2019 Volume 6 Pages 34-37
本コーナーでは、現代の中東・イスラーム諸国を知るための新しい資料を紹介していく。これらの国々の多様な側面、および多岐にわたる研究テーマを知る一助としていただきたい。
中東研究において傑出した図書に与えられる、北米中東学会(The Middle East Studies Association (MESA))の2017年アルバート・ホーラーニー1賞受賞作。
スーダンは、1989年にオマル・アルバシール准将(当時。現大統領)とムスリム同胞団を母体として結成された民族イスラーム戦線(NIF)による無血クーデター(「救国」革命)が成功して以来、約30年にわたりこの政権による統治が続いている。しかしながら、IS(「イスラーム国」)に多大な関心が寄せられる一方、スーダンのイスラーム国家としての側面にはあまり関心をもたれてこなかった。人間開発指標189か国中167位(2018年)の低開発国で、干ばつや飢餓、内戦や南スーダンの独立、ダルフール紛争といった数々の問題を抱え「破綻国家」と評されるスーダンについては、紛争や難民、飢餓などが主な研究テーマとされてきた。
そうした中で本書は、長年のフィールドワークを通して、スーダン社会で生きる個人や社会組織の観察と分析を行い、国家のイスラーム性がいかに創りだされ、経験されてきたか、またイスラーム国家の権力がどう行使され、人々の日々の生活に影響を与えてきたかを考察したエスノグラフィーである。
第1章では、イギリス植民地政府が近代的世俗国家を作り出そうとする中で、シャリーア(イスラーム法)法廷などの国家イスラーム組織を作り出し、モスクの建設やメッカ巡礼を支援して、スーフィー教団の影響力を弱め、イスラーム実践のあり方を統制しようとしたことが述べられる。続く各章では、「救国」革命政権による「文明化プロジェクト」(政治組織や立法組織だけでなく、「知識のイスラーム化」といった文化や芸術、科学の分野をも射程にいれた、イスラームのモラルに基づく新しい市民形成の試み)(第2~3章)、国営ラジオやテレビに溢れるMadih(ここでは預言者ムハンマドを讃える詩)(第4章)、スーフィーやサラフィー主義(近代イスラーム改革主義の潮流の一つ)者の言説(第5章)などの分析を通して、イスラーム国家の仕組みや理想がスーダン社会をいかに構築してきたかが考察される。そしてスーダンの「イスラーム復興」が、単なる西洋への抵抗や、我々が想起するようなイスラームの理想の実現とは異なる独自の発展を遂げていることが明らかにされる。
本書はイスラームにおける公共圏と国家、近代国家と伝統的なイスラームの倫理の非両立性、といった既存の議論に挑戦する野心作であり、イスラームと国家の関係性に新たな知見を開くものである。
本書のテーマであるDemodernizationという用語は、元々ソ連崩壊後の東ヨーロッパの状況を描写するために使われ、戦争などによる短期的な状況の悪化とは異なり、「全般的な後退であり、原始的な、あるいは最低限でもより古い生活スタイルへの回帰」とされる。具体的には、経済的な停滞による生活難や産業の衰退、市民ナショナリズムの衰えと民族や宗派アイデンティティの復活、フェイクニュースが最新鋭のITツールを使って世界を駆け巡る、といった現象として現れるという。
本書では、歴史学、考古学、哲学、社会学、人類学といった多様な分野の研究者が集まり、Demodernizationの分析を試みる。まず編者であるラブキン氏が、主にソ連崩壊によって引き起こされたDemodernizationを概観する。続く17章は大きく4部に分けられ、最初の3章では、古代ローマの発展と衰退や、中世の国家形成、チリの放棄された鉱山の町といった歴史的“先例”からDemodernizationが考察される。続く4章では、地政学的な位置づけから生じる利害と外部の介入から後退を余儀なくされてきたイラク、イラン、パレスチナが取り上げられる。次の6章では、ヨーロッパや中央アジア、そして南アフリカへと視点が転換され、世界各地で起こっているDemodernizationが様々な観点から考察される。最後の4章は、「近代性」「合理主義」「国民国家」といった概念とともにDemodernizationについてさらに理論的な側面から分析がなされている。
一般的に、近代化は人間に自由と豊かな生活をもたらすと信じられているが、本書では、近代化が決して不可逆的な流れではなく、多くの国と時代において近代化政策が逆説的にDemodernizationをもたらしてきたことを指摘する。廃屋に中のグランドピアノを写すモノクロのカバー写真が、近代化の果てのDemodernizationを思わせる陰鬱な雰囲気を漂わせているが、現代世界を理解するための新たなパースペクティブとしてDemodernizationを提示することによって、社会正義と人間の尊厳の回復を志す書である。
本書は、日本においても今や身近な話題となった不妊治療(生殖補助技術、あるいは生殖補助医療とも呼ばれる)を切り口に中東を眺めようとする画期的な試みである。
本書は、まず人々の行動の背景にある倫理の主軸をなすものとして、イスラーム法学者による生殖補助技術の利用に関する議論を概観し、その上でエジプト、トルコ、イランの3か国におけるフィールドワークに基づき、「不妊治療をとりまく人間模様を描」きだす。それらを通して、中東では、子をもって一人前という強い価値観が維持されそれが不妊治療の受容と普及の背景となる一方、子どものもちかたや夫婦あるいは家族にとっての子どもの意味が世代によって変わりつつあること、また医療技術と経済的条件および倫理的側面を勘案しながら人々が不妊治療を受けるか否かを選択していることが明らかにされる。そして、中東でも「人々は、それぞれの状況や思いと折り合いをつけながら、日常を紡いでいる」ことが浮き彫りにされる。
巻末には、中東および日本やアメリカなどの出生率や医療費、平均初婚年齢といった人口、経済、医療、婚姻に関する基礎データと、生殖医療実施施設数や関連する法令、許可されている生殖医療の内容(例えば移植できる胚の数や、受精卵の凍結保存の可否)等の55項目が一覧表にまとめられている。これらのデータはそれ自体貴重であると同時に、中東諸国間あるいは中東諸国とその他の国々との比較を可能にする点でも重要である。
先行研究の蓄積も少なく、また情報へのアクセスの難しいテーマであるだけに、収録された論文には苦心の跡が散見される。しかしながら、とかく「テロ」や「内戦」、「ヴェール」、「抑圧」といった言葉で片付けられがちな中東を、“一枚岩の架空の世界”で、我々とは無縁の、どこか遠くにある「イスラーム・ランド」(ライラ・アブー=ルゴド2)にしてしまわないために、本書は極めて重要な意味をもつと考える。ぜひ多くの方にご一読いただきたい。
日本の伝統的な祭りを代表する京都祇園祭。その山鉾は、懸装品と呼ばれる染織品で飾られている。16~19世紀に世界各地で編まれた絨毯を含むそれら染織品が、時代を超えて大切に保存されてきたことで、著者によれば「山鉾町にはタイムカプセルのごとく、世界各地の染織品が今に伝えられ」てきた。本書は、京都祇園祭にも伝わるインド(特にデカン)絨毯を中心として、「オリエント絨毯」あるいは「イスラーム絨毯」と総称されるインドから中央アジア、イラン、トルコ、エジプトにいたる地域で生産されてきた絨毯について、生産と国際流通、世界各地でのそれらの受容のあり方について考察する。
全9章、約370ページの本書の前半では、絨毯の文様やモチーフといったデザイン、また素材などから絨毯の制作年代や地域を特定して、各地の絨毯を分類し特徴を記述していく。後半では、肖像画の背景に描きこまれた絨毯やヨーロッパの君主たちの財産目録、東インド会社の報告書などから、欧米や日本への絨毯輸出、および輸入先での絨毯の使用方法や絨毯のもつ社会的意味を考察する。そして教会勢力や王侯貴族に所有された絨毯が貴重品としてステイタス・シンボルの役割を果たしてきたこと、貿易が拡大するにつれて富裕な商人などにもその使用が広がったこと、貴重性が低下するとともにテーブル掛けではなく床に敷いて使われるようになったこと、また輸出先の嗜好に合わせて東インド会社が絨毯の仕入れや注文を行った結果、日本にはヨーロッパにはないデザインのインド絨毯が多く見られること、日本もグローバルな物流のネットワークやインド・ブームにつながっていた様子などが明らかにされる。
本文中における豊富な作例の列挙は時に冗長に感じられ、一覧表にする等の工夫の余地がありそうだが、カラー図版188枚、白黒の挿図167枚は、本書を通して多くの作品を「味わう」ことを可能にしている。これらには絨毯そのものの写真に加えて、輸入先での絨毯の使用方法を考察する手がかりとなるヨーロッパ絵画も含まれており、大変興味ぶかい。著者は、研究が進んでいない南インドのデカン産の絨毯に考察の多くを割いているが、インド絨毯に限らず、オリエント絨毯の歴史や貿易、世界での受容のあり方をも概観できる一冊となっている。
研究企画部研究業務調整室 高橋理枝