2016年の米国大統領選挙の最中に、トランプ候補の息子エリックがラジオのインタビューで「イランとの核合意を阻止することが父親(Donald Trump)の立候補の最大の目的だった」と述べている。トランプ政権の発足から1年が経とうとする2017年12月に公開された「米国国家安全保障大綱(National Security Strategy of the United States of America)」で、トランプ政権は北朝鮮とイランを明示的に非難しているものの、イランについては48-50ページの部分を費やして詳細にその根拠を述べているのに対して北朝鮮については比較的に記述が淡泊であった。
これらの事実が何を示しているかは明白であろう。トランプ政権にとって自国の安全保障のために最も容認しがたい政権は、ハーメネイーの指導するイランの「革命政権」であるという事になる。トランプ政権とサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子との急激な接近、イスラエルのネタニエフ首相との蜜月関係などはすべてこの線上に位置づけることが可能である。だが同時に中東域内の政治情勢は錯綜を極めるが故に、この戦略が直線的に進展することはあり得ず、予想外の事態が絶えず生起してトランプ政権の所期の目的は絶えず先延ばしされることになる。
顕在化している諸問題もし上記の見方が中東域内で生起している様々な現象をある程度説明しうるならば、現在中東政治は全体としてどのような方向に展開しようとしているのであろうか。これを2017年におけるこの地域の主要なイシューの幾つかを振り返ることで見ていくことにしよう(本論では2018年3月までの時期を含めて扱う)。
まずイランでは5月の第12回大統領選挙でロウハーニー大統領が再選されたが、ロウハーニーはそれ以前に2015年7月に合意し12月に一旦決着した核合意(JCPOA)を受けて、その確実な履行と制裁解除後の欧米を中心とする投資の拡大によるイラン経済の改善を約束したものの、それは米国のトランプ政権の登場で半ば裏切られる形になっていた。再選後も大きな変化は期待できない中で、特にイランの人口構成の大きな部分を占める若年層の現状に対する不満と将来に対する不安の鬱積が、12月28日以降の全国的な抗議デモに繋がった一因として考えられ、恐らく今後においてもイラン国内はある程度不安定な社会状況が続くことが懸念される。
次に注目すべきは、昨年12月の大統領宣言以来の米国のエルサレム首都承認問題である。その後パレスチナ側の猛反発が伝えられたにも拘らず、1月のペンス副大統領の中東歴訪時に米国大使館の2018年度中のエルサレム移転が表明され、さらに2月23日には大使館の移転予定が5月に前倒しされた。トランプ大統領はこの政策転換によって国内の支持基盤の強化を狙ったものと考えられるが、他方でイスラエルがサウジアラビアと連携してイランを包囲するシナリオは当面機能し難くなったとも言いうる。
次に現在混迷を極めるシリア情勢をみると、2017年に入ってからロシアの主導で8回にわたるアスタナ和平会合が開かれたが、本年1月のソチでの国民対話会議には反政府側は不参加、その後ロシアと共同歩調を取っていたトルコはシリア領内のクルド地域への軍事的関与を強め、1月20日以降はYPG排除を目的にシリア北西部のアフリーンで軍事行動に出た。一方イランの支援を受けたアサド政権側は2月18日以降ダマスカス近郊の東グータを攻略、市民多数の死傷者を出しながら同地を制圧しつつある。さらにシリアではイランとイスラエルの軍事的な衝突の危険が高まっており、2月にはイランのドローン機がシリアからイスラエル領内に侵入、イスラエル側はこれを撃墜したもののF-16戦闘機が撃墜され、パイロット2名が重傷を負った。イスラエルはこれへの報復としてシリア領内のイラン軍事施設12カ所を空爆している。
2017年はアラブ各国とりわけGCC(Gulf Cooperation Coucil)構成国にとっても大きな転機の年となった。それを象徴するのがカタールを巡る動きであり、サウジアラビアとUEAのアブダビを中心に、バーレーンやエジプトが相次いで同国との断交を発表した。この動きの背景には同国の親イラン的な外交政策や衛星テレビ局アルジャジーラの報道内容、ムスリム同胞団との関係などがあったとされるが、5月のイラン大統領選挙と同時期にトランプ大統領が中東歴訪を行った際の鮮明なサウジ寄りの姿勢がこうした展開の引き金になった感は否めない。
そのサウジアラビアが現在直面している最も深刻な問題のひとつがイエメン情勢の深刻化である。イエメンでは「アラブの春」の時期にサーレハ大統領(1990年の南北イエメンの統一以来在任)を辞任に追い込み、民主化への期待が一時高まったが、その後ハーディー暫定政権と敵対するフーシー派へのイランの支援を理由に2015年3月にサウジ主導により軍事介入、現状に至っている。だが世界保健機関によると2017年8月には国内でコレラが蔓延して深刻な人道危機になっており、12月4日にはサウジが仲介役を期待したサーレハ元大統領をフーシー派が首都サヌアの郊外で殺害、その後サウジ側による報復攻撃が行われたが国内は武装勢力の割拠による四分五裂の状態にあるといわれ、近い将来に和平が実現する見通しは全く立っていない。
内向化しつつある危機以上のように今後も折々にメディアの注目を集めるであろう主要な諸問題とは別に、中東地域には長期的に潜在している地域に共通の問題群が存在している。ここでその幾つかについて現状を俯瞰しておくことは無駄ではないだろう。
2017年9月25日にイラク領内の北部クルド居住地域および周辺のキルクークを含む15地区でマスード・バルザーニーを首班とするクルド自治政府によって史上初となる住民投票が実施され、投票率72パーセント、賛成票92.7パーセントの圧倒的多数で独立が支持された。住民投票の実施に対しては周辺関係国の警戒感が強く、国際的な支持を得られなかったこともあってクルド地域の独立に向けた動きは一旦頓挫した感があるが、今後ともクルド問題がこの地域の政治的動向に与える影響の大きさは無視できぬものがあり、例えば2018年5月に予定されているイラクの国民議会選挙の動向はひとつの注目点となるであろう。
世界的な気候変動と地球温暖化の影響は西暦2000年頃から中東各地における環境問題・水問題および砂漠化を深刻化させるに十分なものであった。イランの地方を例に取れば、全国各都市・農村部における人口の増大を背景に、農業用水・生活用水を含む水不足の問題は近年とみに深刻化している。筆者が継続的に調査を行っているイラン高原中央部の農村都市ヴァルザネも例外ではない。この町はイラン第三の都市であるエスファハーンを歴史的に成立させてきたザーヤンデルード川の最末端に位置するが、1万20000人の人口の多くは農業に従事しているだけに水不足の生活に与える影響は深刻である。2018年はとりわけ同河川の水量の不足が心配されており、同市における3月の騒擾(警察との衝突で数十人が負傷)もこうした不安の中で発生したもので、砂漠化に対する抜本的な対策が各国で早急に取られなければならない。
さてJCPOAによる制裁の解除を米国トランプ政権が拒絶している中、イランとして今後4年間に米国との関係が劇的に転換する可能性は限りなくゼロに近い。こうした現状認識のもとイランは国内開発のパートナーを広くアジアに求めたものと思われ、インドの投資を呼び込んでのチャーバハール港の開発が緒についている。2017年12月にはロウハーニー大統領が同港の新施設完成を祝う式典に自ら出席し、関係17国を招待した。インドはチャーバハール港のイランにとってのメリットは、安全保障上のリスクが高いホルムズ海峡とペルシャ湾の外側に位置する唯一の良港であるという点である。イランの政府当局としてはここを新たに整備することでバンダルアッバース港やブーシェフル港に依存してきた海運のリスクを分散させると同時に、これまで遠隔ゆえに開発が後回しになってきたバルーチスターン地域の再開発にも繋げたい考えであると思われる。
他方でサウジアラビアは開発の中心軸をペルシャ湾側から紅海側にシフトする動きが顕著であり、ムハンマド・ビン・サルマン皇太子が主導する大規模開発プロジェクトの目玉になっている。現在のサウジアラビアの動きは1990年代以降の長期的な中東秩序の再編の中で既存の経済的地位をどう維持していくかという深刻な課題への彼らなりの挑戦という側面がある。こうした動きの背景にもなっている2015年頃からのイランとサウジアラビアの両国関係の緊張を、サウジアラビアの大多数がイスラーム教のスンナ派であるのに対してイランが少数派シーア派を奉じる国であるという根本的な相違から説明する試みがよくなされる。だがこうした観点からの説明は便利ではあるものの限界も大きいという事は改めて言うまでもない。
サウジアラビアや他の湾岸アラブ国が現在イランに対して持っている警戒心はむしろイラクのサッダーム・フセイン体制崩壊に端を発する地政学的なバランスの変化によるところが大きく、その意味ではイエメン方面へのイランの影響力拡大も(イラン側からすれば荒唐無稽であっても)彼らにとって深刻な安全保障上の懸念材料となる事はロジックとしてよく理解できるのである。
結語2017年は米国のトランプ政権が登場してから1年目として、今後数年間の中東政治を特徴づけていく幾つかの兆候が顕在化した年になった。その一つは8年間続いたオバマ政権期の中東政策の方針を否定し、それ以前のブッシュ政権期の政策に回帰して行こうとする方向性である。それは同地域における同盟国であるイスラエルとの政策的協調の強化、アラブ諸国中の親米国であるサウジアラビア、エジプト、UAEとの政策協調、ISやアルカイダなど国際テロ組織との対決姿勢の協調、イランの影響拡大を中東地域における主要な不安定要因として阻止する、アフガニスタン駐留米軍の維持、などの一連の政策に顕著である。
だがこうした旧来からの共和党的な政策追求の一方で、これまでの歴代政権によるイラクやシリアにおけるこれまでの軍事的な関与・非関与からの必然的な帰結として米国の中東における影響力は急速に縮小している。それはエルサレム首都承認問題を機に米国がほぼその仲介能力を失っていること、シリア紛争における和平交渉を実質的にロシアが主導していること、ISの掃討作戦に最も貢献したクルド民族のトルコによる攻撃を阻止できなかったこと、JCPOAによる制裁解除を米国が拒んでいるにも拘らずイランは国際的に孤立しているように見えないことなどに顕著に表れている。
こうした変容する国際環境の中で、中東域内の主要各国はそれぞれに独自の域内の論理で活路を模索しつつある。エルドアンが主導するトルコは安全保障上の最優先課題であるシリア領クルド地域でアメリカと距離を取りつつシリア和平交渉ではロシアとの連携を模索してきた。イランは米国トランプ政権との関係で経済関係の強化に踏み出せない欧米・日本との関係よりも当面アジア外交を重視、インドの投資を呼び込んでチャーバハール開発に踏み出している。イスラエルにおける中国・インドとの経済・外交関係の重視もこの文脈上で位置づけうるのかも知れない。サウジアラビアがトランプ政権の不安定な政策手法にどこまでついて行くか、地域内的なパワーバランスの論理にいつ復帰するのかは今後の注目点の一つとなるだろう。
3月13日にトランプ大統領はツイッターでティラーソン国務長官を解任、対イラン強硬派で軍出身のポンペオCIA長官を後任に据えた。今後の中東情勢の一層の混乱が懸念される。
(2018年3月15日脱稿)
新領域研究センター 鈴木均
2017年12月6日に、米トランプ大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として認める大統領宣言(presidential proclamation)に署名し、直後にこれに関する演説を行った1。大統領宣言と演説の要点は、(1)米大使館エルサレム移転問題で、従来の米大統領の姿勢を批判して、テルアビブからエルサレムへの大使館移転への決意を表明する、(2)エルサレムの定義と範囲を曖昧にしたまま首都として承認する、(3)神殿の丘の「ステイタス・クオ」については維持するというものである2。
内政向けの側面トランプのエルサレム首都承認宣言は、外国政策としての目的や意図だけでなく、多分に国内政治の文脈で理解されるべき性質のものであり、国内の特定の支持層に訴えかける性質を持っているとみられる。一般的には、トランプ大統領はそれまでの政治・外国エスタブリッシュメントに反発する層からの支持を受けて当選したと見られており、そのような支持層に向けて、従来の大統領の言行不一致の欺瞞や不作為を批判することで支持のつなぎ留めを図ったと考えられる。また、特にキリスト教福音派の支持を取り付けるためには、エルサレムの首都承認は最も有力なカードの一つとみられる。
1993年のオスロ合意を当時のクリントン大統領が支持し調印の立会人となったのに対し、米連邦議会は1995年に「エルサレム大使館法(Jerusalem Embassy Act)」を制定し、大統領にテルアビブからエルサレムへの大使館の移転を義務づけた。その後の歴代の大統領は、選挙戦中には親イスラエル発言を行いながら、就任すると、この法律のウェーバー条項を利用して、6ヶ月ごとに延期の手続きをとることで、大使館の移転を先延ばしにしてきた。トランプ大統領はエルサレム首都認定演説で、これまでの大統領を「過去の失敗した同じ戦略を繰り返してきた」と批判する。そして自らはイスラエルとパレスチナ人の紛争に「新しいアプローチ」を導入すると宣言する。トランプ大統領は、これまでの大統領が20年近くも先延ばしにしてきた大使館のエルサレム移転を、実行する時期が来たと決意する、と宣言した。また、トランプ大統領は宣言への署名の際に、ペンス副大統領を同席させ、その映像を報道させている。ここにはペンス副大統領が支持母体とするキリスト教福音派に印象づける狙いがあることが推測される。
「エルサレム」の範囲の不分明性注目すべきは、トランプ大統領は宣言と演説で、エルサレムの定義とその地理的範囲を、おそらくは意図的に、不分明にしていることだ。宣言と演説の該当部分は次のとおりである。
エルサレムでイスラエルの主権が及ぶ境界の特定は、当事者間の最終的地位交渉に委ねられる。米国は境界や国境について立場を取っていない3。(宣言)
エルサレムでイスラエルの主権が及ぶ境界の特定についても、争われている国境の確定についても、我々は最終的地位の諸問題で立場を取っていない。これらは関係する当事者が決める課題だ4。(演説)
1948年のイスラエル独立から第1次中東戦争の停戦までの過程で、エルサレムはイスラエルが占領した西エルサレムとヨルダンが占領した東エルサレムに分割され、西エルサレムをイスラエルが事実上の首都とした。1967年の第3次中東戦争に際して東エルサレムを占領したイスラエルは、東エルサレムの併合を宣言し、東西を合わせたエルサレムを「不可分で永遠の(indivisible and eternal)」首都と形容してきた。このような経緯から、エルサレムをイスラエルの首都と認めた場合、そのエルサレムが「どのような意味での」「どの部分の」エルサレムを指すかを、いかに定義して明示するかが、重大な意味を持つ。
トランプ大統領は、2016年の大統領選挙中はイスラエルの立場を一部踏まえた「永遠の首都」との表現5を用いていた。しかしエルサレム首都認定の宣言と演説では「永遠の」という形容詞を用いなかっただけでなく、エルサレムが「不可分」とも明言しなかった。そのため、東西エルサレム全てをイスラエルの首都とするというイスラエルの主張をそのまま受け入れたかどうかが不明となっている。
同時に、トランプ大統領は宣言と演説で「西エルサレム」という語も一度も用いなかった。もし「西エルサレム」の語を用いてエルサレムをイスラエルの首都とした場合は、原則として、1967年の第3次中東戦争で東エルサレムを占領するよりも前の、国際的に承認されうる範囲でイスラエルの首都エルサレムを指し示すことになる。しかしこれも避けているため、1967年戦争での東エルサレムの占領と、その後の東西エルサレム統合政策の結果としての現状変更を、一定程度、あるいは大幅に承認することも意味しうる。
しかしトランプは、宣言と演説でエルサレムの「境界(boundaries)」にも言及しており、この境界は当事者の交渉によって定められるとしている。こうして米国がイスラエルの首都として認めるエルサレムの範囲について米国の判断を示すことを避けているのである。
これは次の二つの異なる帰結を導きうる。第一の可能性は、パレスチナに対して圧倒的に有利な立場にあるイスラエルが、エルサレム内外での現状変更を進め、それを和平交渉でパレスチナ側に認めさせ、その結果を当事者間の合意として米国が追認するというものである。トランプ大統領やクシュナー氏など側近の真意がここにあると疑うことは、その根拠を明示するのは困難だとしても、可能であるし、多くの観察者がそう見ているだろう。
しかし同時に、東エルサレムの一部分を含む領域をパレスチナの領土とする境界画定を行い、東エルサレムを領土あるいは首都とするパレスチナ国家の独立に向かう可能性を、トランプの宣言と演説は排除していない。この点において、トランプ政権はパレスチナ側に交渉の場に残る手がかりを差し出していたと考えることができる。
ただしこの場合、1949年の停戦ラインによって確定されていた東エルサレムの境界が、そのまま認められるとは考えにくい。イスラエルによる現状変更を多分に追認した形での境界の再確定が、交渉によって行われることになることが、ほぼ前提となる。その場合、イスラエルの首都エルサレムの境界を、国際法的に認められやすい西エルサレムの原型からは大幅に拡大し、アブー・ディースなど、東エルサレムに隣接するヨルダン川西岸のパレスチナ自治区の特定の部分までを「(東)エルサレム」として再定義した上で、その部分を「パレスチナのエルサレム」と認定し、それによってエルサレムを紛争の両当事者に「分割」したとみなす、といった可能性も含まれることになる。交渉の開始の時点から、そのような妥協を受け入れることを必然的に求められると分かっていながら交渉の席に着くことは、パレスチナ側にとって多大な困難をもたらすだろう。従来は、クリントン大統領の在任期間終了間際のキャンプ・デービッドやタバでの交渉の際に見られたように、交渉の最終段階で米大統領がこのような妥結案を非公式に示すものだった。トランプ大統領のエルサレム首都認定宣言は、交渉の最終段階で非公式に示してもなお受け入れが容易ではない結果を、交渉の開始前にパレスチナ側にあらかじめ概ね認めさせることを意味する、米大統領の仲介姿勢としては大きくイスラエル側に公然と寄ったものとみなされる。
ステイタス・クオの維持トランプ大統領の宣言と演説では、エルサレム旧市街の神殿の丘の「ステイタス・クオ」の維持を支持すると明言していることもまた重要だろう。該当するのは次の部分である。
当面は、米国はエルサレムの聖地のステイタス・クオを支持する。聖地にはハラム・シャリーフとも呼ばれる神殿の丘を含む。エルサレムは今日、西壁でユダヤ人が祈り、十字架の通った道をキリスト教徒が歩き、アル=アクサー・モスクでムスリムが祈る場所であり、今後もそうあるべきである6。(宣言)
当面は、私はすべての当事者に、エルサレムの聖地のステイタス・クオを維持することを呼びかける。聖地には、ハラム・シャリーフとも呼ばれている神殿の丘を含む7。(演説)
ここでいう「ステイタス・クオ」とは、歴史上、特にオスマン帝国の支配の下で積み重ねられてきた、エルサレム旧市街の複数の宗教・宗派間の関係に関する慣習を指す。オスマン帝国支配下の、ムスリムの優位下での諸宗教・諸宗派の共存の制度と慣行を、オスマン帝国崩壊後に委任統治を行った英国も、第1次中東戦争で東エルサレム・旧市街を占領したヨルダンも基本的に継承した。イスラエルもまた、第3次中東戦争で東エルサレムを占領してからも、旧市街のステイタス・クオを維持するという姿勢を示してきた。
しかし旧市街のステイタス・クオは、ムスリムが政権を掌握し、諸宗派・諸宗教の信者たちの複数のコミュニティを支配下に置いているという前提で成り立ってきたものである。ムスリムからは「異教徒」の立場にあるイスラエルが実効支配を行なうようになって長期間が経つにもかかわらず、なおもステイタスが維持されていると強弁し続けることは、ムスリムの側からも、そしてイスラエルあるいは世界のユダヤ人やそのイスラエル建国を支持する側からも、困難となる局面がある。イスラエル側にも、また米国の宗教右派にも、ステイタス・クオを破棄し、エルサレム旧市街をユダヤ化し、神殿の丘の上にユダヤ教の第三の神殿が再建されることを早めようとする運動がある。ネタニヤフ政権を含む歴代政権はこれに抗してステイタス・クオを維持し、旧市街の諸宗教・宗派間の関係を維持してきたが、民間財団などの活動により、旧市街の地所がユダヤ教徒・ユダヤ人団体の所有下に置かれる動きは進んでおり、ムスリム側の警戒心も高まっている。トランプ大統領は、ステイタス・クオの維持を支持すると明言することで、旧市街の諸宗教・宗派間関係については介入を避け、変更を望まない姿勢を示した。これは歴代の米大統領の姿勢を踏襲したものと言える。
国際社会の非難の高まりとインティファーダの不発トランプ大統領のエルサレム首都認定に対して、国際社会の反応は強い反発や非難が支配的だった。12月18日、国連安保理で、米国によるエルサレム首都認定を撤回するよう要求する決議案が採決され、日本を含む14ヶ国が賛成し、米国の拒否権によって否決された。12月21日、国連総会で、首都認定の撤回を求める決議が、賛成128、反対9、棄権35で採択された。
言うまでもなく、パレスチナの指導部は強い反発の姿勢を示した。2018年1月14日、パレスチナ自治政府のアッバース議長はラーマッラーで開催されたPLO(パレスチナ解放機構)の中央委員会で演説し、トランプ大統領のエルサレム首都認定宣言を批判し、米国の和平提案を拒否すると宣言した。PLO中央委員会は翌15日、オスロ合意に基づき1993年9月に行なっていたイスラエル承認の凍結を発表、イスラエル当局との治安協力の停止を決議し、PLO執行委員会に決議の実施を勧告した。2月20日にはアッバース議長は国連安保理で演説し、米国を和平プロセスの仲介者と認めないと宣言、ロシアなどが関与することを念頭においた、新たな多国間の和平協議の枠組みの設定を呼びかけた8。
しかしヨルダン川西岸やガザのパレスチナ社会からの抗議の運動が低調だったことは、トランプ政権やイスラエルのその後の施策に影響を与えただろう。ヨルダン川西岸で散発的にデモは生じたものの、大規模化することはなく、2000年の第二次インティファーダの再来は生じなかった。第二次インティファーダはエルサレム問題をめぐって議論が紛糾した際に生じたという意味で、今回と状況が類似した部分がある。1993年のオスロ合意に基づいた、エルサレム問題を主要な交渉課題とする最終地位交渉が、2000年に始まった。同年7月11日から25日にかけて、アラファト議長とバラク首相をクリントン大統領がキャンプ・デービッドに招き長期間の交渉の仲介を行った。クリントン大統領が示した譲歩案をアラファトが受け入れず、交渉は決裂した。緊張が高まる中同年9月28日に当時の野党リクード党の党首だったアリエル・シャロンが東エルサレム旧市街・神殿の丘への強行訪問を行い、これを引き金にした第二次インティファーダが発生した。
今回は2000年の規模での抗議行動は生じなかった。また、エジプトやサウジアラビアなどアラブ諸国の主要大国が、米国やイスラエルを強く非難しなかったことも大きい。
大使館移設時期の前倒し演説でトランプ大統領は大使館のエルサレム移転について「建築家や技術者やプランナーを雇うプロセスを直ちに始める」と述べたものの、この時点では移転の時期や移転先は明示されなかった。同日にエルサレム大使館法のウェーバー条項を適用し、従来通り、大使館移転の6ヶ月繰り延べの手続きにも、6月に続き再び署名していた9。この当時、ティラーソン国務長官は用地の取得から始める姿勢を示しており、国務省ではできるだけ時間をかけて大使館移転を行い、可能であればトランプ大統領の任期中には完了しないような形での移転の先延ばしを試みていた可能性がある。
しかし2018年1月22日、イスラエルを訪問したペンス副大統領はイスラエル国会で演説し、2019年内の大使館移転を明言した。さらに2月23日、トランプ大統領は、保守政治行動会議(CPAC)の全国大会での演説10で、2018年5月14日のイスラエル建国70周年の記念日までに米大使館のエルサレム移転を行うと宣言するに至った。同日に国務省は、アルノナ地区に位置するエルサレム米総領事館の一部を当面大使館に転用する具体策を発表した11。このように早い進展が生じた背景には、トランプ政権がこの問題を掲げて中間選挙や二期目の大統領選挙を戦うことに利益を見出した、国内政治上の要因が考えられると共に、ヨルダン川西岸など現地での抗議行動の規模が大きくなく、サウジアラビアやエジプトなど主要アラブ諸国の反対がさほど強く表明されなかったことも影響を与えているかもしれない。
トランプ大統領によるエルサレム首都認定宣言は、1967年の第三次中東戦争以後の、イスラエルによる東エルサレムの併合と、それを既成事実化し回復困難にする現状変更を、かなりの部分承認する内実を持つと推測できる。
ただしこれだけであれば、従来の米大統領の姿勢の延長線上にあるとも言える。2000年7月のキャンプ・デービッド交渉から2001年1月の任期切れ間際までにクリントン大統領が試みた仲介において米側から示されていた妥結案でも、同様の内実を含んでいた12。相違は、クリントン政権のように、交渉の結果として東エルサレムの多くの部分の権利を実質上放棄するようパレスチナ側に水面下で働きかけるか、トランプ政権のように、交渉に入る前にそのような結果に至る以外にないことを米大統領自らが公的な宣言で実質上認めてしまうかの違いである。手続きとしてこの相違は大きく、それによって和平交渉の進展の可能性が大きく異なってくるとも言えるが、同時に、それまでの和平仲介が功を奏していなかったというトランプ大統領による批判にも、一面の真実がある。最後まで米大統領が表向きは立場を明らかにしなかったこれまでの手法でも、結局は合意を得られなかったのである。
しかしトランプ政権が温めているとされる妥結案は、1967年の第三次中東戦争によって東エルサレムを占領した上で進めた現状変更だけでなく、1993年のオスロ合意の後の和平プロセスと最終地位交渉を続ける間に生じた現状変更も、多くを認めてしまうことになりそうである。その場合はそれまでの米大統領の仲介の延長線を超えて、質的に異なる妥結案と、パレスチナ側からはみなされることになるだろう。そうなればオスロ合意に基づく二国家解決を主題とする和平プロセスが終焉し、米国とイスラエルの一方的な解決案の提示と、パレスチナ側の拒否による、一国家のみが存立する状態が長期間続き、紛争がくすぶり続けることになりかねない。
(2018年3月1日脱稿)
東京大学先端科学技術研究センター 池内恵
本文の注2017年は、イスラエルにとって外交上の大きな転機の年になった。とりわけインドおよび中国との関係深化は、トランプ政権登場による対米関係の好転と並んで、今後のイスラエル国際戦略を基軸的に規定するものとなろう。2018年冒頭のネタニヤフ・イスラエル首相の訪印や2017年末の北京における中東和平「対話」は、そうした趨勢を象徴している。
対印関係の前景化イスラエル首相の公式訪印は、2003年のアリエル・シャロンに次いで二人目となるが、ネタニヤフの場合は2017年7月のモディ・インド首相のイスラエル訪問を受けて、初めての首脳相互訪問という形を取った点で、両国関係の劇的な進展を物語ると言えよう。1992年に外交関係を樹立して以来、インドは軍事・安全保障領域を中心としたイスラエルとの実質的な関係を漸進的に維持拡大しつつも、これを表面化させることに慎重で、可能な限り「目立たせない(Low Profile)」路線を追求してきたからである。世界で最も急速に成長しているインド経済がそのエネルギー源を依存するアラブ産油諸国やイランとの関係を慮り、またかつての非同盟諸国の雄としてパレスチナ問題への姿勢を問われることを嫌ったという事情もそこには存在した。しかし、2014年にインド人民党が総選挙に勝利し、モディ政権が成立するや、こうした路線は一変した。両国間の要人往来は急増し、その累積が今般の首脳往来へと結実したのである。
このような変化をもたらした背景として、幾つかの要因を指摘することができる。第一に、中東における一般的な戦略環境の転換によって、パレスチナ問題の政治的呪縛が相対化され、スンナ派アラブ諸国とイスラエルとの接近は誰の目にも明らかとなった。大産油国を含めていわゆる「パレスチナの大義」の最大の支持者を自任するアラブ諸国が非公式ではあっても要人間の交流などイスラエルとの接近を隠さないのであれば、インドがイスラエルとの関係誇示に躊躇する義理はなくなる。第二に、ヒンズー至上主義を標榜するインド人民党は、それだけにイスラーム過激派との軋轢が激化し、カシミール紛争その他の原因で彼らのテロ攻撃の標的となってきた。この点、同様にイスラーム過激派との武力衝突を抱えてきた「ユダヤ人国家」イスラエルとは「同病相憐れむ」の親和性が高い。第三に、インドは浸透攻撃阻止や爆発物探知といった技術などその国境管理システムをイスラエルから精力的に導入し、また情報共有に基づく対テロ政策での協力体制を拡充してきている。こうしたソフト面での協力関係は、イスラエル製兵器の大量調達というハード面から担保されている。これが第四の要因である。イスラエルは国交樹立以前にも秘密裏にインドに兵器を横流ししていたと伝えられるが、いまやイスラエルは米国、ロシア、フランスに次いでインドの兵器購入相手の第四位を占め、さらに急速にそのシェアを拡大しつつある。領有権を争うカシミール地域でインドとパキスタンが武力衝突に至った1999年のカルギル戦争を契機として、イスラエルの対インド兵器輸出には拍車がかかり、現在ではイスラエルが輸出する兵器の半分近くが最終的にインド向けとなっているとされる。2012年~2016年の5年間、インドは世界最大の兵器輸入国であり続け、この傾向は当分続くと予測されている。隣接して対峙するパキスタンや中国に比べて、インド国軍の装備は老朽化や劣化が際立ち、現代戦の遂行能力に脆弱性を抱えているため、兵器の刷新は喫緊の課題とされているのである。インド商工会議所連合の推計では、2014年から2022年までの長期の兵器調達額は、総計で6200億ドル規模に達する見込みである(Haaretz紙 2018年1月15日付)。
かくして、イスラエル=インド関係の拡充深化は明らかに構造的な変化であって、一過性の現象と看做すべきではない。もとより、ここに示した諸要因はそれぞれ趨勢や方向性を説明するものではあっても、それらが不可逆であるというわけではない。パレスチナ問題に関しては、「インドは『パレスチナの大義』を完全に支持しつつ、イスラエルとの友好を維持する」という立場を一貫して掲げており、この点は国連での各種決議への投票行動に表れている。最近では、トランプ米大統領が在イスラエル米国大使館を「首都」エルサレムに移転するとの声明を受けて国連総会に提出された反対決議に対して、ネタニヤフ訪印を直後に控えていたにもかかわらず、動議支持の票を投じていることからも、基本的にインドの対応は是々非々を旨としていることがわかる。
また、インドとイスラエルとはイスラーム過激派のテロを脅威として共有するとは言っても、イスラーム過激派の規定や解釈については必ずしも一致するわけではない。例えば、イスラエルにとって過激派の総本山であり、レバノンを拠点にイスラエルへのテロ攻撃を画策する民兵集団ヒズブッラーのパトロンと看做されるイラン・イスラーム共和国は、インドとは歴史的に友好関係にある。とりわけ近年は、インドがイランとの間に航路を開き、イラン内陸からアフガニスタンを経て中央アジアへの通商路を建設する動きに本腰を入れ始めており、インド=イラン関係はいっそう強化される方向にある。イスラエルが自国にとっての実存的脅威と看做すイランをめぐって、インドとの間に不協和音が生じないという保証はない。
兵器取引にしても、イスラエルをはじめとする外国製兵器の大量調達に対してはインド国内の軍事産業育成という観点からこれを阻害する勢力が存在する。事実、モディ首相のイスラエル訪問に先立って合意された6億ドル規模の対戦車ミサイル供与協定は、2017年末になってインド側から一方的に破棄されるという経緯があった。これは、表向きはエルサレムへの米大使館移転問題への抗議という体裁を取っていたが、実態はインドにおける軍事産業側と陸軍指導層との間の装備調達をめぐる鬩ぎ合いが噴出したものと見られる。協定破棄の動きに対して、陸軍側が巻き返しを図り、ネタニヤフ訪印時に規模をほぼ半減させた形で協定は復活した。
これら幾つかの先行き不透明さを抱えながら、それでもインド=イスラエル間関係は政治経済の両面において際立って好転しつつあると考えなければならない。インドはパレスチナ問題や対イラン関係において自らの歴史的立場や固有の国益を譲ることなく、しかし同時にイスラエルとの関係改善をことさらに隠すこともない現実主義外交を展開しつつある。
対中関係の躍進イスラエルもまた、現実主義外交という文脈ではインドと同然の対応を見せている。それは、インドがパキスタンと並ぶ仮想敵として警戒する中国との関係に瞭然と示されている。イスラエルは中東において中国北京政府を正統政権として認めた最初の国であったが、1956年のイスラエルによるシナイ半島への軍事侵攻によって両国間の関係は断絶し、正常な外交関係が回復されたのはインドと同じ1992年であった。中国もまたインドと同様にイスラエルとの政治的関係を「目立たせない」路線を追求していた。しかしここ数年で、中国の中東政策は明白な変化を遂げており、イスラエルとの積極的関係強化の動きを隠そうとはしていない。むしろ、2013年以降はいわゆる中東和平プロセスへの関与を公然の事実とさせてきている。とりわけ2017年には7月にパレスチナ問題解決に向けた中国の和平提案を公表、また12月には当事者双方から関係者を招いて直接対話の場を演出するなど、和平交渉の仲介役として正面舞台に踊り出てきた。こうした動きは、中国が実質的に和平の調停交渉に関与を目指すというより、多分に「責任ある大国」としての国際的認知を訴求する性格のものとして理解すべきであろう。
イスラエルがこうした中国のイニシアチブに応じている動機は、より実利的である。それは要するに、近年劇的に拡大しつつある中国の対イスラエル投資が象徴する両国間の経済関係の維持強化を図るための代償として、中国の和平提案や仲介工作という政治的ジェスチャーにリップサービスで応じるというものである。実際、2011年以前には取るに足りなかった中国の対イスラエル投資は、いわゆるハイテク分野を中心に過去7年間で150億ドル規模に達する。こうした経済上の急接近を背景に、文化面社会面でも双方のチャンネルは拡充の一途を辿っており、2017年11月にはテルアビブに西アジアで最初の、世界でも35番目となる中国政府肝煎りの中国文化センターが開設された。さらに12月には、広東省汕頭に現地の大学との合弁で、イスラエルにおける理系研究機関の最高峰であるテクニオン(イスラエル工科大学)の分校が開学している。わずか数年前までは年間2万人に届くかどうかだった中国からの観光客は、2015年に4万7千人、2016年には約8万人、そして2017年に至って11万人強という、驚異的なペースで伸びてきている。これに伴い、上海=テルアビブ間に直航空路も開設された。
兵器取引で関係を強めるインドとは異なり、イスラエルの対中国兵器輸出は必ずしも表立っては注視されていない。その最大の要因は米国の監視であろう。歴史的にはイスラエルの軍事産業が中国との関係を重視してきたのは事実である。すでに国交回復以前の1979年、中越戦争での事実上の敗北により人民解放軍の現代化の遅れとその必要性を痛感させられた中国は、イスラエルと最初の兵器調達協定(2億6500万ドル規模)を結んでいる。続いて1983年には15億ドル規模の軍事的パッケージ協定が交わされており、イスラエルは当時中国にとってソ連に続く第二位の兵器・軍事技術供与国となった。こうした動きは、米国が開発した軍事技術がイスラエルを経て中国に渡ることを意味したため、米軍指導部を刺激し、この時以降目立って米国のイスラエルに対する監視と規制が強まることになる。1993年にはパトリオット弾道弾迎撃システムの技術が中国に移転されかねない事態となり、イスラエルと米国との軋轢が水面下で拡大した。それでも、国交回復から3年を経た1995年までには人民解放軍の装備の2割はイスラエルから調達されたと推計されている。米国国防情報局(DIA)によれば、1996年に始まったイスラエルと米国のレーザー兵器開発プロジェクトの成果である高エネルギー戦術レーザーシステム(THEL)の技術が1999年には中国に渡っており、またイスラエルは中国空軍の殲撃10型戦闘機(J-10)の開発を幇助したとされる。このため警戒を強めた米国が2000年夏、米製技術を満載したファルコン早期警戒管制機の中国への売却についてイスラエルに圧力をかけ、結果的に断念させたのはよく知られている。とりわけ近年、インド洋から太平洋にかけての戦域で中国が海洋進出のテンポを上げ、米国と真っ向から競合する状況の中で、イスラエルの対中兵器技術移転に対する阻止圧力は格段に強まり、イスラエルもこれに服さざるを得なくなっているのである。
中国側の事情ところで、インドと中国とに対するイスラエルの外交攻勢を論じる際、イスラエル側のプッシュ要因と同時に、プル要因についても俯瞰しておく必要があろう。その際、主たるプル要因はやはり中国に求めなければならない。大きく見れば、インド外交は中国による能動的世界戦略に対する受動的な応答としての色彩を帯びており、積極的に状況を主導しているのは中国にほかならないからである。その中国の中東政策は明らかに転換しつつある。2011年のいわゆる「アラブの春」以降の中東大動乱の荒波の中で、根底的な見直しを迫られることとなったからである。中東地域の不安定化と暴力状況の悪化とは、エネルギーほかの天然資源の安定的な調達を阻害しかねず、インフラその他のプラント輸出を含めた中国製品の一大市場の混乱を招き、現にこの地域で活動する大量の中国人労働者の安全を脅かすに至った。従って中国は、一旦緩急あれば自力で中東地域への介入を可能ならしめる方向に舵を切りつつあると見なければならない。すでに中国は、胡錦涛前政権時代からいわゆる「真珠の首飾り(String of Pearls)」戦略を標榜して、香港からポートスーダンに至る海上交通路の保護・警戒・監視拠点(海南島・モルディブ・パキスタン「グワダル港」・バングラディシュ「チッタゴン港」・ミャンマー「シットウェ港」・スリランカ「ハンバントタ港」等)の整備を進めていたが、近年には紅海とインド洋アデン湾との結節点であるジブチに海軍基地を建設、2017年夏に最初の艦隊を展開させた。
ジブチの軍港施設は、中国が自国外に建設した最初の軍事拠点であり、しかもそこには中国海軍の保有する空母打撃群、すなわち空母積載の航空戦力を遠洋に展開できる機動部隊の収容が可能だと目されている。基地の運用が本格化すれば、アフリカおよび中東における中国の経済権益に見合った政治的軍事的プレゼンスの誇示につながる。このような「手足」を確保することにより、中国はこの地域における行動の自由を拡充しようとしているのである。プロジェクション・パワーの拡大は、そのまま中国の国際的地位の向上に資すると考えられている。
中国はこれまで、経済優先・政治不関与路線、すなわち「内政不干渉」「全方位外交」を唱えて政治的軍事的には中東地域への関与を控えてきた。しかし、好むと好まざるとに拘らず、中国指導部は政治的にはもちろん、おそらくは軍事的にも中東への進出を選択肢として検討しているものと考えられる。その幕は過去数年にわたって準備され、2016年の習近平国家主席の中東歴訪(サウジアラビア、エジプト、イラン)を以て切って落とされたと考えられよう。この年が、いわゆる一帯一路構想(One Belt One Road, 以下B&Rと略)の「戦略計画期」初年度にあたっていたことを考えれば、中国の姿勢変化が決して偶然ではないことが理解される。もとより、こうした変化は必ずしも劇的な戦略転換の形をとるものではなく、「気が付いたら変わっていた」というような漸進的なプロセスになっている。
中国は必ずしも公然とその戦略転換を表明しているわけではない。その理由は自明であろう。第一に、中国はこれまで中東に対して莫大な投資を重ねてきている。戦略転換がこうした投資の回収や、B&R関連での新たな投資の展望にどのような影響を与えるか、予断を許さない。既存の経済権益が莫大であるから、これを保全するための政治的軍事的関与を拡充する必要が高まる一方で、そうした関与を強めれば必然的に域内における友敵関係の旗色を鮮明にせざるを得なくなる。中東全域の視点からすれば、サウジアラビアとイランとの対立を軸とするスンナ派とシーア派との分断にどのように向き合うのかといった問題が出てくるからである。エネルギー調達だけに論点を絞っても、中国の抱えるディレンマは明らかである。中国は石油需要のおよそ六割を輸入に頼っているが、その最大の供給元がサウジアラビアであること、他方でイランおよびその影響下にあるイラクからの輸入をあわせればサウジアラビアを凌駕することなどを勘案するとき、そのいずれかの陣営に与するかのような素振りを見せることは到底できない。2030年までに中国の石油消費は年間8億トンに達し、その75%を輸入に頼るものと予測されているだけに、如何に政治的軍事的プレゼンスを強化するとしても、「全方位外交」の看板を簡単に下ろすわけには行かないであろう。
第二の要因は、テロ勢力の波及に関連する。現実に中東各地の内戦において展開されているのは、宗派や民族が複雑に錯綜し、これに政党やイデオロギーが絡まって容易に友敵関係が同定できない無秩序状態にほかならない。したがって、関与の方向やあり方を間違うと、想定外に深刻な波及と影響とを被ることになる。「テロ退治」を掲げて介入・干渉・関与を行う場合、細心の注意と計算が必要になる。国内にウイグル族などイスラーム過激勢力に親和性を持つ少数民族を抱える中国は、あからさまな戦略転換で想定外の方向から敵意を招く愚を冒すわけにはいかないのである。
結びこのように見てくれば、イスラエルと中国の関係深化は、中国側が従来の「全方位外交」を掲げてなおかつ中東におけるプレゼンスの強化を図ろうとする路線の当然の帰結であると考えるべきであろう。中国が重厚長大型の既存産業から知財主軸の新型産業への転換を国策とする限り、両者の関係は今後さらに質量両面において拡充深化されることになる。中国がいま中東和平「仲介」に関心を示しているのは、加速する対イスラエル投資などによってイスラエルに対しても一定の影響力を持つ事実を誇示すると同時に、現在進行形の親イスラエル路線が、1965年非アラブ諸国として最初にPLOを承認し外交関係を樹立した「革命外交」の事実上の放擲にほかならないとの批判をかわそうとする狙いも透けて見える。もとより、このような中国の「仲介」が実質的な中身を持たない「口先介入」に終始するであろうことを十分に理解したうえで、敢えてその呼びかけに応じて見せるイスラエルのアジア外交は、「名を捨てて実を取る」現実主義路線に徹していると評価できる。相互に警戒するインドと中国とを同時に自国の経済権益の枠組みの中に取り込み、しかもその双方がイスラエルの実存的脅威であるイランと良好な関係を維持しているという現実とどこかで折り合いをつけようとしているのだとすれば、われわれはそこに、中東和平問題で露呈されるイデオロギー的硬直性や閉塞性とは裏腹の国際政治上の成熟を見て取ることもできよう。
東洋英和女学院大学 池田明史
今回のイラン大統領選挙は昨年1月のイラン核合意(JCPOA)以後初めての大統領選であり、イランの欧米各国との今後の関係を大枠において決定するという意味で国際的な関心を集めた。
それはひとつには昨年11月8日に世界中に驚きをもって受け止められた米国の大統領選挙の結果を受けて、際立った対イラン強硬姿勢を打ち出しているトランプ大統領に対してどのような対応を示すかという点に注目が集まったからである。またフランスのEU脱退への意志を鮮明にしていた親トランプのマリーヌ・ルペンが5月7日のフランス大統領選で当選した場合、JCPOAを支えるEUの立場が大きく揺らぐ可能性があった点により、極右政党である国民戦線のルペン候補の勝利が現実味を帯びていた4月初めまでの段階ではロウハーニー政権にとり予断を許さない状況と捉えられていたことも看過できない。
前大統領の立候補の動きこうした中で最も顕著な動きを示したのが、前職の大統領であったアフマディネジャードの動向である。実際彼は2016年中のかなり早い段階から大統領選に出馬する意向を漏らしており、これに対して最高指導者のハーメネイーが「国にとって決して良い結果を生まない」と諭したとイラン国内で報じられている。
こうした動きの背景についてどう解釈するかは実は1979年以降「ヴェラーヤテ・ファギーフ体制」の許にあるイランの政治過程を理解するための最も重要な問題に関わっていると言えよう。これを要するにイランにおける国政のプロセスにおいてどこまでが最高指導者(およびそれを中心とするイラン中央権力)の意志であり、またどこまでが通常の政治過程として理解すべき「自然な」流れであるのかが外部者にとって極めて判断のつき難い制度的構造になっているのである。
その意味では現在でもイラン国内でも開発の可能性の埒外にある地方農村部において未だに広範な支持層のあるアフマディネジャード前大統領が実際に立候補の意思表示をなし得たこと、そして4月12日に立候補申請をした後、護憲評議会(Shoura-ye negahban)により却下されたことは今回の選挙における最大の山場であったと考えられる。ロウハーニー大統領にとって潜在的に最大の対立候補であった1アフマディネジャードの退場で、今回の選挙はいわば前半戦が終わったという見方も可能である。アフマディネジャードという選択枝はイランの現体制にとって極めて危険ではあるが、それでも米国の中の反イラン的な議論に対抗するための最終的なカードとして決して手放すことのできない武器になっているのである。
彼の立候補却下の前後にイランがJCPOAに忠実に従っているとの報告書を米トランプ政権が出しているというタイミングについても見逃すべきではないだろう。ただしその直後のティラソン国務長官の発言はイランに対して非常に厳しい内容であり、その振幅は西側の報道すらも混乱している。全体に今回の大統領選挙においてはイランの権力中枢は米国など西側の対イラン政策を見極めながら選挙のプロセスを進めていたと考えた方が整合性を見出せる局面が幾つかあったと考えられる。
選挙期間中の動向結局4月15日までに立候補申請者は1600人以上を数えたが、その中から護憲評議会は6人の立候補を選別した。この過程は従来と同様に非公開であるが、結果については2009年の第10回選挙後に高揚したいわゆる改革派から立候補者が(ロウハーニー以外には)一人も認められなかった点が指摘できる。これは1月8日にハーシェミー・ラフサンジャーニーが突然死去したことの影響の一つとみることも可能である。
これらの立候補者のなかで注目されたのはマシュハドのアースターネ・ゴドゥス長官であり元検事副長官のエブラーヒーム・ライースィー(56歳)である。保守強硬派的な立場の同氏に対して最高指導者ハーメネイーは明確な支持を表明してはいないものの、その立候補に際しては最高指導者の意向が働いたと考えるのが自然であろう。
その後イラン国内では4月28日・5月5日・5月12日の3回に亘りテレビ討論が行われ、JCPOAの経済効果などをめぐって厳しい応酬があったが、5月19日の投票日直前までの世論の動向についてはiPPOグループの報告2が連日の変化をよく捉えている。これによれば5月6日以降においてロウハーニー候補の支持は大方55パーセントから60パーセントのあいだを堅調に推移した。これに対して現テヘラン市長で保守派のモハンマド・バーゲル・ガーリーバーフ候補(前回および前々回の選挙でも立候補)は5月6日から15日までの間に25パーセントから15パーセントへと次第に支持を減らしており、初めての大統領選立候補で当初知名度のなかったライースィーがガーリーバーフへの支持票を取り込むようにして10パーセントから20パーセントへと支持を伸ばしていることが伺える。他の3人の候補については数パーセント程度の支持であり、今回の大統領選挙に対する積極的な影響はほとんど無かったと見られる。
因みにこの間の5月7日にはフランス大統領選挙の決選投票でエマニュエル・マクロン候補が極右政党FN(Front National)のマリーヌ・ルペン候補を破って当選しており、第一期ロウハーニー政権の最大の成果であったJCPOAがEUからの支持を失うという当面の危惧はなくなった。
こうした情勢の推移を踏まえたうえで、5月15日にガーリーバーフ候補が選挙戦からの撤退を表明したことの意味をどのように考えるべきか。それは一つにはガーリーバーフ自身が直前の段階までに支持が伸長する傾向を示していないことで戦意を喪失したこともあるだろう。だがそれに加えて5月4日に米国ワシントン政府がサウジアラビア・イスラエルを含むトランプ大統領の5月19日からの初外遊の日程を公表した3こともイランの権力中枢の情勢判断に影響したものと考えるべきであろう。
つまりかねてイランとの対決姿勢を明確にしているトランプ大統領が第1回投票の直後にサウジアラビアとイスラエルを訪問してイランの選挙結果に言及すれば、もし大統領選挙が決選投票に持ち込まれた場合にはその結果に影響が及ぶ可能性が少なくないことを嫌った可能性があるものと考えられる。
トランプ大統領は訪問初日の20日にサウジアラビアと約12億円の武器売却契約を結び、翌21日にはイスラーム諸国54ヶ国の代表を集めてリヤドで開催された「米アラブ・イスラーム・サミット」の席上でイラン包囲網の形成を訴える演説を行った。大統領外遊の出発直前にロシア疑惑などで国内の政権基盤が揺らぎを見せたため米国側が当初期待した程のインパクトに欠けたとはいえ、こうした動きがイラン側(選挙過程を監督・指導する最高指導者周辺の「宗教的」中央権力)に大統領選の決着を急がせる一因となったと考えるのが現時点からみて自然である。
投票結果と新たな潮流?5月19日のイラン大統領選の投票結果はすでに報道されているように、投票率70%超、ロウハーニー候補が57%の票を獲得して保守強硬派のライースィー候補(38%)を破り、1回目の投票で再選されることとなった。
これは現在の国民世論を考えれば至極順当なものといえる一方で、マシュハドを中心として新たな保守的潮流が抬頭しつつあることが伺えるとの指摘がある。公開された各州別の投票結果をみると、今回の投票でライースィーへの支持票がロウハーニーを上回ったのは全国31州のうちで北ホラーサーン州、ホラーサーネ・ラザヴィー州、南ホラーサーン州、セムナーン州、ゴム州、中央州、ハメダーン州、ザンジャーン州の8州であり、中でも最大の支持率を示したのは南ホラーサーン州である。
こうした保守派勃興の新たな傾向について事前に指摘していた知られる限り唯一の報道はLe Monde紙の「マシュハド、イランの保守派の拠点」4である。同記事では保守派の2人の主要候補がどちらもマシュハドを基盤としていることを指摘し、またライースィーが「マシュハド市と同様に(アースターネ・ゴドゥスの)機構においても保守派の革命を遂行した」と述べている。
だがトランプ大統領の登場によって米国との歴史的な関係改善の可能性が当面無くなった現状において、外交交渉によるイランの国際的な地位の改善を志向するロウハーニー政権への批判勢力として国内の保守強硬派が新たな支持の拡大を模索することはある意味で当然の流れでもある。これがハーメネイー後をにらむイランにおいて新たな政治的潮流にまで育っていくのか否かについては予断を許さない状況であると言うべきであろう。
(2017年6月2日脱稿)
[追記]筆者はイランのテヘランで上記レポートを脱稿後、調査地のエスファハーン州に入った。選挙から2週間ほどを経たイラン現地で知人との意見交換を行った印象は大方においてレポートで書いた内容と変わるものではなかったが、幾つかの点について認識を新たにしたので以下に列挙しておくこととする。
1.既述のようにイランでは「ヴェラーヤテ・ファギーフ体制」の許で体制側からのある種の制約を前提とした選挙が行われているが、それだけに選挙における国民の参加意識の高さは日本などと比較して極めて高いものがある。そのことを前提に、今回の大統領選挙(および同日に実施されたイラン全国市町村のショウラー選挙)においては改革派の新たな指導者としてモハンマド・ハータミー元大統領が現在イランで最も普及しているSNSサービスである「テレグラム」5を駆使しての選挙運動を積極的に展開していた。具体的にはライースィー候補の第二夫人の父親であるアラモル・ホダー師のマシュハドの金曜礼拝での講話の一部を流通させて改革派を支持する有権者の警戒を促すなど、かねてからメディアへの登場を規制されているハータミー元大統領の周辺がラフサンジャーニー没後の改革派の後見者として積極的に行動していた様子が伺える。
2.イランの地方農村部では改革派を支持する町村とアフマディネジャードを支持する町村に明確に色分けされているという現状を以前に報告したが6、今回の選挙ではアフマディネジャードを支持する町村の票の多くがライースィー候補の側に流れたものと思われる。その上で今回の選挙期間中、イラン国内では全国の町村において革命防衛隊およびバシージュ(革命防衛隊の下部組織)が保守強硬派側のライースィー候補に投票するよう促すキャンペーンに動員されていたようである。筆者はこれの一端をエスファハーン州ナーイン近郊のある村において確認した。そこの住人の証言によると上記のような住民への圧力が実際に行われたが、それにも拘らずその村では多くがロウハーニー候補に投票したとのことである。ここからは革命防衛隊の統帥権がある最高指導者ハーメネイーの今回の大統領選挙における意志がどこにあるかを(具体的な発言の形ではなくとも)イラン国民が選挙期間中におしなべて看取していたことが理解される。
新領域研究センター 鈴木均
本文の注近年、中国による湾岸とその周辺地域への進出が著しい。2017年になってからの動きについて見てみても、4月には中国はオマーンのドクム港開発に107億ドルの資金を投資することを発表し、7月になると、中国は紅海岸のジブチで海軍基地を開設し、スリランカでは11億ドル相当の港湾開発の協定を結び、また、アブダビでは工業団地へ3億ドルを投資することを発表している。
このように湾岸地域では中国の進出が加速している。中国の湾岸地域との経済関係では、原油の輸入が重要な役割を果たしてきたが、原油輸入や油田開発への参入など、石油に関する中国の湾岸地域との関係には分かりづらいものがある。本稿では、統計で裏付けながら、湾岸地域と中国との原油をめぐる関係がどのように発展してきたかを検討・評価し、今後の湾岸地域と中国との関係を見通すうえでの手がかりとしたい。
なお、このような分析を行うためには、中国国内での原油需要の実態、中国政府の原油輸入政策、地方の各省を含めた中国政府の対中東政策の分析などが必要である。筆者は以前に中国を訪問し石油関係者からのヒアリングなどを実施したことがあったが、必要とする情報を入手するのは困難であった。中国側の情報の入手は中東地域を専門に研究をしている筆者にとっては手に余るものであり、本稿では、湾岸地域に軸足を置いて、対中国原油輸出の推移などから見える湾岸地域と中国との関係に焦点を絞って検討を進めることとしたい。
1. 原油輸入の増加と湾岸地域への依存中国にとって湾岸地域1は原油の輸入先として重要である。中国の原油の総輸入量は2017年の1-6月には836万b/d(6か月平均、以下同)であったが、そのうち湾岸地域からは335万b/dを輸入しており、輸入量の40.1%は湾岸地域からの輸入で占められている。
中国は世界各地から原油を輸入しているが、湾岸地域からの輸入量は、地域別輸入量第2位のサブサハラ・アフリカ地域からの輸入量149万b/dの2倍以上あり、ロシア・中央アジア地域の119万b/dの3倍近くもある(図1参照2)。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
本稿の後半でも述べるが、原油の輸入に関しては、中国は輸入後発国であったため、多様な国からの調達を続けてきたのである。同じように経済発展とともに遅れて輸入を増やしてきたインドの場合には、湾岸地域に隣接しているにもかかわらず、中東(湾岸地域+イエメン)からの輸入量は総輸入量の65.8%に過ぎず、アフリカ(含む北アフリカ)からは17.9%、ラテンアメリカからも12.6%を輸入している(2012年1-6月)3。それらの数字は、原油輸入に関し湾岸諸国との長い取引の歴史のある日本の湾岸依存率が8-9割で推移してきたのとは対照的である。
原油は中国の発展のために欠かせない重要なエネルギー源であるが、図1からは、その原油において中国は湾岸地域への依存を強めてきたことが見て取れよう4。なお、2017年の中国の原油輸入量は836万b/dであり、それはアメリカの原油の輸入量814万b/dよりも多く5、現在、中国は世界最大の原油の輸入国となっている。
中国の石油(原油と石油製品)の国内消費6は経済の発展とともに年々増加している。2003年に約535万b/dだった石油消費量は、2017年(1-6月平均)には1,118万b/dになり14年間で2倍以上に増えている(図2参照)。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
一方で、2003年に342万b/dあった中国国内の原油生産量は、その後は生産の増加が伸び悩んでおり、2017年の生産量は385万b/dと需要をはるかに下回る水準にとどまっている。それどころか、国内の油田は枯渇化が進んでおり、近年の生産量には徐々に減少していく傾向がみられる。結局、需要の増加を受けて、不足分を補うために原油の輸入量は大きく増えていくことになる(図3参照)。その増加分の多くを供給したのが湾岸地域であったのである。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
国際的に比較すると中国における原油の一人当たり消費量は極めて少ない7。今後の経済発展の中で、国内での自動車のさらなる普及などで原油への需要が増加し、輸入が増加して行くことは確実と思われる。クリーンエネルギーである天然ガスの需要が増加していくことも考えると8、中国にとってのエネルギー供給地域としての湾岸地域の重要性は強まる一方である。
2. サウジアラビアからの輸入の増加湾岸地域での中国の最大の原油の輸入先はサウジアラビアである9。2017年1-6月にはサウジアラビアから107万b/dの原油を輸入している。しかし、中国の原油輸入の歴史を見てみると、サウジアラビアからの原油の輸入量が大きく増えたのはここ10年間のことである(図4参照10)。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
中国の湾岸地域からの原油の輸入は1980年代に始まっている。しかし、統計の不備のために、当時の中国の原油輸入の詳細は不明である。1997年10月にサウジアラビアのヌアイミ石油相が中国を訪問した時には、中国がサウジアラビアからの原油の輸入量を1998年に2万b/dから6万b/dに増加させることが協議されている11。そのことから見て、サウジアラビアと中国との間には、細々とした原油取引が続いていたことがうかがわれる。
Reuters Newsが発表している中国の石油統計にサウジアラビアからの原油輸入が記載されるようになったのは1999年の9月になってからのことで、同9月に4万b/dの輸入が記載されている12。9月の同統計では中国はオマーン(19万b/d)、インドネシア(16万b/d)、イラン(15万b/d)、イエメン(14万b/d)、アンゴラ(7万b/d)、イギリス(4万b/d)からも原油を輸入しており、比較するとサウジアラビアからの当初の輸入量は僅かであったことが見て取れる。サウジアラビアからの輸入はその後も切れ目なく続き、輸入量も増加し2000年2月には14万b/dになり、その後も増加していった。
サウジアラビアからの輸入が当初はわずかな量であったことの背景には、中国とサウジアラビアとの外交関係の樹立が遅かったことがある。サウジアラビアは長らく台湾との外交関係を維持し、中国とサウジアラビアが外交関係を開始したのは1990年になってからのことであった。その後はサウジアラビアは原油の生産量が大きく、また生産余力も大きかったため、中国での需要の増加にこたえる形で中国への輸出量を増やしていった。
サウジアラビアからの原油の輸入は、中国とサウジアラビアとの関係を強めることとなった。1999年の10月から11月にかけて、中国の江沢民国家主席がサウジアラビアを訪問した。中国の国家主席のサウジ訪問は史上初めてのことであったが、ファハド国王と会談し、石油関連の協定が締結されている。江沢民主席のサウジアラビア訪問が契機となり、サウジアラビアの中国への原油の輸出は大きく増えていくこととなる。前出のように、翌年2000年2月には14万b/dと大きく増加している。
中国の国家主席のサウジ訪問はその後も、2006年、2009年と続いた。アラブの春の混乱が収まってくると中国の国家主席は2016年1月にも訪問しているように、中国はサウジアラビアとの関係を確実に強化してきている。
3. オマーンと中国の関係中国の湾岸地域からの原油の輸入においては、オマーンが相当量の原油を中国に供給してきた。この中国とオマーンとの原油に関する強い関係は、どのようにしてできてきたのであろうか。
1990年代以降、オマーンの原油生産量は70-100万b/d前後で推移してきた。産油国としては小規模の生産量であるが、にもかかわらず、図4と図5に示したように、中国に対しては多くの原油を輸出してきたのである。現在は、石油大国であるイランやイラクなどにも引けを取らない量を中国に供給している。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
オマーンの中国への輸出は2013年以降は一段と増加しており、国内消費を除くと、オマーンの原油の大部分は中国に向けられている状態となっている。2017年1-6月の中国のオマーンからの原油の輸入量は平均で67万b/dなので、生産量と輸出量は月ごとに異なるが、オマーンで生産される原油の7割から8割は中国に輸出されているのである13。
中国は1980年代からオマーンの原油を輸入してきた。もっとも、当初は中国で輸入の必要が生じたときにスポット的に輸入しており、また、その輸入量も多くはなかった。オマーンの石油統計の中で中国への原油輸出が記載されるようになるのは1993年以降のことである。その1993年の中国への原油輸出量は8万b/dであった14。
オマーンが1980年代に中国の必要に応じる形で原油を輸出するようになった背景には、文化交流などを通して中国と関係を強めていたある有力王族の仲介があったといわれていた。その後も、中国はオマーンからの原油の輸入を続けその量は次第に増えていった。
中国がオマーンからの輸入を増やした要因としては、オマーンがバランス外交政策をとり地域の紛争に巻き込まれることが少なく安定していたことと、中国との関係も良好で推移していたことがある。また、ホルムズ海峡の外側に位置し航路の安全が確保されていることも大きかったと思われる。中国にとっては、オマーンは貴重な原油の安定供給源となっているのである。
中国がオマーンから多くの原油を輸入するようになった背景に関し、価格や契約との関連性についても検討してみよう。まず価格の面から見てみよう。
湾岸の原油は販売先を地域に分けて地域別に、そして油種別に、月ごとに公定価格(OSP)を決めて販売されるのが一般的である。例えば、サウジアラビアのアラビアン・ライト原油はアジア地域、アメリカなどの北米、ヨーロッパ地域向けにそれぞれ公定価格が毎月付けられる。公定価格の値決めの方式は、アジア向けにはオマーン原油とドバイ原油の月間平均値を足したものを2で割った価格に調整額を加減したもの、アメリカなどの北米向けはアーガス指標(ASCI)に調整額を加減、ヨーロッパ向けはBWAVE(ブレントの加重平均)に調整額を加減、の方式で公定価格が提示される。価格は船積み価格(FOB)である。調整額は販売元の石油会社、サウジアラビアの場合はサウジ・アラムコ社が決めている15。調整額を加減した金額で、例えばアジア向けには一律に同一金額で販売される。サウジアラビアの場合は、船積み月の翌月に公式販売価格を通知する遡及適用方式(購入した後に価格が決まる)をとっている。
オマーンに関しては、オマーン原油がドバイ商品取引所(DME)に上場された2007年6月までは遡及適用方式で公定価格を決め販売していたが、2007年6月以降は、DMEのオマーン原油の月間平均価格を翌々月の公定価格(OSP)として提示している。オマーン原油の価格はマーケットで決められている。現在のオマーン原油には地域ごとの価格差はなく、すべての顧客に対して同一販売価格が提示される。中国だけが価格面で優遇されている形跡は見当たらない。オマーン原油の場合にはオマーンから船積みされた後で、タンカーが洋上にある時に買主が転売し、最終的な仕向け地が中国に変わることがある。転売された原油は輸出元のオマーンの原油統計には反映されない。オマーンの輸出統計16と中国側の輸入統計を照合すると、2014年には中国がオマーンから輸入した原油の3%はオマーンを輸出元とする転売品であることが明らかになる。そのことからも中国側にはオマーン原油の引き合いが強いことが見て取れる。中国の国内にオマーン原油を必要とするテクニカルな要因があるのかどうかについては不明であるが、20年近くオマーン原油を多く購入してきたことを見れば安定供給源としての要素が大きかったものと思われる。
産油国と消費国との間の原油の取引は、一般的には短期の契約(数か月から1年程度)を結び実施される。原油の販売価格は上記の方式で決められるので、契約の中心は購入量に関する事項となる。必要に応じてスポットで取引が行われることもある。中国の場合にはスポット取引も多いとされ、中国のスポット取引が世界的な原油価格の上昇につながっていると指摘されたこともある。
オマーンとの間でも、中国の会社がオマーンの石油会社(PDOなど)との間で短期契約を結び、原油の売買を行っているものと考えられる。オマーンと中国との間には長年の原油取引の実績がある。中国の側ではオマーンを原油の安定供給先として重視している。オマーンの石油会社には、中国との経済関係を強化したいとするオマーン政府の意向が働こう。中国がオマーン原油を重視し高いレベルでの輸入を維持してきたことが、オマーンからの原油輸入が多いことにつながっているのである。
原油をめぐり培われた両国の協力関係は経済開発にも広がっている。中国はオマーン中部で開発中のドクム港地域の開発に2022年までに107億ドルの投資を行うことを発表している。2017年4月には、その中核となるSino-Oman Industrial Cityの起工式が、中国やオマーンの要人が出席して行われている。また、原油価格が下落し財政困難に苦しむオマーンは、8月には中国銀行団から35.5億ドルの借り入れを行っている。原油輸出が続きドクム港地域の開発が進んでいくなかで、今後、両国関係はさらに強まり、オマーンは中国にとって湾岸での重要な拠点になるのではないかと思われる。
4. 輸入におけるバランス政策中国は1980年代に中東からの原油の輸入を開始した。その後、原油の輸入は増加し続け、1993年には輸入と輸出を相殺して輸入が多くなり、原油の純輸入国となったのであった。中国は原油の輸入国としては新参者であり輸入先を開拓するのが難しかったこともあり、はじめのうちは、イエメン、スーダン、イラン、イラクなど、輸入に際してのリスクのある国からも多くの原油を輸入していた。
輸入が増えていくのに伴って、次第に湾岸地域への依存を強めていき、なかでもサウジアラビアからの輸入が大きく増えていったのである。しかし、中国の原油輸入に関しては、特定の国への過度の依存を避けようとする傾向が見られるため、今後、サウジアラビアからの輸入が極端に増加することはないと思われる。
図の4からも見て取れるように、2011年まではサウジアラビアからの原油の輸入が大きく伸びていた。しかし、その後は伸び悩み、100万b/d前後の水準で推移している。一方で、湾岸地域では、ここ数年はイラクからの輸入の伸びが著しく、また、アラブ首長国連邦からの輸入もじわじわと増加している(図6参照)。
出所:Dow Jones Institutional News, Platts Commodity News, Reuters Newsのデータより作成
そうした動きから見て取れるのは、中国は原油の輸入で特定の一国への依存を強めるのではなく、バランスを取りながら輸入を進めていることである。中国の原油の輸入先として大きいのは、2017年1-6月平均で見ると、100万b/dを超えているのはロシア、サウジアラビア、アンゴラであり、数十万b/dのレベルの輸入先としてはオマーン、イラン、イラク、ブラジル、ベネズエラがある。その他にもイギリスから21万b/d、アメリカからも13万b/dを輸入しているなど、中国は幅広く世界から原油を輸入しているのである。
中国の原油の輸入量は2、3年の内に1,000万b/dに達する勢いである。経済が順調であれば、その後も確実に増加していくものと考えられる。湾岸地域には増産の可能性のある国も多く、必然的に湾岸地域からの調達量が増加していくものと見られる。しかし、大量の原油を輸入するようになる中国にとっては、供給面での安全保障を考慮すると、原油の輸入で一国への傾斜を強めることは得策ではなく、多様な供給国からの輸入を続けるものと考えられる。ロシアやアフリカ地域、南米などの供給国との関係を維持・強化しながら、イラクなど今後の生産増加が見込まれる国から、あるいは大産油国であるアラブ首長国連邦からの輸入の増加を図っていくものと考えられる。地域的には湾岸地域からの輸入が増加するにしても、サウジアラビアやイラン、イラク、オマーンなどとのバランスを図りながら、輸入を続けるものと考えられる。
5. 油田・ガス田の開発と中国原油の輸入が増えていく中で、中国は湾岸地域での油田やガス田の開発に関心を強めていった。中国にとっては石油資源の確保が最重要課題の一つとなっており、スーダンなど各地で資源開発への関与を深めていた。
湾岸地域でも、中国は、サッダーム・フセイン大統領時代の1997年にイラク政府と6億6,000万ドルを投資してイラク南部のアフダーブ油田の開発契約を締結するなど、早い時期から油田開発に関心を示してきた17。2003年のイラク戦争後にイラクの油田開発が外国に開放されると中国も参加し、ルメイラ油田やハルファヤ油田の利権を取得している。イランではアザデガン油田やヤダヴァラン油田開発への関与などが知られている。
GCC諸国に関しては、2004年に、当時ガス田の開発を進めていたサウジアラビアで、中国の石油会社Sinopecがルブウルハーリー砂漠地域のZone Bでガス田の開発権を取得している。同年には、Sinopec社は、オマーンのドファール州の油田開発鉱区2か所の開発権を取得している。どちらも生産には成功していない。
カタールでは、2010年に中国の石油会社CNPCがシェルと組んで天然ガスの開発協定を結び、2012年には中国の石油会社Petro Chinaが石油・ガス鉱区Blook4の利権の40%を取得している。このように、2000年代に入ると、GCC諸国での油田やガス田の開発への動きが表れるようになったのである。最も新しい動きとしては、2017年2月にアラブ首長国連邦のアブダビ国営石油会社(ADNOC)がCNPCに陸上油田の権益の8%を与えている。
中国が湾岸地域からの原油輸入を今後も増加させていく見込みの中で、中国は機会があれば、油田・ガス田の開発への関与を強めていくものと思われる。とくに油田の開発に際して外資の投資を歓迎しているイランやイラク、あるいはアラブ首長国連邦でも中国の開発参入の動きが強まりそうである。
終わりに代えて以上のように、原油の輸入の面で中国は湾岸地域への依存を強めている。石油資源の確保の観点からの、油田やガス田開発への参入の動きも強まっている。中国の発展にとって原油やガスの確保は重要であり、中国は湾岸地域とのつながりを強めていこう。
2003年に183万b/dだった中国の原油の輸入量は、2017年(1-6月)には836万b/dになり、14年間で4.6倍に増加している。原油の輸入増はニューヨークやロンドンなどでの原油先物相場の上昇をもたらし、原油先物相場の上昇は原油価格を上昇させ、アメリカでのシェール油田の開発や北極海や深海油田の開発につながり原油の供給増をもたらした。中国の原油の需要増は、マーケットを通して調整・処理された形となっている。
湾岸諸国からの原油輸入において、中国はバランスを図りながら輸入を続け、今後もその政策は続いていこう。そうした中国の原油輸入政策は、その外交政策や経済協力政策にも影響を与えるものと考えられる。中国は歴史的には湾岸地域の政治に介入することには慎重であった。今後も、原油や貿易・投資などの経済関係を強めながら18、慎重にかつバランスを図りながら、湾岸諸国との関係を強化していくものと考えられる。
中国は湾岸諸国との軍事的交流も強めつつある。2010年の11月には、ソマリア沖での海賊対策のために派遣されていた中国海軍の艦船3隻がはじめてサウジアラビアを親善訪問しジェッダに入港した。2011年11月には、中国海軍の艦船2隻がクウェートを親善訪問している。2014年9月には中国海軍の艦隊がはじめてイランを親善訪問し、バンダルアッバース港に入港後にイラン海軍との合同軍事演習を実施している。2017年2月には中国海軍の艦隊がサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、クウェートを親善訪問した。同年6月には、中国海軍の艦隊がバンダルアッバース港を再び訪問し、イラン海軍との合同軍事演習を実施している。中国海軍の艦隊がバンダルアッバース港を再び訪問し、イラン海軍との合同軍事演習を実施している。中国はパキスタンのグワダール港でも拠点化を進めている。
インド洋での中国の軍事的プレセンスが強化されるのではないかと指摘されることがある。湾岸地域に関しては、中国は原油や貿易・投資などの経済関係を前面に出しており、当面、中国の軍事的プレセンスが強まることはないと思われるが、将来の湾岸地域と中国との関係を考えると気になる動きではある。
(2017年9月13日脱稿)
新領域研究センター 福田安志
本文の注エジプトでは2016年11月の変動為替相場制への移行にともなって,インフレ率(消費者物価指数)が急上昇した。今年(2017年)は本稿執筆時点の8月まで年率30%前後で推移しており、過去30年間で最も高い水準になっている。現在の高インフレは、長期的にみれば、大胆な経済改革に伴う過渡的な現象かもしれないが、国民にとって大きな負担になっている。
物価動向は、エジプト国民にとって主要な関心の一つである。現在のエジプトは、全世帯の約半数が貧困線近辺の消費水準にあり、わずかな物価上昇でも生活苦に直面する層が多く存在する。そこで、以下では、最近のインフレ動向と政府の対応策を確認し、また今後の見通しを考察する。
1. インフレ動向エジプトのインフレ率は、近年では2008年に高騰した。2007年末に6.5%(前年同期比)だったインフレ率は、2008年8月に23.6%まで上昇した(図1参照)。なかでも、インフレ率算出のための財バスケットの主要構成要素である飲食料品の物価上昇が顕著で、2007年12月の8.6%(前年同月比)から2008年8月には30.9%(同)となった1。飲食料品物価の上昇は、同時期に発生した世界的な穀物価格高騰の影響が大きかった。エジプトは主食の小麦の多くを輸入しているため、小麦の国際価格の動向が国内食料品価格に反映されやすい。当時は、補助金付きパンの価格は据え置かれたが、小麦製品を中心とする多くの食料品が値上りした。さらに、食料品以外でも、被服・履物、保健医療、交通、通信、娯楽といった幅広い分野で物価が上昇したことにより、インフレ率は急上昇した(表1参照)。
(出所)Central Bank of Egypt
(出所)The Financial Monthly, March 2008, September 2008, December 2008, and March 2009 (Ministry of Finance)
それに対し、現在の高インフレは、経済改革に伴う価格体系の調整によるところが大きい。スィースィー政権は、マクロ経済の安定化を優先課題とし、2014年7月の成立直後から経済改革に着手した。改革の柱の一つが財政赤字の縮小で、これまでに補助金制度の見直し、タバコ税・アルコール税などの税率引き上げ、付加価値税(VAT)の導入を実施した。さらに、昨年11月には変動為替相場制に移行した。闇為替レートとの乖離が大きくなるなど外貨不足が顕著となるなか、管理変動相場制を維持することは困難となり、またIMFからの融資条件として為替制度改革を求められていたこともあり、政府は為替制度の転換を決断した。その結果、中央銀行による自国通貨の値決めと買い支えがなくなり、公定為替レートは市場での需給を反映するようになった。
公定為替レートは、2011年以降、徐々に切り下げられていたが、変動相場制に移行した途端に大きく下落した(図2参照)。変動相場制への移行直前に1米ドルあたり8.9エジプト・ポンド(以下、LE)だった公定レートは、2016年12月に同18.3LE(月平均値)に下落した。もっとも、公定レートの大幅な下落は、実需を反映していた並行市場レートの水準に収束したもので、事前にある程度予測されたものだった。そもそも、公定レートでの外貨調達は、基礎物資などの外貨割り当て優先部門を除くと困難になっており、多くの部門は外貨調達に並行市場を利用せざるを得なかった。その意味では、変動相場制への移行以前から、すでに公定レートと乖離した水準での為替取引は行われていた。しかしながら、公定レートが大きく下落したことで、基礎物資を含めたすべての財について、現地通貨建ての輸入価格が大幅に上昇し、インフレ高騰につながった。
(出所)Central Bank of Egypt
為替レートの下落以外に、補助金削減もインフレ率上昇をもたらしている。なかでも、エネルギー補助金の削減(エネルギー価格の引き上げ)が大きな影響を及ぼしている。エネルギー補助金の削減は、スィースィー政権発足直後から実施されたが、昨年(2016年)後半から加速している。例えば、補助金によって安価に抑えられていたガソリン価格は2016年11月と2017年6月に値上げされ、最も需要の多い80オクタン価ガソリンの価格は2.3倍になった。また、電力料金は2016年8月と2017年7月に値上げされ、平均して約2倍になった。電力料金の値上げは今後も続く見込みで、政府は電力補助金を2022年までに全廃するという目標を掲げている。
その他、今年(2017年)に入って、地下鉄料金の値上げ(1LEから2LEへ)、付加価値税(VAT)の税率引き上げ(13%から14%へ)、上下水道料金の値上げ、タクシー料金の値上げが実施された。これまで長年固定されていた公共料金も次々と値上げ対象となり、多くの財・サービスの価格上昇をもたらしている(表2 参照)。
(出所)The Financial Monthly, July 2016, October 2016, January 2017, April 2017 and July 2017 (Ministry of Finance)
現在の高インフレは経済改革の実施によって引き起こされたが、政府が高インフレを容認しているわけではない。前述のように、たとえ一時的なものであっても、インフレは多くの国民に困難をもたらすからだ。
エジプト政府は、インフレ昂進による生活水準の悪化を抑えるべく、さまざまな対策を講じている。なかでも、基礎食糧については、スィースィー大統領自らが繰り返し価格安定とアクセス確保に取り組むと述べている2。その手段となったのが軍による食糧販売と、新食糧補助金制度の活用である。
軍による食糧販売は、緊急対策として、軍によって生産(または輸入)された食糧を安価に販売するもので、都市部を中心に行われている。とくに、昨年以降しばしば砂糖や食用油などの基礎食糧の不足が表面化しているが、その際には軍による不足品の増産(または輸入)と販売が行われている3。
また、新食糧補助金制度による対策も行われている。新食糧補助金制度では、ICカードを導入することで、それまでの特定食糧の割当方式からバウチャー方式へと移行した4。その結果、補助額(支給額)の調整が容易になり、食糧事情に合わせて機動的に補助水準を変更できるようになった。実際、2014年に月額15LEだった一人あたり補助額は、2016年4月に18LE、同年12月に21LE、そして今年7月からは50LEと、インフレ昂進に合わせて増額された。
さらに、低所得者層については、公的扶助制度の拡充が図られている5。例えば、2015年に導入された現金給付プログラム(Takaful & Karama)の普及加速と支給額拡大が進められている。また、今年7月から年金支給額の15%増加も実施されている。
加えて、インフレ率が急上昇した昨年11月以降、中央銀行は利子率を何度か引き上げた。その結果、政策金利は、今年7月までの9か月間に計7%ポイント上昇し、19.3%になった(前掲図2参照)。
3. 今後の見通しエジプトの物価体系は、1960年代以来の補助金制度による物価統制のため、多くの財・サービスで大きく歪んでいた。同時に、2011年以降の経済低迷によって、広範な補助金制度を維持することがますます難しくなり、制度見直しが重点課題となった。そのため、スィースィー政権は、発足直後から経済改革に取り組み、マクロ経済の安定化、財政赤字の削減、社会保障制度の見直しを図っている6。そうした一連の経済改革の副作用として、高インフレになっていると捉えることができる。
経済改革によって価格体系の歪みが是正され、また社会保障制度の刷新によって再分配政策が機能するようになれば、中長期的な「物価の安定」をもたらすと期待できる。その一方で、過渡期の混乱を緩和するために、軍による安価な食糧供給といった介入措置が実行された。しかしながら、公的部門(および軍)の介入が長期化し価格体系に新たな歪みを生じさせることは避けなければならない。「物価の安定」は持続的な経済成長の基礎条件であるが、自由な経済活動のなかで達成される必要があるからだ。現在の政府は、一時的な困難緩和と、中長期的なマクロ経済安定化を両立するという難しい局面に立たされていると言えるだろう。
そんななか、「物価の安定」を最大の目標とするエジプト中央銀行は、インフレターゲットを導入した。今年5月のプレスリリースにおいて、金融政策委員会(MPC)は、2018年第4四半期までにインフレ率を13%(プラス/マイナス3%)とするという目標を定めた7。中央銀行がインフレ目標の具体的な時期と数値を明示するのは初めてのことで、金融政策の透明性向上を図ったと理解できる。インフレ目標達成に向けて、中央銀行は今後どのような政策方針を打ち出すのか注目される。
(2017年8月30日脱稿)
地域研究センター 土屋一樹
本文の注2017年はトルコとロシアの関係の深さが目立った1年であった。シリア内戦においては、トルコ、ロシア、イランの3ヵ国で内戦を終息させるためのアスタナ会議が8回開催された。また、11月末にはロシアのソチにおいて、ロシア主導の国民対話会議が開催された。加えて、トルコ政府は北大西洋条約機構(NATO)加盟国でありながら、ロシアの防空ミサイルシステムS-400の購入を決定したと報道されている。しかし、2015年11月24日のロシア軍機撃墜事件から翌16年の6月まで、両国の関係は最悪であった。なぜ両国の関係はここまで改善したのだろうか。本稿では、2017年のロシアとトルコの関係について、トルコによるロシア軍機撃墜事件以降の両国の関係について概観したうえで、シリア内戦終結に向けた両国の対応とトルコ外交におけるロシアの位置づけについて検討する。
1. ロシアとトルコの関係悪化とその改善2015年9月30日、アサド政権を支援するロシア軍が空爆を開始した。ロシアの空爆の目的はアサド政権の擁護とイスラーム国(IS)の掃討であり、後者に関してはトルコとも利害が一致していた。しかし、ロシアはISの掃討のためには、まず反体制派の中にまぎれているISとの関係が疑われる人員を排除することが必要だとして、アメリカやトルコが支援する反体制派地域へも空爆を実施した。また、ロシア軍機およびシリア軍機のトルコへの領空侵犯も相次ぐようになった。当然のことながら、反体制派を支援するトルコはロシアの空爆開始に強く反対した。そうした中、11月24日にトルコ軍によるロシア軍機撃墜事件が起こり、両国関係の悪化は決定的となった。ロシアはトルコに対して鶏肉やトマトをはじめとした農産物などの輸入制限やトルコ企業の活動制限などを含む17項目の経済制裁を課した。また、ロシア政府は自国民のトルコへの渡航も制限したため、ロシア人観光客が大きな収入源の1つであったトルコの観光業は大きな打撃を受けた。加えて、ロシア政府はシリアにおいてトルコが牽制するクルド系組織、民主統一党(PYD)がモスクワに外交オフィスを開設することを許可した。制裁など具体的な動きはなかったが、トルコは天然ガスの約50%をロシアからの輸入に頼っており、また、ロシアはトルコの最初の原子力発電所の建設を請け負っている。
シリア内戦での立場や自国の経済に大きな影響を及ぼすロシアとの関係悪化は、トルコにとっても負担が大きく、トルコ政府は水面下で関係改善の道のりを模索し、結果として、2016年6月29日に両国は関係正常化に合意した。そして、8月9日にはレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領がロシアを訪問し、原発事業の再開、ロシア人観光客向けのチャーター便の再開、トルコを経由してロシアからヨーロッパに抜けるガスパイプラインの「トルコ・ストリーム」計画の実施、対テロ政策での協力、などを確認した。次いで10月10日にはプーチン大統領がトルコを訪問し、黒海を経由してロシアからトルコにつながる天然ガスパイプラインであるトルコ・ストリームの着工に調印した。また、2016年12月19日にアンカラでアンドレイ・カルロフ駐トルコ・ロシア大使が写真展の開会の祝辞を述べる際に、警護のために会場にいたトルコ人の警察官に背後から銃撃され死亡した事件が発生した際も、両国は協力して捜査を行っていくことを確認している1。
2017年から本格的にロシア人観光客がトルコのリゾート地に戻ったことで、停滞していたトルコの観光業は2017年に再び活性化しつつある。2017年10月までの10ヵ月間で、ロシア人観光客は前年比で496%増加し、450万人以上がトルコを訪れている2。2017年10月には、禁輸措置が解けていなかったトマトのロシアへの輸出も2017年年末から2018年初め辺りをめどに解禁されることが決定した3。
安全保障分野での関係も深まっている。エルドアン大統領は2017年9月にロシアの防空ミサイルシステムS-400の購入を決定したと発表した。トルコのS-400の購入に関しては、以前から話題になっていたが、他のNATO加盟国、とりわけアメリカがNATOのシステムとの相互運用に問題があるとして強く反対してきた。トルコはロシアの提示したミサイルシステムの金額が最も良心的だったと説明しているが、急速にアメリカとの関係が悪化しているトルコと、NATO加盟国であるトルコと関係を強化し、NATOの結束に揺さぶりをかけたいロシアの思惑が一致したという見方も成り立つだろう。ただ、トルコは過去にも中国との間で入札を獲得していた長距離防空・ミサイル防衛システムの合意を最終的に見送った経緯もあり、最終的な設置まで目が離せない問題である4。
2. アスタナ会合の実施トルコとロシアはそれぞれ反体制派、アサド政権の主要な支援国であるが、シリア内戦を終焉させるという点では利害が一致している。その両国の思惑を反映しているのが、アスタナ会合の開催である。アスタナ会合は2017年1月から2017年12月までに計8回実施されている。以下で、8回のアスタナ会合について少し詳しく見ていきたい。
トルコ、ロシア、イランによる第1回目のアスタナ会合は2016年1月23日から24日にカザフスタンの首都、アスタナで開催された。上記の3ヵ国の代表に加えて、駐カザフスタン・アメリカ大使、そしてシリア問題担当国連アラブ連盟共同特別代表であるスタファン・デ・ミストゥラが参加した。状況としては、シリア第2の都市、アレッポにおいてトルコ、さらにアメリカをはじめとする国際社会が支援してきた反体制派がロシア、イラン、レバノンのヒズブッラーなどの支援を受けたアサド政権軍に対して決定的な敗北を喫した時期であった。この会議の最大の目的はシリア内戦の終結であり、そのためにアサド政権と反体制派を後押しする域外大国および地域大国が間接的に交渉するという方法が採られた。採られたというよりは、それ以外の方法がなかった。もちろん、シリア内戦の終結のためには当事者間の直接交渉が望まれる。しかし、反体制派の一部のグループは参加を拒否し、トルコがクルド系組織のPYDの参加を認めなかったため、直接交渉の実現は困難であった。第1回目の会合ではロシア、トルコ、イランの3ヵ国で停戦のための監視機構を創設することで合意した5。ただし、監視機構の詳細については詰められず、2回目の会合に持ち越された。
第2回目の会合は2月15日から16日に実施された。この会合では前回の話し合いから引き継がれた停戦監視機構の公式化について文書が採択された。また、アサド政権と反体制派の間で捕虜と遺体を交換するメカニズムに関しても話し合われた6。第2回目の会合にはアサド政権および反体制派の代表団も出席した7。
第3回目の会合は3月14日から15日にかけて実施された。この会合の直前、シリアで2度の自爆テロが起こり、反体制派はこれを理由に参加を見合わせた8。そのため、議論はほとんど進まない会合となった。
議論が大きく進んだのは5月3日から4日にかけて行われた第4回目の会合であった。この会合では、①ダラア県とクナイトラ県の一部、②ダマスカス県とグータ地方東部、③ヒムス県北部④イドリブ県とラタキア県・アレッポ県・ハマー県の一部という4つの地域に緊張緩和地帯(de-escalation areas)を設けることが3ヵ国間で合意された。ただし、アサド政権と反体制派はこの合意を認めず、また、緊張緩和地帯設定の詳細も決められなかった。とはいえ、アサド政権を後押しするロシアとイラン、そして反体制派を支援するトルコの間で緊張緩和地帯設立の決定がなされた意義は大きかった。
第5回目の会合は7月4日から5日にかけて行われた。この会合でも主題となったのは緊張緩和地帯の設置であった。3ヵ国間で基本的には合意しているものの、該当地域のどこに緊張緩和地帯を設置するか、そして緊張緩和のためにどの国の軍がどこに配置されるかについての協議は継続しているとされた9。また、非公式にロシアおよびトルコがカザフスタンとクルグズスタン(キルギス)に、また、ロシアが独立国家共同体(CIS)の国々に、それぞれ緊張緩和地帯の停戦監視を要請したと報道されている10。この背景には、アスタナ会合の参加国であるロシア、イラン、トルコはシリア内戦にあまりにも深く関与しているので、中立的な立場で停戦監視を実施できないという事情がある。特に反体制派はイランの革命防衛隊の関与を警戒していた。また、ロシアは7月9日にアメリカとの間でシリア南西部のダラー県とクナイトラ県において軍事警察が停戦の監視を行う取り決めを締結した11。
第6回目の会合は9月14日から15日にかけて実施された。そこで、3ヵ国間で合意した緊張緩和地帯の一部、具体的にはイドリブ県を中心にラタキア県・ハマー県・アレッポ県の一部で3ヵ国の軍による停戦監視のためのパトロールを始めることとなった12。停戦監視地域は6ヵ月が期限だが、もし必要であれば延長するとされた。各国それぞれ500名の監視員を送ることとされた。停戦監視のためのパトロールの主な任務は、①アサド政権と反体制派の間の対立を防ぐ、②両陣営の停戦違反を監視する、というものであった13。この会合にはこれまでの会合と同様、ロシア、イラン、トルコ、アサド政権、反体制派の代表団に加え、国連代表のミストゥラ氏、アメリカおよびヨルダンの代表団が出席した。また、初めてカタールの代表団が出席した。近年、カタールはトルコとの関係が非常に親密化しており14、加えてイランとの関係も良好である。こうした背景からカタールの代表団が会合に加わったと考えられている。
第7回目の会合は10月30日から31日にかけて実施された。この会合では緊張緩和地帯の設置に関して大きな進展は見られなかったが、その一方でテロとの戦いの徹底、そして国連によるシリア内戦の停戦交渉であるジュネーブ会合を補完するためにロシア主導で開催されるソチでのシリア国民対話会議を11月末に開催することが確認された15。続いて12月20日から21日にかけて実施された第8回目の会合も第7回目の会合と同様に2度目のソチでのシリア国民対話会議を2018年1月29日と30日に実施することを確認する会合となった。
アスタナ会合だけでなく、ロシアが企画したシリア内戦仲介のためのソチ国民対話会議でもトルコは中心的役割を担っている。ロシア、イラン、トルコのアスタナ会合の主要3ヵ国は2017年11月22日にソチに集まり、3ヵ国首脳会談を開催した。前日の21日にプーチン大統領はトランプ大統領、サウジアラビアのサルマン国王、エジプトのスィースィー大統領とも電話協議を行うなど調整を行い、2018年1月末にソチで国民対話会議を開催することを発表した。共同声明において、3ヵ国の大統領はアサド政権と反体制派に国民対話会議への出席を強く促した16。そして2018年1月末にソチで国民対話会議が開催された。
このように、シリア内戦の停戦を目的に始められたアスタナ会合は、ロシア主導のシリア国民対話会議に近い意見を持った会合と位置づけられるだろう。ただ、シリア国民対話会議にせよ、行き詰まりを見せている国連主導のジュネーブ協議にせよ、各アクターの思惑が交差し、紛争に関連する全てのアクターが参加することは極めて困難である。トルコはシリアのクルド人勢力がトルコ国内の非合法武装組織であるクルディスタン労働者党(PKK)と同一組織であると見做し、シリアのクルド人勢力と同じ席に着くことを拒否している。また、アサド政権を支援するロシアによる停戦協議を疑問視する声が反体制派の中に見られ、結局、1月のソチでの国民対話会議に反体制派の主力は参加していない。
3. トルコ外交におけるロシアの位置づけ1923年にトルコ共和国が建国されて以来、トルコ外交の基軸は伝統的に西洋であったことは間違いない。トルコ共和国設立の父であるムスタファ・ケマル(アタテュルク)にとって、近代化と文明化、そして西洋列強の支配から逃れるためには西洋諸国の仲間入りを果たす必要があった。ケマルの西洋化は政治・安全保障・文化の分野全てが含まれていた。第二次世界大戦前、トルコにとって西洋は西欧と同義であったが、冷戦期になると、西洋は西欧だけでなく、アメリカを含む概念となった。西洋重視の具体的な成果が1952年の北大西洋条約機構(NATO)加盟、1996年の欧州連合(EU)との関税同盟締結、2005年からのEU加盟交渉であった。
トルコ外交の基軸は常に西洋との関係であったが、トルコにとっての外交の選択肢が西洋だけだったわけではない。例えば、長く公正発展党の外交政策を牽引してきたアフメット・ダヴトオールは、「トルコは中東を含むアジアにどのように弓を引くかで、ヨーロッパやアメリカに対して放つ矢の距離が決定するのである。その逆も然りである」と述べているし17、トルコ外交研究の第一人者であるロビンスも「トルコ外交は、地政学のレベルではEUと中東という『2つの引力』によって規定される」と指摘している18。少なくとも、公正発展党政権期(2002~2018年3月現在)においては中東に対する外交が西洋と同様に重視されてきたと言えよう。
トルコの民族主義であるトゥラン主義も外交に影響を及ぼしている。冷戦体制が崩壊し、旧ソ連地域において中央アジア、南コーカサスの国々が独立を果たすと、当時の大統領であったトゥルグット・オザル、オザルの後任となったスレイマン・デミレルはテュルク系民族の連帯性を強調し、中央アジアや南コーカサスの諸国家と関係を深めようとした19。また、トルコの中東に対する外交およびトルコ民族を重視する外交と一部重複するが、オスマン帝国時代の歴史的遺産を外交に反映させる「新オスマン主義」も冷戦後の時代のトルコ外交の特徴とされた。新オスマン主義は1990年代初頭に、オザル大統領と彼に近い新聞記者、作家、政治家たちによって提示された概念で、1970年代から国内政治において徐々に浸透した「トルコ=イスラーム統合論」を外交政策において適用したものとも解釈できる。新オスマン主義を提唱する識者たちは、トルコは、バルカン諸国、南コーカサス、中東、中央アジアに存在するアイデンティティを胎動させる中心の1つと考える。
上記した4つの外交指針-西洋重視、中東重視、トルコ民族主義重視、新オスマン主義-はトルコ外交の4つの系譜と言えよう。さらにこの系譜は、トルコにおける4つの思想的伝統―西洋化、イスラーム主義、トゥラン主義、オスマン主義―と相関関係にあった。トルコ共和国の建国から冷戦期までは西洋重視の外交が基本であったが、冷戦後は多かれ少なかれ、4つの外交指針を組み合わせて展開されてきた。これに対し、コチュ大学のアクトゥルクは2015年に発表した論文で冷戦後から「ユーラシア主義(Avrasyacılık)」がトルコ外交の新たな指針として台頭してきたと主張している20。外交に関して、ユーラシア主義が最も重視するのが、ロシアを最重要の同盟国とするという点である。ユーラシア主義の思想的前提となっているのは、左派知識人によるケマリズムの解釈である。ケマリズムの一般的な解釈では、西洋化、つまり西洋重視が柱となるが、左派知識人はムスタファ・ケマルの反帝国主義の姿勢を強調し、また、経済政策に関して5ヵ年計画など、社会主義の制度を活用している点に着目する。
もちろん、トルコにおけるユーラシア主義は冷戦後に限定されるものではない。歴史的にオスマン帝国と帝政ロシアは緊張関係にあったが、人的交流もあった。また、オスマン帝国、帝国ロシアが共に滅びた第一次世界大戦後の戦間期、トルコとソ連は良好な関係にあった。冷戦期に入り、ソ連との関係が緊張した中でも、左派系知識人もしくは運動家の中でユーラシア主義の考えは存続し続けた21。トルコ民族主義や新オスマン主義同様に冷戦構造崩壊後にその動きは活性化するが、前者2つの考えほどは脚光を浴びなかった。しかし、ユーラシア主義の考えは、特に軍部を中心に根強く存在した22。
1990年代はロシアのPKK支援、トルコ政府のチェチェンでの反政府軍支援の問題があり、両国関係は必ずしも良好と言えなかったが、2000年代に入り、安定した。一方でユーラシア主義を提唱していた軍関係者がエルゲネコン事件など、軍による一連の国家転覆計画(現在ではギュレン運動による偽装工作だったと言われているが)で失脚したため、トルコ外交においてユーラシア主義は思ったほど影響力はもたなかった。しかし、2016年5月に西洋と中東を重視し、新オスマン主義を柱とした外交を展開してきたダヴトオールが首相を辞任し、その翌月以降ロシアとの関係が好転したことで、トルコ外交においてユーラシア主義が展開される素地は整ったと言えよう23。
おわりに本稿では、2017年のロシアとトルコの関係について、2015年11月24日のトルコによるロシア軍機撃墜事件以降の両国の関係を概観したうえで、シリア内戦終結に向けた両国の対応とトルコ外交におけるロシアの位置づけを検討してきた。トルコとロシアは必ずしも全ての利害が一致しているわけではない。特にシリア内戦においては内戦の終結という1点のみで利害が一致しているに過ぎない。そうであるならば、なぜトルコとロシアの関係はここまで強くなっているのだろう。その背景としては、2つの点が指摘できるだろう。
第1にトルコとアメリカの関係悪化および、アメリカの中東における存在感の低下である。アメリカとトルコは共通の脅威認識を基に冷戦期から同盟関係を密にしてきた。シリア内戦でも当初はアサド政権を共通の脅威として利害が一致していたが、2013年の夏にオバマ大統領がアサド政権の化学兵器使用疑惑の際に何のアクションも起こさなかったことに不信感を抱いた。現在はトルコがクルディスタン労働者党(PKK)と同一視して敵視するPYDおよびその軍事部門である人民防衛隊(YPG)をアメリカが支援していることから、共通の利害が見いだせていない。また、それ以外にもトルコとアメリカはギュレン運動に対する認識、トルコによるアメリカの対イラン制裁違反疑惑、トランプ大統領のエルサレム首都容認宣言など、多くの問題を抱えている24。また、冷戦後の時期において、中東の問題で中心的な役割を果たしてきたのは常にアメリカだったが、本稿で見てきたようにシリア内戦への積極的な関与から、近年ではロシアの存在感がアメリカ以上に目立っている。
第2に、2015年11月24日のロシア軍機撃墜事件を経験し、トルコ政府はロシアが自国にとっていかに重要であるかを再認識したという点である。ロシアは安全保障、貿易、経済、エネルギーとあらゆる分野でトルコと関係が深い。トルコにとってロシアは決して対立してはいけない国であった。ただし、トルコもロシアもお互いを完全に信頼しているわけではない。両者の関係は極めて現実主義的な双方の計算の上に成り立っている。トランプ政権とトルコ政府の関係が悪く、シリア内戦の終結にもまだ時間がかかると考えられることから、トルコとロシアの友好関係は当面続くだろう。
(2018年3月15日脱稿)
地域研究センター 今井宏平
本文の注ここでは、現代の中東を知るための新しい資料をいくつか紹介したい。中東社会を異なる角度から分析した3冊から、中東の多様な側面に関心を持っていただければ幸いである。
Sectarianization: Mapping the New Politics of the Middle East, edited by Nader Hashemi, Danny Postel. Oxford University Press, c2017.近年、中東政治の解説でよく耳にする「宗派主義Sectarianism」。中東のあらゆる暴力、紛争を解説してしまう魔法の言葉だ。曰く、現在のシリアやイラクの争いは7世紀から続くスンナ派とシーア派の相違を原因とするのだ…などなど。
本書は、巷に溢れるこの「宗派主義」言説を“新たなオリエンタリズム”として批判し、「宗派主義化(=宗派の政治化)Sectarianization」の過程と要因を分析する。政治学、歴史学、人類学、宗教学といった幅広い分野から集結した執筆陣は、宗派対立を非歴史的で本質的なものとして捉えるのではなく、宗派の対立が、なぜ今、どのような過程で激化していて、なぜそれが中東で起きているのかを分析する。
第1部では歴史的、理論的、地政学的観点から宗派主義化の性質と進化について探求し、第2部ではパキスタン、イラク、シリア、サウジアラビア、イラン、イエメン、バーレーン、レバノン、クウェートの9か国を分析する。そして権威主義政権をはじめとする政治アクターが、社会の発展を犠牲にして分断を生み出すことも意に介さず、中東地域あるいは国内における権力保持のために宗教的なアイデンティティを動員に利用してきたことを明らかにする。また作為的に生み出されてきたこの「宗派主義」が、今や自己達成的な予言となりつつある(宗派間の対立が煽られることで互いの憎悪が醸成され、実際に対立を生み出す)ことに警鐘をならし、「脱宗派主義化」の処方箋を描くことも試みている。“出口の見えない”と形容される中東の紛争を理解したい方に必読の書。
『オアシス社会50年の軌跡 : イランの農村、遊牧そして都市』後藤晃編. 御茶の水書房、2015.イランのオアシス大農業地帯マルヴダシュト地方において、1970年代から40年にわたり調査を続けてきた研究者たちの集大成ともいうべき著作。内容は19世紀後半から1980年代が中心的に取り上げられているが、豊富な写真と具体的かつ詳細な記述は、イラン農村研究の先駆者であった故大野盛雄のフィールドを引き継いだ著者たちとこの地方との関わりの(時間的な)長さと深さを実感させる。
内容は、地主制度や農業を中心とした第1部(第1章 地主制と村の農民、第2章 農政の展開と農業社会、第3章 大土地所有制の変遷)と、社会や地域経済を中心とした第2部(第4章 遊牧民定住村40年のあゆみ、第5章農民経済の発展と地域市場、第6章イラン革命とイスラム農地改革、第7章 マルヴダシュト地方の水利と社会)から成る。地主による大土地所有から1960年代の地主制の廃止、そして1979年イラン革命後の農民への農地分配といった土地所有制度の変遷と、それが形成してきた農業のあり様、地域経済、村落社会の変化が詳細に描き出されている。編者が意図したように、一地方の激動の時代を切り取った記録として、読み応えのある1冊となっている。
Animation in the Middle East: Practice and Aesthetics from Baghdad to Casablanca, edited by Stefanie Van de Peer, (Tauris World Cinema Series). I.B. Tauris, 2017.世界的にもヒットした「ペルセポリス」(イラン、2006)、「戦場でワルツを」(イスラエル、2008)を除き、中東のアニメを知っている人はどれほどいるだろうか。検閲、圧政、戦争といった困難にも関わらず、近年中東ではアニメーションスタジオが繫栄し、全く新しい世代の起業家やアーティストが育ちつつある。にもかかわらず、中東のアニメーションはこれまでほとんど取り上げられることがなかった。本書は、メディア研究者およびフィルム制作者が集い、中東各国の政治状況と映画をめぐる状況、それらのアニメーション制作や流通、放映に対する影響、さらに国を越えた地域的な繋がりをも視野に入れつつ、各国のアニメーション発展の歴史を考察する。
取り上げられているのは、イラクの民話のアニメーション化とアイデンティティ(第1章)、イランの国家機関とアニメーションの発展(第2章)、サウジアラビアと湾岸諸国における輸入アニメと国内制作アニメの性格(第3章)、トルコのアニメーションの発展と政治・文化状況(第4章)、シリアにおけるアニメーションの歴史と内戦がシリア人アニメ制作者たちに与えた影響(第5章)、レバノンのアニメーションの発展における教育の役割と大人を対象とした独立アニメーションの発展(第6章)、占領下のパレスチナにおける“ピクセル化されたインティファーダ”(第7章)、イスラエルのアニメーションが抱える表現の問題(第8章)、卓越した個人による作品から豊かな地域の協力とイニチアチブを誇るものへと進化したエジプトのアニメーション(第9章)、抑圧的な体制下で政治風刺として機能してきたリビアのアニメーション(第10章)、権威主義体制に相対するチュニジアのアニメーション制作と放映(第11章)、モロッコのIT技術を駆使したアニメーション(第12章)の12か国で、時代的にも地域的にも中東のアニメーションの発展を一望できる資料である。
図書館研究情報レファレンス課 高橋理枝