Middle East Review
Online ISSN : 2188-4595
ISSN-L : 2188-4595
Transformation of the “Privileged Companies” in Post-revolutionary Iran : ―A Case Study of Mostaz`afan Foundation―
Keivan Abdoly
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2016 Volume 3 Pages 74-95

Details
Translated Abstract

It is a well-known and well-studied fact that after the 1979 revolution, Iran’s economy went through a process of fundamental change and as a result a totally different economic system was established. Among the most remarkable changes was the emergence of so-called para-statal organizations, which were supervised by some institution within the state, while not being controlled by the government. Because of their politically strong position, they enjoy many privileges such as tax exemption or easy access to credit.

Although deeply regarded as one of the most striking features of the post-revolution economic system, published studies about para-statal entities have been very limited so far. In this paper, I will focus on one of the biggest para-statal organizations, Mostaz`afan (Oppressed) Foundation. I will attempt to examine the historical and political background behind the formation and transformation of this conglomerate, its system of corporate governance, and its economic scale and scope over the past 35 years.

Para-statal conglomerates together with state owned companies are going to be the two most important pillars of Iran’s economy in the foreseeable future. Understanding their history will not only help us learn about the current economic system of Iran, but also give us some insight into the future of the economy, too.

はじめに

発展途上国における近代企業の発展とその構造は、体制側のイデオロギーと政策、また国家の権力構造に規定を受けるが、イランの場合とりわけその傾向が強かったといえる。イランでは西欧の経済的進出が進む19世紀後半に近代企業と呼ぶべきものが登場するものの、現地企業の発展がみられるようになるのは、国王によって「白色革命」と呼ばれる近代化政策が進められた1960年に至ってからである。その後、国王の開発独裁による発展が目指されたことで、オイルショックの影響も加わって高度経済成長の時代を経験した。

この時代、経済成長を担ったのは政府の強い支援を得た民間資本であり、とりわけ王政との関係が深い一部の企業は、繊維や食品、また自動車産業をコアに事業の多角化をはかり、「コングロマリット化」して急成長を遂げていった。1970年代半ばになると、これら企業は政府の政策に注文を付けることができるほど存在感を増し、政府もこれら企業の意向を無視できないほどに規模を拡大していった。しかし国王が独裁化を強めたことで、企業が政策に強い影響力を及ぼすには至らなかった。

1979年のイラン・イスラーム革命は、この国家と企業の関係を一変させた。革命政府は外国資本を国外へ退去させ、民間の大資本はほぼ例外なく没収され国有化された。その後、革命政権は混乱した移行期を経てイスラーム体制として基盤を固め、革命前の開発独裁に代る政治経済のシステムを確立させていったが、この過程で支配的地位を確立したのが国営企業であった。その一方で新たな政治エリート層を中心に企業家層も登場し、多くの利権を手に入れた。

革命前の資本家は一掃され、国営企業と政治的影響力をもつ民間の企業が成長をはじめたが、この時代をある意味でもっとも特徴づけているのは、多くの特権を付与された「特権複合企業」の出現と発展である。「モスタズアファーン財団」、「イマーム・レザー聖廟財団」、「ハータム・アル・アンビアー」等がそれであり、政府と特別な関係を築くことで特権を得て、急成長した。

これら企業は、強い権限をもつ最高指導者や「革命防衛隊」のような強力な政治力をもつ制度の支配下に置かれ、その分政策に一定の影響力を及ぼすことができた。また外国企業や民間企業がきわめてぜい弱な状況下で競争相手は国営企業しかなく、その政治力を背景にして「特権複合企業」は経済活動の規模を拡大し、市場支配率を高めた。ただこれら「特権複合企業」は政治との関係や経済活動の領域が一様ではなく、これまでそれぞれに固有の軌跡をたどって発展してきた。

本論では、イスラーム共和国体制下で生まれた特権コングロマリット(特権複合企業)がどのように形成され発展してきたのか、またイスラーム共和国体制下の権力構造が時代的に変容するなかで、彼らが体制とどのように関わり権益を守ってきたのかについて、最も規模の大きい「モスタズアファーン財団」に焦点を当てて明らかにする。

第一章では財団が抱える2つの問題、つまり政府との関係を制約している制度的問題と、この財団のもつ性格、「営利企業か慈善団体か」という複合的な性格が特徴づける政府との関係に焦点を当てる。また第二章では、特権複合企業としての財団の経営そのものに焦点を当て、統治の概要を示し、規模が拡大する中での経営戦略の変遷を検証する。

1. モスタズアファーン財団と政治権力

イランでは革命後に新しい国家体制が構築され定着していく中で、最高指導者、行政府、議会などの国家制度が膨大な資産と権益を持つモスタズアファーン財団のコントロールを巡って牽制し合ってきた。またそこには各政治派閥による権力闘争や経済情勢の変化も絡んでいた。そしてさらに財団を規定する法的整備が不十分だったことも大いに関係していた。本稿では財団のコントロールを巡る政治的駆け引きを述べた後、財団を規定している法律の変遷についても説明する。

(1) 財団発足からホメイニー師死去まで:革命組織

1979年革命成就の後のイランでは、王政体制から新体制への移行が意外に順調に進んだ。革命勢力には王政体制崩壊後の十分なプランはなかったものの、なるべく早く前体制を支えた制度や組織を解体し、政治エリートおよび軍事エリートを排除しようとした。彼らは官僚制度、警察や国軍などを「浄化」しながら活用しようとしたが、それでも軍隊や司法を完全に信用せず、半ば自然発生的に新しい制度や組織を併設した。「革命組織」1と呼ばれるようになったこれらの組織には、「革命防衛隊」や「革命法廷」のように治安維持を任務とするものが多かったが、同時に「建設聖戦隊」や「モスタズアファーン財団」のように貧困者支援や経済再建活動によって新体制を経済的な側面から支えるものもあった。これらの組織の中で最も早く創設されたのが「モスタズアファーン財団」である。

1979年2月11日の革命勝利から10日後に、「臨時政府」2はパーレビー王室の資産とパーレビー財団3の資産を管理するために「アラヴィー財団」を設立し、資産の保護と管理に乗り出した。ところが数日後に、革命の指導者であるホメイニーは「革命評議会」4宛に勅令を発し、「パーレビー家と関係者」の資産を「貧困者、労働者および弱い給与者のために」利用するように命じた。この勅令には財団設立の指示が明記されていなかったものの、資産の管理を「政府ではなく、革命評議会の責任とする」5由明確に命じていた。ホメイニーは官僚的組織ではなくイスラーム世界に根差したワクフのような制度を想定していたものと思われる。そこで「革命評議会」は、その資産を管理するために「モスタズアファーン財団」の設立を決定した。この勅令では、ホメイニーがパーレビー家の資産を「戦利品」と呼んでいることも非常に重要なポイントである。後で詳しく述べるが、ホメイニーはこの用語を政治家ではなくイスラーム法学者として用いており、イスラーム法学では戦利品の管理がイスラーム共同体の宗教的指導者に任せられるべきだという見解が支配的であることから、政府はこの財産の管理に関わる正当性がないという見解が読み取れる。

ホメイニーが貧困層や社会的弱者の救済メカニズムに関して具体的なことを想定していたかどうかは別として、モスタズアファーン財団の設立は人々の間に大きな期待を抱かせ、それは当時のメディアにも表れた。革命指導層にも、積極的に革命に参加した貧困層の要望に応えなければならないという意識が強かった。しかし実際には、革命直後に経済が大不況に陥り、財団傘下の企業の経営状態も急速に悪化、財団には膨大な資産があってもあまり収益が上らなかった。しかも、近代的企業の経営の経験がない革命家たちには、設立されたばかりの大組織を効率よく運営する能力がなかった。そこで財団は期待に反して目立った活動ができなかっただけではなく、不透明さのために腐敗の温床になっているという疑念も持たれた。この状況にホメイニーは、「モスタズアファーン財団はモスタクベラーン(=圧政者)のための組織になっているのか」と財団幹部を強くたしなめ6、財団に財務状況の公開を命じた。

ホメイニーの命令を受けて1980年4月21日に財団のハームーシー総裁は記者会見を開き、簡単な財務報告書を公表したが、世論や諸政治勢力と同様ホメイニーもそれに納得せず、調査委員会の結成と財団の内部調査を命じた。調査委員会の報告書は、杜撰な経営によって多くの傘下企業が赤字に転落していることを指摘し、財団運営の改善を求めたが、しかしこの報告書は財団運営の改善として具体的に何を指しているか明確ではなかった。結局、抜本的な対応を余儀なくされたホメイニーは自らが「革命評議会」宛に出した命令に反するかたちで、その年の9月に就任したばかりのラジャーイー首相を財団の最高責任者に任命し、財団の管理を事実上政府に任せた。この決断は財団にとって1つの転換点となった。首相は自ら財団の経営を担うわけではなく、副首相を兼務したキャリーミー・ヌーリー総裁代理を実際の経営に当たらせた7

首相が総裁になっても、財団は制度上は政府の管轄下に置かれることなく、「革命組織」として活動を続けた。ラジャーイー首相もこの点に留意し、財団業務を法制化することに意欲を示し、そして最終的に財団を政府の管轄下に置く計画も明かした8。しかし、首相が目指した財団に関する法律の整備計画は、実際には進むことがなくお蔵入りとなった。一方、その間、経済エリートなど前体制時代のエスタブリッシュメントの資産が次々と革命法廷の判断によって没収または差押えられて財団の管理下に置かれるようになり、財団の資産規模は膨張を続けた。そこで財団の経営陣にもこの膨大な資産を有効に使うべきだという意識が強まった。総裁代理のキャリーミー・ヌーリーは、財団の方針として「住宅をつくる前に工場をつくるべきであり、救済よりも職の創出のために製作所や工場の建設を考えるべきだ」と公言し、明らかに営利活動重視の経営方針を示した9

ヌーリー総裁代理は2年間しかそのポストに留まることがなかったが、財団が「営利企業か慈善団体か」という「組織の存在意義」を強く意識していた。そして前述のとおり、「企業」としての活動を重視した。これに対し、ラジャーイー首相は、この問題に関して全く別の(財団は慈善団体であるという)見解を示していた。1981年に首相に就任したムーサヴィー(在任:1981~1989)は、その翌年の9月にキャリーミー総裁代理を解任し、後任のタバータバーイー新総裁代理に「財団は、その名前も示しているように、巨大な経済・金融コングロマリットを目指すのではなく、正確かつ集中的な計画に基づいてすべての資源を被抑圧者のために傾けるべきである」と指示した10。しかしこの指示にもかかわらず財団は営利活動も拡大していった。

ところがその後、政府にとっても営利企業としての財団の存在価値が徐々に高まっていった。当時、経済制裁と対イラク戦争の遂行が大きな経済負担になっていたところに原油価格が急落し、財政の運営が非常に困難になっていた。したがってムーサヴィー首相としても、すでに巨大な「コングロマリット」になっていた財団の資源を利用せざるを得なかった。首相が1985年2月にテクノクラート志向の強い予算企画庁次官のマザーヘリーを財団の総裁代理に選任したのはそのためであるかもしれない。マザーヘリー総裁代理は、財団内部組織の再構築と傘下企業の債務問題や資金不足の解決に集中すると同時に積極的に投資活動も拡大した。これは恐らく悪化する景気の下支えのために政府との協調下で行った対策であっただろう。

いずれにしても、首相による財団の管理は1989年まで続いた。首相が財団の最高責任者となったことによって政府と財団の間の調整がスムーズに行われるようになったことは間違いない。しかし、政府と財団との関係が法的に明確にされなかったために、政府がどこまで自らの意思を財団に強制できるかは、最後まで明確にならなかった。

(2) ハーメネイー時代の財団:最高指導者管轄下の組織

1989年はモスタズアファーン財団にとって大きな転換点となった。創設からほぼ10年が経ち、財団は膨大な資産を所有または管理するようになっていた。その中には採算性の悪い資産も多く含まれていた。しかし恐らく国営イラン石油会社(National Iranian Oil Company: NIOC)を除けば、モスタズアファーン財団は資産の規模にしても従業員の規模にしても他のすべての経済組織体を凌駕していた。1988年に対イラク戦争が終結し、その年から翌年にかけてイランの政治経済状況が大きく変貌したことも、財団に重要な影響を与えた。戦後の経済再建が最優先課題となり、多くのビジネス・チャンスが予想された一方、イスラーム共和国の存在を脅かす要因が消えたことで、「革命組織」はその存在理由を失った。「革命委員会」や「建設聖戦隊」などいくつかの革命組織は国家機関と統合されるなどして徐々に「普通の組織」に変貌し、財団も「革命組織」から脱皮できるかどうかが問われるようになった。

ところが、戦争終了後の1988年11月、ムーサヴィー首相はホメイニーの指示によって傷痍兵士の治療や生活支援を財団の業務とし、財団の名称も「モスタズアファーンと傷痍兵士財団」に変更した。これは財団にとって新たな責務となっただけではなく、財団の存在意義の問題をさらに複雑にした。他方、一般国民は財団が祖国と革命の防衛のために自らを犠牲にした傷痍兵士の医療費を負担し、彼らの生活を支えるべきだと強く望んでいたが、しかし財団はその責任を十分に果たせなかったために1990年代に度々激しい批判にさらされることになった。

イラン・イラク戦争後には憲法の改正も行われ、最高指導者の権限は大幅に強化された。また首相のポストが廃止され、大統領が内閣の責任者になった。偶然にも新憲法が国民投票にかけられる前の1989年6月4日にホメイニーは亡くなり、新憲法の実施と共に、イランには新最高指導者と新大統領が誕生した。そこで財団が新しい時代に入る条件が整った。首相のポストがなくなることで、新最高指導者は過去の慣例にとらわれずに新しい総裁を選ぶことができた。ところがハーメネイー新最高指導者は宗教的権威も政治的カリスマ性も前任者のホメイニーよりはるかに弱かったため、自らの地位を固めるためにすべての手段を使わざるを得なかった。そしてその手段の1つが財団に対する監督権であった。

1989年9月6日、ハーメネイー新最高指導者はモフセン・ラフィーグドゥーストを財団の総裁に任命した。ラフィーグドゥーストは、以前の財団の経営者と違って政治的に「大物」と言える政治経歴を持つ人物であった。彼は、革命前に政治犯として収監された経験を持ち、革命後には革命防衛隊の創立者の1人として名を連ね、そして最初の革命防衛相を務めた。彼は政治的には明確に保守勢力を支持していた。ラフィーグドゥースト新総裁は、「西洋型資本主義に対して嫌悪感をもっている」と発言して反資本主義的な立場を強調しながらも、基本的に自由な経済活動と経済合理性を重視し、政府の経済規制の緩和を求めた。後でみるように、ラフィーグドゥーストは積極的に財団を変革し利益重視の経営を定着させようとしたが、マクロ経済が不安定化し、権力闘争も激しくなり、さらに貧困層や傷痍兵士への支援不足の問題や金融スキャンダルの発覚によって財団に対する逆風が激しくなって、結局財団の改革は道半ばで終わってしまった。しかしその一方、財団と政府との関係には1つの明確な決着がつき、財団は最高指導者監督下の組織として政府から完全に独立した存在となった。

ラフィーグドゥースト総裁の任期中に財団に対する一般的なイメージが非常に悪化したことは、財団にとって大きなマイナス要因となったが、後述するように、彼の在任期間中に傘下企業の整理・統合が進んだことは、ラフィーグドゥースト総裁の業績として認めるべきである。後任のモハンマド・フォルーザンデは、ラフィーグドゥーストと同じく革命防衛隊出身で、防衛相も歴任した人物だが、前任者と比べてテクノクラート肌で政治欲が余りないようにもみえた。そのためか対外的な発言も非常に少なく、とにかく財団の内部改革に力を集中し、事業の再構築と財団経営の効率化に着実な成果を挙げた。財団の内部リストラクチャリングについての説明は後に委ねるが、フォルーザンデ総裁の1期目の任期中(2003年2月)に、ハーメネイーの決定によって傷痍兵士業務部門がモスタズアファーン財団から分離されて「殉教者財団」に移管された。この決定によって財団の経済的・倫理的負担が軽くなっただけでなく、財団の存在意義という問題も一部解決した。傷痍兵士部門の分離はハーメネイーの決定だったが、恐らくフォルーザンデ総裁の積極的な働きかけもあったものと推測できる。

(3) 財団の法的地位と政治的環境

以上で財団と政府や最高指導者との関係の変容や財団の存在意義の問題の変化について述べてきた。しかしその根底には財団を規定する法律の未整備や曖昧さという問題が存在していた。つまり財団と最高指導者や政府など国家諸制度との関係や、財団内部の統治システムを明確に規定する法律は存在しないか不足していた。その結果生じた弊害の1つは長い間、財団経営の説明責任も透明性確保もないがしろにされてきたことである。

英語ではよく、財団のことをPara-governmental11あるいはPara-statal12と表現している研究者がいる。これらの用語は、要するに資産が国有でありながら政府から独立して経営を行っている組織のことだと言える。しかしそもそも財団は「国有」ではない。先述した財団の設立根拠となっている「革命評議会」宛のホメイニーの勅令において,ホメイニーがパーレビー家の資産を「戦利品」と呼んでいるが、この用語はイスラーム法学の厳密な判断に基づいて引用されている。シーア派イスラーム法学では、戦利品はイスラーム共同体に属するものであり、預言者やイマームに管理されると定められている。そしてイマームが不在の時には、その代理としてイスラーム共同体を主導する「ワリー・ファギーフ」がそれを管理する権利がある。つまり戦利品である財団の資産は国有ではなく、「ワリー・ファギーフ」に管理権があるイスラーム共同体の所有物である。

ところが実際には、イスラーム共同体のイマームの管理下にあった財団の運営は多くの問題に直面し、結局「イマーム」がその管理を政府行政の責任者である首相に任せた。宗教的にも政治的にもホメイニーの信奉者であった当時の首相でさえも、財団を制度的に政府の管轄下に置こうとした。これは、彼らがホメイニーの見解に反していたわけではなく、恐らくワリー・ファギーフ管理下の資産と国有資産を区別する必要がないと思っていたのであろう。しかしイラン・イスラーム共和国の歴代最高指導者は、その区別を厳格に行ってきた。

一方、財団の管理下にある資産の性格を巡る議論を尻目に、財団は広範な経済活動を行い、膨大な資金と資産を運営してきた。その経営陣は、財団が革命組織であり革命指導者に対してのみ説明責任があるという主張を盾に、経営の実態に関する情報の公開を拒んできた。それは財団を規定する法律が何もなかったからである。財団は設立時において「非営利団体改正法規」に基づいて登記された。この法規は、主に1950年代に設立が相次いだ慈善団体や市民的な文学研究団体などの非営利団体を規定するために制定されたもので、財務状態の公開を義務付けるような規定はほとんど盛り込まれていなかった。しかし、慈善団体として発足したモスタズアファーン財団は、日増しに活動が膨張していく中で本質的に非営利団体ではなくなっていた。

財団が膨張していくに連れて、財団に法的規制を設けようという動きもみられるようになってきた。政府側は、前述のようにラジャーイー首相が財団の総裁となった際に法整備に意欲を示したが、その後実質的な動きはなく、政府全体も財団の曖昧な法的地位によって都合がよくなったことなったこともあって法整備に対する意欲を失ってしまった。つまり財団には議会などに対して説明責任がないために、政府は財団の資源を自由自在に利用することができた。他方、イスラーム・ショウラー議会は何度か財団に規定を設けようとした。例えば議会は、1981年度の国家予算法の中で、政府に財団を「完全に監視」させ、4か月以内に財団の資産(動産と不動産)と財務状況に関する報告を議会に提出するように義務付けた13。この条項は実際には実施されることがなかったが議会からの圧力は止まず、ムーサヴィー首相は1982年9月に自ら財団の本部に出向いて、新総裁代理に財団の傘下企業やその他の団体に関する「厳格かつ迅速」な会計検査の実施を命じた14。その後も議会側からの働きかけは続き、1983年度の国家予算法は、第28条で、再び財団の資産報告と財務表の提出を求めた上、財団の新しい定款の作成と提出をも義務付けた15。そして1983年に制定された「会計局設立法」の「義務条項」にはモスタズアファーン財団の財務および会計調査が明記されたが、会計局は結局この義務を履行することができなかった16

ところで法整備の傾向をみると、1984年以降には議会側も財団の説明責任や透明性の確保に関して意欲を失ったようである。確かに政府や議会にしてみれば、財団は革命指導者の勅令によって設立された革命組織であって、一定の革命的正統性を持つ組織だったのであろう。しかし、政府にしても議会にしても、財団の革命的正統性とは関係なく、現状を維持するほうが理にかなうと判断したとも考えられる。その理由の1つには、経済制裁下で対外戦争を遂行しなければならないのにもかかわらず原油価格も急落している状況で、財団の改革を求める時期ではないという現実的な判断があったからだろう。しかしそれだけでなく、財団の規模が大きくなるにつれて政治力も増し、例えば議員の選挙区での投資や議員個人に対する利益供与という手段を通じて国会にも影響を及ぼすようになっていたことも関係していただろう。これ以降事実上、財団に関する法整備の動きはしばらく停滞した。後でみるように、直接税法の適用に関連してモスタズアファーン財団が「革命組織」であるかどうかについての政府の閣議決定がなされただけである。

1988年から89年にかけての激的な変化を経て、イランの政治・経済は新時代に突入し、当初の予想に反して、この後の10年間は政治的にも経済的にも激動の時代になった。そして財団はその中心に位置していた。経済復興を目指したラフサンジャーニー政権は、価格や対外貿易を部分的に自由化し、一部の国営企業の民営化も図ったが、対外債務が累積し、これが高いインフレを引き起こす原因となって経済は大混乱に陥ってしまった。政府は元々経済再建に向けた財団の貢献に非常に期待していたが、国家の財政状況が悪化するとその期待はますます膨らんだ。一方、1997年の発足直後に原油価格の急落によって大きな財政的打撃を受けたハータミー政権にとっても、財団の協力は欠かせないものとなっていた。しかし権力闘争が激しさを増していたその時代に、保守派の牙城と化していた財団と改革派のハータミー政権との間には相容れないところが多々存在していた。そもそも、1981年にホメイニー支持者のイスラーム主義勢力がライバル勢力を排除して政治権力を完全掌握してから間もなくそのイスラーム主義勢力の間に亀裂が生じ、主に経済政策を巡って左派と右派が対立を繰り広げた。そしてこの対立は、1990年代半ばになると経済政策の領域を大きく超えて、政治、文化、外交などの領域にまで展開し、改革対保守という図式にかたちを変えながら一段と激しくなっていた。

1990年代初期にラフィーグドゥースト総裁は財団の運営方針を大きく変えて、企業としての利益や事業の採算性を重視し、利潤を追求する体制にしようとしたが、このことは広く物議を醸した。これは彼が明確に保守派勢力を支持していたことと無関係ではない。財団の新しい方針を是とする保守勢力と「被抑圧者」への奉仕を置き去りにしていると批判する勢力の対立が、当時よく新聞紙面を賑わせた。特に、財団は傘下企業の再構築に大きな資源を投入し結果、数十万人に上る「傷痍兵士」の治療支援や生活援助という任務が疎かになり、その結果、世論も財団批判の方に大きく傾いていた。さらにそれに追い討ちをかけるように1995年に総裁の名前が経済スキャンダルで大きく報道され、財団とその総裁は窮地に陥ったのである。結局、世論とライバル勢力による批判が激しくなると、議会が行動を起こして財団の内部調査を行うことにした。議会の報告書によると、財団側が調査チームに非協力的だったため調査そのものが非常に不十分なものだったとのことであるが、それでも限られた調査案件(合計300の案件)の中でも疑わしい取引が多数みられ、最高指導者への決算報告も粉飾されていた箇所が確認されたという17。そこで財団の特権的な地位の剥奪や活動の透明性強化といった要求が強くなり、特にハータミー政権誕生の後、報道環境が比較的に自由になったことで、財団に関する批判的な報道は急速に多くなった。

財団に対する批判が強まる一方で、財団に関する一部の法制化が進んだ。その中には財団の説明責任や透明性の向上に逆行する法律もあった。第2次五か年計画(1994~1999)の第98条は、議会の「第88条および第90条委員会」に対し、毎年モスタズアファーン財団を含む一部の「革命組織」の内部を調査して、その報告書を最高指導者と議会に提出することを義務付けた。仮にこの規定が実行されれば財団の透明性はかなり向上していたはずだったが、改革派が選挙に勝利したことで議会による財団の調査権には制限が掛けられるようになった。前に述べたように、1990年代半ばには議会は憲法に定められた「国家のすべての事柄に関する調査権」を駆使し、財団の内部調査を行って、そこにはびこっている腐敗などの様々な問題点を明らかにしてきた。しかし2000年に改訂された「議員規則」によって議会は最高指導者の許可なしにその監督下の組織の調査を行えなくなり、議会による財団の調査は事実上不可能になった。

全体として1990年代には世論からの批判が高まり、一部の政治勢力からの圧力も強まってモスタズアファーン財団にとっては厳しい10年間になったが、制度的な観点からみると、財団は最高指導者の監督下の組織という地位を固めて、政府からの独立を確かなものにした。そしてモハンマド・フォルーザンデ総裁の時代までに、財団が政府や議会の目をあまり気にせずに独自の路線を追求できるような土台が整備された。1999年からのフォルーザンデ時代には、組織の長期的な利益を念頭に経営の透明性を強化すべきであるという戦略的な判断がなされた。また2000年頃から報道に対する制約が再び強まり、司法の取り締まりを恐れた新聞など活字メディアは財団に対する強い批判報道を控えるようになった。

2. 巨大複合企業としてのモスタズアファーン財団

モスタズアファーン財団は、巨大な複合企業であることが前提になって初めて政治権力との緊密な関係が特別な意味を持つ。前節で述べたようにモスタズアファーン財団は慈善団体であるか営利企業であるかという「存在意義の問題」を抱えながら経済的利権と活動を広めていくような経営を行ってきた。

(1) 財団の統治と総裁の役割

モスタズアファーン財団は法人としての特別な形態をもっているためにその統治の仕組みも普通の企業(国有でも私有でも)と大きく異なる。財団は株式を発行していないために経営者は株主に対して説明責任を負わない。また財務状況の報告も義務付けられていない。もちろん株式市場に上場している傘下企業は財務状況を株主と当局に報告する義務を負っているが、それは財団全体に及んでいるわけではない。財団の内部の仕組みはその定款によって規定されている。財団の定款は1979年の設立から現在まで4度改定されているが、一時イスラーム・ショウラー議会に強く求めていたにもかかわらず財団の定款は一度も議会を通過してない。その意味では同じ「革命組織」として発足した「住宅財団」とも「殉教者財団」とも異なる。

モスタズアファーン財団の最初の定款は1979年6月に作成され、「革命評議会」の承認を得て効力を持ったが、それから4度も改定されて、その最新版は2004年のものである。その内容を比較してみると、決定的な変化は、1979年版の第4条において財団が「法人であり、財政的に独立している」となっていたところに、2004年版では「最高指導者の監督下に置かれている」という文句が書き加えられたことである。一方、設立委員会、最高評議会、総裁、法務評議会、財務監督員、監査員と会計員から構成されていた財団の複雑な運営体制は非常に簡素化され、現在は、理事会、総裁そして監査・会計委員のみになっている。また目立っているのは総裁の権限強化である。当初の定款でも総裁は「財団の運営に必要とされるすべての権限」を有するとされていたが、2004年版では、例えば「国内外における企業の設立、合弁、規模拡大や解体」、「財団の開発プロジェクトおよび投資計画」や「マクロ戦略の作成」などが総裁の権限として具体的に明記されている。

ハーメネイー時代になってからは、ラフィーグドゥーストが10年間、そしてフォルーザンデが15年間、それぞれ長期間に亘って総裁を務めたので、財団は安定的な経営を行うことができたはずである。しかしその反面、強い権限を持つ長期経営の統治体制は腐敗の土壌になりかねないという危険性もはらんでいる。実際にラフィーグドゥースト総裁時代には財団がネポティズムの温床になったということがよく指摘されている。

一方、財団の総裁は任命権者である最高指導者の意向を強く受けて経営を行わざるを得ない。しかもそれは、財団の戦略や経営の方針だけではなく、具体的な要望にも応えなければならない。例えば、1980年代に財団はホメイニーから指示を受けて当時の司法長官が設立した女性専用の宗教学校の費用を負担したことがある。またラフィーグドゥーストによれば、ハーメネイー最高指導者が地方を訪問した際に約束した施設の建設を財団は優先的に実行してきた。しかしそれよりも重要なことは、総裁が例えば組織のリストラクチャリングなど少なくとも経営の方向性については最高指導者の意向に合わせなければならないということである。ホメイニーにしてもハーメネイーにしても企業経営の経験がないため、特定の支出を指示することはあっても個別な経営判断に関してまで口出しすることはない。しかし、例えばハーメネイー時代に財団の総裁が事業の採算性など財団の傘下企業の経営基盤の強化の方向にかじを切ったのは、最高指導者の意向を受けてのことであった。つまり、総裁の財団統治や経営方針は、最高指導者の意思を汲み取りながらそれを具体化し実行することが必須になる。

さらに総裁の仕事の1つは、政府との調整である。財団はいくつか重要な特権を持っており、民間企業であればなかなかアクセスできない公共事業を受注したり、参入障壁の高い産業に進出したりして、特権的な地位を盾に利益を上げている面が強い。そこで総裁としては、いかに政治権力との繋がりを使って財団の特権と利権を守るかが非常に重要な任務となる。ハーメネイー最高指導者時代に選ばれた3人の総裁が全員大臣歴を持っていることの1つの理由は、ここにあるものと推測できる。

(2) 財団の利権と特権

1970年代のイラン経済は比較的に自由度の高い経済体制だったが、革命後、政府は様々な理由により商品、貨幣、外貨、労働などの各市場において多くの規制を設定し、経済活動をコントロールしようとした。しかし規制が大幅に強化された結果、多くのレント・シーキングの機会が発生し、レントを手に入れた企業はリスクのない利潤を獲得することができた。そしてそのレントの獲得を目指して競争している企業の中で、財団のような特権企業は非常に有利な立場に立った。実際に財団やその傘下企業は、低利融資、安い外貨、輸入独占、関税免除などの様々な優遇措置を受けてきた。また大型公共事業についても優先的に受注してきた。特定の法律の適用から除外される場合もあった。例えば労働法は、議会の決定によりモスタズアファーン財団を含む革命組織に適用されなくなった。またラフィーグドゥーストによれば、財団は入札法の適用からも免除を受けていた18。さらに憲法の規定により国家の独占事業となっていた金融業、海運業や航空業などの分野への進出は財団にのみ許されていた。

しかし数々の優遇措置の中で財団が受ける経済的恩恵の規模が最も大きいのは、納税免除である。そして特権企業が納税免除という恩恵を得た過程は、イランにおける政策決定の一面を如実に物語っている。つまり通常、政府の権限とされている経済政策の決定の場合でも最高指導者は介入することができる1例である。元々1967年の「直接税法」の第2条に納税義務が免除される機関や業種・職種が明記されていたが、1980年代の初期にムーサヴィー政権は同法の納税免除の条項に当てはまる組織を閣僚決議により決定した。その際、「殉教者財団」や「建設聖戦隊」がそこに含まれたが、「モスタズアファーン財団」はリストから漏れていた(その間財団は納税していたわけではないが、正式に納税免除の措置を受けていたわけでもなかった)。しかし、数年後の1988年2月に「直接税法」が大幅に改正され、その第2条では「革命組織」も納税義務を免除されると新たに明記された。そこで政府は新しくこの規定に該当する組織を認定することになり、新直接税法の可決から1年以上も過ぎてから、「イスラーム革命モスタズアファーン・傷痍兵士財団」その他8つの組織を閣議決定により正式に免税措置の対象とした。

2000年代のハータミー政権の第2期目には、石油依存度の高い歳入構造を安定させるために税収を増やす目的で、「予算行政庁」が国会議長を通じてモスタズアファーン財団を含む複数の財団の納税免除制度の廃止を最高指導者に申し入れた。そして彼からゴーサインをもらった後交渉に入り、免税特権を受ける財団のリストを7機関まで縮小することができたが、モスタズアファーン財団はその7機関の1つだった19。政府がなぜ最高指導者に申し入れせざるを得なかったかであるが、2002年2月に直接税法の第2条が改正され、「イマーム・ホメイニーや最高指導者(=ハーメネイー)より免除許可を受けている法人の場合、それを継続するかどうかは最高指導者の意見に委ねる」という条項が加えられたため、最高指導者の承認がなければモスタズアファーン財団から税金を徴収することが不可能になっていたからである。

その後保守派のアフマディーネジャード大統領が誕生し、原油価格が高騰して収入が膨張すると、財政安定化のための改革は忘れ去られてしまった。しかし2011年以降、経済制裁によって石油収入が急減し、国家財政が困窮を極めると、モスタズアファーン財団を含む特権企業からの徴税が再び議論の的となり、2015年の会計年度からモスタズアファーン財団も納税するという結論になった。ただ税率や対象項目が明確ではなく、どのぐらいの税金を納めるか等については全く不明確である。

(3) 財団における経営方針とその変容

財団の経営という観点からその歴史をみると、総体的にいえることは財団首脳の経営ヴィジョンと能力がこの30数年間で相当に成熟したことである。

当初、財団には多くの企業と膨大な資産を効率的に運営する組織力も経営力も備わっていなかった。総裁は次々と交代し、財団の取り巻く制度的条件や政治的・経済的な情勢が安定しなかった。結局、財団経営陣は独自の経営路線を提示することなく、組織内の体制構築や資金不足・原材料不足に陥っている傘下企業の問題解決にのみ集中したのであった。しかしそうしたなかでも、一部では新事業に投資することもあった。財団は1985年までに新しく69の事業を立ち上げ、そのほとんどは中小規模の企業だったが、中には「ボンヤード船舶」のようにその後大きく成長する企業もあった20。マザーヘリー総裁代理は、財団の経営責任者になると事業再編や経営効率化という課題に着手すると明言したが21、ちょうどこの頃から戦況が悪化の方向に転じ、原油価格も下落を続けるなかで結局財団の改革が進むことはなく、条件が整うには戦争の終了を待たざるを得なかった。

戦争が終了し、ハーメネイー最高指導者の体制が誕生した後に総裁となったラフィーグドゥーストは、すでに指摘したように、事業の採算性を基礎にして傘下企業を再構築するという経営路線を打ち出した。ラフィーグドゥーストは近代的経営には精通していなかったが、商人の家庭に育ち、テヘランのバーザールで働いた経験もあって、比較的にビジネスに明るい人物である。また彼は、革命防衛相として国際市場で武器の調達に携わった経験もプラスに働いた。ただし、ラフィーグドゥーストが経営方針の転換を図った理由としては、経営者としてのセンスよりも、ラフサンジャーニー政権が市場志向の自由化政策を導入したことによって、今後財団が従来の寡占的な事業収入に頼れなくなるという危機感によるものであったという分析もある22

採算性重視の経営戦略に基づき、ラフィーグドゥーストは傘下企業を整理・統合し、800社に上った傘下企業を10年間で半分の400社まで減らしたというが23、その多くは生産停止に追い込まれていた中小企業であった。具体的には、財団の「農業・食糧産業グループ」は傘下の企業を114社から72社に減らした24。また、織物・繊維部門の事業整理が積極的に進められた。一方財団は新たな投資を控えたため、一部の工場が閉鎖に追い込まれ、労働者の抗議のきっかけとなったこともあった25

収益性を伸ばすために、財団経営者はその特権的地位をフルに活用した。例えば、本来金融事業は憲法の規定により国家独占の事業とされていたものの、財団は1985年に独自の金融機関(「ボンヤード金融・信用事業体」)の設立を認められた。ラフィーグドゥーストは金融部門の発展を経営方針の柱にし、財団の「公益性」を盾に金融業務の拡大許可を当局に求めて公に彼らに圧力をかけることもあった26。他方で財団は収益向上のためのレント追求にも余念がなく、多重為替相場制を利用し、安く獲得した外貨を投資資金としてトルコ、パキスタン、アラブ首長国連邦等外国でビジネスを展開した。あるいは、市場で鉄鋼不足が生じると有利な条件で鉄鋼を輸入し、需要を満たす一方で独占的に利益を上げた。また司法への影響力を利用し、飲料市場でコカコーラのライセンスを持つライバル企業を市場から締め出すこともあった27

ラフィーグドゥーストは、財団の収益改善に尽力した一方で、経営の透明性には全く関心がなく、財団では彼の時代にネポティズムがはびこっていった。そのことが原因で、財団絡みの不正融資スキャンダルも起きた。このような経緯もあって総裁が交代し、新しくそのポストに就いたモハンマド・フォルーザンデは財団の透明性の向上を経営方針の最重要テーマに掲げた。フォルーザンデも前任者のラフィーグドゥーストと同様に革命防衛隊の出身で、防衛相も務めたことがあった。だが商人タイプのラフィーグドゥーストより学歴が高く、政治色の薄い人物であった。

フォルーザンデ総裁の時代に財団は大きく変わった。まず財団が発信する情報が爆発的に増えた。財団は経営状態の透明性を図るため、2001年から毎年「財務報告書」を公表するようになった。傘下企業にも報告書の公開を義務付けた。財団全体の投資、生産や経費の支出に関する統計も公開するようになった。財団の再編方針についても徐々に具体的な方向性を打ち出し、実行に移した。2000年には赤字企業を解体し、収益性の高い事業を拡大するとの基本路線を明確にした。また、傘下企業の一部を傷痍兵士に売却したが、企業幹部やその親族への売却については禁止した28

事業再構築の戦略も徐々に練り上げられた。財団は基本的に、金融、自動車、エネルギー、鉄鋼など収益性の高い分野に資源を集中すると決められた。2003年頃からは収益性の高い分野として石油開発の上流部門への進出を図り、財団傘下の「ボンヤーデ・マーシーン社」はタブナーク・ガス田でガス井の採掘を手掛けるようになった29。また同じ時期に、証券市場、保険市場およびIT市場への参入意思を明確にした30。2000年代後半に欧米による経済制裁が厳しくなって外国資本によるイランの石油ガス分野への投資が激減すると、財団は石油開発への進出を本格化しようとした。そこで、エネルギー分野の持ち株会社である「エネルジー・ゴスタル・スィーナー社(SINA Energy Development Co.: SEDCO)」の傘下の開発企業は2006年にロシアのタト・オイルと合弁会社をつくり、入札なしにバンゲスターン油田の開発を受注した。しかし、ロシア側の撤退もあって結局同油田の開発は実行されなかった。またSEDCOは、2011年に3つの油田の開発権利を受注したが、それも資金不足のために開発はほとんど進んでない。財団の傘下企業による油田・ガス田の開発事業への参入は、今のところ順調に進んでいるとは言えない。

一方、電力を生産・販売するために2004年に設立された「サバー・エネルギー&電力」という持ち株会社による電力開発分野への参入は順調に進み、財団は、すでに5つの電力発電所を含む多数の電力開発関連会社を傘下に置いている。また鉄鋼事業も大きく進展し、2000年代半ば以降、鉄鋼会社3社が設立され、すでに生産を開始している。しかし、例えば財団が目指していた自動車産業への参入は実現できておらず、すでにそれを断念しているようである。

政府との関係について、アフマディーネジャード政権は財団による事業リストラクチャリングを後押ししてきたが、この間、両者の間に全く問題が発生しなかったわけではない。「テヘラン‐北部ハイウェイ事業」というインフラ開発の大プロジェクトを巡って政権と財団の間に生じた軋轢は、象徴的な事例である。政府は、1990年代前半に開始されたこのプロジェクトの一部を、入札なしで財団に発注した。しかしハイウェイの建設は予定通りに進まず、そのままの状態が異常に長引いたため、政府は不満を募らせ、2012年8月に突然、財団をプロジェクトから退去させたと発表した。ところが、発表があった後も財団側はそれを承服せず建設作業を続けた。そして翌年の政権交代後に、決定自体がいつの間にか覆された。このことは、財団の強い政治力に加えて、やはり不況時には政府は財団のような大企業の意思と権益をますます無視することができなくなるということも証明した。

2014年8月にフォルーザンデ総裁の3期目の任期が終わると、ハーメネイー最高指導者はそれを延長せずモハンマド・サイーディーキヤーを後任に選任した。彼は、1980年代のハーメネイー大統領―ムーサヴィー首相の時代からアフマディーネジャード大統領期まですべての大統領の下で大臣を務めたことがある異色の政治家であり、前任者のフォルーザンデよりもテクノクラート色の強い人物だと言える。今のところ彼は前任者の経営方針を踏襲しているようであるが、それでも目立った変化としては、管理コストの高い小規模な土地を無償で農民に配分してイメージアップを図ろうとしていることや、今後は財団の収益の30%を貧困削減事業に配分すると発表するなど、明確な数字目標を設定している点を挙げることができよう。

(4) 財団の規模

ラフィーグドゥースト元総裁はかつて、「モスタズアファーン財団は中東諸国において最も規模の大きい企業集団である」と豪語したことがある。これは明らかに誤りであり、財団は売上高にしても利益の規模にしても例えばサウジアラビアのサウジアラビア基礎産業公社(Saudi Basic Industries Corporation: SABIC)やサウディ・ビンラディン・グループ(Saudi Binladin Group: SBG)およびトルコのコッチ・ホルディングに到底及ばない。しかし少なくとも財団の究極の目的がそこにあることを示唆する発言ではあると言える。通常であれば、一企業の規模を図る場合、例えば総資産、売上高、従業員数、資本金などの指標を使うのであるが、財団の場合は公開されている統計が少なく、しかも連続性に乏しいという大きな問題が存在する。

イラン経済に占める特権企業のシェアについては、40%以上との数字も出ているが、おおむね20%前後という推計が大半を占めている。モスタズアファーン財団の単独シェアについても同様に様々な推計がなされているが、2006年にイラン国内で発表された推計によると、財団などの特権企業はイランのGDPの30%を占め、またモスタズアファーン財団単独のシェアは5.7%に達するとされている31。これは10年近く前の数字であり、現在は少なからず変化している可能性が高い。

現在、イラン経済の中で圧倒的な経済規模を誇っている財団であるが、傘下事業の数や業種構成は、大きく変化してきた。1980年4月のハームーシー総裁の発表によると、当時の財団は65の「製作所」(企業)を傘下に置き、保有株式は総額146億リヤル32であった。この時点での製造業以外の傘下企業や農地・農園の資産は公表されていない33。そしてその後数年間に多くの企業が没収または差し押さえられ、そのほとんどが財団の傘下に入ったために、財団の傘下企業数は急激に増えた。1982年のイラン中央銀行の資料によると、当時の財団の企業数やその他の資産の内訳は以下の通りになっている:製造業(149社)、鉱業(64社)、農業(60社)、建設業(101社)、文化関連(25社)、商業(238社)、農園・農業(412件)、不動産(2786件)34

1986年に発表された財団傘下企業の名前と基本情報を纏めた資料によると1985年の時点で没収された1,143社(または件数)に加えて、1,698社(または件数)が、経営者不在などの理由で一時的に財団の管理下に置かれていた。没収された企業の内訳は、農場・農地592件、鉱工業300社、商業(サービス業)81社、建設・住宅建設48社、文化施設(映画館)87社、そしてホジャブル・ヤズダニー35の資産35社であった。傘下企業には、さらに財団自らが設立した69社が加わることになる36

1990年代のラフィーグドゥースト総裁時代には、財団は傘下企業に関する詳細な情報を開示しておらず、正確な企業数などは明確でない。しかしラフィーグドゥーストが総裁ポストを退任して2年後の2000年に、国営通信の新聞社「イラン」が発行した経済年鑑がモスタズアファーン財団傘下の企業のリストを紹介している。その数は554社に上るが、当時、活動を停止していた会社なども含まれていると思われる。2000年の企業名簿をみると、飲料や食品関連企業が最も目立ち、その後にホテル業、織物・繊維関連そして建設関係の企業が続く。高付加価値産業の企業は少なく、傘下企業数が多くても、それが必ずしも高収益性に結びついていない様子がうかがえる。そのために1999年から総裁に就任したフォルーザンデは、石油の上流部門や電力、金融分野に資源を集中させようとしたのである。

さらにフォルーザンデ総裁は、財団傘下の企業のうち400社以上を売却するか解体し、財団経営を非常に身軽にした37。財団が公開している財務報告書をもとに企業数を集計すると、2013年には表1の通りに傘下企業の数が225社となっている。ただしこれはあくまでも集計上の問題であり、傘下企業の数の変化は必ずしも財団の経済活動の実態を反映してないことに注意しなければならない。一方、この数年の財団すべての傘下企業で売上順位のランキングでトップ・テンを占めている企業を業種別に整理してみると、金融業が3社(1位、5位と6位)、石油関係が3社(2位、3位と9位)、飲食品関係が2社(7位と10位)、そして鉄鋼会社(4位)と発電所(8位)が入っており、財団が事業構成を大きく転換したことがうかがえる。売上トップ・テン企業の半分以上は、2000年以降に設立された会社だからである。

表1. モスタズアファーン財団傘下の企業の数と内訳(2013年)

出所:モスタズアファーン財団財務報告書(2013年度)

他方で財団の従業員の人数の推移をみると、財団の歴史の別の側面が明らかになる。財団が1992年に出版した資料では1980年代の鉱工業局の従業員の人数を公表しており、この資料によるとその人数は大方3.5万人から4万人の間で推移していた。財団全体の従業員数は1980年代に膨張し、1990年代には約15万人に達したという推計もある38。2000年代になると財団は企業の解体や民営化を通じて事業のリストラクチャリングを行い、これに伴って従業員の人数は減少傾向を辿った。当時の副総裁アーレ・エスハークによると、2000年頃の従業員数は6万人であった39が、2009年にはその数は約3.2万人にまで縮小した。財団の従業員数はほぼ10年間で半分近くまで減少しており、そして20年前と比べると少なくとも3の1まで縮小したことになる。ただし従業員数が減少した一方で労働生産性は大きく上昇し、財団全体の売上高も生産額も大きく増加した。その推移は財団が発表している生産高の統計で確認できる。ところで財団は2001年以降毎年財務報告書を公表しており、毎年の売上高や生産高を確認できるが、イランではインフレーションが常態化しているので売上高や生産高の実質的な変動の算出は困難である。しかし財団は自ら2008年度をベースに2001年以降の生産高の推移を固定価格で算出し公表している。図1でもみられるように2001年度からたったの12年間で財団の生産高はほぼ6倍まで拡大しており、これは経営陣が財団のリストラクチャリングに成功していることを証明すると言える。またこの間、財団の生産高の成長は経済全体の生産高(=国民総生産)の成長を著しく上回っていることからイラン経済における財団の影響力は一段と増加してきたと言える。

図1: 財団の生産高の推移

単位:兆リヤル、2008年の固定価格

「本部」傘下の企業・施設を除く(本部を表1で確認できる)

出所:モスタズアファーン財団実績報告書(2013年度)

おわりに

以上、モスタズアファーン財団を事例に、イラン・イスラーム共和国における特権的な複合企業の変貌の歴史とその政治力および経済規模を確認した。確かにモスタズアファーン財団はこの30数年の間に大きく変化してきた。創設時から抱えていた制度的な矛盾や組織の存在意義問題は一応の解決をみた。そして事業の採算性を強く意識したことによってリストラクチャリングを行い、経営の透明性もある程度確保するようになった。これからのイラン経済を考えた場合、財団の安定的な成長はイラン経済の発展に大きく寄与するだろうと言い得る。

しかし今日の財団は農業や製造業やサービス業の様々な分野で大規模な事業を展開し、ほとんどの市場においても支配的地位を占め、しかも必要な資金のかなりの部分を内部から調達できるようになっている。1つの複合企業にこれほどの経済力が集中することは、決して望ましいことではない。大企業への経済力の集中は極端な富の偏在をもたらしたり、公正な競争を妨げたりして、不公平な経済システムを生むだけではなく、中期的な経済・政治・社会安定を脅かす要因にもなりかねない。

日本の財閥や韓国のチェボルが示しているように、複合企業に支配された経済は、ある一定の歴史的局面において持続的・安定的な成長と発展を遂げることが可能である。しかしそれは、複合企業間にある程度の競争が存在していることが前提条件である。石油収入が国家によって独占され、多くの国有企業が存在しているイランのような経済体制の下では、強大な政治力をもつ複合企業の存在は遅かれ早かれ市場に様々な歪みをもたらすことになるだろう。現状においては、モスタズアファーン財団をはじめとする特権的複合企業の抜本的な改革の可能性は非常に低いと言わざるを得ない。そこで少なくとも、独占禁止法のような法律の整備によって複合企業や国有企業の間の競争を促し、これ以上の経済力の集中を妨げるべきであろう。

本文の注
1  Nahād-e enqelābī.

2  ホメイニーの任命を受けてメフディー・バーザルガーンが首相を務めた政府。革命の勝利から約9か月の間イランの行政を運営した。

3  1961年にモハンマド・レザー・パーレビー国王の命令によって設立され、国王の資産を運営し、その利益を慈善活動に使うことを任務としていた。解体時には銀行や保険会社の株、ホテルや製糖会社数社を支配下に置いていた。

4  ホメイニーの側近を中心に設立された評議会。第1回イスラーム・ショウラー議会の選出までは立法府の役割も果たしていた。

5  Khomeinī, Rūhollāh, Sahīfe-ye Nūr (ホメイニー演説全集), Vol. 3, p.361, Mo’assese-ye Nashr-e Āsār-e Emām Khomeinī, Tehrān (1994).

6  Khomeinī, Rūhollāh, Sahīfe-ye Nūr, Vol.7, Mo’assese Nashr-e Āsār-e Emām Khomeinī, Tehrān (1997), P.140.

7  財団設立から1年以内に総裁は二度も交代した。さらにキャリーミーが総裁代理になるまでに8か月間にわたって財団には正式な総裁がおらず、その経営は混乱に陥っていた。

8  Bonyād-e Mostaz`afān, Bonyād dar ā’īne-ye tārīkh(『歴史にみるモスタズアファーン財団』). Tehrān (1997), p.56.

9  Bonyād dar ā’īne-ye tārīkh, p.164.

10  Hamīd Kāviyānī, Bāzkwhāst az qodrat, NashrĀgāh. Tehrān (2000), p.71.

11  Ali A. Saeidi, The Accountability of Para-Governmental Organizations (bonyads): The Case of Iranian Foundations, Iranian Studies, Vol. 37, No. 3 (Sep., 2004), pp. 479-498).

12  Suzanne Maloney, "Agents or Obstacles? Parastatal Foundations and Challenges for Iranian Development," in Iran's Economy: Dilemmas of an Islamic State (ed. ParvinAlizadeh, I.B. Tauris, 2000).

13  Sāzmān-e Barnāmeh va Būdje, Qānūn-e Būdje Sāl-e 1360(1981年予算法), Tehrān (1982).

14  Bonyād-e Mostaz`afān, Sāzmān va tashkīlāt-e Bonyād-e Mostaz`afān, Tehrān (1984). p.3.

15  Sāzman-e Barnāmeh va Būdje, Qānūn-e Būdje Sāl-e 1362(1983年予算法), Tehrān (1984).

16  Qānūn-e tashkīl-e Sāzmān-e Hesāb-rasī(会計局設立法)(1983年3月26日):http://rc.majlis.ir/fa/law/show/90824

17  Resālat, October 3, 2006.

18  Bāzkhwāst az qodrat, p.22.

19  Sharq, January 1, 2004.

20  Bonyād-e Mostaz`afān, Shenāsnāmeh-ye Bonyād-e Mostaz`afān, Tehrān (1986).

21  Keihān, Feburary 26, 1987.

22  Payām-e Emrūz, No.8, September 1995.

23  Payām-e Emrūz, No.21, January 1998.

24  Īrān, March 14, 2000.

25  Touse`e, May 23, 2001.

26  Payām-e Emrūz, No.21, January 1998.

27  Payām-e Emrūz, No.8, September 1995.

28  Arzeshhā, No.165, May 2000.

29  Bonyād, No.405, May 2003.

30  Bonyād, No.409, September 2003.

31  Sarmāyeh, June 20, 2006.

32  当時の為替レートで換算すると2億米ドル近い金額となる。

33  Bonyād dar ā’īne-ye tārīkh, p.64-67.

34  Bānk-e Markazī(イラン中央銀行), Barrasī-ye tahavvolāt-e eqtesādī-ye keshvar-e ba’d az enqelāb(革命後のイラン経済の分析), Tehrān (1984) p.268-270.

35  バハーイー教徒のホジャブル・ヤズダニーの全財産は革命法廷の決定により没収され、その後すべての管理はモスタズアファーン財団に任せられた。

36  Shenāsnāmeh-ye Bonyād-e Mostaz`afān.

37  Tābnāk Website (2010年5月29日). www.tabnak.ir/fa/pages/print.php?cid=101174

38  Oxford Analytica, IRAN: Bonyad Reorganization, (July, 1999).

39  Īrān, January 4, 2003.

 
© 2016 Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization
feedback
Top