2018 Volume 5 Issue 1 Pages 26-31
本稿は,サービス事業の立上げ・発展にサービスデザインやサービス工学の研究成果を適用する際に見られる課題を論じる.日立製作所では,2005年頃からサービス事業創生の手法,ツールの研究開発を行っており,そこでの経験を考察したものである.
サービスデザインやサービス工学は,サービスの設計・開発の成功率や効率を向上させる理論,ヒューリスティック,手法,ツールを提供している.サービス経済化が進展する中でそのニーズも高まっており,多くの成功事例の報告もある.
著者らは企業の研究部門としてサービスデザイン,工学を研究し,実際にサービス事業を立上げるとともに,その成果を事業部門に移管する活動をしている.成功を経験しつつも,研究成果適用の難しさを感じることも少なくない.本稿はその難しさを生み出す要因を考察したものである.
結論を先に述べると,研究成果適用が難しいことの理由の一つとして,事業立上げという業務の「ルーチン性」の低さに着目した.業務のルーチン性とは,個人がその業務を繰り返し行う頻度を表すために本稿で用いた言葉である.
個人の視点からみると,事業を立上げるという業務は,それほど頻度高く繰り返す業務ではない.立上げは一度であり,その後は改善や拡大を行っていく場合が多い.事業の実担当者として毎期や毎年度に新事業を繰り返し立上げるという状況はあまり一般的ではない.
これに対し例えばソフトウェアの設計・開発では,設計・開発を一度しか経験しないというのはむしろ稀であり,複数のソフトウェア開発に繰り返し携わることの方が一般的である.事業立上げは,ソフトウェア開発よりもルーチン性が低い.業務のルーチン性が低いとその業務を支援する手法やツールの修得のコストを回収できなくなり,修得のモチベーションが下がる.
ソフトウェア工学はソフトウェア設計・開発の成功率や効率向上の理論やツールをテーマとしている.その意味でサービスデザインやサービス工学との類似性があり,サービス設計を考える上で有用な概念やフレームワークを与えてくれる.しかし,その成果の適用においては,ルーチン性の違いを意識することが必要となる.
本稿ではまず,サービスデザイン,工学の日立製作所研究開発グループでの取り組みを簡単に紹介し,次にその成果適用の課題について,業務のルーチン性に基づいて考察する.
日立製作所の研究開発グループでのサービス工学への本格的な取り組みは,2005年10月に情報技術領域の研究所内に以下のミッションを持った専門部署ができたことに始まる.
また,サービス工学への取り組みと同時に,デザイン研究部署ではデザイン思考を取り入れたサービスデザイン手法確立への取り組みが始まった.
2015年4月の研究開発本部の再編により,サービスデザインとサービス工学を統合した研究部門「社会イノベーション協創統括本部」が設立された(有吉 2015).社会イノベーション協創統括本部は,日立と顧客企業との接点拡大を目的に設立された組織であり,顧客のそばで課題を共有し,解決することを目指す(鈴木 2015).そのミッションは,表現の変化はあっても上記3点を踏襲している.
社会イノベーション協創統括本部では,NEXPERIENCE とよぶサービスデザイン手法を開発してきた(石川他 2015,平井他 2016).NEXPERIENCEは,サービス事業の企画立案者を支援するための,ツール(フレームワーク,手法や手順,コンテンツ,ITシステムをまとめて以下,ツールと呼ぶことにする)を提供する.事業機会の発見,サービスアイデア創出,ビジネスモデル設計,事業収益性検証を支援対象としており,これらを検討するワークショップで使うツールを提供する.
一例として,サービスアイデア創出について説明する.NEXPERIENCEは,サービスアイデアを創出するための発想フレームワーク,発想手順,発想を促すためのサービス事例(コンテンツ),発想フレームワークをデジタル化したITシステムとITシステムを備えた協創空間を提供している.
サービスアイデアを議論するのに用いるサービス設計フレームワーク(小野, 熊谷2015)を用意している.顧客の「価値」「課題」「業務」を上段に,ソリューション提供者の「サービス」「製品・IT」を下段に記入しながら,議論を進める.
新サービス議論の起点をプロジェクトの目的に応じて選べる.
の3つの議論手順を用意している.日立製作所の事業はB2B事業が多く,ここで「顧客」とは日立が産業財を納める相手企業をいう.顧客価値起点では,顧客が置かれた社会環境の将来を描き,その中で顧客が求める価値を洞察し,サービスを考える.業務課題起点では,顧客の業務上の課題(効率や品質の低下など)を明らかにしてからサービスを考える.技術起点では,既存技術や最新技術が適用できる新しいニーズを発掘する.
アナロジーで新サービスを発想することを目的に,サービス事例を整理してワークショップで活用している.約50のサービス事例について,サービスが提供する価値,手段を明らかにし,カード化している.
付箋紙を使った従来スタイルのワークショップを行うことも多いが,ワークショップをデジタル化する専用施設を用意している(熊谷他 2015).大型のタッチディスプレイやタブレット端末を用い,デジタル空間でワークショップを行うこともできる.
NEXPERIENCEを開発した研究者とデザイナーは,このツールを携えて実際のサービス企画に参加している.それと同時に,このツールを研究部門から事業部門に移管する活動を行っている.研究部門の人財だけでは対応できる案件数が限られてしまうため,研究者やデザイナーが参加しなくても事業部が独自にNEXPERIENCEを使えるようにすることを目指している.社内の教育機関と連携して座学の研修を行ったり,事業部から研究所にローテーションで人財を受け入れOJTによる研修を行ったりしている.
しかし,実際にはNEXPERIENCEの移転は容易ではない.その原因には,例えば使いにくさや効果の不透明性といったNEXPERIENCEの完成度の問題もあるが,事業立上げ支援であるが故の難しさもあると考えている.そこで,本論文では,我々の経験の中で得られた研究成果適用の難しさの中から,この事業立上げ支援であるが故の難しさについて考察する.
あるツールがそのツールだけで目的を達成できるとき,その目的に対して「ソリューション完備」であると呼ぶことにする.NEXPERIENCEは,新サービスを企画するという目的に対してソリューション完備ではない.NEXPERIENCE を使うためには,世の中で一般的にs使われる他の思考方法,スキル,ツールなどもあわせて学ぶ必要がある.これらをソリューション完備にするための「補完コンポーネント」と呼ぶとする.NEXPERIENCEの補完コンポーネントは,リーンスタートアップ手法(Ries 2011),デザイン思考(Liedtka et al. 2011),ファシリテーションスキル,ビジネスモデルキャンバス(Osterwalder and Pigneur 2010),シナリオプラニング(Heijden et al. 2002),5F(Porter 1980),SWOT,親和図法(川喜多 1967)などである.
ある研究成果を実適用するために補完コンポーネントが必要となるのは,NEXPERIENCEに限った話ではない.研究というものは本来的に過去からの成果の積み上げで成り立っているものであり,研究成果を実際に適用できる形にするためには,他の多くの補完コンポーネントを組み合わせ,ソリューション完備にする必要がある.
ソリューション完備にするためのコストはツールの提供側とユーザーの双方に発生し,コストの大きさは補完コンポーネントの普及度に依存する.ツールの補完コンポーネントが普及していない場合,ユーザーは補完コンポーネントの修得にもコストを払う必要があり,総体としてのコストが高くなる.一方,ツールを売る側にとっても,補完コンポーネントを普及させるためのコストが発生し,総体コストが高くなる.
サービスデザインやサービス工学はまだ分野として比較的新しく,そこで生み出されている様々なアイデアは十分に普及しているとは言えない.したがって,サービス工学やサービスデザインの研究成果をソリューション完備にするためのコストは,成果を修得する側にとっても普及させる側にとっても概して高い.
ソリューション完備にすることのツール提供者側のコストが高いことは,提供者が研究開発部門の場合,特に問題となる.補完コンポーネントの普及活動にリソースを割くことを余儀なくされると,本来の意味での研究活動が縮小する.しかし,普及活動まで行わないと研究成果が活用されないというジレンマが生まれる.
研究成果の移管を試みる中での一つの気づきは,「事業を実際に立上げて運営していく人にとって,新サービス創生のツールを修得するモチベーションは,そもそも低い」ということである.モチベーションが低いことが改善すべき課題という意味ではない.モチベーションが低いことは,経済的に合理である.
これは,例えばソフトウェア開発の支援ツールと比較してみると良くわかる.ソフトウェア開発者は,その職にある限り何年間にもわたって繰り返し開発に携わることが多い.その間,ソフトウェア開発支援ツールは,毎日のように使い続ける.ツール修得にかけるコストは十分に回収できる.
しかし,事業を実際に立上げて運営していく人は,事業立上げは一度であり,その後は事業の拡大やサービスの改善に移行すると想定するのが自然である.一度しか行わないと想定する業務を支援するツールの修得コストが高い場合,修得モチベーションが低いのは合理的である.
組織(事業部)の観点から見ると,新事業の創生は何度も行う(ルーチン性が高い)ものであるが,業務担当者個人の視点からみると,事業を立上げるという業務はそれほど頻度高く繰り返す業務ではない(ルーチン性が低い).
したがって,組織的にはサービス事業創生のツールを修得するコストは回収できそうでありながら,個人的には修得コストを回収できないということになる.組織はツール利用促進を進めようとするが,個人にはそのモチベーションが生まれないというギャップが生じる.
事業企画者は,新サービスの企画や立上げに研究部門がツールを持参して参加して誘導してくれることは歓迎する.しかし,ルーチン性が低い業務の支援ツールを修得することに経済合理性を見出さない.
以上述べた課題をまとめる.サービスデザイン,サービス工学の研究はまだ歴史が浅く,その成果はサービス事業の立上げを企画する実務者に十分に浸透していない.この分野に関する新たな研究成果をソリューション完備にするために必要な補足コンポーネントも普及していない.結果として,新たな研究成果をソリューション完備にするためのコストは,研究部門にとっても事業部門にとっても高い.ところが,事業立上げという業務は実務者個人のレベルではルーチン性が低く,事業立上げの支援ツールを使うまでに必要なコストの回収の見込みがたたず,ツール修得のモチベーションを持てない.一方の研究部門は,研究成果をソリューション完備にするためのコストが高いことから研究活動と普及活動のジレンマに陥る.
前述した課題に対して課題解決の方向性を考察する.この方向性の実践を通しての評価は今後の課題である.
ルーチン性が低くてコスト回収できないことが課題であるので,解決策としては,コストを低くするかルーチン性を高めてやればよい.
コストを下げるためには補完コンポーネント全てのコストを下げる必要がある. NEXPERIENCEでも,修得コストが高いのはNEXPERIENCEツールそのものよりも,ファシリテーションスキルやデザイン思考の修得,基本的な経営戦略論やマーケティングの知識の修得である.様々な補完コンポーネントも含めたコスト削減策を考えるより,まずルーチン性を高めるための方法を考えた方がよく,本論文ではその点に絞って考察する.
先に述べたように,サービス事業立上げに有用なツールは,複数のコンポーネントからなる.サービス事業立上げそのものはルーチン性が低いが,コンポーネント別に見ると,ルーチン性を上げられる場合もある.
例えばリーンスタートアップ手法やデザイン思考は,事業立上げ以外の,例えば職場の業務改善施策の企画,試行,普及のために継続的に使うこともできる.ファシリテーションスキルは,サービス事業企画ワークショップのために学ぶのではなく,日常的な業務の中にワークショップ形式での議論そのものをまず広め,その中でファシリテーションスキルを学ぶようにすればよい.職場の課題の発見,ユーザー参加型での製品やサービスの改善点発見,期毎や年度ごとの戦略立案など,ワークショップ形式が有効な場は多い.
先にあげたNEXPERIENCEのサービス発想フレームワークも,新規サービスの発想だけではなく,既存サービスの継続的改善のために使うこともできる.事業の企画者個人の立場からみると,研究成果をまずルーチン性の高い自分の業務に適用して修得コストはそちらで回収したのちに,新規事業支援に使うことになる.
事業部門が新事業のインキュベーションを目的にした組織を持っていることがある.一案として,インキュベーション組織が新サービス立上げツールの使いこなしを担い,新規ツールをソリューション完備にする責任を負うようにする.
インキュベーション組織は,人を変えずに繰り返し新事業案件を支援するので,インキュベーション組織にとっては,サービス事業立上げはルーチン性が高くなり,ツールの修得コストを回収できる.企業の研究部門がインキュベーション組織の役割を兼ねるという選択肢もあるが,事業部門の数が多く,研究部門だけでは研究成果のスケーリングができない場合は,事業部門ごとにインキュベーション組織を設ける方がよい場合もある.その場合,研究成果を移管する相手は事業企画者ではなく,各事業部門のインキュベーション組織となる.インキュベーション組織と研究部門を分けて役割分担することで,普及活動と研究活動のジレンマも解消できる.
実際,ソフトウェア開発や製品製造現場のようなある程度歴史がある生産領域では,生産技術の研究部門と支援部門(生産技術部)は分化している.生産技術の研究は事業部門の生産技術部門に移管され,生産現場への適用の責任は生産技術部門が持つ.これらに類する事業立上げの場合には,業務のルーチン性を高めるという効果も併せ持つことになる.
本論文では,サービスデザイン,サービス工学の研究成果を実際のサービス事業立上げに活用する場合の課題について考察した.その課題とは,研究成果の利用のコストが高い反面,サービス事業立上げという業務のルーチン性が低く,そのコストが回収できないことである.また,その課題の解決の方向性として,ルーチン性を高めるための施策を考察した.サービスに関する研究はまだ歴史が浅く,その成果をどう活用するかに関する組織的な整備もできていない.技術的な課題と組織的な課題を切り分けて対処することが重要である.
日立製作所 研究開発グループ 東京社会イノベーション協創センタ主管研究長.現在,サービスデザインの研究に従事.知識科学博士.サービス学会,情報処理学会,電気学会,プロジェクトマネジメント学会各会員.
日立製作所 研究開発グループ 東京社会イノベーション協創センタ サービスデザイン研究部 所属.部長.現在,サービスデザインの研究に従事.電気学会会員.
株式会社日立製作所研究開発グループ東京社会イノベーション協創センタ研究員.2013年,東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻博士後期課程修了,博士(工学).同年日立製作所入社.現在はサービスデザイン手法と事業創生手法の研究開発に従事.サービス学会員.