Middle East Review
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Energy and Japan-Iran Relations in 1950s: Reassessing the Idemitsu's Oil Deal with Iran
Abdoly Keivan
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2018 Volume 5 Pages 152-160

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抄録

During the Oil Nationalization Movement of the early 1950s, Iran’s oil was boycotted by the British and major oil companies, which brought a lot of financial hardship to the government of Prime Minister Mossadegh. A few medium-scale oil companies tried to buy and transport it to the market, including Japanese Idemitsu Kosan. It was a very risky but highly profitable deal for them, because Iran gave large discounts to the buyers. However, after Mossadegh’s downfall and the establishment of the Zahedi government, the deal faced problems. Iran could not or would not easily accept the discounted rate requested by Idemitsu.

In approximately 1954, the Japanese government intervened to support Idemitsu, including by writing letters to the Foreign Ministry. Below is one of those letters, which has been translated from Farsi to Japanese, that was sent to Dr. Ardalan, the Foreign Minister of Iran, in September 1956. In the letter, Japan demanded that the Iranians keep their obligations and promises and offered a long-term oil deal with special conditions. In the article, I describe the background and details of the deal, explain the Japanese government’s position regarding the Idemitsu deal, and shed some light on Japan’s energy diplomacy.

【資料解題】

ここで翻訳・紹介する書簡は、「イラン国立図書館・資料局」(National Library and Archives Organization, 以下NLAI)が公開している日本関連資料のひとつである1。本史料は出光興産とイラン政府の間に結ばれた協定の履行について日本大使館から1956年9月22日にイラン外務省に送付され、外務省がイラン財務省に提供した書簡のペルシャ語翻訳文である2

1953年2月14日に締結された出光興産とイラン政府の間の協定は二段階からなり、その全有効期間は9年間と定められていた。協定締結から2ヶ月後に結ばれた補足協定に基づいて出光側は第一段階の最初の18ヶ月以内に500万バレルの石油製品を積み取ることが義務付けられ、価格は国際価格よりほぼ3割近く安く定められた。また第二段階においても“競争的地位”が保てる原則が守られるよう合意された3

NLAIが現在公開している日本関連の資料は決して多くないが、その中で「出光興産」関連の資料は数が目立っている。これはイラン近代史において研究者や国民一般の関心が最も高い「石油国有化運動」と、それを指導したモハンマド・モサッデク内閣時代に出光興産が強く結びついているからだと思われる。出光とイランの関係は主に国際関係やパワーポリティクスの観点から分析されることが多い。つまり自国の石油資源を自ら管理したいイランは半世紀近く「アングロ・イラニアン石油会社」(AIOC)に支配された石油産業の国有化を目指したが、AIOCの最大株主でもあるイギリス政府はその利権を手放すまいとあらゆる手段を駆使し、国有化を阻止しようとした。当時のメジャーズも、国際石油産業でもつ支配的地位が脅かされることを懸念してイギリスの立場に同調し、イランとの直接の石油取引を拒んだ。その中で日本の石油会社が高いリスクを負いながらメジャーズに挑んでイランから石油を購入しようとしたのである4

他方でこれらの資料を日本とイランの経済関係やエネルギー政策の資料として読み直すことも可能である。日本政府は長期的なエネルギー政策の観点から出光興産による中東産油国からの直接の石油購入についてどういう立場をとったか。また石油産業の発展にあたって市場の開拓や資本と技術の調達の必要性に迫られたイランが日本との関係をどのように考えていたのか。本書簡はそのための一つの参考資料になると思われる。

日本とイランの二国間の経済関係は1920年代から30年代にかけて急速に拡大し、日本は1930年代の後半に初めてイランから原油を輸入するに至った。ただし原油販売者はイラン政府やイラン国籍の企業ではなく、当時原油の生産、精製と販売を独占していた「アングロ・イラニアン石油会社」(AIOC)であった。1950年代初頭の日本では、主要なエネルギー源が石炭から石油へとシフトが加速する中で、イランの石油資源への関心が再び高まった。実際に1950年頃、日本の商社は原油購入に関する具体的な提案を行ったが、イランは原油の販売権がAIOCにあったため応じられなかった。それから間もなく、モサッデクの指導する議員会派が中心になって「石油国有化法」を1951年3月に成立させ、AIOC支配下にあった全ての施設を接収、その運営を新たに設立された「イラン国営石油会社」(NIOC)に任せた。そしてその2ヶ月後、モサッデク自身が首相のポストに就任し、国民の待望する石油国有化の実現という重責を負うようになった。

言うまでもなく、世界最大規模の石油会社の一つであったAIOCとその筆頭株主のイギリス政府が石油産業の国有化を簡単に受け入れる筈はなかった。AIOCはNIOCによる石油販売を阻止する法的措置をとり、イギリス政府はペルシャ湾に軍隊を派遣するという実質的な禁輸措置を敷いた。その結果、NIOCから石油を買うリスクが高くなり、なかなか買い手が見つからず、イラン政府の財政収入と外貨保有量は減少し、経済は次第に混迷を深めた。そこでモサッデク政権は、外交官、NIOCの幹部や外国在住のイラン人を総動員して買い手を探そうとした。当然日本もその候補となり、NIOC幹部のパルヒーデが石油の買い手とタンカーを求めるために自ら日本を訪れた。これとは別に、出光興産は1952年3月にブリジストンタイヤの石橋社長の仲介でアメリカ在住のイラン人弁護士から石油購入の提案を受ける。リスクが高いため、出光が決断するまでに約半年の時間がかかったが、漸く同年の11月に幹部をイランに派遣することに踏み切った。幹部らはイランで大歓迎を受け、モサッデク首相とも会う機会を得られた。他方で交渉は予想以上に長引き、出光興産とNIOCが石油取引を巡る協定に調印したのは約3ヶ月後の1953年2月14日であった。

出光側が手配したタンカー「日章丸」は翌月にイランに派遣され、アバダン港で石油を荷積みした後4月15日に出港し、イギリス海軍による事実上の海上封鎖を回避して5月9日に川崎港に帰港した。しかしAIOCが運ばれた石油の所有権を主張して東京で訴訟を起こし、これは国際裁判にまで発展したものの、出光側が勝訴し、イランからの石油運搬は続けられた。出光が8月までに計3回に亘って原油や石油製品を日本に運び、4回目の積み出しを準備していた時点でイランで政変が起こり、モサッデグ政権が転覆されてザーヘディー将軍が新首相に就任した。

石油を巡るイギリスとの対立の解消を最優先するザーへディー新首相は、出光との協定に関する方針が当初から定まらず二転三転した。ザーヘディー首相が出光に対する50%の値引き販売を打切る意向を示すと、協定の履行が危うくなったと見た出光は幹部をイランに送って新政権の意思を確認しようとした。値引き打切りの立場を堅持する新政権に対し、出光は優遇措置が延期された場合、製油所と石油運送会社を共同設立すると提案し、またイラン石油の輸入と販売に関する「総代理権」を授与されるよう申し入れた。出光はこれらの提案に対してイラン側からよい感触を得たと感じた。実際に、NIOCの幹部が石油政策を司るアミーニー財務相に宛てた意見書の中で、日本市場におけるイランの地位を確保すべきと提案していた。しかし石油メジャーズが形成するコンソーシアム(企業連合)との石油問題の解決に向けた交渉が開始されると、イラン側の出光に対する対応は明らかに変化した。モサッデク政権の転覆後も出光による原油の買い取りは続いたが、値引き幅は徐々に縮小され、石油運送会社の設立も「総代理権」の授与も実現することはなかった。

協定の第二段階は1955年1月に始まり、出光はその時点で値引き措置の復活を求めるが、イラン側は世論の反発やコンソーシアムとの協定の兼ね合いで値引きが難しいこと、但しその他の優遇措置を講じる用意があることを伝えた。その後交渉が難関する中で、日本政府も徐々にその過程に介入するようなる。

実はモサッデク政権と出光との間で交渉が行われた時期は、まだ外交的には両国の国交が断絶したままで、モサッデク政権が転覆されてから3ヶ月後の1953年11月になって国交は漸く再開された。そのため日本政府は上述の交渉に直接関わっていない。またAIOCとその後ろ盾であるイギリス政府の圧力もあって、日本政府は出光とモサッデク政権の協定に必ずしも前向きではなかった5。しかし国交回復が達成され、ザーヘディー政権の誕生によって外交上の懸念が払拭されると、政府を代表して日本大使館はイランの外務省をはじめ関係省庁に協定の遵守や値引き交渉に応じることなどを申し入れ、出光の要求を代弁するようになった。

これは、いかなる国も自国企業の利害を最優先するという観点から言えば決して珍しいことではない。しかし日本政府は出光興産の利益よりも長期的なエネルギー政策の一環としてこの交渉に参入したものと考えるべきである。1950年代前半は日本が高度成長期に入る直前であり、エネルギー源を石炭から石油にシフトしていた時期にも当たる。日本政府は経済成長を支えていくために、安価で安定的な石油供給源の確保を目指していた。しかもその担い手を外国資本のメジャーでなく、民族資本の石油会社が務めることが望ましいと考えていた。イランと出光の協定は、まさにこの条件を満たしていた。本書簡で日本大使が石油の長期購入を提案し、しかも出光だけではなく日本の大手石油会社5社との契約をも約束しているのは、このような背景があったためだと推測できる。

一方、日本はイランから妥協を引き出すために圧力を加えることもあった。1955年頃から両政府は貿易協定の締結に向けて交渉を開始し、その過程で日本政府として8から9%の油価の値引きを求め、事実上それを交渉妥結の条件とした6。また当時イランから輸入していた塩を買い控える措置をとった。しかし結局この件の決定はイラン国内で「経済最高審議会」に委ねられ、値引き措置の復活は認められなかったのである。その結果、出光とNIOCの石油取引契約は消滅してしまった7

しかしこの構想も、結局は実現することがなかった。日本によるイラン産石油の輸入は、1950年代半ば以降も順調に増え続けた。特に1960年代に入ると、日本の総輸入に占めるイラン原油のシェアはうなぎ登りに増え、1970年に40%を超えている。ただしこれはNIOCのシェアではなく、ほとんどがコンソーシアムによる輸出であった。イランは、1960年代半ば頃からNIOCの生産力が高まると日本市場でのシェアの獲得を目指すようになり、ハイレベルの政治交渉でそれを話題にしてきた。例えば1960年代後半に日本を訪れたエグバールNIOC総裁やザーヘディー外相は、エネルギーを巡って両国の関係強化を求め、ザーヘディー外相は愛知外相との会談で「コンソーシアム」ではなく「NIOCから直接輸入されることを期待している」とした8。しかし結果的にNIOCがシェアを顕著に伸ばすことはなかった。

ところで日本でイランの油田開発に最も早く関心を示したのも出光興産である。出光は1958年にNIOCの油田開発入札に応札したが、アメリカのインディペンデント系石油会社AMOCOに敗北した。このことは同年に日本を訪問したモハンマドレザー・パフラヴィー国王と岸信介首相の会談でも話題になった9。油田開発に関して1960年代後半になるとイラン側から日本に働きかけをし、1969年に来日したザーヘディー外相が佐藤栄作首相との会談で「イラン皇帝自ら」の希望として日本による石油開発の参入を求めた10。そして2年後に日本企業連合による油田(「ロレスターン鉱区」)の開発が合意された。このプロジェクトは結局不発に終わってしまったものの、その後両国の経済協力の象徴ともなった石油化学プロジェクト(「イラン・ジャパン石油化学(IJPC)」)がこの開発権利の付与条件として出発したのである11

今回翻訳した書簡は、日本政府が初めてイランに対して積極的にエネルギー外交を展開した時期の一つの史料である。本史料からも読み取れるように、当時日本政府はイランから長期的に石油を調達するための体制づくりに意欲を示し、積極的なプランを提示した。他方で出光との協定の問題を巡っては、同時期のイラン政府内の資料などを参考にすると、少なくともNIOCの一部の幹部も日本のエネルギー市場のポテンシャルを理解していたことが理解される。しかしイランの政策決定者たちは、日本経済に対する認識の不足や国際石油市場の構造、国際情勢などが相まって、日本の提案に応じることができなかった。結局両国はこの機会を逃し、両国が密接な経済関係を築く第一歩はこれから10年も遅れることになった。

【翻訳資料】

イラン国営石油会社〔NIOC〕と出光興産の間で行われている石油売買協定に基づく石油取引を巡る交渉についての情報が昨年末から伝わっています。しかし最近得られた情報では現状のままでは問題解決の望みは少ないという結論に達し、この問題を放置すれば決して両国の利益にならないと思うようになりました。

そのため、ここで自らの見解を申し上げ、貴国政府が本協定を厳格に履行することを保証するよう再度求めることに致しました。またこの問題は両国の利益が守られるかたちで解決されるよう貴殿にもお力添えいただきたいと思います。

A. イラン政府に保証されているNIOCと出光興産との間の本協定の要点

ご承知のようにこの協定は二つの営利企業の間に結ばれた売買契約であり、貴国の政府もそれを了解しています。

この協定の主な条件は以下のように整理することができます:

1. NIOCは原油やガソリンなどの製品を継続的に供給する。

2. NIOCと出光興産は共に利益を受けるように販売拡大のために協力する。

3. NIOCは出光興産が市場で競争力を保持できるように支援する。

4. 本協定の期間は調印(1953年2月14日)から9年間とし、その後双方の同意を条件にこれを更新することが可能である。双方の合意があれば協定を破棄することができる。

5. NIOCは出光興産が発する日本の一地域や全土における代理店についての如何なる提案をも前向きに検討する。

以上の主な条件に基づいて、

1. 出光興産は協定の調印日から2ヶ月半以内に少なくとも4.5万バレルを輸送する。

2. 出光興産は同じ日付から4ヶ月半以内にさらに少なくとも4.5万バレルを輸送する。

3. 出光興産は第二船の出発日から18ヶ月以内に500万バレルを買付し、輸送する。

出光興産側はこれらの義務を完全に履行しており、本契約は有効であると考えます。

これに対して、NIOC側は自らの義務を500万バレルの一部の提供までしか履行していません。NIOCは出光興産との協定調印の一年半後、まだ本協定が有効である期間中の1954年10月29日にコンソーシアムとの間に新しい協定を結んだ後、事前の合意なく同年9月25日付けの書簡によって設定された特別な手段の実施を中断すると一方的に相手に通告しました。しかもその結果、製品に関する同社の販売義務も不可能となりました。この時期以降、NIOCは本協定の核心部分でありその存続に関わる価格に関する義務の履行を行っていません。NIOCが直面している主な問題の一つはコンソーシアムとの協定によるものだと推測されます。しかし出光興産との本協定は、コンソーシアムとの協定以前に結ばれているために、優先されるべきだという充分な理由が存在します。それでもNIOCの見解によれば、コンソーシアムとの協定ではコンソーシアム側がイランの自由裁量分の石油〔コンソーシアム生産量からのイランの取り分〕を国際価格で購入すると約束しているため、NIOCは出光興産が競争力を保つために原油価格を割り引くと減益を強いられるので議会に反対されるだろうと主張しています。これは出光興産の法的優先権を無視しており合法性のない主張に過ぎません。さらに以下に記される事実からも、イラン政府はコンソーシアムとの協定の有無に関係なく、本契約の継続を明確に約束していることが証明されます。

1. イラン外務相は広瀬〔達夫〕代理公使iの1953年12月6日付けの書簡に対する1954年3月12日付けの返答でイラン政府が出光興産との協定を尊重すると明記した。

2. ファルザーネガーン准将政府報道官ii(当時の郵便・電報大臣)は1954年2月14日の記者会見でイラン政府が取引のある石油会社に対する義務を履行すると発言した。

3. 協定の承認に関する出光氏の1954年3月4日付けの電報に対して返信されたザーヘディー首相とバヤートNIOC会長からの3月8日付けと3月18日付けの電報では協定が完全に履行されることが約束された。

4. 石油会議イラン代表団団長として参加したアミーニー博士自身iii(当時の財務大臣)。は1954年7月4日にコンソーシアムとの協定の前に結ばれた外国企業との石油協定の実施を強調し、これらの協定がコンソーシアムとの協定によって損なわれてはいけないと明言した。

5. トニャンス輸出部部長は1954年7月7日の門脇〔季光〕全権公使ivとの会談で日本とイタリアとの石油協定が必ず履行されると約束した。

6. 門脇〔季光〕全権公使とバヤートNIOC会長vとの間には1954年12月6日に石油製品の販売価格、原油販売手数料の支払い、代金半分の日本円での決済や代理権授与からなる覚書が交わされた。

さらに、イラン当局は1953年から54年にかけて、協定の実行状況を伺う山田〔久就〕全権大使vi、田中〔秀穂〕全権公使viiや私自身に対しても度々上と同様な返答をしました。それにもかかわらず現在まで行動が伴っていません。

B. 協定違反がイランと日本の貿易に及ぼす影響

イランと日本の貿易交渉の経緯と貿易関係を鑑みると、本協定の目的は両国の貿易発展と利益向上にあるとわかります。これを踏まえて、ご承知のように工業国である日本はイランとの貿易関係において石油を最重要かつ不可欠な商品として位置づけており、これがなければ当面貿易の均衡や発展が不可能になると考えます。日本政府は石油代金の半分が日本円で支払われることを歓迎します。しかしNIOCは競争可能な価格で〔石油〕製品を日本市場に供給するという自らの義務を実行しなければ、日本によるイラン石油の購入はほぼ不可能になります。両国の間の貿易の規模を維持し発展させるという観点からもこの問題の解決は非常に重要であります。

C. 石油国有化と市場の重要性

国際コンソーシアムとの取り決めによってNIOCはコンソーシアムにNIOCの自由裁量分の石油である総生産量の12.5%を国際価格で買い取ることを要請することができます。

そのため、もし財務的な側面のみから見ればイランの会社は自由石油の買い手を見つける努力をする必要がなくなり、また製品を競争可能な価格で提供することも不要となります。それでも私はこの制度が実際に稼働する時までに、イランが市場を確保するための準備を完了させなければならないと考えます。換言すれば、NIOCが石油の採掘や精製のための設備を持つかどうかと関係なく、独自の市場を創らなければ石油国有化は成功しないでしょう。この件に関して、私は以前ホセイン・アラー首相viiiや多くの政府高官がイランの自由石油のために安定的な市場を確保できるかどうかについて明確に懸念を表明していたことを思い出します。工業国である日本は毎年1千万トンの石油を消費しており、この消費量が継続的に年間10%も増加しています。日本は石油の調達方法について非常に関心を払っているが、石油利権を求めている訳ではありません。日本政府はイランの自由石油の輸入に確かに興味があります。しかし以上の説明から明らかであるようにNIOCが出光興産との本協定を厳密に実行しなければ、両国の貿易関係の向上も実現しません。そのため貴殿は貴国の政府が約束を守り、両国の利益になるかたちで問題の解決を図るよう影響力を使っていただきたいと思います。

D. 問題解決に関する措置

以上この問題に関して自らの意見を申し上げましたが、イラン側の法的あるいは政治的責任を追求するつもりはありません。両国民の間に永遠なる友好が築かれるために公正な対処を望んでいるだけであります。そこで問題解決にあたり、提案すべき具体策を以下のように要約します;

1. 本協定が国際コンソーシアムとの協定の前に結ばれているため、イラン政府はかつての声明を堅持することを再確認できるよう、日本政府に本協定を尊重する立場に変化がないことを通知することを求めます。

2. 貴国の政府がコンソーシアムとの協定の影響を受けずに自由石油の取引を行うことができるよう措置をとることを求めます。

3. イラン政府の意向があれば、我々には日本の独立系の大手石油会社5社に長期的に自由石油を購入するような仕組みをつくる準備があります。そうすればイラン当局は柔軟性のある独自の販売政策をとり、日本の市場価格で競争することができるようになります。

4. 我々にはイランの自由石油を競争可能な価格で日本市場に運ぶための石油輸送会社の設立などの提案を検討する用意があります。

最後に以上の内容を検討し、できるだけ早い時期に返答をいただけるようお願いしたいと思います。

〔1956年9月22日付、Dr. アリーゴリー・アルダラーン宛書簡〕 

本文の注
1  NLAI. 1335 [1956].Vezārat-e Omur-e Khārejeh: Tezkariyeh[外務省:書簡](File No. 240-7867)

2  本史料にイラン外務省のレターヘッドが入っており、イラン側によって翻訳されていると思われる。そのためか、署名がなく送り主も明記されてない。ただし別の資料では外務相が日本大使から直接手渡されたと記している。

3  読売新聞戦後史班1981.『日章丸事件;イラン石油を求めて』冬樹社 166-167頁。

4  「石油国有化運動」やイランの石油産業の歴史に関する文献の多くは出光興産による石油の購入に言及し、それを肯定的に評価している。例えばペルシャ語の文献としてRouhanī, Fuād. 1353[1974]. Tārīkh-e Mellī Shodan-e San‘at-e Naft-e Īrān (イラン石油産業の国有化史), pp.396-411, Tehrān, Ketābhā-ye Jībī.

5  出光興産株式会社店主室(編)1980.『アバダンに行け「出光とイラン石油」外史』出光興産株式会社 33-36頁。

6  両国間の貿易協定の交渉は、主に片貿易の問題のため難航し、漸く1960年に妥結して同年10月11日にテヘランで調印された

7  中嶋猪久生2015.『石油と日本――苦難と挫折の資源外交史』新潮社 132-133頁。

8  外務省中東アフリカ局.1969.「ザヘディ・イラン外相来日」(整理番号04-232) 17頁。

9  外務省中東アフリカ局.1958.「パーレビ・イラン皇帝訪日」(整理番号2014-5107)

10  外務省中東アフリカ局.1969. 34頁。

11  バーゲル・モストウフィー石油化学公社(NPC)初代会長はその回想録でIJPC設立における日本側との協力について詳しく言及している。「バーゲル・モストウフィー氏インタビュー」(ケイワン・アブドリ訳)『イラン革命と日本企業 第一冊IJPC関係(2)』アジア経済研究所、2015. 1-74頁。

i  1953年11月にイラン外相と外交関係再開の公文を交換した人物で、1970年代に在アンカラ大使を務めた。

ii  1914年~2003年。モサッデグ時代に国軍の中の反政権勢力を束ねたことによって王党派の中で頭角を現した。国軍退職後、クウェートなど数ヶ国で大使を務めた。

iii  1905年~1992年。ガージャール朝時代の貴族の子孫。モサッデグの第一次内閣とザーヘディー内閣で財務相を務めた。首相時代に農地改革を導入。

iv  在イラン全権公使の後、鳩山内閣で外務事務次官(1955年~57年)となり、また駐ソ大使を歴任した。

v  1890年~1958年。地方名家の出身で20年に亘って国民議会の議員、1926年に経済相、1944年から45年にかけて首相、1955年から57年までNIOC会長を歴任した。

vi  外務事務次官や駐ソ大使を歴任した後1967年に政治家に転身し、衆議院に当選した。福田赳夫内閣で環境庁長官を務めた。

vii  1970年代に外務省中近東アフリカ局長や在フィリピン特命全権大使を務めた。

viii  1883年~1964年。1920年代から国民議会の議員、大使、大臣と二度首相を務めた。著名な政治家で、当時国王側近の一人として認められていた。

 
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