2024 Volume 21 Pages 179-191
本研究は、心理職の国家資格として誕生してからまだ歴史の浅い公認心理師が、今後、産業・労働分野において活躍の場を広げ、貢献していくための手がかりを見出すことを目的とした。時代の変化にともないストレスが増す産業領域の背景や課題を理解し、文献調査により産業・労働分野におけるメンタルヘルス支援、心理学的視点で関わってきた人物や活動の歴史を概観した。この分野で長く活躍している心理士へのインタビューも参考に、この領域で活動する公認心理師の今後の展望を考察した。
This paper aims to find clues for licensed psychologists, a profession with only a short history since a national qualification was introduced in Japan, to expand their careers and contribution in the industrial and labor fields. An overview of the history of mental health support in the industrial and labor fields, the principle figures involved from a psychological perspective and their activities are obtained by literature review. The background and issues in the industrial field, where stress is increasing with the changing times, are considered. Drawing on an interview with a therapist deeply involved in this field for a long time, the future prospects for licensed psychologists in the industrial and labor field are examined.
これまで日本の心理職では、大学院修士課程修了を義務付けた「臨床心理士」の活動が中心的と考えられてきたが、2018年秋に国家資格である「公認心理師」の第1回試験が行われた。その後継続して年1回の試験が実施されている。四年制大学において、公認心理師受験資格要件を満たす「大学における必要な科目」の単位をすべて修得し卒業した上で、大学院において「大学院における必要な科目」の単位をすべて修得して修了、あるいは、「法の規定する認定施設」にて2年の実務経験を経て試験に合格した者が資格を保持する。この公認心理師の誕生により、医療現場では、「心理検査」の保険診療点数化が促進され、精神科や総合病院での公認心理師の雇用も、今後より増加する可能性が高い。法政大学では現代福祉学部で過去15年以上、臨床心理士の養成が現在に至り続けられており、公認心理師受験要件に満たすための授業と教育も行われている。
今回の国家資格化により、公認心理師の職域に「産業」があることが新たに注目されている。ここで、心理学と産業領域との歴史を振り返り、いま現在社会で起こっている問題をどう心理学、カウンセリングで解決していくかを探る糸口としたい。そのために本論では、産業領域に関わる公認心理師のあるべき姿を考える目的で、方法としては文献調査を行った。結果として、産業カウンセラーの歴史と心理学者・上野陽一と社会との関りが浮かび上がってきた。それらの文献調査の結果を述べた。さらに1970年代から産業領域の心理職として活躍してきた渋谷武子氏へのインタビューを実施し、その結果を述べた。インタビューの実施方法については心理学研究法の「個別面接法」を参考にした。それらを総合して考察を行った。
1990年代初期、ある大手企業に入社した社員Aは、慢性的な長時間労働によりうつ病を発症、自殺に至り、遺族が企業に対して損害賠償請求の訴訟を起こした。一審(東京地裁、1996年)では、当該企業に1億2,600万円の賠償金の支払いを命じたが、企業はその判決を不服とし控訴し、二審そして最高裁までもつれこむこととなった。最終的には当該企業が遺族へ1億6,800万円を支払うことで和解が成立した。この最高裁判決は、従業員の過労自殺に関わる民事上の損害賠償請求訴訟において、企業の安全配慮義務違反が最高裁で初めて認められたという極めて重要な意味があり、メンタルヘルス支援において大きな影響を与えることになった。
その後、2014年に労働安全衛生法が改定されることとなる。事業者は、厚生労働省令で定めるところにより、心理的な負荷の程度を把握するための検査(ストレスチェック)及びその結果に基づく面接指導の実施等を内容とした「ストレスチェック制度」を実施することが義務付けされた。これは厚生労働省による「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」(2000)、「事業場における労働者の心の健康の保持増進のための指針」(2006)の延長上にある。
1998年には日本の年間自殺者数が3万人を超えたが、1997年から1998年には消費税率の引き上げ、アジア通貨危機、山一證券の倒産などがあった。1990年代のバブル経済崩壊後、2010年までの長い不況時代に、終身雇用制、年功序列はしだいに崩壊していくという、産業領域での大きな変化は、人々のメンタルヘルスにも大きな影響を及ぼしていくこととなる。
2023年4月18日には、茨城県守谷市で日立の下請け会社の男性(66才)が30日間連続勤務の上、自殺した事例に対し、大阪地裁は遺族の請求通り約4,400万円の支払いを命じた。このように企業の安全配慮義務違反を認められるケースは現在に至り増加している。
「カウンセリング」という用語は第二次大戦後に日本に紹介されてきたと考えられる。明治、大正時代には心理学関係者の相談活動は存在したが、現在でいう教育相談の領域に限定されてきた。なお、労働や産業の領域において活躍した心理学者である上野陽一については後述する。
倉敷労働科学研究所1の所員であった桐原葆見(心理学者)は、「労働科学は人間の労働を研究する実践科学である。それゆえに当然それは人間中心主義(人道主義)に立たなければならない。その真のヒューマニズムは、働く者の主体性、自主性を確立するところにある。労働者は資本の僕(しもべ)でもない、経済の僕でもない、産業の僕でもない、技術の僕であってはならない。資本も経済も産業も技術も、すべて人間のためにある」と述べている(桐原, 1951)。
1920年ごろ、桐原は倉敷の紡績工場で「疲労」の研究を行った。「工場生活の中に飛び込んで、日夜の血の出るような労働に直面してみると、考えられた理論や印刷された概念などは消し飛ばされてしまって、マルクスの名を思い出す暇もない、ただまっしぐらにこの労働の現実の一角を、何としてでも良くしなければならないという衝動が、身内に一杯に広がってくる」。ウェッブ(Sidney James Webb)の「産業のデモクラシー」(Industrial Democracy)が翻訳されたのが1920年ごろだった2。この時期は「産業カウンセリング」というものというよりは、疲労や深夜労働が人間の体や精神にどのような影響を与えるかを調べ、研究して発表するという段階であった。倉敷労働科学研究所は、大原孫三郎が資金を提供し、大原社会問題研究所の別動隊の形ではじまったという。桐原によれば「この金はいずれも皆工場で働いている工女たちの汗の結晶だと思って使ってくれ」「工場の労働をもっと楽なものにしてほしい」と言われ、研究は女工たちの待遇改善、労働環境の整備のために行われた。桐原を研究所に誘ったのは大原社会問題研究所のほうに所属していた、暉峻義等(元大原社会問題研究所所員、初代倉敷労働科学研究所所長)であったという。
1952(昭和27)年、『診断と指導 臨床心理』の第1巻第4号では、鈴木清(日本初の臨床心理事典の編者)が、カウンセラーは教育だけではなく、家庭、職場、病院でも必要である、と持論を展開していた。1954(昭和29)年、日本応用心理学会では「産業心理部会」「犯罪心理部会」「教育心理部会」「臨床心理部会」の4部会制がスタートした。つまり戦後すぐの臨床心理学の雑誌と、応用心理学会では、職業カウンセリングの必要性が叫ばれ、「産業心理部会」があったことがわかる(安齊・鈴木・中谷, 2006)。
日本の産業カウンセリングは、電電公社からはじまったとされる。1950年代後半、「日本電信電話公社」によって始まった。「近畿電気通信局」から開始し、その後全国に人事相談室が設けられた。また、EAP(Employee Assistance Program)は、外資系企業であるモトローラ日本法人で始まった。
桐村(2001)は、カウンセリングは職業指導と心理測定と精神衛生という3つの分野が合流してできたものだと述べている。職業指導は「育てるカウンセリング」「開発的カウンセリング」と呼ばれる分野に発展した。産業カウンセリングは、心身ともに健康な人を対象とすることが多いので、人を育てるカウンセリング面が強い。しかし、悩んで出社できなくなった人やアルコール依存症の人を対象とする治療的カウンセリングもある、と述べている。上司が部下を育成するときのカウンセリング・マインドの育成、管理職に対するカウンセリング研修、社員の自己啓発のための自己理解テストやアセスメントの導入、人事制度にかかわる会社の人事スタッフと産業カウンセラーとの定期的面談などが産業カウンセリングにできること、として挙げられている。
「失業」に関するカウンセリングでは、失業後の心理プロセスである「ショック」の時期、回復の時期、就職意欲の「上昇」やこの段階での就職ができない場合の意欲の「下降」や、「あきらめ・撤退」などのプロセスに応じたカウンセリングをすることが可能である、と吉田(2001)は述べている。
2001年発行の『現代カウンセリング事典』(國分康孝監修)では、日本のカウンセラー資格17種を挙げている。列挙すると、産業カウンセラー、学校心理士、キャリア・カウンセラー、認定カウンセラー、学校カウンセラー、教育カウンセラー、スクールカウンセラー、臨床心理士、認定健康心理士、大学カウンセラー、心理相談担当者(中央災害防止協会)、精神保健福祉士、音楽療法士、言語聴覚士、認定行動療法士、家族心理士(家族相談士)、ピア・ヘルパーとなっている。今見ると、国家資格である精神保健福祉士や言語聴覚士と、学会が認定する「認定行動療法士」が並列に扱われるなど、不思議に思える点があるが、約20年前には日本のカウンセラー資格が混在し、誰がどのような仕事をするか議論中であったことがわかる。今後は国家資格「公認心理師」に各カウンセラー資格の仕事が含まれていくだろう。
1990年代以後に日本に紹介されてきたEAPは従業員支援プログラムと呼ばれるものであるが、従来の産業カウンセリングと大きく異なるのは、「従来のメンタルヘルス対策が個人に対しての働きかけであるのに対し、EAPは組織に対する働きかけをして総合的な問題解決に関わる」という点である(市川, 2019)。この領域における研究はまだ発展途上である。
労働三法とは労働者の権利を具体的に定めた法律であり、「労働基準法」「労働組合法」「労働関係調整法」の三種をさす。心理的支援の際に問題となるのは、雇用契約において使用者が労働者に負う義務として「安全配慮義務」がある。現時点で、公認心理師が産業分野のメンタルヘルスに関与することのできるのはストレスチェック制度である。研修を修了した公認心理師もストレスチェック実施者になることができる。
この章では、日本の産業心理学において大きな足跡を残した上野陽一について触れる。
日本の心理学では、明治中期以後、留学から帰ってきた元良勇次郎を中心に東京大学にて心理学が講じられた。元良勇次郎は1858年に兵庫県三田で儒学者の子どもとして生まれた。幕末安政5年(1858)生まれ、黒船来航(1853)の数年後である。神戸でアメリカ人宣教師デイヴィス(Jerome Dean Davis)の家に住み込み英語と洋学を学び、1874年キリスト教徒になる。アメリカに留学し、ボストン大学、ジョーンズ・ホプキンス大学で学んだ。アメリカの心理学者ホール(Granville Stanley Hall)の元で学んだ。「通史日本の心理学」では元良は事前にホールの事を知っていたわけではないようだが、1885年10月からジョンズ・ホプキンズ大学の生物学教室で学ぶことになった。この教室には3名教授がいて、ホールはそのうちの一人だった。元良はホールと共同で論文を発表した。博士号を取得した論文は『Exchange』である。彼はボストン大学留学中に『教育新論』を執筆しており、狭い意味での心理学だけではなく、教育に深い興味を持っていた。また、旧来の迷信に反発し、科学を学ぶためにアメリカ留学を志したと考えられている。1888年9月アメリカ留学から帰国した元良勇次郎が帝国大学(1886年から東京大学は帝国大学と呼ばれるようになった)文科大学哲学科「随意課」の講師として「精神物理学」を担当した。元良は日本初の「心理学者」である。1901年2月にはアメリカ、ドイツの留学から戻った松本亦太郎が東京帝国大学(京都帝国大学ができてからの呼び名)講師となり、ヴント(Wilhelm Maximilian Wundt)の『心理学概論』などが演習にもちいられた。
明治の終わり1912(明治45)年1月、東京大学で心理学を学んだ者が中心となった学術雑誌『心理研究』が刊行された。元良勇次郎、松本亦太郎(二代目心理学教授)、福来友吉(催眠術研究者)が「賛成者」となり、上野陽一が編集主任となり、心理学の普及を目的として刊行された。この会は元良が自宅で「心理学会」と称して卒業生を集めていた会がもとになっている。元良の弟子では速水滉らが東京大学の助手となったが、上野は実業界に身を投じた。
上野陽一は1883年生まれ。1908年に東京大学を卒業した。元良の初期の卒業生の中でも、実務的能力を発揮しているのが上野であった。上野は、デユーイ(John Dewey)の『学校と社会』を1901年に翻訳しているが、デユーイは、教育学の世界では重要な研究者であり、上野はその本の初の訳者として教育学の世界にもその名を刻まれている。産業能率大学には上野陽一が残したノートが展示されており、元良勇次郎、松本亦太郎の講義ノートも現存している。
その後上野たちは、1909(明治42)年4月に「心理学通俗講和会」を設立した。会を企画したのは大槻快尊(1906年卒)、倉橋惣三、菅原教造、上野陽一(1908年卒)の4名であり、恩師元良勇次郎の許可を得た。当時上野は出版社である同文館に勤めながら、実務的に活躍した。この会では幼稚園、小学校の教員や家庭の主婦など一般の人に向けて啓蒙的講演を行った。講和の内容は『心理学通俗講和』として、同文館から刊行された。この流れで、実質的な編集長は上野の状態で『心理研究』が刊行されたが、「心理学研究会」による編集・発行とされた。
『心理研究』が刊行されてから、例えば第2巻から3巻に「付録」として、上野はエンジェル(James Rowland Angell)の本を「近世心理学大観」として翻訳した。エンジェルはアメリカの機能主義の心理学者である。第8巻から9巻にかけては、「催眠術と暗示」というヴントの著作の翻訳を上野は掲載している。このように上野は旺盛な編集活動、並行して翻訳活動を行った。
『心理研究』第3巻第5冊(1913)では、上野は「職業選択の心理」として、昔は子供の性質と関係なく、父親の業を継ぐことになっていた。上野はこれを不合理だという。それは個人を無視している話だという。子供を小僧(丁稚)にやる場合、魚屋か、床屋か本人の適性を見ないで知り合いだからなどくだらない理由で決めてしまうと、不適当な場所にいった場合に、不幸な結末に終わる。これらの不幸はどこから来るか、それは「確固たる基礎」がないからである、と説いている。相当の教育を受けた者が社会に出るとき、職業を決める方法があまりに無造作すぎる、と上野は説く。「もっと深く自己の個性を考察して、真に自己に適した職業を求めるように考えなければならぬ。」と上野は説いている。そして各個人が適した職業につけば「社会経済の上からどの位利益があるかしれない」と、心理学だけではなく社会や経済への言及も行っている。職業を選ぶにはその人の個性を知らなければならないが、その個性を理解する方法が心理学だ、と上野は述べている。心理学の研究は顕微鏡で見るようにその人を細かく記載することができる、と述べている。例えば反応時間の研究が、その人が自動車の運転に向いているかどうか、判断する根拠の一つになる、という。三越のデパートで万引きを防ぐ警備員と、計算係の必要な特質についても論じている。さらにボストンの「職業局」やミュンスターバーグ(Hugo Münsterberg)の説についても紹介していた。速記者になるものは「直接把住」(聞いてから書き終わるまで覚えている能力)が重要であるが、これは学んだことを長い間覚えている記憶とは異なる記憶である、と解説している。現在のワーキング・メモリーの存在について触れている。反応速度、ワーキング・メモリーなどに触れ、職業選択には心理学が必要と説く論文であった(上野, 1913)。
大正時代にも心理学の適性検査や知能検査は開発研究されていたが、上野の論は個性の尊重や適材適所ということについて、早い時期に非常に的確に述べられている。後に後輩の内田勇三郎が内田クレペリン検査を開発するが、それよりも早い段階で上野は勤労者の職業選択の心理学的問題について気が付き、警鐘を鳴らしていた。
さらに5年後、「社会事業と心理学」(1918)では、衣食住を求める無職者に心理検査を行ったところ(心理検査の内容は不明)大人七名のうち一名は精神薄弱者(当時の言葉)であった、として、生活難の問題を解決しようとするものは「是非とも個人本位に、精神上の異常のあるなしを研究しなければならぬ」と論じている。データから、ほかの無職者も精神薄弱者と一般人との間の知的能力である可能性があること、それに留意して社会事業(福祉)を勧めなければならないと説いている。この時期は久保良英による久保ビネー式なども開発されており、何らかの知能検査を用いた調査を上野が行ったか、後輩の研究結果なのか不明だが、それをもとに社会事業について心理学的調査の重要性を論じている(上野, 1918)。
上野は小林商店(現在のライオン)の合理化活動に参画した。粉歯磨きの袋詰め作業の改善を指導し、「午前・午後に15分の休息を挿入し労働時間は短縮し、生産量を20%向上させ、作業の所要面積を30%減ずる」ことができた。この成功により、上野は講演会などを行い、様々な企業の合理化のアドバイスを行う仕事を開始した。
大阪や東京では、「能率技師養成所」として、一般向けに講義を行い、能率技師を養成した。1922(大正11)年のスケジュールでは、時間管理について上野陽一と内田勇三郎(内田クレペリンの創始者)が講演を行っている。同日上野は「テーラー氏工場管理法」の講演も行った。産業能率大学の解説によれば「能率技師」とは現在のマネジメント・コンサルタントの創始であると考えられる3。
上野は能率学として、「ムリ、ムダ、ムラ」を嫌っていた。社員を残業させて自殺に追い込むなど、ムリをつづけた結果だと言える。結局無理を重ねることは無駄につながるということが能率学のテーマであるため、もし現代に上野が生きていたら、社員の残業によるうつ病自殺などは能率がよくない、として非難するような事態になっていると考えられる。
20世紀の初頭に、実験心理学の手法を産業場面に応用しようという動きがアメリカで発生した。ミュンスターバーグは、『心理学と経済生活』(1912)『心理学と産業能率』(1913)を続けて出版し、産業心理学の創始者と呼ばれている。ミュンスターバーグは、W・ジェームス(William James)の招きによりハーバード大学の心理学実験室の指導にあたっていた(ローバック, 1956)。彼はライプツィヒ大学に入学し、ヴントの講義を聞き、ヴントのもとで心理学実験を行っていた。ミュンスターバーグはアメリカ心理学会の会長になったこともある(1898)。彼は産業心理学を独立したものと考えていた。彼はある職業とそれに適した人格があり、職業と人格のマッチングについて論じた。ミュンスターバーグは運転手に対するテストを考案し、心理療法についての本を書いた。工場経営や広告会社、能率技術者の相談を受けた。また彼は若い人々が将来どのような職業に就くのかを科学的に検討する必要があると説いた。
フィラデルフィアで技師として働いていたテイラー(Frederick Winslow Taylor)は、産業能率に関する研究を行い、1903年に「出来高払い制」の賃金支払い方法を考案し、さらに1905年「工場管理法」の論文を発表した。その後、これらをまとめて『科学的管理法の原理』(1911)として発表した。テイラーの提唱した管理研究法などをまとめて「テイラーリズム」と呼ぶ(安齊, 2012)。テイラーの研究で最も有名なのはベスレヘム製鉄工場で行われた「ショベル作業の実験」である。工場の空き地にさまざまの鉱石、コークス、石灰石、鉄くず、砂などが山積みしてあり、これを貨車に積み上げたり、おろしたりする作業を従業員がしていた。テイラーは従業員の作業に無駄な部分があり、これをなくそうとした。作業員を実験室に呼び、ショベル一杯の重さが一定の重量のときに仕事量が一番多いことを突き止めた。その荷重は21ポンドで、材料の違いによる生じる荷重差を調節する10種類のシャベルを用意して作業をさせた。この方法で荷重に関する無駄を省いた。また、シャベルを石灰石などの山に入れるときの出し入れする速度をストップウオッチで計測した。数千回の測定を行い、最も効率の良い作業方法を決めた。それをすべての作業者に実行させた(フィリップス, 1994)。テイラーの研究によれば、3年後、一人一日当たりの平均トン数が旧制度では16トン、新制度では59トンに増加した。ストップウオッチを利用するため彼の研究を時間研究とも言う。
日本心理学会オーラルヒストリーの杉溪一言の記録によれば、1943年9月東京帝国大学心理学専攻に入学し、桑田芳蔵の指導を受けた。当時の学生は「教練」という軍事科目があり、海軍か陸軍かを選ばなければならなくなった。杉渓は、昭和18年12月10日、横須賀海兵団に入団した。その後土浦海軍練習航空隊に配属された。その後身体検査があり、「要務学生」と判定され、鹿児島航空隊へと移った。彼は適正検査業務を希望し、また土浦に戻され、適正部に配置された。
海軍航空心理学の研究班は、多くは東京大学の心理学科卒者で固められていた。主にパイロットの選抜のための心理検査、知能検査や精神作業検査が行われた。昭和20年6月、土浦航空隊は空襲にあったが、幸い、適正部は防空壕に身を潜めて助かった。海軍の心理学関係の研究所は技術研究所、航空要員研究所があり、前者には肥田野直、末永俊郎、後者には高木貫一、山根清道、相馬紀公などがいた。
同年8月に終戦となり、10月に東京大学に戻った。大学では学食でごはんにソースをかけただけのソーライスが販売されていた。
心理学の動向としては、昭和18年に松本亦太郎が亡くなり、戦後の日本心理学会の会長は桑田芳蔵となった。復学の約1年後、杉渓は卒業論文にとりかかったが、千輪浩が指導教官であった。彼は、昭和22年9月に大学を卒業し、旧制大学院に席をおいたのち、横浜国立大学で教職についた。学徒厚生補導研修会(S・P・S)が昭和27年に実施された。これは戦後の教育心理学や大学学生相談の起点としてよく指摘されている研修会である。このときアメリカの「カウンセリング」が紹介された。昭和30年にも講習会が行われ、杉渓は同僚の伊東博(「ニュー・カウンセリング」の著者)とともに参加した。彼らは学生相談室を勤務大学に創設した。
杉渓はその後、職業分野の藤本喜八(立教大学)や海軍時代の知り合いである相馬紀公(国鉄)、電電公社のカウンセラーの福山政一らとともに、昭和36年日本産業カウンセラー協会を立ち上げた。
産業領域の心理職として活動してきた渋谷武子氏へのインタビューは安齊、宮田、金築、末武により実施した。2020年8月5日Zoomにより行われた。なお、当日の質問以外に書面での回答もいただいたが、両方の回答を混合して以下の文面を作成した。
〈I 産業領域にかかわった契機〉
大学受験に失敗し、大手船会社に社員として勤務(女性には、一般職・総合職の分け方がない時代だった)。K大学の通信教育(法学部)を受け、卒業。と同時に、5年間の産業領域社員から公務員へ転職。家庭裁判所調査官(補)として神戸家裁に赴任。この職種経験は社会を知る体験でもあった。カウンセリング、ロジャーズ、フロイトなどを学び始めて興味が湧く。
カウンセリングのイメージ?―よくロジャーズは聞くだけとか自分の意見を言ってはいけないと言われますが、アメリカでロジャーズに学んだ大学の先生(拓植明子先生)が電話したり手紙でロジャーズに聞いてくれたし、ロジャーズは自分の意見を言うことも知っていたので、動きにくいということはなかった。ロジャーズが日本に来た時に、ライブでデモンストレーションを見ることができた。ある人が「カウンセラーが自分の意見を言っていいのですか?」と質問をしたところ、「クライエントは自我がしっかりしていた。自分(ロジャース)の意見を鵜呑みにする人ではないと思った」と回答があった。
人生上の転機―描画法のHTPを受けたときに、自分が進路について悩んでいたことがはっきりしたことは、忘れがたい体験です。
〈II カウンセリングについて〉
家裁調査官補を退職し、東京で新婚生活を送りながら、カウンセリングを勉強した。中野の近くの田村先生(家裁調査官の指導をしていた大学教授)から、「傾聴」を学んだのが初めて。
師を上げるなら?―拓植明子先生。全日本カウンセリング協議会所属、日本女子大教授。ほかに五十嵐正美先生、駒込勝利先生。教育分析は三木アヤ先生。
また、河合先生が箱庭療法を始めたときに講習会を受けたり論文を書いた。それ以外にも新しいカウンセリング、たとえば交流分析などが紹介されてきたときにも影響を受けた。仕事で産業カウンセラーの協会にも関わり、教えたり、講習会に出ていたので新しい理論にも親和性があった。
〈III 各年代の産業カウンセラーの特徴〉
1970(大人としての感想)年代について―家事の三種の神器、石油ショック、人口が増えた。広島で箱庭に出会った(昭和48、49年ごろ)、広島青少年センターにて、親面接等を行っていた。子育て中の転居が多かった。1978年、東京に戻る。
1980―今思うと高度成長期で安定していた。産業カウンセラーは企業内の部署で活動していた。
1990―1990年代前半、企業がリストラを次々と発表。この反映から人事担当ではなく、社外のカウンセラーの形態をとり始めた。90年代後半は人材を絞られすぎた反動で、2000年代がある。
2000―平成12年3月の最高裁判決により、カウンセラーの産業での体制を立て直す必要が出てきた。医師と相談し、(会社の)全員面接に取り組んだ会社にも関わった。
2010―男性管理職が当たり前であったのが、女性の管理職も現れてきた。それにより人間関係の問題が複雑化した。また、2000年代はアサーション、コミュニケーションの本が多く出てきたが、2010年は組織の在り方が問題となった。いじめ、組織のありようなど。その背景として、若い人は組織のヒエラルキーに疎くなっている(敏感ではない)。
仲間との伝達手段が会話ではなく、パソコン上(チャット等)が中心となっている。
カウンセリングの内容も性質が変わった。
〈IV 仲間との関係〉
保健師、同僚の心理士などとの連携、人間関係はとても大切です。別な場所でも述べたが、産業医に心理士の立場を理解してもらうこと。同僚として働く保健師、看護師やスタッフなどにも心理の仕事への理解をしてもらう努力をする。
〈V クライエントとの関係〉
面接での暴力行為―はっきり暴力はなかったが怖い体験をしたことはある。開業前に働いていた場所や、スーパービジョンで非常事態への対応を学んでいた。
リファー、判断方法―精神科医は男性、女性両方知っておくこと。クライエントに具体的に勧めるときもあれば、選んでもらうこともある。医師に紹介し、カウンセリングのみ受けていたこともある。
若い時の事例で今なら―今ならうまくやれたと思う事例はあります。やはり経験が大切。
企業内において、「利害関係」が対立するとき―どう対応するか、一緒に考えます。カウンセリングでは守秘義務があるので、選んで「情報」を伝えます。結論を出し、行動するのはクライエント本人なので。「自分はAと考えるがBの場合はこれこれがこう問題となるのでは」と相手の考えを広げる援助をする。
産業でのカウンセリングの特徴―その企業の特徴になれるのに約1年はかかる(行事等があるので)。エリクソンの年代別課題を学ぶことが役立った。また、依頼先企業からCo(Counselorの略)は40歳すぎ、がよいと要望されたことがある。相手先の要望を考慮に入れるべき。
〈VI 視点〉産業医と心理士の違い―カウンセラーや心理士は健康であることを基準に考え、医師は病理でみると思います。「自己成長」「自己否定的傾向」などに対応するのはカウンセラーの領域です。そのすみわけを医師に伝えたことがあります。
〈VII 若い人への助言〉
産業でカウンセラーとして働くには、40歳くらいをすぎないと難しいと思う。自分もそういわれてきたし、カウンセリングを受ける人の年代も、50代60代の人もいるので、あまり若いと難しい印象を持っている。その道を考えている人は企業で働く経験が役に立つので、働く体験をしてほしいと思う。
法律の知識は必要か―法律の知識も役立ちますが、社会を知るにはまず、新聞の株式欄です。想像力をたくましくするために、小説を読むか、アルバイトをしてください。
読むべき本は―企業での組織の在り方、人事、経理、営業などの知識を得られる「新書」を選ぶ力が大切。知識を得ようとすること、また本を選ぶ力が必要。また社会心理学、「進化しすぎた脳」など脳に関する本が役に立ちました。
〈他〉産業カウンセラー以外の資格について。1978年社労士資格取得。1982年社労士事務所開設。臨床心理士資格取得(*取得年が不明とのことですが、資格ができた年第一号の年代と思われます。)
〈時代の変遷〉昭和生まれと平成生まれの違い―昭和生まれと平成生まれでは、子育て自体が違ってきているので「どう話しかけたらいいかわからない」「上司になにを報告するかわからない」等、「当たり前」がなくなった。
菅野(2018)は、「産業・労働分野における公認心理師の具体的な業務」の中で、2000年代では「バブル景気が弾け(中略)その背景の中から、過剰な労働やハラスメントによるうつ病、うつ状態が急増し、その対策としてEAPのニーズが高まったというのが近年の経緯である」と述べている。それ以前、企業では産業医との契約が一般的メンタルヘルス対策として心理職と連携することはまれであった。次第に、外部EAP会社と契約し、社員がカウンセリングを受けられるなど、環境を整える企業が増えた。企業内に心理職を雇用しメンタルヘルス支援に取り組む傾向も大手企業を中心にみられる。企業内カウンセラーは、社内風土、文化、人間関係、キャリア形成、部署の内容などを理解していることにより問題への対応がスムーズにいくなど可能な支援がある一方、運営経費がかかることや企業からの評価を恐れるなどの理由で相談しにくいなどのマイナス点もある。外部のEAP会社による支援においては、比較的低コストでの運営に加え、相談の独立性による相談する安心感、契約先によっては全国的にサービスが受けられるなどのメリットがあるが、問題への具体的介入が難しいなど、ともに長所と短所がある。
また、菅野によれば産業領域の心理職には「産業・組織心理学」の知識が求められる。企業は利益の追求を旨とし、意思決定には常に経済原則が先行する。またうつ病やうつ状態が疑われる人が多くカウンセリングに訪れるため、少なくとも精神科医に紹介すべきかどうか、カウンセラーには判断が求められる場合があるとも述べている。
筆者のうち安齊は医療現場でうつ病から長期休養に入っている患者の面接を多く担当した。その経験から、うつ病からの職場復帰では、多少なりとも精神科の知識を持った公認心理師が職場内におり(企業内カウンセラー)、本人のスムーズな職場復帰を支える状況が作れれば、社員が心おきなく休職や復職ができるであろうと考えている。企業にかかわる心理職として通用する公認心理師の養成は今後の産業領域で活動する心理職の課題であろう。
日本の心理学の領域では、心理学者の産業とのかかわりとして、まず当時流行していた「疲労」研究の観点から、現場での調査などが始められた。その中から、上野などの「能率技師」が現れた。桐原などのように研究をベースに勤労者(女工)の勤務改善の提案を行うなどの活動も行われた。第二次大戦後、産業カウンセリングの必要性が応用心理学会などで説かれたが、定着しないまま、高度経済成長時代を迎えた。産業カウンセラー協会ができ、資格認定を行ったが、有資格者のうち12%がカウンセラーとして働くという状況にとどまった。1990年代となり、バブル崩壊後に、日本の企業の変質(企業家族主義の変容、終身雇用制の崩壊)とともに勤労者のうつ病が問題となっていった。うつ病による過労死自殺の裁判で企業が訴えられる事態が起こった。この時期に日本のEAP、特に外部EAPの拡大が起こった。
2014年には労働安全衛生法が改正され、「心理的な負荷の程度を把握するための検査」(ストレスチェック実施)が義務化された。このストレスチェック実施者に臨床心理士は国家資格ではなかったため選ばれなかった。
2000年には、心理学の資格は17種類ほどもあり、カウンセラー資格は混在していたが、2018年にさらに新たに公認心理師という国家資格ができた。公認心理師の「職域」に「産業領域」が法律に明記されたことにより、国民のメンタルヘルスのために働く公認心理師が企業人のメンタルヘルスに深くかかわる時代が到来した。公認心理師法第一条には「この法律は、公認心理師の資格を定めて、その業務の適正を図り、もって国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする。」と定められている。これまで心理学は社会から多くの期待を寄せられながら、心理士としての活動は行ってきたが、臨床心理士は国家資格ではなかったため、職場や職域が限定されていた。これからの活動は法に定められたことにより、より活動に拡大、深化を増すだろう。
今回行われたインタビューでは、面接での困難(暴力など)への対応などのカウンセラーとしての熟練度、成長についてと、精神科医などへのリファーが行えるなどの「カウンセラーとしての力量」の問題がまず指摘された。そのうえで、「企業に慣れる」「40歳以上が望まれる」「産業医との関係」などの産業ならではのカウンセラーとしての力も指摘された。このような力を学部の心理学卒ですぐに得られるとは考えにくい。また従来の臨床心理士養成は、卒後にスクールカウンセラーになるものが多かったため、即産業領域で活動する心理職に対応するものとは思われない。このようなことに鑑み、公認心理師の養成について、さらに大学内部での検討や研究を積み重ねる必要があると考えられる。
現時点で、大学を卒業し「公認心理師」の資格を得たばかりの者が産業界で何かの働きをすると考えるよりも、すでに社会で産業カウンセラーとして働き、現任者として公認心理師試験に合格した者が国家資格の心理職としての自覚と能力を高め、後輩を指導していくのが現実的であろう。
同じ公認心理師の資格を持つものでも、医療機関でカウンセラーとして担当する場合、リワークプログラムの担当者、EAPのカウンセラー、企業内での復職支援担当者、など所属する場によってかかわり方が異なってくる。
企業のメンタルヘルス支援に関わる心理職は、会社組織についての理解が求められ、カウンセリングの技能だけではない知識や経験が求められる。今後は公認心理師の実習が企業で行われる可能性も出てくる。今後はまず現実に企業で行われているカウンセリングの内情を調査研究し、詳しい現状を把握し、そのうえで臨床心理学、カウンセリング等心理学内部の類似領域の過去の研究などを生かして、メンタルヘルスへの新たな提言を行うことが求められる。
今回の論文作成にあたり、渋谷武子氏に長時間にわたりインタビューに答えて頂き、多大なる支援をいただきました。論文作成時には武蔵野美術大学・荒川歩教授にご助言いただきました。記して感謝いたします。
この調査は法政大学イノベーション・マネジメント研究センターの助成金を受けて実施された。