2025 Volume 45 Issue 1 Pages 76-78
田中洋編『デジタル時代のブランド戦略』は,急速に進展するデジタル技術がブランド戦略に与える影響を多角的に分析した書である。本書は,2022年に開催されたセミナーを基に編纂され,ブランド・マネジメントに関わる日本の研究者と実務家が寄稿している。特にブランド・マネジャーやマーケターにとって,デジタル時代におけるブランド・マネジメントのための指針となる一冊だと言えるだろう。
デジタル技術の進展に伴い,ブランドは単なる「象徴」や「ロゴ」ではなく,企業の競争優位を支える中核的な資産としての役割を担うようになっている。編著者である田中は2020年の論文『想像力とブランド』において,ブランドは顧客の認知システムであり,企業が顧客に対して持つ最も重要な資産であると主張している(Tanaka, 2020)。本書でもこの立場を踏襲し,デジタル時代におけるブランドの役割を強調している。デジタル化が進む現代において,ブランド価値は単なる製品やサービスの品質にとどまらず,顧客体験や関係性がその中心に位置することが示されている。
本書は全11章から成り,デジタル技術がもたらすブランド戦略の変化について多角的な視点を提供している。第1章では,デジタル技術の進展により変化するブランド戦略の現状と将来についての分析が行われ,本書の枠組みを提供している。続く第2章は,ブランド研究の歴史的な発展を振り返り,現代のブランド戦略がどのようにして形成されてきたかが論じられている。ここでは,過去の理論がデジタル時代にどのように適用されるかが検討され,ブランド研究が今後向かうべき方向性が示唆されている。ブランド戦略研究の流れの中にデジタル時代への適応という本書のテーマを位置づけており,本書の導入的役割を担っていると言えるだろう。その後の各章の構成についての論理的裏付けの説明はなく,少なくとも筆者にはそのようなものが見出せなかった。一方で,各章のデジタルに対するスタンスやアプローチ,内容などについて類似しているグループに分けて捉えると分かりやすいように思われたので,その分類の流れで各章の内容を紹介していきたい。
第3章,第4章,そして第7章は,いずれも「〇〇とブランド戦略」というタイトルになっていて,〇〇の部分には執筆者の研究テーマである「消費者行動」,「社会的自己」,「リキッド消費」がそれぞれ入っている。各章,執筆者の研究テーマを切り口としてブランド戦略を語り,そこからデジタル時代がもたらす含意に展開している点が共通している。
具体的には,第3章は消費者行動の変化がブランド戦略に与える影響を探っている。特に,デジタル技術の進展による消費者のブランドとの関わり方や購買行動の変化が詳細に議論されており,これに基づくブランド戦略の新たな方向性が提示されている。さらに,消費者のオンライン行動やソーシャルメディアの影響がブランド認知や購買意図に与える影響も詳細に検討されており,ブランドがどのようにしてデジタル環境での消費者行動に対応するかが重要なポイントとなっている。続く第4章では,社会的自己とブランド戦略の関連性が論じられている。消費者は,ブランドを通じて自己表現を行い,社会的なアイデンティティを形成するという視点が強調されている。この章では,デジタル時代におけるブランドがどのようにして消費者の社会的自己に影響を与えるかが議論されており,特にSNSやオンラインコミュニティがブランドと消費者の自己表現の場として機能している点が重要である。第7章では,リキッド消費の時代におけるブランド戦略の変革が扱われている。所有からアクセス重視へと移行する消費者行動にブランドがどのように対応すべきかが論じられ,消費者が商品やサービスを「所有」するよりも,必要なときにアクセスすることに価値を見出す現代の消費者行動において,ブランド戦略がどのように進化するべきかが具体的に示されている。
次に,第5章,第8章,第9章は,執筆者の研究テーマである「ブランド・リレーションシップ」,「ブランドの成長プロセス」,「センサリー・ブランディング」が,デジタル技術の発展あるいはデジタル化の浸透によってどのように変化しているのかをそれぞれ議論している。
ブランドと顧客との関係性がデジタル技術によってどのように変化しているかに焦点を当てた第5章では,特にパーソナライゼーションや顧客エンゲージメントを通じて,企業が顧客との深いつながりをどのように構築し,維持するかが議論され,ブランドの価値が単なる商品やサービスの認知に留まらず,顧客体験そのものに基づくものへとシフトしている点が強調されている。第8章は,デジタル技術が人々の生活空間に浸透する中で,消費者が日々接触する環境の中でデジタル生活空間はブランドの成長プロセスをどのように促進するかに焦点が当てている。そして第9章では,デジタル技術によって視覚,聴覚,嗅覚,触覚などを組み合わせたマルチセンサー体験がどのようにセンサリー・ブランディングとして統合され,ブランド価値の向上に貢献できるかを議論している。
最後のグループとなる第6章,第10章,第11章は,「戦略的ブランド・コミュニケーション」,「ブランド顧客管理戦略」,そして「高級車ブランド戦略」といったマーケティング戦略に焦点を当てており,それまでの章と比べて実務的含意あるいは実務的ノウハウそのものの比重が一様に高い。一方でデジタル技術やデジタル化のもたらす変化あるいはその含意に対するアプローチは三者三様である。
戦略的ブランド・コミュニケーションの要素を詳細かつ包括的にまとめた第6章では,デジタル技術やデジタル化がもたらす含意についての明示的な記述はほとんど無い。その理由としては,ここで紹介されている概念や枠組みはデジタル化を含む環境の変化に対して柔軟に対応し得るものという前提があってのことと推察される。それに対して第10章では,新しいデジタル技術を活用した顧客管理戦略に焦点を当てており,顧客データの分析と活用がブランド戦略にどのように影響を与えるかが扱われており,デジタル技術を活用したデータドリブンな戦略が,顧客との関係を深め,ブランド価値の向上に寄与する方法が具体的に示されている。最後の第11章では,デジタル時代の高級車ブランド戦略として,テスラの事例を取り上げており,現代の時代的背景のなかでテスラがどのようにデジタル技術を活用してブランド価値を強化し,顧客との新たな関係を構築しているかを紹介・解説している。
本書の評価すべき点は,ブランド・マネジメント関連の重要概念とブランド戦略に関する理論的枠組みと実務的応用がどちらも包摂されている点である。ブランド価値の創造と維持におけるデジタル技術の役割が具体的な事例やデータを通じて明確に解説されており,ブランド論の研究者だけでなくブランド戦略の実務に携わる人々にとって有益である。消費者行動の変化を反映した「リキッド消費」やデジタル技術を駆使したセンサリー・ブランディングやブランド顧客管理戦略,あるいは顧客との持続的な関係性を重視するアプローチなどは,デジタル時代のブランド戦略の方向性を示すものであり,現代のマーケティングにおいて重要な視点である。欲を言えば,デジタル技術を活用したブランド戦略の実務的な側面については,もう少し具体的なガイドラインやツールの提供があれば,さらに実用的な内容になり,実務家が本書の示唆を活用する際に役立つものになったと思われる。
『デジタル時代のブランド戦略』は,デジタル技術が進展する現代において,ブランド戦略を再構築するための指針を提供する一冊である。冒頭の繰り返しになるが,ブランド・マネジャーやマーケターにとって,デジタル時代におけるブランド価値の向上に向けた実践的なガイドとして役立つとともに,マーケティングを学ぶ学生にとっても理論と実務を統合的に学ぶための優れた教材だと言えるのではないだろうか。