Middle East Review
Online ISSN : 2188-4595
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The Change of Ruling Regime under King Abdullah in Saudi Arabia and Additional Remarks on Recent Changes under the Newly Enthroned King Salman
Sadashi FUKUDA
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2015 Volume 2 Pages 65-79

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Translated Abstract

The Basic Law of Governance in Saudi Arabia stipulates that the king of Saudi Arabia has absolute power in the government of Saudi Arabia. However, after King Abdullah’s accession to the throne in 2005, his political powers were limited because of the presence of the so-called Sudeiri Seven, the powerful royal group that consists of the seven sons of King Abdel-Aziz’s purported favorite wife, Sheikha Hussa bin Ahmad Sudeiri.

The death of the crown prince Sultan in 2011 followed by the death of the next crown prince Naif in 2012, both members of the Sudeiri Seven, weakened the power of the Sudeiri Seven. As a result, King Abdullah’s power had increased greatly compared to that of the Sudeiri Seven. Also, the sons of King Abdullah, who occupied prominent governmental posts, were acquiring strong influence in the regime.

The death of King Abdullah in January 2015 and Salman’s accession to the throne caused changes to the ruling regime in Saudi Arabia. King Salman appointed Prince Muqrin as crown prince and deputy premier, and Prince Muhammad b. Naif as deputy crown prince. King Salman also appointed his son Muhammad b. Salman as defence minister and head of the royal court. Finally, King Salman issued a royal order on January 29 to reshuffle his cabinet and dismiss the governors of the Riyadh and Makka.

本稿脱稿後の2015年1月23日にアブドッラー国王が死去し、サルマーン新国王が即位した。サルマーン国王は1月29日に、内閣改造と知事の交代などの大規模な人事を実施した。これを受けて本稿の最後にその新しい変化について追記することとしたい。今後のサウジアラビアの政治の姿を見通す手がかりを示すことができれば幸いである。

はじめに

サウジアラビアは、政治制度上は、国王に政治的権限が集中する専制的君主制の政治体制をとっている。現在は、アブドッラー国王が国家元首として君臨し、首相として政治を取り仕切り、内政外交はアブドッラー国王の強い指導権の下で進められている。

アブドッラー国王は、異母兄であるファハド前国王(首相)の下で1982年に皇太子に指名され、副首相にも任命され、同国の政治上のナンバーツーとなった。そのファハド国王が1995年に脳溢血で倒れたため、その後まもなくして、日々の政務の処理は、事実上、アブドッラー皇太子が担うようになったのである。そして、2005年のファハド国王の死去により、アブドッラーが即位し国王として国家の頂点に立つこととなった。

アブドッラーが国王になってから今年で10年目となる。アブドッラーは皇太子時代も含めて20年近く、サウジアラビアの政治の中心にいたことになる。

皇太子の時代には、アブドッラーが日々の政務を担っていたとはいえ、ファハド国王も存命でそれなりの影響力を維持しており、またファハド国王の同母兄弟であるスディリーセブンなどの有力王族の存在(スルターン国防相やナーイフ内相など)があり、アブドッラーの権力は強いものではなかった。

国王になってからもしばらくは、アブドッラーの権力基盤はあまり強くなかった。国王の権力が固まったのはここ数年のことである。とくに、2011年にスルターン皇太子が死去し、その後を継いで皇太子になったナーイフも翌年に死去すると、サウジアラビアの権力構造が大きく変化するようになり、そのなかでアブドッラー国王の権力の強化が進んでいるのである。アブドッラー国王は、現在、名実ともに専制的君主としてサウジアラビアの内政外交を取り仕切っているのである。

アブドッラー国王は1924年生まれで2015年には91歳になる1。2014年の年末には肺炎を起こしリヤードの国家警備隊の病院に入院するなど、高齢のために健康が不安視されることがある。実権を持った国王として政治を取り仕切ってきたアブドッラー国王が政治の第1線から退くようなことがある場合、サウジアラビアの政治はどのような影響を受けるのか、関心が高まっている。

本稿では、アブドッラー国王の下で進んでいるサウジアラビアの権力構造の変化について明らかにし、そのことのサウジアラビアの内政外交への影響についても検討したい。

1. 王権と政策決定過程

はじめに、サウジアラビアにおける国王の権限と政治の仕組みについて、そして王権が政策決定過程で果たす役割について見ておきたい。

サウジアラビアでは、1992年に「統治基本法(nizām al-‘asāsī lil-hukum)」が制定・施行され、そのなかで国家の形態と統治の仕組などが定められた。その統治基本法の中では「サウジアラビアの憲法はコーランとスンナである」と定められているものの、統治基本法では国家の形態や権力について規定されており、事実上、統治基本法が憲法の役割を果たしている。その統治基本法の中では、国王の権力について次のように定められている。

「国家の権力は、司法権、行政執行権、規則(法)制定権から成る。これらの各権力は国王に帰属(源泉)する(第44条・国家の権力)。国王は内閣総理大臣であり、閣僚会議のメンバーは、本規則(法)とその他の諸規則(法)の規定するところに従って、国王の職務の遂行を補佐する(第56条・内閣の指揮権)。国王は、勅令により、副首相と閣僚会議を構成する大臣たちを任命し解任する(第57条・副首相、大臣の任命と解任)。」2

図1 政策決定の仕組

統治基本法で定められているように、サウジアラビアは王政の統治体制を採っており、国王は行政執行権、立法権を持ち、国軍最高司令官であり、また2聖地の守護者としてイスラームの擁護者の立場で、国を統治することになっている(図1)。国王は、制度上は、内政外交の政策決定において絶対的な権限を持ち、何人も逆らうことのできない専制的君主と定められているのである。国王の行動を規制するのはイスラーム法だけになろう。

国王は国家元首であるが、同時に首相を兼ね行政機構の頂点に立ち、毎週開催される閣議を主宰し、閣議を通し行政機構を指揮することになっている。国王の首相兼務により、行政執行権は国王の手に握られていることになるのである。また、国王は国軍最高司令官も兼ねている。行政機構、軍事組織、司法の人事の決定権は国王に帰属する。

「立法権」に関しては、少し説明が必要である。サウジアラビアでは、法律はイスラーム法が基本となっているが、イスラーム法だけではすべてをカバーすることができないので、国王は、必要に応じ勅令の形で「法律」を発布している。その法律はイスラーム法(sharī‘a)と区別して規則(nizām)と呼ばれているが、事実上の法律である3。国王はイスラーム法を発布し、あるいは、イスラーム法に変更を加える権限は有しないので、ここでの「立法権」とは規則を制定する権限のことである。立法権(規則制定権)については、統治基本法の中でも「イスラーム法の原則に従って、規則(法)や規定を策定することができる(第67条・規則制定権者)」、「規則制定権の出所は国王である(第44条)」と規定されている。サウジアラビアには立法権を持つ議会は存在しないので、立法権(規則制定権)は唯一国王に帰属していることになる。

このように、サウジアラビアでは、制度上は、国王は国家機構の頂点に立ち強い政治的権限を保有し、専制的君主として統治することになっている。

しかし、大臣や知事職などの国家機構の要職には国王の弟などの王族有力者が多数配置されており、それらの王族有力者も政策決定過程で大きな影響力を持っている。したがって、現実の政治では、国王と王族有力者の力関係次第で、国王の権力が制約され、政策決定に大きな影響が表れることになる。アブドッラー国王が即位した当時のように、王族有力者の力が強い時には、国王を中心とした王族有力者たちのコンセンサスを重視して政策が決定された時期もあったのである。

2. アブドッラー国王とスディリーセブン

アブドッラーは2005年に国王として即位したが、その後、しばらくの間、その権力基盤は弱いままであった。その背景には、スディリーセブンとよばれた王族有力者の存在があったのである。

現在のサウジアラビア王国は、1902年にアブドルアジーズによって再興されたサウード朝(第3次サウード朝)に起源をもつ。リヤードを首都とした第3次サウード朝は、支配領域を紅海岸からペルシャ湾まで拡大した後に、1932年にサウジアラビア王国と名前を変えた。アブドルアジーズが初代国王になった。

アブドルアジーズが1953年に死去すると王位は息子のサウードに受け継がれた。サウードの次の国王には、弟のファイサルが就き、その後も弟たちによって王位が受け継がれてきた。第5代目がファハド前国王で、第6代目が現在のアブドッラー国王である。現在の皇太子のサルマーン、そしてムクリン副皇太子も、すべてアブドルアジーズの息子である(表1)。

アブドルアジーズ初代国王には多数の男子がいた。アブドルアジーズがサウード朝を再興し王国の建国に向かう過程では、各地に勢力を持つ部族勢力を支配下に組み込んでいったが、そのなかで各地の部族長などの有力者の娘を妻に娶ったのである。アブドルアジーズには多数の夫人がいたが、生まれた男子の数も多かったのである。それぞれの男子は母親を通じ、母方の一族とも結びつきを持っていた。

アブドッラーが皇太子の時には、国王はファハドであったが、ファハドには同じ母親から生まれた7人の兄弟がいた。いわゆるスディリーセブンと呼ばれる7人兄弟である。スディリーは母親の出身の部族の名前である。

表1は、現在のアブドッラー国王の兄弟を示したものである。縦の列は母親毎に記してあるが、最も左の列がスディリーセブンである。表1では現存の兄弟を示したが、スディリーセブンに関しては物故者も( )で示してある。

表1 アブドッラー国王の兄弟

( )は死去 出所:福田安志作成

アブドッラーが皇太子の時には、スディリーセブンには政府の要職についていたものが多かった。ファハド国王を頂点にして、スルターンは国防航空大臣、ナーイフは内務大臣、サルマーンはリヤード州知事、アブドルラフマーンは国防航空省副大臣、アハマドは内務副大臣をしていたのである。したがって、アブドッラーが権力を伸ばそうとしても、スディリーセブンの壁に阻まれ、その権力は限られていたのであった。

一方で、アブドッラー国王には、同母兄弟はいなかった。それにもかかわらず、王族の間で一定の影響力を維持し、最後は国王になることができたのは、アブドッラーが国家警備隊の司令官のポストに長年にわたり就いていたことが大きかった。

アブドッラーは、サウジアラビア王国の初代国王アブドルアジーズの息子として生まれた。1962年に国家警備隊の司令官に任命され、以後、2010年11月に息子のミタブ・ビン・アブドッラーに司令官の地位を譲るまで、48年間の長きにわたり国家警備隊司令官の地位にとどまった。

国家警備隊は、サウジアラビアの政治の心臓部であるナジュド地方(首都リヤードのある中央部地方)の部族民を中心にして形成された部隊で、治安の維持を主たる任務とし、王政の維持にあたると同時に、正規軍である国軍に対する牽制役も担っている。中東の王政では軍部のクーデターで倒れた例が多いが、サウード家への忠誠心の強い国家警備隊の存在は国軍への牽制となったのである。

この国家警備隊の司令官の地位が、アブドッラーの権力基盤として大きな役割を果たしてきた。国家警備隊の兵力はどの程度であったのであろうか。『中東北アフリカ年鑑1979-80年版』では、1970年代末のサウジアラビアの軍事力では正規軍の陸軍が兵員数4万5000人であったのに対し、国家警備隊の総兵力は3万5000人とされている4。また、ミリタリー・バランス2011年版では、陸軍の兵員数は7万5000人で、国家警備隊の総兵力は7万5000人とされている5

つまり、国家警備隊は、兵器の質の面では正規軍の国軍と比べて劣っているが、兵員数では陸軍に劣らない数を持っているのである。しかも、国家警備隊の兵員にはナジュド地方の出身者が多い。ナジュド地方はサウジアラビアの政治の中心である。アブドッラーは国家警備隊を握ることで、軍事力とナジュド地方の部族民とのつながりを得たのであった。そのことがアブドッラーの権力基盤となり、その影響力を支えてきたのであった。

2005年にファハド前国王が死去した時には、アブドッラーは皇太子であり、第1副首相兼国家警備隊司令官であった。スディリーセブンの一人でファハドの同母弟のスルターンは、第2副首相兼国防航空相であった。スルターンは国王、皇太子に次ぐサウジアラビアのナンバースリーの地位にあり、アブドッラーは即位すると、スルターンを皇太子に任命した。皇太子になったスルターンは、国防相(国防航空相)の地位にとどまり、国軍への影響力を保持し続けた。

当時、スルターンの同母弟のナーイフは内務大臣を務めており、警察と治安部隊を管轄下に置き、また、地方の知事を監督する立場にあった。さらに、ナーイフはワッハーブ派の宗教界ともつながりが深く、内政上、強い影響力を保持していた。

このように、アブドッラー国王が即位した当時は、スディリーセブンが政府の要職を占め強い影響力を保持しており、こうした王族をめぐる権力構造が、アブドッラー国王の権力を弱くしていたのであった。

3. スディリーセブンの消滅と強まる王権

サウジアラビアの権力構造はスルターン皇太子が死去した2011年以降、大きく変化しており、その中でアブドッラー国王の権力が強まっている。

なによりもスディリーセブンの影響力が弱まったことが大きく影響している。アブドッラー国王のもとで皇太子を務めていたスルターンは、2011年10月に死去した。新しい皇太子にはスルターンの同母弟のナーイフがなったが、そのナーイフも翌2012年6月に死去した。スディリーセブンの中で最も発言力の強かったスルターンとナーイフがいなくなったことで、アブドッラー国王への重石が外れ国王の権力が強まったのである。

ナーイフ後の新しい皇太子には同じくスディリーセブンの一員であったサルマーンが指名された。サルマーンは2011年まではリヤード州知事をしており、それなりに影響力は持っていたが、全体的に見るとその発言力はあまり強くなかった。サルマーンは、国防大臣を兼務していたスルターンの死去によって2011年に国防大臣に任命され、国軍を指揮下に置いていた。しかし、スルターンが1963年以来48年間国防大臣(国防航空大臣)を務め国軍を掌握していたのとは異なり、軍部がサルマーンの権力基盤になるまでには時間がかかるものと思われる。

2012年6月に内務大臣を兼務していたナーイフ皇太子が死去した時に、その内務大臣のポストには、それまで内務副大臣であったアハマドが内務大臣に昇格した。アハマドはスディリーセブンの一員であり、その当時は、アハマドは将来の国王候補になるとの見方も出ていたほどである。しかし、アハマドは同年11月にアブドッラー国王によって内務大臣を解任された。わずか5か月の在職であった。アハマドの次の内務大臣に、ナーイフ皇太子の息子で内務副大臣をしていたムハンマドが任命された。

スディリーセブンの一員で国防副大臣をしていたアブドルラフマーンは、2011年のスルターン皇太子の死去時に国防副大臣を解任されている。つまり、2011~2012年にかけて、かつて権勢を誇ったスディリーセブンは、サルマーン皇太子を残し、すべて政治の表舞台から消えたのであった。

表1にも示したように、アブドッラー国王にはスディリーセブン以外の兄弟もいる。しかし、彼らの政治的影響力は強くはなく、また、アブドッラー国王に近い立場の兄弟もおり、アブドッラー国王の権力を制約するものとはなっていない。2011~2012年にかけて、スディリーセブンが事実上消滅し、アブドッラー国王の権力は大きく強まったのである。

サウジアラビアには国家安全保障会議(National Security Council: NSC)と呼ばれる国家機構がある。アブドッラー国王が即位後の2005年10月に設立したもので、国家の安全保障にかかわる問題を取扱い、宣戦布告や非常事態宣言、軍事戦略の承認、大使の引き上げを含む外交関係の制限などの広い権限を持つ機関である。

現在の国家安全保障会議の構成は次のようになっている(図26。国家安全保障会議の議長はアブドッラー国王でサルマーン皇太子が副議長、その他の構成員はムハンマド内相、ミタブ国家警備隊大臣、サウード外相、バンダル・ビン・スルターンNSC事務局長、ハーリド・ビン・バンダルサウジアラビア総合情報庁(General Intelligence Presidency: GIP)長官から成っている。2005年に国家安全保障会議が設立された時には、スルターン皇太子・国防大臣、ナーイフ内相がメンバーとして加わっていたのである。

図2 国家安全保障会議(NSC)-2015年1月現在

サルマーン皇太子は国防大臣である。ミタブはアブドッラー国王の子息であり軍事組織の国家警備隊を率いている。バンダル・ビン・スルターンは、元のスルターン皇太子の息子で22年間にわたり駐米大使を務め、2005以降、NSC事務局長、GIP長官を務め、最近までサウジアラビア政府の対シリア政策を取り仕切ってきた人物である。GIPとはサウジアラビア版のCIAに当たる組織で、ハーリド・ビン・バンダルGIP長官は、アブドッラー国王の甥である。

安全保障はサウジアラビア政府にとって最重要政策なので、NSCの構成員がサウジアラビアの重要政策の決定に関わっていることになる。すべて王族(サウード家)の有力者たちで、この王族のインナーサークルの中でサウジアラビアの主要な政治が決められているといっても過言ではないであろう。

NSCの構成員からは、アブドッラー国王の下での、現在のサウジアラビアの政治構造が見て取れる。副皇太子になったムクリンは、もともとアブドッラー国王に近い立場の弟で、ミタブは国王の息子で、その他の構成員は国王の甥である。サルマーン皇太子の発言力が弱いので、2011年以降、サウジアラビアの権力構造の中ではアブドッラー国王の権力が強化され確立したと見てよいであろう。スルターン皇太子・国防大臣、ナーイフ内相が死去し、スディリーセブンが事実上消滅したことで、権力構造が大きく変わったのである。

4. アブドッラーファイブ

そうした中でここ2、3年の間目立っているのが、アブドッラー国王の子息たちが要職に任命され、勢力を強めてきていることである。アブドッラー国王の子息たちの中には、5人の有力な王子たちがいるが、彼らが政府の要職に就き始めたのである。

2011年にスルターン皇太子が死去してから一連の政府人事が行われた。その中では、第3世代と呼ばれる王族に変化が目立っている。

サウジアラビアには第3世代と呼ばれる王族がいる。第1世代がアブドルアジーズ初代国王で、次の第2世代は初代国王の子供の世代で今のアブドッラー国王などが含まれ、第3世代とはその子の世代、つまり初代国王の孫の世代であるが、その第3世代の間で大きな変化が起きているのである。

とくに目立つのがスディリーセブンの子供たちとアブドッラー国王の子供たちの間に見られる変化である。スディリーセブンの変化から見ていこう。ファハド元国王の息子では、東部州の州知事をしていたムハンマドは2013年1月にアブドッラー国王により解任され、無任所国務大臣であったアブドルアジーズは2014年4月に解任されている。スルターン元皇太子の息子では、国防副大臣をしていたハーリドは2013年4月に解任され、その後に国防副大臣になったサルマーンも2014年5月に解任された。バンダルは諜報部門GIP長官を2014年4月に解任されたが、NSCの事務局長の地位にはとどまっている。

一方で、新しくポストを得たスディリーセブンの子供たちもいる。ナーイフ前皇太子の息子のムハンマドは2012年11月に内相に任命され、息子のサウードは2013年1月に東部州の州知事に任命された。

サルマーン皇太子に関しては、その息子のファイサルは2013年1月にメディナ知事に任命され、もう一人の息子のムハンマドは2013年3月に皇太子府長官(大臣のランク)に任命されている。

図3 アブドッラーファイブ-国王の有力な息子たち

こうした一連の人事の中で、アブドッラー国王の息子たちが要職に任命されるようになったのが目立っている(図3)。アブドッラー国王の息子のミタブは2010年11月に国家警備隊司令官に任命された。2013年5月に国家警備隊の組織が国家警備隊省に改編されるとミタブが大臣に任命され引き続き、国家警備隊の指揮をゆだねられた。

アブドッラー国王の別の息子のアブドルアジーズは2011年7月に外務副大臣に任命された。アブドルアジーズは国王の息子ということもあり、外交の重要な局面で活躍することが増えている。現在のサウード外相は1940年生まれで、今年で75歳になる。外務大臣のポストは外遊などで体力を必要とすることを考えれば、アブドルアジーズは将来、外務大臣になる可能性があろう。

サウジアラビアの地方の知事職の中では首都を抱えるリヤード州知事と聖地のあるメッカ州知事が重要である。そのメッカ州知事に2013年12月に国王の息子のミシャールが任命されている。ミシャールはそれまでナジュラーン州知事を務めていた。2014年5月には、リヤード州知事にはトルキーが任命されている。2006年以来サウジ赤新月社(赤十字社)の社長を務めているファイサルと合わせると、アブドッラー国王の5人の息子たちが政府の要職に就くようになったのである。筆者は、その5人について「アブドッラーファイブ」と名前を付け、その動向に注目している。

2011年にアラブの春がはじまり、シリアで内戦が始まると、アブドッラー国王は2013年7月にバンダル・ビン・スルターンをNSC事務局長兼務のまま諜報部門GIP長官に任命し、対シリア政策を担当させた。バンダルは第3世代の中ではイランやシリアに対する強硬派として知られていたが、当時NSCの事務局長補佐をしていた弟のサルマーン・ビン・スルターンとともに、シリアの反アサド勢力への支援を進めたのであった。バンダルが対シリア政策の最前線にいた時には、アメリカとの軋轢も目立った。

新しくなった現在のサウジアラビアの王政指導部の中では、ムハンマド内相は治安面でアメリカと協力してきたことが知られている。国家警備隊大臣のミタブは2014年11月にはアメリカを訪問しオバマ大統領と会談するなど、アメリカとの関係改善に取り組んでいる。第3世代の時代になっても、アメリカとの協力関係は継続するものと考えられる。

結びにかえて

以上見てきたように、2011年以降、サウジアラビアの政治構造は大きく変化してきている。スディリーセブンが消失し、代わって第3世代の王族が、政治の中心で役割を強めている。第3世代の王族の中では、アブドッラー国王の子供、サルマーン皇太子の子供、ナーイフ前皇太子の子供たちが目立っているが、中でアブドッラー国王の子供たちが存在感を増している。

サウジアラビアでは、国王に人事権を含む権限が集中している。アブドッラー国王の治世が当分続くとすれば、アブドッラー一家の力がさらに増していくことは間違いがないと思われる。

(2015年1月5日脱稿)

追記

本稿を脱稿した後に、サウジアラビアの権力構造に2回大きな変化が起きた。追記の形で、その変化について記しておきたい。

第1回目の変化は2015年1月23日未明にアブドッラー国王が死去し、同日、サルマーン皇太子が新国王に即位したことである。サルマーン国王は、即位すると間髪を置かずに、異母弟のムクリン副皇太子を皇太子・副首相に指名した(表1)。

ムクリンを副皇太子に任命したのはアブドッラー前国王であった。ムクリンはアブドッラー前国王の異母弟ではあったが、前国王に近い立場にあったため、サルマーンが国王になるときにはムクリン副皇太子を皇太子に指名するかどうか不透明なところがあった。ムクリンの皇太子への指名は穏当な人事である。

続いて、同じ23日にサルマーン国王は、ムハンマド内相を副皇太子・第2副首相に指名した。ムハンマド内相は、故ナーイフ元皇太子・内相の息子である。ムハンマドを副皇太子・第2副首相に指名したことは、2つの点で特筆される。

1つは、ムハンマド内相が初代国王の孫の世代、いわゆる第3世代にあたることである。1953年にアブドルアジーズ初代国王が死去した後、王位は初代国王の子供の間で、つまり、兄弟間で継承されてきた。ムクリン新皇太子は初代国王の男子の中では最年少であり、ムクリンが皇太子になったことで、王位継承のラインは孫の世代に移ったことになる。その初めての孫の世代の王位継承候補としてムハンマド内相が選ばれたのである。

アブドッラー国王の死去によって、王位継承の可能性があるその他の第2世代の有力王族などを含め、将来の王位継承をめぐる権力争いが強まる可能性があった。即位したサルマーン国王は直ちに、皇太子任命と同時にムハンマドの副皇太子・第2副首相への指名を発表し、第3世代へ王位を継承しムハンマドをその最初の候補とする考えを示し、王族間に権力争いが起こることを防ごうとしたものと思われる。ムハンマド内相は副大臣時代も含めて長い間、サウジ内務省を指揮し対テロ作戦を取り仕切り、アメリカとも協力関係を築いてきた。ムハンマド内相の実績からみても、妥当で現実的な選択であると考えられる。

ムハンマド指名の特筆の2つ目は、ムハンマド内相はスディリーセブンの系列に属することである。ムハンマドの副皇太子・第2副首相への指名によって、王族間の力のバランスがスディリーセブン系の王族に有利になる可能性がある。

スディリーセブンの一人であるサルマーン国王(即位前は国防大臣兼務)は、自らの即位で空席となった国防大臣のポストに息子のムハンマドを任命した。ムハンマドは、同時に王宮府長官も兼ねることとなり、一躍、権力の中枢に躍り出た形となった。今後のムハンマド国防相の動静が注目されよう。

サルマーン国王は即位した日に、アブドッラー前国王の政策を引き継ぐことと、閣僚は全員再任することを発表した。王政の安定と、石油政策やアメリカとの協力関係の継続性を訴えたものである。

今年になってからの第2回目の変化は、サルマーン国王が閣僚の全員再任を発表していたにもかかわらず、発表の6日後の1月29日に大幅な内閣改造と知事の交代などの人事が実施されたことである。その人事では、大臣13人が新しく任命され、また、リヤード州知事、メッカ州知事などが交代させられた。

それまでリヤード州知事であったトルキーはアブドッラー国王の息子であり、メッカ州知事だったミシャールもアブドッラー国王の息子である。両知事は、アブドッラー国王によって近年任命されたものである。新しいメッカ州知事には前メッカ州知事のハーリド・ビン・ファイサルが復帰しているので、今回の知事の人事は、前国王が2人の息子を知事に任命したことを取り消す意味が強いと思われる。サルマーン国王の時代になって、早くもアブドッラーファイブが崩されたことになる。

知事職ではアブドッラー前国王の息子2人が解任されたが、新任の大臣でもサルマーン国王とムハンマド国防相に近い大臣が増えている。今回の内閣改造は、内閣におけるサルマーン国王の指導権を強める狙いがあったものと考えられる。新教育大臣になったAzzam Al-Dakhilは、ムハンマド国防相が設立したPrince Mohammed bin Salman bin Abdul Aziz Charity Foundation (MISK)を取り仕切っていた実務家である。そのことからは、今回の人事では、ムハンマド国防相・王宮府長官の影響力があったことがうかがわれる。

また、アブドッラー前国王の下でGIP長官を務めていたハーリド・ビン・バンダルがGIP長官を解任され、NSC事務局長のバンダル・ビン・スルターンも解任され、それぞれ別の人物が任命されている。ここでも、アブドッラー国王に近かった人物が要職を解任されているのである。全体的に見て、1月29日の人事は、アブドッラー前国王一家の影響力を削ぎ、サルマーン国王一家の影響力を強めるものとなっている。

アブドッラー前国王は、世界貿易機関(World Trade Organization: WTO)への加盟を進め国内の経済改革に取り組み、政治改革や女性の地位の向上を進めようとしたため、漸進的な改革派との評価を受けている。しかし、新たに発足したサルマーン国王の体制では、今回の内閣改造によって改革色が少し弱まり、保守的で宗教界寄りの姿勢が見られるようになっている。サルマーン国王の政治の方向性はまだ不透明であるが、今後、保守的で宗教界寄りの姿勢が強まっていく可能性もある。

サルマーン国王一家とアブドッラー前国王の一家のライバル関係も注目される。なかでも、当面焦点となるのは石油鉱物資源大臣と外務大臣のポストである。

石油鉱物資源省では、ファハド元国王の時代にサルマーン現国王の息子のアブドルアジーズが副大臣に任命されていた。しかし、アブドッラーが国王に即位した2005年に、アブドッラー国王はアブドルアジーズを大臣補の立場に格下げした。アブドッラー国王が、アブドルアジーズが石油大臣に就任することでスディリーセブンの影響力が強まることを警戒したことがあったものと思われる。今回の1月29日の人事では、サルマーン国王はアブドルアジーズを石油鉱物資源省の副大臣に任命した。近い将来、石油鉱物資源大臣に任命するための布石との見方もできよう。アブドルアジーズが大臣になれば、内政でのサルマーン国王一家の発言力がさらに増すことは確実であろう。

外務省では、アブドッラー前国王の息子のアブドルアジーズが外務副大臣を務めている。サウード外相は高齢であり病気も抱えている。今年1月にはアメリカの病院で背骨の手術を受けている。サルマーン国王が、今後、アブドルアジーズを外務大臣に任命するかどうかが注目されよう。

サウジアラビアの今後の内政では、サルマーン国王一家とアブドッラー前国王の一家のライバル関係に加えて、イスラーム過激派によるテロの可能性があるなど、不安定化要因が存在している。また、新しく皇太子になったムクリンの権力基盤が弱いことも、若干、気になる点である。アブドッラー前国王は国家警備隊を掌握し、スディリーセブンの圧力をはねのけて国王になることができた。ムクリン皇太子はどのようにして影響力を維持していくのであろうか、当面、内政の動きを注意してみていくことが必要であろう。

本文の注
1  サウジアラビアのアブドッラー国王やその他の政府指導層の生年については、資料によって異なることがある。研究上は、政府指導層の生年については定まっていない。本稿では、主には、サウジアラビア政府資料に記された生年に基づき年齢を計算した。

2  福田安志編 2007.『湾岸、アラビア諸国における社会変容と国家・政治-イラン、GCC諸国、イエメン-』 アジア経済研究所. 127-145.

3  規則として発布されるものには、例えば、労働関係の法律、商活動に関する法律、予算、人事に関するものなどがあり、多岐にわたる。

4  中東調査会 1979.『中東北アフリカ年鑑 1979-80』 財団法人中東調査会.340.

5  The Military Balance 2012, International Institute for Strategic Studies, 2012, London.

6  なお、2014年3月に副皇太子になったムクリンについては、NSCの構成員かどうか確認できなかったが、構成員である可能性が高いと思われるので、図2の中では( )付きで名前を記載しておいた。

 
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