2016 Volume 58 Issue 1 Pages 41-49
本報告は,不適切なブラッシングにより生じた辺縁歯肉の退縮を,歯周外科手術を行なうことなくブラッシング方法を改善することにより生理的に許容される位置までクリーピングさせ治療した症例である。
患者は26歳女性で,右下臼歯部の冷水痛を主訴に来院した。歯周組織検査の結果,主訴部の齲蝕と共に13,14,23の唇側辺縁歯肉に著しい退縮とフェストゥーン様のロール状肥厚が認められた。咬合様式はグループファンクションで13,23に過干渉は認められなかったため,唇側辺縁歯肉退縮の原因は咬合ではなく不適切なブラッシングによると判断した。日本歯周病学会による歯周病分類システムに準じ,上顎前歯部唇側辺縁歯肉の退縮を伴う広汎型軽度慢性歯周炎と診断した。
適切なブラッシング方法を習得すれば歯肉のクリーピングが期待出来ると考え,歯周外科手術を行なわず,ブラッシング方法改善を目的とした指導に重点を置いた。指導したブラッシング方法が定着するまでは短い間隔で通院してもらい,残留したプラークは辺縁歯肉を傷つけないよう注意深く術者が除去した。正しいブラッシング方法の定着と共に通院間隔を徐々に延ばしていった。
初診から15年後,歯肉は楔状欠損の手前までクリーピングした。その後も同様のブラッシングを継続した結果,18年後には楔状欠損を覆う位置までクリーピングしたことで歯肉縁下のプラークコントロールが不良になり,唇側辺縁歯肉に炎症が認められるようになった。そこで,歯ブラシの毛先をやや根尖方向に向けてブラッシングするようにし,楔状欠損が露出する位置まで辺縁歯肉を退縮させた。プラークが除去しやすくなったことで,唇側辺縁歯肉の炎症は改善し,25年後の現在良好に経過している。
口腔内をよく観察し,正しい診断の元に適切な処置を行なえば,歯肉弁歯冠側移動術や結合組織移植術などの歯周外科手術に頼らなくても,ブラッシング方法を改善することで歯肉はクリーピングし退縮した辺縁歯肉を生理的に許容される位置まで回復させることが出来る。適切なブラッシング方法の習得を目的とした患者指導は,歯科衛生士の重要な役割と考えられる。
歯周治療を成功へ導くには,患者によるプラークコントロールの確立が最も重要であることは言うまでもない。最近ではメディアで歯ブラシやリンス等の宣伝が流れる機会が多くなり口腔衛生の重要性が広まりつつあるが,十分な理解がなされないまま不適切なブラッシング方法を継続することで,辺縁歯肉が退縮してしまい,露出した歯根部の知覚過敏や歯頚部のセメント質齲蝕を経験する機会が多くなった。
露出した歯根面を被覆するには外科的な手法もあるが,ブラッシング方法を改善することによる非外科的根面被覆も報告されている。本症例は不適切なブラッシング法により生じた根面露出を伴う著しい歯肉退縮に対し,外科処置を行なわずブラッシング時の歯ブラシの毛先のコントロールのみで唇側辺縁歯肉のクリーピングによる歯根面被覆を試みた。
患者は26歳女性で,右下臼歯部の冷水痛を主訴に来院した(Fig. 1~4)。
1. 現症 ①口腔内所見現存歯は,11~17,21~27,31~37および41~47の28歯であった(Fig. 1)。12が舌側転位しているため,43との関係が逆被蓋である。歯列不正部のプラークコントロールが不良だった。
13,14,23の唇側辺縁歯肉に著しい歯肉退縮とフェストゥーン様のロール状肥厚が認められた(Fig. 2)。咬合様式はグループファンクションで,13および23に過干渉は認められなかったため,歯肉退縮の原因は咬合ではなく,不適切なブラッシングによるものと考えられた。
②エックス線写真所見全顎的に骨吸収は軽度であり,垂直性の骨吸収は認められなかった(Fig. 3)。18,38,48の埋伏が認められた。16,36は失活歯であった。
③歯周組織検査全顎的に,プロービングデプス(PPD)は3 mm以下と浅いが,17,26,27,47に4 mmのPPDが認められた(Fig. 4)。BOPは26.2%だった。付着歯肉の幅・歯槽骨の厚みはMaynardの分類でタイプ4に分類された。
2. 診断以上の検査結果より,日本歯周病学会による歯周病分類システムに準じ,上顎前歯部唇側辺縁歯肉の退縮を伴う広汎型軽度慢性歯周炎と診断した。
3. 治療計画治療計画を以下に示す。
①歯周組織検査
②カウンセリング
診断について患者に伝え,患者と共に治療方針を立てた。正しいブラッシング方法に改めることで唇側辺縁歯肉の退縮が改善することを伝えモチベーションを高めようとした。
③歯周基本治療
1)口腔衛生指導
2)保健指導
3)スケーリング・ルートプレーニング
④再評価検査
⑤補綴・修復処置
⑥サポーティブ・ペリオドンタル・セラピー(SPT)
歯根面の露出は根面齲蝕を惹起するため,ブラッシング方法を改善することで唇側辺縁歯肉をクリーピングさせ,上顎両側犬歯唇側辺縁歯肉の退縮による審美障害だけでなくう蝕予防にもつなげていくことにした。
4. 治療経過主な治療経過を以下に示す。
①歯周組織検査
②歯科医師によるカウンセリング(モチベーション)
③歯周基本治療(スケーリング・ルートプレーニング)
・口腔衛生指導(ブラッシング指導)
不適切なブラッシングの害(歯肉退縮は歯肉の傷であることの意識付け),毛先の方向(歯冠方向へ傾ける),適切な圧,ストローク,歯磨剤を使わずに手鏡を見ながらブラッシングすることなどの基本的なブラッシング方法を指導。歯列不正部のブラッシング方法の指導。
・保健指導
生活習慣・食事指導(甘味制限,間食制限)・モチベーションの強化
④補綴・修復処置
⑤サポーティブ・ペリオドンタル・セラピー(SPT)
・SPT移行後,本格的に13,14,23部辺縁歯肉をクリーピングさせるブラッシングを開始した。
5. 13,14,23の治療経過・初診時(1990. 3. 15,Fig. 2),不適切なブラッシングが辺縁歯肉に与える害について説明し,適切なブラッシング方法と共に歯磨剤を使わずに手鏡を見ながら丁寧にブラッシングするよう指導した。
唇側辺縁歯肉をクリーピングさせるために1),ブラッシング方法の指導に重点を置いた。具体的には,柔らかめの歯ブラシ(BUTLER ♯222, SUNSTAR)を処方し,毛先の方向(毛先をやや歯冠側方向へ向ける),ブラッシング圧,ストロークなどの指導をした2)。
・1年後(1991. 4. 11),ブラッシング圧はなかなか弱められず,かつ毛先が歯頚部や歯間部にも当たっていなかったため,適切な圧と歯ブラシの動かし方について再確認を行なった(Fig. 5)。
・2年後(1992. 4. 11),適切なブラッシング方法が定着すると共に辺縁歯肉はクリーピングし始めたが,フェストゥーン様のロール状肥厚が辺縁歯肉に認められたため,歯ブラシの毛先を辺縁歯肉に当てないように指導した(Fig. 6)。指導したブラッシング方法が定着するまでは短い間隔(1~2週)で通院してもらい,残留したプラークを歯科衛生士が拭い取るようにした。適切なブラッシング方法の定着を確認しながら通院間隔を延ばしていった。
・3年後(1993. 5. 21),辺縁歯肉の肥厚が改善してきた(Fig. 7)。さらに歯肉をクリーピングさせるため,歯ブラシの毛先を辺縁歯肉に当てないように注意しながら歯冠側方向へなでるように回転させ,歯頚部を磨くように指導した(Fig. 8)。
・15年後(2005. 12. 27),歯肉は楔状欠損の手前までクリーピングした(Fig. 9)。
その後も同様のブラッシングを継続した結果,18年後(2008. 3. 27)には楔状欠損を覆う位置までクリーピングしたことで唇側辺縁歯肉に炎症が認められるようになった(Fig. 10)。23の辺縁歯肉が発赤し,歯肉縁下には歯石の沈着も認められた。辺縁歯肉の過度なクリーピングの結果,楔状欠損が歯肉で覆われ歯肉縁下のプラークコントロールが不良になったためと考えられた。そこで,ワンタフトシステマ(LION)の毛先を辺縁歯肉に当ててブラッシングし,プラークコントロールが可能な位置まで辺縁歯肉を退縮させることにした(Fig. 11)。
・21年後(2011. 10. 18),23の楔状欠損が露出し始めた(Fig. 12)。しかし,辺縁歯肉の炎症が完全に消退しないためワンタフトシステマの使用を継続した。
・24年後(2014. 08. 21),楔状欠損が完全に露出すると辺縁歯肉の炎症は消退した(Fig. 13)。他部位と同様のブラッシング方法に変更し,辺縁歯肉の安定を観察していくことにしたが,大きなトラブルはなく現在良好に経過している(Fig. 14~151616)。
歯肉退縮には多くの因子が関与しているが,本症例の原因はブラッシングの機械的刺激によるものであった。
初診時,患者は硬めの歯ブラシを使用し大きなストロークで力強く横磨きしていた。正しい知識が無かったため,不適切なブラッシングが歯肉に害を与えるとは考えていなかった。そこで,現在は歯肉が傷ついている状態であり,その原因は間違った歯ブラシの選択3)と不適切なブラッシング方法にあることを説明し,歯ブラシ選択の重要性と歯肉を痛めない正しいブラッシング方法(歯ブラシの毛先をやや歯冠方向へ傾ける,適切なブラッシング圧,小さなストローク)について指導を行った。
当初,患者は指導したブラッシング方法では磨いた気がしなかったため,ブラッシング圧が強い状態が続き,なかなか改善できなかった。繰り返し指導していくことで知識と技術が身に付き,ブラッシング圧が適切になり,時には患者自らが気付いた歯肉の変化を術者に教えてくれるようになった。
このように,正しい知識と技能が身に付きモチベーションが高まることで,患者はこちらの意図を理解してくれる。本症例を通して,楔状欠損を覆うまで唇側辺縁歯肉がクリーピングすると歯肉縁下に汚染された環境を作り,辺縁歯肉に炎症を惹起することがある。退縮した唇側辺縁歯肉は一様に元あった位置までクリーピングすれば良いわけではなく,患歯の病態に応じて生理的に許容される唇側辺縁歯肉のレベルを探っていくことが重要であることを学んだ。
ここまで途絶えることなく長期経過をたどることができたのは,患者が歯科医院を信頼し根気よく通院してくれたからである。患者との信頼関係を高め,長期間にわたり多くの患者の口腔の健康を維持できるよう,さらに歯科医院の総合力を高めていきたい。
今回の論文に関連して,開示すべき利益相反状態はありません。