2023 Volume 19 Issue 1 Pages 1-10
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那須野が原博物館紀要 第19号 2023
那須野が原南東部に分布する第四系の層序
青島 睦治
〒321-0501 栃木県那須烏山市志鳥906
はじめに
那須野が原は栃木県北部に位置し,八溝山地,喜連川丘陵,高原火山群,下野山地,那須火山群,高久丘陵に囲まれ,面積400㎢ほどの北西―南東方向に伸びた紡錘形を呈する平地である (図1).北西端で標高500mほど,南東端では標高120mほどで,この方向に徐々に高度を減ずる.平均的な勾配は1/100ほどである.概して平坦であるが,数列の丘陵や台地が北西-南東方向に続く.那須野が原は全体的に扇状地とされているが,地層の堆積と侵食は全域で同じように進行してきた訳ではない.那須火山,高原火山そして下野山地の側から供給された後期更新世の砂礫 (扇状地礫層) は,原の北西部 (扇頂部) では表層を厚く覆い,それより古期の地層は地表にはほとんど現れていない.中央部 (扇央部) の西那須野や黒磯付近では,前期更新統を覆った火砕流堆積物によって作られた平坦面が,その後の河川の侵食により北西-南東方向の数列の谷と丘陵からなる起伏のある地形となり,さらにその後の堆積作用により谷はほとんど埋められ平らな地形が形成された.かつての火砕流からなる地層は現在の平坦面から30mほどの高さを持つ数か所の残丘として残されているだけである.また,那須野が原南東部 (扇端部) では火山活動に関連した一部の地層の堆積を除いて中期~後期更新統の堆積はほとんど行われず,もっぱら侵食作用が卓越していた.このため,前期更新統や中新統が地表近くに広く現れており,北西部や中央部に較べてより起伏に富んだ地形が作られている.このように南東部にはより古期からの地層が露出しており,那須野が原を作る地層の堆積並びに侵食の歴史を調べるのに適している.本報告では主として那珂川町浄法寺から矢板市山田に至る箒川沿い,および箒川合流点から大田原市街地に至る蛇尾川沿いに分布する第四系について扱うことにする (図2).
地質ならびに地形に関する従来の知見
周辺部の地質から類推して,那須野が原の地下には八溝山地や足尾山地に広く分布する中生代付加体や白亜紀~古第三紀の火成岩体の存在が予想されるが,これらに関する情報はほとんどない.中期中新世の地層は南那須地域では荒川層群と呼ばれ,下位から小塙層,大金層,田野倉層,入江野層に区分されている (酒井,1986).那須野が原南東部の箒川沿いには田野倉層と入江野層が分布するとされてい
図1. 那須野が原の地形 地形区分は阿久津(1962)による− 2 −
る(例えば久保ら,2007).那珂川沿いにも那須町の伊王野付近まで新第三系と思われる地層が点々と分布するが,示準化石の産出は知られておらず,放射年代の報告もないため,荒川層群との対比は不明である.
喜連川から益子に至る喜連川丘陵には砂礫を主体とした第四系が広く分布する.この地層については地域あるいは研究者によっていろいろな名称が用いられてきたが,今日では境林層が一般的に使われている (日本地質学会編,2008など) のでここでもこれを踏襲する.那須野が原においては南金丸の那須野ヶ原CC付近から湯津上の湯けむりふれあいの丘付近に続く丘陵 (金丸原) や片府田の旧東那須CC付近の丘陵には境林層が分布するとされる.また,箒川右岸の浄法寺から福原にかけてつづく丘陵の北麓には境林層が広範に露出し,さらに箒川左岸側の段丘崖にもこの地層が分布するとされている (栃木県,1991など).喜連川丘陵の境林層中に介在する火砕岩層について白河火砕流堆積物群と対比する見解がある (鈴木・小池,1994.山元,2006).また,境林層は広域テフラの貝塩上宝テフラに覆われるとされており (小池ら,1985 .貝塚ら編,2000),これらを根拠にして境林層は前期更新統と考えられている.
那須野が原の中央部から北西部の地表には境林層は分布しないが,ボーリング資料 (栃木県,1979など)によれば南東部の地表に見られるものよりはるかに厚い,砂礫を主とした境林層に相当する可能性のある地層が存在する.伴 (1990) はこれらを西那須野層と呼んでいる.西那須野層の年代や詳しい岩相は知られていないが,県南部の鬼怒川地溝帯に伏在する第四系に続くものと考えられ,関東平野の地下に広く伏在する上総層群や下総層群相当層に対比されるのかもしれない.
高原火山東麓から矢板付近にかけての地域には喜連川丘陵の境林層よりも火砕物に富んだ砕屑物からなる地層が分布しており,これらも一連の堆積物と考えられてきた.しかし,矢板地域の境林層とされる地層からはナウマンゾウの化石が産出しており (鈴木・岡田,1976),喜連川丘陵とは年代的に異なるものを含むのは明らかである.
境林層は那須野が原において広く火砕流堆積物に覆われている.この地層は大田原浮石層 (佐々木ら,1958),館の川凝灰岩層 (鈴木・阿久津,1955) などと呼ばれてきたが,最近では大田原火砕流堆積物という呼称が一般的で,およそ30万年前の高原火山のカルデラ形成の際の噴出物 (尾上,1989) とされた.その後,大田原火砕流堆積物には複数の火砕流堆積物が含まれているという見解が現れ,活動時期をめぐって複数の説が唱えられている (弦巻ら,2009.山田ら,2018など).
那須火山の噴出物や山体崩壊に伴う岩屑なだれ堆積物は火山山麓から高久丘陵に広く分布し,那珂川流域にも流れ込んでいる.那須野が原南東部においては黒羽付近や箒川合流点よりやや下流左岸の馬頭地域に黒磯岩屑なだれおよび余笹川岩屑なだれ堆積物と呼ばれる地層が分布し,その年代は0.21~0.30Maとされる (山元,2006).菊地・長谷川 (2020) は那珂川のはるか下流の茨城県瓜連丘陵に見られる粟河軽石層は余笹川岩屑なだれ堆積物が起源と考えた.また,余笹川岩屑なだれ堆積物はAPmテフラ (0.33~0.36Ma) に覆われるとした.
那須野が原の表層は広く扇状地堆積物に覆われるが,渡部ら (1960) は古期の鳥の目礫層および鳥の
図2.調査地の位置− 3 −
目ローム層と新期の堆積物に区分している.
那須野が原の地形面は研究者によって様々に区分,命名されているが,概観すると,原の主部を構成する面 (那須野面) とこれより古いいくつかの (高位の) 面,さらに現在の河川の侵食により形成されたより低位のいくつかの面に区分される.ただし,扇頂部については古い地層を覆う新しい地層の堆積面が作るいくつかの地形面が認められる (阿久津,1962など).
調査結果
調査地域には下位から荒川層群の田野倉層と入江野層,境林層,大田原軽石凝灰岩と那須火山起源の岩屑なだれ堆積物と推定される地層,鳥の目礫層,扇状地礫層および関東ローム層が認められた.以下,これらの地層について述べる.箒川沿いの層序を図3に,蛇尾川沿いの層序と模式断面図を図4に示す.
田野倉層
箒川右岸の那珂川町浄法寺や左岸の大田原市蛭畑から佐良土にかけての段丘崖および箒川河床に露出する.主として塊状のシルト岩からなり,珪藻化石を多く含む.二枚貝,巻貝,魚類の鱗や歯,植物の葉や茎などが散在し,生痕もよく産する.
入江野層
箒川の浄法寺橋上流右岸の小範囲に露出する.細粒~中粒の砂岩からなり,細粒の凝灰岩層が挟まれる.二枚貝類の印象化石が稀に含まれる.岩相と化石の産状は南那須の荒川沿いの模式地付近のものに類似している.
境林層
調査地域の境林層は岩相から見て三層に区分されるので,ここでは下部層,中部層,上部層として記述する.
境林下部層
主として礫からなる中部層の下位に,火砕岩類に特徴づけられる地層があり,これを下部層とする.箒川の福原橋下流右岸側に連続的に露出し,とくに福原頭首工下流に注ぐ小河川で層序をよく観察できる.ここでは円摩された中礫~大礫からなる中部層の礫層の下に5~6mの厚さの岩相変化の激しい砕屑物層があり,葉理の発達した細粒~粗粒砂,塊状のシルト~細粒砂,細礫~中礫を含む粗粒砂などからなる.細粒の凝灰岩層が挟まれることがあり,時には軽石粒が散在する.また,炭化あるいは珪化した木片が密集した層が認められる.砕屑物層の下位には厚さ4mほどの塊状の軽石凝灰岩層が発達する.軽石は2~3cm大が多く,大きなもので10cm程度である.軽石凝灰岩層の下位には塊状の凝灰質シルト層が厚さ2m以上続く.軽石凝灰岩層は左岸側でも片府田集落南方から上蛭田集落南方に至る段丘崖に点々と露出しており,鍵層として有効であることから福原軽石凝灰岩層と呼ぶことにする.
境林下部層にあたる地層は従来の調査では中新統と解釈されているようであるが,前述の木片が密集した層からはCymbella, Stauroneis,
Pinnularia, Diploneisなどの淡水生の珪藻化石が産出しており (図5),これらが陸成層であることを示している.従来,荒川層群は海成層,境林層は陸成層とされているので,この地層は境林層の一部と考えるのが妥当である.阿久津
(1962) は福原および野
図3.箒川沿いの層序− 4 −
崎の泥炭層から多数の淡水性,湿地性の珪藻化石を見出し,産出種のリストを掲げているが,柱状図 (阿久津,1962のFig.2) から見て福原の化石は筆者のものと同じ層準産であると思われる.
境林中部層
主として礫層からなり,礫は中~大礫で,よく円摩されている.レンズ状の中粒~粗粒砂層が挟まれることがある.細粒の凝灰岩層あるいはこれらが変質したと思われる粘土層が複数の層準に認められる.箒川右岸の福原と柳林の間の丘陵の北斜面には,厚さ30mほどの主として礫層からなる地層が広範囲に露出し,境林中部層にあたる.ここはかつての柳林礫層の模式地とされていた (佐々木ら,1958など).箒川左岸では佐久山の岩井橋と松原集落の間の段丘崖に礫層からなる本層がよく露出する.蛇尾川では箒川との合流点から北那須浄化センター付近まで礫層からなる地層がほぼ連続的に露出しており,境林中部層にあたると考えられる.
境林上部層
礫層を主とする部分の上位には凝灰質シルトなどが主体となる岩相が発達する.佐々木ら (1958) はこの部分を相の沢火砕岩層と呼んでいる.模式地である相の沢は箒川上流の上伊佐野と宇都野の間にあり,箒川に面して凝灰岩や凝灰角礫岩などからなる地層が小範囲に分布している.この地層と本報告で取り上げている地域の地層は分布が離れており,対比する確かな根拠がないのでここでは別のものとして扱い,境林上部層とした.境林上部層は凝灰質の細粒砂~シルト,細礫まじりの粗粒砂,中礫~大礫,細粒の凝灰岩などからなり岩相変化が著しい.全体的に凝灰質で,軽石が混じることがある.変質を受け粘土質になっていることもある.とくに凝灰質のシルトは赤褐色を呈することが多く,外見上は関東ローム層に類似するが,風成層ではなく水成堆積物と考えられる.
中部層の礫層から上部層に漸移する様子は岩井橋付近の段丘崖や滝沢の不動の滝の下流の沢,さらに上流に続く段丘崖
図4.蛇尾川沿いの層序と模式断面図
図5.境林下部層産の珪藻化石
1 Cymbella sp. 2 Cymbella sp. 3 Stauroneis sp.
4 Pinnularia sp. 5 Pinnularia sp. 6 Diploneis sp.
7 Eunotia ? sp.
スケールバー:aは1,bは2~5,cは6~7に対応
いずれも0.1mm− 5 −
などで観察できる.さらに上流右岸の将軍塚付近の大規模造成地 (ホープヒル) から沢観音裏手に続く丘陵の北斜面には連続的な露頭があり,境林上部層と上位の大田原軽石凝灰岩 (後述) との関係が観察できる.ここでは境林上部層は14m以上の厚さがある.なお,前述の福原と柳林との間にある丘陵斜面の大規模露頭において,境林中部層の礫層の上位に凝灰岩や凝灰質シルトからなる地層が部分的に露出しており,境林上部層に当たると思われる.
蛇尾川においては宇田川橋付近から上流に境林上部層は分布する.支流の鹿島川では蛇尾川合流点から清掃センター付近まで河床に赤褐色の凝灰質シルト層が連続的に露出し,この地層が侵食に強い性質を持つことを示している.蛇尾川の旭橋付近から下流の橋までの右岸側の段丘崖にも同様な境林上部層の地層が分布している.大田原市街の龍城公園南側では接触面は確認できないものの,上位の大田原軽石凝灰岩が境林上部層を覆う関係が認められる.蛇尾川左岸側では旧東那須CCの東側の小さな沢に赤褐色の凝灰質シルト層が広く露出する.佐々木ら (1958) は金丸原の北側の広範囲にわたって相の沢火砕岩層が分布することを図示している.本調査では湯津上の那須スポーツパーク北側などで火砕物に富んだ地層がわずかに観察された.
大田原軽石凝灰岩層
那須野が原地域にはよく目立つ中期更新世の軽石凝灰岩層があり,この地層は大田原市街地付近の蛇尾川や野崎橋付近の箒川沿いに露出する他,那須野が原の地下にも広範に分布し,不透水性であるため上位のよく水を通す砂礫層との境界部分が良好な地下水源を形成している.提橋 (1976) によれば那須野が原の井戸掘りでは,この凝灰岩層が水を得るためのよい目安になっていたという.一方,那須野が原周辺の喜連川丘陵,矢板丘陵や高原火山南東麓にも目立った凝灰岩層があり,これらも同一のものとされ,塩原カルデラを給源とするものと考えられた (尾上,1989など).ところが前述の通り,複数のテフラが混同されていた可能性があり,年代に関しても異説が提唱されている.本報告では対比が明らかでない周辺地域には触れず,那須野が原地域に限定して議論を進める.提橋 (1976) は2000か所にも及ぶ電気探査と井戸掘りの経験に基づき,那須野が原の地下に「大田原浮石層」が広く分布する状態を図示している.この地域で温泉や地下水探査のため実施されたボーリングデータのいくつかは栃木県水理地質書 (2003) や5万分の1表層地質図などに収録されている.また東北新幹線建設の際の地質調査のデータは日本国有鉄道 (1981) で公表されているが,ここでは那須野が原の20kmの区間で135本のボーリングが掘られている.これらのデータから見て,那須野が原中央部の地下に伏在するものおよび蛇尾川,箒川沿いに露出する凝灰岩層は空間的分布から見て一連の地層であると判断できるであろう.また,藤荷田山,赤田山,二つ室岳,権現山,稲荷山等の分離丘陵も同じ地層からできている残丘であると考えられる.この火砕岩層の名称としては「大田原浮石層」が適当であろうが,浮石という言葉は今日一般的ではないので,本報告では大田原軽石凝灰岩層と呼ぶことにする.ところでこの地層の厚さはよく分かっていない.浅井戸や土木関係のボーリングではこの凝灰岩層に達すると掘り止めにすることが多く,若干の温泉ボーリングなどの深井戸の資料があるものの地層の正確な同定は無理で,大田原軽石凝灰岩が伏在することは明らかであっても下限は不明なことがほとんどである.
箒川右岸において大田原軽石凝灰岩層は沢観音裏手の崖,東土屋から野崎橋付近,金和崎岩に露出し,軽石を多量に含む塊状の細粒凝灰岩からなる.より下流では佐久山の御殿山公園まで分布が確認される.箒川左岸には露出しない.蛇尾川においては龍城公園から蛇尾橋付近,今泉橋の上流右岸側などに露出する.分離丘陵では今日,露頭はほとんど観察できないが,大田原市富池の丘陵での工事現場でわずかに露出するのを確認できた.
大田原軽石凝灰岩層が境林上部層を覆っている状態は沢観音で見られる.岩相の相違は顕著であるが,両者の間が侵食面であるとは思えない.佐々木ら (1958),渡部ら (1960),鈴木・阿久津 (1955) はいずれも両者の関係を整合としている.今回の調査において箒川ルートと蛇尾川沿いのルートの両者における境林層から大田原軽石凝灰岩に至る岩相変化は同様の過程をたどっており,顕著な層序の間隙は観察されなかった.
那須層
蛇尾川沿いの北那須浄化センター付近から宇田川橋に至る両岸に,境林層を覆う粗粒の火砕物などからなる地層が局所的に分布する.この地層は大きさ1mに及ぶ火山岩の角礫や凝灰角礫岩のブロックを− 6 −
含むこと,境林層に較べて粗粒の円礫が含まれること,基質が時に凝灰質となるなどの点で境林中部層の礫層とは異なっている (図6).この地層が下位の境林中部層の砂礫層を明瞭な境界をもって覆う様子は不動川の不動滝,北那須浄化センターに隣接する野球場付近,旧東那須CCの西側の蛇尾川沿いの崖など各地で観察される (図7).また宇田川橋下流右岸の200mほどの範囲では境林上部層の赤褐色凝灰質シルト層がこの粗粒火砕物の地層に覆われている (図8 ).このように境林層の異なった層準をこの地層が覆っているということは,両者の堆積の間に時間間隙があり場所によって侵食の進み具合が異なっていたことを示している.
佐々木ら (1958) の地質図ではこの地域には相の沢火砕岩層 (筆者の境林上部層に相当) が分布するとされているが,前述の通りこの地層は境林層との間に侵食の時期を挟むより新期の堆積物であると考えられる.また,この地層は大田原軽石凝灰岩とは岩相がまったく異なっている.この地層と対比しうるものとして黒磯または余笹川岩屑なだれ堆積物が考えられる.この岩屑なだれは那須火山を起源とするとされ,高久丘陵から那須野が原北東部,さらに那珂川沿いに馬頭温泉まで分布している.また,山元 (2012) は那須野が原中部の戸屋山に黒磯岩屑なだれ堆積物が分布することを記載している.岩屑なだれ堆積物と同時期ないし同時異相の関係にある礫層は鍋掛礫層と呼ばれている (渡部ら, 1960 .阿久津, 1962).渡部ら (1960) は黒磯火山泥流 (今日では岩屑なだれとされている) と鍋掛礫層を合わせて那須累層とした.この堆積物は那須火山のある時期の活動にかかわる複数の岩屑なだれや河川が運んだ岩屑なだれの二次堆積物,さらにそれ以外の河川堆積物をも含むものと考えられるが,同時期の同じ供給源を持つ堆積物であるのでひとつの地層として扱い,ここでは那須層と呼ぶことにする.
図6.那須層の凝灰角礫岩,蛇尾川左岸,旧東那須CC西側
図7.境林中部層を覆う那須層,蛇尾川左岸,旧東那須CC西側
図8.境林上部層を覆う那須層,蛇尾川右岸,宇田川橋下流− 7 −
那須層の地表における分布はほぼ那珂川沿いに限られるが,黒羽市街地で那珂川に合流する湯坂川とその支流の相の川に沿って局所的に那須層が露出する所がある.ここでは岩屑なだれ堆積物が新第三系の凝灰岩層を直接覆い,さらに上位に河川成の砂礫層 (鍋掛礫層に相当) が分布する.相の川のさらに上流の南金丸付近の河床には時に火山岩の巨礫が観察されるが,これらはかつての岩屑なだれによってもたらされたものと推定される.この付近の那須層の分布地域は非常に限られていることから,岩屑なだれが那須野が原一帯を広範囲に覆ったと考えるよりも,地形的に低いかつての谷に沿って流れ,残された堆積物が埋積され,その後現在の河川の侵食によってたまたま地表に露出したものと解釈できよう.蛇尾川沿いの那須層の分布域も局所的なもので,おそらくかつての谷を埋めた堆積物であろう.
鳥の目層
蛇尾川左岸の大田原市街地東側から南南東方向に延びる台地は砂礫層とそれを覆うローム層から構成されている.この砂礫層は金丸原砂礫層 (阿久津,1962) あるいは鳥の目礫層 (渡部ら,1960) と呼ばれており,那須野面を作る扇状地礫層よりも古く,ステージ6のものとされる (貝塚ら編,2000).渡部・提橋 (1962) によれば鳥の目礫層は那須野が原全域に分布するものの,北西部や中央部では扇状地礫層に覆われて地下に伏在する.一方,南東部では侵食され失われていることが多く,古い段丘の基部にのみ残されている場合がある.鳥の目礫層と扇状地礫層の間に鳥の目ローム層が挟まれることが多い.鳥の目ローム層は那須火山起源のテフラで,風成の場合と水成の場合があるとされた.蛇尾川の旭橋北東0.5kmの段丘崖に露頭があり,鳥の目礫層と鳥の目ローム層が観察できる.ここでは下位の礫層と上位のローム層は漸移しており,ともに水成層と考えられる.そこで同じ年代の同じ供給源を持つ堆積物として一連の地層として扱い,本報告では鳥の目層と呼ぶことにする.
考察
箒川沿いのセクションにおいて境林下部層から大田原軽石凝灰岩に至る地層はほぼ水平に堆積しており,標高が高くなるにつれてより新しい地層が出現するという関係が満たされている (図3).これは地層の堆積後にテクトニックな変動がほとんど無かったことを意味している.蛇尾川のセクションにおいても基本的にこの関係は維持されているが,前述の通り一部で那須層と鳥の目層という新しい地層が上に重なるのではなく,古い地層の間に割り込む形になっている (図4).このことは地層の堆積後に侵食作用が働き,起伏のある地形が形成された後に新しい地層が谷の部分に堆積したと考えれば説明できる.蛇尾川地域においては那須層と境林中部層および上部層との接触関係を除いて,那須層および鳥の目層と他の古い地層との直接の関係は観察できない.
渡部ら (1960) は黒磯市街地北方の那珂川右岸に当たる鳥野目地域において露頭観察と電気探査および井戸資料を用いて地下構造を解析し,那珂川の旧流路を推定した.また図9のような地質断面を描き,地層の堆積過程を復元した.これによれば
①大田原軽石凝灰岩層 (大田原浮石層) の堆積
②旧那珂川による大田原軽石凝灰岩層の侵食と谷の形成
③那須層 (互いに指交関係にある鍋掛礫層と黒磯火山泥流) の堆積
④次の時期の旧河川による那須層の侵食と谷の形成 (②の谷より10mほど浅い)
⑤谷を埋めて鳥の目層 (鳥の目礫層) が堆積
⑥広い範囲に扇状地礫層が堆積
⑦現在の那珂川による侵食 (②の時期と同レベル) と段丘礫層の堆積
図9.鳥野目地域の地質断面 渡部ら (1960)に基づく− 8 −
という堆積と侵食の過程を経て,現在の地質構造が出来上がったと考えられる.
蛇尾川地域においても旧河川の流路や規模は不明なものの同様な過程を辿ったと考えていいだろう.すなわち,境林層から大田原軽石凝灰岩層の時期までは堆積が卓越する時期が続いた.大田原軽石凝灰岩層は那須野が原の中央部から南東部の全域を覆い,この時那珂川の流路は八溝山地の西麓側においやられたのではないかと筆者は考えている.その後那須野が原全域で侵食が卓越する時期が続き,南東部では現在の残丘の部分を除き大田原軽石凝灰岩はすべて侵食され,谷に当たる部分では境林中部層にまで侵食が及んだ.一方,那須野が原中央部では正確な層厚は不明なものの南東部よりも大田原軽石凝灰岩ははるかに厚く,残丘以外の部分でも新期の堆積物に覆われて連続的に地下に伏在している.地下構造が具体的に明らかにされている例として西那須野の烏が森周辺を見てみよう.ここでは地下水を得るための多くの井戸が掘られ,電気探査も行われている (渡部・提橋,1960).烏が森は周囲の平地 (那須野面にあたる) から見て比高30mほどの丘陵で,大田原軽石凝灰岩からできている.この地層は周辺の地下に続いており,全体的な構造としては北西-南東方向に窪んだ谷と烏が森を含む基盤の高まりを作っている.谷底は地表下20~30mの深さにある (図10).このような地下構造から読み取れる地史は
①大田原軽石凝灰岩の上面は少なくとも現在の烏が森の頂面付近にあったはずで (関東ローム層は考慮外とする) ほぼ平坦な地形が拡がっていたと思われる.
②河川による侵食が行われ,地表の凹凸が生じ,谷の深さは尾根から60m程度にまで達した.
③堆積が勝る環境に変わり,鳥の目層,扇状地礫層が堆積した.その後,これらの砂礫を運んだ川の流路が大きく変わり,現在ではこの地域に大きな河川はなく,堆積や侵食の作用は顕著でなくなった.
このように大田原軽石凝灰岩堆積後は那須野が原全域で侵食作用が卓越し,現在よりも起伏に富んだ地形が作られたと推定される.蛇尾川流域においても現在と同程度の谷が形成された後,岩屑なだれの流入や同時期の河川成の砕屑物の堆積が起こり,少なくとも谷の一部は埋積されたのだろう.この後,火山活動の活発化などによって那須野が原の北西部や中央部では堆積作用が勝る時期となり,鳥の目層や扇状地礫層が谷の部分を埋め,現在のような比較的平坦な地形が作られた.これに対して那須野が原南東部では砕屑物の供給量自体が少なかったと思われる.鳥の目層は堆積後多くの部分は侵食され,段丘の基部に残るだけとなった.箒川沿いの段丘崖での観察では地表近くまで境林層が現れている場合が多く,扇状地礫層と思われる地層は限られている.このように南東部においては北西部や中央部に較べて堆積作用は活発でなく,侵食作用が目立っていると言える (図11).
図10. 西那須野,烏が森付近の地質断面 渡部・提橋 (1960 ) に基づく
図11.那須野が原中央部と南東部における堆積と侵食の過程− 9 −
まとめ
那須野が原南東部においては新第三紀の荒川層群を覆って更新統の境林層と大田原軽石凝灰岩層がほぼ水平に堆積した.この後侵食が卓越する時期があり,大田原軽石凝灰岩はほとんど削剥され,境林中部層にまで侵食が及んだ場所もある.那須火山の活動期に入り,那須層が当時の谷に沿って堆積したが,現在はごく一部が残されているだけである.さらに,鳥の目層が広く堆積したものの多くは削剥され,台地の基部に一部が残されているのみである.このように那須野が原南東部においては北西部や中央部に較べて侵食作用が卓越していた.
大田原軽石凝灰岩層堆積後,那須層堆積前の期間に河川の侵食作用によって数十m程度の起伏が生じたと考えられる.これに要する時間の見積もり次第では大田原軽石凝灰岩とおよそ30万年前の高原火山起源とされる塩原大田原テフラの対比は成り立たなくなる可能性がある。
謝辞
本報告の基礎は那須野が原の地下構造に関する多くの既存の知見によっている.中でも1950~1960年代に那須農業高校に勤務され,地学クラブの生徒と共に地下水探査に献身された提橋昇先生の業績は抜きんでている.先生はまた,栃木県立博物館の準備時代,土地勘の無い著者にとって栃木県の地質のよき導き手でもあった.提橋先生および那須野が原の地質の調査に尽力された多くの先人たちに感謝の意を表したい.
引用文献
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