2019 Volume 5 Issue 4 Pages 20-26
かつて,ある団体で機関誌の企画担当理事の命を受けた.そのタイトルに「うェるびィー」と名付けた.「生き方」にこだわる人々が集う福祉事業を創造することへのこだわりからだった.「Well・Being」ではなく,「ウエルビー」でもなく,「うェるびィー」としたのは,「福祉」という言葉への私なりのこだわりである.日本の多くの人が持っている「福祉」というイメージ,響きはネガティブなものだと気づかされる“出会い”があった.そして,意識したのが“福祉=いい生き方”の「うェるびィー」という日本語化である.
1980年代に入り,日本の高齢化をマスコミが取り上げ始めた.日本の人口構造を逆ピラミッドにする団塊世代の高齢期と少子化,さらには経済の高成長から低成長への転換,21世紀の少子・高齢社会の到来である.
私は,1983年頃から,21世紀の日本の高齢社会を見据えての「市民による福祉システムの“つくり変え”」を目的に掲げた生活協同組合の活動に参加していた.
その活動の中,地域の実態を把握し,新たな福祉専門生協を設立する組織づくりのために地域を回り,足で生活ニーズ情報を取って回った.
その時の“出会い”である――
と容赦ないキツーイ言葉が女性たち(主婦)から返ってきた.
人が人らしく生きる権利を保障するものが福祉と思っていた私には大変な衝撃だった.このことは私の「福祉」に対する意識を変え,その言葉への強いこだわりを持つ原因となった.“それなら思い切って楽しんで,面白がって福祉を創ろう!”と.
生活丸ごとを捉えての福祉への意識転換が21世紀福祉だと.それが,私の福祉観「うェるびィー」である.
こうした福祉イメージは今でもあまり変わっていない部分もあるが,2000年の介護保険制度施行後にそのことは劇的な変化をもたらしたと言える.
なぜ「福祉のお世話になること」を<みじめなもの>,<女性が担うもの>とこれほど強く思うようになったのか.21世紀になって,こうした「福祉」の捉え方はなくなっただろうか?
1960年代から1980年代にかけての日本の高度経済成長政策の展開,発展は,「男は外に,女は内に」という性別役割分業により,経済発展とともに「福祉」を特別なものとして創り上げたと言える.
経済労働力の主軸になるのは男性,子育てや介護,家庭内や地域にあるものは女性の仕事とし,多様化する生活ニーズを税金と社会保障制度の充実ではかった性別役割分業.財源を創る労働と福祉を担う労働の分業でもあった.そのことが福祉を「施し」というものとしたのではないだろうか.
しかし,21世紀になると団塊世代が高齢当事者となり,女性の高学歴と社会参加の多様化がさらに進み,少子化,生産労働人口は減少の一途をたどる―,そして生まれたのが第5番の社会保障として2000年に創設された「介護保険制度」である.
介護保険制度で人々の「福祉=施し」という意識はいくらか弱くなった.それは「措置から契約へ」とし,介護・福祉を市場化したことと,新たな社会保障費負担,福祉サービスを買うという行為にある.“福祉=タダ”からの脱皮である.
2000年当時「介護の社会化」「介護の市民化」などの言葉が飛び交った.介護力=女性(嫁,娘)ではなく「介護サービスを買う」という消費者行動と言える.かつてのように行政の窓口で申請して福祉の施しを受けるという措置制度から,民間から福祉サービスを「買う」契約制度になったことは介護保険制度の効果であり,「介護」「福祉」のサービス化となった.
また,介護保険料と介護サービス利用料ともに国民負担があることで,「利用しなきゃ損」という意識も強くなった.「福祉のお世話になるのは恥」の意識からの大転換と言える.
“購入した”サービスが納得できないものなら「苦情」「異議申し立て」もできる.つまり消費者被害としてのアクションを起こせるようになったのは措置では考えられなかった利用者主権の保障である.このことがなければ「ウェルビーイング」(うェるびィー)とは言えないし,やっと福祉=生き方丸ごとになる兆しが見えたのではないだろうか.これらの変化は日本の福祉の革命ともいえる.
一方,介護保険制度施行20年を前に新たな課題が出てきた.サービスとウェルビーイングである.社会保障の市場化の負の側面への懸念である.
2000年までは,少なくともほとんどの日本国民が「福祉のお世話になるのは恥」と思っていただろう.しかし,21世紀に入り,介護保険制度は,福祉利用=介護サービスの契約という消費者行動へと変わった.憲法13条(幸福追求権),憲法25条(生存権)から考えても,介護保険前の最低限度の保障から最適基準の生活権利の追求へとつながってきたとも言える.介護・福祉サービスの市場化と選択と契約,異議申し立てがそのことを保障することとなっているからだ.
しかし,本当にそうなっているだろうか?
格差社会の下での生存権(ウェルビーイング)2000年の介護保険制度施行後,日本の社会保障制度に営利企業等多様な事業体の参入が実現した.このことは行政や社会福祉法人等の限られた公セクターの組織だけが提供する措置福祉制度の福祉から考えても,民間企業が参入したことで,「サービスを選ぶ」という量的確保を可能にし,サービスを比較することでサービスの質の確保も格段に向上した.こうして,「福祉=施し」というみじめなイメージが徐々に後退し,「私が選ぶ権利を持っている」という当事者主権が制度上は掲げられている.制度上は,である.
今,世界中でグローバリズムが経済を滅ぼすという危機感が広がっている.事実,富めるものはより大きな富を得,一方で貧困があらゆる世代に拡大している.
雇用や産業を規制撤廃することが成長戦略とした結果,世界各国が同じ課題に直面している.少子化,高齢化の人口構造問題と経済危機,雇用不安,格差の拡大,貧困層の広がりである.加えて環境破壊による気候変動である.この気候変動がこれまでにない規模の自然災害をもたらし,災害弱者を増大させている.
この自然災害すら経済的・社会的弱者により厳しい状況をもたらし格差を拡大している.こうした地球規模の自然災害対応が社会保障の新たなテーマ(ニーズ)として拡大し,各社会保険制度の見直しが急がれている.
介護保険制度創設の本格的検討を始めた1990年の頃,今のような「災害弱者」ということを想定していたとは考えられない.格差社会は経済活動からだけではなく,環境破壊からもその深刻を拡大し,そのことは社会保障の課題が,戦後の復興,高度経済成長時代に必要とされた①雇用保険②労働災害保険③医療保険④年金保険⑤介護保険では「保障」しきれなくなっている.そして,社会保障のテーマが拡大するにつれ,その起点にあるのは「住宅保障」であることを共有したい.
「福祉は,住宅に始まり住宅に終わる」と言われている.このことが意味するのは「住宅」というのは建物の「住まい」だけではなく,「住まい方」こそが重要だということである.では,日本は住宅を社会保障・社会福祉にしっかり入れてきたのだろうか?
今,そのことを見直す必要がある.なぜなら,社会保障制度の見直しに「地域コミュニティ」「まちづくり」の概念が強調されてきたこと,少子・高齢社会の人口構造下での住宅政策,空き家対策が急がれているからである.
日本の住宅政策は「経済の高度成長」のための戦略と言える.労働力を結集し,いかに効果的に拡大させるかが目的であった.そのため,勤労者の住まいを都市部に集中し,マンモス団地を全国に展開した.しかも,持家政策が基調である.住宅そのものは私的財産として自助努力に任せるところとなっている.つまり,市場を通して供給され,社会政策として取り扱われてこなかった.住宅の問題は個人責任とされてきたゆえ,保障ではなく,「保護」としてしか考えてこなかったのである.
ヨーロッパ諸国では,「福祉は,住宅に始まり住宅に終わる」という考え方である.それゆえ,住宅手当あるいは家賃補助等住宅諸制度が社会政策として位置づけられ,年金,医療,福祉サービス,雇用,教育等の社会サービスと包括的に考えることが基本とされている.社会保障・社会福祉の一環ということは,生活障害への予防,社会的ハンディキャップの克服を目的とし,「その人らしく生きられる」ための諸施策として住宅を保障するということである.
ヨーロッパの福祉施設等を見て愕然とするのは「住まい」と「住まい方」がしっかり保障されていることである.
あらためて,日本の住宅政策を見直し,住宅を保障する政策は広義の福祉政策であり,社会政策であるという転換を急ぐことを願う.東日本大震災,それ以後の各地で被災された方の「住まい」と「住まい方」そして,その地域コミュニティの創り方は福祉政策だったのである.これこそが「わが事丸ごと」なのである.
さらには,災害弱者を拡大している住宅問題のみならず,高齢化による空き家問題,拡大する貧困問題と住宅,公団等マンモス団地の高齢化の深刻,すべて住宅政策が20世紀高度経済成長時代の感覚でしか考えられていないことを大変残念に思う.
住宅支援サービスではなく,ウェルビーイングのまさに基本のテーマである.
加えて,諸外国からの介護労働者受け入れの国家政策においては,住宅政策がそこに組み込まれている必要がある.諸外国の人々の「住まい」への整備なくして,外国人を日本の労働者として受け入れるのは無責任である.21世紀という時代は国と国,人と人が交流する世紀にしなければならない.日本人だけでなく誰もが安心して暮らせる社会政策の基本は「住まい・住まい方」にあると考える.
ここで,私どもの社会福祉法人が「住まい事業」に取り組む経緯を紹介し,福祉サービスの現状と課題を整理する.
私どもの社会福祉法人いきいき福祉会は,1994年に神奈川にある生活クラブ生活協同組合の設立20周年記念事業をきっかけとして設立された.
1960年~1970年代の高度経済成長がもたらした「暮らしの豊かさ」は一方で環境汚染や食品公害等の健康被害をもたらした.その時代に育った団塊世代が組合員の主流であったことから,1990年に入り,20周年を前に組合員・市民として考えたのが,自分たち団塊世代の「老後」であった.経済成長時代の団塊世代は生産労働人口として大きい存在だったが,その世代が21世紀には高齢者となり,社会保障制度を創り・維持する側から使う側となる.一方で少子化問題はその解決が見えない.社会保障制度が維持されるかの不安が増大する中,20周年のテーマは「介護・福祉」と生協の組合員は決めたのである.
霞が関ではすでに団塊世代の「高齢対策」について検討を始めていただろうが,1990年前後では,まだ介護保険制度については示されておらず,21世紀に向けての社会保障制度の行方の詳細を理解していない中での決定だった.
もともとは戦前,戦後の食糧不足や貧困に対する救済を自らの手で行うべく,安心な生活物資を,適正な価格で共同購入する労働組合が原型であり,その後,労働運動指導者 賀川豊彦の助言により,「市民的な社会事業として生活協同組合」となってスタートしたものである(1921年).
1923年には関東大震災において「助け合い」の精神に基づき援助を始めている.
生活協同組合の基本は「相互扶助精神」に基づく購買経済活動である.昨今の生活協同組合がその原点をどう活動に活かせているだろうか?
日常生活の助け合いに始まり,徐々にその活動は,環境,平和,食の安全,エネルギー,国際交流,教育,そして福祉事業へと広がっている.“生活丸ごと”であらゆるものに広がりを見せるのは当然であるが,それに伴う経済活動と市場競争との間で,時に「市民・生活者」の主権に揺らぎを生じているのではないかと,昨今の「生活協同組合」の在り方が問われてきている.加えて農業協同組合の社会福祉への貢献も求められているところである.
さて,話を当法人いきいき福祉会の活動に戻す.
1994年に設立したのは,前述したとおり「団塊世代当事者の高齢化問題」であった.そして,介護が必要となった高齢者がまず考える「特別養護老人ホーム」の設立に自分たちで取り組もうということとなった.しかし,特別養護老人ホームは社会福祉法人でなければ設立できないため,社会福祉法人を設立し,公的資金を活用して「特別養護老人ホームラポール藤沢」を設立した.
前述したように,日本では住宅は社会保障・社会福祉に入っていない.高齢者福祉の「施設」の考え方に「住宅」の視点はゼロに等しいものである.「特別養護老人ホーム」は住まいではなく病院モデルである.
病院は住まいではない.病気だから“入院”し,治療が終わったから“退院”である.しかし,老人ホームは基本的に“自宅からの住み替え”である.もう一度自宅に戻るということもあるだろうが,ほとんどが「住み替え」であり,最期を意識した「入居」である.
ならば,その施設という住まいの創られ方は?
あなたは,1部屋に4人や6人が共同で住まい,壁ではなくカーテンで仕切られ,ベッドが並んでいるスペースを「自分の住まい」「私のホーム」と思えますか?自分のプライバシーを守れますか?
入浴もトイレも並んで順番を待つことを高齢になった自分の日常生活と思えますか?
24時間の一日の暮らし方は100人同じでいいなんて,それが「あなたの生活」と言われたら悲しくありませんか?
集団生活では互い様と多少の譲り合いは理解できても,これまでの人生一人ひとりの「生き方・暮らし方」を尊重してこそ「福祉」.福祉施設は「収容」から「入居」への展開がなければ地域での暮らしの継続を保障できない,福祉のサービスとは言えない.それは施設運営者や介護職員の意識の問題だけではなく,日本の福祉施設基準の考え方に問題がある.
残念ながら現状の日本の特別養護老人ホームに,喜んで入居を決定した人は少ない.
高齢者福祉のみならずあらゆる福祉施設においても,「住み替える」ことへの不安はできる限り小さくしなければならない.今までの暮らしのこと,支えを必要としている日常生活,そこからが介護・福祉の仕事である.とりわけ自己の言葉で意思を伝えることが困難な認知症の方にはその配慮が重要である.拘束等人権侵害が横行する傾向が未だに施設にあることは許されないことである.
さて,これまで述べてきたように,「福祉は住まいに始まり住まいに終わる」.しかし,福祉施設の設置の考え方は「住まい」とはほど遠い.「入所施設」から「入居する住まい」へと発想を変えての制度の創り変えが急がれる.
特別養護老人ホームのあらゆる「基準」を見直したいと強く願いつつ,2009年に横浜に当法人二つ目の「特別養護老人ホーム」を創った.1994年,措置時代に設立した一つ目の特養ホームは,まさに多床室でプライバシーを守るにも問題が多い設計であった.その反省を踏まえ,二つ目の特養ホーム「ラポール三ツ沢」は,プライバシーを尊重した空間と,人との集いを大切にしたスペースを設計した.トイレ付の個室,一人で入る個浴室,美容室に専属の美容師,エントランスホールにはバーカウンターを創った.それでも,やはり「住まい」として空間づくりは難しいと思った.もちろん,建物だけの問題ではなく,ケアのあり方が一番重要ではあるが,設計が与える介護業務への影響もある.介護職員たちの仕事は「管理型施設」の職場環境の中で管理型のケアをしてはいないだろうか.
「環境」はそこに住まう入居者の環境だけではなく,そこで仕事する人に与える環境でもある.
「待機者が多い特養ホームにも入れない,有料ホームは金銭的に無理,でも,本当はどちらにも入らず安心して毎日の暮らしができたらね.安心して最期まで住んでいられると思う場所が欲しいね」―
デイサービスをご利用されていたある高齢者の言葉に,ハッとした.そんなことを思って暮らしていると思っていなかった.担当のケアマネジャーに聞いたら,「家族の事情もあり,アパートに一人で暮らしていて,かなり部屋は汚れている.しかも,アパートの大家さんには『高齢者は火事でも出されたり,そのまま部屋で亡くなられたりしても困るから,とにかく早く出てってもらいたい.契約更新はしたくない!』と言われ続けている.そういう高齢者が多いんです」とのこと.
そのご利用者と職員の言葉が頭にこびりついていた私は,ある日不動産屋のファックスを目にし,連絡を取り,すぐに物件を見に行った.ある会社が独身寮として使っていた二階建ての木造アパートである.会社の都合で独身寮を止めるということで,そのアパートを所有していた高齢の女性が困っていた.自分でアパートの管理はできないし,一棟借上げをしてくれる事業者を探しているとのことだった.
一目見て,「平成の長屋にしよう!」と決めた.
そして,一緒にいた職員の一言が前述の言葉である.
「玄関,トイレ,お風呂,お部屋,段差だらけでダメですヨ!さらに,二階に上がるのどうやってこの急な階段を上がるのです!絶対ダメです!」.
しかし,半年後「サポートハウス ラポール平塚」事業をスタートした.
企業が独身寮として地主に建てさせた二階建て木造アパートは,全室ワンルームでユニットバス・トイレ,小さなキッチンがついている,大きな押入れと玄関に靴箱,中々生活感のある設計だった.もちろん“超バリアフル”.独身寮だったので壁紙はたばこで茶色く汚れ,洗濯のために一階に洗濯機が数台並んでいる.そして管理人さんの「住まい」スペースがあり,その方が賄いで入寮者への食事を出す食堂スペースがある.
企業には「出ていく時にタバコのヤニで汚れた壁紙と急こう配の階段を少し緩やかにしていただき,二階廊下には雨に濡れないように屋根を付けてくれませんか?」とお願いした.「高齢者が住む,車椅子の人が住むので」と.企業はそのとおりに改装して私たちに「平成の長屋」となるサポートハウスを引き渡してくれた.
超バリアフルなこの「サポートハウス」は15年経った今も“ただのアパート”として,最高齢105歳の方から障がいのある方,社会的課題を抱えた方等々の10名が暮らしている.さらに,「住まい」の確保が困難な方が行政から紹介されてくるため,そのアパートの近くにある賃貸ワンルームを数戸借り,現在総勢26名の方に住まいを提供している.有料ホームでも,障がい者施設でもない,“ただのアパート”である.朝夕の安否確認が唯一の“サポート”のハウスである.
しかし,この超バリアフルのアパートで“転倒骨折”の事故報告はない.個々の“住まい”なので常時見守りがあるわけではないが,大きな事故などない.
そして,私たちはこのアパートで最期の看取りまでも可能にしてきた.そこに住まう人たちの普通の暮らしを支えてきた.本来,福祉の住まいはそれが重要である.亡くなった方は「平成の長屋」の同居人たちと職員で,ご家族がいればご家族も一緒に笑顔で送る.
バリアフリー,廊下幅,どこに何がどのように設計され,設備設置されなければならない,と基準管理すればするほど,日常生活の「当たり前」は縮小されていく.そして,管理された生活で転倒事故や打撲,アザ,誤えん,異食等が起こる.日本の施設の日常である.
9.3 バリアフリーな「建物」のバリアフルな「支援」,これでは話にならない!“施設基準なら許されない段差だらけ”,のこの住まいは,無責任な施設管理として,行政には認められない,高齢者や障がい者の住宅である.だから,有料ホームにも障がい者ホームにもしない!「長屋」ただのアパート.だからサービスは朝夕の安否確認だけ.必要な介護サービスは介護保険で買ってください.
これは今で言うところのサービス付き高齢者住宅,「サ高住」である.しかし,このサ高住というものが制度事業としてできる前に,「サポートハウス ラポール平塚」はあった.後からできた制度事業にはなじめない.それゆえ経営は赤字を卒業できない.
そもそも制度事業でない福祉事業は「儲からない」.
だから,ここで暮らす人もおおらかなら,働く職員もおおらかでなければ,とても運営できない.もちろん経営責任者もである.こうした「儲からない事業」こそが実は当事者主権のサービス事業であることが往々にしてある.福祉サービスで儲かるということをどう考えるのか? 介護保険制度が始まって20年になろうとしている.介護保険事業者が増え,介護保険サービスの量の確保も進んできた.しかし,事業所の経営は年々厳しく,企業の統廃合が増えてきている.「儲けるために」ではなく,「事業を継続するために」なぜこれほどまで福祉サービスの制度事業が不安定なのだろうか.「福祉って何?」あらためて問い直したい.
あらためて,「うェるびィー」(Well Being)と福祉サービスを考える.介護保険制度があってよかった!多くの人はそう思っている.しかし,20年経ったこの制度事業の功罪を検証することを避けてはならない.
あらためて問われる「福祉サービス」とは何か?である.生存権,幸福追求権を基本にした「社会福祉」とは何か?
誰もが何等かの「福祉」のサービスを受けて生まれ,生き,そして死ぬ.必ず「支えられ」「支えている」から社会の一員としての自己の存在価値を認識し,自己肯定感を持ち,他者に思いを遣ることができる.
また,福祉サービスの多様化を進めてきた政策に対し,生活者は未だ「使いこなせてはいない」のではないだろうか?
営利企業だから非営利団体だからとか,有資格者だから,無資格者だからとか,選ぶサービスにそれらのことがどれほど重要な要素なのだろうか?
むしろ,孤立したサービス提供こそが問題ではないだろうか.多様な地域資源,市場サービスのネットワークを持ってサービスの豊かさを創る意識を持ち,互いの違いをサービスの質に変える信頼関係と正直な情報開示と説明する責任を当たり前に持っていることが「真のサービス」なのではないだろうか.
私は,子育ての中で生活協同組合に参加し,市民活動を多様なテーマで取り組んできた.食の安全から始まり,女性問題,市民自治と政治,ワーカーズ・コレクティブという働き方の社会提起,少しだけ関わったエネルギー問題,少しだけ関わった市民バンクの創設,そしてどっぷり関わっている「福祉」である.
これらは生活協同組合の活動だから取り組んできたのではない.自分の生き方そのものの事だから,当事者だから,できることをできる範囲で取り組んできた.そして,多くの出会いがあった.
特に,生活協同組合での市民活動は私に多くの「なぜ?」を気づかせてくれた.
その一つが「福祉」という言葉である.
冒頭述べた「福祉のお世話になるのは恥」と思わせてきた日本の公的福祉制度の創り方には,疑問符の連続であった.それは公セクターに対してだけではなく,市民セクター,というより生活者意識に対して一番疑問だったかもしれない.そしてもちろん企業セクターへの疑問も.
機会あって介護保険制度創設前の準備室時代に厚労省で「ミスター介護保険」と言われる,まさに介護保険制度を創った方々とご一緒することが多々あった.国の制度づくりに関わったのはこの時が初めてだった.その後,60数年ぶりと言われる生活協同組合法の改正にも関わることができ,まさに「生活者福祉」の持論を展開し,改正生協法にその趣旨をちりばめてもらった.それは一方的な与えられる「福祉」ではなく,地域社会に暮らす生活者の「助け合い」の重要性とそれを実現するために生活協同組合が果たす社会的責任である.生活者市民の責任,事業団体の責任,そして行政の責任があって「真の豊かさを内包したコミュニティ」を形成できるという思いである.
そして,常に「どうして?」のバリアフルと,問えるバリアフリーな人との出会いと環境があった,だから,「うェるびィー」を考えられたと思っている.
今回,このような執筆の機会をいただけたのは,理化学研究所の「健康脆弱化予知予防コンソーシアム」の運営委員に加えていただけたことがきっかけである.
私はこのコンソーシアムには場違いなメンバーだと思うことが多々ある.しかし,これまた「ここにいる責任はちゃんとある」と思わせてくれる場面も多々あり,これが人生のバリアフリーとバリアフルの交差点であり,そこにあるのが真の豊かさを創り出すのだと思っている.バリアフルを超えてバリアフリーに,それが私の福祉観「うェるびィー」である.
社会福祉法人いきいき福祉会 理事長.