りにあわせてミリ単位での調整が必要となるからである。一般に不動産広告では,一畳は1.62 m2以上とされているが,地域によってサイズが異なるばかりか,建物によって柱の位置が異なるため,畳を敷き込む際には,高さやサイズを調整する熟練の職人的技能が不可欠となる。それゆえ,畳屋の商圏は職人の数とその移動コストによって決まる。製造工程が機械化し生産性が向上しても,さらに交通や通信などの社会インフラが整備され流通費用が大きく低下しても,ナショナルブランドが登場することなく,地域ごとに畳屋が併存している理由はまさにそこにある。

畳は日本固有の伝統的な床材である。茶道,華道,柔道などの数多くの日本文化は畳の上で発展してきた。その需要は高度経済成長期に最盛期を迎えるが,和室のない住宅が増え,住環境が洋風化したことで,市場は衰退している。さらに,零細畳店の多くは後継者不足に悩まされており,自分の代で廃業を検討している畳屋も少なくない。

衰退期にある業界において,商圏が地理的に制限されるため,細々と事業を続けさえすれば残存者利益の獲得が期待できる。しかし久保木畳店の選択は,小物事業への参入と海外進出という攻めの一手であった。史朗氏は,畳を後世に残すことが畳屋の息子として生まれた自分の使命であり,そのためには業界全体の繁栄が欠かせないと考えたからである。既存の畳事業で培われた技術やノウハウ,そして余剰資源を活用して小物事業に乗り出すわけであるが,新規事業の創造は既存の畳事業にも好影響を及ぼすことになる。本論では,地方の零細畳店である久保木畳店に注目し,事業転換の方途,および既存事業と新規事業の間の相互作用について検討する。

II. 畳業界

1. 畳業界の歴史

畳の歴史は古く,奈良・平安時代には貴族の住居に使われていた。畳は薄い敷物を何枚も積み重ね,使わない時は畳んでおくことから,その語源は「畳むもの」にある。床材として使われるようになったのは,鎌倉時代から室町時代にかけてとされている。明治時代には客間の一部に畳が使われるようになったが,一般家庭に広く普及するのは戦後以降であった。

大きさは一畳を基本とするが,規格化されているわけではない。一般に一畳は1.62 m2以上とされているが,京都を中心とした関西圏以西では,長辺を6尺3寸とする「京間」(1.91 m×0.955 m)が使われ,東京をはじめとした関東地方を中心に東日本では,長辺を5尺8寸とする「江戸間」(1.76 m×0.878 m)が使われている。この違いは地域ごとに家の建て方が異なることに由来している。かつて京では,畳の寸法を基準として柱の間隔を決める設計方法「畳割り」が採用されていたのに対して,江戸では,柱の真(中心)と真との間隔(一間)を一定にする「柱割り」が採用されていた。さらに東海地方では,長辺を6尺とする「中京間」(1.82 m×0.91 m)が使われている。戦後の高度経済成長期に集合住宅の供給が進められた際には,江戸間よりも小さい「団地間」も生まれた。畳のサイズの地域差は「一間」の長さが時代ごとに変化したことにも由来している。一間は,豊臣秀吉の時代には6尺3寸であったが,面積あたりの米の収穫量の増加に伴い江戸時代になると6尺となった。こうした背景が畳のサイズの地域差に影響しているというが,地理的な境界があるわけではない。西日本の一部の地域でも江戸間が使われていたり,逆に東日本でも京間が使われていたり,江戸間と京間が混在している地域さえある。このような事情により,畳は規格化されず,部屋単位で職人による調整が求められ,地域ごとに畳屋が必要になったのである。

2. 畳業界の構造

畳は芯となる畳床を,イグサを編み込んで作られた畳表で覆い,両端に畳縁をあて糸で縫い合わせて作られる。かつて畳床には乾燥藁を使うこともあったが,現在では様々な素材が使われるようになり,とくに木のチップを加熱し繊維状にしてから合成樹脂と混ぜて作られるインシュレーションボードを使用することもある。これは,藁と違い均質で軽く加工もしやすいため,作業の機械化に一役買うことになる。畳床は,かつては農家から稲藁を集めて畳屋が自社生産することもあったが,現在は,専門に製造する畳床屋や資材メーカー,あるいは問屋から仕入れるのが一般的である。

畳表には,イグサを編み込んで作られた所謂「ゴザ」が使われる。イグサの生産・加工はすべてイグサ農家によって行われる。耐久性や美観を保ち,畳独特の香りを引き出すために,天然の染土を溶かした泥水にイグサをつけ込み,乾燥させ,長さごとに選別し,傷がないかを確認してから,イグサを横糸に使って織っていく。泥につけこむ時間の微妙な違いによって品質に差が生まれるため,泥染めはイグサ農家の腕が問われる工程である。それゆえ,後述される通り,畳屋はイグサ生産者の名前を製品名に冠して品質の高さを訴求してきた。近年では,ポリプロピレンと炭酸カルシウムを配合し,特殊な金型を用いて紐状の樹脂に加工してから編み込んだ畳表や,和紙を編み込んだ畳表もある。これらは,イグサの香りはしないものの,カラーバリエーションが豊富でインテリアに合わせやすいという特徴がある。

畳縁は,模様や色によって身分を表す時代もあったが,現在は顧客の好みや用途に応じて様々な模様や色が選択される。そのほとんどは岡山県倉敷市で生産されている。なかでも,高いデザイン性と1万種類以上の豊富な品揃えを売りにして,業界トップシェアを誇るのが髙田織物株式会社である。特注することも可能だが,最低ロットでは割高であるし,和室の雰囲気を壊さないとなると,柄も限られてくる。結果的に既成品が採用されることが多く,デザインによる畳の差別化は難しい。

そこで製品ではなく,サービスで差別化を図ろうとする企業が登場した。たとえば,兵庫県伊丹市の株式会社TTNコーポレーションは,深夜に畳替えを行うサービスを始めている。飲食店が畳替えを行うためには休業せざるを得ない。多くの職人を抱え24時間体制で工場を稼働させることで,飲食店のニーズに応えているのである。

畳屋の主な仕事は畳替えである。畳替えには3つの方法がある。畳の芯材ごと取り替えて新品にする「新床」,畳表をはがして新しいものに張り替える「表替え」,畳表を裏返して張り直す「裏返し」である。いずれの場合でも,畳屋が顧客の自宅に訪問し畳を回収し作業してから,数日後にその部屋に合わせて高さやサイズを調整しながら,畳を敷き込む。この敷き込みには,熟練の職人的技能が不可欠なため,職人の数とその移動コストの制約条件となり,畳屋の商圏は地理的制約を受ける。それゆえ,畳は生産・流通の効率化が難しく,地理的に市場を拡大することが困難なのである。

III. 久保木畳店の事業転換

1. 新事業への挑戦と挫折

久保木畳店の挑戦は,2019年4月,父の徹朗氏の一通の手紙から始まった。当時建設会社でエンジニアをしていた久保木家の長男・史朗氏が実家に帰省した際,父は家業を継いで欲しいとは一言も言わずに,手紙を渡して意見を求めた。手紙には,業界全体の厳しい現状と同社の課題が記されていた。当時の事業の柱は,畳替えとハウスメーカーから受注するカーテンや襖等の工事であった。2011年3月の東日本大震災後,畳替えの受注が増え,売上が伸びたものの,その反動もあって翌年から売上は大きく減少して,7年後には約3分の2まで売上が減少していた。新聞の折込チラシやDMで需要を喚起しようと試みるも期待通りの効果は得られなかった。さらにそれまで畳事業を担っていた職人が還暦を迎え世代交代も必要であった。父の手紙の結びには「史朗の考えは?」とだけ書かれていたという。

家業について思うところはあったが,継ぐ決心はできないでいた。その夏に帰省した際,畳を加工したコースターを思いつき,試作品を作ってSNSに掲載したところ,予想以上の反響があり,偶然にも和風のコースターを探していた東京都内の高級寿司店に納品することが決まった。翌日,会社に退職の意を伝えたという。

2020年1月,史朗氏は6年8カ月勤めた会社を退職し,久保木畳店に専務として入社した。興味深いことに,畳屋の息子として生まれ,職人としての祖父や父の背中を見て育ったにもかかわらず,同氏が選んだのは職人として畳屋を継ぐことではなく,経営に専念することであった。当初は,配達を手伝うこともあったが,後述の新規事業が徐々に軌道に乗り始めると,完全に経営に専念した。家族経営の零細畳店において,経営やマーケティングに専念する人材は稀であろう。労働力が足りないためか,経営者自らも現場で職人として畳替えや配達に携わらなくてはならないからである。この状況は,業界の旧態依然とした体質からの変化を難しくしている。職人の仕事はハードなため,長期的視野での経営戦略の策定やや既存の業務の改善にまで手が回らず,顧客の注文依頼に合わせて経年劣化した畳を張り替えるだけの作業に終始せざるを得ないのである。

退職を決意してから数カ月後,史朗氏は「畳を後世に残すこと」を自らの使命として掲げ,「世界に畳を広める」という夢を抱いて,全従業員の前で今後の事業計画を披露した。その内容は,職人である父が直感と経験に基づいて経営してきた既存の畳事業を効率化・改善することに加えて,小物市場に参入し海外市場を開拓することであった。新規事業については経験やノウハウもなかったが,年々,売上が減少していく現状に危機感を募らせていた従業員からは史朗氏の手腕に大きな期待が寄せられた。

専務としての初仕事は,ニューヨークで畳コースターを売り込むことであった。先述の通り,高級寿司店に納品した実績もあり,「日本料理店や和物を扱う店が多いニューヨークならば,興味を示してくれる人がいるはず」と意気込んで飛び込み営業をしたものの,知人の飲食店一軒に採用されただけで,初の海外営業では大きな挫折を経験することになった。このことを史朗氏は次のように語っている。

これまで畳は何となく良いものくらいの感覚しかなかった。そもそも畳は,古くなったら交換するもの。その価値を真剣に考えてこなかった。畳の良さを尋ねられても,「何とも言えない良さがある」としか答えられなかった。畳屋の息子なのに,その素晴らしさを伝えられなかった。語学力以前の問題だった。畳の良さを説明できないのに,どうして買ってくれるだろうか。

帰国後,史朗氏はこの苦い経験を糧に「畳とは何か」「その価値は何か」と自問しながら,既存の畳事業の立て直しと小物事業とその海外進出に取り組むことになる。

2. 既存事業の効率化

既存の畳事業を立て直すために,史朗氏がまず取り組んだことは同業者や他産業の成功事例に学ぶことであった。同業者の中には,規模の経済を追求し成功している事例もあったが,ほとんどは直感と経験を頼りにしていて,自社の参考になる事例はなかなか見当たらなかった。

だが,他の業界に目を向けてみると,多くの発見があったという。まず他の業界の優良企業の工場に学ぶと,同社の作業場をみて愕然としたという。作業場には,畳の材料である畳表や畳床が雑然と並んでおり,職人たちは受注があるたびに必要な材料を倉庫から探すことから始めなくてはならなかった。ときには,まだ在庫があるにもかかわらず,追加発注してしまうこともあったという。畳職人の仕事はハードであり,日常の業務に追われて,在庫管理が疎かになっていた。「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「しつけ」という製造業の現場では常識の5Sすらもできていなかったのである。早速,自らが作業場を片付け,在庫管理の方法をルール化し,職人にも徹底させることで,効率化を図った。

次に史朗氏は,AdobeやApple等のハイテク企業に参考に,同社の過剰な製品数と曖昧な価格設定にメスを入れた。これまで同社はチラシに掲載されるだけでも十数もの畳表を扱っていた。多くの畳屋は原料のイグサの原産地(国産・中国産)・品質・耐久性に応じて製品ラインを構築している。とくに名人と呼ばれるイグサ農家の氏名を製品名に冠して,その品質の高さを訴求するのが畳業界のある種の定石である。同社も例外でなく,この成分ブランディングとも呼べる戦略を採用していた。しかし,多くの消費者はその違いを知覚することができない。イグサの品質は,茎から葉先までの長さによって決まるという。長いイグサの畳表ほど,耐久性や色調に優れている。茎が長いほど,太くて丈夫な茎の中心部を使うことができるためである。さらに名人と呼ばれる生産者ほど,高度な泥染め技術により高品質な畳表を生産しているわけだが,価格差に納得できるほどの品質差を消費者が知覚できない以上,生産者の違いによる価格設定は効果的ではないし,畳屋自身も品質の違いを明確に説明できていたとは言い難かった。さらに消費者にとって,種類が多すぎて選びにくいという問題もあった。その結果,消費者は安い畳表を選択していた。

そこで同社は,品質を規定するイグサの長さに注目し,製品ラインと価格の見直しを図った。高級志向の消費者向けに120 cm以上の最高級のイグサのみを使用した一畳あたり20,000円の「極み」,15,000円の「特選」(イグサの長さは110 cm以上),価格に敏感な消費者をターゲットにした12,000円の「美織」(同100 cm以上)と10,000円の「紅梅」(同90 cm以上)である。畳替えの全国平均単価は約8,000円である。同社の強気の価格設定にもかかわらず,8割以上の顧客が上級クラスの特選と極みを選択するようになったという。

新聞の折込チラシやDMは,これまで売上が下がった際の対症療法として配布するに過ぎなかったが,月毎の売上データに基づき効果的なタイミングを模索し,プロモーション効果の検証も行った。零細畳店では珍しいことではないが,チラシを撒くタイミングは父の直感であり,これまでその効果を検証することすらなかったという。チラシは,年に数回,お盆等の畳替えの需要が増える時期に配布し,効果を見定めながら配布する地域の検討も行った。

以上の改革は,他の業界では実践されていることばかりであるが,単なる成功事例の猿真似ではない。独自性を追求するからこその「創造的模倣」(Inoue, 2012)である。それは,他の事例の仕組みや本質を見極め自社の文脈に落とし込んでいく,目に見えない因果関係を推し量る知的行為(Inoue, 2019)なのである。

既存の生産管理やマーケティング・ミックスを見直すだけでなく,新製品の開発にも取り組み,同社オリジナルのウルトラマンの畳縁が好評を博している。同社が立地する須賀川市は,「ゴジラ」や「ウルトラマン」などの映像作品を手掛けた円谷英二監督の出身地であることから,M78星雲光の国の姉妹都市提携を結んでいる。目抜き通りにはウルトラマンや怪獣の像が並び,それらを活かした街づくりも行われている。地元企業もウルトラマンに関連したグッズや土産物を製造・販売し,久保木畳店でも2000年にウルトラマンのキャラクターを使った畳縁を開発していた。しかし当時は,キャラクター色が強すぎて和室の雰囲気が壊れてしまうため,一般家庭にはほとんど売れず,保育園や小児科などの一部で購入されただけであった。この失敗を踏まえて,七宝,矢羽根,鱗などの和柄のなかにウルトラマン,バルタン星人,カネゴンなどのキャラクターを溶け込ませた(図1)。この畳縁は市内の多くの家庭で採用され,主力製品にまで成長している。

図1

ウルトラマンの畳縁

市松模様の畳縁には,ウルトラマンのキャラクター「ダダ」が,右隣の七宝模様の中にはウルトラマンが隠れている。

出典:久保木畳店提供。

3. 新規事業の創造

畳業界で高い売上を誇る企業についても学んだが,史朗氏は,その成功事例とは逆の方向を模索した。なぜなら,同氏の目には,それらが,縮小する既存市場において,顧客を奪い合うことに終始しているように映ったからである。たとえば,既存の成功事例の中には,営業力の弱い畳屋を傘下に入れて,大規模に広告を打って受注した仕事を零細畳店に回す企業や,数多くの職人を自社で抱え工場を24時間稼働させて成長している企業が存在している。しかし史朗氏は,これらのビジネスモデルでは業界全体のパイを奪い合うだけで,「畳を後世に残す」という使命を遂げることはできないと感じていた。

史朗氏は,既存の成功事例をあえて「反面教師」とする反転模倣(Inoue, 2012)を行うことになる。同社は,既存企業のように規模の経済を追求するのではなく,小物事業への参入と海外進出に乗り出したのである。先述の通り,畳の敷き込みには職人的技能が不可欠なため,職人の数とその移動コストが制約条件となり,畳屋の売上はその地域の人口に依存する。しかし,小物であれば,地理的制約を受けることなく,日本文化に関心のある外国人をターゲットにすることもできるし,売上を拡大させ畳という文化を世界に広げることができると考えたのである。

畳を加工したコースターや花台などの小物類の製造・販売は,久保木畳店が先発というわけではない。市場には類似品が溢れている。しかし,中には畳の風合いを感じなかったり,実用的でなかったりする製品も多い。コースターの製造は久保木畳店でも何度か失敗している。2016年には父の徹朗氏と従業員がコースターを試作したこともあったが,素人が手作りした程度の出来で,製品化を断念したという。当時は,畳の良さを引き出すために,材料にイグサやイグサに近い色の和紙を使用していたが,その独特の緑の色調が透明なグラスとは合わなかった。この経験を踏まえ,史朗氏は畳特有の色に拘らず白色の和紙を選び,畳の風合いを残しつつ見た目も綺麗なコースターを試作し,先述の通り,その第一号を高級寿司店に納品したのであった。その一方で,和紙は水に弱く,グラスから滴る水滴でシミができてしまうという問題もあった。防水加工を施してが,使っているうちに加工が剥がれてしまい,長期使用には耐えられなかった。飲食店に納品すると,1カ月程度でシミができてしまい,製品の回収と謝罪に奔走する羽目になった。和紙だけでなく,様々なメーカーから樹脂素材の畳表を取り寄せて,試行錯誤しながら,最終的には積水成型工業株式会社が製造する樹脂素材の畳表を使用して,見た目の美しさと耐久性を兼ね揃えたコースターを完成させるに至るのである(図2)。

図2

畳小物製品

写真左は飲食店で採用されたコースター。右はランチョンマットである。樹脂素材を使うことで,イグサの香りは失われるが,用途に合わせたカラーの選択が可能になる。

出典:久保木畳店提供。

苦労の末に開発した畳コースターは,競合他社によって容易に模倣されるという問題を抱えているが,意外なことに同社は他社の模倣を歓迎する立場をとる。畳を後世に残すためには,同社に続く後発の登場が望まれるというわけである。なぜなら,競合他社による新製品の同質化は,その製品カテゴリーの認知度を上昇させ,市場を形成するからである(Yamada, 2021)。

畳コースターが東京の高級和食店に採用されると,同業者や来店客の間で話題となり,全国各地の和食店から注文があった。さらに,コースターに使用する縁は畳とは違い耐久性が低くても問題ない。そこで,各地域の織物を縁に使ったコースターを顧客に提案したことで,さらなる反響を呼んだ。2023年11月時点で全国42都道府県の数百軒以上の飲食店で畳コースターが採用されているという。

小物事業が国内で軌道に乗り始めると,海外市場にも再挑戦を決意する。ニューヨークでの苦い経験と畳小物の試行錯誤を経て,史朗氏は,その価値を見つめ直し,最終的に畳を「見た目や香りから日本の伝統を連想させ,落ち着きや温もりを感じさせるもの」と定義することにしたという。先述のウルトラマンの畳縁も,畳は単なる床材ではないと認識し,その価値を明確に定義したからこそ生まれた製品であると言えるだろう。2回目の米国出張では,ニューヨークの和雑貨店の棚の一角を借りて,コースターのポップアップを行った。ただ製品を並べるだけでなく,店頭販売は行わず,自社ECサイトを構築し,そのQRコードを設置して,店頭では畳の価値を伝えることに専念した。前回と大きく異なる点は,畳の良さを明確に説明できるようになったことである。このことが奏功し,前回の営業で断られた雑貨店での納品も決まった。またニューヨークでのポップアップの様子はSNSで拡散され,米国以外からの注文依頼もあったという。

eクチコミの拡散は予想外のニーズの発見にもつながった。クチコミをみた海外の消費者から住宅用の畳の注文依頼があったのである。畳は職人がいなければ納品できないため,これまでは輸出を考えたことはなかったが,マット状の置き畳を代理店として輸出することにした。置き畳ならば職人は必要ないし,サイズも小さく国際郵便で送ることができる。当初,小物事業のみを想定していた海外進出が本業の畳事業にも波及したのである。その後も日本文化への関心の薄い欧米人向けに,ランチョンマットやラグマットを開発したり,アジア人向けにアジアン柄や花柄をあしらったりするなど,幅広いニーズに対応した製品や畳縁の開発に取り組んでいる。

さらに,同社の先進的な取り組みが,大手メーカーの目に留まり特注の畳コースターの依頼もあるという。たとえば,サントリーがプレミアムモルツの海外販促イベント用に,アウディがノベルティ・グッズとして,それぞれ畳コースターを採用している。

4. 既存事業と新規事業の相互作用

既存の畳事業と,小物事業や海外展開といった新規事業は,相互に好影響を及ぼしている。小物類の製造には既存の畳事業の余剰資源が活用されている。小物類は,畳替えの際に出る端材を使うため,原価はかからないし,畳の需要が落ち込む冬に作り溜めすることもできる。畳替えの空き時間に作業を行うため,新しく従業員を雇う必要もない。

小物事業への参入と海外進出は,既存の畳の再発見につながった。これまでは畳替えの依頼があると,職人は顧客の予算に応じた畳表を提案し,その結果,消費者はできる限り安い畳表を選択してきた。しかし,史朗氏が,畳の価値を定義し,それが従業員にも浸透すると,顧客に畳の良さを説明できるようになり,高価格帯の畳表が選択されるようになったのである。その結果,客単価が2割も上昇したという。畳という製品は,日本の伝統的な床材として普及し,日本人の住環境に不可欠で身近な存在であった。それゆえに,売り手である畳屋だけでなく,買い手にとってもその価値が見失われていた。畳屋は,古くなったら新しい畳表に交換するだけで,新しい価値を創造してこなかったのである。しかし,久保木畳店は,部屋の用途や雰囲気に合わせて,畳縁を提案し,畳替えを通じてより良い住環境の提供に貢献していると自社の事業を再評価した。小物事業と海外進出に取り組んだことで得られた洞察が,同社の畳事業の売上向上に寄与しているのである。

では,どのように既存事業の立て直しと新規事業創造の両方に取り組むことができたのであろうか。組織が持続的に存続・成長するためには,将来のために新たな知識や事業を創出する「探索(exploration)」と,短期的な利益を生み出すために既存の知識や事業を効率化する「活用(exploitation)」という異なる学習を適切に管理し(March, 1991),とくに2つのバランスを高度にとる両利き(ambidexterity)が必要とされている。探索,活用,および両利きは,組織レベルの概念として生まれたが(O’Reilly & Tushman, 2004),近年では,個人レベルでも議論されている(Mom, Van Den Bosch, & Volberda, 2009; Shionoya, 2020)。

先述のすべてのアイデアを史朗氏がたった一人で創出したわけではない。既存事業を立て直し,新規事業を創造しつつ,獲得した知識をさらに両事業の改善に活用していく際に,主に2つの情報源にアクセスしていた。第1に,競合他社や他産業である。競合他社からの反転模倣や他産業からの模倣によって,新しい市場機会の発見やビジネスモデルの構築をもたらしている(Inoue, 2012)。第2に,SNS上の弱い紐帯(Granovetter, 1973)である。同氏は,新製品の開発,チラシやPOP広告,その他のあらゆる過程をSNSに掲載してきた。すると,助言を求めているわけでもないのに,単なる好き/嫌いというユーザー視点の感想から,具体的な助言に至るまで,SNSをみた知人や顧客から多くのDMが送られてくるという。SNS上のつながりは,様々な産業や職種の人々から構成され,弱い紐帯から形成される希薄なネットワークである。強い紐帯に比べて弱い紐帯からの方が,自身の認知外にある多様な情報を獲得できる。しかし,雑多なアイデアを取捨選択・統合化し実行に移した史朗氏の存在を忘れてはならない。多様な情報に触れ,知識を整合的に統合化していく経営者の存在が戦略転換の成功をもたらしたと考えられる。

IV. おわりに

畳を後世に残し世界に広げていくために,久保木畳店はサービス事業への多角化を行った。既存の畳製造工場を改修して,工場見学とものづくり体験ができ,小物ショップとカフェを併設した体験型複合施設・TATAMI VILLAGEを2023年4月にオープンしたのである(図3)。自宅に和室のない消費者に畳に触れる機会を提供することが目的であるという。

図3

TATAMI VILLAGE

写真はTATAMI VILLAGEの内装である。左はカフェで,小上がりでは靴を脱がずに畳の上で寛ぐことができる。右は小物ショップで奥には畳工場がある。昼間は職人の作業を間近で見学することができる。

写真提供:久保木畳店

COVID-19の収束でインバウンド観光客も増え,ものづくり体験ワークショップは特に外国人から好評である。施設のオープン以来,客単価が増加したばかりか,市外からの畳替えの注文が入るようになった。これまで畳屋は,工務店の下請けや,新聞折り込みチラシで顧客を獲得してきたが,TATAMI VILLAGEでは,消費者が実際に畳を目で見て触りその品質の高さを実感することができ,そのことが売上増加につながっているのである。今後は,この複合施設の成功を足掛かりにして,いずれは宿泊事業の展開も検討している。畳という文化を未来につないでいく久保木畳店の挑戦から今後も目が離せない。

謝辞

本ケースの執筆に際して,有限会社久保木畳店の久保木史朗専務をはじめ同社の従業員の皆様に,取材のご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。多くの方の協力を得たものの,本論に記した事象は著者の認識する事象であって,本論中にありうる誤謬の責は,全て著者に帰するものです。

白石 秀壽(しろいし ひでとし)

鳥取大学地域学部准教授。2011年中央大学商学部卒業,慶應義塾大学大学院商学研究科修士課程修了・後期博士課程単位取得退学。日本学術振興会特別研究員(DC2),鳥取大学地域学部講師を経て2022年より現職。

References
 
© 2024 The Author(s).

本稿はCC BY-NC-ND 4.0 の条件下で利用可能。
https://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/4.0/deed.ja
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