2017 Volume 4 Issue 1 Pages 20-23
食事をしたり,芸術・音楽を鑑賞したり,モノに触れたり,香りを漂わせたり,サービスを提供する空間はあらゆる五感の刺激に満たされている.五感を刺激するテクノロジーであるバーチャルリアリティ(VR)は,世の中のありとあらゆるサービスを分析し,拡張する可能性を持つテクノロジーとして考えられよう.しかし,VR技術だけでは身の回りのサービスを豊かに拡張することはできない.私たちはサービスを受けるとき,ただ単に五感から受ける刺激だけを消費しているわけではない.五感から受ける刺激の質に加えて,その刺激の意味を解説する情報が伴われることで,感覚的な満足に加えて主観的な満足感を得ることになる.例えば,絵画を鑑賞するとき,その色彩や表現の豊かさだけでなく,描かれた時代背景や作家という人物像,素材に技法,そして題材の意味を言語的に理解することで鑑賞体験は深いものとなる.音楽においても,同様だ.料理だって,その一皿の歴史や素材の産地,生産者の拘りなどがそれに相当する.
2016年はVR元年と呼ばれた年だ.しかし,ものすごい臨場感のVR機器が開発されたわけでない.スマートフォンなどの身近なデバイスで誰もが体験でき,全天球カメラで誰もがコンテンツを制作でき,ソーシャルメディアで分かち合うことができるようになったことが最大の変化だ.こなれたVRデバイスに対して,ソーシャルメディアというITが文脈として加わることで新たなサービスが誕生した.サイバーワールドを発展させるITを,実世界そして社会につなげるインタフェースがVRの役割だ.サイバーワールドとリアルワールドがつながるところ,そこに新たなサービスが誕生する兆しがあろう.
これまでにVRは様々なサービスを産み出してきた.VPL Researchを設立したジャロン・ラニアーによってバーチャルリアリティという言葉が誕生した平成元年以来、シミュレーション,映画,ゲーム,などの分野において,それまでには無かったVRのテクノロジーそのものが直接のサービスとして登場してきた. それから30年近く経った現在,それまで単に「3D表示に代表されるような表現力」そのもののサービスとみなされていたVRを捉え直し,そのエッセンスである「感覚や潜在意識に訴えかけることができる情報伝達力」に着目することで,新たなサービスを創出しようとする機運が出てきている.
2.1 既存サービスを効率化するVROculus Riftの登場以来,従来,数百万円の価格帯であった広視野・高精細なHMD(Head Mounted Display)が10万円以下で入手できるようになった.VRを活用した製造現場等での作業指示は業務を効率化するものとして黎明期から提案されていた.プロトタイピングにおけるシミュレーションサービスなども従来から多くのものが提案されていた.これまでは,装置を含めたコストが非常に高く,一般に利用されるものというよりは専門的な環境において試験運用されることが多かった.さらにスマートフォンがHMDとして活用できるほど高精細なディスプレイを搭載するようになり,実質的に誰もがVRデバイスを持ち歩くような時代になった.数万円で購入できる全天球カメラのシャッターを1つ押すだけでVRコンテンツもすぐに制作できる.YouTubeやFacebookのようなソーシャルメディアが全天球映像に対応したことでVRコンテンツをすぐに共有できるようになった.ここまで来ると日常の中にVR体験が入り込んで来始める.安価で臨場感の高いVR機器の普及は幅広い業界に対してVRの活用可能性を考えるきっかけを与えた.不動産の遠隔内見,ライブへの遠隔参加,テレプレゼンスロボットと組み合わせた遠隔就労など,現場に行かなくともできることが増え,サービスの効率化に活用され始めた.
ここまでは従来のVRの概念の延長線上でサービスに活用されている話だ.
2.2 新サービスの創出VR体験というものがどういうものか考えてみよう.そうすると身体性を伴った一人称体験のメディアであることに気づくだろう.VRがもたらす新サービスの鍵はここにありそうだ.VRは他者の視点に立ったものの見方を,身をもって理解することを助ける.反対に,他者の視点に立てるということは,自己を客観視点から観察できることになる.これらのことは今の時代から先を見据えた時にとても重要な意味を持つ.お互いの一人称の体験を共有していくことで相互の理解が深まり,多様な価値観を許容し,共存する社会へと前進させられる.マイノリティが社会の中でどのように感じているのか,異なる世代,価値観,ジェンダーなどそれぞれの視点に立って共感を促すことができるだろう.自己を客観化できることも,自分に対して冷静な判断を持つことにつながり,気持ちを楽にすることができるかもしれない.
2020年には東京オリンピックを控えている.VRの持つこの側面は,選手の技能面でのトレーニング,メンタル面でのトレーニングに活用できると考えている.VRでトップアスリートの視点に立つことで,どのような身体の使い方,そして状況判断を行っているかを学ぶことができるだろう.客観視点で自分の運動を見ることで,フォームの問題点やメンタルがパフォーマンスにどのように影響しているのかを知ることができるだろう.
スポーツにおけるVRの活用はトレーニングの支援だけにはとどまらない.VRの利用が身近なものになってくると,VRを前提とした新たなスポーツを創出することが考えられる.著者らが関わっている「超人スポーツ」の研究では,身体の拡張・道具の拡張・フィールドの拡張を行うことで新たなスポーツの開発に取り組んでいる.テクノロジーを駆使した新しいスポーツを考える段階において,超人スポーツ協会は地域でハッカソンを実施することにより地方創生との接点を持つようになった.「岩手発・超人スポーツプロジェクト」など,このスポーツクリエーションを通じて,地域の価値の再発見,創造的人材育成,新たなコミュニティの醸成という新たなサービスを創出する可能性がある.
スポーツと密接な関係にあるのは健康づくり活動であろう.我が国は世界初の超高齢社会であり,ヘルスケアの意識は国民の意識に広く浸透してきている.健康長寿のためには適度な運動が推奨されているが,その恩恵にあずかるためには,運動習慣は遅くとも中高年の段階に身につけておくのが望ましい.しかし,運動意識の低い層や多忙な社会人にとってはなかなか運動する機会を持つことができないのが現状だ.企業においても従業員の健康増進を通じて業務の生産性の向上を図る,健康経営の概念が広がり始めた.VRを活用することで,定期的にジムに通うことがままならない従業員も,自宅や職場においてジムに通うのと同等なトレーニングのレッスンをマイペースで受けられるだろう.日常においても,VRが持つ自己客観化の力を活用して健康的な美しい姿勢を意識させることができるだろう.テレプレゼンスロボットを活用したテレワークを促進することで,ライフステージに応じた多様な働き方を許容することにつながるだろう.さらには,VRの感覚や潜在意識に働きかける側面を活用した,快適なオフィス環境の設計や変化を行うなど,従業員の主観的満足度を意識した労働環境サービスというのもあり得るかもしれない.
今年度,東京大学にスポーツ先端科学研究拠点が設置された.全学のあらゆる研究を結集して,2020年の東京オリンピックを1つのマイルストーンに,テクノロジーによるトレーニングの拡張,健康づくり,そしてスポーツを通じた地域振興という社会のデザインについても研究のスコープに入っている.著者らも拠点メンバーとして,VR技術を駆使した新たなスポーツサービスの創出に取り組んでいきたい.
2.3 価値共創の促進前節の話を踏まえると,教育,スポーツ,健康,社会参加,就労など幅広い領域においてVRによる新サービス創出の可能性を感じられたことだろう.いずれにおいても体験や知識を,身体を通じて人から人へ,さらには空間を超えて移転させるところがVRの機能であるといえよう.経験や知識というものは,時代の中で蓄積され形を変えて受け継がれていく.VR世界では,ウェアラブルセンサーやモーションキャプチャーなど計測系の技術で記録され,HMDや五感ディスプレイ,ロボットなどの提示系の技術で伝達されていく.ここにサイバーワールドが加わると,計測された経験や知識が膨大なデータベースとして蓄積し,時代を超えて伝達していくことができるようになる.サイバーワールドに蓄積されたこのデータは,いわば「経験バンク」のように必要なときに必要な人に提供し,社会の中で共有される財産となるだろう.映画「マトリックス」の中で,柔術のスキル,乗り物の操縦方法などがシステムから人体にダウンロードされ,ものすごい速度で神経系にすり込まれていくシーンがある.まさにSFの世界にVRが近づこうとしている.しかし,現実に実現しようした場合に考慮すべきことが存在する.さまざま人の経験や知識は,その人固有のモデルに沿ったものである.したがって,伝達するときには別の人のモデルに沿う形に改変して提示しなくてはならない.経験的知識を1つの身体モデルから別の身体モデルに転送する際のインピーダンスマッチングの技術がこれからの提示系VR技術の研究における1つの大きなテーマになりそうだ.
著者らは,2016年12月より,上述のような研究開発に取り組み始めた.科学技術振興機構における「人間と調和した創造的協働を実現する知的情報処理システムの構築」にて,「経験サプリメントによる行動変容と創造的協働」という研究チーム(代表:大阪府立大学,黄瀬浩一教授)に参画している.この「経験サプリメント」なるものは,人から人への伝達される経験や知識のデータを指している.
読者の多くは医薬品の効能を示すための治験において,プラシーボという言葉を耳にしたことはあるだろう.人間の身体は,たとえ偽薬であっても,効能があるという情報とセットで摂取すると実際に効果を得ることがある.この効果をプラシーボという訳だが,これは「情報」が実際に身体に作用することを示している.薬はプラシーボ以上の効果があるわけだから,情報は薬までとはいかないが,「サプリメント」程度の効能があると言ってもよいのではないか,ということで「経験サプリメント」というキーワードが生まれた.未経験の事態に対して経験バンクから他者の経験情報を自分の認知行動的特性に合わせて処方することで生活を豊かにしていく未来を目指している.もしかすると,情報産業がオンラインのドラッグストアのような存在となり,サプリメント市場を吸収するような大きなイノベーションが起きるかもしれない.
たくさんの人の経験や知識がサイバースペースを介して流通するようになれば,今まで出会うことのなかった知識同士が組み合わさったアウフヘーベンが生じるだろう.そこにVRが価値の共創を促進する役割がある.
経験や知識という個人的な情報を価値としてサイバースペースの中で流通させることには多くの議論が必要である.近年,工学の分野でも頻繁に議論がなされるようになったELSI(Ethical, Legal and Social Issues)に対する取り組みもテクノロジーの研究開発と同時並行的に進めていかなくてはならない.ELSIで考える対象はプライバシーなどの既知な問題だけではない.「経験サプリメント」を実現する1つの方法として,VRによる感覚刺激によって潜在意識に働きかけ,行動変容を促し生活改善や能力向上につなげることが考えられる.薬では適切に処方をしないと依存性など副作用が生じるように,情報刺激に長期的にさらされることの副作用についても議論が必要になるだろう.感覚刺激を化学的に与えるか情報的に与えるか,一見違いは大きいように見える.しかし,Facebookの「いいね!」によって承認欲求を満たすことへの依存性など,ソーシャルメディアというサイバーワールド上の社会活動において,情報が個人の生活に与える影響が指摘され始めている.つまり,直接的に生理面に干渉するか,認知面を経由して感覚に影響を与えるかの違いはあるにせよ,結局はウェーバー・フェヒナーの法則に従い,同じ情報刺激でも常時さらされるとその効果は薄くなると考えられる.物理量としてのアトムと情報量としてのビットとを分けるシャノン界面を隔てて,同じ倫理的・法的・社会的枠組みを当てはめて「経験サプリメント」におけるELSIを考えることが1つの筋道になるだろう.
また,VRのインタフェースがポケットの中のスマートフォンから,スマートグラスへと替わり感覚器を常に覆うようになると,感覚器への長期的な影響を研究する必要があるだろう.倫理的・法的・社会的観点からVR活用のガイドラインを策定していくことは,情報的視点から人間を解明していくこととセットで進められるべきものだろう.
我が国は成長期から成熟期への発展に伴い,社会システムを一新すべき時期に来ている.しかしながら,積み重ねによってつくられて来ている法制度を新たに入れ替えることは容易なことではない.それに対して,新しい社会に適応して,より便利な世の中を指向するテクノロジーはものの数年で世界中を覆うことができる.インターネットの普及から,ソーシャルメディアやスマートフォンの広がり,そして次はVRだろうか.テクノロジーが世の中を更新するスピードの速さは読者の皆様も周知のところだろう.成熟社会である我が国は今,働き方改革・国土の維持管理・労働者不足と人材育成・産業とイノベーション・グローバリゼーション,などの多くの明確な社会的課題が突きつけられている.それらの課題の原点にあるのは,超高齢社会のさらなる進展という予測可能な人口動態である.柔軟な人材活用を実現することがこれらの課題の達成には欠かせない.それに対して身体性メディアであるVRは人間の能力を拡張するテクノロジーでもある.時間や場所の物理的制約から人を解放し,Nominalな役割からVirtualな能力を基礎とした柔軟な人材活用への転換で,多くの貢献をすることが可能だろう.
4.2 どのように解くのか誕生以来,身体に忠実な表現力を目指してきたVRは,人間の身体を拡張する,身体から解放する技術を研究の対象とできるようになった(稲見2016).1人の人間ができることの限界が身体によって束縛されていた状態から,VRとソーシャルメディア上に蓄積される「経験バンク」により,身体の境界が淡くなった状態へと移り変わるだろう.1人の人間が空間を超えて,他者の経験や知識と融合して,脱身体・融身体という新しい身体観を獲得し,多様な形で活躍していく時代になるかもしれない.そのような社会では,均一な価値観を求めるのではなく,多様な他者への共感を理解・獲得していくことになる.多様性を前提とした調和のある社会をつくっていく課題を解くことにVRは貢献することができると考えている.
4.3 課題を超えて創出する未来「課題を達成する」ということは依然として,現時点でマイナスと考えられているところをゼロに持って行く発想である.課題達成の目標を設定して,そこに到達する頃にまた社会の情勢が変わってしまったらどうだろう.マイナスをベースに物事を考えてソフトウェアにパッチを当てるように社会を更新して行っていると,本来の目指している社会の姿を見失って,社会の次のステージへの移行にあたってまた現在のようにあたふたするのではないだろうか.課題を達成したその先には何があるだろうか.新たな課題が生まれてそれに取り組むことになるのだろうか.それとも課題を超えてゼロからプラスの方向を指向していくのだろうか.先に目指したい未来を考えて,そこに至るまでの世の中の変化に対応して社会をデザインしていく方法論の構築が,とりあえず設定された具体的な目標達成に固執することより重要だろう.
VR研究が,現実に迫るテクノロジーから現実を超えるテクノロジー × サービスの研究へと発展して行っていることをまとめた.従来型のテクノロジーそのもののサービス化から,テクノロジーが性質として持つ社会的価値から導かれるサービス,そこを見つめる研究と議論の発展を期待したい.
東京大学先端科学技術研究センター講師.博士(工学).複合現実感,ヒューマンインタフェースを専門として,超高齢社会をICTで拡張するジェロンテクノロジーの研究に取り組んでいる.東京大学IRT研究機構特任助教,同大学院情報理工学系研究科特任講師を経て現職.Laval Virtual Trophy,IFIP Accessibility Award等受賞.
東京大学先端科学技術研究センター教授.博士(工学).電気通信大学,慶應義塾大学等を経て現職.自在化技術,Augmented Human,エンタテインメント工学に興味を持つ.米TIME誌Coolest Invention of the Year,文部科学大臣表彰若手科学者賞などを受賞.超人スポーツ協会発起人・共同代表.