1. はじめに
日本は2007年に超高齢社会を迎え1),高齢者に対して歯周治療を行う機会が増加している。高齢者の多くは,循環器疾患などの全身的基礎疾患を有しており2),歯科治療時に重篤な全身的偶発症を起こす危険性がある3)。重篤な全身的偶発症は局所麻酔時に最も多く起きる4,5)ことから,歯周治療を行うことが消極的になることがある。高齢者以外にも歯周治療に恐怖心や不安感を感じている患者は多く,そのような患者に対しては全身麻酔や静脈内鎮静法を用いた全身管理下で行う方法が最も安全であるが,一般的な歯科医院で行うことは困難である。安心・安全な歯周治療を行うためには,治療時の全身状態の変化を迅速かつ的確に把握することと全身状態に影響を及ぼすストレスを軽減することが重要と考えられ,これまでに数多くの研究が行われてきた。筆者らは歯科治療時のストレスを迅速に評価するために自律神経活動の変化を用いた全身状態の把握および簡便なストレス軽減法の有効性について検討してきた。本稿では,これまで行われてきた研究をもとに安心・安全な歯周治療を行うための取り組みについて整理する。
2. 歯科治療における全身的偶発症
循環器疾患などの全身的基礎疾患を有する高齢者に対する歯科治療は,血圧の上昇・心拍数の増加などによって,脳血管障害・狭心症発作などの中枢神経系および循環器系の重篤な全身的偶発症を引き起こす危険性がある6)。全身的偶発症には,全身的基礎疾患と無関係に起こる血管迷走神経反射,過換気症候群,アナフィラキシーショック等の薬物アレルギーと患者が有する全身的基礎疾患がストレスのために増悪して起こる異常高血圧,不整脈,脳血管障害等があり,異常高血圧に起因して起こる全身的基礎疾患の増悪は高齢者で発生頻度が高いことが報告されている7,8)。また,佐藤ら9)による国内の歯科診療関連死の実態調査では,2002~2012年に国内で発生した歯科診療関連死は少なくとも33例あり,死因は心疾患や窒息・低酸素脳症が全体の半数近くを占めていた。発生場所は,大学病院だけでなく,歯科診療所でより多くみられ,そのようなことが何処でも起こりうることが報告されている。群市区歯科医師会のアンケート調査でも,1980~1984年の5年間で10例10),1985~1990年の6年間で22例11)の死亡が確認されており,死亡時に行われた歯科治療の90%以上が局所麻酔を用いた観血的な処置であったことが報告されている。さらに全身的偶発症を誘発する歯科治療も局所麻酔を用いるものが最も多いという理由からスケーリング・ルートプレーニングや歯周外科治療等の局所麻酔を使用し,観血的な処置を伴うことが多い歯周治療は避けられることがある。また高齢者でなくとも,血管迷走神経反射や過換気症候群の発生により歯科治療に対して恐怖心や不安感を持っている患者も多い12-14)。歯周治療ではプロービングやスケーリング時にも痛みが生じる可能性があり15,16),スケーリングにストレスを感じる患者も多いことが報告されている17)。恐怖心や不安感は過去に受けた痛みが原因となり得ることがあるため18),その経験から歯周治療を受ける機会を逃している患者もいると思われる。それらの患者に対して安心・安全な歯周治療を行うためには,治療時の全身状態の変化を迅速に把握することやストレスを軽減することが重要と考えられる。
3. 自律神経活動を用いた歯周治療時のストレス状態の把握
歯科治療時の全身状態を把握するためには一般的に血圧,心拍数に加えて経皮的動脈血酸素飽和度,心電図等が用いられている。さらに,歯科治療時のストレスは全身状態に影響を及ぼすため,これまでにDAS,DFSなどの質問票19),手掌に生じる精神性発汗を評価する皮膚電位法20),唾液中のコルチゾール濃度を評価する方法21),自律神経活動の変化を評価する方法22-25)等様々なストレス評価方法が検討されている。歯科治療時のストレス状態を把握する方法としては,治療を妨げることなく簡便に行え,かつリアルタイムに変化を評価できるものが望ましく,心拍変動解析を用いた自律神経活動の評価方法はそれらの点を満たしている。心電図のR-R間隔の経時的変化を示す波形にどの周波数の波がどれだけ含まれているかを評価する周波数解析を用いて自律神経活動を評価する方法26)は,1981年にAkselrodら27)によって開発された。周波数解析では,R-R波を低周波成分(LF,0.05~0.15 Hz)と高周波成分(HF,>0.15 Hz)に分けて解析を行い,HFは副交感神経活動の指標,LFとHFの比(LF/HF)は交感神経活動の指標となる。交感神経活動の変化がストレス状態を反映することは広く知られているため,LF/HFの変化を測定することでストレス状態を評価することができる。非線形周波数解析の1つである最大エントロピー法28)を用いることで,心拍1拍ごとの解析が可能となり,自律神経活動の変化を即時に評価することができる。自律神経活動の測定は両手首にクリップ状の電極を挟むだけで可能なためすでに歯科でも臨床応用されており,その有効性が報告されている。これまでにLeら22)は,成人の智歯抜歯,Matsumuraら23)は,成人の歯科小手術時,Miuraら24)は,高血圧症患者の抜歯時,Ueharaら25)は,小児のレジン充填時のストレス状態を評価している。筆者ら29)も,自律神経活動モニターシステム(図1)を用いて,全身的基礎疾患を有さない若年成人ボランティアに対して歯周ポケット検査,超音波スケーラーを用いたスケーリングを行った際には,血圧,心拍数は変化がみられず,交感神経活動の指標となるLF/HFは実際の治療時は2.01±1.84,1.66±0.88と基準値1.5~2.0の範囲内を示した。一方,治療前座位時には6.02±3.52と治療時よりも有意に高い値を示したことから治療前座位時に強いストレスを感じていたと考えられる。血圧,心拍数では検出できない全身状態の変化を自律神経活動では検出することができたため(図2),歯周治療時のストレス状態の評価に有効と考えた。安心・安全に歯周治療を行うためには,治療時に患者が感じているストレスを迅速に把握することが重要で,さらにそのストレスを軽減することが望ましい。
4. 簡便なストレス軽減法を用いた安心・安全な歯周治療の取り組み
1) 音楽療法とアロマテラピー 歯科診療所等の歯科外来でも応用可能な歯科治療時のストレスを軽減する方法について,近年,多くの研究が行われている。著者ら29)が行った局所麻酔使用時のストレスに関する評価でも実際の麻酔施行時よりも開始前にストレスの指標となる交感神経活動が上昇したことから,安心・安全な歯科治療のためには精神的ストレスの軽減が重要と考えられる。これまでに応用されているストレス軽減法には,認知行動療法30),催眠療法31),音楽療法32-36),アロマテラピー37-40)等があるが,認知行動療法や催眠療法等の心理療法は,専門的な技術の取得が必要であり,さらに患者への効果発現には通常,長い日数を要する。治療中にリラックス効果があるとされている音楽を聴かせる音楽療法(music therapy,music intervention)やアロマを用いるアロマテラピーはすでに歯科医院でも用いられることも多く,その有効性や効果的な使用方法について数多くの研究が行われている。筆者らが用いている音楽療法は,リラックス効果が高いとされているヒーリングミュージックを治療開始3分前からヘッドフォンで患者に聴かせる方法で,用いることで全身的基礎疾患を有しない若年成人の歯周ポケット検査,スケーリング,局所麻酔時41)(図3)や歯科恐怖症患者の静脈鎮静法下での埋伏智歯抜歯時の手術室入室前42)の交感神経活動が抑制されたことから精神的ストレスの軽減に効果があったと思われる。それ以外にも様々な音楽療法が検討されており,クラシック,ポップス,フォーク,賛美歌,カントリーソング等を10曲以上用意し,患者に事前に好みの音楽を選んでもらう方法32)や用いる音楽も通常は440 Hzに調律されている曲を癒し効果があるとされている432 Hzに調律した曲33,34)や交感神経活動を亢進させないとされているbpm 60程度のクラシック音楽35)を聴かせる方法等がある。いずれも成人の埋伏智歯抜歯32,35),単純抜歯33),局所麻酔下の根管治療時34)等の不安軽減に効果があることが報告されており,多くの研究で局所麻酔下での観血的処置時における有効性が示されている。さらに超音波スケーラーを用いたスケーリング等の歯石除去時に生じる音に不快感・不安感を感じる可能性も考えられるため,この点からも音楽療法は歯周治療時の不安軽減・ストレス軽減に有効と思われる。
アロマを用いたストレス軽減法(アロマテラピー)も数多くの研究が行われており,筆者ら43)は音楽療法と同様の研究モデルで治療時にラベンダーオイルを用いた際にストレス軽減効果があったことを報告している(図4)。ラベンダーオイルは従来から不安軽減効果があるとされ,最も多くの研究で用いられているが,他に用いられているアロマには鎮静・リラックス作用があるオレンジ等の柑橘系,覚醒・リフレッシュ作用があるペパーミント等があり,オレンジオイルとラベンダーオイルが成人の歯科治療時の不安軽減37),ラベンダーオイルが小児の歯科治療時38)や局所麻酔を用いた抜歯時39)の不安軽減や疼痛軽減,歯科に対して恐怖心を有する成人の智歯抜歯時の不安軽減40)等に有効であることが報告されている。
2) ヴァーチャルリアリティ(VR) VRゴーグル(図5)を装着することで,快適な仮想空間を体験することができるヴァーチャルリアリティ(仮想現実,VR)は,1960年代後半に前身となる技術が開発され,2016年頃に教育,訓練,アミューズメント等多くの分野で急激な発展を遂げ,医療の分野においても様々な応用方法が検討されている。
小児の歯科治療時にアニメなどのDVDを視聴させることは,一般的に行われており,視覚・聴覚双方に働きかけ,より没入感の高いVR技術の応用は小児のストレス軽減に特に適していると思われる。2019年のEijlersら44)のシステマティックレビューでも小児の採血時,腰椎穿刺時,熱傷時のドレッシング材交換時等の疼痛軽減,MRI撮影時や手術室入室前等の不安軽減に効果があったことが報告されている。歯科でもいくつかの研究が行われており,Alshatratら45)は小児の抜髄,抜歯等の局所麻酔を伴う歯科治療時の疼痛軽減に,Atzoriら46)は小児の充填,抜歯時の疼痛軽減に効果があったことを報告している。成人の歯周治療においてもAlshatratら47)は,スケーリング・ルートプレーニング時に用いることで不安軽減効果があったことを報告している。VRは,視覚・聴覚双方に働きかけるため,音楽療法やアロマテラピーよりもストレス軽減効果が高い可能性があるが,両者を比較した研究はまだなく,今後の課題となっている。さらに,これまでに歯科治療時に用いられているVRは,癒し効果が高いと思われる風景,アニメ,コメディ映画,ドキュメンタリー等の映像を視聴させたものだが,今後は現実世界の風景に仮想の情報を加えるAugmented Reality(拡張現実,AR)技術も併用することで,ゴーグル内に実際に行われている歯科治療の上に様々な情報を提示することが可能となり,何をされているのか分からないことから生じる不安も軽減できる可能性がある。一方,歯科治療は,口の開閉,顔の向きの移動等治療時に患者の協力が必要なことが多いため,没入感が高すぎる方法は,不向きな可能性があり,さらに完全に視覚を遮断する方法は反対に不安感を増加させる恐れもあるため,効果的な使用方法については詳細な検討が求められている。
5. おわりに
安心・安全な歯周治療を行うためには,血圧,心拍数,経皮的動脈血酸素飽和度,心電図等の従来から用いられている生体情報モニターで治療時の全身状態の変化を把握することが最も大切であるが,全身的偶発症の発生を予防するためには,治療時のストレス状態を迅速に把握することも重要である。
さらに治療時のストレスそのものを軽減することも重要であり,本稿で述べた音楽療法,アロマテラピー,VRなど様々な簡便なストレス軽減法が検討されている。これらの方法は,歯科診療所でも容易に用いることが可能で,不安や疼痛の軽減効果があることが報告されているが,歯周治療時のより効果的な使用方法については今後も検討が必要となる。
簡便なストレス軽減法については,小児を対象にした研究が多く,その効果も高い。一般的には歯周治療の対象者は中高齢者以上が多いが,小児期から使用することで歯科治療に対する恐怖心や不安感を減少させることができると思われる。過去の恐怖心や不安感の経験が歯科受診を避けることにつながるため,簡便なストレス軽減法を用いることで歯周治療を受ける機会が増え,その結果として全身の健康に貢献することを目指したい。
今回の論文に関連して,開示すべき利益相反状態はありません。
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