Bulletin of the Nasunogahara Museum
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2024 Volume 20 Issue 1 Pages 51-80

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− 51 −

那須野が原博物館紀要 第20号 2024

明治・大正・昭和期の西那須野駅周辺の商店

-『栃木縣營業便覧』「栃木縣西那須野驛真景」等からの俯瞰-

金井 忠夫

那須塩原市那須野が原博物館 〒329-2752 栃木県那須塩原市三島5丁目1番地

はじめに

 西那須野駅周辺の商店の形成は、日本鉄道会社(1)の奥州線敷設による明治19年(1886)10月1日の那須(後の西那須野)駅の開業をもって始まる。

 西那須野駅周辺は、過去に明治40年(1907)に発刊された『栃木縣營業便覧』に掲載され、大正13年(1924)に描かれた「栃木縣西那須野驛真景」が存在する。この2図が存在するのは、北那須地域では大田原と黒羽、そして西那須野駅前である。

 さらに、平成期の西那須野町史編さん事業において、『西那須野町の民俗』(西那須野町史双書11・平成6年刊)にて筆者が担当した「町内のくらしと伝承」の中で、昭和10年(1935)頃と昭和30年(1955)頃の商店の復元を試み、多くの話者による聞き取り調査を行い記録した(この時点で旧旭町と五軒町通りは未調査)。

 これにより、明治40年・大正13年・昭和10年頃・昭和30年頃の時代を追って状況をある程度記録化された。さらにこのたび昭和42年(1967)発行の栃福通信社発行の駅前商店図(2)と、昭和54年(1979)の住宅地図(3)を援用し聞取り調査を加えた。

 それらの資料及び聞取り調査を基に復元図を作成し、時系列的に辿ることにより、西那須野駅周辺の明治・大正・昭和の商店の移り変わりの一端を捉えることができると考える。なお、市街地の古写真を適宜挿入したが、これらの写真は、全て那須塩原市那須野が原博物館提供である。

1.西那須野駅と開業後の状況

(1)那須駅の開業

 日本鉄道会社は、奥州線を敷設し矢板駅と那須駅を明治19年10月1日に開業し、黒磯駅を同年12月1日に開業する。

 那須駅の敷設においては、大山巌・西郷従道の働き掛けがあったといわれているが、まだ官有地であった加治屋開墾場の拝借地を通過し那須駅を設置している。明治35年(1902)に加治屋開墾場を大山農場と西郷農場に分割した際に、西那須野駅を中心に西郷所有の土地がみられる。つまり、永田・下永田地区を大山が取得し、加治屋地区を西郷が取得する中で、西那須野駅周辺には大山と西郷の所有地が共存していたのである。すでに欧州を外遊していた大山と西郷にとっては「駅ができるところには都市ができる」ということを熟知していた結果であろう。現に両農場とも農地の小作地経営をする中で、宅地の貸付けを行い、大山農場においては農場収入の4割を占めていたという(4)。

(2)那須駅から西那須野駅への名称変更

 那須駅から西那須野駅への名称の変更は、明治24年(1891)5月1日に行われたといわれる。明治13年(1880)那須西原に那須開墾社が創立し、明治22年(1889)4月1日に町村制施行により西那須野村となる。そして、明治24年3月28日付で日本鉄道会社社長奈良原繁より鉄道庁長官井上勝に対して、那須駅を西那須野駅に変更したい旨の文書が、鉄道博物館所蔵の鉄道院文書に保存されている。その理由は、那須郡那須村の箭田源太郎(5)外7名の請願によるものと記されている(6)。町村制施行を利用しつつ、「那須」は本来山地側が那須であることを主張したかったのであろう。

(3)西那須野駅と駅前

 西那須野駅前では、駅前通りを挟んで大和屋と川

写真1 初代の西那須野駅舎と塩原温泉旅館の呼び込み− 52 −

島屋が営業していた。旅館を経営し、併せて塩原温泉までの足として最初は人力車、そしてシボレーやハップなどの外車による自動車運転が行なわれ、乗合自動車の運行も行っていた。

 これは、黒磯駅でも全く同じ光景であり、煙草屋と小松屋支店が駅前に陣取り旅館を経営し、同じように那須温泉への輸送業を担った。

 一方で、近世において城下町であり宿場町であった大田原市街地と西那須野駅周辺とは、密接な関係があり、新たに開業した駅の集配も明治19年の開業当時はいったん大田原へ送られ集荷・配送されたという。また、戦時中においても西那須野駅からいったん大田原市街地へ送られ集配されたという。それだけ、大田原市街地の力が大きかったことを物語っている。それが、いつ頃かは定かではないが、西那須野駅から直接的に集配するようになる。大田原街道は大田原と西那須野駅を結ぶ主要な交通路であり、東口側の旧旭町(現西朝日町)が駅前市街地の延長として、赤レンガ(後述)まで商店が建ち並んでいた。

 このため、旧旭町・旧大町・旧上町である一本杉通りが最初に市街地化して行く。そこには、大棚といわれる正気屋と萬屋が店を構えていた。

 一つの事例として、大田原藩士であった阿久津家は、近代に入り商業を志し、明治16年(1883)大田原で金物商「正気屋」を開業する。さらに明治20年(1887)には三島に支店を出し、碁盤の目の市街地の通り沿いに店を構えた。そして、鉄道が開通し西那須野駅の開業後、一本杉通りに移転している(7)。

 また、萬屋を開業する渡辺熊吉は明治28年(1895)東那須野村(現那須塩原市)から一本杉通りに開業する(8)。このように、先見の明のある人たちは、鉄道の敷設が商機ととらえたことは明白であろうし、駅前の通りとして一本杉通りに移転したことは、当時

写真2 駅前の川島屋(右)と大和屋(左)[昭和初期]

写真3 一本杉通りの萬屋[大正3年頃]上町3丁目2丁目元町3丁目元町2丁目元町1丁目上町1丁目扇町大町駅前松兵衛町正気町西那須野駅至宇都宮至黒磯上町桜 通 り一 本 杉 通 り駅 前 通 り末広町要町大島町旭町至塩原至大田原五軒町桜二丁目

写真4 萬屋商店の広告(那須塩原市那須野が原博物館蔵)

図1 西那須野駅前の旧町名− 53 −

中心の通りであったことを物語っている。

 次に西那須野駅から直線的に伸びる駅前通りが市街地化して行く。明治45年(1912)に開業する塩原軌道は当初蒸気機関車での運行となり、市民の反対により無煙炭による運行でどうにか開通する。その路線が駅前通りを通ることとなるが、駅前通りが駅前の中心の通りではなく、明治45年当時は、まだ一本杉通りがメインの通りであったことが伺える。

 その後、駅前通りが名実ともに「本通り」となって行く。さらにその後、桜通りに商店が建ち並び活気も呈して行った。西那須野駅前は、北から南へと市街地の拡大がみられる。

 駅前の市街地の規模を見ると、地方の駅であることで市街地形成範囲はそれほど広くはない。特に西那須野駅前にとっては、近くに大田原という大きな市街地が存在していたことが、地域経済において市場規模からも拡大を抑制された可能性が考えられる。

 さて、どのような速度で市街地化して行ったのであろうか。西那須野駅開業から10年後の明治29年(1896)4月12日付けの下野新聞には「停車場の周囲に在る戸数は凡そ百戸許にて、中に郵便局、巡査駐在所、製糸所、運送店、薪炭商、雑貨商、旅店、料理屋、菓子店、饅頭茶屋等ありて、相応に繁盛する由なり」との記事を掲載している。

 これを裏付けるものとして、『栃木縣那須郡統計書』には、明治26年(1893)から同32年(1899)までの7年間の統計が存在する。その中で商業関係の統計もみられ、明治29年の統計書(9)を見ると、西那須野村の総戸数411戸の内、商店数は161店(10)とある。これはもちろん西那須野村全体の商店数であり、駅周辺の商店に限定すると当然少なくなる。駅周辺の戸数が下野新聞におよそ100戸と掲載され、そのうち2割程度を住宅とみると、80店程度の商店が存在したと考えられる。また、村全体の商店の半数が駅周辺に集中したと想定される。なお、駅前市街地の五軒町は狩野村に属していたことを付記しておく。

 開業以後10年という短期間で、相当数の商店が開業している。さらに、その11年後の明治40年の『栃木縣營業便覧』では商店数は114店を数える。

2.『栃木縣營業便覧』に見る西那須野駅周辺

(1)『栃木縣營業便覧』とは

 『栃木縣營業便覧』(以下「便覧」)は、明治40年10月1日に発行され、県内の各商店を表示した大部な書籍である。発行所は当時の東京市下谷区谷中に所在した「全国營業便覧発行所」で、現在知られている発行県は栃木県と埼玉県・群馬県のみである。

 便覧は、編著者は城北逸史と田口浪三で、田口は営業便覧発行所の関係者(11)であるが、城北逸史は栃木県のみを担当している。ここで浮かび上がるのが、『夏わすれ 那須温泉紀勝』・『夏わすれ 塩原温泉紀勝』(共に明治26年刊)の執筆者であるペンネーム南城漫史(本名上野雄図馬・宇都宮在住)の存在である。「城北逸史」と「南城漫史」の名の類似性が感じられるが、両者を結びつけるものは現在発見されていない。

写真5 一本杉と一本杉通りと駅前通りの交差[大正10年頃]

写真6 駅前通り(奥に西那須野駅)[昭和30年頃]

写真7 駅前通りの舗装[昭和30年頃]− 54 −

写真8 『栃木縣營業便覧』に掲載された西那須野駅周辺の商店− 55 −

 栃木県の対象地域は、栃木県の主要市街地1市31町と駅1か所、温泉地2か所を描いている。那須郡としては、「太田原町」「佐久山町」「黒羽町」「川西町」「芦野町」「黒磯町」「西那須野驛」「那須温泉」が収録され、「塩原温泉」は塩谷郡に収められている。

 栃木県の特徴としては、那須温泉と塩原温泉が挿入されていることである。また、当時の西那須野村を西那須野駅として収録されていることも特筆される。

 本書の「総説」中の「地理」においては、西那須野駅を下記のように記している。

  此地は、太田原町の西北に位し、國有鐡道の奥州幹線に沿ひたる、一驛にして、商家軒を列ね、旅客貨物の集散頻繁なり。此の驛は、塩原温泉の要路なるを以て、浴客凡べて此の驛にて、汽車に乗降す。又那須野開墾の地、廣まるに隨ひ、来て茲に居を占むる者、年を遂つて増加す。想ふに、町制を布くの日も亦、近にあらん。物産は、薪炭、煙草、大小麦等なり。

(2)便覧に描かれた西那須野駅前

 西那須野駅前の構成は、「停車場」から駅前通りを北へ向かって(本書は左へ向かって描かれている)2頁に渡って描かれ、「第二之通り」として一本杉通りがこれも2頁に渡って描かれている。なお、写真8では位置関係を見やすくするために、後の頁を上に配置した。

 駅前には、人力駐車場があり、駅前通りの両脇に「旅館川島屋安兵衛門」と「旅人宿大和屋」が見える。また、駅前の一本杉通りには、「旅館三島屋小野崎甚市」と「旅館吉野屋菊地喜三郎」の名がある。また、駅前通りに「旅人宿片岡屋」「旅人宿中田屋」が、一本杉通りの南側に「旅人宿大野屋」がみられた。この時期、駅前には7軒と多くの旅館及び宿が開業していた要因は、「塩原温泉の玄関口」としての西那須野駅の存在と、新陸羽街道(現国道4号)が近くを通過していたことなどが考えられる。

 駅前の東側には、野州商会や西那須野郵便局、大田原銀行西那須野支店と主要な施設が建ち並んでいた。運送業としては、野州商会の外にもう一軒駅南側に肥料販売や倉庫業、商品の委託販売をする青木合名会社西那須野支店があった。青木肥料店は、旧佐久山町(現大田原市佐久山)に本店を持つ肥料商の青木藤作の支店であり、このほかにも、氏家駅前にも支店があるなど、手広く商売を行っていたことが知られている。また、一本杉通りに「三上運送店」がみられた。

 駅周辺に運送業者が多いことは、物資を鉄道便で輸送することから、トラック等で産地から駅へ、そして駅から配送先への需要が多かったことが伺える。特に西那須野駅や黒磯駅・黒田原駅は、那須地域の特産である木材・薪炭の積出駅であり、トラック輸送は盛んであった。

 また、料理屋・飲食店としては、駅前通りに「茄

子野屋」「室屋」「小松楼」があり、一本杉通りには

「加藤屋」がみられた。これらは、駅の乗降客とともに地元の人たちの飲食の場となったと思われる。

 昭和50年代の聞き書きによると、大正から昭和前期にかけて西那須野駅周辺は「東北の上海」といわれていた時期があった。鉄道ができ新開地として急造の市街地が形成される中で、殺伐とした情景であったのであろう。つまり、鉄道の乗降客とともに、鉄道便の貨物は古くは馬車引きが運搬し、後にトラック輸送となる。そこで荷受け作業する人たちでごったがえしていたと思われる。ひと仕事終えると、酒屋で立飲みや飲食店での酒飲みは日常茶飯事で、喧嘩も絶えなかったと聞く。これも明日への活力の源であったと思われるが、そうした駅前の夜の風景も活気のあるものであったと思われる。

3.「栃木縣西那須野驛真景」と西那須野駅周辺

(1)「栃木縣西那須野驛真景」について

 「栃木縣西那須野驛真景」(以下「真景図」)は、松井天山により大正13年3月31日に写生されたものである。画面下中央に「大正十四年九月十五日印刷  仝年仝月十八日発行 著作兼発行人仙台市東三番丁百番地 松井哲太郎 印刷人東京市牛込区加賀町一丁目五番地松井篤次郎」とあり、松井天山は仙台を拠点にして出張して描いていたものと思われる。真景図の大きさは、縦47.3㎝×横61.8㎝で、表に真景図を描き、裏に広告を掲載している。真景図は、コンパクトに折られて袋(16㎝×8㎝)に納められている。表には「下野西那須野驛真景 松井天山写生  商工庶業家一覧 通文堂書店發賣」とある。通文堂は、西那須野駅前の書店であり、地元書店を利用しながら販売していたことが分かる。

(2)真景図に見る西那須野駅前

 真景図は、西那須野駅から延びる駅前通りと一本杉通りを中心に描かれている。西那須野駅ができた頃に、大田原へ伸びる大田原街道ができ、その手前− 56 −

写真9 「栃木縣西那須野驛真景」表面(那須塩原市那須野が原博物館蔵)− 57 − − 58 −

写真10 「栃木縣西那須野驛真景」裏面広告(那須塩原市那須野が原博物館蔵)− 59 − − 60 − 国道4号大貫小松屋岡山床屋熊久保高久栄屋新川屋相馬屋杉浦平田横川高木鍋屋吉田大谷伊達屋若島高野薄井東明堂山木屋境屋賞栄堂片岡屋松本見番西 郷 別 邸春金千坂駐在所大木床屋成田屋満寿之屋塩沢上州屋簗瀬東軒江連鈴木ワキ菊屋和泉屋薄井玉屋金田屋和泉屋樋口床屋大野屋萬屋那須軌道㊂運送店田口大森鈴木小沼屋三浦青木印刷松田屋北条室井鉄工所中野河野名取歯科医院大山だんご那須屋鈴木朝日軒村島正気屋東北林産会社伊藤印南井上磯床屋吉野屋緑屋松月堂荒井床屋日野屋㊂共同荷造所渡辺駝楽園山本森豊田屋花見屋池田屋玉沢屋益田関谷谷屋富田桁本屋山口柳田有賀藤屋支店藤田屋尾暮製材所波岡家蓄院内藤石材大久保高瀬両角大森室井岡本水戸園小滝平山上山山村医院正 店浅野玉屋大橋鍋谷猪瀬藤田明治屋美□□□久保井蜂須賀鈴木支店十一屋山石屋薄井屋橋本丸通 運送店青木加藤白洗舎福栄家中野屋内田材木店精米所越後屋吉見屋磯屋植田屋丸久屋佐藤野州大田原銀行支店森谷八塚浅野木村鈴木松本支店喜久屋ウス井岩井鈴木屋ミドリヤ中屋商店永田屋通文堂矢板銀行支店鈴木米穀合資会社信濃屋支店塩那電気出張所印南 床屋仐組蚕買入所遅沢屋館野後藤茅野大島藤森気賀沢大和村上金田屋大黒屋藤田大廉後藤信用組合事務所本田富久校舎下野新聞出張所井上入田池田水戸部弥生亭坂田㊉商店太 店小滝歯科医院メソジズト教会新永田家村上宗源寺一本杉通り桜通り要町通り前駅通り西那須野駅東野鉄道ホーム塩原電車ホーム大和組製糸場福原屋藤田屋結城屋柴田柳原岩畑屋安達屋初音だんご小室那須鉄工迎千坂中島屋中里遊座美髪軒中島屋本店信濃屋本店室井清水オカ伊藤大野屋永田屋川島屋大和ホール大和屋高久高野中江病院部長 出張所稲沢郵便局野州商会大田原行自動車サ 店菊地屋小松屋会津屋松之湯白河病院タタミ屋臼井至大田原至塩原

図2 「栃木縣西那須野駅真景」(大正13年)より抽出した商店復元図− 61 −

には一本杉通りがあった。当初一本杉通りが開け、次いで駅前通りに商店が集中して行く。この頃の西側の桜通りは、商店はおろか人家さえもあまり見ることはできない。なお、一本杉通りは、駅前通りとのY字路に古くから大杉が道しるべとして存在していたことから付けられた通り名である。大山巌と西郷従道が狩猟の際に休んだという逸話が残されている。桜通りは、那須疏水の水路とともに桜が掘り沿いに植えられたことからその名がある。

 真景図は、手前左に西那須野駅が描かれ、西口に塩原電車の停車場があり、ここから塩原に向かい駅前通りを進行方向に対して道路の右側に線路が設けられていた。大正11 年(1922)に汽車から電車に変更され、この時期は電車の通行が線路とともに描かれている。

 東口には大正7 年(1918)開業の東野鉄道の停車場がみられ、ここから大田原を経由して黒羽へ向かって線路が敷設された。

 那須軌道は、駅からやや離れて一本杉通りの南の旧旭町から線路がみられ、大田原の市街地の寺町までの約5.1㎞を往復した。本来ならば、駅前から出発したいところであったろうが、線路を超えて旧旭町からの発着となっている。大田原方向へ向かって道路の右側に線路が設けられていた。大正4 年(1915)に人力と馬力を併用して運行し、この時期は馬車軌道として描かれているが、それ以前は人車軌道として車夫が客車を押すというスタイルであった。

 この真景図で目を引くのは、広大な広さを持つ大和組製糸場で、長野県岡谷市から進出して来た製糸場である。大和組製糸は、明治40 年に西那須野村三区(現那須塩原市三区町)にあった那須製糸場を買収して設立する。さらに、西那須野駅に近い狩野村三島(現那須塩原市西大和)に大正2 年(1913)に創業した。長い間、大和組製糸の煙突は町の風物であったが、昭和18 年(1943)に売却された。

 また、駅前通りの東側には西郷別邸の敷地がみられた。西郷別邸は、和風別邸で大山別邸の日本館(「薩摩屋敷」)と同時期に、鹿児島から大工を呼び寄せて造らせたといわれており、酷似している。駅前の地にも西郷の土地があり、利便性のある駅前に別邸を建てたのであろう。西郷は、晩年この別荘で療養していたという(12)。

 郵便局は、当初三島ごばんの目地内に三島郵便局が開局し、その後明治22 年に駅前に移転し、那須郵便局と改称し、さらに西那須野郵便局となる。真景図に描かれている郵便局は明治29 年に3 回目の移転(現駅前郵便局の位置)をした後のものであり、昭和13 年(1938)には駅前通りに移転し、現在の郵便局が五軒町に移転されたのは昭和46 年(1971)5 月である。

 なお、真景図手前の大田原街道沿いに、「精米所」と「伊勢」の名がみられる。以前ここは、大山別邸の門衛所として建てられたレンガ造りの建物であった。実際には、精米所(増渕精米)と手前の赤レンガは「マーケット」として利用されていたという。マー

写真12 西郷従道の和風別邸(明治35 年頃建設)

写真11 塩原電車と職員[大正11 年]

写真13 駅前にあった西那須野郵便局[大正初期]− 62 −

ケットとして使われていた部分は、「赤レンガ」として現在も残され親しまれている。

 真景図の裏面には、地勢と名所・交通が記され、4 段に渡って広告が掲載されている。これは、表面の真景図を補完するもので重要な資料といえる。裏面には、旧町名ごとに掲載され、駅前通りである元町1 丁目(駅前)が18 軒、元町2 丁目が11 軒、元町3 丁目が8 軒記されている。駅前の扇町には8 軒、一本杉通りの大町には20 軒、その先の上町1 丁目に15 軒、上町2 丁目に4 軒、上町3 丁目に11 軒、栄町に4 軒、要町に9 軒、五軒町に16 軒、そして線路南の旭町には14 軒の138 軒が記載されている。この中で大きなスペースを取っているのが、川島屋旅館と吉野屋旅館、中江病院・白河病院、それに薬湯銭湯の回陽湯本舗で、また塩原電車株式会社と長野県岡谷市から進出してきた繭の買取所である山十組西那須野出張所も他に比べて広いスペースで掲載している。

 さらに、表1 のとおり西那須野村の『郷土誌』(13) に掲載されている明治44 年(1911)頃の西那須野村の商店(行商含む)を合計すると214 店となる。西那須野村全体の約半数とみると、明治29 年から15 年後の増加率はそれほどの伸びを示していない。

 昭和5 年(1930)の『西那須野村郷土誌』(14)の統計では、310 店とあり、明治44 年に比べて20 年後で約100 店舗程増加している。その中で、商店の傾向を見ると運送業が5 店から2 店となり、旅人宿が10 店から7 店と減少、料理店が12 店から7 店に、飲食店が12 店から6 点に半減する。一方で、菓子製造販売店が4 店から10 店、自転車店が2 店から9 店に大きく増加している。自転車店の大幅な増加は、庶民の移動手段として自転車が普及して行く姿を物語っている。

 大正6 年(1917)1 月1 日付けの下野新聞の広告には、東那須野駅前・大田原町・西那須野村・黒羽町の商店が掲載されている。その中で西那須野料理店組合には、大久保亭・深川楼・片岡屋・永田屋・日野屋・大黒屋・那須野屋・加賀屋・すず本亭・相澤亭・古中屋・登喜和亭・永田屋支店の13 店の店名がある。

 さらに、大正10 年1 月1 日の同紙には、登喜和亭・片岡屋・伊達屋・永田屋本店・永田屋支店・東屋・那須野屋・大久保亭・彌生亭・古中屋・日野屋・鈴々木の12 店がみられ、4 年間で変化がみられる。

写真14 大山別邸へ通ずる道の両側にあった赤レンガ

写真15 中江病院[明治後期〜大正期]

表1 西那須野村の商店

種別 明治44 年戸数 昭和5 年戸数
会社 3 4
運送業 5 2
銀行 1 2
旅人宿 10 7
料理店 12 7
飲食店 12 6
薪炭卸店 4 4
薬種店 4
肥料店 2 2
質屋 2 1
米穀酒卸小売業 27 22
各種製造業 2 5
仕立店 3 6
菓子製造販売店 4 10
呉服洋物店 2 5
書籍店 1 1
自転車店 2 9
牛乳販売店 1
その他の雑店 96 213
行商 25
合計 214 310
明治44 年は『郷土誌』、昭和5 年は『西那須野村郷土誌』より
 
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