2024 Volume 44 Issue 1 Pages 76-85
顧客満足の向上は今日のマーケティングにおける重要な目標の一つとなっているが,顧客の期待に応えることは決して容易ではない。本稿は,トランスコスモス株式会社のコンタクトセンター事業を取り上げ,サービスに対する不満を減らし顧客満足を高める取り組みについて検討した。トランスコスモス株式会社は,AI音声ソリューション「transpeech」の導入により,顧客と従業員の感情状態をリアルタイムで把握し,顧客の不満を事前に防ぐとともに,満足度を向上させることに成功した。また同社が実施した従業員向けの研修制度やミッション,ビジョン,バリュー(MVV)の策定とその実践は,従業員満足の引き上げを促し,結果的に顧客満足の向上に繋がった。トランスコスモスの事例は,AI技術の活用といった技術的アプローチと従業員向け施策の人的アプローチの両立が,従業員満足を介して顧客満足を高めるうえで重要であることを示唆している。
Improving customer satisfaction is a crucial objective in today’s marketing landscape, but meeting consumer expectations is no small feat. This paper examines the case of transcosmos Inc.’s contact center operations to explore practices that reduce service dissatisfaction and enhance customer satisfaction. By implementing an AI voice solution, transpeech, transcosmos Inc. has successfully monitored the emotional states of consumers and operators in real time, preventing dissatisfaction and enhancing satisfaction levels. Furthermore, the company’s initiatives in employee training programs, and the implementation of its Mission, Vision, and Values, have promoted employee satisfaction, which in turn has led to increased customer satisfaction. This case study highlights the importance of a balance between technological approaches, such as the use of AI technology, and human approaches, like employee engagement, to improve employee and customer satisfaction.
トランスコスモス株式会社 CXスクエア池袋EAST
出典:トランスコスモス株式会社提供
顧客満足を高めることは,今日のマーケティングの最も重要な目標の一つである。それにも関わらず,企業が提供するサービスに対する顧客の不満はますます高まる傾向にある(Liu et al., 2023)。また日本国内においても,国民生活センターへの相談件数は,2021年の84.8万件から2022年には89.6万件へと増加し,顧客の不満足が高まっていることが示唆されている(National consumer affairs center of japan, 2023)。このように多くの企業は顧客満足を高めることの重要性を認識しているが,顧客の高い満足を生み出すには至っていない。
企業が提供するサービスに対して顧客が感じる不満足は多くの場合,従業員の不適切な対応に関連していると示唆される(e.g. Packard & Berger, 2021)。例えば,幾つかの先行研究では,従業員の言葉遣いや振る舞いが顧客満足やブランド評価に影響を与えると指摘されている(Packard & Berger, 2021; Zhang et al., 2020)。特にコールセンターなど,顧客が不満を抱きやすいサービスでは,従業員のわずかな対応の違いが顧客の満足・不満足を大きく左右する要因となる。また学術的には不満足を低減し,満足を回復させる施策はサービス・リカバリー(service recovery)と呼ばれる(関連するレビューはLiu et al., 2023を参照されたい)。例えば,謝罪よりもサービスの不手際を許容してもらったことを感謝する方が,顧客の自尊感情を高めることで顧客満足の回復に効果的であるとされる(You et al., 2020)。こうした研究をはじめとして,顧客に対する不満足の解消や満足を高める方法については詳細な検討が進められてきた。
さらに先行研究は従業員満足が顧客満足と密接に関連すると指摘している。例えば,Wolter et al.(2019)は,従業員と顧客の接点が多い企業では,従業員満足の高まりが顧客満足に正の影響を及ぼすとした。そのため企業が顧客満足を高めるためには,まず従業員満足を高めることも非常に重要である。こうした学術的な研究の知見に加えて,企業の成功事例を検討することは,学術的にも実務的にも貴重な示唆をもたらしてくれるはずである。
したがって本稿は,高い顧客満足および従業員満足を達成しているトランスコスモス株式会社(以下,トランスコスモス)のコンタクトセンター事業に着目する。詳細は後述するが,同社はAI技術を利用して顧客や従業員の音声から感情状態を判定する「transpeech」と優れた従業員を対象とした施策により,従業員満足を介して顧客満足の引き上げに成功している。
本稿の構成は以下のとおりである。続く第2章では,トランスコスモスの事業概要と沿革を紹介する。第3章では,同社のAI音声ソリューションである「transpeech」の概略を説明し,「transpeech」を活用した顧客満足および従業員満足向上の成功要因を検討する。第4章では,同社の教育研修制度およびミッション,ビジョン,バリュー(MVV)の実践が,従業員と顧客の満足度向上にどのように寄与しているかに焦点を合わせる。最後の第5章では,本稿の要点をまとめる。
トランスコスモスは,様々な業界の企業に,幅広いビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)サービスを提供している。2024年2月現在,同社の売上高は3,700億円を超えており(売上高および営業利益の推移は図1を参照),従業員数はグループ全体で7万名を超える。また同社はKotler et al.(2017)が提唱した,認知(Aware),訴求(Appeal),調査(Ask),行動(Act),推奨(Advocate)の5つの要素からカスタマー・ジャーニーを捉える5Aモデルを基盤としたBPOサービスを提供する。同社が提供するサービスは多岐に渡るが,以下,「チャネル統合型コミュニケーションサービス」,「インターネットプロモーションサービス」,「グローバルECワンストップサービス」,「コンタクトセンターサービス」という4つの主要なサービスを紹介する。
2019年から2023年におけるトランスコスモスの売上高・営利業利益の推移
出典:transcosmos inc.(2024)を基に筆者作成
まず「チャネル統合型コミュニケーションサービス」は,5Aモデルを測定するオリジナル尺度を用いて顧客情報を分析することで,マーケティング戦略を立案するコンサルティグ業務やマーケティング・オートメーションツールの運用といったサービスを提供している。「インターネットプロモーションサービス」では,顧客企業のSNS広告,動画広告,リスティング広告の管理から検索エンジンの最適化に至るまで,5Aモデルにおける顧客の「認知」,「訴求」,「調査」と関連するサービスを提供する。「グローバルECワンストップサービス」は,顧客企業のEC事業戦略やブランド戦略に合わせて,欧米,中国,インド,ASEAN,中南米など48ヵ国を対象に企業の製品仕入れから販売までの受発注や市場調査,プロモーションを一括して執り行う。
さらに本稿が注目する「コンタクトセンターサービス」は,製品やサービスの販売促進および苦情対応を含む顧客対応業務を,同社のオペレーターが対応するサービスである。同社のコンタクトセンターは,これまで顧客からの電話問い合わせのみに対応していたため,コールセンターと呼称されていた。しかし現在では,顧客からの問合せに対して,電話だけでなく,SNSやWebチャットなどさまざまなコミュニケーションチャネルを通じた顧客対応が実施されることから,コンタクトセンターサービスと呼ばれている。こうした顧客対応の拠点は国内外に79拠点があり,3万5,000のオペレーター席を有し,25の言語に対応している。本サービスは5Aモデルにおける顧客の「行動」,「推奨」と関連づけられる。
2. 沿革2)トランスコスモスの来歴は,1966年に奥田耕己氏によって丸栄計算センター株式会社が大阪に設立されたことに始まる。創業当時は,顧客企業の持つデータを手作業で入力するデータエントリー事業が中心であった。また当時は,顧客企業のもとに社員が出向し,顧客企業のオフィスでデータ入力を行うことによって,迅速な品質確認やセキュリティーの高さを担保する丸栄方式と呼ばれる出向受託型のデータ入力サービスを特徴としていた。1970年代は銀行の第二次オンライン化やオフィス用コンピュータの性能向上を通じた分散処理方法に注目が集まるなか,1976年には東京本社を設立した。これにより顧客企業のデータ分散処理への対応を強化し,複数の情報サービスを提供する関連会社を設立するなど総合情報サービス企業へと転進しつつあった。1985年には株式公開および総合情報サービス企業への転進を目的に,関連会社を一本化しトランスコスモス株式会社を設立した。1990年代に入るとIT技術の普及に伴い,サンフランシスコに事業所を設置し(1994年),急速に進化するテクノロジーの動向を迅速に把握し,IT関連サービスの拡張に努めた。また1998年には,顧客からの問い合わせに対応するため,同社初のコールセンター拠点であるMCMセンター駒込を開設している。さらに1992年,中国天津市の大宇宙信息創造(中国)有限公司設立を通して,本格的なグローバル展開に乗り出した。こうした取り組みの結果,1992年には東京証券取引所市場第二部へ上場し,1997年には東京証券取引所市場第一部に上場を果たしている。
2000年以降,同社はデジタル・マーケティング分野へ注力し,事業領域を拡大していった。2002年には,インタラクティブ・マーケティング事業を新たに立ち上げ,マーケティングリサーチ,ウェブサイトの構築,インターネット広告など,マーケティング関連サービスを幅広く提供しはじめた。また,デジタル・マーケティング領域への事業展開と並行して,当時既に業界首位の地位にあったコールセンターサービスとデジタル・マーケティング事業を同期させた。そして,コールセンターに集められた顧客とオペレーターの音声データを分析・活用するデータサイエンティストの育成を進め,アナリスティックサービスを立ち上げた。さらに,米国,中国,韓国を中心に事業提携や事業拠点を設立し,グローバル展開を加速させている。
2010年代に入ると,2008年のリーマンショックの影響を受けて一時的な減収となるものの,事業の選択と集中を進め,2012年には成長路線へと回帰している。2013年にはECサイト構築や広告サービスに加えて,製品管理から発送までをカバーするフルフィルメントサービスや,自社開発の統合型プラットフォームを提供することで,BPOサービスを拡大した。BPO拠点である大宇宙商業服務(蘇州)有限公司の設立をはじめとして,アジア,欧米,中南米でグローバルにBPOサービス事業の展開が実現していった。特に,中国の大手ECプラットフォームであるタオバオ(Alibaba傘下)との戦略的パートナーシップの締結によって,中国市場におけるBPOサービスプロバイダーとしての存在感を大きく高めることに成功した。2017年には,コンタクトセンター事業向けに音声認識AIの研究開発を開始した。この取り組みには,AIによる自動応答品質の評価や機械学習に基づく予測モデルの構築などが含まれていた。翌年,顧客対応中にリアルタイムで顧客とオペレーターの感情状態を判定し,顧客対応の品質を評価するAI音声ソリューション「transpeech」を導入し,コンタクトセンター業務の効率化が実現した。2020年以降も,同社はデジタル技術を活用したサービスのさらなる充実と,国内外での事業展開を積極的に進めている。
本章ではトランスコスモスの従業員・顧客満足向上の成功要因を検討するために,同社のコンタクトセンターで活用される「transpeech」が,どのように従業員と顧客の満足度を高めたか論じる。はじめに「transpeech」の概要を示し,次に同社における「transpeech」の活用が,顧客満足や従業員満足を高めるうえでどのように寄与したか述べる。
1. AI音声ソリューションtranspeechの概要「transpeech」は,同社のパートナー企業であるアドバンスト・メディアの「AmiVoice」を基に開発されたものであり,AIや機械学習を利用することで,顧客とオペレーターの通話時の音声を分析する。「transpeech」には「音声認識」,「対話要約」,「品質管理プラットフォーム」,「AI defender」,「感情解析」など複数の機能があるが,「感情解析」は顧客と従業員の満足度向上に大きく寄与している。この感情解析では,音声の周波数成分をスペクトル解析することで,顧客の音声特徴を抽出し,あらかじめ定められた感情状態に割り当てることによって,発話者の感情状態を測定する。具体的には発話者の音声の周波数について,AIを利用して分析することによって,その特徴ごとに「満足」,「楽しさ」,「喜び」,「怒り」,「悲しみ」,「不満」,「平常」といった各感情へと分類している。同社が上述した周波数に着目する理由は,特定のフレーズを対象とした分析では正確に感情を測定することが困難なためである。例えば,「ありがとう」というフレーズに注目すると,顧客は満足や楽しいと感じたときに「ありがとう」と感謝を伝えることもあれば,オペレーターとの通話中に怒りを感じて皮肉として「ありがとう」と言う場合もある。このようにフレーズに注目した場合,同じ言葉であってもそれを発する顧客の感情状態は大きく異なる可能性がある。したがって同社はこうした文脈に左右されない要素である周波数に着目しているのである。また顧客対応時の感情解析による分析結果は,同社のオペレーターや管理者が使用するPCなどの端末に表示されるので,オペレーターは怒りや喜びなど顧客の感情状態が一目でわかるようになっている(図2は「transpeech」の感情解析機能の概要を示している)。
「transpeech」の感情解析の運用に関する概要
出典:トランスコスモス株式会社提供
上述した「transpeech」による感情解析によって,応対する顧客の感情状態を即時に把握することは,顧客の不満足の低下につながっている。例えば,オペレーターの顧客対応時に怒り,悲しみ,不満などの顧客の否定的な感情が事前に定められた基準値を上回ると,そうした情報は即座に管理者に通知される。そして知らせを受けた管理者が迅速に介入し,状況に応じた具体的な対応策をオペレーターに指示する。このように同社のオペレーターや管理者は「transpeech」を活用することで,顧客の不満が高まる前に適切な対応をとることによって,不満足を最小限に抑えることが可能なのである。
また「transpeech」の活用はオペレーターの販売促進においても有効である。オペレーターが販売促進に取り組む際,対話する顧客の感情状態を把握することによって,顧客が好意的な反応を示す製品やサービスを客観的に把握することができる。またこれらの製品・サービスに関する情報を,顧客の興味や関心が高まっているタイミングで提供することによって,効果的な販売促進が可能となる。
さらに蓄積されたオペレーターと顧客の対話音声データを解析することで,顧客の特定の感情と関連するオペレーターの言葉使いや話し方を特定することができる。例えば,顧客の楽しさ,喜びなどの肯定的な感情を引き上げ,否定的な感情を軽減するオペレーターの言葉遣いや話し方を知ることができるのである。さらに,こうしたノウハウを全社的に共有することによって,オペレーターの対応を高い水準で均一化できるようになり,顧客満足を高めるサービスの提供が実現していった。ある流通・小売業の顧客企業では,「transpeech」を活用して言葉遣いや話し方を改善し,約4週間後に契約獲得率が2.6倍に向上した。
3. 「transpeech」を活用した従業員満足向上の取り組みトランスコスモスは,オペレーターの音声を分析することで,従業員満足も高めている。同社は顧客の音声と同様にオペレーターの音声も分析している。例えば,顧客との対話時に,オペレーターが強い不安や悲しみを覚える場合,即座に管理者が介入する。管理者はオペレーターを支援し,状況に応じて助言や顧客の応対を交代することが可能となる。オペレーターはこうした支援体制に安心感を覚え不満足を高める要因となる精神的なストレスが減少することが期待される。「transpeech」の導入前,オペレーターは管理者に支援を求める場合,オペレーターが管理者に向けて旗をあげることや,オペレーターのデスクに設置したランプを点灯させる方法に頼っていた。しかしこうした合図はしばしば管理者が見落としてしまい,管理者の対応に遅れが生じていた。「transpeech」を導入以降は,オペレーターが否定的な感情を感じると即座に管理者に知らされるため,より効果的に従業員の不満足を低下させることができた。以上のように,トランスコスモスはAI技術を駆使して対話者の感情を即時に認識し,顧客の不満を事前に防ぎつつ,顧客満足度を大幅に高めることに成功した。また,オペレーターの感情状態を把握し,従業員満足も促進させたのである。
トランスコスモスの試みは音声の分析に留まらない。従業員向けの独自施策を通じて,従業員および顧客の満足を高めているのである。本章では,同社のオペレーターを対象とした研修制度や同社独自の施策であるミッション,ビジョン,バリュー(Mission,Vision,Value:以下MVVと表記)に関する取り組みを具体的に紹介することで,これらが従業員満足および顧客満足の向上にどのように貢献しているかについて検討する。
1. 研修制度と就業環境の充実による従業員満足の向上一般的なコールセンターにおいて,オペレータの不満足を高める要因として,キャリアプランの不鮮明さやスキルアップ機会の乏しさがあげられる(e.g. Biz Hits inc., 2022)。同社のコンタクトセンターはこれらの課題に対して,研修制度の拡充によって明確なキャリアプランを提示することで対応している。例えば,同社に入社を希望する求職者は入社前から専任のカウンセラーと面談し,キャリアプランを相談できる。また同社では,月に一度ほどオペレーターと管理者の面談があり,こうした面談等を通して,オペレーター各々にあった個別目標を定めている。さらに,一般的なコンタクトセンターでの研修は1日から1週間程度で終了することもあるが,トランスコスモスでは3ヶ月の入念な研修期間を設けている。この研修期間において,オペレーターは,情報漏洩の防止や適切な機密保持の方法などのコンプライアンススキルや会話法などのコミュニケーションスキルといった基礎的な技能の習得に加えて,販売促進スキルなどを身につけることができる。オペレーターの研修期間が長いことは,同社の短期的なコストを高めるが,オペレーターの不安の解消や対話技術の向上を通して,長期的には顧客満足を高める上で効果的である。
トランスコスモスの従業員満足を高める取り組みは,コンタクトセンターの立地選定やオフィス環境においても考慮されている。オペレーターが勤務するコンタクトセンターはターミナル駅近くにオフィスを構えることが多い。これはオペレーターの通勤時の利便性を重視するためである。またコンタクトセンターは,オペレーターからの希望の声を反映して,地域のランドマークとなる建物内に設置されることが多い。加えて,コンタクトセンター内の従業員用エリアのインテリアへの配慮も怠らない。例えば,オペレーターが利用するデスクや椅子は特にデザイン性が優れたものを用意している。またオペレーターの休憩室はセンター内で最も眺望が良い位置に設けられており,休息時の快適性も追求されている。
トランスコスモスは研修制度の拡充とコンタクトセンター施設の環境改善を通じて,従業員満足の向上に成功している。これらの取り組みを実施する以前,新入社員のオペレーターが3ヶ月以内に離職してしまうケースも多く発生していたが,取り組みを本格化した結果,同じ期間の離職率は半減以下に低下した。一般的なコールセンター業界では,従業員の平均勤続年数が約2年半程度とされるなか(Biz Hits inc., 2022),同社では平均勤続年数が業界平均の約2倍の4年11ヶ月となっている。
2. MVVに基づく顧客対応による顧客満足の向上トランスコスモスでは,MVVを策定し実践することによって,顧客対応の品質を向上させ,顧客企業の満足を高めている。同社が定めるMVVとは,同社のコンタクトセンターが果たすべき,役割や存在意義を意味する「ミッション」,顧客企業の理想像を示す「ビジョン」,「ミッション」と「ビジョン」を実現させるための具体的なオペレーターの行動指針である「バリュー」の頭文字をとったものである(図3は同社が定めるMVVの概要である)。MVVは同社のオペレーターやMVVアンバサーダーと呼ばれる部門の従業員が,顧客企業の経営理念や事業特性,経営環境について,グループディスカッションや勉強会等を通じて意見を交換しながら策定する。またMVVは自社の従業員に向けられてのみ策定されるものではない。MVVは顧客企業ごとに個別に定められており,顧客企業の理想像である「ビジョン」の実現に向けて策定されるのである。MVVが定まるとオペレーターは顧客企業の一員であるという意識のもとに顧客に対応する。例えば,ガス会社が顧客である場合,顧客企業のエネルギーを通じた顧客価値の追求という「ビジョン」を深く理解すると同時に「『お客様から選ばれ続ける』ために,『安心・安全・笑顔』をお届けし,信頼にお応えする」というトランスコスモスの「ミッション」に基づき,コンタクトセンターの行動指針である「バリュー」を定める。またMVV策定後も「顧客にとっての価値を追求するためにはどうしたら良いか」といったテーマでオペレーター自身がディスカッションや勉強会を定期的に開催することによって,MVVを浸透させていく。
MVVの各要素に関する概要
出典:トランスコスモス株式会社提供資料をもとに著者作成
MVVはオペレーターの実際の顧客対応にも反映されている。上述したガス会社の場合,MVVが浸透する以前は,オペレーターはガス開閉栓受付時の問い合わせ対応を中心としていた。しかしMVV策定後は,顧客との相談を通じて電気や警報器に関する情報の提供など,顧客が問い合わせた問題を解決するために,より柔軟な対応が可能となった。このようにMVVに基づきオペレーターが顧客企業にとって最適な顧客対応を実行したのである。さらに,新規顧客の獲得にも成功しており,MVVの実施をはじめた直後の顧客獲得率は67.7%ほどであったが,MVV浸透後は77.4%まで向上した。MVVの策定とその実践により,顧客企業が重視する価値観や目指す将来像を深く理解し,それに基づく理想的な顧客対応を実現した。これらの施策の導入により,トランスコスモスは業界内で高価格帯のサービスを提供する企業でありながら,サービス品質の高さで競合他社との差別化を実現し,同時に高い顧客満足を達成している。
本稿は,トランスコスモスのコンタクトセンター事業に着目することで,高い顧客満足および従業員満足の達成の成功要因を検討した。はじめに同社は「transpeech」による感情解析を活用して,サービス提供時の顧客と従業員の感情状態をリアルタイムで測定することに成功した。またこれによって,顧客に対しては,怒りや悲しみなどを経験した際に適切に対処することで,顧客による不満の高まりを未然に防ぐことが可能であった。さらに喜びや興味などの顧客の肯定的な感情を把握することは,オペレーターによる販売促進をより効果的にした。加えて,過去に蓄積された音声データの分析は優秀なオペレーターの育成に活用され,サービス品質を高めることで顧客満足を促進した。そしてサービス提供時のオペレーターの感情状態を分析することは,オペレーターの不安や悲しみなどの否定的な感情の発生を最低限に抑え,不満足を防ぎ従業員満足を高めていた。
同社の成功には,オペレーターを重視する研修制度やオフィス環境の整理,MVVの実践も大きく寄与している。同社はキャリアパスの不明瞭さやスキル習得に対する不安など,従業員の不満足を引き起こす要因に対処し,研修制度を充実させている。加えて,同社の従業員満足向上の取り組みは,オフィスの立地やインテリアに対する配慮にも及び,従業員が快適に働ける環境を整えている。これらの研修制度とオフィス環境の改善は,従業員満足を高め,その結果,顧客に対するより高品質なサービス提供に寄与している。さらに同社は,顧客企業ごとに独自のMVVを策定することにより,オペレーターが顧客企業の理想像や価値観を理解し,それを日々の業務に活かすことで,顧客企業の満足を高めることを実現している。以上のようにトランスコスモスは,「transpeech」の活用といった技術的なアプローチと研修制度やMVVの実践など従業員と関連する人的なアプローチを両立させることで,従業員満足を介して顧客満足を高めることに成功しているのである(図4は,上述した同社の取り組みと顧客満足と従業員満足の関係を示している)。
トランスコスモスの施策と従業員満足・顧客満足の関係
出典:著者作成
本ケースの執筆にあたっては,トランスコスモス株式会社 上席常務執行役員 福島常浩様をはじめとするトランスコスモス株式会社の社員の方々にインタビューにご協力いただきました。ここに記して厚く感謝申し上げます。
速水 建吾(はやみず けんご)
早稲田大学商学学術院助手。早稲田大学大学院商学研究科修士課程を修了。現在,同大学大学院商学研究科博士後期課程に在籍。修士(商学)。専門は消費者行動,マーケティング。
恩藏 直人(おんぞう なおと)
早稲田大学商学学術院教授。早稲田大学商学部卒業後,同大学院商学研究科への進学。博士(商学)。専門はマーケティング戦略。