2017 Volume 103 Issue 2 Pages 101-110
Argon ion sputter etching was applied to SUS410 stainless steel at a radio frequency power of 250 W for 1.8 ks to 21.6 ks. When the sputter etching time is 1.8 ks, pillars with diameters smaller than 1 μm are formed perpendicular to the surface of the steel. With increasing sputter etching time, cone-shaped protrusions are formed around the root of the pillars, and the base diameter of the protrusions increases to more than 20 μm at a sputter etching time of 14.4 ks. When the sputter etching time is 21.6 ks, the surface of the protrusions is heavily damaged. An EDX analysis reveals that the Cr content of the pillar is larger than that of the matrix. In addition, an EBSD analysis shows that the protrusions are formed preferentially on the grain surface with {110} plane where the atomic density and sputtering yield are larger than {100} and {111} planes. These facts suggest that the (Cr, Fe)23C6 carbides that are precipitated near the surface of the {110} plane grow more stably as the pillars perpendicular to the plane without being removed by sputtering, i.e. higher temperature, higher temperature gradient and vacancy-density gradient than those of the other planes seem to have promoted the stable growth of pillars by fast diffusion of Cr and C from interior of the grain to the bottom of pillars. The successive diffusion of Cr and C to protrusion surface should be the reason for the stable growth of cone-shaped protrusions even after the sputter shrinkage of the pillars.
金属材料を,アルゴンイオンやキセノンイオンを用いてスパッタエッチングすると,表面に,円錐(コーン)状,角錐(ピラミッド)状,リッジ状,パイプ状などの微細な突起物が形成されることは,古くから知られていた1,2,3,4)。しかしながら,これらの研究は,Cuなどの純金属を対象としたものが多く,複雑な化学組成や組織をもつ鉄鋼材料についての研究は少ない1)。また,突起物の形成機構については,前報5)で引用して述べたように,プラズマ中に含まれる不純物が試料表面に付着したり金属中の不純物が表面に拡散したりしてクラスタを形成し「マスク」または「種」の役割をはたす2,3),材料中の介在物そのものが突起物になる1),という報告があるが,これらの機構による突起物の形成密度は低い。一方,試料上に種となるスパッタ率の小さい粉末を置く,種となる金属のイオンビームを照射しながらスパッタエッチングする,などの人工的な方法を用いると突起物の密度が増すが,突起物を形成するためのプロセスは複雑になる。これに対し,著者5,6)らは,各種のステンレス鋼,合金鋼,工具鋼などの実用鋼の表面を,大きな電力でスパッタエッチングすると,表面の温度上昇によってあらたに析出した微細な炭化物がマスクまたは種の役割をはたし,さまざまな形状・寸法・分布をもつ突起物が形成されることを報告している。この方法は,鉄鋼材料の組織および特性の制御に用いられている炭化物または金属間化合物の析出現象を利用する点に特徴があり,既存の鋼をそのまま用い簡単なプロセスで高密度の突起物を形成できる利点がある。しかしながら,スパッタエッチングの過程では,表面へのアルゴンイオンの衝突と表面原子の離脱,空孔密度の増大,温度上昇,原子の拡散が同時に起こり,これらの複雑な現象が時間とともに変化する。このような非平衡状態における炭化物の析出挙動,炭化物を起点とした突起物の形成・成長挙動は,鋼の種類(とくに炭化物形成元素の種類)により大きく異なるので,突起物の形状・寸法・分布を制御するには,突起物形成機構と合金元素の関係について詳しく研究する必要がある。
著者らは,前報6)において,Cr量がほぼ同じで,炭素量が異なるマルテンサイト系ステンレス鋼SUS410(0.05C-13.3Cr),SUS420J2(0.35C-12.3Cr)およびSUS440C(1.02C-16.4Cr-0.38Mo)をアルゴンイオンでスパッタエッチングすると,底面直径が20~30 μmの比較的大きな円錐状突起物が形成されることを示した。これらの鋼における突起物の形成過程と形成密度は炭素量およびスパッタエッチング時間により大きく異なり,中炭素のSUS420J2鋼では,スパッタエッチング時間7.2~10.8 ksで表面が滑らかな突起物が高密度で形成されるが,14.4 ksを超えると突起物表面の荒れが顕著になる。これに対し,高炭素のSUS440C鋼では,7.2 ksのスパッタエッチングにより,すでに突起物表面の荒れが増加している。一方,炭素量の少ないSUS410鋼では,14.4 ksという長時間のスパッタエッチングでも突起物表面は滑らかであるが,突起物の形成密度が結晶粒ごとに大きく異なるため,試料表面全体の突起物密度は小さい。
このように,炭素量の少ないSUS410鋼を高密度の突起物を形成するための材料として用いることはできないが,一方で,突起物の形成密度が結晶粒によって異なる現象を詳しく調べれば,Fe-Cr-C鋼全般の突起物形成機構を明らかにできる可能性がある。また,著者ら7)の過去の研究によると,オーステナイト系ステンレス鋼SUS304鋼でも,スパッタエッチング時間が短いときに,結晶粒ごとに突起物の形成密度が異なることが観察され,EBSD法を用いた分析によると,面心立方晶の最密面である{111}面を表面にもつ結晶粒で突起物密度が大きい。SUS304鋼に含まれるNiは炭化物を形成しないので,SUS410鋼と異なる点はオーステナイト素地で炭化物を起点とした突起物が形成される点である。本研究の目的は,体心立方晶をもつSUS410鋼について結晶面方位と突起物形成密度の関係を明らかにし,SUS410鋼を含むFe-Cr-C鋼全般およびSUS304鋼の突起物形成過程に,クロムおよび炭素がどのような役割をはたすかを検討することである。
実験材料は,前報6)で用いたと同じ市販のSUS410マルテンサイト系ステンレス鋼板で,化学組成(質量%)は,C:0.05,Si:0.33,Mn:0.32,P:0.019,S:0.003,Ni:0.07,Cr:13.30,Fe:残り,である。この板から厚さが5 mm,一辺の長さが10 mmの正方形試験片を切り出したのち,表面をエメリーペーパの#1000まで研磨した。またこの試験片を放電加工によりスライス切断して厚さ1.5 mmの正方形試験片も作製した。試料は焼入れせずに受入れのままで用いたが,その理由は,微細なマルテンサイト結晶粒よりも,大きなフェライト結晶粒(平均粒径は約100 μm)をもつ受入れ材のほうが,どの結晶粒に突起物が形成されるかが決定しやすいためである。実験に用いた装置は,高周波マグネトロンスパッタ装置((株)サンパック製:SP300-M)で,試験片をチャンバー内にある水冷カソード銅電極(直径100 mm)上のSUS304ステンレス鋼円板(厚さ2 mm)上に置き,真空槽内の真空度を約6×10−3 Paにしたのち,Arガス(純度99.999%)を導入して約0.67 Paに保持し,高周波電源出力を250 Wとして,スパッタエッチングを行った。
突起物の形状観察と成分分析にはエネルギ分散型X線(EDX)分析装置を備えた走査型電子顕微鏡(SEM)(日本電子(株):JSM-6510A)を用いた。また,突起物が形成されている結晶粒および周辺の結晶粒の面方位の同定には,電子線後方散乱回折(EBSD)装置(米国TSL社製OIM)を用いた。なお,このEBSD装置では試料を70°傾けて真上から電子線を照射し,鏡筒の横に取付けてある検出器で回折反射電子線を検出する。このため,SEM像は70°傾斜像であるが,EBSD像は解析ソフトにより平面像として結晶方位がマッピングされる。
Fig.1(a)は,スパッタエッチング前のSUS410鋼試験片の光学顕微鏡組織写真で,フェライト素地中に粒状炭化物が単独であるいは数個近接して分布している。Fe-Cr-C系平衡状態図によると,これらの炭化物は,M23C6であると思われる。Fig.1(b)および(c)は,この試験片を250 Wで1.8 ksスパッタエッチングしたときのSEM像(試料を45°傾けて観察)である。Fig.1(b)によると,スパッタエッチングにより大小の不規則な形状をもつ突起物が形成されている。EDXにより分析した突起物表面のCr量は,Fig.1(a)に示したような残留炭化物のCr量53.9%(6個の平均値)よりも少なく,素地のCr量の平均値15.3%(後出のFig.6参照)と同程度かやや大きい程度である。したがって,これらの突起物は,Fig.1(a)の炭化物がマスクとなりその下の素地がスパッタエッチングされてできたものであると思われる。なお,EDX分析で得られたC量の値は非常にばらついて不正確であるので,本研究ではCおよび他の微量元素を除き,すべてCrとFeの分析値のみからCr量を計算した。Fig.1(c)は,Fig.1(b)で観察される粗大な突起物から離れた場所に存在する微細突起物の拡大像で,Aおよびサークル内に示すように,ピラー状の突起物が結晶面に垂直に形成されている。スパッタエッチング初期にピラーが形成される現象は,前報のSUS304鋼5)およびSUS420J2鋼6)と同じである。EDX分析によると,ピラーAのCr量は18.0%であり,素地領域BのCr量15.1%よりも多い。これは,前報6)のSUS420J2鋼のピラーとその周辺の素地の分析結果の傾向とも一致する。なお,Fig.1(c)の左下の付図は,他の場所で観察された突起物であり,ピラーの根元から素地が円錐状にエッチングされ始めていることを示すものである。
Optical micro-structure of SUS410 steel specimen (a) and SEM images (45° inclined side view) of protrusions formed on the specimen with 5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for 1.8 ks (b), (c).
Fig.2(a)および(b)は,スパッタエッチング時間3.6 ksのときのSEM像で,特定の結晶粒内にピラーおよび微細な円錐状突起物が高い密度で混在している。また,Fig.1(b)で観察された不規則形状の突起物あるいはそれらがさらにスパッタエッチングされて表面が滑らかになっている円錐状突起物も混在している。なお,スパッタエッチング時間10.8 ksのときのSEM像は省略するが,不規則な形状をもつ円錐状突起物もなお点在していて,スパッタエッチング時間3.6 ksの場合と大きな違いはなかった。このように,スパッタエッチング時間10.8 ksまでは,残留炭化物を起点として形成された不規則形状突起物のスパッタエッチングによる円錐状突起物への変化,あらたな炭化物の微細析出・特定の結晶粒におけるピラーの形成・ピラーを起点とした円錐状突起物の形成が同時に起こっている。なお,円錐状突起物は,起点となるものが残留炭化物かピラーかにかわらず,素地がスパッタ除去されてできるが,本研究では,これを突起物が「成長する」と表現することがある。
SEM images of pillars and protrusions formed on the SUS410 steel specimens with 5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for 3.6 ks. Both (a) and (b) are 45° inclined side views.
Fig.3は,スパッタエッチング時間が14.4 ksのときのSEM像であり,表面が滑らかで底面直径が20~30 μm程度の円錐状突起物が,特定の結晶粒の表面に高密度で形成されている。上述のピラーは,円錐状突起物の先端に細くなって残っているのみである。なお,低倍率のSEM写真によると,Fig.1(b)のような不規則形状の突起物は全く観察されない。このことは,スパッタエッチング時間の増加とともに表面近傍の温度および空孔密度が上昇し(後述),表面より内部に存在していた残留炭化物は,表面のスパッタエッチングが進行している間に素地に溶解してしまい,残留炭化物が存在していた位置までスパッタエッチングが進んだときには,粗大な残留炭化物は存在していなかったことを意味している。したがって,Fig.3において,広い範囲で点在する円錐状突起物には,元の表面に分布していた残留炭化物が起点となって形成されたものが一部含まれるが,特定の結晶粒に高密度で存在する円錐状突起物の大部分は,あらたに析出・成長した炭化物のピラーを起点として形成されたものであると判断できる。
SEM images of protrusions formed on the SUS410 steel specimen with 5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for for 14.4 ks. Both (a) and (b) are 45° inclined side views.
Fig.4は,スパッタエッチング時間が21.6 ksのときの突起物のSEM像で,突起物底面の直径は30~60 μmとさらに大きくなっている。突起物表面には溝状の荒れができているが,突起物の中には先端近くの表面がまだ滑らかなものもあるので,この表面荒れは根元から先端に向かって広がることが分かる。
SEM images of protrusions formed on the SUS410 steel specimen with 5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for 21.6 ks. Both (a) and (b) are 45° inclined side views.
Fig.5(a)および(b)は,板厚を1.5 mmと薄くした試験片を,3.6 ksおよび10.8 ksスパッタエッチングしたときのSEM像である。スパッタエッチング時間3.6 ksでは,特定の結晶粒で高密度の円錐状突起物が形成されており,これは,板厚5 mmの試料を14.4 ksスパッタエッチングしたときの突起物の形成状態(Fig.3)とほぼ同じである。また,スパッタエッチング時間10.8 ksでは,すでに突起物表面に溝状の荒れが形成されている場合もあり,これは,板厚5 mmの試料を21.6 ksスパッタエッチングしたときの突起物の形成状態(Fig.4)に近い。このように,板厚が薄いと,突起物形成・成長のための時間が短くなる。
SEM images of protrusions formed on the SUS410 steel specimens with 1.5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for 3.6 ks (a) and 10.8 ks (b).
Fig.6は,厚さ5 mmの試験片に形成されたピラーまたは円錐状突起物表面のCr含有量がスパッタエッチング時間によりどのように変化するかをEDX分析により調べた結果である。この図には,ピラーおよび突起物のまわりの素地領域のCr量も示してある(Fig.1(c),領域B参照)。また,スパッタエッチング時間0 ksには,スパッタ前の試験片表面のCr量(面分析結果)が示してあるが,それらの平均値(14.9%)が試料の化学分析値13.3%(CrおよびFeのみの含有量から計算したCr量は13.2%である)より多い理由は,主に分析方法の違いによるものと思われる。この図によると,素地のCr量は,スパッタエッチング時間の増加とともにわずかに増加している程度である。また,スパッタエッチング時間1.8 ksでは,ピラーと素地のCr量の差はあまり大きくないが,EDX分析においては,分析領域が深さ・広さともに1 μm以上に広がるので,直径が1 μm以下であるピラーの実際のCr含有量はもっと多い可能性がある。スパッタエッチング時間14.4 ksでは,円錐状突起物(表面は平滑)のCr量は素地よりもかなり多い。スパッタエッチング時間21.6 ksでは突起物表面の荒れが大きくなるが,この状態では突起物表面のCr量は減少する。このように,素地よりも突起物表面のほうがCr量が多いという傾向は,前報のSUS420J2鋼6)およびSUS304鋼8)の場合と同様である。
Relationships between sputter-etching time and chromium content on surface of protrusions and matrix around the protrusions.
上に示した突起物は,概略以下の過程を経て形成されると考えられる5,6)。すなわち,金属のスパッタエッチングにおいては,アルゴンイオンの表面への衝突と格子内への侵入による表面および表面近傍の金属原子の除去・原子配列の大きな乱れ・空孔密度の増加,が継続して起こる。これにともなって,表面温度・空孔密度が増加して原子の拡散係数が大きくなるとともに,大きな温度勾配・空孔濃度勾配が形成されて原子拡散の駆動力が発生する。これらのため,結晶内部から表面に向かう原子の拡散量が増大する。SUS410鋼中に含まれていたCrとCは,試料内部から表面近傍に速い速度で拡散・集合して微細な炭化物を析出し,これが温度勾配のもとで試料に垂直方向に成長して,Fig.1(c)に示すようなピラーを形成すると思われる。スパッタエッチングを継続すると,ピラーの根元から離れた素地が優先的にスパッタエッチングされ,ピラーを中心とした円錐状の突起物が形成される。上述のように,板厚が1.5 mmの試料(Fig.5(a))では,5 mmの試料(Fig.3)よりも突起物の形成が短時間で起こることは,温度・空孔密度勾配の存在がCrおよびC原子の拡散・微細炭化物の析出および突起物の成長を支配する重要な因子であることを示唆している。
ところで,前報6)で報告したように,ピラーが形成されているSUS420J2試料表面にスクラッチ溝をつけると,細長いピラーが溝の中に残存しているので,ピラーは素地よりも硬い炭化物であると考えられる。また,Fig.1(c)に示したように,EDX分析によるピラーのCr量は18%で残りの主成分はFeである。Fe-Cr-C系平衡状態図によると,たとえばCrが18%のとき,温度が1100 K以下でCが0.1~1.0%の範囲では,α相とM23C6が安定である。上記のような通常の加熱状態と大きく異なる非平衡状態では,M3C,M7C6,M6Cが析出する可能性,M23C6が析出するとしてもM23C6が安定に存在するCrとCの成分範囲および温度範囲が変化している可能性,さらにはM23C6の化学量論的組成が変化している可能性もあるが,本研究では平衡状態図に従い(Cr,Fe)23C6が析出するとして,突起物形成の結晶面方位依存性を考察する。
なお,スパッタエッチングによる表面の温度上昇を実測したり正確に見積もったりすることは困難であるが,表面温度の上限を推測することはできる。すなわち,スパッタエッチングの過程でアルゴンイオンが侵入するようなごく薄い表面層を除き,もし,試料表面近傍(例えば,結晶粒径の数倍程度の深さ)がスパッタエッチングによりオーステナイト逆変態温度(約1100 K)以上に上昇しているならば,特定のオーステナイト結晶粒で形成された突起物群が,冷却による変態で形成された複数のフェライト粒のうちの1つのみに受け継がれることはない。すなわち,Fig.3(a)に示したように,突起物は特定のフェライト結晶粒にのみ集合して形成されている(後出のFig.7がより明瞭である)。これらのことは,少なくともスパッタエッチング電力が250 Wでスパッタエッチング時間が14.4 ks(板厚5 mm)または10.8 ks(板厚3 mm)までは,試料表面の素地の温度がオーステナイト逆変態温度に達していなかったことを示している。ただし,突起物が大きく成長すると(Figs.3および4),突起物先端部から素地内部への熱伝導が起こりにくくなるので,先端部はオーステナイトとM23C6の共存温度さらにはオーステナイト単相の温度(ピラーは溶解する)に達している可能性も考えられる。
EBSD images and SEM images (70° inclined side views) of crystal planes of the SUS410 specimen with 1.5 mm thickness after sputter-etching at 250 W for 3.6 ks. The protrusions are formed preferentially on {101} planes (Online version in color).
Fig.7(a)および(b)は,250 Wで3.6 ksスパッタエッチングした板厚1.5 mmのSUS410試料表面をEBSD法を用いて分析した2つの例である。試料を70°傾けて真上から電子線を照射しているので,突起物の裏側には電子線が当たらない(下のSEM像参照)。したがって,EBSD像の黒い影は,その結晶粒で突起物が形成されていることを示しており,この図から,体心立方晶の最密面である(101)面を表面にもつ結晶粒で突起物が多く形成されていることが分かる。以下,EBSD法により決定された面方位を表面にもつ結晶粒を(ijk)結晶粒または{ijk}結晶粒,最密面を表面にもつ結晶粒を最密{ijk}結晶粒または単に最密面結晶粒と呼ぶことがある。
Fig.8(a)は,Fig.7(a)の分析場所に対応するSEM平面像である。この図には,突起物が形成されている2つの(101)結晶粒の素地のCr量(%)(EDX点分析により測定)およびそれらの結晶粒の周辺にある(001),(111)結晶粒などのCr量(面分析により測定)が数字で示してある。これによると,Cr量は(101)結晶粒も含めて,結晶面に依存せず14~16%であることが分かる。一方,Fig.8(b)は,円錐状突起物が形成されている(101)結晶粒の45°傾斜像で,突起物表面のCr量の点分析結果が同じく数字で示してある。この図によると突起物表面のCr量は16~19%であり,同じ(101)結晶粒の素地および他の結晶粒表面のCr量よりも多い(これらの理由は後述)。
SEM images of the same grains as examined by EBSD shown in Fig.7(a). The chromium contents on protrusion surface (b) are larger than those of the matrix around protrusions (a) independently of grain orientations. (a) is top view and (b) is 45° inclined side view.
著者らの過去の研究によると,オーステナイト系ステンレス鋼SUS304(スパッタエッチング電力600 W,時間14.4 ks)でも,最密{111}結晶粒で突起物が優先的に形成される7)。参考のために,文献7)に示したSEM像とほぼ同じ場所で撮影したSEM平面像をFig.9に示す。高密度の突起物が特定の粒界および{111}結晶粒に相当する結晶粒に形成されている。SUS304鋼で形成される円錐状突起物表面のCr量は素地よりも多く8),またピラーも形成される9)。したがって,SUS304鋼では粒界にも大きな突起物が形成されるという点を除くと,SUS410鋼およびSUS304鋼の間には,それぞれ{110}結晶粒および{111}結晶粒という,いずれも最密面結晶粒で高密度の突起物が形成されるという共通点がある。
SEM top image of protrusions formed on the SUS304 steel specimen with 1.5 mm thickness by sputter-etching at 600 W for 14.4 ks.
SUS410鋼およびSUS304鋼において,最密面結晶粒で突起物が優先的に形成される理由については不明な点も多いが,現象論的には,最密結晶粒における炭化物の析出・ピラー形成・突起物の成長が素地のスパッタよりも速く起こり,他の結晶粒ではその逆になったことを表している。以下これらの現象に密接に関係していると思われる因子を順次検討する。
単結晶においては,面心立方格子,体心立方格子,稠密六方格子ともに,最密面のスパッタ率が他の面に比べて大きいことが知られている10)。体心立方格子では最密{110}面のスパッタ率が{100}および{111}面のそれより高いが,その理由は,{110}面に垂直に入射したアルゴンイオンが,高密度で並んでいる素地原子と接触して最表面の素地原子を格子外へ弾き飛ばす確率が高いことに加えて,{110}面同士の間隔が広くて深さ方向の原子の結合力が弱いため格子中に侵入したアルゴン原子が内部の素地原子を玉突き式に表面外に弾き飛ばす確率が高いためである。これに対して{100},{111}あるいはそれらよりも高指数をもつ結晶面では,入射イオンが最表面の原子と接触する確率が{110}面よりも低く,より内部に侵入する。また,面間隔が短くて深さ方向の原子間結合力が大きいためスパッタは起こりにくい。たとえばFigs.3(a),5(a),7および8(b)によると,突起物が形成されている{110}結晶粒は,他の結晶粒よりも深くスパッタされているように見える。しかしながら,純銅の単結晶では,高密度で微細な突起物が形成される結晶面は{111}最密面ではなく,たとえば高指数の{11 3 1}面であり,ピットやリッジが交差する位置あるいはピットの内部に突起物が形成されやすい2,4)。また,著者らの別の実験によると,工業用純チタンでは高密度の突起物は{21 10}結晶粒で形成されやすく,最密{0001}結晶粒や{1010}結晶粒では形成されにくい。したがって,金属および合金の結晶体すべてにおいて,スパッタ率の大きな最密面結晶粒で突起物が形成されるとは言えないが,少なくともSUS410およびSUS304鋼では,それぞれ最密{110}結晶粒および最密{111}結晶粒でスパッタ率が大きいという共通点がある。スパッタエッチングの過程では,入射アルゴンイオンのもつ運動エネルギのごく一部がスパッタされた原子の運動エネルギに変換され,大部分のエネルギはスパッタ原子に隣接していた素地原子が激しく振動するエネルギおよび表面近傍の格子内で衝突を繰返すアルゴンイオンと素地原子の運動エネルギに変換される。すなわち,スパッタ率が大きい最密面結晶粒では,入射アルゴンイオンが内部深くまで侵入せず表面の狭い領域でエネルギの変換が行われるため,スパッタ率が小さい結晶粒に比べて表面の温度が上昇しやすい。また,最密面結晶粒ではスパッタされる原子の数が多いので空孔密度も増加する。スパッタエッチング時間の増加とともに,これらの効果が蓄積され,最密面結晶粒表面近傍の温度・空孔密度および温度・空孔密度勾配は次第に大きくなり,他の結晶粒のそれらに比べてそれらの差がますます広がると思われる。このことが,あるスパッタエッチング時間で最密面結晶粒の突起物形成密度が大きくなることの間接的な原因になっていると考えられる。
4・3・2 CrおよびC原子の拡散の結晶面方位依存性試料表面近傍に存在する温度・空孔密度勾配が同じであったとしても,結晶内部から表面に向かうCrおよびC原子の拡散速度が結晶方位によって大きく異なれば(Cr,Fe)23C6の析出速度がその影響を受ける可能性がある。以下これについて検討する。
まず,Fig.10は,Fig.7または8と同じ試料で形成されている円錐状突起物についてEDX線分析を行った結果の例で,突起物表面のC量は素地よりも多い(上述のようにCr量も素地よりも多い)。SUS304鋼のスパッタエッチング過程では,試料内部から表面へのCの拡散と偏析が起こることが報告されている11)。また,前報12)で示したように,SUS304鋼で形成される円錐状突起物のEPMA分析によると,突起物表面および断面には素地表面よりも多くのCが検出される。したがって,SUS410およびSUS304鋼では,スパッタエッチングの過程で,結晶粒内部から表面に向かうCrおよびCの拡散が起こっていることが分かる。
EDX line analysis of a protrusion formed on the SUS410 steel specimen with 5 mm thickness by sputter-etching at 250 W for 14.4 ks (Online version in color).
つぎに,Crの拡散は空孔の助けを借りたFe原子との相互拡散である。一方,Cは侵入型原子であり,Fe中の拡散はCrよりもはるかに容易である。(Cr,Fe)23C6含まれるCの質量割合は約5.5%であるので,材料中に固溶しているC量(化学分析値の0.05%)から計算すると,(Cr,Fe)23C6の析出とピラーの成長には,CrまたはFe原子の約110倍の数のC原子の集積が必要になる。CrおよびCのうちどちらの元素の拡散が(Cr,Fe)23C6の析出を律速するかは不明であるが,炭化物の析出には両方の原子が集積することが必須である。そこで,CrおよびC原子の拡散速度の結晶方位による違いを原子配列から推測した結果を以下に示す。まず,SUS304鋼において,オーステナイト面心立方晶の格子定数をaとすると,最近接原子間距離は〈110〉方向の0.71aであるので,Crが空孔との位置交換により〈110〉方向に1回のジャンプで移動する距離も0.71aである。一方,たとえば結晶格子の原点(0, 0, 0)にあるCr原子が (a, a, a)の位置に移動するためには〈110〉方向に3回のジャンプを必用とするので,1回あたりの〈111〉方向への有効(投影)ジャンプ距離は0.58aとなる。この距離は,同様にして計算した〈100〉方向への有効ジャンプ距離0.5aよりも長いが,〈110〉方向へのジャンプ距離0.71aよりも短い。C原子についても同様である。この結果からは,CrおよびCの拡散速度は〈111〉方向よりも〈110〉方向の方が大きいと予想され,このことは,実際に{111}結晶粒に高密度の突起物が形成されることと対応していない。SUS410鋼のフェライト体心立方晶についても同様な計算ができ,最密{110}結晶粒内部にあるCrおよびC原子が表面に垂直な〈110〉方向に速く拡散するという結果にはならない。ただし,体心立方格子では,面心立方格子と異なり,Fe原子の間に大きな隙間があるので,結晶方位によるCrおよびCの拡散速度の差は小さい可能性がある。以上のことから,SUS410およびSUS304鋼ともに,CrおよびC原子の拡散速度の方位依存性があったとしても,それらは最密面結晶粒で(Cr,Fe)23C6の析出が速く起こることを予測させるものではない。
4・3・3 炭化物の析出および成長の結晶面方位依存性結晶粒表面から内部に向かう大きな温度・空孔密度勾配のもとで,結晶粒内部から表面に向かうCrおよびCの拡散が活発になると,結晶粒の表面近傍でCrとCの濃度が高くなり,(Cr,Fe)23C6炭化物が析出する。溶体化処理したオーステナイト系ステンレス鋼を加熱すると,M23C6は素地のγ相とM23C6{111}//γ{111};M23C6〈110〉//γ〈110〉またはM23C6{100}//γ{100};M23C6〈100〉//γ〈100〉の関係にしたがって析出することが報告されている13,14)。また,点状に析出したM23C6はγ相の〈110〉方向に針状に成長し,やがて素地との整合性を失う14)。一方,焼入れしたFe-8.2Cr-0.2C鋼15)およびFe-17Cr-0.5C鋼16)においては,焼戻しにより析出するM23C6とα相の間にはK-S関係すなわちM23C6{111}//α{011};M23C6〈011〉//α〈111〉の関係がある。これらの関係にしたがうM23C6の成長方向は,それぞれSUS304およびSUS410鋼で高密度の突起物が形成される最密{111}結晶粒および最密{110}結晶粒の表面に垂直な〈111〉方向および〈110〉方向と一致しないが,それに近い方向に成長するピラーは存在する。すなわち,上記の析出面・方位関係の組み合わせは同じ結晶粒内に複数あるので,析出物がミクロンレベルに成長したピラーの方向も複数あるはずである。前報6)のSUS420J2については,表面に対して異なる向きをもつピラーが多数混在しているし,SUS410についても,Fig.2(b)に矢印で示すように,横に長いピラーが存在する。しかし表面にほぼ平行に成長していてスパッタエッチングにより表面に現れたピラーは,その後のスパッタエッチングにより素地とともに除去されてしまい,最初から最密面にほぼ垂直に成長していたピラーのみが,結晶内部からのCrおよびCの供給を受けて引き続き内部に向かって成長できると思われる。ピラーをもつ突起物の中には,ピラーが素地に対して斜めに傾いている場合もあるが,多くの場合ピラーは素地に対してほぼ垂直であり円錐状突起物がピラーに対してほぼ軸対称に形成されている場合が多い。したがって,ピラーは温度勾配・空孔密度勾配に強く支配され,結晶面方位に無関係に非整合に成長する場合が多いと思われる。
以上,ピラーが突起物形成の起点として表面に現れるまでの過程を検討した。素地のスパッタ速度がピラーの成長速度よりも速ければ,突起物は形成されないので,突起物形成の結晶面方位依存性を明確に説明するには,{ijk}結晶粒ごとに両者の差を定量的に導く必要があるが,それは現段階では難しい。したがって,以下,上述の影響因子の検討により得られた「最密面結晶粒で高密度の円錐状突起物が形成される理由は,これらの結晶粒に存在する大きな温度・空孔密度勾配により炭化物ピラーの内部に向かう成長速度が素地のスパッタ速度よりも大きかったため」という推定をもとに,その他の実験結果を検討する。
まず,Fig.8のEDX分析結果およびFig.10のEDX線分析結果によると,最密{110}結晶粒で形成された突起物表面のCrおよびC量は同じ結晶粒の素地のそれらよりも多い。このことは,結晶粒内部から拡散してきたCrおよびC量が(Cr,Fe)23C6の析出とピラーへの成長および円錐状突起物の成長に優先的に消費されたことを示している。また,Figs.6および8によると,最密{110}結晶粒周辺の結晶粒表面のCr量は,スパッタエッチング前の試料のCr量(約15%)とほとんど変わらない。この理由も,これらの結晶粒表面近傍のCr量は最密{110}結晶粒のそれほどは多くはないが,これらの結晶粒内部でやはり(Cr,Fe)23C6の析出が起こっていて(いずれは大部分がスパッタ除去されるが),内部から拡散してきたCrが同様に(Cr,Fe)23C6の形成に消費されたため,結晶粒表面近傍のCr濃度が上昇しなかったと考えられる。
つぎに,SUS420J2およびSUS440C鋼でも6),スパッタエッチングのごく初期では特定の結晶粒内で突起物形成密度が高く,SUS410鋼よりも短いスパッタエッチング時間で突起物が形成される。また,スパッタエッチング時間の増加とともに,どの結晶粒でも突起物がほぼ均一に形成されるようになる。この理由は,炭素量が多いと,{110}結晶粒以外の結晶粒でも(Cr,Fe)23C6の核形成が高頻度で起こり,スパッタによっても(Cr,Fe)23C6のピラーが除去されずに残る確率が大きくなったためと思われる。
4・3・4 突起物の安定成長と結晶面方位の関係Figs.1(c)および2によると,素地がスパッタエッチングされてピラーがある程度の長さになると,その根元から円錐状の突起物が成長する。スパッタ率には入射角依存性があり10,17,18),結晶構造をもたないアモルファス物質および多結晶体の平均のスパッタ率は,アルゴンイオンの入射角が60~80度で最大値をとる。通常の「マスク」に相当する球状の介在物あるいは試料上に載せた粉末や薄膜が「種」となって突起物が形成されている場合には,種がスパッタ除去されると,スパッタ率の入射角依存性により突起物表面が速くスパッタされるため,突起物はやがて消滅する17)。
一方,Fe-Cr-C鋼で形成されるピラーは結晶粒の内部から自動的に析出・成長したものでそれ自体がスパッタされにくいことに加えて,形状が細長い円柱状であることから,以下の効果によりマスクの作用が長く続くと考えられる。すなわち(1)ピラーは円柱状であり側面へのアルゴンの入射角は90度に近いので,ピラーはスパッタ除去されにくい。(2)先端表面がスパッタされていても底部が結晶粒内部に向かって成長しているのでスパッタ除去されにくい。(3)ピラーの存在により,アルゴンプラズマの一部はピラーの側面に回り込むため(ピラーは僅かにスパッタされる),ピラーの付け根近傍の素地が直接スパッタされにくくなる。また,ピラー側面のスパッタ粒子はピラーの根元に堆積して補修作用を行う可能性がある。(4)ピラーの根元付近の素地ではCrおよびCの濃度が高くてスパッタ率が小さくなる(後述)。このようにして,ピラーの根元から少し離れた場所から周辺に向かって素地のスパッタが進行し,スパッタ率の入射角依存性に対応する傾斜角度をもつ円錐状突起物が形成される。著者らは,このようなピラーのもつ自発的なスパッタ防御および突起物形成・成長促進効果を,通常の人工的な「種」または「マスク」の効果と区別して,「ピラー効果」と呼んでいる5)。
しかしながら,ピラー効果は長くは続かず,やがてピラーはスパッタされて細くなり消失する。それにもかかわらず,円錐形状突起物が大きな寸法にまで安定に成長を続ける理由は,以下のように考えられる。(1)突起物の成長には,スパッタ率の入射角依存性のみならず,スパッタ率の結晶面依存性(最密面のスパッタ率に比べて他の結晶面のスパッタ率が小さい)が関係しており,両者の組み合わせによっては,突起物表面のスパッタ率が底面(素地の最密結晶面)のスパッタ率よりも小さくなる場合がある。「種」となる物質を含まない純金属・合金のスパッタエッチングで,しばしば表面が等価な結晶面で構成されている傾斜角の小さな多角錐(ピラミッド)状の突起物が観察されるが18,19),この場合には上記の条件が満足され,結晶面依存性が突起物の成長と形状を支配していると思われる。一方,SUS410鋼およびSUS304鋼では,多角錐に近くなっている突起物も一部存在するが,全体的には稜線が滑らかでほぼ円錐形になっている突起物が多い。また突起物の傾斜角も約70度と大きく,スパッタ率の入射角依存性を強く反映している。したがって,ピラー消失後に,これらの鋼の突起物が,多角錐状に変化したり消失したりすることなく円錐状突起物として安定に成長できる別の理由が存在すると思われる。(2)スパッタエッチングにより突起物の表面で発生した熱は,熱伝導により試験片素地に流入する。体積に比べて表面積の大きい突起物の温度は素地よりも高く,とくに突起物先端部では温度上昇が著しい。実際に,高さが高くなった突起物の先端が高温により曲がっている例も観察される4,6)。突起物の表面温度が高くなると,前述のように,表面から突起物内部を通って最密面結晶粒内部に向かう温度・空孔濃度勾配が大きくなり,CrおよびCは,逆に結晶粒内部から突起物内部を経由して突起物の先端および表面に向かって拡散する。Ni,CrおよびFe純金属のスパッタ率は,入射アルゴンイオンのエネルギが200~300 eVではNi>Cr>Feの順である。SUS304鋼の突起物表面では,スパッタエッチングにより,Niが著しく減少するがCrは増加する8)。また,SUS410鋼でも,Figs.6,8および10に示したように,突起物表面のCr量は,スパッタエッチングにより減少せず,むしろ増加している。これらのことは,かりにFeよりもCrが優先的にスパッタされていたとしても,高い温度・空孔密度勾配のもとで,突起物内部から表面に向かうCrの供給がそれ以上に起こっていることを意味している。突起物表面近傍でCr原子とC原子の量が増加すれば,Cr-C,Fe-CまたはCr-Fe-Cの結合が強固になり,温度が低くてCrおよびC原子の少ない突起物周辺の素地に比べてスパッタ率が小さくなる可能性がある。このことが,ピラーが消失したあとも突起物が安定に成長できる理由であると思われる。
なお,スパッタエッチング時間の増加によって突起物がさらに成長して粗大化すると,表面の溝や荒れが増加する(Fig.4)。このときの表面のCr量は大きく減少しているが(Fig.6),このことは,突起物の表面積が増えれば結晶粒内部から表面に供給される単位表面積あたりのCr量が不足することに対応する。とくに突起物の下部では,素地から熱を奪われて温度が上昇しにくくなるので,試料内部からのCrおよびCの供給が起こりにくくなる。突起物の表面荒れは底部から先端に向かって広がるが(Fig.4),CrおよびCが不足し始めると,CrおよびCの少なくなった場所が選択的にスパッタされ,その場所から溝や荒れが広がると思われる。このように,突起物表面の平滑性保持にはCrおよびCが必要であり,突起物の成長に上記(2)が重要な役割をはたしていることが裏付けられる。前述のように,SUS410鋼では,円錐状に大きく成長した突起物先端の温度が上昇し,表面近傍がオーステナイト相になり内部がフェライト相のままである可能性も考えられる。しかし,突起物表面のCrおよびC量が大きいことに変わりはないので,この場合にも,突起物の安定成長は(2)の機構によって説明できる。
以上のことから,SUS410鋼で突起物の形成が最密{110}結晶粒で優先的に起こる原因は,{110}結晶粒の表面から内部に向かって他の結晶粒よりも大きな温度勾配および空孔密度勾配が存在するため,内部から表面に向かうCrおよびCの拡散が速く起こり,円錐状突起物の起点となる(Cr,Fe)23C6炭化物の析出と{110}結晶粒表面に垂直方向の炭化物ピラーの成長が速く起こるためと考えられる。ピラーを起点として形成された円錐状突起物の温度は素地よりも高く,CrおよびCが継続的に供給されるため,円錐状突起物はピラー消失後もしばらくは安定に成長できる。この状態は,SUS304鋼でも同様である。
SUS410ステンレス鋼試料をアルゴンイオンにより250 Wで1.8~21.6 ksスパッタエッチングし,突起物形成挙動を調べた。また,突起物が高密度で形成されている結晶粒の面方位をEBSD法で同定するとともに,それぞれの面方位をもつ結晶粒表面のCr量をEDX法により調べた。得られた結果は以下のとおりである。
(1)SUS410鋼のスパッタエッチングにより,まずピラー状炭化物が形成され,スパッタエッチング時間の増加とともに,その下部から底面の直径が20 μm以上の円錐状突起物が特定の結晶面に高密度で形成される。スパッタエッチング時間がさらに増加すると,粗大化した円錐状突起物の表面に多数の溝や荒れが形成される。
(2)試験片厚さを1.5 mmに減少させると,突起物形成速度が大きくなる。
(3)EBSD分析によると,高密度の突起物は{110}最密面を表面にもつ結晶粒で形成される。また,EDX分析によると,突起物表面のCr含有量は,同じ{110}結晶粒内の突起物周辺の素地および{110}結晶粒以外の結晶粒の表面のCr量よりも多い。
(4)最密{110}結晶粒で突起物の形成密度が大きい理由は,アルゴンイオンの衝突により発生した温度勾配および空孔密度勾配が他の結晶粒表面よりも大きいため,内部から{110}結晶粒の表面近傍に拡散してきたCrとCが(Fe,Cr)23C6複炭化物を形成する速度が大きくなり,これらの炭化物がスパッタ除去されることなく{110}結晶粒表面に垂直にピラー状に成長できたためと思われる。
本研究を行うにあたり,広島国際学院大学ハイテク・リサーチ・センターの三上恭孝氏および同学機械実習工場の吉川康則氏には試験片および実験の準備で多大な助力をいただいた。SEM観察およびEDX分析には広島県立総合技術研究所の寺山朗博士の,またEBSD分析には同研究所の田辺栄司博士の協力をいただいた。これらの方々に心から感謝を申し上げます。