2025 Volume 45 Issue 3 Pages 261-263
エフェクチュエーションとは「不確実性の高い状況における意思決定の一般理論」(p. 1)である。特に,熟達した起業家が用いてきた思考様式のことであり,本書はその入門書である。エフェクチュエーションという概念を最初に考えたのは米国バージニア大学のサラス・サラスバシー教授だ。本書の記述は極めて平明であり,事例も含めて読者にわかりやすいよう配慮されている。それにもかかわらず,エフェクチュエーションという概念はそれ自体必ずしもわかりやすいものではない。本レビューではそのエフェクチュエーションをどのように読み解けばよいかを考えてみたい。
まずは章を追って,本書の概観を把握してみよう。第1章「エフェクチュエーションとは何か」で,エフェクチュエーションは「実行理論」と訳され,次の定義を与えられる。「熟達した起業家に対する意思決定実験から発見された,高い不確実性に対して予測ではなくコントロールによって対処する思考様式」(p. 20)。注意すべきことは,エフェクチュエーションが,サラスバシー教授によって,認知科学でノーベル経済学賞を授与されたハーバート・サイモン教授の元でなされた研究であることだ。つまりエフェクチュエーションは不確実性の高い状況における意思決定方略であり,ひとつの思考の在り方なのだ。このために,エフェクチュエーションを単に「スタートアップで成功する秘訣」とだけ理解することは近視眼的である。サラスバシー教授はこうした,これまでに見逃されてきた意思決定の新しいパターンを27名の成功した連続起業家との思考実験から導き出してきた。そのパターンは後述する5つの経験則にまとめられた。
エフェクチュエーションはこれまでの思考様式である「コーゼーション」(因果論)と区別される。コーゼーションとは行動の前に環境の情報を収集し,目標を設定し,綿密な計画を立て,それから行動に移る思考様式である。エフェクチュエーションはまずこうしたコーゼーションとは異なる考え方であることを理解する必要があり,多くの読者にとってこれがまず躓きの石となる可能性があるだろう。
さらに注意すべきことはエフェクチュエーションでは「予測」を必要としないことだ。起業家は常に不確実性の高い環境において意思決定を行っている。中期経営計画などで3年後に達成すべき予算の額,などという「予測」は行われない。このような思考様式も企業内マーケターにとっては蹉跌を産む可能性が大きいだろう。こうした読者のために本書の第10章では「企業でのエフェクチュエーションマネジメント」という記述もなされている。
第2章以下で紹介されるのは,エフェクチュエーションにおける5つの原則である。大雑把な要約ではあるが,それらを列挙してみよう。
1)手中の鳥の原則:起業家がすでに持っている資源を活用し,何ができるかを考えることである。起業家がもつ資源は3つある。①私は誰か=起業家自身のアイデンティティ。②私は何を知っているか=起業家が活用できる知識。③私は誰を知っているか=起業家が頼ることができる人とのつながりやネットワーク。つまり起業家は自分が本当に成し遂げたいことー自分のアイデンティティに基づいて,とりあえず自分が持っている資源を動員し,さらに自分の人的なネットワークの中で行動を開始するのである。そしてその行動の中で事業アイデアはさらにアップデートされ発展していく。
2)許容可能な損失の原則:成功した起業家たちの思考の特徴は「失うことを許容できる範囲」においてのみ資金を使おうとする傾向がある。起業家は往々にして「リスクテイカー」と受け止められがちであるが,実際は許容できる損失の範囲がどのくらいあるかを考慮したうえで行動に出ているのである。起業家はこうした損失の原則を決めることで,予測に頼らなくても済む状態を自ら作り出していることになる。
3)レモネードの原則:ここでいうレモネードとは,酸っぱいレモン,つまり予期せぬ事態が生じたとき,それを美味しいレモネード,つまりより実りのある資源として活用することを意味する。起業活動には予期せぬ出来事や偶然が常について回る。こうしたとき,起業家はこうした事態を自分の資源として取り込み活用し,さらに実行可能な次のアクションに移っていくのである。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏が,実験の際に間違った試料の配合の結果,たまたま見つけた発見が大きな発見につながっていった。
4)クレイジーキルトの原則:起業家が「何ができるか」を自問したとき,そこで必要なことはパートナーの存在である。パートナーは起業家のアイデアが有望な機会であるかどうか,コミットメントを提供してくれる存在である。つまり事業の成功の可否は,有効なパートナーが得られるかどうかにかかっている。パートナーは必ずしも共同事業者ということではなく,顧客などさまざまな様態が考えられる。事業の成功にはアイデアの可能性を他者の眼から見て評価してくれるプロセスが必要なのである。興味深いことは熟達した起業家の意思決定にはマーケティングリサーチや競合分析を積極的には行わない傾向があることだ。これはいまだに市場が存在していない不確実性の高い状況において有効な思考方法と言える。パッチワークキルトにおいては,さまざまな人が異なった布切れを持ち寄りキルトが共同制作され,ここではあらかじめどのようなキルトができるかは予測できない。一方でコーゼーションに基づく作業はジグソーパズルに譬えられる。あらかじめ完成させる絵=目標が決まっているからだ。
クレイジーキルトの原則で重要なことは「問いかけ」(asking)である。問いかけとは「売込み」と異なりパートナー候補に対してビジョンへの問いかけを行い,そこから資金なり別ビジョンを得るような行為を指す。ここでは起業家が自分のアイデアを売り込むだけでなく,相手の話をより多く聞くことが重要である。サラスバシー教授はこうした問いかけを「不確実性への対応に熟達するうえで,最重要の活動」(p. 138)と述べている。
5)飛行機のパイロットの原則:エフェクチュエーションの原則の最後は「コントロール可能な活動に集中し,予測でなくコントロールによって望ましい成果に帰結させる」(p. 142)思考様式である。起業家を取り巻く環境は予測不能な事象が多い。こうした中で起業家は目のための出来事に対してコントロール可能なものにフォーカスして対処する。こうしたコントロール可能な範囲において予測は不要なのである。例えば,マーケティングでよく行われるセグメンテーションやターゲティングを優れた起業家は行わず,自分が知っている顧客に直接アプローチする,という方法を採る。つまり起業家は「今,ここ」に集中して「半径2メートル」の世界を変えようとするのである。
本書ではこうしたエフェクチュエーションの基本が示された後,興味深い事例とエフェクチュエーターの思考様式を実践するストーリーが展開されている。
上記までにエフェクチュエーションの基本原則をなぞってきた。もしエフェクチュエーションがわかりにくいとしたら,一つの理由は我々がこれまで深くコーゼーション的思考に深く浸ってきたからである。事態を深く分析し,目的や目標を設定し,そこに如何にして接近することに我々は長い間慣らされてきた。エフェクチュエーションはこうした思考方法とは異なる全く別の思考が存在することを明らかにしてくれた。しかし著者はコーゼーションを否定しているわけではなく,コーゼーションとエフェクチュエーションとはお互いに補いあう思考様式であるとも言っている。
従来のマーケティングマネジメントにおいては,戦略や計画の重要性が強調されてきた。しかしその実行プロセスについて深く考察がなされたことはあまりなかったと言ってもよい。実行プロセスにはさまざまな困難や偶然,不確実性がついて廻る。そのことは先のコロナ禍を振り返るまでもない。こうしたとき,私たちはどのように考え行動しなければいけないのか,そのことを本書は明らかにしてくれる。重ねて言えば,本書はスタートアップを成功させるガイドとしてのみ読まれるべきではない。本書は,我々を新たな思考様式へと誘い,従来からの思考様式を疑問符の中に叩き込むためにある。