2017 Volume 103 Issue 11 Pages 653-659
A single peak in thermal desorption profiles of hydrogen, which are measured in low-temperature thermal desorption spectrometry (L-TDS) for a very thin plate specimen of tempered martensitic steel, was reproduced successfully to evaluate the peak temperature by the superposition of two Gaussian distributions. We calculated the parameters concerning the detrapping rate constants for both peaks, which are the trap energy and pre-exponential factor, from the Choo-Lee plot. We confirmed that the Kissinger model incorporating the obtained parameters could simulate the two peaks. In addition, the single peak was also well reproduced by the reaction-diffusion equation based on the McNabb-Foster model incorporating the obtained parameters. From the trapping energy and the trap site concentration which were used for reproducing the single peak, we interpreted that one peak corresponded to dislocation and the other was to grain-boundary.
水素脆性は金属材料,特にフェライト系の鉄鋼材料で重要な課題であり,その対策が望まれている。水素脆化では,材料中での水素の拡散やトラップが本質的な役割を果たしていると考えられ,それらの挙動を明らかにするため,昇温脱離解析(TDS)で得られる水素脱離挙動の解析などの研究が有用である。
金属中の水素はトラップサイトに捕捉されながら,フェライト基地中の拡散サイトを移動し材料外へ脱離する。試験片を一定速度で昇温し,水素脱離速度の温度変化を水素昇温脱離プロファイルとして測定するのがTDSである。TDSでの昇温脱離プロファイルは試料の厚さに依存するほか,水素とトラップサイトとの結合の強さ,すなわちトラップの深さにより異なって取り扱われる。深いトラップのときには,拡散の無視できる熱脱離律速として取り扱える場合があり,Kissingerの式1)による水素脱離の解析が可能である。逆に浅いトラップのときには,拡散律速となる場合があり,Oriani2)による有効拡散係数を用いた解析や,統計分布に基づく解析3)が可能である。これらの解析方法はそれぞれの仮定に基づくため,あらかじめ律速条件を知る必要がある。一般の水素脱離では,熱脱離律速と拡散律速との中間の状態である。また,あらかじめ律速条件が分からないため,何れかの一方を仮定した方法による解析では不十分である。このようなとき,どちらの律速条件も仮定しないMcNabbとFoster(M-F)のモデルに基づく方法による解析4)が有用である。この方法による解析ではトラップとデトラップの過程が組み込まれているため,計算に必要なパラメータが増えるが,熱脱離律速から拡散律速の広範囲な水素脱離を取扱え,より現実に則した多様なトラップを考慮した解析が可能である。
Enomotoら5)は,直径が数mmの焼もどしマルテンサイト鋼丸棒試料を用い,電解水素添加した後の脱離水素をガスクロマトグラフにより測定し,得られた単一ピークのTDSプロファイルをM-Fのモデルに基づく方法により解析している。この際,主たる水素トラップサイトが転位の弾性ひずみ場と考え,結合エネルギーを27 kJ/molと仮定するとともに,トラップ・デトラップ速度定数の前指数因子などのパラメータを系統的に変化させ,シミュレーションと実験結果が妥当な一致を示すよう決めている。また,Chengら6)は,Enomotoら5)の方法を拡張し,炭素が転位に偏析することによる水素脱離挙動の変化を再現する研究を報告している。さらに,Ebihara7)らは,サイズが小さな焼もどしマルテンサイト鋼試料について,−196°Cからの水素脱離を測定できる低温TDS8)で得られる単一ピークの昇温脱離プロファイルに対して,1つの有効的なトラップサイトを仮定してトラップおよびデトラップの速度定数に関するパラメータを決定し,その数値的再現を行っている。しかし,焼もどしマルテンサイト鋼では,いくつかの種類の欠陥がトラップサイトとなっており,単一ピークの生成はそれらに起因していると考えられる。したがって,本報では二種類の水素トラップサイトを仮定し,低温TDSで得られる焼もどしマルテンサイト鋼試料の水素昇温脱離プロファイルを,M-Fのモデルに基づく方法による数値的に再現することを試み,それぞれのトラップサイトの特徴についての検討を行った。
本報では,M-Fのモデル4)に基づく,トラップおよびデトラップの速度定数を組み入れた反応拡散方程式を基礎方程式とした。さらに,対象としている試料形状が,薄い平板であるため,厚さ方向の一次元近似が成り立つとし,以下の式を用いた。
| (1) |
| (2) |
ここで,Cは格子間サイトの水素濃度,Dは格子間サイトにおける水素拡散係数,Niは単位体積あたりのトラップサイト数(数密度),θiはトラップサイトの水素による占有率,kiおよびpiはトラップサイトによる水素の捕獲および脱離の速度定数を示している。なお,添え字iはトラップサイトの種類である。水素の拡散係数Dは,D=D0exp(−Q/RT)で表され,D0は温度に依存しない前指数項であり,Qは拡散の活性化エネルギー,Tは絶対温度,Rはガス定数であり8.31 J/(K・mol)で与えられる。温度については,昇温開始温度をT0,昇温割合をαとして,T=T0+αtと変化させる。kiは前指数因子k0iを用いて,k0iexp(−Q/RT)で表される。また,piは,前指数因子p0iを用いて,pi=p0iexp(−Eai/RT)で表され,Eaiはトラップサイトiでのデトラップの活性化エネルギーであり,水素とトラップサイトiとの結合エネルギーEbiを用いて,Eai=Q+Ebiで与えられる。D0,Qはフェライト結晶格子中の拡散サイトでの値であり,純鉄のD0=4.2×10−8 m2/sおよびQ=3.9 kJ/mol9,10)を用いた。その他のトラップおよびデトラップの速度定数に関するパラメータについては,以下の方法で,実験で得られる昇温脱離プロファイルに基づいて,トラップサイト毎に決定した。また,トラップサイト濃度については,実験プロファイルを再現できる値を選択した。
Takaiらにより開発された低温TDS8)では,試料を−196°Cから昇温させる測定が可能であるため,昇温脱離ピークが0°C以下に現れる極めて薄い試験片の昇温脱離プロファイルを測定できる。そして,そのような試験片では拡散の影響は無視できる程度に小さいと考えることができる。つまり,昇温時の水素脱離はほぼ熱脱離律速と考えられる。したがって,得られる昇温脱離プロファイルに対するChoo-Leeプロット11)の傾きからデトラップ活性化エネルギーEaiをもとめ,ピーク温度の高温極限biからp0i=exp(bi)×Eai/Rを用いてp0iを求めることができる7)。また,トラップとデトラップ速度定数の前指数項k0iとp0iとの間には,拡散サイトの濃度NLを介して,k0i=p0i/NLなる関係がある5,12,13)ことから,この式よりk0iを決定する。ここで,水素がbcc結晶格子の四面体格子間サイトを拡散するとした場合には,NL=5.1×1029/m3となる。
単一の脱離ピークの分離によるピーク温度の決定は,トラップサイトの種類に対応するガウス分布の合成がピーク形状を再現できるように行う。ガウス分布として以下の関数を用いる。
| (3) |
ここで,gは水素脱離速度,hはピーク高さ,τはピーク温度,ωはピーク幅である。ピーク幅ωは標準偏差に相当し,半値幅(FWHM)とFWHM=
| (4) |
この重ね合わせに際し,式(4)でのパラメータhi,τiおよびωiを変化させ,実験プロファイルを正確に再現するように決定する。測定時の昇温速度が同じでも,材料,測定装置あるいは試料サイズによって,これらのパラメータが変化する。そのため,それぞれのトラップサイトに対応するガウス分布毎に,これまでの経験14)からτiおよびωiを仮設定する。まずτiを固定し,ωiを1°C刻みで変化させる。さらに,τiも1°C刻みで変化させ,トラップサイトの種類に対応するガウス分布から合成される曲線と実験プロファイルとの一致が良くなるよう試行錯誤を繰り返す。この際,hiについても適宜変化させ,実験プロファイルを良好に再現するhi,τiおよびωiを決定する。
本報では,Fig.1の昇温脱離プロファイル15)を実験プロファイルとして用いた。これは,高Si中炭素鋼の焼入れ焼もどし材の0.3 mm厚平板試料に,30°CのNH4SCN水溶液に十分な時間浸漬することで,水素を均等に添加し,低温TDS装置で測定されたプロファイルである。昇温速度は1,3および5°C/minである。これらの試料からの脱離水素量の平均は0.45 mass-ppmであった。これらの昇温脱離プロファイルが複数の異なる種類のトラップサイトに起因する水素脱離ピークの重ね合わせで表されるとの考えに基づき,まず,前節の方法を用い,異なる種類のトラップサイトに対応する二つのガウス分布の重ね合わせで実験プロファイルを再現した。分離した結果をFig.2に示す。

The experimental thermal desorption profile of hydrogen. (Online version in color.)

Peak separation using Gaussian distribution for heating rates of (a) 1°C/min, (b) 3°C/min and (c) 5°C/min. The two fitted Gaussian curves are described by trap site 1 and trap site 2. The synthesized curve of two Gaussian curves is described by “syn”. The white circle indicated by “experi.” means experimental data extracted from Fig.1. (Online version in color.)
Fig.2において,低温側のピークから順に,トラップサイト1および2と名付け,これらに対応するピーク温度をChoo-Leeの方法11)でFig.3のようにプロットし,傾きおよびピーク温度の高温極限からデトラップ活性化エネルギーEaiと前指数因子p0iを求めた。トラップサイト1およびトラップサイト2のEaiとp0iをそれぞれTable 1に示す。

Choo-Lee plot for two kinds of trap sites.
| p0i [s–1] | Eai [kJ/mol] | k0i [m3/s] | Q [kJ/mol] | |
|---|---|---|---|---|
| trap site 1 | 9.9 × 101 | 27 | 2.0 × 10–28 | 3.9 |
| trap site 2 | 3.1 × 103 | 38 | 6.1 × 10–27 | 3.9 |
上記のパラメータを用い,まず,転位密度1015/m2に対応するトラップサイト濃度2.0×1026/m3を,トラップサイト1とトラップサイト2に均等に振り分け,N1=N2=1×1026/m3として再現を試みた。このとき,実験条件に基づき,30°Cで平衡となるよう拡散サイトおよび各トラップサイトに水素を分配し,1次元方向に一様に配置した状態から,−196°Cで1500秒間水素を脱離した状態を初期状態とした。
計算された昇温脱離プロファイルをFig.4に示す。Fig.1の実験結果と比較して計算のプロファイルのピーク温度は,実験プロファイルと同様,昇温速度が上がるとピーク温度から高温側にずれてくる。しかし,実験プロファイルに対して幅が狭く高さ方向に伸びた形となり縦方向のずれが大きい。また,Fig.5には,各トラップサイトでの残留水素の温度依存性を示しているが,各昇温脱離プロファイルに対して,トラップサイト1の寄与がほとんどないことがわかる。次に,N1=2.0×1026/m3,N2=N1/100として,シミュレーションを行った。Fig.6の計算結果が示すように,ピーク温度は実験プロファイルのピーク温度とほぼ同じになり,Fig.7の各トラップサイトの水素量変化より,トラップサイト1およびトラップサイト2は,極端な差がなくプロファイルに寄与するように改善されている。

Results of simulation in case of N1=N2=1×1026/m3. (Online version in color.)

Temperature dependence of hydrogen content at trap sites and calculated thermal desorption profile. (N1=N2=1×1026/m3). The heating rates are (a) 1°C/min, (b) 3°C/min and (c) 5°C/min. (Online version in color.)

Results of simulation in case of N1=2×1026/m3 and N2=0.02×1026/m3. (Online version in color.)

Temperature dependence of hydrogen content at trap sites and calculated thermal desorption profile in case of N1=2×1026/m3 and N2=0.02×1026/m3. The heating rates are (a) 1°C/min, (b) 3°C/min and (c) 5°C/min. (Online version in color.)
前節において,熱脱離律速を仮定できる程度の厚さの試験片の実験昇温脱離プロファイルの単一ピークを二つのガウス分布の当てはめによって分離し,二つのピークからそれぞれのトラップサイトのトラップ・デトラップ速度係数を決定した。さらに,それらのパラメータを用い,それぞれのトラップサイト濃度を適切に決めることによって,実験昇温脱離プロファイルを概ね良好に再現した。これは,ガウス分布によるピーク分離が適切であったことによると考えられる。このことを別の観点で確認する。昇温脱離過程が熱脱離律速の場合,その条件を仮定したモデルによるシミュレーションが可能であり,本報の場合,そのようなシミュレーション結果の重ね合わせとして実験プロファイルが再現できると考えられる。したがって,ここでは,Kissingerの式(1)に基づくモデルに,3・1節で得たp0iとEaiを組み入れて二つのピークを計算し,その重ね合わせで実験プロファイルを再現した。
Kissingerの式(1)に基づくモデルでの水素脱離速度は以下のように求められる。Kissingerの式は(5)式で表される。
| (5) |
ここで,pは前指数因子(振動数項),Xは時間tまでに脱離した水素の割合である。(5)式を有限差分法で解いてXを求め,初期水素量C0を用いC0Xで水素脱離量が得られる。また,水素昇温脱離プロファイルの水素脱離割合はC0dX/dtで計算される。
式(5)のpとEaに,3・1節で得たp0iとEaiとを組み入れ,二つのピークの重ね合わせで得られた結果をFig.8に示す。○印はFig.1での実験プロファイルを示しており,trap site 1およびtrap site 2は上述の方法で再現したトラップサイト1およびトラップサイト2の昇温脱離プロファイルである。図中のsynはこれらのトラップサイトからの脱離を合成したものである。ここで,トラップサイト1とトラップサイト2の初期水素量を,実験プロファイルのガウス分布によるピーク分離でのトラップ水素量と最大脱離速度を参考に,それぞれ1°C/minで0.30および0.28 mass-ppm,3°C/minで0.23および0.17 mass-ppm,5°C/minで0.18および0.23 mass-ppmとした。Fig.8の結果から,昇温速度が大きくなると高温側の裾野でずれが見られるようになるが,いずれの場合もピーク温度が,実験結果をほぼ再現していることがわかる。このことから,実験プロファイルが熱脱離律速に近い条件で得られていることを考えると,ガウス分布の当てはめによるピーク分離によって得られたTable 1のEaiとp0iは,拡散の影響を受けていない値と考えられる。上記の結果からガウス分布によるピーク分離は,Kissingerの式に基づくモデルによるピーク分離と同等の結果を与えるものと考えられ,そのピーク分離はデトラップ速度定数に関するパラメータをもとめるのに妥当であると考えられる。

Comparison of thermal desorption profile between experiment and simulation: Simulation profiles were obtained using Kissinger equation for (a) 1°C/min, (b) 3°C/min and (c) 5°C/min. The synthesized profile of two simulation profiles is described by “syn”. (Online version in color.)
3章で報告したように,トラップサイト1のトラップサイト濃度に転位密度に対応する値を用い,トラップサイト2の密度を0.02×1026/m3と転位トラップサイト密度の1/100にした場合,実験プロファイルとよく一致した。本節では,3・2節の結果を基に,トラップサイト2に対応する欠陥について考察する。
Hirthの収録16)によれば,粒界のトラップエネルギーは転位の弾性ひずみ場でのトラップエネルギーより大きく,最大で58.6 kJ/molとしている。トラップサイト2のトラップエネルギーは,Table 1から38 kJ/molであり,この値はTable 1でのトラップサイト1の転位の弾性ひずみ場のトラップエネルギー27 kJ/molより大きく,Hirthの示した58.6 kJ/molを超えない値となっている。さらに,Yamaguchiら17)によると粒界の水素トラップエネルギーは,0.48 eV(46.3 kJ/mol)であることから,エネルギーの値としては,トラップサイト2が粒界である可能性が高い。
次に,転位のトラップサイト密度の1/100としたトラップサイト密度から対応する結晶粒径の推定を試みる。半径rの球形の結晶粒からなる単位体積1 m3の試料を考える。結晶粒間の隙間を無視すると,試料中に含まれる結晶粒数は3/(4πr3)であり,その粒界の総面積は3/2rである。ここで,二つの粒が一つの粒界を作ることから結晶粒表面積の1/2を粒界面積としている。さらに,粒界上での水素トラップサイトの面密度をαとすると,単位体積中の水素トラップサイト密度Ngは3α/2rとなる。第一原理計算において,bcc鉄のΣ3(111)傾角粒界の0.278 nm2に5個の水素トラップサイトがあると見積もられている17)ことから,粒界上での水素トラップサイト密度αは1.8×1019/m2と評価できる。よって,シミュレーションで用いたNg=0.02×1026/m3を用いると,結晶粒径d=2rは27 μmとなる。類似の材料で結晶粒径(旧γ粒径)は約12 μmと報告されている18)。旧γ粒径は成分だけでなく焼入れ温度などの熱処理条件により変化する。その程度は上記の数値の1/2から2倍,すなわち6~24 μm程度と推察する。27 μmは球形の結晶粒を仮定して計算された最大径(直径)である。一方,12 μmはミクロ組織から求めた平均粒径である。平均粒径は最大径の7割程度であると考えられ,27 μmは19 μmまで小さく見積もられる。先程の6~24 μmの中に収まる値である。よって,この点からもトラップサイト2は粒界によるものと推定できる。
4・3 粒界に起因した昇温脱離ピークについて前節の議論で,焼もどしマルテンサイト鋼において,粒界からの脱離は,転位からの脱離より高温側にある可能性が示された。焼もどしマルテンサイト鋼において,粒界トラップからの水素脱離挙動を示した報告は,著者らの知る範囲において見当たらないことから,以下において,純鉄の場合の報告を用い,今回の結果について議論する。
純鉄において粒界トラップによる水素昇温脱離プロファイルへの影響はいくつかの報告例がある。Ono and Meshii19)は粒径の異なる2 mm厚の純鉄試料に水素ガス中での加熱により水素添加し,その後迅速に高真空中で1 K/minの昇温をしながら,脱離水素を四重極質量分析装置(Q-mass)で測定し,昇温脱離曲線を得ている。各プロファイルの形状は,ピーク温度より低温側が緩やかで高温側がやや急峻であった。結晶粒径が小さくなると,ピーク温度が高温側に移行している。粒界にトラップされた水素は,粒内,すなわち転位からの水素より高温で脱離することを示すものである。今回の焼もどしマルテンサイト鋼における粒界トラップからの脱離と一致している。
Kanekoら20)は,6 mass-ppmのCを含む純鉄を1100°Cで焼ならすことにより735 μmの粗大粒の試料を作製した。NH4SCN水溶液中への浸漬で水素添加を行っている。試料厚さは0.3 mmと極薄板であり,低温TDSにより水素脱離を測定している。昇温脱離プロファイルの形状はピークに関してほぼ左右対称であり,転位トラップからのみの水素脱離を示すものと考えられる。これに対して,Abeら21)は結晶粒が細かい600°C焼ならし材(0.3 mm厚)の低温TDS測定でOno and Meshii19)の多結晶材と類似した脱離曲線を報告している。すなわち,低温側が緩やかなに上昇し,高温側がやや急峻な傾きの形であり,結晶粒界からの水素脱離が高温側にあることを示している。低温TDSの測定においても,粒界からの水素脱離はピーク温度より高温側に認められている。一方,Choo and Lee11)は,かなり異なった結果を報告している。直径が8 mmで高さが15 mmの円柱形の純鉄試験片を用いて,673 K(400°C)の0.2 MPaの水素ガス中で2 hの水素添加を行い,測定までに6 h放置して動きやすい水素を脱離した後,容器中に脱離する水素による圧力変化を測定して脱離プロファイルを得ており,昇温速度は2.6°C/min(156°C/h)である。得られた昇温脱離プロファイルには,385 K(112°C)と488 K(215°C)にピークが分離されており,結晶粒径が細かくなると385 Kのピーク高さが高くなっていく。488 Kのピークは予ひずみが増加すると高くなることから,このピークが転位にトラップされた水素によるものと判断している。つまり,Choo and Leeの報告11)では,粒界に関連する水素は転位にトラップされた水素より低温で脱離することになり,今回のシミュレーション,Ono and Meshiiの報告19)さらには低温TDSでの実験結果20,21)と異なっている。Choo and Leeの実験11)は装置,測定原理あるいは水素添加方法や測定手順などでその他のものと異なっているが,特に,水素添加後に6 hの水素脱離を行っていることがポイントである。彼らによれば,6 hの水素脱離の目的はトラップされた水素のみを試料中に残すことにある。TiCのような強力な水素トラップサイトを含む鋼と異なり,純鉄での水素の脱離は速い。6 hという脱ガス時間は8 mmと大径の試料にとっても長く,この水素脱離中に転位にトラップされた水素は脱離され,転位よりトラップエネルギーの大きな粒界にトラップされた水素が,112°C付近に検出されていると思われる。さらに,215°Cのピークは転位に起因するものではなく,高温の水素ガス中への暴露中に形成された空孔系の欠陥あるいはマイクロボイドによるものと思われる。
4・4 ピーク分離におけるトラップ水素の見積り本論文では,焼もどしマルテンサイト鋼のTDSプロファイルでみられるような単一ピークの昇温脱離プロファイルにおいて,二種類のトラップサイトを仮定し,McNabb-Fosterモデルに基づく方法により数値的再現を試み,トラップサイトの特徴,金属組織との対応づけを検討することを目的とした。McNabb-Foster式では多くのパラメータを状況に応じて決める必要がある。その中のデトラップ速度定数に関するパラメータ,つまり,デトラップ活性化エネルギーと前指数因子を,ガウス分布を利用し,それぞれのトラップサイトに対して決定した。さらに,このシミュレーションでは,それぞれのトラップサイト密度も設定する必要があり,この値は,各トラップサイトの性格の推定に寄与し,トラップされる水素量にも影響を与える。3・1節におけるガウス分布の重ねあわせによるピークの再現,および4・1節におけるそれらの分布のKissingerの式に基づくシミュレーションでは,両トラップサイトの水素量はほぼ同程度であるが,Fig.7の結果では,トラップサイト1の水素量はトラップサイト2の約3倍程度となっている。今回は,McNabb-Fosterの式に基づくシミュレーションで実験プロファイルをよりよく再現し,各トラップの性格を推定することに重点を置いたため,この両者の違いについては詳細な検討を行わなかった。
しかし,ピーク分離の妥当性と並んで,水素量の見積り方法が水素脆性を議論する上で有用であることから,今後トラップ密度を含めた種々のパラメータを一層精緻に議論することを通して考察を深めて行くことが必要と考えている。
焼もどしマルテンサイト鋼薄板材(0.3 mm厚)の低温TDSで測定された水素脱離曲線を,二種類のトラップサイトを仮定し,McNabb-Foster式により解析した。このとき,実験昇温脱離プロファイルをガウス分布の当てはめにより2つのピークに分離し,それぞれのピークに対するデトラップ速度定数をChoo-Leeプロットに基づいて導出した。シミュレーション結果に基づき,トラップサイトからの水素脱離挙動を明らかにし,トラップの性質について考察した。
1)水素昇温脱離プロファイルは,異なるトラップサイトからの脱離が重ね合わさり一つのピークを構成したものと考えられるが,シミュレーションにおいて,二つのトラップサイトを仮定して水素脱離曲線を再現することが可能であった。また,シミュレーション結果は,昇温速度の変化によるプロファイルの結果も再現していた。
2)低温側のトラップサイト密度を転位と関連付け,高温側のトラップサイト密度を転位トラップの密度の1/100とすると,ピーク高さを含めた再現性が良好であった。さらに,高温側ピークのトラップエネルギーの値から,そのトラップサイトが粒界に起因する可能性が高く,そのトラップサイト濃度から評価した粒径は妥当な値であった。このことから,低温側のトラップサイトは転位に,高温側のトラップサイトが粒界に対応すると推察できる。
3)ガウス分布によるピーク分離は,Kissingerの式に基づくモデルによるピーク分離と同等の結果を示し,そのピーク分離に基づくデトラップ速度定数に関するパラメータの算出は妥当であると考えられる。