Journal of Innovation Management
Online ISSN : 2433-6971
Print ISSN : 1349-2233
Research Notes
The Birth and Development of Dainippon Pharmaceutical Company Based on “Wagasha Gojunen no Ayumi (Fifty Years of Our Company)”
Shoichiro Yasushi
Author information
JOURNAL FREE ACCESS FULL-TEXT HTML

2022 Volume 19 Pages 127-136

Details
要旨

本稿では、大日本製薬株式会社における企業家活動を取り上げる。資料『我社五十年のあゆみ』を得たことで、共同出資により製薬会社、薬品試験機関を設立した大阪薬種商の重要性がより明確に把握できた。

当該資料により、半官半民の大日本製薬会社が設立された時点で、パンデミック時の医薬品の安定供給が想定されていたことが判明した。この企業は、後に大阪の薬業者により共同設立された大阪製薬株式会社に吸収合併された。また薬業者に、良質な医薬品を調達し販売できないという問題意識があったこと、その状況を好転させることで「名声を回復する」意図が存在したことが明らかとなった。

また品質試験の為の企業も共同設立した際は、欧米に倣って薬品試験の業務は本来民営にて行われるべきであると主張している。更に、日本の近代化が進行するに従い官営の衛生試験所が廃止される可能性もある、とも主張した上で私立の試験機関を立ち上げるに至ったことが分かった。

彼らの行動力は薬業調査会の設置提案という形で、政府への働きかけにも表れている。加えて、個別の企業においても医薬品研究の進展を助ける育英事業が見られた。

これまで研究してきた大阪の薬業者が持つ先見性、行動力、リーダーシップについて、新たな資料を通し、より一層明らかとなった。

Abstract

This paper discusses the entrepreneurship that started the Dainippon Pharmaceutical Company. Based on “Wagasha Gojuunen no Ayumi (Fifty Years of Our Company)”, the importance of drug wholesalers in Osaka, who established a pharmaceutical company by joint investment and a drug testing agency, becomes clearer.

According to the document, at the time the semi-governmental Dainippon Pharmaceutical Company was established, it was envisaged that it would ensure stable medicine supply in the case of a pandemic. This company was later acquired by Osaka Pharmaceutical Works Co., Ltd., a firm founded by drug wholesalers in Osaka. The document clarifies that medicine dealers in Osaka had concerns about the questionable quality of the medicines they stocked. Their intention to restore professional honor was clearly a factor in the founding of the company.

When they established a company to test medicines, it was insisted that testing should be a private sector activity along the lines of the situation in Europe. This document also reveals a view that the semi-governmental testing laboratory would eventually be closed down as Japan modernized, which also drove the founding of the testing company.

This energetic approach is illustrated in the lobbying of government in proposing the establishment of a pharmaceutical industry research committee during World War I. Additionally, some companies founded scholarship programs to assist the development of pharmaceutical research.

This paper further reveals the foresight, energy and leadership of medicine dealers in Osaka.

1.  はじめに

本稿では、これまで出た大日本住友製薬の社史5冊のうち、最も古い『我社五十年のあゆみ』を読み解くことで、2005(平成17)年に住友製薬と合併した大日本製薬における企業家活動を深堀することを目的としている。大日本製薬という名称の企業は歴史に2度登場する。1883(明治16)年にまず半官半民の会社として大日本製薬会社が設立され、次いで1897(明治30)年に大阪の薬業者らが共同で大阪製薬株式会社を設立し、同社が1898(明治31)年に大日本製薬会社を合併した後、社名を大日本製薬株式会社と改称した。

続いて同書の構成を見ていく。まず、大日本製薬の商標、封緘用証紙、ロゴ、営業所および製造工場の写真、そして歴代社長、役員のポートレートが掲載されている。その後、目次へと続く。企業設立の経緯を示した後、明治時代、大正時代、昭和時代と順を追って事業活動が記されている。また、企業の記録のみならず「Ⓟ1五十年を語る」および前記、大阪製薬株式会社の設立発起人の関係者である武田和敬(家督を譲った五代武田長兵衛の名)にインタビューした「武田和敬翁を圍んで」という記事も収録され、大日本製薬設立時の実情がより掴める内容となっている。

座談会の次に記載された「年次表(年表)」には、創業時からの事業拡張に関する事項と製品発売に関する事項に加えて、資本金の項目があり、ここには増資の状況と資本金推移が記載されている。

続く「現況」では同書発行時の資本金に加え、経営陣である役員、本社の部長、次長など管理職の人名が記された他、それ以外の従業員数が男女別、職員・工員別に記述されている。「現況」の後は「新薬新製剤」「日本薬局方医薬品」「工業薬品」と続き、これまでに生産した製品が一部写真付きで紹介されている。

その後に記載されている創立五十周年記念式典の項目ではプログラムに沿って読み上げられた式辞、祝辞がそのまま掲載され、自企業の経営陣(産)と厚生省(官)、京都帝国大学医学部薬学科(学)の関係性を強調する構成となっている。またこの記念式典では従業員表彰も行われ、経営陣からの感謝状と表彰状および長期勤続表彰者の名簿がリストアップされている。また被表彰者からの答辞が、同じくそのまま記載されており、労使関係について考察する上での重要な資料となり得る。

同書の特徴は2点ある。1点目は他の社史および以後に出版された大日本製薬の社史と異なり、項目ごとに記述がまとめられてはいないということである。時系列に従って、箇所によっては1年区切りで企業に起こった出来事が羅列されている。同書はタイトル通り「五十年史」ではなくまさに「五十年のあゆみ」であり、企業のあゆみ、すなわち事業活動の足跡を年ごとに辿ることが可能な資料である。

2点目は、2つの座談会が収録されていることである。「Ⓟ五十年を語る」では、創業間もない頃から半官半民の大日本製薬を吸収合併した頃までの期間を、当時の関係者がそれぞれの視点から振り返っている。内容は会社が発展した経緯、具体的な事業内容、そして彼らが考えるキーパーソンについてと多岐に渡っており、時期も前後しているが、各人が当時の状況をどのように認識していたかを把握する上で有用な資料といえる。

また「武田和敬翁を圍んで」では、隠居後に和敬と号した五代武田長兵衛を中心とした座談会が収録されている。その内容は、大日本製薬のみならず製薬業界の50年を振り返るものとなっており、大阪製薬株式会社設立以前の混沌とした日本薬業界の状況が、法、規則の制定などによって紆余曲折ありながら整理されてきたことが語られている。また大日本製薬の、同業他社のトップを経営陣に据えるという構成から生じる運営の難しさも話題に上っている。経営陣の1人が当時の企業活動をどう捉えていたかを知ることが出来る。

以上のように、『我社五十年のあゆみ』は大日本製薬創設時に行われた意思決定、事業活動を知る上で貴重な情報源であり、「その時、実際に何が起こっていたか」ということを考察する上では勿論、この時代の薬業界について調査する上でも有用な文献である。本稿ではこの文献を主軸として、大日本製薬とそれにまつわる企業およびその立ち上げに携わった薬業者の意思決定に関連する状況を明らかにする。

日本の薬業界は明治期に大きく発展し、薬種問屋の何社かは研究開発能力を持つ製薬企業となった。その進化を測る上で重要となるのが、新産業すなわち西洋薬品と販売と製造と出会った際の反応を考察することである。すなわち薬事制度の変更に伴い、新たな環境に適応すべく事業を立ち上げる、あるいは業態転換を図る際の意思決定が、その後の業界発展の方向性に大きな影響を与えたことが予測される。そこで、本稿では大日本製薬株式会社設立当初の状況を資料から明らかにし、道修町の薬業者の活動、意図を論じる。

2.  『我社五十年のあゆみ』を読み解く

2.1  大日本製薬会社設立の経緯

本書は緒言において、大日本製薬会社設立の経緯について語っており、後の事業活動の礎となる出来事および企業の立場からの主張が記載されている。明治初年の日本における薬品市場について、「化學製剤と云はず、藥局製剤と云はず、ことごとく全國の需要を外國の供給に仰ぐの實情でありその商權は全く外人の掌中にあつたから假令日本藥局方公布の暁に及ぶといへども藥品の制度を整理するの外はないと觀られた」(大日本製薬編, 1947, p.2)と、当時の日本薬業界の状況を認識している。そしてこの状況をふまえ、「即ち内地に一の製藥所を起し日本藥局方に適合する藥品を製造して商權を我に收むるにあらざれば藥品取締の實を擧ぐる能はざる混沌状態であつた」(同書同ページ)と、生産による利益のみならず、自国生産によって国内に流通する医薬品の品質管理に言及することで、大日本製薬設立の意義を強調している。

しかし明治初年の日本薬業界の状況は、いかに上記のような危機意識を表明し目的意識を掲げたとしても、民間の力だけでは製薬企業の設立が叶わなかった。そこで政府の支援を得た上で、東京および大阪の薬業者の共同設立による会社組織の立ち上げ以外の手段がないという見解のもと、表1に記した人々が有志を募った。

表1 設立に際し集った有志
東京:小室信夫、男爵新田忠純(設立の計画が立ち上がった時点では無爵)、大倉喜八郎、福原有信、島田久兵衛
大阪:久原庄三郎、松本重太郎、大井卜新、浮田桂造

(出所)大日本製薬編『我社五十年のあゆみ』、1947、大日本製薬株式会社、p.2より作成。

結果、1881(明治14)年、製薬会社創設および国庫の補助が要請され、その2年後の1883年5月、製薬工場用地、建物および装置が20年間貸与されることとなった。また、共同設立した会社の経営および監督も日本人が行うこととなり、協議の結果、当時ドイツに留学中であり、後に日本薬学会の初代会頭に就任する長井長義以上の適任者はいないということになった。しかし当時の情報技術では海外からの企業運営が困難であったために、表1のリストにも登場した新田忠純と、後に日本薬局方第1版の編纂に携わることとなる柴田承桂がドイツに派遣され、長井に事業参画を要請した。賛同した長井は施設や製造機械の調達などを引き受けた。薬学の造詣が深い研究者が製造設備の選択およびそれを保有する施設のデザインを担当することは、未だ黎明期にあった日本の製薬産業において極めて大きな意義を持ち、またそれを担った長井の責任も極めて重大であったと考える。

大日本製薬会社設立主意(原文ママ)書には、現在用いられている医薬品の殆どが輸入されたもので、国産品は低品質であるゆえに低価格販売を余儀なくされ、また輸入品にしても本国では医薬品として使われていないような品質のものが少なからず出回っており、これを「本邦目下ノ一大弊害ニシテ實ニ民命死生ノ繋ルトコロナリ」(大日本製薬編, 1947, p.3)と問題視して、国事意識と関連付けることによって、日本人の手で製薬企業を興し、国内市場に国産品を流通させることの重要性を訴えている。

なお、当社設立に伴い内務卿山田顕義による命令書が1883(明治16)年5月2日付で発出されている。10項目の命令の内には「傳染病等藥品缺乏ノ場合ニ於テ其價格非常ニ騰貴スル時ハ衛生局長ハ其社製藥品ノ價ヲ制限シ之ヲ販賣セシムルコト有ルベシ」(大日本製薬編, 1947, p.4)とある。この項目が意味するところは、企業設立の目的でも紹介された、医薬品の国内製造を通しての品質および価格の安定化である。第1次世界大戦時は輸入が途絶して薬価が暴騰したが、この命令項目をみれば、そのような事態も想定されていたことが分かる。

2.2  共同事業を通じての品質管理

道修町の薬業者らによる洋薬の知識吸収は、大日本製薬会社設立前から取り組まれていた。1877(明治10)年2月に結成された開成組では取り扱う洋薬の品質を保つ規則を定めると共に、薬舗開業試験への対策として夜学を開設した。また後年、薬学を教授する私立学校設立にも携わっており、それは『大阪薬種業誌第四巻』中の私立大阪藥學校新築世話掛に薬種商の名がみられることでも分かる(大阪薬種卸商組合編, 1941, pp.261–262)。

また、1886(明治19)年に第一版日本薬局方が公布されて以来、衛生試験所(国立医薬品食品衛生研究所の前身)は日本薬局方所定の医薬品に試験印紙を添付し、品質保証を行うようになった。しかし当時流通していた医薬品の多くは薬局方に記載されておらず、また新薬・新製剤が多数輸入されていた。これは試験印紙が添付されない商品が増えることを意味し、印紙が添付されないということは品質保証の不備に繋がり、品質保証の不備は粗悪あるいは危険な薬品が日本国内に流通する可能性を意味した。それは、薬業者にとっても、国民の健康にとっても看過できないリスクだった。

この状況に対し「日本藥局方所定品は勿論、各國藥局方所定薬品、何れの藥局方にも記載せざる新藥品等の試験をなしその印紙を貼付してこの間に對處する必要がある」(大日本製薬編, 1947, p.43)という意見が大阪薬種卸仲買仲間の間で出された。「藥品試驗會社設立ノ件趣意書緒言」(同書, p.44)では「内務大臣ヨリ自今衛生試驗所ニ於テ檢査印紙ヲ貼付スルモノハ日本藥局方所定ノ藥品ニ限ル(中略)將來民度ノ進歩ニ隨ヒ試驗所ノ官設ヲ廢停セラルゝ豫考モアリト云フニ因リ今我仲間ノ有志者協同シテ其筋ヘ出願ノ上當地ニ一ノ試驗所ヲ私立シ」(同書同ページ)とある。この文面からは、大阪の薬種商の行動力の高さが見てとれる。彼らは薬業界の現状を確認した上で、将来国立の検査機関が無くなった場合を想定しておくべきだと続け、更に自分達がそれに代わるものを設立するための行動を起こすべきだと主張している。また、公立の医薬品検査機関が消滅するかもしれないというのは、環境が目まぐるしく変わり続けた明治期ならではの展望といえる。そして1888(明治21)年、調査研究の結果、衛生試験所の試験印紙が貼られていない医薬品の品質検査を目的とする組織の設立が決定された。同年、計14人(発起人13人+後見人1人)を設立者とし有限責任大阪薬品試験会社が興された。

定款に会社の業務が記されており、第1章総則第4条によれば「當會社ハ廣ク公衆ノ需ニ應ジ藥品其他諸物品(理化學試驗ノ要アルモノ)ヲ試驗シ其成績ヲ報告シ又タ藥品ノ醫用ニ適スルモノニハ檢査證印紙ヲ貼付シ之ガ手數料ヲ領スルヲ以テ目的トシ目的外ノ事業ニ關係スルヲ得ザルモノトス」(大日本製薬編, 1947, p.47)とある。当時として最高水準の検査設備を備え、官営の衛生試験所と同等の精度で検査が可能であると主張した。1893(明治26)年、株式会社として改組された。

2.3  製薬事業への進出

医薬品の検査機関が設立された後も、日本の製薬事業は十分に発展しなかった。医薬品の大部分は輸入に依存しており、国産品も品質が悪い上に、激しい価格競争に晒され、不良薬品が横行した。1896(明治29)年、道修町の薬業者ら21名が設立発起人となり、優良医薬品の国産化を目指して大阪製薬株式会社の設立総会が開催され、翌年に農商務大臣からの設立免許が下りた。

この大阪製薬株式会社も『我社五十年のあゆみ』に記述があり、その創立趣意書をみれば「現今我同業者ノ賣買セシ藥品數百種ノ多キ或ハ製造及工場ノ不完全ナルヨリ未ダ全ク精良純粹ノモノヲ得ルコト難キノ歎アリ(中略)從來ニ優ル藥品ヲ需要者ニ供給スルハ獨リ我等藥品賣買ヲ業トナス者ノ本分タルノミナラズ從ッテ本邦藥品改良ノ實ヲ擧ゲ藥業ノ發達ト商權ノ振與ヲ增進シ名聲ヲ恢復スルノ捷径タルベシ、茲ニ理學博士長井長義君ノ賛同ヲ得同業者協同一致完全ノ製藥所ナル大阪製藥株式會社ヲ設立シ營利ノミヲ主トセズ普ク公衆ヲ益セント欲シ」(大日本製薬編, 1947, p.8)とある。大日本製薬会社同様、国内で販売される医薬品の現状を憂慮していることが、まず表現されている。そしてその状況が薬業者自身の将来を危うくするという危機感があったことも分かる。また大日本製薬会社が国事に焦点を当てている一方、この大阪製薬株式会社は薬業者からの視点が多く盛り込まれており、企業家の意思がより濃く表れている。特に、医薬品の品質向上に取り組み、医薬品の製造販売を日本人薬業者の手で行うことが名声を回復する早道であると断じる記述は、薬種問屋の運営に留まることなく、製薬事業へ乗り出さねばならないと考える薬業者が当時存在していたことを示す上で重要な意味を持っている。

また1897(明治30)年、技師として東京帝国大学薬学別科を卒業した堀有造を招聘した。同社の営業開始は1898年1月13日と明記されている(大日本製薬編, 1947, p.27)。そして同年7月8日に開催された通常株主総会における当時の実況という項目をみると、同年6月30日時点では「製造したる種類は四拾八種其數量は参萬貳千八百八基にして發賣せし數量は六萬九千七百参拾八瓶其價格は九千八百参拾貳圓六錢参厘なり而して製品販賣の特約者の如きも亦漸時其數を增加し四拾者(原文ママ)の多きに達せり(中略)本期間に於ける營業の如きは専ら技工の手藝と事務の順序を成立練修を務めつゝありて決して未だ以て營業の眞相を顕したるものに非ざるべし諸君幸に之れを諒せられんことを」(同書同ページ)と記されている。具体的な数量を記載しつつ、それが不充分であることを認識しており、その原因が事業運営の習熟期間であることにあると主張した。この主張は同株主総会にて異議なく承認されたという記述がある(大日本製薬編, 1947, p.28)。この時点で、発起人同士の相互信頼があったと推測される。創業当初においては、時系列に沿った状況が記載されている。表2に示す。

表2 1898年業務内容
7月9日 中川銀蔵請負製作の器械混合器、遠心器竣工引渡し
7月13日 ドイツから到着した諸器械据え付け工事を発注し契約を締結、8月5日完了
8月13日 製薬所諸器械据え付けを終了
8月23日 製薬所付属エキス製造室のかまどおよび煙突工事落成につき検査を終了させ、大阪府庁から落成検査証書を付与される
9月7日 製薬所本館試製室直火蒸留器外二口の取り付け工事を山形鉄工所に発注し契約を締結し、9月19日完了

(出所)大日本製薬編『我社五十年のあゆみ』(1947)大日本製薬株式会社、p32より作成。

また、経営困難となって合資会社化した大日本製薬会社から合併の申し出があり、調査の結果大阪製薬株式会社がこれを受諾することとなった(同書同ページ)。そして1898(明治31)年に吸収合併した結果、大阪製薬株式会社は社名を大日本製薬株式会社と改めた。この時、大阪製薬株式会社は、大日本製薬合資会社が持つ全ての商標権、器械、什器を買い取った。合併に関しても詳細な経緯が記されている。表3に示す。

表3 1898年時業務内容(合併経緯詳細)
11月1日 臨時株主総会が大阪市にて開催され、社名改称、定款変更、増資、新株負担、出資金(資料では株金)募集などが協議された。
11月12日 大阪製薬株式会社の社長、日野九郎兵衛、取締役の宗田友治郎、小磯吉郎の3名が東京に出張し、買収した商標権、器械、什器を受領した。
11月15日 社名改称、定款変更、出資金払い込みを大阪区裁判所で完了した。
11月16日 社名改称及定款変更届書を、大阪府庁を経て農商務大臣へ提出した。
11月26日 大日本製薬合資会社より買収の商標権譲受願書を農商務省特許局へ提出して12月8日付で登録完了した。
11月30日 東京で受領、積送した器械、什器はすべて到着し、製薬所へ収納された。
器械の一部の取り付け工事について山形鉄工所と契約を締結した。

(出所)大日本製薬編『我社五十年のあゆみ』(1947)大日本製薬株式会社、p33より作成。

以上の経緯をもって、大阪製薬株式会社は東京の大日本製薬合資会社と合併し、大日本製薬株式会社と改称して、製薬事業を再始動させた。その後の状況については同書に収録された座談会に記述があり、「明治三十三年秋に北淸時變があつて急激に醫療藥品の需要が殖え一轉機を與えた(中略)續いて明治三十七、八年の日露戰争によつて日本の藥品の製造、需要が急激に殖えそれらの関係からⓅの營業の上に相當大きな影響を與えたということは見逃せない」(大日本製薬編, 1947, p.151)と、1947年2月時点で取締役だった岡澤良次が語っている。1900(明治33)年の義和団事件に際して日本が連合軍に参加したことと、日露戦争が勃発したことが事業発展に貢献したという認識があったことが分かる。

その後同社は1908(明治41)年、大阪薬品試験会社を吸収合併する。大阪薬品試験会社と大阪製薬株式会社は、医薬品の品質保証と安定供給の役割を果たし、大阪で活動する薬業者の信用向上に貢献した。この大阪薬品試験会社の運営に関しては、『大阪製薬業史第一巻』に塩野義三郎名による田邊五兵衛(十二代)、武田長四郎(四代武田長兵衛)へあてた記念状の存在が示されており、薬業者個人の貢献と影響力の大きさが見てとれる。さらに五代武田長兵衛の追想『武田和敬翁追想』でも田邊、塩野両家の活躍が言及されている。

また上記で触れた田邊五兵衛商店は他商店との共同事業も行っている。1889(明治22)年頃から道修町の薬種商、製薬技術者の協力を得てヨード抽出実験を始めた。ヨード製造に自信を持った十二代田邊五兵衛は、同じく早期から洋薬を取扱っていた武田長兵衛商店、塩野義三郎商店と共同で、1890年にヨード製造を目的とした合資会社廣業舎を設立した。

2.4  各薬業者の活動

1914年7月に第一次世界大戦が勃発し、ドイツからの医薬品輸入が途絶えて薬価が暴騰した。政府は「戦時医薬品輸出取締令」を緊急発令して医薬品の国外流出を防いだ。

このような状況の中、薬業者もまた行動を起こした。『大阪製薬業史第二巻』によれば、大阪と東京の薬業者らが「有志製薬調査会代表委員」(大阪製薬同業組合大阪製薬業史刊行会編, 1944, pp.16–17)として1914(大正3)年11月、当時の内務大臣大隈重信に建言書を提出し、「政府ノ臨時機關トシテ此際速カニ藥業調査會ヲ設置セラレタキコト(中略)右藥業調査會ハ委員制ト為シ内務、大蔵、農商務各省ノ行政官、醫學者、藥學者、科學者及藥業家ヲ委員ニ擧ケラレタキコト」(同書, p.12)と、専門家による医薬品の需給状況および製薬業奨励策を調査する団体設置を打診した。政府はこれに応え、臨時薬業調査会を設けて対応策を練ることを決定した。まず1914(大正3)年12月の官報にて調査会の設置を告知し、その後委員に友田嘉兵衛が加わったことで、計7名が実業家代表として参加した。その内4名(田邊五兵衛、塩野義三郎、武田長兵衛、日野九郎兵衛)が道修町の薬業者である。彼らは大阪薬品試験会社および大阪製薬株式会社の設立発起人でもあった。

表4は、これまで記述した各活動の参加者をまとめて示したものである。最も多くの活動に参加しているのは武田長兵衛と田邊五兵衛、次いで塩野義三郎となっている。これを見るに、薬業者集団の中の、更に少数の人物ないし商店が中心となって、改革に取り組んできたことが分かる。またこの3者はそれぞれ、個別に、特筆すべき活動を行っている。

表4 薬業者活動まとめ
人名 開成組 大阪薬品試験会社
設立発起人
大阪製薬株式会社
設立発起人
臨時薬業調査会
メンバー
有志製薬調査会
代表委員
私立大阪薬学校
新築世話掛
安達久七
井上喜兵衛
塩原又策
塩野義三郎
塩野吉兵衛
塩野宗三郎
塩野直助
夏目小三郎
河合五良兵衛
掛見助松
乾利右衛門
乾利右衛門(後見人)
乾利兵衛
錦源兵衛
原田松次郎
荒木萬兵衛
三國仁兵衛
山口庄兵衛
山本平助
七理清助
宗田友治郎
春元重助
小磯吉人
小寺幸次郎
小西喜兵衛
小西儀介
小西儀助
小西久兵衛
小西庄七
小西新兵衛
小西藤助
小野市兵衛
上村長兵衛
杉村定七
成尾安五郎
石津作次郎
早矢仕寅吉
大井卜新
谷口市兵衛
谷山伊兵衛
谷山市兵衛
長岡佐助
鳥居徳兵衛
田畑利兵衛
田邊元三郎
田邊五兵衛
日野九郎兵衛
白井松之助
武田長兵衛
福原有信
福田清右衛門
野々村藤助
友田嘉兵衛
和薬嘉兵衛

(出所)『大日本製薬六十年史』『衛生局年報. 大正四年』『大阪製薬業史第1巻』『大阪製薬業史第2巻』『大阪薬種業誌第四巻』より筆者作成。

メンバーの1人である田邊五兵衛は、正式には十二代田邊五兵衛である。彼の特徴はその先駆性にあり、1877(明治10)年、弟の元三郎を援助し、道修町の店舗の裏手に製薬場を設置した。これは大日本製薬会社が設立される1883年以前である。

塩野義三郎商店についても述べる。二代塩野義三郎は、環境の変化に対応するため初代塩野義三郎が開始した洋薬取引を引き継ぎ、取引のための知識の吸収を行った。また同じく初代が始めた製薬事業を弟の助力により発展させ、研究開発を推進し、自家製新薬の製造販売を実現させた。組織改革にも着目し、研究開発能力と近代的組織を有する持続可能な企業への発展を推進する傍ら、遺書にて研究助成のプロジェクトの創始も指示した。

武田長兵衛商店の五代武田長兵衛は育英事業と資料保存事業により、公益性と人材重視の姿勢をアピールし、ブランド確立に努めた。産学連携プロジェクトにおける「産」すなわち武田長兵衛商店側からのアプローチと言える。

3.  おわりに

『我社五十年のあゆみ』という新たな資料を得て、大日本製薬にまつわる彼らの活動をより詳細に分析することができた。民間事業者が業界全体の行く末を鑑みて行動を起こすという行為は個々の事例にも表れており、それは育英事業および研究助成事業の創始という形となって表れている。これらの例としては武田長兵衛商店および塩野義三郎商店のケースを詳述した。

今後は同社の資本金、従業員推移に着目し、企業家活動の定量的評価を行うことで、彼らの果たした役割を更に深く検討していく。

謝辞

本稿をまとめるにあたり、資料をご提供いただいた、ゆまに書房の吉田えり子様に深く御礼申し上げます。

1  大日本製薬会社の商標である。初めはMedicineの頭文字からⓂとする計画があったが、他社が商標登録済みだったのでPharmacyの頭文字を採った(大日本製薬編,1947,巻頭「我ガ社商標ノ由来」)。合併後の大日本製薬株式会社を指す言葉としても用いられた。

参考文献
 
© 2022 The Research Institute for Innovation Management of Hosei University
feedback
Top