2014 Volume 1 Pages 92-126
Diverging outcomes are unfolding in the post-Arab Uprising countries’ transitional processes. In January 2014, Tunisia successfully adopted a new constitution based on a consensus of the opposing political parties and factions. In contrast, Egypt abolished one constitution and hastily instituted another in a time span of slightly more than a year. Yemen has announced the final document of the National Dialogue Conference in the same month. Libyans finally voted for the long awaited and disputed elections of the Constitutional Drafting Committee in February 2014.
The paper picks up three factors which seem to be influential in determining the modality of transitional political process in the four Post-Arab spring countries. The first is the initial conditions of the transitional politics.. Differences in the way the previous regimes collapsed are analyzed to illuminate the continuity and break of the ruling institutions and state apparatus. The second factor is the type of the interim government. In line with Shain and Linz typology, provisional, power-sharing, caretaker, and international interim government models are applied to clarify the types of interim governments in each four countries’ different phases in transitional politics. The third is the “rules of the game,” particularly those pertaining to the constitutional process. Who set what kind of rules and how are to be considered in each of four countries and possible influences of each set of the rules of the game to the diverging results of the transitional politics are considered.
2011年には、「アラブの春」の社会的な異議申し立ての高まりを受けて、複数のアラブ諸国で政権が動揺あるいは崩壊した。アラブ世界に共通して広がった社会からの反政府的圧力に晒された各国の反応は、それぞれに異なっており、政権の崩壊あるいは退陣以後の移行期政治の展開にも大きな偏差がある。本論文ではチュニジア、エジプト、リビア、イエメンの政権崩壊後の新体制設立を目指す移行期政治を比較検討し、当面の帰結とそこに至る経路を分析する。そこから、当面の帰結を分けた諸要因や、中長期的な帰結を規定する諸要因を考察するための基礎的な概念を提示し、それらの概念に沿って各国の移行期政治の基礎的な事実関係を整理しておく。
焦点を当てるのは移行期過程の初期条件や制度設計である。本論文の構成は、第1節で移行期政治の当面の帰結を概略したうえで、第2節以降で帰結に影響を及ぼしたとみられる主要な要因を検討する。第2節では、移行期政治の初期条件(旧政権の崩壊の様態)を、第3節では暫定政権の性質を、第4節では移行期政治の「ゲームのルール」のあり方やその設定主体を取り上げる。
「アラブの春」によって引き起こされた社会的・政治的な変動によって、体制の存続そのものが危機に瀕する状況に追い込まれたのは、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリア、バーレーンの6カ国である1。そのうち、長期的な内戦に陥ったシリア、政府側と反体制側に対話の接点が見いだせないバーレーンを除いた4カ国において、新体制を設立するための移行期政治が進んでいるといえる。
各国の移行期政治の当面の帰結は大きく異なっている。移行期政治のメルクマールとなる立憲過程をみれば、比較的早期に憲法制定が行われた国々と、立憲過程が長期化している国々に二分される。チュニジアとエジプトでは2014年1月に、相次いで憲法が制定された。それに対してリビアでは2月に遅延と混乱の末にようやく立憲起草委員会選挙が行われた。イエメンでは2014年1月に国民包括対話会議で文書が採択され、憲法起草が端緒についたばかりである。
比較的早期に憲法制定を行ったチュニジアとエジプトでも、内実は対照的である。チュニジアでは2014年1月26日に憲法草案が立憲国民会議で可決され2、そのまま制定された3。憲法制定から時間をおかずに、新憲法下での最初の選挙を管理する党派色の薄いジュムア内閣も、与野党の合意により承認されている4。イスラーム主義を掲げるナハダ党主導の連立与党と、政権の退陣と立憲国民議会の解散を求める議会内外の野党勢力の間に妥協が成り立ったことによって、新憲法制定という移行期政治の最大の難関を乗り切った形である。
エジプトでも2014年1月14・15日の国民投票の結果、新たな憲法制定がなされている。しかしそれはわずか1年余り前に制定された憲法を、軍によるクーデタで廃止し、ムスリム同胞団への支持層を弾圧しながらのものだった。ムバーラク政権崩壊後の最初の選挙で第一党となったムスリム同胞団は、サラフィー主義諸勢力と共に、憲法制定過程を主導的に推進した。議会構成を反映した憲法起草委員会は2012年11月30日に憲法草案を確定し、同年12月15・22日に行われた国民投票で信任された5。その際の投票率は32.9%、賛成票は63.8%だった6。しかし2013年6月30日のムルスィー大統領退陣を求めた大規模デモ7と、7月3日の軍の介入8によって憲法は停止され、軍の指名した憲法改正委員会によって全面的に書き改められた憲法草案が2014年1月14・15日の国民投票で信任された。1月18日の最高選挙管理委員会の発表によれば投票率は38.6%、賛成票は98.1%だった9。軍と暫定政権はムスリム同胞団をテロ組織と指定して10強権的な弾圧を行っており、過激派集団によるテロ11も相次いでいる。
性質は異なれども短期間で新憲法制定を行ったチュニジアとエジプトとは対照的に、リビアとイエメンでは立憲プロセスは滞り、長期化している。リビアでは2012年7月7日の投票によって選出された国民議会が同年8月8日に召集12されて以来、移行期政治は停滞している。憲法起草委員会の選出方法に関する合意形成が混乱・長期化したため、選挙後1年間を任期していた国民議会は任期を大幅に超過した後にさらに1年の任期延長を自ら決議した13。2014年2月20日にはようやく立憲起草委員会委員選挙の投票が行われた14。
イエメンでは諸勢力の代表者からなる国民対話会議が1月21日に「包括的国民対話文書」を採択した15。この文書では新憲法に盛り込まれるべき理念や原則についての諸勢力の合意事項を記し、憲法草案作成のための専門家委員会の設置を記した16。しかし具体的な憲法起草手続きは始まっていない。
これらの当面の帰結の偏差はいかなる要因によってもたらされたのだろうか。(1)旧政権崩壊の経緯、(2)暫定政権の担い手、(3)移行期政治の「ゲームのルール」とその設定主体について次節以下で順に検討してゆく。
最初に検討するのは、旧政権の崩壊の経緯である。「アラブの春」による社会からの異議申し立てには、アラブ諸国を横断する共通性があった。しかしそれぞれの国の政権の崩壊過程は異なっていた。各国の政権の崩壊過程の相違は、各国の移行期政治に初期条件の相違をもたらしたと考えられる。ここでは各国の旧政権崩壊の過程を検討しながら、移行期政治の初期条件を比較考察しておきたい。
各国の移行期政治の初期条件をみる際に、旧政権との連続性があるか否か、そして国家としての一体性が維持されたか否かに着目する。旧政権との連続性あるいは断絶の度合いは、移行期政治を主導する暫定政権の性質や、移行期政治に参加する諸勢力の性質と相互関係に影響を及ぼすだろう。旧政権からの連続性は両義的なものとなるだろう。旧政権の主要な制度・機構の持続は、政治・社会改革を阻害する可能性があると共に、比較的円滑で効率的な暫定政権の運営を可能にするかもしれない。旧政権を構成した勢力の訴追や迫害といった明確な断絶は、政権打倒に立ち上がった勢力の復仇感情を満たすものの、長期的な安定を必ずしももたらすとは限らない。
また、旧政権の崩壊が、内戦や宗派・地域間の分裂と紛争を伴い、国家機構そのものが大きく破壊された場合、あるいは国家の領域一円支配や、国民社会の十全・一体性までもが失われるかその寸前まで至った場合には、移行期政治はその前提となる国家建設や国民統合の段階を踏む必要が出てくる。それは移行期政治の長期化を意味するが、政治的な改革という意味ではそのような長期的なプロセスを経ることで結果的に大きな変化をもたらすことが可能になるかもしれない。
旧政権からの連続性あるいは断絶の度合いを測る際には、①大統領など最高権力者とその親族・側近の地位が剥奪されたか、あるいは一定程度保持されたか、が重要なポイントである。②支配政党が解体されたか、存続しているか。それに対して国家としての一体性の維持あるいは崩壊の度合いには、軍や官僚機構、国営企業などの主要な国家機構や石油施設といった国家経済の基礎的資産が解体されたか、維持されたか、といった点が特に重要になる。
これらの項目に関して、チュニジアとエジプトは、政治指導者と支配政党の次元では断絶が大きい。しかし軍や官僚機構、国営企業等の国家機構においては一体性が維持され、既得権限や圧力団体としての影響力が持続しているという意味で、連続性が高い。これに対して、リビアは4カ国のなかで、政治指導者や支配の諸機構において断絶が激しい事例だろう。軍や国営石油会社といった基礎的で重要な国家の諸機構においても、一体性が失われ、断絶の度合いが著しい。逆に、イエメンでは、旧政権の退陣は大統領など最高権力者とその親族の訴追免除や権力の一定程度の維持を条件にした合意によってもたらされたため、4カ国の事例のなかで連続性は最も高い。ただし政治変動の過程での地域主義の強化や一部地域での反乱の激化などにより、主権国家に領域一円に支配を及ぼす国家機構・中央権力そのものの一体性には揺らぎが生じているという意味で、旧政権からの連続性は揺らいでいる。
(1) チュニジアチュニジアでは、政治指導者と支配政党の次元では不連続性が著しい。しかし国家機構の一体性は保たれ、前政権からの一定の連続性がある。
地方都市スィーディー・ブーズィードで2010年12月17日に起きたムハンマド・ブーアズィーズィー青年の焼身自殺をきっかけに各地で発生した反政府抗議行動に直面したベン・アリー(Zīn al-‘Ābidīn bin ‘Alī; Zine El Abidine Ben Ali)大統領は、2011年1月14日に突如国外逃亡し、政権が崩壊した。大統領の妻ライラ・タラーブルスィーとその親族をはじめとした大統領の親族・側近の汚職が追及され、議会政治を主導してきた支配政党の立憲民主連合(Al-Tajammu‘ Al-Dustūrī Al-Dīmuqrāṭī; Rassemblement Constitutionnel Démocratique: RCD)が解体、議会が解散された、といった諸点から、旧政権の権力装置の連続性は低いといえよう。しかし軍や官公庁の一体性は概ね保たれ、国家機構の連続性は高いといえよう。唯一国家機構の一体性に揺らぎが生じた局面があるとすれば、ベン・アリーの権力基盤であった内務省傘下の治安部隊に反乱の兆しがあったことだが、これは軍によって早期に鎮圧された。
ベン・アリーとその親族が追放された後も、旧政権の閣僚が暫定的に統治を引き継ぎ、新憲法を制定する立法議会の選挙を執り行った。ベン・アリーの国外逃亡直後には、まず憲法56条の「大統領に一時的な障害がある場合」の規定を適用してムハンマド・ガンヌーシー(Muḥammad Ghannuūshī; Mohamed Ghannouchi)首相が大統領を代行したが、翌15日には、大統領の不在が恒久的とみなされ、憲法57条の「死亡、辞職もしくは絶対的な障害により大統領が欠けた場合」の規定により、フアード・ムバッザア(Fuʾād al-Mubazza‘; Fouad Mebazaa)国会議長が大統領代行に就任し、ガンヌーシーは首相に復帰した。
ガンヌーシー首相は1月17日に、一部の野党と労働組合を取り込んだ暫定内閣の組閣を発表した17。暫定内閣には「労働と自由のための民主フォーラム」代表のムスタファー・ベン・ジャアファル(Mustafā Bin Ja‘afar; Mustapha Ben Jafar)やタジュディード運動(Ḥarakat al-Tajdīd; Mouvement Ettajdid)のアハマド・イブラーヒーム第一書記、アハマド・ナジーブ・アッ=シャーッビー(Ahmad Najīb al-Shābbī; Ahmed Najib Chebbi)、チュニジア労働組合総連合(Union Générale Tunisienne du Travail: UGTT)の代表に加え、ブロガーのスリーム・アマームー(Selīm Amāmū; Slim Amamou)をスポーツ・青年担当相に任命するなど、政権打倒の運動に加わった諸勢力の一部を取り込もうとしていた。しかしベン・アリーの追放だけでなく「体制そのものの打倒」を呼びかけるデモの続行による社会からの圧力18に直面し、野党勢力は早期に暫定政権を離脱、あるいは政権内部から強い反対を表明して旧政権・RCD幹部による統治の続行を阻害しようとした。
これに応えて、暫定政権はまず1月18日にムバッザア大統領とガンヌーシー首相がRCDからの離脱を表明19し、1月20日は全閣僚がRCDからの離脱を表明20、1月27日にはガンヌーシー首相はRCDに所属していた閣僚12名をすべて更迭した21。2月6日にはRCDの活動の停止を命じており22、2月21日には内務省がRCDの解体手続きを開始した23。3月9日にはRCDが正式に解体された24。また、ベン・アリー大統領と親族・側近の訴追25が行われ、亡命先のサウジアラビアに対して強制送還の要請がなされ、資産の没収が進められた26。
ガンヌーシー首相は政権運営に行き詰まり2月27日に辞任したが、首相の座を引き継いだのは、ベン・アリーが無血クーデタで追放したブルギバ初代大統領の下で外相など要職を経験していたバージー・カーイド・アッ=セブシー(al-Bājī Qāʾid al-Sabsī; Beji Caid el Sebsi)27だった。2011年10月23日投票の選挙結果を受けた立憲国民会議(al-Majlis al-Waṭanī al-Ta’sīsī; National Constituent Assembly)が11月22日に召集され、暫定的な統治の権限を円滑に引き継いでいった。
チュニジアの特徴の第一は、旧政権の閣僚あるいはRCDの有力幹部の多くが初期段階の暫定政権で要職を担ったことである。第二には、軍が政治的な中立性を保ち、文民による統治が維持された点にある28。軍はベン・アリー大統領への強い社会的な反対が表面化した際に、デモに対する弾圧の命令を拒否して中立を守った。それによってベン・アリー大統領の政権維持を不可能とする最後の打撃となったという点では、中立を保ったこと自体が、特定の政治的な立場を採ったものともいい得る。しかし軍の最高指導部と中間層の将校のいずれにおいても、その後の移行期政治の展開の中で直接的に政治介入を行うことを避けてきた点は重視すべきである。ガンヌーシー首相による暫定政権の運営の行き詰まり直面した際も、軍は介入せず、ベン・アリー政権以前の文民閣僚経験者に暫定的に統治の権限が委譲された。このようにして、旧政権から一定程度断絶すると共に、より長期的な国家としての連続性を担保し得た点が、チュニジアの移行期政治の初期段階における特徴といえよう。
(2) エジプトエジプトでも、大統領と親族・側近が地位と特権を剥奪され、訴追・追及を受け、支配政党が解体されたという点において、最高権力者とその支配の装置の面では旧政権との連続性は低い。しかしチュニジアと同様に、国家機構の一体性・連続性は概ね保たれたといえる。2011年1月25日にカイロで始まった反政府デモの大規模化と全国への拡大のなかで、ムバーラク(Muḥammad Ḥusnī Mubārak)大統領は、軍を掌握していることを、メディアを通じて誇示していたが29、軍は1月30日に国民への不発砲を宣言した後、徐々に距離を置いていった。軍が決定的にムバーラク政権と袂を分かったのは、2月10日に、「国軍最高司令官」である大統領を抜きにして軍最高評議会(al-Majlis al-A‘lā li al-Quwwāt al-Musallaḥa; Supreme Council of the Armed Forces: SCAF)を招集した時点である。11日にはムバーラク大統領の辞任がオマル・スレイマーン(’Umar Sulaymān; Omar Suleiman)副大統領によって発表され、副大統領も辞任した30。
ムバーラクは辺境のシナイ半島のリゾート地シャルム・エル・シェイクに移送され、幽閉されたまま、二人の息子と共に訴追された31。議会政治を支配してきた国民民主党(Al-Ḥizb Al-Waṭanī Al-Dīmūqrāṭī; National Democratic Party: NDP)は、1月28日の大規模デモで党本部ビルが焼打ちにあい32、SCAF統治下の暫定政権によって正式に解党され33、議会は人民議会(下院)、シューラー評議会(上院)が共に解散させられた34。ハビーブ・アードリー(Ḥabīb al-‘Ādlī; Habib el-Adly)内相、ズハイル・ガッラーナ観光相、アハマド・マグラビー住宅相、そして支配政党の国民民主党幹部のアハマド・イッズら、大統領の側近が訴追の対象となった35。
エジプトでは軍が大統領から距離を置くことで政権が崩壊した点はチュニジアと共通しているが、軍が移行過程の統治を主導した点においてチュニジアとは異なっている。軍人からなるSCAFが超法規的に全権を掌握し、憲法上は「国軍総司令官」と規定されているものの、政治的な権限は規定されていなかった国防相の任にあったムハンマド・サイイド・タンタウィー(Muḥammad Sayyid Ṭanṭāwī; Muhammad Sayyid Tantawy)が、SCAFの議長として暫定政権の実質上の国家元首の地位に就いた。
ムバーラク政権による政治的権利の抑圧や反政府勢力の弾圧を担った内務省とその傘下の秘密警察・治安機構は、2011年の革命前後には施設が焼打ちに遭う36などの追及を受け、アードリー内相は訴追・有罪判決を受けた37。しかし秘密警察・治安機構の中核である国家治安捜査局(Gihāz al-Amn al-Dawla; State Security Investigation Service)を(Qiṭā‘ al-Amn al-Waṭanī; Homeland Security Bureau)に改組する名目的な改組は行われたものの38、抜本的な改革がなされないまま、2013年6月30日の反ムスリム同胞団デモと、7月3日の軍事クーデタを機に秘密警察・治安機構は全面的に復権し、抑圧的な手法による弾圧を、ムスリム同胞団や民主化活動家やジャーナリストに対して広範に行っている39。その他の政府機関の性質も大きく改変されることなく移行期過程は進んだ。ムバーラク政権下の与党議員の多くを糾合した「われらエジプト」党の結成がなされるなど、権威主義体制への復帰の動きが進んでいる40。
(3) リビア4カ国のなかでリビアはもっとも連続性が低い事例だろう。最高権力者とその親族・側近は、内戦の果てに、殺害されるか、戦闘のうえで拘束されるか41、あるいは国外逃亡を余儀なくされている42。議会政治・政党政治の制度はカッザーフィー政権時代に解体されていたため、支配政党の次元での解体は政権崩壊後に行われることはなかったが、カッザーフィーカッザーフィー政権の統治の主要な手段であった各種治安組織が、内戦によって崩壊したことで、旧政権からの連続性が決定的に絶たれると共に、国家機構の一体性・連続性そのものが大きく損なわれる結果となった。
リビア東部ベンガジを中心に2011年2月15日に始まり43、2月17日の「怒りの日」の大規模デモで全国に広まった反政府デモ44は首都トリポリに及び、政権内からの離反者を続出させた45。反乱勢力はベンガジを掌握し46カッザーフィー政権に退陣を迫った。これに対して、最高指導者ムアンマル・カッザーフィー(Mu‘ammar al-Qadhdhāfī; Muammar Gaddafi)は軍・治安部隊に武力弾圧を命じた47。政権への忠誠心が強く、カッザーフィーの親族に直属する精鋭部隊・治安部隊は弾圧の命令に従ったものの、東部ベンガジとそれを中心とするキレナイカ地方で部隊単位での軍の離脱が相次ぎ48、各地で反カッザーフィーと親カッザーフィーの民兵集団が結成されることで、全面的な内戦に発展した49。トリポリで2月27日に結成されたリビア国民移行評議会(al-Majlis al-Waṭanī al-Intiqālī; National Transitional Council of Libya: NTC)は、反政府勢力の国際的な代表の地位を確保し50、国連安保理決議1973号51に基づくNATO軍の支援を得て、2011年8月には首都トリポリを陥落させた52。10月20日にはカッザーフィーを故郷のスィルトで拘束したが、カッザーフィーは直後に暴徒に殺害された53。
内戦による政権崩壊は、国家機構の一体性と連続性の断絶を招いた。カッザーフィー政権の治安機構の崩壊は、国内外への武器・武装集団の拡散をもたらし54、治安悪化の原因となって移行期政治の最大の阻害要因となった。政権打倒に立ち上がった諸勢力が民兵組織を維持し続け、相互に抗争し、しばしば武力を用いた実力行使によって意思を通そうとする55。内戦によるカッザーフィー政権崩壊の原動力となった諸民兵集団は、集権的な国軍・治安機構の発展を妨げ、移行期政治を阻害する大きな要因となっている56。
リビアの国家経済を支える石油施設も、内戦中には外国企業・労働者が撤退し57、内戦後も地域主義的・部族的な諸勢力間の紛争によって主要施設が制圧される58などの相次ぐ混乱から、生産の不安定化や停滞を招いており、経済回復を妨げ59、それが政治プロセスの大きな障害となっている。
リビアの事例の特徴は、内戦によって、政権レベルでの連続性が断絶すると共に、それが国家機構や領域の一体性をもかなりの程度崩壊させた点にある。リビアの移行期は新たな政権を設立するだけではなく、国家建設の過程をもかなりの程度やり直さなければならないという意味で、4カ国のなかでも際立っている。
(4) イエメンイエメンは、本論文の対象となる4カ国のなかで、旧政権との連続性が最も高い事例といえる。大規模デモの圧力下で、アリー・アブドッラー・サーレハ(‘Alī ‘Abdullāh Ṣāliḥ)大統領は退任を余儀なくされたものの、一切の訴追を免除された。議会は解散されておらず、議会の最大勢力で過半数を占める国民全体会議(Al-Mu’tamar Al-Sha‘abī Al- ‘Ām; General People's Congress)も解体されていない。しかしサーレハ退陣に至る過程で、旧政権を支えていた部族・有力者による連合には亀裂が走った。そして政権の揺らぎが、従来からの南部分離主義が主張を強め、北部のシーア派系フーシー派の反乱や、アル=カーイダ系諸組織の活動の活発化をもたらすことで、国家の一体性そのものが危ぶまれる状況になった。
イエメンでは「アラブの春」以前から反政府抗議行動の萌芽はすでに生じていたが、チュニジアとエジプトの政権崩壊に影響を受け活性化した。2011年1月18日に開始された反政府デモ60に対して、サーレハ大統領は2月2日に、2013年の大統領選挙には出馬しない意志を表明するなど、部分的な譲歩を行った後は退陣を拒否した。サーレハ政権が崩壊に向かう転換点は3月18日のデモへの武力弾圧だった。これをきっかけに、サーレハと縁戚関係もあるアリー・ムフスィン・アル=アフマル(Alī Muḥsin al-Aḥmar)陸軍第1装甲師団長や、ハーシド部族連合を率いるサーディク・アル=アフマル(Ṣādiq al-Aḥmar)がサーレハ政権から離反し61、支配政党の国民全体会議党からも、「正義建設党(Justice and Development Party)」が離脱するなどして、政権の支持基盤は揺らいでいった62。
サーレハ退陣は米国や国連の支持を得たGCCの仲介案にサーレハ側と反サーレハ側が調印することでもたらされた。2011年11月23日、サーレハ大統領はサウジアラビアのリヤードで、GCC諸国や欧米による調停案に署名した63。サーレハ大統領本人と親族の訴追免除や安全の保障を条件に、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領への30日以内の権限委譲を受け入れることが主たる内容だった。翌年2月の大統領選挙までは、名目的にサーレハが大統領職にとどまったものの、この調停案への署名をもって実質的に移行期が開始した。
11月26日にハーディー暫定大統領は2012年2月21日に大統領選挙投票を行うと発表した64。大統領選挙ではハーディー暫定代大統領以外の候補者は現れず、99.6%の圧倒的多数の信任投票によって大統領に当選した65。
サーレハは退陣したとはいえ、議会で過半数を占める与党の国民全体会議党の党首であり続けており、ハーディー大統領は国民全体会議党では副党首である66。党内の序列では依然としてサーレハの「部下」であるハーディーが、政府の大統領の任にあるという形になる。
イエメンの旧政権崩壊過程の特徴は、サーレハ大統領の免責と退任という比較的穏健な形で政権崩壊が進み、支配政党が温存されるなど政権の政治指導者の次元での連続性が高いにもかかわらず、各地の分離主義や反乱が激化し、国家機構や国土の一元管理といった国家の一体性そのものは低下していったところにある。
次に注目するのは移行期における暫定統治の担い手である。旧政権の崩壊の様態は、移行期における暫定統治の担い手のあり方を、特に初期段階では、かなりの程度規定すると考えてよいだろう。しかし必ずしも初期条件がその後の移行期過程に圧倒的に影響を与えるとは限らない。当初の暫定統治の担い手の統治の手法の相違や、選挙による民意の表出のあり方次第では、暫定統治の担い手は移り変わっていく可能性がある。
この節では各国の暫定統治の担い手の性質を、時間的な推移と共に、類型的に分類し、それを手掛かりに各国の移行期政治の推移を叙述する。ここではアラブ世界の外側での過去の移行期政治を事例に導出された分析概念を援用して概念的な整理を図りたい。ヨッシ・シャインとホアン・リンスは共編著『国家と国家の間──民主的移行における暫定政権』で、体制崩壊から新体制設立までの「暫定(interim)」的な統治機構の担い手を四つの類型に分類している67。
①臨時(provisional)政権
②権力分担(power-sharing)政権
③管理(caretaker)政権
④国際管理(international interim)政権
①の「臨時政権」は、革命などによる政権崩壊を受けて、政権を打倒した勢力が政権を掌握して恒久的な新体制設立に向けての過程を取り仕切る場合である。②の「権力分担政権」では、旧体制派と革命派が権力を分け合う。③の「管理政権」は、退場を余儀なくされている旧体制派が移行過程を管理する。④「国際管理政権」では政権崩壊や内戦後に国連などの国際的主体が選挙監視など移行過程を管理する。
アラブ諸国の2011年以降の政治変動における暫定政権は、これらの4類型の一つに必ずしも完全に当てはまるわけではない。しかしこれらの類型の概念を踏まえて、各国の暫定政権の類型からの一定の偏差や、時を経る間に生じた類型間の移動を捉えることで、アラブ諸国の移行期政治の特徴を把握することが可能だろう。
(1) チュニジアチュニジアでは暫定政権の担い手は、次のように継起してきたといえよう。
管理政権(2011年1月14日-12月13日)
臨時政権(2011年12月24日-2014年1月)
権力分担政権(2014年1月-)
チュニジアの場合、ベン・アリー政権の崩壊を受けて、まず旧政権と連続性の高い「管理政権」の性質をもった暫定政権が成立したといえる。ムバッザアを暫定大統領とし、ガンヌーシーを首相とする暫定政権は、一部の野党を取り込んだものの、主要な野党勢力であるナハダ党と「共和国のための会議党」を含んでいなかった。また、入閣した野党勢力や労働組合の代表者も、閣内での反対勢力となり68、しばしば閣外の反政府デモ勢力と呼応したため、暫定政権を構成して統治の任に当たっていたとはいえない。
「管理政権」が取り仕切った移行期の最初の選挙69によって選ばれたナハダ党主導の政権は、旧体制下で弾圧・活動を制限された野党諸勢力からなり、シャインとリンスによる分類における「臨時政権」に近い。2011年10月23日に行われた選挙結果70を受けて11月22日に召集された立憲国民会議71では、第一党になったが過半数の議席を獲得できなかったイスラーム主義のナハダ(復興)党72が、第二党で世俗主義・共和主義的な「共和主義のための会議」および第三党で左派的な「労働と自由のための民主フォーラム(Forum Démocratique pour le Travail et les Libertés: FDTL――アラビア語略称は「ブロック」を意味するEttakatol)」と連立した。立憲国民会議は議長にFDTL書記長のムスタファー・ベン・ジャアファル(Muṣṭafā bin Ja‘afar)を選出したうえで、12月12日には「共和主義のための会議」党首のモンセフ・マルズーキー(al-Munṣif al-Marzūqī; Moncef Marzouki)を暫定大統領に選出した73。暫定大統領は12月14日にナハダ党幹事長のハマーディー・ジバーリー(Ḥāmādī Jibālī; Hamadi Jebali)を首相に任命した74。12月20日に閣僚名簿が立憲議会に提出され、24日に就任宣誓が行われた。
ただし、ナハダ党主導の政権に加わった勢力は、ベン・アリー大統領を退陣に追い込んだ反政府抗議行動を当初から指導していたわけではない。革命派が蜂起を主導して政権を打倒し自らが政権を獲得したのではなく、イデオロギーや指導者の明確ではない、既存の組織を背景にしないデモによって政権が動揺し、労働組合など既成の市民社会組織がこれに加わってベン・アリー政権を崩壊させた。それによって可能になった自由な選挙において、ナハダ党や共和国のための国民会議が多くの票を集め、そしてイデオロギー的な相違を超えて連立したことで、暫定政権の座についた。このような経緯から、チュニジアの臨時政権は「革命政権」ではない。臨時政権といっても旧政権の打倒に主導的な役割を果たしてはいなかった。「革命」的な正統性を帯びておらず、選挙での躍進と、連立合意による議会での多数派工作を経て、国民の意志を体現する正統性を確保している。
2013年2月6日の、野党指導者シュクリー・ベライード(Shukrī Bil‘ īd; Chokri Belaïd)の暗殺事件を受けて、諸野党や旧体制派が結集して、ナハダ党主導の政権への退陣圧力を高め、2013年2月19日、ジバーリー首相は退陣した。ナハダ党幹部で内相を務めていたアリー・アライイド(‘Alī al-‘Arayyiḍ; Ali Laarayedh)が22日に首相に指名され、3月14日にテクノクラート色を強めた新内閣を発足させた。しかし7月25日に野党指導者ムハンマド・ブラーヒミー(Muḥammad Brāhimī; Mohamed Brahmi)が暗殺されると、ナハダ党がイスラーム主義過激派の取り締まりに消極的であるという批判は一層強まった75。10月末の段階で、アライイド内閣は近い将来の退陣と、テクノクラート中心あるいは野党勢力を取り込んだ挙国一致内閣への権限委譲を表明することを迫られた。
2014年1月27日の新憲法成立後、与野党勢力はメフディー・ジュムア(Mahdī Jum‘a; Mehdi Jumaa)首班による、政党色の薄いテクノクラートからなる選挙管理内閣に合意した76。新憲法下での最初の選挙の実施とその結果に基づいた新政権が誕生するまでの間は、ある種の「権力分担政権」が統治しているとみることができる。
(2) エジプトエジプトでは選挙とクーデタによる変化によって、大きく性質の異なる暫定政権が継起している。
管理政権(2011年2月11日-2012年6月30日)
臨時政権(2012年6月30日-2013年7月3日)
管理政権(2013年7月3日-)
エジプトの場合も、2011年2月11日のムバーラク大統領辞任の前後から軍が移行期の統治を担ったことで、旧政権派が主体となる「管理政権」が成立したといえる。2012年6月30日に就任したムルスィー大統領とその支持母体であるムスリム同胞団による政権は「臨時政権」の性質を多く備えている。しかし2013年6月30日の反ムルスィー政権の大規模デモを背景に、7月3日のクーデタで軍が権力を再び掌握して以後は、再び管理政権に戻ったといえる。
エジプトはチュニジアとは対照的に、旧政権崩壊直後の「管理政権」の主体は軍人であった。チュニジアでは軍は移行期プロセスの全体を通じて政治的な介入を控えたのに対し、エジプトでは軍が移行期政治の管理を行い、しばしば政治過程に直接的に介入した。
しかし軍が管理して行った人民議会(下院・立法府)や諮問(シューラー)評議会の議員選挙、そして大統領選挙で台頭したのはムスリム同胞団の設立した自由公正党だった。2012年5月から6月にかけて行われた大統領選挙と決選投票では、自由公正党の党首のムハンマド・ムルスィー(Muhammad Mursi)大統領が当選し、6月30日に就任、エジプト近代史初の、選挙で選ばれた文民大統領となった77。
しかし大統領選挙決選投票の最終日6月17日に、SCAFは憲法宣言の追加条項を発出して大統領権限を制限し、軍の権限を維持しようとした。またそれに先立つ6月13日には、最高憲法裁判所が、ムスリム同胞団が第一党となった人民議会選挙を、選挙法が違憲であるとの理由で無効と判断し、解散を命じていた。大統領の行政権限は大幅に制限され、立法府の主要な要素が不在なままでのムルスィー政権発足だった78。
しかしムルスィー大統領は、議会不在の状況下では大統領令を自由に発出して立法措置を取りうるという、ムバーラク政権期に確立された大統領権限を自らも行使することで、実権の掌握を図った。2012年8月12日の電撃的な決定で、国防相や軍参謀総長ら軍上層部を一斉に更迭し、軍が6月17日に発出していた憲法宣言の追加条項を廃止する憲法宣言を発布した79。2012年6月に選出された立憲会議(al-Jama‘iya al-Ta’sisiya; Constituent Assembly)の議論を急がせ、11月末には、翌月初頭にも示されると予想されていた最高憲法裁判所による立憲会議解散判決に先んじて、憲法草案を立憲会議に可決させ、2012年12月15日・22日の国民投票で憲法草案に国民多数の信任を得て、26日に憲法制定を果たした80。ムルスィー政権が任期を全うして、次の大統領選挙が自由で公正な形で行われれば、エジプトの立憲過程はひとまず完了し、新体制が成立したとみなされるはずだった。
しかし2013年6月30日の、ムルスィー政権発足1周年の日に行われた反ムルスィー・反ムスリム同胞団の大規模デモを背景に、7月3日に軍が介入し、憲法を停止、ムルスィー大統領を拘束した81。その後の弾圧で、ムスリム同胞団・自由公正党幹部を大量に検挙している。最高憲法裁判所長官のアドリー・マンスール(‘Adlī Manṣūr; Adly Mansour)を形式的に暫定大統領に戴きつつアブドル・ファッターフ・スィスィー(‘Abd al-Fattāḥ al-Sī sī; Abdel Fattah el-Sisi)国防相・第一副首相が実権を握る暫定政権は、ハーズィム・ベブラーウィー(Hzāim al-Beblāwī)暫定首相やズィアード・バハウッディーン(Ziyād Bahā’al-Dīn; Ziad Bahaa-Eldin)副首相などを少数野党の社会民主党から登用して内閣を発足させた。在野の経済人・学者を取り込んだ「権力分担政権」としての性質を主張したといえようが、政治権力の実態は軍主導の旧政権勢力がテクノクラートを登用した管理政権に立ち戻ったとみた方がよいだろう。2014年2月24日、ベブラーウィー首相は突如内閣総辞職を表明した82。本論文の校了段階(2014年2月28日)の時点では、旧NDPで、ベブラーウィー内閣で住宅相を務めていたイブラーヒーム・メフレブ(Ibrāhīm Maḥlab; Ibrahim Mehleb)が次期首相に任命され83、組閣が進められている84。マンスール暫定大統領が国防相の権限を強化する組織改編を発表する85などの続いて行われた措置から、軍政の強化と旧政権派の復帰がさらに進行する過程の一部といえよう。
(3) リビアリビアでは、カッザーフィー政権を内戦で打倒した反政府勢力の代表組織がまず権力を掌握し、選挙を経て旧来の野党勢力に権限を委譲したため、二つの臨時政権が継起した形となった。
臨時政権(リビア国民移行評議会 2011年9月-2012年8月)
臨時政権(リビア国民議会 2012年8月-)
リビアでは内戦を経て旧政権が崩壊し、前政権の政治指導者とその親族が放逐され、前政権の統治機構が崩壊し、内戦を戦った反政府勢力が権力を掌握した。その意味で、リビアで継起した二つの暫定政権の「臨時政権」としての性質は、本論文で対象にする4カ国のなかで際立っている。リビア国民評議会(National Transitional Council of Libya: NTC)はベンガジで3月5日に公式に結成が宣言された86。国家元首に相当する議長にはムスタファー・アブドルジャリール(Muṣṭafā Muḥammad ‘Abd Al-Jalīl)元法相が就任し、暫定首相に相当する執行委員会委員長には、国家計画会議議長など経済閣僚の職にあったマフムード・ジブリール(Maḥmūd Jibrīl)が就任した。反政府勢力の対外的な代表組織として発足し、各地に現われた民兵組織や政治勢力と徐々に連合し、武力衝突の末に勢力範囲を広げて全土を掌握するに至った87国民移行評議会が、どの時点で移行期の統治を実質的に担う「政府」となったかは画然と決め難いが、2011年8月20日~28日にトリポリ内部の反政府勢力やNATO軍に共に行った「人魚姫の夜明け作戦(Operation Mermaid Dawn)」88で首都トリポリの大部分を陥落させたうえで、ジブリール執行委員長がトリポリに拠点を移して実質的な政府機能を確立し始めた9月8日は一応の画期となるだろう89。10月にカッザーフィーの故地スィルトを奪取したのを受けて、ジブリール執行委員長は、「解放」の達成とみなし、退任を表明した。同月31日には、アブドッラヒーム・キーブ(‘Abd al-Rahīm al-Kīb; Abdul Raheem al-Keeb)が執行委員長(暫定首相)に就任した。
2012年7月7日に投票が行われた選挙の結果を受け、8月8日に国民議会(General National Congress:GNC)が招集されると90、国民移行評議会は国民議会に権限を委譲して解散した91。8月9日、暫定的な国家元首とされる国民議会議長には、1981年に亡命して以来、在外の反政府組織リビア救済国民戦線(NFSL)を指導してきたムハンマド・マガリヤフ(Muḥammad Maqariyaf; Mohammed Magariaf)が選出された。首相選出と組閣は難航したが、10月14日に、カッザーフィー政権期には亡命してジュネーブで人権活動を行っていた弁護士のアリー・ザイダーン(‘Alī Zaydān; Ali Zeidan)が議会で首相に指名され、11月14日に組閣宣誓を行った。
反カッザーフィーの反政府運動を長期間指導してきた主要な政治指導者とその政治勢力が、内戦に勝利した後の選挙で多数を占めて権力を掌握したという意味で、国民移行評議会と、選挙された国民議会によって選出されたマガリヤフ議長やザイダーン首相の主導する暫定政権は、双方とも「臨時政権」の性質を帯びているといえる。
しかし二つの臨時政権の間に連続性が薄いことは、リビアの移行期政治の制度的な困難を反映しているといえよう。NTCが8月3日に発出した憲法宣言により、NTCで役職を担ったアブドルジャリール議長やジブリール執行委員長は、内戦終結後の選挙を踏まえて設立される暫定政権では役職に就けないと規定していた。旧政権からの離反者を多く含み、内戦を勝利に導いたことを存立根拠とする反体制指導部による第一次臨時政権は、同時にカッザーフィー政権に加担していた過去から、移行期の正義の観点からは新体制の十全たる主体になりにくい性質を持っていた。そこから、カッザーフィー政権崩壊後の選挙の結果と、議会での多数派形成に基づく、より旧体制との関係の薄い第二次臨時政権が誕生したといえる。
マガリヤフ議長が主導した臨時政権は、選挙によって国民の意志を体現したことによる正統性を備えるものの、実効性に欠ける面があった。内戦終結後に台頭した議会での主要勢力の指導者は、自ら主要な反乱部隊を統制していたわけではなく、国土の領域一円から支持を集めているともいえない。リビアの内戦において、反体制勢力は、地上では、国軍から離反した各地域の部隊や、各地で自生的に結成された武装民兵集団によって戦われ、航空戦力では英・仏・米などNATO諸国に全面的に依存していた。議会で台頭した政治指導者は、「アラブの春」以前から反政府勢力として活動していたという点での正統性や、実際にそれぞれの選挙区で票を集めたという意味での正統性は備えているものの、実際に武器を取って内戦に勝利し、領土に実効支配の権力を掌握する主体であるかといえば、その内実は乏しい。そのため各地の武装勢力の国軍への統合は進まず、各民兵集団がそれぞれの要求を武力の威嚇によって通そうとするなかで、国民議会による臨時行政府の設立や立法は、しばしば暴力的に攪乱された。
(4) イエメンイエメンでは、サーレハ大統領が退任を受け入れて以後、旧政権派と野党勢力や市民社会勢力が加わる権力分担政権による統治が続いているといえる。
権力分担政権(2011年11月23日-)
イエメンでは、国連や米国に支持されたGCCによる仲介案の受け入れによって、サーレハ大統領が退任したものの、その後の暫定政権は「国際管理」とはいえない。旧政権の副大統領を大統領代行に昇格させた点では「管理政権」の要素も含むが、野党勢力から首相を指名し、北部部族を政権基盤とし1994年の内戦で南部を制圧したサーレハ政権下では疎外されがちだった南部出身者に大統領・首相はじめとした主要ポストを割り当てていることから、ある種の「権力分担政権」が成立したといえる。
ハーディー大統領代行は12月7日に挙国一致内閣を指名し、10日に内閣は宣誓・発足した92。首相には野党側からムハンマド・バーシンドワ(Muḥammad Bāsindwa; Mohammed Basindawa)が指名されるなど、旧政権と既成野党側の有力政治家の権力分担政権の性質が色濃い。2012年2月21日投票の大統領選挙にはハーディー大統領代行が唯一の候補者として出馬し、99.8%の得票で当選した93。ハーディー大統領の任期は、GCC調停案に基づき、国民対話会議を招集して議論を行ったうえで新憲法を制定するまでの暫定期間として、2年間の任期が定められていた(それまでの通常の大統領任期は7年だった)。しかしハーディー大統領の任期が切れる2014年2月を目前にして、当初の予定から大幅に遅れて2014年1月にようやく議論を終えた国民対話会議は、大統領任期を1年延長した94。
移行期の政治過程に影響を及ぼすと考えられるもうひとつの要因は、「ゲームのルール」を、誰が、どのように設定するかである。移行期においては、そもそも定義的に、諸政治勢力が競合する際のルールが明確ではない。憲法を中心にした新体制における政治の恒久的な「ゲームのルール」を定めることこそが、移行期の政治の主要な課題である。しかしそのような過渡期であっても、一定の「ゲームのルール」が設定されなければ政治は成立せず、内戦あるいは無政府状態に陥りかねない。内戦の途中、あるいは破綻国家の状態にある場合を除いては、何らかの「ゲームのルール」の下で、国内あるいは国外の諸勢力が競合・対立していると考えられる。
「ゲームのルール」の設定主体が正統性において優れ、実効性を有している場合は、移行期における政治に一定程度の安定がもたらされることが予想される。逆に、「ゲームのルール」の設定主体の正統性が定かでなく、主要な政治勢力に最低限のルールの枠内での行動を行わせるに足る実効性をもたない場合、移行期政治は不安定化を避けられないだろう。また、設定されたルールが現実政治上の合理性を備えていることは、移行期政治の円滑な進展における条件であるだろう。そして、「ゲームのルール」が移行期を通じてある程度の一貫性をもっているか、もっていると多くによって予想されていなければ、主要な政治勢力は「ゲームのルール」に従って政治に参加する必要性を認めないか、ゲームのルールそのものを改変する、あるいは自らが別のルールを設定するといった行動に出るだろう。
この節では、分析の対象となっている4ヵ国の移行期における「ゲームのルール」を設定した主要な法令・文書を以下に列挙し、その設定主体の性質、そして設定された「ゲームのルール」の合理性や一貫性について検討していく。
(1) チュニジアチュニジアでは、移行期政治の制度や工程表を含む「ゲームのルール」を示した主要な文書は次の二つである。
①「暫定的な公権力の組織に関わる2011年3月23日の2011年第14号政令」(2011年3月23日に暫定政権が公布した政令)
②基本法(2011年12月10日に立憲国民会議が制定)
チュニジアにおいては、ベン・アリー政権崩壊直後から統治を担った「管理政権」が、最初の選挙の規則と日程を定めた95。2011年3月23日に公布された「暫定的な公権力の組織に関わる2011年3月23日の2011年第14号政令」96は移行期間の暫定憲法あるいは基本法としての性質をもち、チュニジアの移行期の「ゲームのルール」の最初のものといえる。2011年第14号政令は19カ条からなる。前文では1959年制定の旧憲法下の統治体制が、1月14日のベン・アリー政権崩壊に至る国民の革命的な意思表明によって持続不能になった点を認め、そのうえで移行期の暫定的な統治体制を定めている。ここで設定された「ゲームのルール」の特徴は、管理政権の権限の及ぶ期間を厳密に定義していることであり、それによって旧政権派の影響力の持続を回避する内容になっていることである。第14号政令では、大統領が国外逃亡し、議会が解散された条件下において、行政府が立法府の権限を掌握するとしているものの、第1条で、この政令で規定された暫定的な公権力は立憲国民議会が招集されるまでの期間のみ有効である旨が明記されたうえで、第18条で、この政令そのものが、立憲国民議会が選挙・招集され新たな統治機構を設立した時点で効力を失うと重ねて規定してある。さらに、チュニジアの場合は、旧支配政党RCD幹部の選挙への立候補を禁じる政令を「管理政権」自らが発布し97、実際に施行した。移行期政治が進むにつれて旧政権派が段階的に排除されるような制度設計がなされたといえる98。
立憲国民議会の選挙の結果、議会の主要勢力となったナハダ党主導の連立与党は、2011年12月10日、立憲国民議会で、以後の政治過程のゲームのルールを設定する基本法を可決させた99。ここで設定された新たな「ゲームのルール」の重要な点は、大統領、首相、立憲国民議会議長に権力を分散させる議院内閣制を採用したところだろう。連立を構成する三党に応分のポストを配分する必要性から採用された議院内閣制であるが、強力な大統領権限を廃し、議会に対して責任を負う首相ポストを、過半数には及ばない最大政党が獲得したことで、以後の移行期間における統治の独裁化を未然に防いだといえよう。
チュニジアの立憲政治は決して円滑に進んだわけではない。たとえば2012年3月の時点では、同年10月にも憲法が制定されるという見通しが示されていたが100、実際には憲法制定は2014年1月までずれ込んだ。その間に、ジバーリー内閣は退陣を余儀なくされ101、アライイド内閣も憲法制定と引き換えの総辞職を迫られ102、政党色の薄いテクノクラート中心のジュムア内閣が、新憲法下での最初の選挙を実施する選挙管理内閣として成立した。しかしナハダ党主体の連立政権は、立憲国民議会の解散要求を受け入れず、軍も中立を保った。それによって内閣による統治の行き詰まりが、憲法制定そのものの頓挫に転化することを食い止めたといえよう。
内閣総辞職を引き替えに立憲プロセスの完了を実現したナハダ党主導の暫定政権の判断は、移行期政治の一つのモデルを提示したといえるだろう。移行期政治の「ゲームのルール」の枠外でのデモや暴力によって政治的な意思を実現することや、ゲームのルールそのものの改変や蜂起が行われることは未然に阻止され、原則としては、当初設定された工程表と制度の下で新憲法制定がなされたといえよう。
チュニジアの特徴は、「管理政権」の時期から「臨時政権」へと進む過程で、「ゲームのルール」の設定主体の地位が円滑に受け渡されたことだろう。「管理政権」は期限を厳密に区切った限定的な「ゲームのルール」を設定した。選挙を経て成立した「臨時政権」の下で、次の段階の「ゲームのルール」が設定された。それぞれの段階で社会から、あるいは競合する政治勢力からのデモやボイコットによる挑戦を受けたものの、「ゲームのルール」への重大な変更は行われなかった。また、管理政権が暫定統治を行う根拠とした憲法宣言において、1959年憲法の効力の主要部分が適用不能と宣言されたことから、移行期プロセスに旧憲法の規範に基づいた司法の介入があらかじめ阻止されていた。
(2) エジプトエジプトの場合、「ゲームのルール」の設定に関わる主要な文書だけでも、下記のようなものがある。
①憲法宣言(2011年3月30日にSCAFが発布)
②「セルミー文書」 (2011年11月1日にSCAFの意向に沿ってアリー・セルミー副首相が提示)
③憲法宣言追加条項(2012年6月17日にSCAFが発布)
④憲法宣言(2012年8月12日にムルスィー大統領が発布)
⑤憲法宣言(2013年7月8日にマンスール暫定大統領が発布)
エジプトの事例は、チュニジアとは対照的に、「ゲームのルール」の設定主体が頻繁に入れ替わり、「ゲームのルール」自体がしばしば重大な変更を蒙ったところに特徴がある。移行期の初期の段階において、「ゲームのルール」の設定を行ったのはSCAFだった。しかしSCAFそのものの政治的能力は定かでなく、その権限の根拠も自明ではなかった。また軍の統治能力と実効性にも未知数の面が多かった。そこから、軍はさまざまな法律専門家に移行期の統治機構の制度や法的根拠の設定において依存すると共に、世論や社会・政治的な諸勢力の要求の変化に伴ってしばしば立場を変更した。また、相次ぐ選挙や国民投票の実施を経て、軍は既得権益を背負った一当事者としての性質を強め、「ゲームのルール」を広く諸勢力に示す中立的な裁定者としての立場を失っていった。
また、司法の介入によって議会選挙が無効とされ、実際に議会が解散されたことから、移行期のうちかなり長い期間において議会が十全に存在しなかった。選挙で選ばれた立法府が「ゲームのルール」の設定を主導せず、SCAFやムルスィー大統領など、行政権を掌握した勢力が「ゲームのルール」を設定し改変する権限を主張し、しばしば行使したところに、エジプトの移行期が他の3カ国と顕著に異なる点だろう。
ムバーラク政権の崩壊直後に、軍はイスラーム主義勢力に近い有力な法律家を長とする、憲法改正委員会を指名した103。憲法改正委員会は9カ条に関わる改正条項に関する改正案を提案し104、3月19日の国民投票に付されて、賛成多数により可決された105。国民投票に付されたのは、大統領の任期を限定する条項を中心とした極めて限定的な改正案だった。しかし、3月30日に軍が発布した憲法宣言は63カ条からなり106、3月19日の国民投票に付された改正案以外の多くの新たな条項を含むものだった。憲法宣言は1971年に制定され、3次の修正を受けた旧憲法の内容を多く引き継ぎながらも、同一の文面ではなかった。このため、エジプトの移行期の制度と規範を初期段階で設定した「ゲームのルール」には、その内容と根拠の双方に多くの曖昧さを含むことになった。
憲法宣言では、大統領と内閣と議会の権限や構成を定めているものの、大統領と議会のどちらの選挙を先に行うかについて示されていなかったため、移行期政治の工程表としては不十分なものだった。また、議会は旧体制と同様に人民議会とシューラー評議会の両院からなるものとされたが、シューラー評議会の立法権については曖昧にしか規定されていなかった。第32条では人民議会は直接選挙によって選挙される350名以上の議員からなるものとされ、半数の議席を労働者と農民に割り当てるという旧憲法下での規則も継承された(大統領による10名以下の指名枠を設けた)。第35条ではシューラー評議会は132名以上の議員からなるものとされ、その3分の2以上は直接選挙によって選挙されるものとした。ここでもその半数は労働者か農民であるとされた(3分の1は大統領による任命)。シューラー評議会の立法権は曖昧であり、人民議会が何らかの理由で解散されるか機能を停止した場合に立法権の所在が不明となる不備を抱え込んでいた。
そして、憲法宣言は立憲政治の工程表において特に曖昧さを含んでいた。第60条では、議会選挙から6カ月の間に、人民議会はシューラー評議会と共に、100名からなる憲法起草員会を選出することと規定され、憲法起草委員会は6カ月の間に憲法草案を起草するものとされている。草案は確定後15日以内に国民投票に付されるものと規定されている。しかしSCAFが憲法起草委員会の選出のために人民議会とシューラー評議会を招集するものとされており、憲法制定の権限をもつ主体は最終的にはSCAFであると解釈することも可能であり、両院の多数決によって憲法起草委員会が選出されうるのかどうかについても議論の余地が含まれる文面となっていた。また、憲法起草委員会に選出される委員が議員であるべきなのか、あるいは議員が憲法起草委員会の多数を占めることができるのかについても明記されていなかった。
また第61条ではSCAFの行政・立法の双方にまたがる権限は、人民議会とシューラー議会が招集されて機能し、大統領が選挙されて就任する時点まで持続するとされていた。そのため、司法の介入等でいずれかの議院が解散あるいは停止している場合にはSCAFが立法権を担い続けるだけでなく、そもそも大統領を軍が超法規的に拘束して解任するといった事態においてさえも、軍に正統に行政権が戻ると解釈し得るものとなっていた。第62条では既存の法律の効力は持続するものと明記されており、ムバーラク政権とそれ以前の政権下で制定・施行された権威主義的で政治的権利を制約する多くの法律やそれに基づいた判例もすべて効力を持続するとみなすことができる文面になっている。
このような曖昧さを多く含んだ憲法宣言によって設定された「ゲームのルール」には不確定性が高く、ゲームのルールの解釈や、ゲームのルールの不備に関する補足的な設定をめぐって政治的な対立を激化させ、移行期政治を遅延させる原因となった。
特に争点となったのは、憲法起草委員会の選出規則だった。憲法起草委員会の構成や選出方法は、憲法宣言第60条で100名という人数が示されたのみで、それ以外は曖昧なままに留まっていた。そうであれば、選挙された議会が自ら議論して選出規則を定めることも可能であったはずだった。しかし人民議会やシューラー評議会の選挙投票が行われる前の2011年11月1日に、軍の司令を背景に、暫定内閣のアリー・セルミー副首相が憲法起草委員会の構成と選出方法を含む、新憲法の基本原則を諸政治勢力に示した。これが22カ条と付属文書からなるいわゆる「セルミー文書」107とされるものである。ここでは軍の政治的権限が新憲法においても保持されることが記されているだけでなく、新憲法制定過程における議会勢力の影響力を大幅に制限するものとなっていた。末尾に付された「新憲法制定のための立憲会議の構成原則」108憲法起草委員会の100名のうち80名が議会外の諸勢力に配分されるものと規定され、議員から選ばれる20名にしても、各政党から最大5名とされて、議会で多数派を掌握した勢力が憲法起草の主導権を握れない制度設計となっていた。
セルミー文書に対して諸政治勢力の同意が必ずしも得られないまま109、人民議会およびシューラー議会選挙が行われたところ、ムスリム同胞団の設立した自由公正党だけでなく、サラフィー主義系のヌール党が躍進し、イスラーム主義系の政党が議会の圧倒的多数を占めるに至った。議会のイスラーム主義勢力は、憲法起草委員会の構成をより議会主導のものに改めた。2012年3月25日にムハンマド・サアド・カタートニー人民議会議長が発表した憲法起草委員会の委員リストでは、100名のうち両院の議院から50名が、議会外から50名が選出されていた110。
しかしここで、軍は司法を通じて介入した。2012年4月10日、カイロの行政裁判所は憲法起草委員会がエジプトの政治・社会勢力を広く代表していないとして解散を命じた。そこにはSCAFの示した法的見解が強く影響を与えていた111。軍と司法の支持を受けた議会内少数派はムスリム同胞団をはじめとするイスラーム主義系の多数派勢力に対して強硬な姿勢で交渉に臨み、合意は遅れた。2012年6月5日に軍は諸政治勢力に、憲法起草委員会の委員の配分について48時間以内に合意するように命令し、7日には合意がなされた112。この合意では、100名のうち、人民議会から39名、司法から6名、弁護士・法学教授から9名、軍、警察、法務省から各1名、労働組合から13名、有識者から21名、アズハル機構から5名、コプト教会から4名が選出されるものとされていた。憲法起草委員会の決定は3分の2の委員の賛成によるものとされた。この合意では、セルミー文書に比べて議会勢力への割り当てが増え、多数派の政党への割り当て上限は撤廃された。しかし議会勢力だけで過半数を占めることはできないように規定し、かつ3分の2の絶対多数という厳しい条件を課すことで、議会の多数派勢力の権限を制約したものといえる。
また、2012年6月14日に、最高憲法裁判所は人民議会の選挙法を違法として、選挙無効・人民議会解散を命じる判決を下し113、軍が即座に人民議会の閉鎖を実施した。それによって、6月16・17日の大統領選挙決選投票で大統領が選出された後も、人民議会が解散させられていることから、立法権の所在が不明確になる見通しが立った。さらに、大統領選挙の決選投票の最終日が終了した6月17日に、軍は憲法宣言追加条項114を発布し、軍に関する決定権をSCAFが保持すると明記しただけでなく、立法権も新たに人民議会が選出されるまで維持するものとし、立憲プロセスに介入する権限も規定した115。
このように、多大な制約を課されたにもかかわらず、なおもムスリム同胞団とサラフィー主義諸政党は、2012年6月26日に召集116された第二次の憲法起草委員会を主導的に運営した。議会で多数派を占めるだけでなく、弁護士や法学教授、労働組合指導者や有識者といった議会外から選出された委員のなかにも、イスラーム主義的な人物が多く含まれていたからである。
また、2012年6月30日に就任したムルスィー大統領は、選挙で示された民意の支持を支えに、大統領の行政権限を当初予想された以上の範囲で行使し、立憲プロセスの推進を後押しした。ムルスィー大統領は8月12日に電撃的にタンターウィー国防相とアナーン参謀総長を更迭し、立法権を掌握した117。選挙での民意の支持を背景に、軍に対する一時的な優勢に立ったムルスィー大統領は、さらに大統領権限を行使して「ゲームのルール」の再設定を図った。11月22日には、立憲プロセスの期間内に大統領が行った措置の一切を司法の介入から免除する憲法宣言を発布した118。これは移行期の行政と立憲プロセスへの司法による過剰な介入を排除するためのものと理解することができるが、反対勢力からは強権政治を目指したものとして国内外から非難を浴びた119。憲法宣言で規定されていた6カ月間の起草期限の終了が近づいた11月末の段階で、12月2日にも司法の介入による憲法起草委員会の解散命令がなされるとの観測が高まった120。憲法起草委員会はそれに先んじて起草作業を終え121、憲法草案は12月15日の国民投票122で信任された。このように、2012年制定の憲法は、権限を掌握したムスリム同胞団が行政権主導による「ゲームのルール」の改変を行って、軍や司法による介入を阻止しながら制定に推進したといえよう。
しかし2013年7月3日のクーデタによって2012年憲法は廃止され、憲法制定を主導したムスリム同胞団の主要幹部は包括的に投獄された123。2013年7月8日のマンスール暫定大統領が発布した憲法宣言124は、選挙された大統領と議会が進めた立憲プロセスの成果を、軍と司法がさまざまな手段を用いて排除したうえで、一方的に新たに「ゲームのルール」を設定する形になった。暫定政権は10人の専門家からなる憲法改正委員会を指名125して2012年制定の憲法への改正案を提示させたうえで、諸政治勢力や市民社会団体、宗教者や専門家などからなる「憲法改正のための50人委員会」126を発足させた。50人委員会によって採択された憲法草案127は、2014年1月14・15日に国民投票に付され、承認された。
このように、エジプトでは移行期政治の「ゲームのルール」の設定主体が頻繁に移り変わると共に、軍もムスリム同胞団もしばしば自らが設定した「ゲームのルール」を変更した。議会ではなく行政権の掌握を根拠に「ゲームのルール」の設定主体となった点で、両者は共通している。軍は選挙後も超越的な裁定者としての地位を維持しようとしたため、複数の設定主体が併存し競合した。それによって生じる混乱を軍による武力で解消しようとしたのが2013年7月3日のクーデタといえよう。クーデタで一方の当事者が排されたことで「ゲームのルール」は一元化されたが、選挙によって選ばれた主体が設定したルールとそれに基づいた憲法制定プロセスの成果を放擲したため、その後の政治プロセスの正統性に疑念が生じさせる結果となった。それによって、持続するムスリム同胞団支持層による抗議行動や、増加する過激派によるテロが正統化される余地が生まれたといえる。
(3) リビアリビアの場合、移行期政治の制度と工程表は次の主に次の一連の憲法宣言や法律によって示された。
①「民主的リビアのためのヴィジョン」(2011年3月29日に国民移行評議会が発表)
②憲法宣言(2011年8月3日に国民移行評議会が発表)
③憲法宣言への修正条項(2012年3月および7月に国民移行評議会が発表)
④憲法起草委員会選挙法(2013年7月16日に国民議会が制定)
⑤立憲プロセスの工程表の再設定(2014年1月31日および2月4日)
リビアでは、国民移行評議会が内戦で首都トリポリを掌握する段階で、政権崩壊後の政治プロセスの「ゲームのルール」を設定した。しかし国民移行評議会自身が、選挙によって選ばれた国民議会に権限を委譲する直前に、憲法制定手続きに関するゲームのルールの重大な変更を行ったことで、その後の移行期政治に混乱と遅滞を招く一因となった。
国民移行評議会は発足からそう時期をおかない2011年3月29日に『民主的リビアのためのヴィジョン』を発表して基本的な理念を提示した128。そして内戦が優勢に転じるなかで、2011年8月3日には37カ条からなる「憲法宣言(al-I‘lān al-Dustūrī; Constitutional Declaration)」を発表し、カッザーフィー政権の打倒以後の移行期政治の諸段階を規定した129。そこでは、遅くとも2013年末までに新憲法の下での恒久的な新体制に移行するというタイム・テーブルが示されていた。憲法宣言の第30条では、カッザーフィー政権からの「解放」から90日の間にトリポリに暫定政府を設立するものとされた。国民移行評議会は国民議会の選挙法を定め、「解放」から240日以内に選挙を行い、選出された国民議会の招集に合わせて国民移行評議会は解散するものとされた。同じく第30条で、200名からなる国民議会は、憲法起草委員会を選出するものとされた。
なお、第29条と第33条で、国民移行評議会を構成する者は、国民議会選挙後にその議長職や閣僚職に就くことができないと規定した。政権国民移行評議会そのものにもカッザーフィー政権の元閣僚が含まれていることから、それらの政権からの離脱者を含めて、過去との断絶を約束する内容となっている。また、第34条では過去の憲法・法規範は効力を失うとされている。
内戦中に起草された憲法宣言は不備の目立つものであり、第30条で示された、移行期の国民議会や憲法起草委員会の選出方法には、定員や地域的・民族的な配分などに不明瞭な部分が多くあった。それらの部分は、国民移行評議会がカッザーフィー政権の崩壊を受けて実質的な統治を行う過程で、諸勢力との個別の協議によって規定あるいは改変されることになった130。国民議会の選挙方法は、地域や部族などに基づく各地の勢力の交渉によって、120議席を小選挙区制で、80議席を比例代表制で選出することが定められた。憲法起草委員会の構成や選出方法についてはさらに曖昧であり、それを補う修正憲法宣言が長期間をかけた協議で累積的に行われていった。
2012年3月13日には、各地域や部族の代表者との協議の末、憲法起草委員会の定員を60名と定める修正憲法宣言が発布された。さらに、国民議会選挙の投票が2012年7月7日に行われる2日前の7月5日になって、国民移行評議会は憲法宣言修正第3号を発布して再び憲法宣言第30条を改正した。この修正によって、憲法起草委員会は、国民議会による指名ではなく、国民の直接選挙で選出されるものと規定された。そして、60名の委員定数はキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの3地域にそれぞれ20名ずつ配分するものとされた。これは連邦制による分権を主張する、東部のキレナイカ地方の諸勢力の強い要求を国民移行評議会が受け入れたことによる修正であるとされている131。
これらの憲法宣言の追加によって、選挙で選ばれた国民議会が憲法起草委員会を選出するという、憲法起草プロセスの基本的な手順までもが、個別の諸勢力との協議の結果によって変更された形となった。国民移行評議会が主導的に「ゲームのルール」の決定を裁定することができず、諸勢力の、しばしば強硬な手段による威嚇を伴う交渉の圧力によって改変を迫られたことで、移行期政治の安定性や予測可能性は低下し、諸勢力が「ゲームのルール」に従って政治活動を行う動機付けそのものを低下させることになった。
2013年2月26日、最高裁判所は憲法宣言への修正第3号を、国民移行評議会の3分の2の賛成を得ていなかったという形式的な根拠から無効と判決を下した132。しかし国民議会は2013年7月16日に、憲法起草委員会の委員の選出方法に関する法律を可決し133そこでは憲法宣言への修正第3号と同様に、60名の委員が直接選挙によって選ばれるものと規定し、20名ずつ3地域に定員を配分するものとした。さらにそれぞれの20名の委員は部族や地域や女性などに割り当てられる複雑なクオータ制採用することになった134。
2014年1月30日に国民議会は憲法起草委員会の選挙日程と起草の期限や手続きについて一定の合意に達し135、それに基づいて2014年2月20日に、憲法起草委員会の委員選挙が実施された136。
このように、リビアの移行期政治の「ゲームのルール」は、特に立憲プロセスに関して中途で重大なルールの変更や混乱を伴った。しかし、「ゲームのルール」の再設定が、最終的には国民議会で合意によって行われることで、新たな「ゲームのルール」の法的正統性と、それに基づいて選出される委員によって制定される憲法の正統性を確保したとはいえるだろう。
(4) イエメンイエメンでは、移行期の「ゲームのルール」を示したのは次の二つの文書だろう。
①GCCイニシアチブ(GCCが2011年4月に提案、2011年11月23日にサーレハ大統領が調印)
②包括的国民対話文書(2014年1月に国民対話会議が発表)
4カ国のうち、「ゲームのルール」が外部の仲介者から示されたのはイエメンの事例のみである。サウジアラビアを中心としたGCCが仲介を主導すると共に、米国や国連の支持を受けた、「GCCイニシアチブ」と一般に呼ばれる仲介案は、2011年4月に最初に示された137。国連安全保障理事会は2011年10月21日の安保理決議2014号でGCCイニシアチブを支持し、また2012年6月12日の安保理決議2051でもGCCイニシアチブに基づいた移行期過程を改めて支持し、合意の実施を阻害するものに対する将来の制裁を含意している138。また、2014年1月の包括国民対話会議の結果も支持している139。
GCCイニシアチブの提示から、政権側と野党勢力やその他諸勢力がこれを「ゲームのルール」として受け入れるまでには7カ月を要した。それは主にサーレハ大統領が、複数回、仲介案の受け入れを表明した後に署名を直前になって拒否したことによる。2011年4月22日にはサーレハ大統領はGCCの仲介案の受け入れの意向を示し140、5月1日のリヤードでの調印式が設定されたものの、4月30日にサーレハ大統領が退任の条件に留保を付した結果141、調印式は延期となった142。仲介努力が続行され、再び調印の機運が高まったところでサーレハは5月5から6日に今度は野党側の調印に関して条件を付し、野党勢力もその条件を拒否して調印が流れた143。5月18日にサーレハが改めて合意を拒否した翌19日に、サーレハが党首を務める国民全体会議党の報道官が、サーレハは5月22日に合意に調印する意向と表明した。しかしその翌日の5月20日にサーレハが今度は大統領選挙の前倒し実施を提案し、合意への調印の意図が曖昧になった144。5月21日には野党側が先行して調印し、翌日にサーレハも調印するという見通しが立てられた145。しかし5月22日に、GCC仲介を実際面で運営するUAEの在サナアの大使館がサーレハ支持派に包囲され、UAEやサウジアラビアなどGCC諸国、そして米国やEU等の駐イエメン大使が大使館内に閉じ込められ、ヘリコプターで大統領宮殿に移送されるという緊急事態が生じた。そして大統領宮殿では調印式が行われたものの、サーレハは自らが党首を務める与党国民全体会議の代表者が仲介案に調印するのを米大使らと共に立会いながらも、大統領としてのサーレハ自身は、野党の代表が改めて大統領宮殿内で調印しない限りは調印しないと主張し、これまた寸前で合意を拒否した。翌日GCCは仲介努力の停止を表明した146。サーレハ大統領が最終的に仲介案に署名し、退任を受けいれるのは2011年11月23日であり、この間にサーレハ自身が負傷して国外で治療を受けるなど、「ゲームのルール」の設定が長引く間に、混乱が激化していった147。
GCC仲介案はサーレハ大統領に免責を認め、支配政党の解体や議会の解散を含まず、暫定的な新大統領の選挙と国民対話会議の開催による、二段階に渡る移行プロセスの日程を示したものだった148。仲介案は大統領が副大統領に権限を委譲するものとし、権限委譲は不可逆で覆されないとする。大統領と副大統領のGCC仲介案への署名と同時に移行プロセスの一段階目は開始される。移行プロセスにおいては議会は解散されないがコンセンサスによる決定を求められ、与党国民全体会議の立法権限は制約される。調印後速やかに副大統領は野党から首相候補を指名し、首相候補は14日以内に挙国一致内閣を設立する。そして90日以内に大統領選挙が行われるものとするが、仲介案に調印した与野党勢力はコンセンサス候補としてハーディー副大統領を推薦するものとされており、実質上の単一候補による大統領選挙が規定されている。新大統領の就任をもって第二段階が始まるとされるが、第二段階で大統領と内閣に課される最大の任務は、幅広い国民諸勢力からなる国民対話会議の開催である。国民対話会議は6カ月間の任期において、南部の地位など新憲法の主要課題について議論し、憲法起草委員会の制度を決定することにある。
イエメンの国民対話会議の選出作業や議論の対象となる課題の設定は長期化し149、結局発足は2013年3月18日までずれ込んだ150。また、発足から6カ月で議論を終えるものとGCC仲介案で規定されていた国民対話会議の議論も紛糾し151、結局10か月をかけて2014年1月に終了した。合意文書に付された1月24日採択の「保障文書」において、憲法起草の実際的プロセスの手順が改めて示された152。1月25日の国民対話会議の結果発表の式典で提示された文書群が、イエメンの内部の諸勢力の合意による「ゲームのルール」の設定を行ったといえる。
イエメンの事例では、移行期の「ゲームのルール」を設定するに際してはGCCや米国や国連など外部の影響力が大きかったが、サーレハ大統領による抵抗によって「ゲームのルール」の設定が遅れ、状況の悪化をもたらした。諸当事者による「ゲームのルール」の受け入れ後は、多大な遅延を伴いながら、その枠内での移行期政治が一定の進展をみせているといえる。
本論文では、移行期政治が進展しているものとみられるアラブ4カ国について、旧政権の崩壊の経緯とそれによる移行期政治の初期条件の相違や、暫定政権の性質、立憲プロセスを中心にした移行期の「ゲームのルール」の内容と設定主体について、各国の事例をみてきた。本論文では、各国の移行期政治の錯綜する事実関係を整理するための切り口としてこれらの項目に着目するものであり、必ずしも社会科学的な因果関係を論証することを意図していない。むしろそれ以前の基本的な事実関係の確認を通じて、将来のより理論的な考察への土台とすることに、本論文では注力した。
チュニジアやエジプトでは政治指導者の次元では旧政権との断絶性があるのと同時に、国家機構の一体性は保たれている。両国では比較的迅速に憲法制定までの移行期政治が進んでいるとみられる。しかしそのことは両国の移行期政治が円滑に進んだことを必ずしも意味しない。エジプトにみられるように、迅速な憲法制定がかえって強い反発を招きクーデタに至り、クーデタを主導した勢力が反対勢力を排除してコンセンサス不在の中で新たな憲法を早期に制定しており、むしろ将来の混乱の原因を作っているとも考えられるからである。また、国家機構の一体性の維持は、旧政権時代の既得権益層による民主化の妨害や、抑圧的な統治の復活をもたらす根拠ともなっている。
リビアでは内戦を通じて旧政権の徹底的な排除が行われると共に、国家機構や領土の一体性が揺らいだ。それによって移行期政治は多大な障害に直面することになり、立憲プロセスは大きく遅延した。ただし国家形成の段階から新たに始めなければならないという初期条件は、長期的には体制の大幅な変革を可能にするとも考えられよう。現段階でリビアの移行期政治の帰結に最終的な判断を加えることは時期尚早だろう。
イエメンでは旧政権の支配装置をほとんど解体せずに移行期政治が開始されたが、「ゲームのルール」の設定過程での混乱や遅延が、分離主義や地方の反乱の激化をもたらし、国家機構や領土の一体性は揺らいだ。GCCという外国勢力による仲介案を受け入れた移行期の「ゲームのルール」の設定や、旧政権指導者の免責や支配政党・議会の温存、国民対話会議による選挙を経ない代表者選出によるコンセンサス形成の試みは、他の3カ国と対照的である。このような激変を避け、選挙を経ないコンセンサス形成を試みるイエメン型の移行期政治が、選挙を通じた多数決型の移行期政治と比べて、中長期的に大きな混乱を避けた安定を伴うモデルとなりうるのか、あるいは単に改革が不十分なまま終わることになるのか、これも現時点では最終的な判断を下すことができない問いである。